世界を救って帰ってきたら、妻とはまだ付き合っていませんでした(短編版)
十年ぶりに再会した妻は、俺に雑巾を差し出した。
「芦沢くん。起きてるなら窓の方お願い」
声を聞いた瞬間、椅子が鳴った。立ち上がった俺を彼女が不思議そうに見上げる。
抱き締めようとしていた両手を机についた。
妻は制服を着ていた。紺のブレザーに赤いリボン。四年間同じ名字を使ってくれた人より頬が丸く、左手の薬指には何もない。
「……鳴瀬?」
「うん。ほかに誰かいた?」
窓に映った俺にも髭がなかった。魔王につけられた頬の傷まで消えている。首の辺りを触るとネクタイがあった。最後に締めたのは十年以上前だ。
帰還の術は、帰りたい場所の記憶をたどる。
地球側の時間ごと巻き戻ることもあると神官に説明されていた。妻が別の未来に取り残されることはない。それを何度も確かめてから、俺は小春を思い浮かべた。
食卓や駅の改札が浮かんでは消え、最後に残ったのは高校の教室だった。初めて彼女を映画に誘った場所だ。
会いたいとは願った。交際前まで戻してほしいとは頼んでいない。
「具合悪い?」
「いや。長い夢を見てた」
「じゃあ、窓拭きで目を覚まして」
渡された雑巾は冷たかった。
俺は二十四歳で鳴瀬小春と結婚した。二十八歳で異世界へ召喚され、帰るために十年かけて魔王を倒した。その結果、もう一度十七歳の芦沢直季をやっている。
魔力はない。手を握っても空気は震えず、爪が手のひらに食い込むだけだった。筋肉も装備も没収されたらしい。雑巾だけは現地支給された。
小春は隣で机を拭いている。
生きている。すぐそこにいる。もう一度名前を呼びたかったが、呼んだあと何を言えばいいのか分からなかった。
「芦沢くん、そっちはもうきれいじゃない?」
同じ窓を磨き続けていた。俺は一枚隣へ移った。
目の前の彼女にとって、俺はほとんど話したこともない同級生だ。ただいまと言うことさえできない。
けれど、きっかけなら覚えている。
十月の土曜日。駅前の映画館で『春の待ち合わせ』を見た。喫茶店へ寄り、川沿いを歩いた。帰りの自動販売機の前で初めて名前を呼ばれ、俺は財布を落とした。
あの日から二人で出かけるようになり、冬には付き合い始めた。
教室のカレンダーは十月だった。日付を確認すると、あの土曜日は二日後だ。
「鳴瀬。今度の土曜日、空いてるか?」
窓の鍵を握る手に力が入った。魔力が残っていたらねじ切るところだった。最初の誘いに器物損壊を添えずに済んだ。
「土曜日? 午後なら」
「映画、一緒に見ないか。『春の待ち合わせ』」
小春は雑巾を畳む手を止めた。
「……私と?」
「ああ」
「急だね」
こちらは十年待った。そう言えないので、俺はうなずいた。
「急だと思う。でも、一緒に行きたい」
小春は俺を見たあと、雑巾に視線を落とした。
「明日、返事してもいい?」
「もちろん」
彼女がバケツを持ち上げる。俺は取っ手へ伸ばしかけた手を止めた。
「持とうか」
「じゃあお願い。私、机戻すから」
俺は頼まれたものを受け取った。かつて魔王の城門を押し開いた腕が、水の重みで普通に痛かった。
*
翌日の放課後、小春は俺の机へ一枚のチラシを置いた。
「映画、これ?」
紙面いっぱいに巨大なザリガニがいた。
「違う」
「分かってる。駅でもらった」
小春は笑って向かいの席の背もたれに手を置いた。裏返すと『春の待ち合わせ』の案内も載っていた。駅前の小さな映画館が二つのスクリーンで流す作品だった。
「この組み合わせ、すごくない? 待ち合わせしてる間に町がなくなりそう」
巨大ザリガニが橋を挟んでいた。宣伝文句は『逃げ場なし。夕食時、上陸。』だった。
「橋は捨てた方がいいな」
「え?」
