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断罪される前に、いただきます  ― 最後の食事は“裁き”の味 ―

作者: 月白ふゆ

料理本を眺めていたら、ふと目に入ったレシピがありました。

黒胡椒、蜂蜜、トマト、バジル、鶏もも肉。――ただそれだけの、どこにでもある材料。甘辛くて、少しおしゃれで、たぶん美味しい。そういう「普通」の一皿です。


でも、その普通さが、逆に怖くなったんです。

断罪の前夜に、最後の食事として出されたら?

材料がやけに整いすぎていたら?

香りが良すぎるほど、何かを隠していたら?


料理は人を救います。体を温め、心をほどき、明日を生かします。

けれど同時に、口に入った瞬間から、最も確実に“内側”へ侵入できる手段でもある。

そう思った途端、レシピの文字が、刃物みたいに見えました。


もちろん、無理筋です。料理とホラーを繋ぐのは、こじつけに近い。

それでも――もし「悪役令嬢」が断罪される側ではなく、調理する側に立ったなら。

甘さと辛さの向こうに、裁きの匂いが立ち上がるのではないか。

そんな不穏な想像だけで、ページをめくる手が少し重くなりました。


これは、料理本の一ページから始まった、味のいい悪夢の話です。

 黒胡椒の匂いが、やけに強い。


 石造りの廊下を曲がっただけで、鼻の奥を刺す刺激が喉まで降りてきた。牢の湿った空気に、辛味だけが浮いている。まるで、この先にあるものが「生きている」と主張しているみたいに。


 悪役令嬢アリシア・フォン・グラーヴェンは、薄い毛布を肩に掛けたまま、無言で歩いた。足枷の鎖が床を引っ掻き、火打石みたいな音を立てる。その音だけが、彼女の存在を証明している。


 「……最後の食事だ。お前の望みは、厨房に立つことだったな」


 看守の声は、気を遣うふりをした平板さだった。哀れみよりも、面倒のほうが多い。彼の背後には、鍵束を握った別の男が控えている。逃げられるはずがない、と二人とも確信していた。


 「ええ。私の望みは、いつだって“自分の手で決める”ことですもの」


 アリシアは穏やかに返した。声色だけは、これまで社交界で磨いたものを崩さない。人を傷つける刃は、笑みの裏に隠す。そう教えられて育ったし、そう振る舞えば、彼らは勝手に油断する。


 扉が開く。厨房の熱が一気に押し寄せ、黒胡椒の匂いが濃くなる。


 中には、妙に整った台所があった。処刑前夜の「情け」で用意されたにしては、清潔すぎる。まな板も鍋も、磨き上げられていた。けれど、その清潔さが逆に不気味だった。血の跡が消えた床ほど、血を呼び込む場所はない。


 調理台の上には、布に包まれた五つのものが置かれている。


 黒胡椒。蜂蜜。トマト。バジル。鶏もも肉。


 それだけ。


 他の香辛料も、塩も、油もない。小麦粉もない。水差しはあるが、飲用というより儀式用の器に見えた。


 「随分、選りすぐりね」


 アリシアは呟いた。看守が肩をすくめる。


 「王太子殿下のご配慮だ。お前の好物だったそうじゃないか。……最後まで“ご令嬢”だな」


 配慮。そう呼ばれるものの多くは、縄の結び目を丁寧にする行為と似ている。痛みを減らすためではなく、確実に締めるため。


 アリシアは布包みを一つずつ開いた。黒胡椒の粒は黒曜石のように艶があり、蜂蜜は琥珀のように澄んでいる。トマトは鮮やかな赤――赤が鮮やかすぎる。バジルは香りが強く、葉の縁が少し黒ずんで見えた。鶏もも肉は、冷たく、重い。


 重い。肉が重いというより、罪が重い。


 「……いつもより、赤いわね」


 鶏肉の断面が、やけに赤い。血抜きが甘い、という程度ではない。赤が“残っている”のではなく、“染み付いている”感じだった。あまりにも人の肉に似ている、と思った瞬間、胃がぞわりとした。


