-第三十五話:霧の道しるべ-
淡い霧の中、どこか遠くで、水の滴る音がしていた。
一定の間隔で、ぽたり、ぽたりと落ちるその音が、やけに大きく感じられる。意識の底で、それが現実なのか夢なのか、判別がつかない。
目を開けると、視界は白く滲み、焦点が合わなかった。頭の奥が軋むように痛み、思考がうまく繋がらない。
「……ここは……?」
声を出したつもりだったが、かすれて、霧に溶けていくようだった。
蒼はゆっくりと上体を起こす。わずかな動きだけで、頭痛が鋭く脈打つ。反射的に歯を食いしばり、呼吸を整えた。
床に触れた手のひらが、ひやりと冷たい。
金属のようでありながら、石のようでもある。だが、そのどちらとも決定的に違う感触だった。滑らかで、継ぎ目がなく、緩やかな曲面を描いている。意図的に、完璧な形へと整えられた素材。
天井は半球状のドーム。
その縁から、微かな光が滲むように差し込んでいた。照らすというより、輪郭を示すためだけの光。影は柔らかく、だが逃げ場がない。
ここは洞窟のようでもあり、しかし自然物であるはずがなかった。岩を削ったのではない。組み上げたのでもない。まるで、金属そのものを“育てた”かのような、異様な精緻さがある。
「ラウウル……!」
胸の奥が冷たくなる。
蒼は慌てて周囲を見回した。視界の端、壁際に小さく丸まった影がある。近づくと、それが少年の姿だと分かった。服はところどころ焦げ、布が硬く焼き付いている。それでも――
「……呼吸してる……」
胸が、わずかに上下している。
生きている。その事実だけで、膝から力が抜けそうになった。
「よかった……生きている。」
安堵の息を吐いた、その直後だった。
ドームの一部が、音もなく、まるで霧が割れるように開いた。
金属の擦れる音も、気圧の変化もない。ただ、空間が“許可した”かのように、灰色の影が滑るように現れる。
「目覚めたか。生体反応は安定しているようだ。」
猿人族の言葉。
聞き慣れたはずの言語が、ここではひどく冷たく響いた。
姿を現したのは、一人の竜人だった。
背は高く、骨格は細いが無駄がない。鋭く角張った顔立ち、灰色がかった皮膚、そして――金色の瞳。翼は背に畳まれ、鉤爪のついた手のひらには、小さな鉄の球体が浮かんでいる。揺れもせず、回転もせず、完全に制御された鉄。
「……言葉が通じるのか。」
思わず漏れた言葉に、竜人は即答した。
「理解するだけだ。」
淡々とした声音。
そこには怒りも、敵意もない。だが同時に、情もない。ただ観察する者の目。蒼は反射的に身構えた。筋肉が強張る。逃げ道を探す思考が、遅れて立ち上がる。
「ここはどこだ?」
「霧の道しるべ。我らが一時の拠点。」
聞いたことのない地名。
“一時”。ラウウルの話では竜人族は数年に一度住処を移動する。ということは、”霧の道しるべ”とはキャラバンのような意味合いかもしれない。
「……なぜ、私たちを殺さなかった?」
雷撃。
あの威力を思い出す。あれは明らかに、制圧ではなく殲滅の力だったはずだ。
竜人は、わずかに沈黙した。
ほんの数秒。しかし、その間に、空気が張り詰める。
「お前たちには、聞きたいことがある。それだけだ。」
理由になっているようで、何も説明していない言葉。
「お前たちは、なぜ他種族を襲う? ラウウルの集落も……自分たち以外の種族を、皆殺すつもりなのか?」
その瞬間。
竜人の金色の瞳が、ほんの僅かに揺れた。
「……。」
答えは返らない。
竜人は踵を返し、音もなく去っていった。ドームの壁が再び閉じ、外界の気配が断たれる。
蒼は床に手をつき、大きく息を吐いた。
胸の奥がざわつく。理解できない。意図が見えない。
「……聞きたいこと、だって?」
あの雷は、殺意そのものだったはずだ。
それとも――殺さずに済ませるつもりだったのか?
そのとき、背後で微かな気配が動いた。
「……蒼……」
振り向くと、ラウウルがゆっくりと目を開けていた。意識はまだ朦朧としているが、確かにこちらを見ている。
「ラウウル!大丈夫か?」
「うん。ここ、どこ……?」
「竜人族の集落みたいだ。霧の道しるべっていうらしい。」
ラウウルは体を起こし、霧に包まれた内部を見回す。
「凄い霧だね……。」
「雷を浴びたはずなのに……本当に、大丈夫か?」
「……なんとか。」
その返事に、少しだけ肩の力が抜けた。だが、安堵は長く続かない。
ドームの外から、低い振動音が伝わってくる。再び、壁が開いた。
現れたのは二人の竜人。ひとりは先ほどの観察者。もうひとりは、若い竜人だった。金色の瞳が、真っ直ぐに蒼を射抜く。
「ジル=エグニス様が、お呼びだ。」
ラウウルの表情が強張る。
「あの竜人……さっきのやつだ。」
竜人たちは無言で道を示す。拒否という選択肢は、最初から存在しなかった。私とラウウルは導かれるまま、ドームを出る。
外に広がっていたのは、森と霧の中に浮かぶ、幻の都市だった。
地面は苔に覆われ、湿った霧が足元を流れている。木々の根元には、球状の巣殻のような建造物が並び、中央には巨大な空洞を抱えた巨木が、静かにそびえていた。
人工と自然の境界が、曖昧な場所。
「……これが、霧の道しるべ。」
ラウウルが、息を詰めるように呟いた。