「そこで戦うと退路がなくなる」
「予告を見た人の感想じゃないよね」
小春はチラシを少し持ち上げた。
「私は橋の方を心配してた。弁償するならいくらかなって」
「弁償できる生き物じゃないと思う」
「じゃあ、壊して踏み倒すんだ」
妙に真面目な顔で言うので笑ってしまった。小春も笑い、空いた椅子へ腰を下ろした。
「『春の待ち合わせ』って、好きな映画?」
「大事な映画なんだ」
「もう見たことあるんだね」
うなずいてから少し迷った。本当のことだが、この時代の俺が見たという意味ではない。
「もう一回見たくて」
「そっか」
結婚後も二人で見直した。妻は映画の内容より、誘ったときの俺の声が大きすぎたことや、財布を拾う指が震えていたことをよく話した。
スクリーンの中で何が起きるかは知っている。俺が見たいのは、そのあとの帰り道だった。
「行こうかな、土曜日」
顔を上げると、小春がチラシの角を折っていた。
「いいのか?」
「誘ったの芦沢くんでしょ」
「そうだけど」
「さっきの続き、ちょっと聞いてみたくなったし」
「橋の攻略か?」
「違う。普通に、芦沢くんと話すの」
返事が遅れた。魔王の第二形態には即応できたのに、これは予測していなかった。
小春は椅子から立ち、鞄を持った。
「じゃあ、待ち合わせどうする?」
「あとで連絡する」
言ってから気づいた。
妻の電話番号なら今も十一桁言える。今の彼女の番号は知らないし、そもそも聞いていない。
「……そのために、連絡先を聞いてもいいか」
「映画に誘う方が先なんだ」
「順番を間違えた気がしてる」
「今から直せるよ。はい、スマホ」
取り出した画面は真っ暗だった。小春に指摘される前に電源ボタンを押す。戦場で剣を抜き忘れたことは一度もなかった。
表示された名前は『鳴瀬小春』。俺の記憶では、もう四年も『芦沢小春』だった。それを見ていると、横からメッセージが届いた。
『橋では戦わないこと』
隣を見ると小春が口元を押さえていた。
「守る」
「よし」
十年ぶりに、明日の予定を立てるのが楽しみだった。
家へ帰ってから、映画館の上映時刻を確かめた。土曜日の午後一時十分。待ち合わせは十二時半にした。昼食はそれぞれ済ませてくると決めた。
妻と暮らしていた頃は、休日の行き先を交代で考えることがあった。
『次は私が決める番ね』
水族館から帰った夜、小春はそう言って翌週の予定を探していた。行き先を聞いても当日まで教えてくれず、連れていかれたのは食品サンプル作りの体験教室だった。
二人で作った天ぷらは玄関に飾った。俺の海老は衣をつけすぎていた。異世界へ行く前の朝も、靴べらの隣に立っていた。
あそこへ、また帰りたい。
机の上で地図を開き、映画館から喫茶店までの道をなぞった。これを間違えなければ、あの天ぷらにもたどり着ける気がした。
*
土曜日、小春は十二時二十六分に来た。
「早いね。待った?」
「いや、今来たところだ」
「ほんと? そこの時計、さっきから見てたでしょ」
彼女の指す先で駅前の時計の秒針が動いた。俺は三十分前からその下にいた。
「時計の調子を見てた」
「点検の人?」
小春は笑って、肩にかけた小さな鞄を直した。薄いクリーム色のカーディガンに紺のスカート。右耳の上だけ小さなピンで髪を留めている。
妻も髪を留めることはあった。けれど、このピンは知らない。
「その服、似合ってる」
小春はカーディガンの袖を指で引いた。
「……ありがとう。制服じゃないと、ちょっと変な感じだね」
「変じゃない」
「悪い意味で言ってないよ」
早くも会話の受け取り方を間違えた。妻なら服を買った日に褒められた。今日は褒めることにも準備が要る。
「寒くないか?」
「大丈夫」
