第2話 荒野と魔物とティータイム
荒野というのは、歩いても歩いても荒野でございますわね。
地平線まで続く赤茶けた大地に、膝丈ほどの枯れ草が風に揺れている。空は高く、雲は少なく、太陽だけが容赦なく照りつけております。
城門を出てから、4時間は歩いたでしょうか。
わたくしは足を止めて、後ろを振り返りましたの。
街の城壁が、もう豆粒ほどの大きさになっておりました。
ヴァルシュタイン領も、こんな荒野でございます。公爵家の子として生まれ、17年間、あの領地で育ちましたの。荒野は見慣れておりますわ。
ただ、人と歩く荒野と、1人で歩く荒野は、随分と違うものでございますわね。
わたくしは前を向いて、歩き続けましたの。
日が傾き始めた頃に、岩場を見つけました。
風を遮れる大きな岩が、ちょうど半円を描くように並んでいる。野営に適した地形でございますわ。
枯れ草と小石を集めて、焚き火の準備をいたします。
火魔法で点火する前に、少し考えましたの。
魔力は有限でございます。荒野がいつまで続くかわからない以上、戦闘以外での魔力消費は最小限に抑えるべきでしょう。
ただ。
「……焚き火くらいは、よろしいですわね」
わたくしは指先に小さな炎を灯して、枯れ草に移しましたの。
ぱちぱちと音を立てて、炎が広がっていきます。
焚き火というのは、不思議なものでございますわ。揺れる炎を見ているだけで、少し落ち着いてくる。
公爵家の暖炉とは比べるべくもありませんけれど、暗い荒野では十分な温かさでございますわ。
次に、水の確保でございます。
岩場の陰に、小さな水溜まりがございました。雨水が溜まったものでしょうか。透明度は低い。飲めるかどうか、確認が必要ですわ。
水溜まりに指を浸して、少量の魔力を流しましたの。
水の中に毒素がないかを確かめる、初歩的な魔法でございます。野外での毒見は基本でございますわ。
問題ございませんわ。
風魔法そよ風で土埃を取り除き、火魔法で沸騰させてから、銀のティーポットに注ぎます。
お湯でございます。
あとは茶葉さえあれば。
「……茶葉がございませんわね」
わたくしは空の銀のティーポットを、焚き火の傍に置きましたの。
追放の際に荷物として持ち出せたのは、ドレスと、この銀のティーポットだけでございました。茶葉は、没収された財産の中に含まれていた。
理不尽な話でございますわ。
ただ、理不尽を嘆く暇があれば、次の一手を考える方が有意義でございますもの。
わたくしはお湯だけを一口飲んで、焚き火を見つめましたの。
夜になりました。
荒野の夜空は、どの夜空よりも星が多うございました。
公爵家の屋敷には、天体観測用の塔がございましたの。幼い頃、父と一緒に登って、星の名前を教えてもらいましたわ。
あの塔も、今はもう、わたくしのものではございませんわね。
わたくしは膝を抱えて、星空を眺めましたの。
17年間、何かと戦い続けてきた気がいたします。
貴族社会の礼儀。社交界の思惑。婚約者の機嫌。家の面子。そして、最後の追放まで。
戦い続けて、それでも、誰にも「よくやった」と言ってもらえませんでしたの。
寂しい、と思ったのは、この時が初めてでございましたわ。
焚き火が、ぱちりと音を立てました。
わたくしは少しの間、その音を聞いてから、静かに息を吐きましたの。
「……済んだことでございますわ」
前を向かなければなりませんわ。
今のわたくしには、銀のティーポットがある。魔法がある。17年間で磨いた経験がある。
茶葉がないことを除けば、十分な装備でございますわ。
わたくしは岩に背を預けて、目を閉じましたの。
明日も、歩き続けますわ。
眠りに落ちる直前でございました。
気配を、感じましたの。
わたくしは目を開けずに、意識だけを鋭くしました。
南の方角。複数。移動速度から察するに、四足歩行の魔物でしょうか。
1体。2体。3体。
それ以上は、確認できませんでしたの。
わたくしは静かに立ち上がって、魔力を指先に集めましたの。
焚き火の光の届く範囲で迎え撃つ。有利な地形は岩場の背後。逃げ道は北の方角。
段取りを決めましたわ。
枯れ草が、ざわりと揺れましたの。
最初に飛び出してきたのは、狼に似た魔物でございました。