 看守は笑って誤魔化した。


 「処刑前夜だ。肉屋も気が利かないんだろう。さっさと作れ。時間はあまりない」


 時間はあまりない。そう言われて、アリシアは頷いた。


 ――ええ、時間はあまりない。


 彼女は袖をたくし上げた。指先は細く、爪は短い。宝石も指輪もない。断罪の日、すべて剥がされた。身に着けているものが奪われると、人は急に“素材”になる。彼らは、彼女を素材として処理したいのだ。


 だから彼女は、料理を選んだ。


 素材を扱うのは、いつだって料理人だ。


───


 火を起こす。鍋は重く、鉄が鳴る。


 アリシアは鶏肉をまな板に置き、包丁を滑らせた。刃が肉を割る感触は、いつもよりも湿っている。骨に当たる音が、どこか硬い。鶏の骨はこんな音を立てるだろうか、と頭の隅が囁く。彼女は、その囁きを無視した。


 否定しても意味がない。今夜、真実は皿に乗る。


 肉に蜂蜜を垂らす。とろりとした黄金が、赤い断面を覆っていく。甘い香りが立ち、厨房の空気が一瞬だけ“生きる匂い”になる。人は甘い匂いに弱い。安心してしまう。だから蜂蜜は、罠に最適だ。


 黒胡椒を握り、指先で潰しながら振る。粒が弾け、油分が立つ。辛味が強くなる。鼻腔が焼け、涙が滲む。それでも手を止めない。黒胡椒は、刺激であり、印だ。粒が散る様子が、黒い星座のように肉に降る。


 「……胡椒をそんなに使うのか」


 看守が訝しげに言う。


 「臭み消しです。鶏肉の質が良くないのでしょう? こうしないと、あなたが食べられない」


 言って、アリシアは笑った。柔らかく。彼らが望む“従順な令嬢”の顔で。


 看守は鼻で笑った。


 「は。最後まで口が回る」


 その言葉が、彼女にとっては祝福だった。口が回るうちは、相手の呼吸を奪える。


 肉を焼く。熱で蜂蜜が泡立ち、焦げる寸前の香ばしさを放つ。黒胡椒が油に浮き、黒い点が踊る。香りが増していく。甘さと辛さが絡まり合い、食欲を刺激する匂いが厨房に満ちる。


 次に、トマト。


 アリシアはトマトを切った。皮が薄く、刃が入ると果肉が崩れる。汁が指に伝う。赤い汁。赤が、鮮やかすぎる。彼女の脳裏に、昼間の法廷が浮かぶ。貴族席の白い衣装。聖女の涙。王太子の正義の顔。断罪の言葉が飛び交い、彼女の名が“罪”になっていった。


 「アリシア・フォン・グラーヴェン。あなたは聖女を妬み、毒を盛り、王太子殿下を誑かし――」


 誑かしてなどいない。むしろ、彼が勝手に期待し、勝手に裏切られた顔をしただけだ。


 トマトの汁が、まな板に広がる。薄い赤が、木目に染みる。まるで血が木に吸われていくみたいに。


 アリシアは、ふっと息を吐いた。


 「……血は、木に吸われるのね」


 自分の血も、誰かの血も。吸われて、なかったことにされる。けれど吸った木は、覚えている。匂いも、温度も、重さも。


 彼女はトマトを鍋に入れた。ジュッと音がして、赤が黒い油に溶ける。甘い香りが酸味と混ざり、匂いが一段階“現実”になる。生き物の匂いだ。肉と果実と焦げと辛味。


 最後に、バジル。


 バジルの葉をちぎると、青臭い香りが立った。夏の庭の匂い。日差しの匂い。生命の匂い。処刑場には似合わない匂い。


 アリシアは、バジルをちぎりながら小さく唇を動かした。声にはならない。祈りとも呪いともつかない言葉。誰にも聞かれない音が、葉脈に染み込む。


 バジルは護りの草だと、昔、母が言っていた。悪い夢を払うために枕元に置く。けれど護るのは、必ずしも“眠る者”ではない。護りは、境界を作る。入れていいものと、入れてはいけないものを分ける。


