-第八話:少年と対話-
私には、今まさに至急で解決すべき課題があった。
それは――言語の壁だ。
彼らと最低限の意思疎通すらできない状態では、誤解を解くことも、弁明することもできない。自分が敵ではないことすら証明できないのだ。このままでは、状況は悪化する一方だろう。幸い、この少年は会話ができる。少なくとも、日常的なやり取りを行うだけの言語能力は持っているようだった。ならば、彼との対話を通して、頻出する単語や基本的な文構造――せめてSVOの語順程度は、早急に把握しておく必要がある。
もちろん、彼自身とコミュニケーションを取りたいという純粋な欲求もある。孤立した状況で、同じ空間にいる唯一の話し相手だ。
だがそれと同時に、これは明確な生存戦略でもあった。
――少し打算的だが、背に腹は代えられない。
とりあえず、この部屋にあるものを片っ端から指差し、少年に名前を言ってもらうことにした。
扉、床、壁、屋根。
バケツ、水。
木材、木。
髪、目。赤、青。
口、耳、鼻。
白、肌。
手、指、腕、足、胸、腹、背中、肩。
とにかく、目に入るものは何でも聞いた。少年は少しも嫌がる様子を見せず、むしろ楽しそうに答えてくれる。発音も、身振りも、大げさなほど丁寧だ。
きっと、ずっと一人でここに閉じ込められていて、話し相手に飢えていたのだろう。そのことを思うと、胸の奥が少し痛んだ。
――言語。
単語を一つずつ覚えながら、私は頭の奥で、ずいぶん昔に聞かされた話を思い出していた。確か、富永が〇×大学の言語学部に進学して何年か経ったころだ。あいつは、得意げな顔で、ビール片手に延々と語っていた。
「言語ってさ、思ってるほど無秩序じゃないんだよ。分類できるんだ。いくつもな」
その時の私は、正直そこまで真剣には聞いていなかった。だが今になって、その断片がやけに鮮明に蘇ってくる。
富永はまず、言語には「系統」という考え方があると言っていた。歴史的にどこから生まれ、どう枝分かれしたか。英語やフランス語が親戚で、日本語はまた別の家系だとか、そんな話だ。ただ、同時にこうも言っていた。
「でもさ、全然似てない言語同士でも、構造は意外と似てたりするんだよ。そこが面白い」
構造。
私は、少年がこれまでに発した短い発話を思い返しながら、無意識に語の並びを追っていた。彼は必ず、誰かを指し示し、次に行為を表す音を置き、最後に対象を示す音を続ける。
――主語、動詞、目的語。
少なくとも、動詞が文の中央に置かれる型だ。英語型のSVOに近い。日本語のように、すべてを最後でまとめる構造ではない。
「語順ってな、世界的に見ると、SOVかSVOがほとんどなんだよ。変なのは逆に少数派」
富永はそんなことも言っていた気がする。ここまでの観察が正しければ、この言語もまた、多数派に属していることになる。偶然とは思えなかった。
それから富永は、やたら専門用語を並べていた。孤立語、膠着語、屈折語……当時は半分も理解していなかったが、今なら少し分かる。
少年の言葉は、単語一つ一つがはっきりしていて、語尾が大きく変化する様子はない。助詞のような機能語も、今のところ見当たらない。もしかすると、中国語に近い孤立語的な性格を持つのかもしれない。――もちろん、断定はできないが。
「言語ってさ、人間の脳で使われる以上、どうしても似てくるんだよ。チョムスキーの普遍文法ってやつ」
普遍文法。名前だけは覚えている。人間の脳が共通だから、名詞と動詞を区別し、否定や疑問といった枠組みを自然に作り出す――そんな話だった。
少年が「Wai」と発するとき、必ず水を指差す。明確な音と、明確な対象。名詞だ。
そして「inu」。口元に手を運び、飲む仕草をする。動詞だ。
