第5話 光の先の草原で
最初に感じたのは、光でございました。
目蓋の裏が白く染まって、温かい風が頬を撫でて、草の匂いがして。
わたくしは目を開きました。
白い光が満ちた、不思議な場所でございました。
柔らかな草が足元に広がっていて、遠くに青い花が咲いていて、空があるのかないのかわからないような、ぼんやりとした明るさがそこかしこに漂っております。
夢の中、とでも申しましょうか。現実とも違う、かといって死後の世界というには、あまりにも穏やかな場所でございますわ。
わたくしはしばらく、その光景を眺めておりました。
それから、順番に確認を始めましたの。
まず、自分の手。
右手を見る。左手を見る。指が10本、ございます。
次に髪。一房手に取ります。黒い。長い。わたくしの髪でございます。
それから目。視界の端に映る色で確認いたします。薄紫。わたくしの瞳の色でございますわ。
ドレスの状態を確認いたします。崖から落ちた際についた汚れと、裾の傷みが、そのまま残っておりました。
最後に、足元を見ました。
銀のティーポットが、草の上に鎮座しておりました。
「……よかったですわ」
それが、この場所での最初の言葉でございました。
銀のティーポットを手に取って、表面を確認いたします。傷はございません。蓋も外れていない。
中身は空でございますけれど、それは元からのことですの。
次に魔法を確認いたしました。指先に小さな炎を灯す。氷の結晶を一つ作って溶かす。風を掌に集める。足元の草を土魔法で軽く押さえる。
4属性、全て問題なく使えますわ。
つまり状況をまとめますと。
わたくしは崖から落ちて死んで、記憶も容姿も魔法も所持品も、全てそのまま持った状態で、どこかに来た。
そういうことでしょうか。
「……なるほどですわ」
取り乱す理由が、あまり見当たりませんわね。
ただ1点だけ、気になることがございました。
わたくしは足元の銀のティーポットを眺めて、静かに呟きましたの。
「茶葉が、ございませんわね」
わたくしはドレスを軽く整えて、立ち上がりました。
その時でございます。
正座している少女に、気がつきましたの。
白銀の髪。青い瞳。背中に白い翼。
草の上に、ぴんと背筋を伸ばして、正座しておりました。
わたくしをじっと見ています。
表情を確認いたします。緊張している。いえ、緊張というより、覚悟を決めた顔をしていますわ。
叱られることを想定して、それでも向き合おうとしている。両手が、膝の上でわずかに震えています。
なかなか律儀な方ですわね。
少女は、わたくしが完全に目を覚ましたことを確認すると、深々と頭を下げました。
「……申し訳、ございません」
第一声が謝罪でございました。
「顔を上げなさいませ」
わたくしが言うと、少女がおそるおそる顔を上げました。青い瞳が、わたくしをまっすぐに見ます。
怯えているけれど、視線は逸らしませんでしたわ。
「名前は?」
「く、クーリエ、です」
「クーリエ」
覚えましたわ。
「何があったのか、説明しなさいませ?」
クーリエが、ゆっくりと話し始めました。
天界転生局のお世話係見習いであること。転生実習で魂瓶を取り違えたこと。魔法陣が止められなくなったこと。
セラフィナ統括官が行き先を確定させてくれたこと。
わたくしは口を挟まず、最後まで聞きました。
「……以上です」
「つまり」
わたくしは整理しましたの。
「あなたが誤って、わたくしをここに連れてきた」
「そうです」
「本来、わたくしはここに来る予定ではなかった」
「そうです」
「あなたはその責任を取るために、わたくしに同行する義務がある」
「……そうです」
「天界に戻る方法は?」
「わたしが担当した転生者の任務が完了したとき、戻ることが許されます」
「つまり、わたくしの任務が終わるまで、あなたはここにいる」
「……はい」
クーリエが、また頭を下げようとしました。
わたくしはそれを、手で制しましたの。
「顔を上げなさいませ。謝罪は一度で十分ですわ」
「……でも」
「クーリエ」
「はい」
「わたくしに同行するなら、名称を決めておく必要がございますわ」
クーリエが、きょとんとした顔をしました。
「名称、ですか?」
「あなたはわたくしに同行して、わたくしを補佐する立場にある。ならば」
わたくしはクーリエを静かに見ましたの。
「メイドでございますわ」
0.5秒の沈黙。
「……め、メイドっ?」
「何か問題がございますの」
「問題しかないと思うんですけど。わたし、天使で」
「翼は隠蔽できますでしょう?」
「できますけど、そういう問題じゃなくて」
「クーリエ」
「は、はい」
「あなたはわたくしをここに連れてきた。責任がございますわ」
「……それは、そうですけど」
「メイドとして、同行しなさいませ」
クーリエが、何かを言いかけて、言葉を探して、また何かを言いかけて。
最終的に、力なく肩を落としました。
「……わかりました」
「よろしい」
「ちゃんとやります」
「期待していますわ」
それから、クーリエが「この先に転生先の世界があります」と教えてくれましたの。