 アリシアは鍋にバジルを落とした。緑が赤に沈み、黒胡椒の点が浮かぶ。蜂蜜の照りが肉に絡み、光を放った。


 皿に盛る。見た目は美しい。まるで、上等な食卓の一皿だ。


 だからこそ――恐ろしい。


───


 「できました」


 アリシアは皿を差し出した。看守が目を細める。匂いに釣られる。人間の身体は単純だ。腹が減れば、匂いに従う。


 「……うまそうだな」


 「ええ。最後の食事にふさわしいでしょう?」


 アリシアは自分の分も皿に盛った。だが、その皿にカトラリーは置かなかった。彼女は一口も食べない。食べる必要がない。


 看守は、疑いを口にしかけて――やめた。目の前の皿が、彼の理性を黙らせた。蜂蜜の照りが光り、黒胡椒が香り、トマトの赤が食欲を煽る。バジルの緑が“健康的”に見せる。すべてが、彼の警戒心を解体するように配置されていた。


 彼は一口食べた。


 「……甘い……辛い……」


 顔が緩む。次の一口が早い。三口目で、舌が痺れた。


 黒胡椒は、少量なら刺激だが、大量なら刃になる。喉を焼き、胃を荒らし、血管を開く。蜂蜜はそれを包み、痛みを遅らせる。トマトの酸は吸収を早める。バジルの香りは錯覚を生む。気分が良くなったように感じさせ、異変を“味の強さ”と誤認させる。


 看守は咳き込み、喉を押さえた。


 「……おい……何を……」


 声が掠れ、言葉が途切れる。涙が滲み、顔が赤くなり、呼吸が乱れる。だが、まだ倒れない。人間は、毒で死ぬときでも驚くほど粘る。


 アリシアは静かに言った。


 「黒胡椒は、噂では“悪霊を追い払う”そうです。あなたの中の悪霊が、今、暴れているだけ」


 看守は椅子から転げ落ちた。膝が床に当たり、骨が鳴る。もう一人の看守が慌てて駆け寄ろうとして、足を止めた。目の前で起きていることが、理解できない。理解できないものは、人を固める。


 「お前……!」


 「落ち着いて。あなたにも皿がありますよ」


 アリシアはもう一枚の皿を差し出した。もう一人の看守は、手を伸ばしかけて引っ込めた。疑念が勝った。


 「毒か」


 「毒? いいえ。これは――料理です」


 アリシアはゆっくりと、鍋の蓋を開けた。中には、さっきと同じ香りが残っている。甘く、辛く、赤く、緑で、肉の匂い。


 けれど、鍋底に沈んでいるものを見た瞬間、看守の顔色が変わった。


 鶏肉の形が、鶏肉ではない。


 筋の走り方が違う。脂の白さが違う。骨の曲線が違う。


 ――人間の指に似ている。


 「……なに……それ……」


 「鶏もも肉、です。そう書いてありましたから」


 アリシアは首を傾げた。まるで、ほんとうにそう信じているかのように。看守の胃がひくりと痙攣し、喉が鳴った。吐き気がこみ上げる音。


 「お前……人を……!」


 「人を、どうしたのでしょう。断罪の場で、皆さんが私に何をしたのか――私はよく覚えています。言葉で肉を裂き、視線で骨を砕き、正義という名で私を素材にした」


 アリシアは、鍋の縁に指を置いた。熱いはずなのに、彼女の指先は震えない。


 「だから、私は料理人になりました。素材を扱う側に」


 もう一人の看守が後ずさる。だが、扉は彼の背中にある。鍵は彼の腰にある。逃げるには、鍵を手放さなければならない。手放せば、彼は職務を失う。職務を失えば、生きられない。人間は、命よりも“立場”に縛られることがある。貴族も看守も、同じだ。