少なくとも、この世界の人間――いや、人間に近い存在も、同じように世界を切り分けている。物と行為を分け、主体と対象を分けて認識している。
「結局さ、言語って効率の産物なんだよ。分かりやすくて、早くて、誤解しにくい形に収束してく」
その言葉が、妙に腑に落ちた。少年は、私が理解できないと察すると、必ず指差しや身振りを添える。音声情報だけでは不十分だと、本能的に理解しているのだろう。曖昧さは文脈で補い、重要な語ほど短く、はっきり発音する。
「だからさ、全然違う文明でも、ちゃんと人間なら、言語は理解できる。時間はかかるけどな」
――いかにも富永らしい言葉だった。
私は改めて少年を見る。彼は、私が覚えた単語を使うたびに、嬉しそうに頷いている。間違えても、決して笑わない。ただ、正しい音を、何度でも繰り返してくれる。
ここには、文字も、辞書も、文法書もない。だが、人間の脳と、人間同士のやり取りはある。
多様性と普遍性が共存する――
富永がどこかで引用していた言葉を、私はうろ覚えのまま思い出した。言語は違っても、理解し合おうとする構造そのものは、同じなのかもしれない。
そう思いながら、私は床を指差した。
「……これは?」
ラウウルは、ぱっと顔を輝かせて答えた。
「Papa。」
床。
私はその音を何度も頭の中で転がしながら、少しずつ、この世界の言語を身体に染み込ませていった。
それからも、私はありとあらゆる物を指差し、その名前を教えてもらい続けた。少年は時折、言葉を探すように首をかしげながらも、一生懸命に発音してくれる。最初は単語を一つずつ、私が復唱するだけの作業だった。だが、しばらくすると、少年の方からも変化が現れた。
彼は、私の手や顔をじっと観察したあと、今度は逆に指をさし、問いかけてくるようになったのだ。
「Wai kēia?」
――これは何?
「指。」
そう答えると、彼は目を輝かせて何度もその単語を繰り返す。そのたびに、嬉しそうに笑った。紅い瞳が柔らかく細まり、白い肌がほんのりと紅潮しているようにも見える。最初に感じていた、あの異質さや不気味さは、いつの間にか消えていた。今はただ、幼く、いじらしく、そして壊れやすい存在にしか見えない。
ひとしきり単語のやり取りをした後、私は彼の名前を尋ねてみることにした。
「ʻO wai kou inoa?」
――君の名前は?
そう言って自分を指差すと、少年は一瞬だけ戸惑ったような表情を浮かべた。視線を彷徨わせ、言うべきか迷っているようにも見える。
やがて、小さな声で、つぶやくように答えた。
「Rauuru.」
ラウウル。
響きとしてはポリネシア系文化圏にありそうな名前だが、正確な由来までは分からない。
「ラウウル。」
私が丁寧に繰り返すと、少年――ラウウルは、はっきりと嬉しそうに頷いた。そして今度は、小さな手で私を指差し、首をかしげる。
「ʻO wai ʻoe?」
――君は?
そうか。次は私の番だ。
「……Aoi。」
蒼。
私は、ゆっくりと、できるだけ明瞭に発音した。異なる文化圏の名前であることは承知している。それでも、ここで偽る理由はなかった。ラウウルは「アオイ……アオイ……」と何度も繰り返し、音の感触を確かめるように口にする。その姿が妙に愛らしくて、思わず口元が緩んだ。
「Aoi, inu wai!」
――蒼、水を飲もう!
そう言って、ラウウルは蔵の隅に置かれた、茶色く濁った川の水の入ったバケツへと近づいていった。
……あの水を飲むのか。正直、かなり気が進まない。腹を壊しそうだし、衛生的にも不安しかない。
ラウウルはバケツの前にしゃがみ込み、両手をお椀の形にして、静かに呟いた。
「Wai。」
――水よ。
次の瞬間だった。彼のお椀型にした掌の中に、まるで泉が湧くかのように、透明な水が溜まり始めた。
「……は?」
思考が、一瞬、完全に停止した。