4本足で地を蹴って、まっすぐわたくしに向かってくる。鱗のような硬い皮膚に覆われていて、口元から牙が覗いておりますわ。
「フレアアロー」
詠唱なしで、右手から3本の火の矢を放ちましたの。
魔物の肩に刺さって、炎が広がります。
「バースト」
一拍置いて、爆発させましたの。
魔物が吹き飛んで、地面に転がりました。立ち上がろうとしておりますわ。頑丈でございますわね。
2体目が左から。3体目が右から。同時に来ましたの。
わたくしは後ろへ一歩下がって、岩を背にしましたの。これ以上は下がれませんわ。
「エアープレス」
左の魔物に向かって、圧縮した風を叩きつけましたの。魔物が横に飛んで、岩にぶつかりましたの。
右の魔物が、もう目の前でございます。
わたくしはドレスの裾を軽く捌いて、右足を引きましたの。
侯爵家護身術・風花の型(ただの蹴り上げ)。
魔物が飛びかかってきた瞬間、体を半歩ずらして、顎の下へ蹴り上げましたの。
魔物が宙を舞って、地面に落ちましたわ。
最初に吹き飛んだ1体目が、まだ動いております。延焼ダメージが足りませんでしたわね。
「フルバースト」
残っていたフレアアローを、全て同時に爆発させましたの。
炎が広がって、荒野の夜が一瞬だけ昼のように明るくなりましたわ。
静寂が、戻りましたの。
3体、全て沈黙でございます。
わたくしは乱れたドレスの裾を整えながら、戦闘後の状況を確認いたしましたの。
魔力消費は想定の範囲内。怪我はなし。銀のティーポットは無事。
最後の確認が最も重要でございますわ。
わたくしは岩場に戻って、銀のティーポットを手に取りましたの。
傷一つございません。
「よろしいですわ」
焚き火に戻って、再び岩に背を預けましたの。
この荒野では、夜の間も油断できない。眠るとすれば、浅く、短く。
わたくしは目を細めながら、炎を見つめましたの。
3体の魔物を倒せた。それは収穫でございますわ。ただ、荒野の魔物は群れで行動することが多い。
仲間の気配を察して、より多くの数で来る可能性も考えておかなければなりませんわね。
可能性を考えるのは、悲観ではございません。
準備でございますわ。
夜が明けるまでに、あと2回、魔物が来ましたの。
2回目は2体。3回目は単体でございました。
全て、フレアアローとエアープレスの組み合わせで対処いたしましたの。接近を許す前に仕留める。それが魔力消費を抑える最善の方法でございますわ。
夜明けとともに、荒野が静かになりました。
朝の光が、東の地平線から差し込んでまいります。赤茶けた大地が、朝陽に染まって、少しだけ違う色に見えましたの。
ヴァルシュタイン領も、朝は綺麗でございましたわ。荒野でも、夜明けだけは美しい。
わたくしは残ったお湯を温め直して、銀のティーポットに注ぎましたの。
茶葉はございません。
お湯だけでございますわ。
一口飲んで、朝の空気を吸いましたの。
温かいお湯は、温かいお湯でございます。紅茶ではございませんけれど、体が温まりますわ。
「……及第点以下ですわね」
でも飲み干す。
それがわたくしの流儀でございますわ。
出発する前に、ドレスの状態を確認いたしましたの。
昨夜の戦闘で、裾に泥が跳ねております。袖口にも、魔物の体液らしき汚れが少々。
わたくしは溜まった水を少量すくって、汚れた箇所を手でこすりましたの。完全には落ちませんわ。ただ、放置するよりはましでございますわ。
風魔法で水気を飛ばして、仕上げに埃を払いましたの。
「……これも及第点以下ですわね」
でも今は、これが限界でございますわ。
追放の際に持ち出せたのはこの一着だけでございますもの。大切に使わなければなりませんわ。
さて、出発いたしましょう。
この荒野の先に、山があります。山を越えれば、街があるはずでございますわ。
街には、茶葉があるはずでございます。
わたくしは銀のティーポットを抱えて、立ち上がりましたの。
ドレスの土埃を払って、北の方角を向く。
歩き始めると、背後から風が吹いて、わたくしの黒髪を前へと押しましたの。
まるで、背中を押してくれているようでございますわ。
誰かに「よくやった」と言ってもらえなかったとしても。
わたくしは銀のティーポットを抱えて、立ち上がりましたの。
朝の光が、ティーポットの表面に細く反射しておりました。