 看守は剣に手を伸ばした。


 「化け物め……!」


 剣が抜かれるより早く、倒れていた看守が痙攣した。喉が泡立ち、口から黒い液が滲む。黒胡椒の粒のように黒い。蜂蜜のように粘つく。トマトのように赤くない。血ではない。けれど血よりも“内側”の色だ。


 その液体が床に落ちた瞬間、厨房の匂いが変わった。甘さが消え、辛味が尖り、酸味が腐敗の匂いに寄る。バジルの青さが、どこか薬草ではなく“棺”の匂いになる。


 看守の顔が歪んだ。


 「……これは……」


 「調味料の匂いではありません。あなたの中にあるものの匂いです」


 アリシアは、彼を見つめた。目は静かだった。怒りではない。激情でもない。むしろ、確認しているだけだ。素材の状態を確認する料理人の目だ。


 「あなたが嗅いでいるのは、あなたの罪が腐り始める匂い」


 看守が剣を振り上げる。その瞬間、アリシアは指を鳴らした。


 乾いた音。


 ――黒胡椒の粒が弾けるような音。


 厨房の空気が、一瞬だけ“止まった”。火の揺らぎが固まり、湯気が宙で形を保ち、看守の腕が途中で止まる。


 時間が止まったのではない。境界が引かれたのだ。バジルが作った境界。厨房という狭い場所を、世界から切り離す境界。


 アリシアは、看守の剣を指で押し返した。ありえないほど軽く、するりと。看守は、自分の腕が動かないことに気づき、目を見開いた。恐怖が、やっと彼の中で形になった。


 「……魔術……?」


 「魔術ではありません。料理です」


 アリシアは繰り返した。優しく。残酷なほど優しく。


 「食べる人の身体が、材料を受け入れる。材料が身体の内側を変える。それは、魔術よりも確実で、誰でも行える変化です。人間は、口から入ったものでできているのだから」


 彼女は看守の顎を掴み、口を開かせた。抵抗できない。境界の中では、彼は素材に過ぎない。料理人の手の中の素材。


 アリシアは、黒胡椒の粒を三つ、舌の上に落とした。


 「……っ!」


 看守は咳き込み、涙を流し、喉を掻きむしった。辛味が走り、呼吸が乱れる。けれど死なない。死なせない。彼には役割がある。


 アリシアは蜂蜜をスプーンで掬い、彼の唇に塗った。甘さで辛味が誤魔化され、身体が錯覚する。まだ大丈夫だ、と。だからこそ、もっと深く受け入れる。


 次に、トマトの汁を指先につけ、彼の唇の端に塗った。赤い印。まるで口紅。彼は“令嬢”の化粧をされる。罪の化粧を。


 最後に、バジルの葉を一枚、彼の舌に置いた。青い香りが広がり、頭がぼんやりする。夢を見ているみたいに。現実感が薄れ、抵抗する意志が溶ける。


 「……これでいい」


 アリシアは囁いた。看守の目が虚ろになり、剣が床に落ちた。


 境界が消える。火が揺れ、湯気が立ち、時間が戻る。


 アリシアは、床に倒れた二人を見下ろした。


 「あなたたちは、明日、私が処刑されるのを見届けるはずだった。けれど、代わりにあなたたちが“料理された”ことを、誰が理解できるでしょうね」


───


 牢獄の夜は、静かだ。


 厨房から戻る途中、アリシアは何度も自分の足音を確かめた。鎖の音がしない。足枷は外されていないはずなのに、音がしない。まるで、彼女の足が床を滑っているみたいに。


 看守がいない。廊下が空っぽだ。灯りだけが揺れている。揺れ方が不自然だった。風がないのに揺れる。まるで、誰かが通り過ぎた後の残り香みたいに。


 彼女は牢に戻された。扉が閉じられる。鍵の音がする。けれど、その鍵を回したのが誰か、彼女には見えなかった。


 牢の中には、先ほどの五つの包みが置かれていた。


 黒胡椒。蜂蜜。トマト。バジル。鶏もも肉。


 同じもの。まったく同じ量。まったく同じ艶。


 アリシアは、喉の奥が冷えるのを感じた。


 ――これは、王太子の配慮ではない。


 ――誰かが、この五つを“必要”としている。


 彼女は、肉の包みを開いた。赤い断面。さっきよりも赤い。赤が“増えている”。肉が、彼女の目の前でわずかに脈打った気がした。ありえない。肉は死んでいる。死んでいるはずだ。