「映画館、冷えるかもしれないから」
「これ、ちゃんと持ってきた」
彼女は鞄からストールの端を見せた。俺はうなずき、持参した使い捨てカイロを鞄の奥へ押し込んだ。
「今、何しまった?」
「念のためのもの」
「何に備えてるの?」
俺は鞄を開けて見せた。カイロ。ポケットティッシュ。絆創膏。折り畳み傘。
「……一緒に出かけると安心そう」
褒められたらしい。
「あと、これ」
生姜飴を出すと小春は首を傾げた。
「おばあちゃんちにある」
「好きじゃなかった?」
「食べたことないけど、辛そう」
妻は仕事机にいつもこれを入れていた。なくなる前に買っておくと喜ばれた品だ。渡す相手を間違えたような気分になり、袋を引っ込めようとした。
小春の手が先に伸びた。
「一個ちょうだい。食べてみる」
「無理しなくても」
「まだ食べてないから分からないでしょ」
正論だった。
小春は包みを開けて口へ入れた。少し歩いたところで眉間に皺が寄る。
「……強い」
「辛いか」
「喉の奥で生姜が会議してる」
吹き出すと彼女はこちらを見た。
「満場一致で生姜です」
「水、買おうか」
「ある。会議は自分で解散させる」
鞄から出した水を飲んでから、彼女は苺ミルクの飴を俺にくれた。
「私はこっち。交換ね」
包装紙を開ける指先まで見てしまう。小春は、俺が口に入れるのを待ってから尋ねた。
「どう?」
「甘い」
「甘いだけ? もうちょっと感想ちょうだい」
妻なら生姜飴の袋をそのまま鞄に入れていた。今の彼女は水をもう一口飲み、まだ少し眉を寄せている。その顔がおかしくて笑うと、肩で軽く笑い返してくれた。
映画館へ向かう道に、例の喫茶店があった。
元の人生では映画のあとに寄った店だ。入口横の看板に『雲の上の青空ソーダ』と書かれている。青い飲み物の上に綿菓子が載った写真だった。
小春が足を止めた。
「これ、見て。飲み物に天気がついてる」
「映画のあと、ここへ来ようと思ってた」
「ほんと?」
「チーズケーキがおいしいんだ」
妻はここのケーキが好きだった。家で半分ずつ食べたこともある。
「映画のあと、これ飲みながら感想言い合わない?」
「そのあと川沿いを歩こうと思ってる。飲み物は持ち帰れるものにしよう」
小春はもう一度写真を見たあと、俺の隣に戻ってきた。
時間には余裕があった。予定どおりに映画を見て、店に寄ればいい。
映画館の前では巨大ザリガニが俺たちを出迎えた。壁の半分を使ったポスターで、昨日よりいっそう橋が危ない。
「こっちも今日からなんだね」
小春が立ち止まる。
「二時二十分か。こっちなら予告で見た橋の続きが分かるよ」
「そうだな」
俺は『春の待ち合わせ』の上映案内を確かめた。時刻も変わっていない。元の人生で座った席まで空いていた。
「先に券を買おう。鳴瀬、窓側が――」
言いかけて口を閉じた。映画館に窓側の席はない。家で食事をするときの位置が口から出た。
「窓?」
「いや。端の方が出やすいかと思って」
「私、真ん中がいい。首をひねらなくて済むし」
「ああ、そうだな」
自動券売機の画面へ指を伸ばす。小春の手元で財布が開いた。
「俺が出すよ」
「自分の分、あるよ」
「誘ったの俺だし」
「じゃあ、このあとお茶は私が出す」
「そっちも気にしなくていい」
画面が次へ進んだところで、小春が財布を閉じた。
「待って。お茶くらい、私にも選ばせて」
振り向くと、彼女は小さな財布を両手で持っていた。
俺の指が画面の前で止まった。
小春は後ろに人がいないことを確かめ、券売機から半歩離れた。俺も画面を戻して脇へ寄る。
「考えてくれたのは嬉しいよ。映画も見たい。でも、私が行きたいところも聞いてほしかった」
「そんなつもりじゃ――」
言いかけてやめた。