わたくしは光の満ちた方角を見ました。
新しい世界でございます。
何があるのか、どんな人々がいるのか、どんな問題が待っているのか。まだ何も知りません。任務の詳細も、まだ聞いておりません。
でも。
わたくしは銀のティーポットを抱え直しましたの。
銀のティーポットは、崖から落ちても無事でございました。ならばこれからも、無事でありましょう。
「参りますわよ、クーリエ」
「あ、あの、その前に一つだけ」
「なんですの?」
「怒って、ないんですか?」
わたくしは少し考えました。
「今のところ、一点だけ申し上げたいことはございますわ」
「な、なんですか?」
「茶葉を、持ってきてくださいませんでしたわね?」
クーリエが、力の抜けた表情になりました。
「……それだけですか?」
「銀のティーポットはございます。でも中身が空では意味がありませんの」
「茶葉が、怒りの原因ですか?」
「怒りではございませんわ。要望でございます」
「……わかりました。早めに調達します」
「よろしい。では参りましょう」
クーリエがなんとも言えない表情のまま、わたくしの隣に並びました。
転生先へと続く光が、視界を満たしていきます。
光が晴れると、そこは草原でございました。
どこまでも続く緑の草原。空は青く、風は穏やかで、遠くに山の稜線が見えます。
旧世界とよく似た景色でございますわ。
わたくしは足元を確認いたしました。草の感触。風の匂い。魔力の質が少し違いますけれど、空気の味も、草の匂いも、大差はございません。
新しい世界でございますわ。
クーリエが、隣で草原を見渡しながら言いました。
「……本当に、怒ってないんですか?」
「しつこいですわよ」
「でも、死んでたのに、知らない世界に勝手に転生させてしまったので」
「それは確かに、事故でございますわ」
「はい」
「ただ」
わたくしは空を見上げましたの。
青い空でございます。雲が、ゆっくりと流れております。
旧世界での17年間を、少しだけ思い返しました。
婚約破棄。爵位剥奪。財産没収。追放。荒野での孤独な夜。崖からの転落。
それが、わたくしの旧世界での幕引きでした。
でもこの世界では、記憶も、魔法も、銀のティーポットも、全て持ったまま、新しく始まろうとしている。
「怒る理由が、思い当たりませんの」
「え?」
「わたくしの旧世界での人生は、崖の下で終わっておりましたわ。それは覆りません。ならばこれは、おまけのようなものでしょう」
「おまけ……」
「おまけなら、楽しんだ方がよろしいではございませんか」
クーリエが、ぽかんとした顔でわたくしを見ておりました。
「……本当に、怒らないんですか?」
「今のところ、要望は一つでございますわ」
「茶葉ですか?」
「茶葉でございますわ」
クーリエが、力の抜けた表情で草原を見渡しました。
「……この辺には、なさそうですね」
「ですから、まず街を探す必要がございますわ」
「それが最優先ですか?」
「当然ですわ」
クーリエが、しょんぼりとしながらも、少し笑いました。
怒鳴られることを覚悟していたのでしょう。肩の力が、目に見えて抜けていきます。
「……なんか、安心しました」
「何がですの」
「怒鳴られると思ってたので」
「わたくしが怒鳴ったところを、想像してみなさいませ」
「……確かに、似合わないですね」
「まったく似合いませんわ」
「クーリエ」
「はい」
「任務の詳細を、まだ聞いておりませんわ」
「あ、それは……少し込み入った事情があって」
「込み入っているのですか」
「はい。街に着いてから、ゆっくり説明させてください」
わたくしは少し考えました。
込み入った事情。今すぐ全てを聞く必要もございませんわ。旅をしながら、少しずつ把握していけばよいのですもの。
「わかりましたわ。ただし」
「ただし?」
「街に着いて、紅茶を一杯飲んだ後で、きちんと説明していただきますわよ」
クーリエが、少し笑いました。
「……わかりました」
風が吹いて、わたくしの黒髪が揺れました。
山の方角に、文明があるはずでございます。
「参りますわよ」
「はいっ」
クーリエが元気よく返事をして、わたくしの隣に並びました。
歩幅を合わせて、二人で草原を進んでいきます。
おまけの人生でございます。
ならば、楽しまなければ損でございますわ。
「面白そうですわね、この世界」
わたくしは、前を向いたまま、そっと呟きましたの。
クーリエが、少し驚いたように顔を向けてきました。
「……面白そう、ですか」
「ええ」
「込み入った事情がある世界ですよ、たぶん」
「込み入った方が、やりがいがございますわ」
クーリエが、なんとも言えない表情でわたくしを見てから、やがてふっと表情を緩めました。
「……なんか、安心しました」
「さっきも仰っていましたわね」
「2回目です」
「存じておりますわ」
二人で、草原を歩き続けましたの。
任務の詳細は、まだ聞いておりません。
でもそれは、紅茶を一杯飲んでからでも、遅くはございませんわ。




