第5話:忍び寄る「異世界過激派」と、健斗の覚悟
有給休暇明けの朝。ISDAのオフィスに充満していたのは、コーヒーの香りではなく、焦げ付くような「敵意」だった。
「……佐藤くん。残念だが、君は今回のプロジェクトから外れてもらうことになった」
権藤課長が、視線を合わせずに書類を差し出す。その横には、見慣れない漆黒のスーツを着た男たちが立っていた。
胸元には、異世界最大宗教『光の神殿』の紋章を模したバッジ。派遣された「聖神殿直属査察官」だ。
「……理由を伺っても?」
「聖女ルミナ様が、地界の卑俗な文化に毒されすぎているという報告があった。昨日の『ゆうきゅう』とやらも問題視されている。彼女は神殿の所有物だ。一介の事務員が私物化していい存在ではない」
査察官の一人が、冷酷な声で言い放つ。
その背後で、ルミナが数人の神殿騎士に囲まれていた。彼女の手首には、魔力を抑制する銀のブレスレットが嵌められている。
「佐藤! 離しなさい、不敬ですよ! 私は自分の意志で――」
「黙りなさい、ルミナ様。あなたは次期聖女。このような男に絆されるなど、神への背信です」
ルミナの叫びが、無機質なオフィスに虚しく響く。
健斗は、震える手で眼鏡を押し上げた。怒りではない。連日の徹夜と、この理不尽な状況に対する、深い「呆れ」だった。
「……所有物、ですか。ルミナ様は今、日本の法律に基づき、正式な就労ビザを取得して実習を行っている『労働者』です。神殿のルールより、この国の労働法が優先されます」
「笑わせるな。我らの法は神の言葉だ。貴様のような、明日をも知れぬ薄汚い事務員に何ができる」
査察官が健斗の胸ぐらを掴み、デスクに押し付けた。
キーボードが弾け、昨日ルミナが一生懸命入力したデータが画面上で明滅する。
「……その手を、離せ」
健斗の声は、低く、冷たかった。
彼は査察官の目を見据え、懐から一冊の「ファイル」を取り出した。
「査察官殿。あなたがたがルミナ様を連れ帰るというなら、僕はISDAの全権限をもって、神殿が日本政府と交わした『技術提供合意書』の第12条第4項を発動させます」
「……何だと?」
「『受け入れ側の合意なき強制帰還は、重大な契約違反とみなし、過去に遡ってすべての滞在費およびインフラ利用料を違約金として請求する』。……計算したところ、神殿が支払うべき金額は、金貨換算で国家予算の三割に相当します。……払えますか? 神の御名において」
オフィスが静まり返った。
権藤課長も、神殿の男たちも、健斗が提示した「数字」の暴力に息を呑む。
「……貴様、ハッタリを!」
「ハッタリかどうか、その書類の写しを本国の財務大臣に送ってみてください。……僕は事務員です。書類の不備は見逃さないし、利用できる条文はすべて暗記している。……ルミナ様は、僕が預かった大切な『実習生』だ。彼女を不当に連れ去るなら、僕はペン一本で、あなた方の国を破産させてみせる」
健斗の目は、獲物を狙う鷹のように鋭かった。
ブラック企業で磨き上げられた「事務処理能力」という名の最強の魔法。
査察官は、健斗の放つ圧倒的な「実務の圧力」に圧され、思わず手を離した。
「……チッ。今日のところは引き上げる。だが覚えておけ。聖女は必ず我らが手に戻す」
男たちが去り、オフィスに静寂が戻る。
ルミナは、拘束の解けた手で、健斗の肩に縋り付いた。
「佐藤……! あなた、なんて無茶を……! 本当なの? 今の違約金の話……」
「……半分はハッタリです。残りの半分は、今から法務部と口裏を合わせます」
健斗はそのまま、がっくりと膝をついた。
極度の緊張と疲労で、今度こそ限界だった。
「……佐藤! しっかりなさい!」
「……ルミナ様。……お願いがあります」
「何でも言いなさい! 私の魔法で癒やしてあげますから!」
「……癒やしはいらないので。……その代わり、今日の残りの入力作業、代わりにやっておいてください……。……寝ます」
健斗は、ルミナの膝の上に頭を預けたまま、意識を手放した。
それは、聖女の膝を「枕」にするという、最大級の不敬。
ルミナは顔を真っ赤にしながらも、彼の寝顔を優しく見つめ、その髪にそっと触れた。
「……お疲れ様、私の事務員さん。……後の仕事は、任せておきなさい」
窓の外には、夕焼けに染まる東京の街。
二人の戦いはまだ始まったばかりだが、このオフィスに、確かな「絆」が刻まれた瞬間だった。




