-第五十二話:死黒病-
「……シェル=ナウが死黒病に罹りました。」
ザリクの言葉が落ちると同時に、室内の空気が冷たく凍りついた。俺も、ラウウルも、ヘレスも言葉を失った。昨日まで案内してくれた、一緒に戦ってくれた、あの快活で落ち着いた青年が、死黒病に?
「発症は昨日の夜でした。右肩から黒い斑点が広がりはじめ、今朝には胸元まで届いています。瘴気を吸い込んだ痕跡がありました。おそらく、昨日の戦闘で…。」
ザリクの表情に怒りはなかった。ただ静かに、重い現実を受け入れているようだった。だが、だからこそ分かる。彼にとって、シェルは単なる案内人ではない。
昨日の戦闘では全員が瘴気に近づいた。確かに誰が感染してもおかしくはなかった。だが、短刀での近接戦闘を行なったシェルが一番病に罹る危険があった。
「現時点では“効果的な治療法”は存在しません。これまでに感染した者は、すべて……死んでいます。」
沈黙が広がる。ラウウルの拳がわずかに震えていた。ヘレスは静かに目を閉じて、深く息を吐いた。
この星の医学のレベルでは、まだ細菌やウイルスといった目に見えない微小な生物の概念すらない。彼らに効果的な治療法を求めるのは無理な要求だろう。
俺には地球での知識があるが、医学は全くの専門外だった。それでも、何かできることがあるかもしれない。
「シェル=ナウに会わせてくれないか?」俺はザリクに頼んだ。
「近づけばあなたも感染してしまうかもしれませんよ。」ザリクが忠告する。
「構わない。彼のおかげで俺たちは女王を倒せた。」
「分かりました。彼は別室に隔離してあります。発症からまだ十二時間。間に合う可能性は、あります。」
ザリクの手が、俺の肩にそっと置かれる。
「あなたなら、シェルを救えるかもしれません。」
俺はザリクに案内され、厚く封じられた隔離室の扉の前に立った。金属の扉の向こうからは、かすかなうめき声が漏れてくる。中で苦しんでいるのは、確かに――シェルだ。
扉が重く軋む音を立てて開き、俺は一歩、足を踏み入れた。室内には淡い光が灯され、簡素な寝台の上にシェルが横たわっている。額には玉のような汗、右肩から胸元にかけて黒い斑点が広がり、皮膚がまるで煤けたように変色していた。
「……蒼……?」
かすれた声が俺を呼ぶ。その声に、俺は強く胸を締め付けられた。
「来たよ、シェル。遅くなって、ごめん。」
彼はうっすらと笑みを浮かべようとしたが、それすらも痛みで歪んだ。「無理……しないで……俺は……もう……、」
「諦めるのは、まだ早い。」
俺はその言葉を振り払うように、彼の枕元に膝をついた。
脳内に情報を整理する。死黒病菌――未知の病原体。性質は分からないが、魔力を吸収し、拡散・感染する。感染源が細菌であること、そしてシェルの症状から察するに、細胞壁を持つグラム陽性菌に似た構造をしている可能性が高い。
ならば――。
俺は深呼吸し、額に汗をにじませながら魔力を集中する。猿人族は火魔法を使っていた。そして、ラウウルの話では彼の村の大人は火魔法を使うときに片手に死骸を持っていた。つまり、彼らは死骸からメタン分子を生成してそれを可燃していたということだろう。それが出来るなら…。
細胞壁を……構成する分子を……分解し、変換する。
対象はペプチドグリカン、あるいは類似構造。炭素、水素、酸素、窒素……構成元素は地球の細菌と似ているはずだ。俺はシェルの体内の死黒病菌に意識を集中し、その細胞壁の分子を――**メタン(CH₄)**へと転換するイメージを描く。
メタンは揮発性が高く、無害な気体。体内で生成されても、血流を通じて自然に体外へ放出されるはず。
“猿人族相伝火魔法 改”
「分子分解…。」
魔力が指先から淡く放たれる。空気がわずかに震え、シェルの体に、分子魔法の光が染み込むように吸い込まれていく。細胞壁の分子が変容する。脳内に浮かんだ分子構造式が、少しずつ、緩やかにメタンの単純な構造へと崩れていく――。
次の瞬間、シェルの体からふっと黒煙が抜けた。口から、鼻から、細い糸のように、澄んだ気体が立ち上る。それは瘴気ではなかった。魔力を帯びていない、ただの揮発気体。
「――っ……はぁ、はっ……」
シェルの呼吸が楽になっていくのが、目に見えて分かった。黒斑の広がりが止まり、肌の色が徐々に戻っていく。目に力が戻り、震える手が俺の腕を掴んだ。
「……これ、は……?」
「お前の体から、病原菌を追い出したんだ。分子を変えてな。……詳しい説明は後だ。」
ふ、とシェルが笑った。
「……やっぱり、すごい人だ。」
俺はその手を握り返した。
ドアの外で待っていたザリクとラウウル、ヘレスが、部屋に飛び込んできた。
「……信じられない。黒斑が、消えていく……!」
「彼は……生き残れるのか?」
俺はゆっくりとうなずいた。
「ああ。もう“死の宣告”じゃない。」
死黒病。その核心に、俺の知識と魔法で風穴を開けた。世界は、少しだけ、変わるかもしれない。