 だが、匂いは生きている。黒胡椒の匂いが、また強くなる。蜂蜜の甘さが、舌に乗る。トマトの酸が、唾液を呼ぶ。バジルの青さが、頭の奥を覚醒させる。


 アリシアは理解した。


 これは単なる料理の材料ではない。断罪の場で彼女に押し付けられた“役割”だ。悪役令嬢という素材。断罪という調理法。民衆の歓声という火。聖女の涙という塩。


 そして、この五つは――逆の調理法。


 「……私が、食べる側ではないのなら」


 アリシアは小さく笑った。


 「私は、作り続けるしかない」


 彼女は鍋を引き寄せた。牢の中に、なぜか火が用意されている。炭が赤く光り、火が起きている。ここが牢であることを、世界が忘れている。


 鍋に水を張る。水面が揺れる。そこに映る自分の顔が、一瞬だけ別人に見えた。目が黒い。黒胡椒の粒みたいに黒い。


 「……私の目、こんな色だったかしら」


 答えは返らない。牢は静かだ。ただ、材料がある。火がある。鍋がある。作れ、と言っている。


 アリシアは鶏肉を切った。肉の中から、細い骨が出た。鶏の骨ではない。人の指の骨に似ている。彼女は手を止めない。止めたら、今度は彼女が素材になる。


 蜂蜜を垂らし、黒胡椒を振り、トマトを入れ、バジルを落とす。


 香りが立つ。


 そして――香りの中に、声が混ざり始めた。


 法廷で彼女を断罪した声。王太子の声。聖女の声。取り巻きの貴族たちの声。民衆の歓声。すべてが、鍋の中で煮えている。


 「アリシア……罪を認めなさい……」


 「あなたは悪……」


 「王太子殿下に近づいた罰よ……」


 声は泡になって弾け、黒胡椒の粒になって沈む。蜂蜜の膜に包まれ、トマトの赤に溶け、バジルの緑に絡まる。


 アリシアは、鍋を覗き込んだ。


 そこに浮かんでいたのは――自分の顔だった。


 煮えたぎる赤い汁の中に、彼女の顔が浮かび、目を開けている。口が動く。


 『食べなさい』


 アリシアの背筋がぞわりとした。自分が自分に命令する。これほど確実な支配はない。


 「……嫌よ」


 彼女は震える声で言った。だが、鍋の中の顔は笑う。


 『あなたは、もう断罪される側ではない。あなたは、断罪を調理する側』


 鍋の中の顔が、少しずつ変わる。頬が痩せ、目が大きくなり、涙の痕がつく。


 ――聖女の顔になっていく。


 アリシアは息を呑んだ。鍋の中の聖女が微笑む。慈愛の微笑み。人を救うふりをして、人を裁く微笑み。


 『あなたは、私を妬んだ。だから、あなたは悪』


 その声は、さっき法廷で聞いた声そのものだった。聖女の声は、人の心を撫でる形をしている。撫でながら、皮膚を剥ぐ。


 アリシアの手が震え、スプーンを落とした。金属音が牢に響き、妙に大きく反響した。その反響の中で、別の音が混ざる。


 ――鎖の音。


 廊下から、誰かが近づいてくる。鍵束の音。足音。複数。


 処刑前夜、牢に誰が来る? 答えは一つだ。


 確認に来たのだ。彼女がちゃんと“悪役令嬢”として死ぬかどうかを。


 扉の向こうで声がする。王太子の声。聖女の声。貴族たちの声。


 「……まだ生きているのか」


 「最後まで反省がないのね」


 「明日で終わりだ。民衆の前で、正義を示す」


 アリシアは鍋を見た。鍋の中の聖女が微笑んでいる。


 『食べなさい』


 アリシアは歯を食いしばった。


 食べるのは嫌だ。けれど、食べなければまた素材に戻る。彼らの火に焼かれる。彼らの言葉で煮込まれる。彼らの正義の皿に盛られる。


 なら、別の食べ方をする。


 アリシアは皿を二枚用意した。鍋から肉を盛る。蜂蜜の照り。黒胡椒の点。トマトの赤。バジルの緑。香りが立つ。食欲を誘う。


 扉が開く。灯りが差し込む。王太子が先頭に立ち、聖女が後ろに控え、貴族たちがその周囲を固める。正義の行列。罪を見物しに来た人々。


 「アリシア。最後の夜だ。悔い改める気はあるか」


 王太子が言う。高い声。優しさのふりをした支配の声。


 アリシアは微笑んだ。


 「ありますわ。だから、作りました」


 彼女は皿を差し出した。


 「蜂蜜黒胡椒チキンの、トマトバジルソテー。皆さまに……感謝を込めて」


 貴族たちがざわめく。聖女が眉をひそめる。だが、匂いが空気を変える。甘く、辛く、鮮やかな匂いは、警戒心より先に“欲”を刺激する。


 「……牢の中で、こんなものを?」


 王太子が驚く。驚きは、油断の入口だ。


 アリシアは柔らかく頷いた。


 「私の罪を、最後に“形”にしたかったのです。皆さまが仰った通り、私は毒を扱う悪女なのでしょう? なら、最後くらい……毒ではないものを作れると示したくて」


 聖女が一歩前に出た。目が、鍋を見る。鍋の中に浮かぶ聖女の顔と、目が合った気がした。聖女は一瞬、顔色を変える。けれど、その変化はすぐ笑みに上書きされる。


 「素敵ね、アリシア。あなたが反省した証拠。いただくわ」


 彼女は皿を取ろうとした。指先が震えている。怖いのだ。彼女の中の何かが、本能的に拒絶している。それでも、聖女は“善”の仮面を外せない。拒絶すれば、聖女ではなくなる。


