-第三十六話: 甦る焰-
集落の中心に聳える巨木へと続く道は、濃い霧の流れの中に、かすかに浮かび上がっていた。
霧は一定ではなく、呼吸するように満ち引きを繰り返し、そのたびに道の輪郭が現れては消える。まるで、進む者を選別しているかのようだ。
道そのものが生きているかのように、わずかに脈動している。
一歩踏み出すたび、足元から青白い光が滲むように広がり、すぐに霧へと溶けていく。その光は暖かくも冷たくもなく、ただ“反応”として存在していた。
――歓迎されているのか。
それとも、観察されているだけなのか。
案内する竜人たちは、終始言葉を発さなかった。翼を畳み、足音さえ霧に吸い込ませながら、静かに先導している。その背中からは感情の揺らぎが一切感じられず、こちらの存在を物体のように扱っているかのようだった。
やがて辿り着いたのは、巨木の内部に設けられた神殿のような空間だった。
幹の内側をくり抜いたとは思えないほど、天井は高く、広い。
淡く輝く鉄の蔦が、天井から壁へとうねるように絡み合い、金属でありながら、植物のような柔らかさを持って空間を満たしている。光源は見当たらない。それでも、全体が仄かに照らされていた。
空間の中心には、鉄で組まれた壇があった。
その奥――
雷のごとき気配を纏う存在が、静かに立っていた。
近づくにつれ、皮膚がひりつくような感覚が強まる。ただそこに“在る”だけで、周囲の空気の性質を変えてしまう存在。
「ジル=エグニス……」
思わず、その名を口にしていた。
赤銅色の鱗に包まれた身体。鋭く天を指す双角。その姿は、威圧という言葉では足りないほどの威厳を放っている。黄金色の眼差しの奥には、燃えさしのような激情が潜み、だがそれを完全に制御しているのが分かる。
「……名を」
低く、短い声。
それだけで、神殿全体がわずかに震えたように錯覚した。
私は無意識に背筋を正し、呼吸を整えた。逃げ場はない。だが、怯えを見せるわけにもいかなかった。
「私は蒼。こっちはラウウル。旅の途中だった……ただ、それだけだ。」
言葉を選んだつもりはない。
だが、“それだけ”という一言に、自分自身への言い聞かせが混じっているのを、私は自覚していた。
ジル=エグニスはしばし沈黙した後、ゆっくりと視線をラウウルへ移す。
その瞬間、空気が一段、張り詰めた。
ラウウルの肩が、ほんのわずかに強張る。
「お前……“視える”のだろう。魔力が……。」
その言葉に、ラウウルは驚いたように目を見開き、息を呑む。隠してきたものを、一瞬で言い当てられた――そんな顔だった。
「……うん。昔から、見えていた。」
「ならば、なぜ気づかない?」
ジルの声が、わずかに低くなる。
「お前がその目で見てきたものこそ、災厄の記憶だと。」
「災厄……?」
ラウウルの声が、かすれる。
ジルの手が、ほんのわずかに動いた。それだけで、神殿の中央に置かれた石が淡く輝き始める。光は霧のように空中へ広がり、やがて像を結んだ。
――焼け落ちる森。
――逃げ惑い、悲鳴を上げる猿人たち。
――天を裂くように降り注ぐ火の粉。
“炎の龍”。
蒼の喉が、ひくりと鳴った。
あの日の熱、音、恐怖が、一瞬で蘇る。
「これは、お前たちが沈めた龍の記憶だ。」
ジルの声は淡々としている。
「奴は森も、民も、時さえも焼き尽くした。その災厄の源は……」
言葉が、そこで途切れた。ジルは一瞬、何かを測るような沈黙を置き、視線を伏せる。
「……源が、何だ……?」
思わず問い返していた。だが、その答えは返らない。
「いや。ここで話すべきことではない。」
その一言には、拒絶以上の重みがあった。
――知る資格。
――知る順序。
そういったものが、厳然と存在している。
「お前たちは、災獣の一つを沈め、巨木を再生させた。我々にはできなかったことだ。」
その言葉に、賞賛はない。ただ事実としての評価だけがあった。
ジル=エグニスは、私へと視線を向ける。
「青目。お前は未知なる魔法を使うらしいな。長き時を生きる我ら竜人族の叡智にも存在しない技だ。」
胸が、わずかにざわつく。評価されている――それは同時に、測られているということだ。
「お前の知が、何をもたらすのか。希望か、それとも――新たな災厄か。見極めねばならぬ。」
ジルが右手をかざすと、神殿の奥、これまで壁であった場所に、閉ざされた門が現れた。霧と鉄が絡み合ったような、不思議な扉。
「“クルゥ・メ=ルナ”。」
その名を告げる声は、どこか重い。
「三百年前の記憶が眠る場所。我らの真実と業を知りたければ、そこへ行け。我の口から語るより、良いだろう。」
私とラウウルは、思わず顔を見合わせた。退路はない。それは分かっている。それでも――
私は口元をわずかに引き締め、言った。
「わかった。行こう、ラウウル。」
「……うん。知るべきことなら、逃げないよ。」
だが、歩き出そうとしたラウウルを、ジルの声が引き止めた。
「赤目。今のお前には、記憶を見る権利はない。」
「どうして? 僕も蒼と一緒に戦ったんだ!」
食い下がるラウウルに、ジルは冷たい声で言い放つ。
「知るべきではないのだ。」
その言葉には、説明がなかった。だが、含みだけは、あまりにも濃かった。
――恐ろしい。
私は、そう感じていた。語られない理由こそが、最も危険なのだと。
それでも。
再び霧が漂う中、私は神殿を後にした。背後に残る視線と、語られなかった言葉を背負いながら、未知の扉へと歩き出す。
道しるべは、霞の中に。
真実は――記憶の、さらに奥底に沈んでいた。




