第10話 優雅なる旅の開幕
翌朝、わたくしは夜明けとともに目を覚ましました。
宿の窓から差し込む朝の光が、部屋を柔らかく染めております。
わたくしはまず、銀のティーポットを確認いたしました。
無事でございます。
次に、昨夜買い求めたベルガリア茶の茶葉を確認いたします。
残量は十分でございますわ。
よろしいですわ。今日も一日、始められますわね。
朝食の後、わたくしはクーリエを呼びました。
クーリエは眠そうな顔をしておりました。天使も眠るのですわね。
「おはようございます……」
「おはようございますわ。今すぐお湯を頼んでくださいませ」
「朝からですか?」
「朝だからでございますわ」
クーリエが、眠い目をこすりながら廊下へ出ていきました。
しばらくして、お湯を持って戻ってきました。
わたくしは昨夜の復習も兼ねて、クーリエにお湯の温度確認から全て任せました。
クーリエは眠そうにしながらも、昨夜よりは手順が板についております。お湯を注いで、蒸らし時間を口の中で数えて、カップを温めてから注ぐ。
3分後。
差し出されたカップを一口飲みました。
「……昨日より渋みが薄いですわ」
「進歩してますか?」
「及第点には届きませんが、昨日の不合格よりは上でございますわ」
「それって、ほぼ合格じゃないですか?」
「ほぼ、は合格ではありませんわ」
クーリエがしょんぼりしました。でも昨夜よりは表情が明るい。悔しさが、やる気に変わっておりますわね。
悪くない素質でございますわ。
朝食を終えて、荷物をまとめました。
といっても、わたくしの荷物は銀のティーポットと茶葉と追放状だけでございます。
クーリエは荷物がございません。天使ですもの。
「出発いたしますわよ」
「はい。……あの、どこに向かいますか?」
わたくしは少し考えました。
「座りなさいませ」
「え、出発じゃないんですか?」
「方針を決めてから出発するのですわ。行き当たりばったりの旅は、優雅ではございませんもの」
クーリエが、椅子を引いて座りました。
わたくしも向かいに座って、銀のティーポットを傍らに置きます。
「まず、現状の整理ですわ」
「はい」
「わたくしたちは今、勇者5人の是正という任務を抱えて、見知らぬ世界を旅している」
「そうです」
「所持金は昨日の魔物討伐で得た銅貨が少々。人脈はなし。情報も最低限」
「厳しいですね」
「ええ。ただ」
わたくしは指を一本立てました。
「わたくしには4属性の魔法がございますわ」
2本目。
「心を折るというタレントがございますわ」
3本目。
「紅茶の審美眼がございますわ」
「3つ目は任務に関係ありますか?」
「精神の安定に直結しておりますわ。立派な戦力でございます」
クーリエが、微妙な顔をしておりました。
「あなたには光の槍・光のハンマー・光の壁、そして神宿がございますわ」
「神宿は滅多に使いませんけど」
「いざという時のためですわ。使わないに越したことはございませんの」
「方針を決めますわ」
「はい」
「一つ目。旅の費用は道中で稼ぎながら進む。魔物討伐・護衛依頼・その他、できることは何でもいたしますわ」
「わかりました」
「二つ目。行く先々で、より良い紅茶と茶葉の産地を探す。産地の情報は街の商人から集めながら進みますわ」
「それは任務に関係ありますか?」
「最優先事項でございますわ」
「任務より?」
「わたくしが精神を安定させて的確な判断を下すためには、質の高い紅茶が不可欠でございますの。つまり紅茶の確保は、あらゆることの前提条件でございますわ」
「……論理は通ってます」
「当然ですわ」
「納得はしてないです」
「それで構いませんわ」
クーリエが力なく肩を落としました。
「三つ目。道中で出会った問題は、その時に片付けながら進む。邪魔なものは邪魔でございますもの」
「それだけですか?」
「それだけですわ」
クーリエが、少し拍子抜けしたような顔をしておりました。
「……勇者のこととか、作戦とか、そういうのは」
「産地への道中に何があるかは、行ってみなければわかりませんわ。考えても仕方のないことを今考えるのは、優雅ではございませんもの」
「……わかりました」
市場で、3人の商人に話を聞きました。
対価として、昨日の魔物の生息域と活動時間帯を伝えましたの。商人たちは一様に表情を変えて、それから喜んで情報を教えてくれました。
集めた情報を整理いたします。
最も近い国は、東の商業国家でございます。街道を進めば、2週間ほどで辿り着けるとのことでした。そして商業国家に向かう街道沿いに、茶葉の集散地として知られる街があるとのことでした。