 アリシアは皿を差し出したまま、言った。


 「一口だけで結構です。あなたが正しいなら、何も起こりません」


 聖女の喉が鳴った。周囲の視線が集まる。善なる者として、ここで怯えることはできない。


 聖女は一口食べた。


 甘さが最初に来る。蜂蜜。次に辛味。黒胡椒。酸味。トマト。最後に、バジルの青い香り。


 聖女の顔が、一瞬だけ“人間”になった。驚きと恐怖が剥き出しになる。だが、すぐ慈愛の微笑みに戻そうとする。戻せない。戻れない。身体が先に反応する。


 聖女は咳き込んだ。


 「……っ、これは……」


 王太子が皿を覗き込み、匂いに引き寄せられる。貴族たちも同じだ。人は、他人の異変を見ても、匂いに勝てないことがある。欲は理性より速い。


 王太子が一口食べた。貴族が一口食べた。誰かが笑った。「案外うまいじゃないか」と。


 その笑いが、途中で途切れた。


 咳。涙。喉を押さえる手。倒れる椅子。皿が落ち、赤い汁が床に広がる。赤が木目に染みるように、石床に染みていく。石が赤を吸う。吸って、覚える。


 聖女が膝をつき、嘔吐した。黒い液。黒胡椒の粒みたいに黒い。蜂蜜みたいに粘つく。トマトみたいに赤くない。血ではない。けれど、血よりも内側。


 聖女は涙を流し、アリシアを見上げた。


 「……あなた……何を……」


 アリシアは、静かに答えた。


 「料理です」


 「……嘘……!」


 「嘘? では、あなたが断罪で私に押し付けた言葉は、嘘だったのですか。毒を盛った。嫉妬した。悪だ。――すべて、嘘だった?」


 聖女の顔が歪む。彼女は“善”を守るために、誰かを“悪”にしなければならない。その構造に、今、彼女自身が飲み込まれていく。


 アリシアは続けた。


 「黒胡椒は、あなたの喉を焼きます。蜂蜜は、その痛みを遅らせます。トマトは、あなたの内側を開きます。バジルは、境界を作ります。鶏もも肉は……」


 アリシアは微笑んだ。


 「鶏もも肉は、あなたたちが私にしたことの“形”です」


 聖女が震えた。王太子が倒れ、泡を吹いた。貴族たちが呻き、床を這う。彼らは今、断罪される側の姿になっている。民衆の歓声はない。正義の拍手もない。ただ、冷たい牢の床だけがある。


