第3話 崖下の最期
群れが来たのは、昼を少し過ぎた頃でございました。
最初に気づいたのは、音でしたの。
低い、地を這うような唸り声。それが1つではなく、複数の方角から重なって聞こえてくる。
わたくしは歩みを止めて、銀のティーポットを抱え直しました。
周囲を見渡します。
草原の起伏の向こう、3方向から気配が迫っておりました。昨夜と同じ種類の爬虫類型魔物でしょうか。ただし数が、まるで違います。
ざっと数えて、20を超えておりますわ。
「まあ」
感想はそれだけでございました。
20体。単独での対処が難しい数ではございませんけれど、消耗戦になることは間違いない。魔力には限りがございますもの。
問題は背後でございます。
振り返りますと、荒野が緩やかに傾斜していて、その先が崖になっているようでした。昨夜は暗くて気づきませんでしたわ。退路がない。
3方向から包囲されて、背後は崖。
これは、少々、厄介な状況でございますわね。
群れが一斉に動き出しました。
わたくしは右手に魔力を最大限に集中させました。最初の一手で数を減らさなければ、じり貧になりますの。
「刺さりなさいませ――フレアアロー」
5本の火矢が扇状に展開して、正面から迫る群れの先頭に次々と刺さりました。5体に命中。
「――フルバースト」
5本が同時に爆発いたします。
炎柱が5つ立ち上り、正面の群れが大きく乱れました。爆発の余波で周囲の個体も怯んで足を止めます。
その隙に、左側へ向き直りました。
「薙ぎなさいませ――エアランス」
風の槍が横一文字に展開して、左側から迫っていた4体を一気に薙ぎ払いました。衝撃波が草を大きく揺らします。
しかし右側の群れが、その間に距離を詰めてきておりました。
「凍えなさいませ――アイシクルピアス」
氷の礫を右方向へ扇状に展開。3体の動きが止まりました。
わたくしは素早く状況を確認いたします。
撃破は推定10体。残存は10体以上。
魔力消費は想定より早い。
まだ半分残っておりますわね。
問題が起きたのは、それから少しして後でございます。
残った群れが、戦法を変えてきましたの。
正面から突っ込んでくるのをやめて、小さなグループに分かれて、四方八方からじりじりと迫ってくる。本能的な学習能力、ということでしょうか。なかなか厄介な魔物でございますわ。
わたくしは背後の崖際まで、少しずつ押されていきました。
足元に気をつけながら魔法を放ちます。
「フレアアロー」
「フルバースト!」
正面の2体を吹き飛ばす。
「エアープレス」
左側の群れを一時的に押し返す。
しかし右側から3体が同時に飛びかかってきました。
わたくしは半歩横に動いて、侯爵家護身術の構えを取りました。
「風花」
ただの蹴り上げが1体の顎を捉えます。しかし残り2体の爪がドレスの裾を掠めました。
よろめきながら、崖際との距離を確認いたします。
あと3メートルほどでございますわ。
魔力の残量も、少なくなってきました。
わたくしは銀のティーポットを、ドレスの胸元にしっかりと抱え込みました。
両手が塞がれますけれど、これだけは手放すわけに参りません。
「お退きなさいませ――エアランス」
残った魔力を風に込めて、正面の群れを薙ぎ払います。4体が吹き飛びました。
しかし同時に、背後から体当たりがきましたの。
わたくしは前方の崖際に向かって、大きく踏み出す形になりました。
足元の土が、崩れる音がいたしました。
あ。
そう思った瞬間には、もう落ちておりましたの。
崖下へと滑落しながら、わたくしは不思議と冷静でございました。
銀のティーポットを抱えたまま、体を丸めます。受け身を取ろうとしましたけれど、崖の傾斜が思ったより急で、岩肌を何度か打ちながら、落ちていきます。
痛みは、ございました。
でも不思議と、恐怖は薄うございましたの。
落ちながら、わたくしはいくつかのことを考えましたの。
追放式典で宰相を困らせたこと。荒野の星が綺麗だったこと。白湯しか飲めなかった今朝のこと。紅茶葉が切れてしまったこと。
それから。
もう少しだけ、生きていたかったということ。
もう少しだけ、美味しい紅茶を飲みたかったということ。
後悔ではなく、ただの、小さな願いでしたの。
視界が、暗くなっていきます。
銀のティーポットは、まだ胸の中にございます。
よかったですわ。
「……まあ」
わたくしは最後に、口元を緩めました。
「波乱万丈な人生でしたわね」
それが、わたくしの最後の言葉でございました。
クラリッサ・フォン・ヴァルシュタイン。
享年17歳。
元公爵令嬢。追放令嬢。荒野の旅人。
最後まで、背筋は曲がっておりませんでしたし、口調も崩れませんでしたし、銀のティーポットも手放しませんでした。
それだけは、確かでございます。
崖下は、静かでございました。
魔物の唸り声も、風の音も、遠のいていきます。
ただ1つだけ、銀のティーポットだけが、岩の上で静かに光を反射しておりました。
やがて、白い光がそこに満ちてまいりましたの。
――天界へと続く光でございます。




