-第四十話:翡翠の翼、風を裂いて-
滞在から数日が経ち、ヴァース・ノガ=カリユの暮らしにも少しずつ慣れ始めた頃、俺はとある高台で、見慣れぬ少女と出会った。
空を裂くように風が唸り、翡翠色の閃光が木々の間を縫って飛来する。翼だった。細長くしなやかな飛膜、そして尾の先に風を断つ弧を描く突起。竜人族の中でも“飛行種”と呼ばれる、希少な存在。
少女は高台の端に軽やかに着地した。エメラルド色の鱗が月の光に淡く反射し、金色の瞳が俺を一瞥する。
「……あんたが、“猿人”の蒼か。」
猿人語で話しかけてきたその声には棘があった。だが、それは拒絶ではなく、何かを試すような響きだった。
「そうだ。……そっちは?」
少女は翼を小さくたたみ、顎を引いた。
「ヘレス。まだ六十。飛べるのに、“地を這うだけの理屈”に縛られるのが嫌でね。」
彼女の言葉に、ジルたち“長命の者たち”とはまったく異なる鋭さを感じた。若い。だがその若さは、この閉じた世界では異端視されるものでもあるのだろう。
「霧の外、見たことある?」と俺が訊ねると、ヘレスは翼を広げて笑った。
「風の向こうには何があるのか、私の羽根はずっと訊いてくるんだ。だからさ、時々こっそり飛ぶの。“神殿の空域”に入るのは禁じられているけどね。」
「……ヘレスは、ここが好きじゃないのか?」
ヘレスはしばらく黙った後、風に揺れる草を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「好きとか嫌いじゃない。“ここ”は、死なないための場所。でも、生きているって感じるのは……飛んでいるときだけなんだ。」
俺はその言葉に、かつて自分が研究室での観察漬けの日々で感じていた息苦しさを思い出した。
「なあ、ヘレス。一緒に飛ばないか?」
ヘレスは目を細めた。
「ふん。人間のくせに飛ぶだと?」
「飛ぶことはできないけど魔法で空を駆けることはできるんだ。…少し、上から世界を見てみたいんだ。地上じゃ、見えないこともある。」
ヘレスはにやりと笑い、手を差し出した。
「じゃあ、しっかり掴れ。振り落とされても知らないから。」
俺はその手を取った。
次の瞬間、世界が跳ね上がった。
風を裂き、霧を突き抜け、俺たちは宙へと舞い上がった。樹冠を越え、霧の上、星々が散る夜空に浮かぶ。世界が丸く、そして小さく見えた。
「すげえ……!」
思わず声が漏れた。こんなにも高く、こんなにも自由な視点で景色を楽しむのは初めてだった。
「ほら、あれが“神殿の外郭”だよ。あそこには誰も近づかない。」
「ねえ、蒼。あんた、本当にこの星を救えると思っている?」
俺はしばらく沈黙した。
「わからない。……でも、救いたいって思っている。誰かが、そう願ったから。俺も、その声を聞いたから。」
ヘレスは小さく息をついた。
「なら……その時が来たら、あんたの翼になるよ。私は……あんたみたいな、風の匂いを知っている人間を嫌いじゃない。」
彼女の言葉に、胸の奥が熱くなった。
宙を舞いながら、俺たちは沈黙の中、ただ星の鼓動を聴いていた。
それは確かに、未来へと向かう音だった。