 アリシアは、皿を自分の前に置いた。


 そして、初めて箸を取った。


 彼女は一口食べた。


 甘い。辛い。酸っぱい。青い。肉の匂い。


 その味の奥で、何かが“ほどける”感覚があった。自分に貼り付いていた「悪役令嬢」という札が、湯気で湿り、剥がれていく。代わりに、別の札が貼られる。


 ――料理人。


 アリシアは、倒れた人々を見下ろした。


 「明日、処刑場で私が死ぬはずだった。けれど、あなたたちがここで死ぬ。誰が信じるでしょうね。牢の中で、王太子と聖女が“料理された”なんて」


 彼女は口元を拭った。蜂蜜が唇に残り、黒胡椒が舌に残る。トマトの酸が喉に残り、バジルの香りが鼻に残る。五つの残り香が、彼女の身体に定着していく。


 そして、その残り香に混ざって、別の匂いがした。


 ――歓声。


 遠くから、かすかな歓声が聞こえる。処刑場の準備だ。民衆が集まり始めている。明日の正義を見物するために。


 アリシアは笑った。


 「……ごめんなさい。明日の見世物は、別のものになりそうです」


 彼女は扉の鍵束を拾った。倒れた看守の腰から外れたものだ。手の中で金属が冷たい。冷たさが、現実を確かにする。


 鍵穴に差し込み、回す。


 カチリ、と音がした。


 その音が、彼女の人生の境界線になった。


───


 処刑場は、朝日に照らされて白かった。白い木。白い布。白い花。正義のための白。


 民衆が集まり、ざわめく。誰もが期待している。悪役令嬢が泣き叫び、命乞いをし、最後に正義が勝つ瞬間を。


 けれど、処刑台の上に立ったのは、涙の聖女ではなかった。


 王太子でもなかった。


 アリシアだった。


 彼女は、白い布を敷いた小さな台を運び、そこに皿を並べた。蜂蜜黒胡椒チキンのトマトバジルソテー。香りが風に乗り、民衆の鼻をくすぐる。


 ざわめきが変質する。正義のざわめきから、食欲のざわめきへ。


 アリシアは朗らかに言った。


 「皆さま。本日は、私の処刑の日――のはずでした。でも、処刑されるべき“悪”は、別の場所で煮込まれてしまいましたの」


 民衆が息を呑む。誰かが笑う。誰かが怒鳴る。混乱が広がる。


 アリシアは続けた。


 「だから、代わりに。料理を用意しました」


 彼女は皿を掲げた。蜂蜜の照りが朝日に光り、黒胡椒が星みたいに散り、トマトの赤が血みたいに鮮やかで、バジルの緑が“健やか”に見える。


 「食べてください。正義を信じるなら、何も起こりません。悪役令嬢の料理など、恐れる必要はありませんもの」


 誰かが一歩前に出た。匂いに引かれて。食欲に引かれて。正義を証明したくて。


 民衆の中に、聖女の信者がいた。彼は叫ぶ。


 「聖女様が正しい! 悪役令嬢の戯れだ!」


 彼は皿を取り、一口食べた。


 甘い。辛い。酸っぱい。青い。肉の匂い。


 彼の顔が、ゆっくりと変わった。驚きの顔。幸福の顔。次に――恐怖の顔。


 喉を押さえ、咳き込み、膝をつく。黒い液が口から滲む。群衆が悲鳴を上げ、後ずさる。だが匂いは消えない。匂いは、逃げる足を止める。好奇心が、恐怖に勝つ瞬間がある。


