第12話:魔族の女上司、深夜のオフィスで「魔力供給」を要求する
時計の針は午後十一時を回っていた。
ISDA(異世界技能振興機構)の執務室は、緊急避難区域のように静まり返っている。他の職員たちは、ゼノビアが放つ「定時退社は反逆罪」というオーラに圧され、這うようにして帰宅した。
残っているのは、メインサーバーの駆動音と、佐藤健斗がキーボードを叩く乾いた音だけだ。
「……佐藤。この項目の出力係数、コンマ二下げろ。計算が美しくない」
「ゼノビア監督。美しさでエンジンが動くなら、僕は今すぐこの仕様書にバラの花を添えますよ。……物理的な安定性を優先させてください」
健斗の隣には、ゼノビア・ヴァルガスが至近距離で座っていた。
彼女は長い足を組み、漆黒のライダーススーツの胸元を少し緩めている。褐色肌の鎖骨には、演算を補助するための青い魔導回路が浮かび上がり、怪しく発光していた。
「ふん、屁理屈を。……おい、肩を貸せ。演算が長引いて魔導神経が熱を持っている」
ゼノビアは断りもせず、健斗の肩に自分の頭を預けてきた。
漆黒の角が健斗の頬を掠める。スパイシーな香水の匂いと、魔族特有の少し高い体温が、健斗の疲弊した神経を逆撫でする。
「……ゼノビア様。セクハラで訴えますよ」
「訴えるがいい。その裁判費用、貴様の口座から引き落としてやる。……それより、黙っていろ。私は今、貴様の生体リズムを演算のクロック数に同期させているのだ」
ゼノビアは健斗の手首を掴み、その指先を自分のうなじに触れさせた。
ひやりとした感覚と、熱い肌のコントラスト。
「……魔力が足りん。佐藤、貴様の『生命力』を少し回せ。事務員として、上司のメンテナンスを行うのは義務だろう?」
「そんな就業規則、見たことありませんが――」
その時だった。
バァンッ!! という破壊音と共に、オフィスのドアが跳ね上がった。
「そこまでですわ、この角付き泥棒猫ッ!!」
現れたのは、光り輝く杖を構えたルミナ・エリュシオンだった。
彼女は寮へ帰ったはずだったが、その手には「佐藤への夜食(という名目のコンビニおにぎり)」が握りしめられている。
「ルミナ様!? なぜここに……」
「嫌な予感がしたのです! 佐藤の魔力波形が、何やら卑猥な形に乱れていると! ……ゼノビア! 今すぐその不潔な手を佐藤から離しなさい!」
ルミナの背後から、神聖な光のオーラが立ち昇る。深夜のオフィスが一気に昼間のような明るさに包まれた。
「……ちっ、電球が戻ってきたか。演算の邪魔だ、消えろ」
「誰が電球ですか! 佐藤は私の案内役です! 夜中に二人きりで、そんな……そんな破廉恥な密着をするなど、聖女として見過ごせませんわ!」
ルミナは健斗の反対側の腕を掴み、力任せに自分の方へと引き寄せた。
右からは魔族の冷徹な圧力、左からはエルフの熱烈な引力。健斗の体は、文字通り「板挟み」の状態になる。
「……佐藤、こいつは貴様をただの『便利屋』としか見ていない。私なら、貴様の能力を最大限に引き出し、世界の理を書き換えるパートナーにしてやる」
「デタラメを! 佐藤、騙されてはいけませんわ! この女はあなたを壊れるまで使い潰すつもりです! 私なら……私なら、一緒に『ぱんけーき』を食べて、健やかな明日を約束しますわ!」
二人の美少女が、健斗の腕を奪い合いながら火花を散らす。
深夜のオフィスに、神聖魔法と暗黒科学のエネルギーが渦巻き、コピー機がガタガタと震え始めた。
「…………あの」
健斗が、感情の消えた声で口を開いた。
彼は眼鏡を外し、目元を指で押さえながら、二人を交互に見つめた。
「ルミナ様。夜食の差し入れは感謝します。でも、床に光魔法の魔法陣を展開しないでください。ビル管理会社から清掃費を請求されます」
「えっ、あ、ごめんなさい……」
「ゼノビア監督。僕の口座を弄るのは勝手ですが、さっきから触れている僕の手首の血管、これ『ストレス性の不整脈』が出てます。僕が過労死したら、この仕様書のバックアップは誰も取れませんよ」
「…………くっ。死なれては困るな」
健斗は二人の手を静かに振り払うと、再びキーボードに向き直った。
その背中には、どんな英雄や魔王も持ち得ない、絶対的な「社畜の孤独」と「実務の覚悟」が漂っていた。
「……締め切りまで、あと四時間。ルミナ様はそこで大人しくおにぎりを並べておいてください。ゼノビア監督、残りの演算は僕がExcelで組み直します。魔導回路を通すより、マクロを組んだ方が早いです」
カタカタカタッ、と猛烈な速度で打ち込まれるコード。
二人のヒロインは、圧倒的な「仕事モード」に入った健斗に気圧され、毒気を抜かれたように顔を見合わせた。
「……ルミナ。貴様、おにぎりと言ったな。……一つ寄越せ。空腹では演算の精度が落ちる」
「……ふん、特別ですよ。毒なんて入っていませんからね」
深夜二時。
ブラックなオフィスの片隅で、聖女と魔族が並んでおにぎりを齧り、事務員が死ぬ気で仕様書を書き上げる。
奇妙で、歪で、けれどどこか熱を帯びた、三人の新しい夜が更けていくのだった。




