第11話:漆黒の技術者(エンジニア)は、定時退社を許さない
一般社団法人・異世界技能振興機構(ISDA)。
そこは異世界と現代日本を繋ぐ「調整の要」であり、同時に世界で最も「コーヒーの消費量と胃薬の処方数が多い」地獄の出先機関である。
佐藤健斗は、愛用の安物PCのモニターを睨みつけながら、死んだ魚の目でキーボードを叩いていた。
画面には、前回の「聖女査察官騒動」で発生した損害賠償、および神殿側への違約金請求に関する膨大な計算シートが踊っている。
「……ふぅ。これでようやく、法務部への回覧が回せる。あとは……」
「佐藤、これ。昨日の『じっしゅうほうこくしょ』、清書しましたわ」
隣のデスクから、ルミナ・エリュシオンが誇らしげに一枚の書類を差し出してきた。
リクルートスーツの上から法衣を羽織るという、もはやISDAの名物となった奇妙なスタイル。だが、その手元にある書類には、健斗が教えた通りの「シャチハタ」が、今度は曲がらずに、真っ直ぐに押されていた。
「……合格です、ルミナ様。これなら権藤課長も文句は言わないでしょう」
「ふふん。当然ですわ。聖女の学習能力を侮らないことね。……ところで、佐藤。今日の午後は、例の『ぱんけーき』のリサーチの続きを――」
ルミナが頬を赤らめ、有給休暇の「延長戦」を提案しようとした、その時だった。
――ガツンッ!!
執務室の重厚な防音ドアが、蹴破らんばかりの勢いで開かれた。
室内に、焦げ付くような「魔力」の匂いが充満する。それはルミナの放つ清廉な光の魔力とは真逆の、重く、粘り気のある、暴力的なまでの闇のプレッシャー。
「……なんだ、この弛んだ空気は。ここは役所か、それともままごとの遊び場か?」
低く、耳朶を震わせるようなアルトの声。
現れたのは、夜の闇をそのまま裁断して仕立てたような、漆黒のライダーススーツに身を包んだ美女だった。
褐色の肌に、鋭く吊り上がった深紅の瞳。
長くしなやかな尾が不機嫌そうに空を打ち、頭上には、光を吸い込むような漆黒の角が二本、天を突いている。
魔族。
それも、軍事国家『ヴァルガス皇国』の紋章をその身に刻んだ、高位の個体だ。
「……あ、あ、あ……あわわわ。さ、佐藤くん! 紹介する! 彼女が今日からこの拠点の『技術監督』として着任された、ゼノビア・ヴァルガス殿だ!」
権藤課長が、脂汗を滝のように流しながら、ガタガタと震える指で彼女を紹介する。
ゼノビアと呼ばれた魔族の女は、室内に集まる職員たちの視線を無視し、一直線に健斗のデスクへと歩み寄った。
コツ、コツ、とヒールの音が静まり返ったオフィスに響く。
彼女は健斗のデスクの前に立つと、履いているヒールの先を健斗の椅子の脚に引っ掛け、強引に自分の方へと回転させた。
「貴様が、佐藤健斗か」
至近距離。ゼノビアの放つ、スパイシーな香水の匂いと、強烈な威圧感が健斗を包む。
だが、健斗は瞬き一つせず、いつもの「死んだ魚の目」で彼女を見返した。
「……はい。事務員の佐藤です。着任のご挨拶、痛み入ります。ゼノビア様。デスクはあちらに用意して――」
「挨拶など不要だ、無能な事務屋。私は貴様の書いた『魔導エンジン・出力制限仕様書』を読んだ」
ゼノビアは、健斗が昨日、血を吐く思いで仕上げた百ページに及ぶ資料を、ゴミでも扱うように摘み上げた。
「……お粗末だな。安全係数を三倍も取るとは何事だ。これでは我が国の誇る重力駆動装置は、ただの文鎮に等しい。……貴様は、科学というものを冒涜しているのか?」
「冒涜ではなく、日本の消防法と高圧ガス保安法への適合です。異世界の基準をそのまま持ち込めば、このビルごと吹き飛びますから」
「黙れ。法の不備を技術で補うのがエンジニアの矜持だろうが」
ゼノビアは冷酷な笑みを浮かべると、健斗の目の前でその資料を指先から発した黒い炎で焼き尽くした。
灰が、健斗のキーボードの上にパラパラと降り注ぐ。
「…………ッ!? あなた、何様ですか!?」
たまらず叫んだのは、ルミナだった。
彼女は健斗の前に割って入ると、指先に光の魔力を集め、ゼノビアを睨みつける。
「佐藤が、どれだけの時間をかけてその資料を作ったと思っているのですか! 彼は昨夜、一睡もしていないのですよ!」
「……ふん。賞味期限切れの聖女が、愛玩動物の肩を持つか。滑稽だな」
「なんですって……!?」
「ルミナ、いい。下がっていてください」
健斗が静かにルミナを制した。
彼は眼鏡を取り出し、降り注いだ灰をデスク用のミニ掃除機で淡々と吸い込み始める。
「ゼノビア監督。資料を焼くのは自由ですが、再作成には時間がかかります。次の会議には間に合いませんよ」
「構わん。貴様が『今から』、私の横で書き直せば済む話だ」
ゼノビアは、健斗のネクタイの結び目を指先でくい、と引っ張り、自分の方へと引き寄せた。
蛇に睨まれた蛙。だが、健斗の瞳にあるのは恐怖ではなく、明確な「残業への絶望」だった。
「……ゼノビア様。僕は事務員であって、あなたの専属オペレーターではありません」
「今日からは違う。貴様は、私専用の『道具』になれ。私の思考を最速で言語化し、この国の愚かな法律に合わせて成形するインターフェースだ。……光栄に思え」
ゼノビアは健斗の耳元に顔を寄せ、吐息が届く距離で囁いた。
「……拒否権はないぞ。貴様のISDA内での権限、および給与振込口座へのアクセス権は、先ほど私がハッキングして掌握した。……私の命令に背くたびに、貴様の貯金残高から一万円ずつ『消去』してやろうか?」
「…………っ!? 口座凍結は魔法よりタチが悪いでしょうが!」
健斗が初めて声を荒らげた。
命を狙われるのは慣れているが、労働の対価を消されることだけは我慢ならない。
「ふん、やっといい顔をしたな。……佐藤、今すぐ会議室へ来い。定時退社などという甘えは、私の前では万死に値すると知れ」
ゼノビアは踵を返し、健斗を「所有物」とでも言いたげな視線でルミナに投げかけ、優雅に去っていく。
「待ちなさい、泥棒猫! 佐藤は、私の案内役なのですわよ!」
「うるさいぞ、光るだけの電球。……佐藤、三秒以内に来なければ、口座から十万引くぞ」
「……行きます、行きますよ! ルミナ様、後の書類、課長に出しておいてください!」
健斗は脱ぎ捨てたジャケットを掴み、魔族の女上司の後を追って走り出した。
背後では、ルミナの絶叫と、権藤課長の泣き言が重なり合って響いている。
聖女に懐かれ、魔族に支配される。
佐藤健斗のブラックな日常は、さらなる「異世界ハラスメント」の深淵へと突き進んでいくのだった。




