第6話:聖女、魔力よりも「入力」に苦しむ
ISDA(異世界技能振興機構)の朝は、シュレッダーの断末魔と電話のベル音で幕を開ける。
佐藤健斗は、自分のデスクの隣に新設された「実習生用デスク」を眺めて溜息をついた。
そこには、純白の法衣を脱ぎ捨て(といっても、支給されたリクルートスーツの上から羽織っているが)、真剣な面持ちで液晶画面を睨みつけるルミナ・エリュシオンの姿があった。
「……佐藤。この、黒い板に刻まれた呪文を叩くと、画面に文字が浮かび上がる……。これは、精神感応型の魔道具ではないのですか?」
「ただのキーボードです。ルミナ様、人差し指一本で叩くのはやめてください。タイピング速度が遅すぎて、日が暮れます」
ルミナの初仕事。それは、昨日自分自身がぶっ放した「光魔法の出力データ」を、指定のフォーマットに打ち込むという、極めて地味な作業だった。
「だいたい、なぜ私がこのような写本の真似事を! 私の指先は、病を癒やし、闇を払うためにあるのです。……ああっ! また文字が消えました! この板、私の魔力を吸い取っているのでは!?」
「それは『BackSpace』キーです。消したくないなら触らないでください」
健斗は自分の作業を止め、ルミナの背後に回って手元を覗き込んだ。
ふわりと、彼女の髪から高貴な香油のような、それでいて石鹸に近い清廉な香りが漂う。
「……貸してください。こうですよ。左手はここ、右手はここ。……はい、打ってみて」
健斗がルミナの手に自分の手を重ねるようにして、ポジションを教える。
ほんの一瞬、指先が触れ合った。
「…………っ!?」
ルミナの肩が、びくんと跳ねた。
彼女の視界の中で、健斗の横顔が至近距離に迫る。
無精髭が少しだけ浮いた顎のライン。眼鏡の奥にある、眠そうだが鋭い瞳。
(な、ななな……何なのですか、この自然な密着感は! 地界の男は、皆このように距離感が壊れているのですか!?)
心臓が、昨日の満員電車よりも激しく警鐘を鳴らしている。
しかし、健斗は全くの無表情だ。彼はルミナの動揺など露知らず、淡々と画面を指差す。
「ルミナ様、顔が赤いですよ。空調、下げましょうか?」
「い、いいえ! 不要です! これは……その、室内の魔力濃度が高すぎるせいですわ! あ、あっちへ行きなさい! 私一人でできます!」
バタバタと手を振り回して健斗を追い払うルミナ。
健斗は「やれやれ」と肩をすくめ、自分の席に戻った。
「……あ、そうだ。入力が終わったら、その書類の下にこれ、押しておいてください」
健斗が差し出したのは、小さな朱色の円筒。――印鑑だ。
「これは……紋章官の印ですか?」
「『シャチハタ』です。日本における、承認の儀式に必要な聖遺物だと思ってください」
ルミナは、その「シャチハタ」を神聖な儀式用のナイフでも扱うかのように、慎重に手に取った。
「ルミナ」と刻まれた印面を見つめ、彼女は少しだけ誇らしげに口角を上げる。
「ふふん。認められた、ということですね。私の『力』が、この組織の正式な記録として刻まれる……」
「いや、ただの確認印ですけどね」
ルミナは、書類の隅に、全力の魔力を込めて「承認」の印を叩きつけた。
――バチンッ!!
乾いた音と共に、机が小さく揺れる。
そこには、少しだけ斜めに、しかし鮮明に『ルミナ』の三文字が刻まれていた。
「……できましたわ、佐藤! これぞ、私とあなたの共同作業の証です!」
「共同作業……。まあ、間違ってはないですけど。……あ、ルミナ様、それ逆さまです。逆」
「なっ……!?」と絶望の声を上げるルミナ。
健斗は、彼女が失敗してシュンとする姿に、不覚にも「少しだけ面白い」と思ってしまった。
ブラックな職場。止まらない電話。山積みのタスク。
けれど、隣で一喜一憂する「聖女様」がいるだけで、モノクロだったオフィスが、ほんの少しだけ色づいて見える。
そんな自覚のない変化が、健斗の心にも静かに忍び寄っていた。