「東に向かいますわ」
「商業国家ですか?」
「その前に、茶葉の集散地を経由いたしますわ」
「……やっぱり紅茶が先ですか?」
「道中にあるのですもの。寄らない理由がございませんわ」
クーリエが、遠い目をしておりました。
昼過ぎに、街を出発しました。
城門をくぐると、東へと続く街道が伸びております。石畳の道が、丘の向こうへと続いていく。
空は青く、風は穏やかで、旅日和でございますわ。
歩きながら、クーリエが言いました。
「……クラリッサさまは、怖くないんですか?」
「何がですの?」
「これから勇者の勢力に乗り込むんですよ。5人とも、それぞれ軍を持ってて、強い力を持っていて」
「怖いかどうか、ということでございますわね」
わたくしは少し考えました。
「怖さを感じる余裕がないのかもしれませんわ」
「余裕がない?」
「旧世界でも、常に何かと戦っておりましたの。婚約者の機嫌、家の面子、社交界の思惑。全部、正面から向き合ってきましたわ。その習慣でございましょう」
「それって、すごいことだと思いますけど」
「習慣ですわ。特別なことではございませんの」
クーリエが、また何か言いかけて、止めました。
その代わりに、少し間を置いてから、静かに聞いてきました。
「……旧世界のこと、後悔してますか?」
わたくしは足を止めませんでした。
街道を歩きながら、その問いをしばらく考えてみましたの。
後悔。
婚約破棄は、後悔していない。わたくしは正しくあろうとした。その結果でございますもの。
爵位も、財産も、後悔していない。元々、自分で稼いだものではございませんでしたわ。
追放も、後悔していない。あの国に留まり続けることの方が、よほど苦しかったでしょう。
では何を後悔しているか。
「一つだけ、ございますわ」
「なんですか?」
「最後の紅茶が、冷めておりましたの」
クーリエが、きょとんとした顔をしました。
「……紅茶、ですか?」
「追放式典の前に淹れたのですが、式典が長引いてすっかり冷めてしまって。水温が低いまま抽出したせいで、風味が十分に出なかったのですわ」
「それが、後悔ですか?」
「ええ」
クーリエがしばらく黙っておりました。
やがて、少し呆れたような、でも少し安心したような顔で言いました。
「……クラリッサさまって、本当にそれだけですか?」
「それだけでございますわ」
「婚約破棄とか、追放とか、崖から落ちたこととか」
「済んだことでございますわ。覆りませんもの」
「それを、後悔と呼ばないんですか?」
わたくしは少し考えてから、答えましたの。
「悔しいこと、は、ございましたわ」
「……それは後悔じゃないんですか?」
「後悔とは、やり直したいという気持ちでしょう。わたくしは、やり直したいとは思いませんの」
「でも、悔しくはなかったんですか?」
「……少しだけ」
「うまくできたかもしれない、って」
「誰かに、よくやったと言ってもらえなかったのが、少しだけ寂しかったですわ」
風が吹きました。
街道の草が、さわさわと揺れます。
クーリエが、静かな声で言いました。
「……わたしは、思いますよ」
「何がですの?」
「クラリッサさまが、よくやってきたって」
わたくしは少しだけ、足が止まりそうになりましたの。
でも止まりませんでした。
止まる理由がございませんでしたもの。
「……クーリエ」
「はい」
「あなた、なかなか言うではございませんか」
「本当のことですから」
「そうですわね」
わたくしは前を向いたまま、銀のティーポットを少しだけ、強く抱え直しましたの。
それ以上は、何も言いませんでした。
言う必要もございませんでしたわ。
街道の向こうに、丘が見えます。
その向こうに、茶葉の集散地がある。その先に、商業国家がある。その先に、5人の勇者がいる。
わたくしは銀のティーポットを抱えたまま、前を向きました。
銀のティーポットは、崖から落ちても無事でございました。荒野の夜を越えても無事でした。転生しても無事でした。
これからも、無事でございましょう。
おまけの人生でございます。
ならば、楽しまなければ損でございますわ。
「クーリエ」
「はい」
「紅茶の淹れ方、次の街で特訓いたしますわよ」
「……合格目指します」
「目指すだけでは足りませんわ。合格しなければなりませんの」
「合格します」
「よろしい」
クーリエが、小さく笑いました。
わたくしも、口元が少しだけ緩みましたの。
青い空の下、二人で街道を歩き続けます。
5人の勇者は遠く、世界は広く、茶葉の集散地はもう少し先にございます。
まずは紅茶から。
何事も、一杯ずつでございますの。