金を払わせたくなかった。疲れさせたくなかった。彼女にとって楽しい一日にしたかった。
けれど、彼女がお茶を出すと言った理由を一度も考えていなかった。
「私も、楽しませたかったんだけど」
小春が財布を鞄にしまった。
「さっきのソーダ、二人で飲んだら面白いかなって思ったんだ。芦沢くん、ああいうの嫌い?」
「嫌いじゃない」
「じゃあ、そういうの聞きたかった」
俺は喫茶店の看板を思い出した。
彼女が見ていたのは雲の載ったグラスだった。俺が思い出していたのは、何年も先に二人で食べたケーキだった。
鞄の中で生姜飴の袋が鳴った。
俺はまだ一度も、目の前の彼女と予定を決めていなかった。
*
「ごめん」
小春が顔を上げた。
「鳴瀬はこれが好きだって、勝手に決めてた。違うって分かっても、自分の予定ばかり気にしてた」
「……そんなに謝らなくても」
「いや。せっかく来てくれたのに」
小春は鞄の紐を指でつまんだ。
「楽しみだったから、言ったんだよ」
俺は彼女を見た。
「どうでもよかったら、普通に映画見て帰る。気まずくなるかと思ったけど、ずっと黙ってるのも嫌だったから」
耳が少し赤くなっていた。言い終えると彼女は壁のポスターへ目を移した。
俺は誘いを断られるのが怖かった。彼女も何かを言うたびに迷っていたのだと、ようやく気づいた。
壁の時計は十二時五十二分だった。
今ならまだ間に合う。券を買って席に着けば、思い出と同じ映画が始まる。
小春が時計を見た俺に気づいた。
「行こうか。映画、始まっちゃう」
その声が優しかったので、足が動きかけた。
彼女は一緒に見てくれると言っている。誰かを傷つけてまで無理に連れていくわけじゃない。謝ったのだから、ここから気をつければいい。
そう考えたとき、家の玄関が浮かんだ。
靴べらの横に立てた海老の天ぷら。小春が作った方は衣が薄く、俺のものは海老の所在が分からなかった。
あの教室を出たあとも、俺はもっと上手に作れたはずだと悔しがっていた。妻は笑いながら二つを並べて撮った。
『直季くん、途中から本気すぎ。そんなに楽しかった?』
楽しかったと答えると、次の機会にも俺に内緒で行き先を考えた。
あの人は、俺の反応を見るのが好きだった。
俺が全部を知っていて先に決めてしまったら、その番はいつ来るのだろう。
「さっきの店へ戻らないか」
小春が目を丸くした。
「映画のあとで大丈夫だよ?」
「映画が嫌になったわけじゃない。ただ今、鳴瀬ともう少し話したくなった」
小春は俺を見てから、鞄の紐をつまんでいた指を離した。
「……私も。さっきまで、何を話したらいいか分からなくなってた」
「聞きたい。あのソーダも飲んでみたい」
少し考えてから言い足した。
「ただ、二杯とも同じだと多分途中で甘くなる。俺はコーヒーも飲みたい」
小春が少し首を傾げた。
「……じゃあ、ソーダとコーヒーにする?」
「そうしたい」
「うん。私もそれがいい」
彼女は答えてから上映案内を振り返った。
「でも、大事な映画なんでしょ」
その問いにはすぐ答えられなかった。
映画の帰り、彼女が初めて名前を呼ぶ。俺は慌てて財布を落とす。そこから冬へ、大学へ、結婚式へ続いていく。
全部、俺が知っている道だ。
隣の小春は黙って待っていた。困ったように笑ってもいない。行きたい方を言ってくれるまで待つつもりらしかった。
「大事だよ。でも、今日は鳴瀬と話したい」
口にしてしまうと、怖さは残ったままでも決められた。
「あの映画は、また誘いたい」
小春は俺を見つめ、少しだけ口元を緩めた。
「うん。じゃあ今日は、雲の方へ行こう」
俺たちは映画館を出た。
今日はここからどうなるのか、もう知らなかった。
*
