-第三十七話:忘却の記録庫-
扉をくぐった瞬間、世界の輪郭が消えた。
そこには、常夜のような空間が広がっていた。天も地も判別できず、淡い青白い光が霧となって漂っている。光源は見当たらない。にもかかわらず、闇ではない。目を凝らすほどに、光は濃淡を持って揺らいでいた。
足元を見下ろすと、何もない。虚空が続いているはずだった。だが、恐る恐る踏み出した足は、確かに“地”を捉えた。
重力がある。感触もある。それなのに、身体はわずかに浮遊しているような感覚に包まれ、前へ前へと、抗いがたく導かれていく。
――これは、道なのか。
それとも、意思そのものか。
もはや、彼ら竜人族の魔法がどのような原理で成り立っているのか、私には理解できなかった。理解しようとする思考そのものが、ここでは的外れなのかもしれない。
「……ここが、“クルゥ・メ=ルナ”……?」
自分の声が、霧に溶けるように消えた、そのとき。
前方で、ゆらりと光が揺れた。
霧が収束し、やがて半径一メートルほどの鉄球が姿を現す。傷一つない、完全な球体。鈍く周囲の光を反射しながら、音もなく宙に浮かんでいた。金属でありながら、冷たさよりも、むしろ生き物めいた圧を感じる。
次の瞬間――
世界が、光に呑み込まれた。
**
――視界が開けたとき、私は古びた石畳の上に立っていた。
空を仰ぐ。
二つの太陽が、爛々と輝いている。
胸が、ざわりと波立った。
目の前には一本の大樹がそびえ立っている。幹は太く、枝は天を覆い、根は大地を抱くように広がっている。
見覚えが、あった。
――母なる巨木だ。
世界樹の幹を囲むように、木造の橋が幾重にも張り巡らされ、その途中途中に家屋らしき建造物が連なっている。人の営みが、樹と一体となって存在していた。
「……三百年前の世界か……!?」
思わず声が漏れる。
巨木の周囲には、猿人族が暮らしていた。笑い声。作業の掛け声。子どもたちが橋を駆け回る音。
――燃やされる前の世界。
穏やかで、疑いの余地なく“生きている”光景だった。
だが。
空が、裂けた。
唐突に、天が悲鳴を上げるように割れ、黒き炎が降り注ぐ。巨木が、轟音とともに焼き尽くされていく。
現れたのは、巨大な龍。
黒曜石のような鱗。灼熱の炎を纏い、その周囲には無数の“火の粉”が漂っている。見るだけで、理解してしまう。これは、抗えぬ存在だと。
「“炎の龍”……!」
呟いた瞬間、視界は引き裂かれるように切り替わった。
東の大地。病を振り撒くもの。
西の山脈。岩ごと溶かすもの。
北の海。波と命を蹂躙するもの。
四体の災獣。
世界は、同時に四方向から蝕まれていった。
そして――四つの世界樹が、次々と活動を止めていく。
――それでも。
災獣の直接被害を免れた土地では、人々は普段通りの生活を続けていた。
だが、一年ほどが過ぎた頃。
突如として、世界中の植物が枯れ始めた。
野生動物の大量死。
原因不明の病に倒れる人型種族――。
――そして、視界は変わる。
中央に映し出されたのは、竜人たちの会議。
張り詰めた空気。沈黙に重なる絶望。
「魔力が尽きれば、この星の生命は須らく死ぬ。世界樹の再生は、もはや叶わぬ。ならば……魔力の消費を止めるしかない。」
「そのためには、魔力消費量が多く、繁殖力の高い生物の数を、一定以下に抑えなければならない。」
「つまり……」
言葉の続きを、私は聞く前から理解してしまった。
卓の隅に、若き日のジル=エグニスがいた。
今よりも激情に満ち、仲間の死と世界の終焉を前に、逃げ場を失った眼差し。
私は、その場に膝をついた。
「……そんな……」
喉が、ひくりと鳴る。
「……それで……殺してきたのか……」
震える声で、なおも続ける。
「でも……それでも……永遠じゃない……魔力は……減り続ける……」
記録の最後。
黒い光に包まれた、一人の“紅瞳”の少女。
彼女から伸びた黒い光の柱が天を突き、空が裂ける。
『お願い……誰か、この星を……救って……』
その声は、祈りだったのか、呪いだったのか。
**
光が収束し、私は再び霧の中に立っていた。周囲の気配が変わり、鉄球が再び浮かび上がる。
「汝は、過去を知った。生き残るために行われた犠牲と、その代償を。」
突然、鉄球から声が発せられた。
一瞬、身体が強張る。だが、私は立ち上がり、拳を強く握りしめた。
「私は……探す。」
胸の奥から、言葉が湧き上がる。
「過去の犠牲の上に、同じ未来を繰り返さない道を。」
鉄球は、それ以上何も言わず、静かに消えた。
霧が、ゆっくりと晴れていく。
私は、神殿へと続く帰り道を歩き始めた。
――知ってしまった以上、戻ることはできない。
だが、知ったからこそ、進める場所がある。
その確信だけを胸に。