 アリシアは、静かに微笑んだ。


 「黒胡椒は、悪霊を追い払うのだそうです。あなたの中の悪霊が、今、暴れているだけ」


 彼女の声は穏やかだった。けれど、その穏やかさが最も恐ろしい。包丁を握る料理人の手は、怒っていない。怒っていない手ほど、正確に切る。


 「安心してください。これは“断罪”です」


 彼女は言った。


 「あなたたちが私にしたのと同じ。言葉で肉を裂き、視線で骨を砕き、正義という火で煮込む。私は、それを“料理”として返しているだけ」


 民衆が叫び、混乱し、逃げ惑う。だが、その逃げ惑いの中で、アリシアはふと気づいた。


 風が運んでくる匂いに、黒胡椒の刺激が混ざっている。


 ――誰かが、どこかで、同じ料理を作っている。


 彼女の背筋が冷えた。


 自分が始めたはずなのに、世界の方が先に進んでいる。断罪は彼女一人のものではない。断罪という構文は、いったん走り出すと、誰の手も離れて増殖する。


 アリシアは、唇の端を上げた。


 「……そう。これが“物語”なのね」


 誰かが悪役になり、誰かが正義になる。誰かが裁き、誰かが裁かれる。役割が回り、構文が回り、繰り返される。


 ならば、彼女はその構文を――味に変える。


 黒胡椒の刺激。蜂蜜の甘さ。トマトの赤。バジルの境界。鶏もも肉の重さ。


 それらが混ざった一皿を、彼女は世界に差し出した。


 「さあ。次は誰が食べるの?」


 アリシアの問いに答えたのは、遠くから響く鐘の音だった。処刑開始を告げるはずだった鐘。


 その鐘は、今、別の合図になった。


 ――調理開始の合図に。


 黒胡椒の匂いが、さらに強くなる。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


料理本を眺めていて、「黒胡椒・蜂蜜・トマト・バジル・鶏もも肉」という、あまりにも普通で美味しそうな組み合わせを見た瞬間、なぜか「これはホラー向きだな」と思ってしまったのが、この話の始まりでした。

無理筋なのは承知の上で、あえて料理と断罪と悪役令嬢を混ぜ込んだら、どんな味になるのか試してみた短編です。


料理は人を生かすものですが、同時に“最も確実に内側へ届く手段”でもあります。

その二面性が、断罪構文と相性がいいのではないか、というのがこの作品の核でした。

裁く側が無自覚に振るっている暴力と、調理する側が淡々と素材を扱う手つきは、どこか似ている気がしています。


悪役令嬢ものでは、断罪は「見せ場」であり「終着点」であることが多いですが、

もしその直前に、彼女が“台所に立つ側”へ回ったらどうなるのか。

正義は本当に安全なものなのか。

そんな問いを、料理という日常の皮をかぶせて書いてみました。


無理やりな設定も多く、理屈はかなり暴れています。

でも、匂いと味と温度で押し切るホラーも、たまには悪くないかなと。


今後、料理本を読むときに、少しだけ黒胡椒の匂いが怖くなったら、

この短編の勝ちです。

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