雲は思っていたより大きかった。
運ばれてきた青空ソーダは、グラスの口を白い綿菓子で覆っていた。横にはソーダを注ぐための小さなピッチャーがある。
小春は身を乗り出して眺めた。
「天気、盛ってる」
「これで二人分を頼んでたら、向こうが見えなかったな」
店員に取り分け用の小さなグラスを借り、二人の間に置く。小春はスマートフォンを取り出し、撮っていいかと俺に聞いた。
「もちろん」
「手だけ入れて。大きさが分かるように」
言われたとおりグラスの隣へ手を置いた。小春は写真を撮り、すぐ画面を見せてくれた。
「『男性一名、雲を前に立ち往生』」
「災害の記事にしないでくれ」
笑うと彼女も笑った。さっきまで鞄の紐を握っていた指が、今は画面の俺の手を拡大している。
「こういうの、いつもやるのか?」
「写真に変な見出しつけるの? たまに」
「ほかも見たい」
小春は少し迷ったあと、画面を何度か送った。
自宅らしい庭で植木鉢が横倒しになっている。その隣に猫が座っていた。添えられた文字は『関与を否定』だった。
俺が笑うと次が出てきた。四角いプランターに猫がぴったり収まり、『入居済み』と書かれている。
「同じ猫か?」
「うん。被告が住民になった」
そんなものを作っていたとは知らなかった。
妻もよくスマートフォンを差し出してきた。スーパーで見つけた妙な形の大根や、植木鉢に入った猫。俺が見る前から本人が笑い始め、何がおかしいのか説明できなくなることもあった。
けれど今の彼女は写真を一枚見せるたび、俺の顔を確かめてから次を選んだ。見せたいものを全部見せていいほど、まだ俺たちは近くない。
「これが一番くだらないんだけど」
小春が出した写真には、椅子の上に開いた筆箱があった。中身が床へ散らばっている。
『着席に失敗。鉛筆ら六本が転落』
「なんで自分の失敗まで記事にするんだよ」
「片付ける前に思いついちゃって」
肩を揺らして笑うと、小春は満足そうに画面を閉じた。
その表情を見て、俺は一瞬コーヒーカップに目を落とした。十年かけて帰ってきた場所で、こんなことで笑えるとは思わなかった。
「芦沢くん?」
「いや。見せてもらえてよかった」
「そんなに?」
「ああ」
小春は口元を緩めたまま、綿菓子へ目を戻した。
「じゃあ、こっちも見てて。天候を変えます」
ピッチャーを持ち、ソーダを雲へかける。白い塊が音もなくへこんでいった。グラスの縁に貼りついた最後の一片まで青く染まって消える。
俺たちはしばらく黙っていた。
「……全滅だな」
「晴れたって言って」
小春は先に一口飲んだ。すぐには感想が来なかった。
「どうだ?」
「すごく……雲の味がする」
「砂糖か」
「砂糖です」
苦労して選んだ言葉を俺が台無しにしたので、彼女は小さなグラスへソーダを少し注いだ。
「芦沢くんもどうぞ。自分の感想を持ってください」
グラスを受け取って一口飲む。予想した甘さのさらに先にいた。コーヒーを頼んだ自分を褒めたい。
「上陸したザリガニも帰ると思う」
「倒せる?」
「追い返せる」
小春が声を上げて笑った。
「よかった。橋、助かるね」
俺は笑いながらカップを置いた。小春はもう一口飲み、今度は分ける量を少し減らしてくれた。
好みと違っても、今日はこれを頼んでよかったと思えた。彼女が俺の顔を見るたびに、それは強くなった。
時計は一時二十分を回っていた。
あの映画はもう始まっている。俺は時計を一度見ただけで、彼女の方へ向き直った。
「鳴瀬は、あのザリガニの映画を見たい?」
「見たい。でも、芦沢くんは?」
「見たい。橋が気になってる」
「うん。私も弁償の件が気になってる」
二時二十分の回には十分間に合う。そう二人で確認してから、残ったソーダをどう飲み切るか相談した。
小春がグラスを置いたとき、青い雫がテーブルへ落ちた。俺がティッシュを出すと彼女は「助かる」と受け取り、グラスの底まで丁寧に拭いた。
小春はコーヒーを一口もらって「苦い」と言い、俺は小さなグラスにソーダを足して「甘い」と言った。
「お互い、交換するもの間違ってない?」
「飴の時点で気づくべきだった」
それでも彼女は、次に俺が何を選ぶのか聞いてきた。
*
映画館へ戻ると、小春は自分で券を買った。
喫茶店では約束どおり彼女に出してもらったので、次は俺がお茶を出す。そう決めると小春は「覚えておきます」と言い、券を鞄へしまった。
真ん中の列に並んで座った。隣の座席へ荷物を置く癖が出かけたが、今日は隣に彼女がいる。鞄を膝に載せ直すと、小春がこちらを見た。
「今のも点検?」
「動作確認だ」
「忙しいね」
俺は携帯電話の電源を切った。
巨大ザリガニは、思ったより長く海から出てこなかった。漁師が網を引き、研究者が不穏な顔で海水を調べ、町長だけが祭りを決行すると言っていた。
そのたびに小春の指が膝の上で動いた。見出しを考えているのだろうか。
最初のはさみが水面から現れたとき、隣から小さく息をのむ音がした。
俺も身を乗り出した。海岸線に対してはさみが大きすぎる。町の道路では迎え撃てない。だがここで逃げ道を塞いでいるのは――。
小春と目が合った。
彼女は笑いそうになるのをこらえ、口を手で覆っていた。俺の方を見ていたらしい。
映画に戻った直後、橋が折れた。
隣で小春の肩が跳ねた。俺は声を出さずに笑い、彼女は悔しそうにこちらを一度見た。
結局、町の人たちは巨大な餌でザリガニを港へ誘導した。町長が持ってきた祭りの大鍋が妙に活躍し、研究者は最後まで難しい顔をしていた。
明るくなってからも、小春は席を立たなかった。
「どうした?」
「橋、見逃した」
「一番気にしてただろ」
「芦沢くんがすごく真剣に見てたから」
彼女は券を折り畳んで鞄にしまった。
「どうしてあんなに応援してたの?」
「町長も途中から頑張ってただろ」
「そこ?」
小春はひとしきり笑ってから、少し声を落とした。
「来てよかった」
俺はうなずいた。違う映画を見たら知っている帰り道へ進めないと思っていたが、まだ帰りたくなかった。
外へ出ると、駅へ向かう人で歩道が混んでいた。小春が時計を見たので、帰る時間を尋ねた。
「六時には帰るって言ってある。まだ大丈夫」
「もう少し話したいんだけど、どこか寄らないか」
「私も。あっちの公園は?」
彼女が指したのは川と反対側だった。俺はそちらへ向き直った。
公園のベンチに並んで座る。自動販売機では二人とも水を買った。俺が出す番だったが、何が飲みたいかを聞くと小春は迷わずボタンを指した。
「雲で十分」
「俺も」
空は高く、少し風があった。小春はストールを肩へかけ、俺の方へ端を寄せた。
「寒くない?」
「大丈夫」
「本当に? 私には何回も聞いたのに」
彼女は俺の手元を見た。
「手、冷たそう」
触れられるかと思って指を握ってしまった。小春はそれを見て首を傾げ、俺の鞄を指さした。
「念のためのやつ、使えば?」
俺は黙ってカイロを出した。
何に期待したのか顔に出ていないといい。魔王にも見せたことのない隙だった。
袋を開けて振ると、小春が隣で笑った。
「私の分、持ってきてくれたんだよね」
「まあ」
「ありがとう。さっき言ってなかった」
俺はカイロを両手で包んだ。
「世話を焼きすぎた」
「助かったのもあるよ。ソーダこぼしたとき、すぐティッシュ出てきたし」
小春は鞄の持ち手を膝に収めた。
「でも、カイロは自分にも使って」
うなずくと彼女は安心したように水を飲んだ。
四年間暮らした妻と同じ声で、俺の知らなかった彼女が話している。生姜飴を辛いと言い、変な写真を作り、甘すぎるソーダを選んで笑った。
その一つずつを思い出していると、もう次に会う日が待ち遠しかった。
「鳴瀬」
「うん?」
「今日、一緒に出かけてくれてありがとう」
「こちらこそ」
「俺、鳴瀬が笑ってくれればいいと思ってたんだ。でも、自分もこんなに笑うと思わなかった」
小春が水の蓋を閉めた。
「猫の写真も、雲も、橋を見逃したのも。もっと話してみたいし、次に何を選ぶのかも知りたい」
「次も変なのを選ぶとは限らないよ」
「普通のものでもいい。鳴瀬と行きたい」
彼女は俺を見て、すぐ自分の膝へ目を落とした。
返事を待っている間、カイロが熱くなってきた。手を開いて持ち替える。胸の方はどうにもならない。
「……次は私から誘ってもいい?」
俺は背筋を伸ばした。
「もちろん」
彼女の指が鞄の持ち手をなぞった。
「日曜日、空いてる? 来週の」
「空いてる」
「まだ何するか言ってない」
「空いてることは言える」
小春は顔を上げて笑った。その頬は少し赤かった。
「じゃあ、私が行きたいところを送る。芦沢くんも候補を一個考えて」
「分かった」
「それで一緒に決めよう。今度は、ちゃんとデートってことで」
水のボトルが膝の上で傾いた。落ちる前に押さえたが、返事まで手が回らなかった。
「……嫌だった?」
「嫌じゃない!」
公園の鳩が二羽飛んだ。
小春は目を丸くしてから口元を隠した。
「分かった。声、大きい」
「ごめん」
「謝らなくていいよ。私も今、かなり頑張ったから」
ストールの端で口元を隠し、彼女は俺を見た。
「ちゃんと返事が来てよかった」
俺はうなずき、今度は静かに行きたいと伝えた。
来週は彼女が一つ選び、俺も一つ選ぶ。
知らない予定を増やせることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
駅へ戻る道で、小春はスマートフォンを取り出した。
「連絡するね。直季くんも候補、送って」
足を止めた俺を二歩先で振り返り、彼女は少し困ったように笑う。
「名前、早かった?」
「いや。嬉しかっただけで」
言ってから、自分が何を口にしたか分かった。小春は視線を外して髪留めに触れた。
「……じゃあ、私も名字じゃなくていいよ」
呼び慣れた名前だった。
毎朝呼んだ。帰宅したときも、休日の予定を決めるときも。呼べなくなってからは、眠れない夜に何度も思い浮かべた。
それでも、今の彼女に呼んでいいと言われると喉が詰まった。
「小春」
彼女がうなずいた。
「うん」
その短い返事を聞いて、俺はやっと隣へ追いついた。
改札の前で別れるとき、つい口が動いた。
「帰ったら連絡して。……よかったら」
「するよ。急に遠慮するね」
小春は笑いながら定期入れを出した。
「直季くんもしてね。点検のお仕事、終わったら」
「時計はもう大丈夫だ」
「じゃあ、まっすぐ帰って」
手を振って改札を通る彼女を見送った。
夕飯を一緒に食べることも、玄関でおかえりと言ってもらうことも、まだできない。
けれど駅を出る前にスマートフォンが鳴った。
『まだ電車。さっき言い忘れたけど、次もその服がいい』
俺は自分のシャツを見下ろした。鏡の前で三回着替えた末に選んだ服だった。
『ありがとう。俺も今日の髪留め、好きだった』
少し待つと返事が来た。
『じゃあ、来週もつけていく』
世界を救って帰ってきたら、妻とはまだ付き合っていなかった。
その妻から届いた一行で、俺は駅の柱にぶつかりかけた。
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