-第三十三話:再誕の風-
世界樹の再生によって、森は濃密な魔力に満たされていた。それは霧のように漂うものではなく、もっと静かで、もっと深い。空気の粒子一つひとつにまで魔力が染みわたり、触れれば指先にわずかな抵抗を感じるほどだった。ハナウアの空は、淡い光と、波紋のような揺らぎに満たされている。まるで空そのものが、水面になったかのようだ。
「……蒼、見えるよ。」
ラウウルが、断崖の上から広がる空を仰ぎながら、ぽつりと呟いた。その声は、風に溶けそうなほど静かだった。
「青と赤、それに……緑も。全部、世界樹から溢れている。空気が、呼吸しているみたいだ。」
私は、その空を見上げる。だが、やはり何も見えない。ただ、いつもより澄んだ青と、わずかにきらめく霞があるだけだ。
――見えない。
それでも、彼の声に宿る熱と、言葉の端に滲む驚きが、この世界が確かに変わったのだと教えてくれる。目に見えなくても、空気が違う。肺に吸い込むたび、胸の奥がわずかに軽くなる。循環が戻った――その感覚だけは、私にも分かった。
ハナウアの中心、広場では、街の人々が騒ぎを始めていた。ざわめきは不安ではない。期待と、戸惑いと、長い間押し殺してきた祈りが、一斉に顔を出した音だ。
長老を中心に、司祭たちが祭服に身を包み、滝のほとりに設えられた神殿跡で、静かに儀式の支度を進めている。水音に混じって、古い言葉が低く唱えられていた。
「三百年ぶりの“還り”だ。」
長老の低い声に、集った人々がひとり、またひとりと神妙に頷く。その頷きの重さは、三百年分の時間そのものだった。
聖域へ通じる道――かつて「炎の龍」が襲う前、猿人族が日々祈りを捧げていた、母なる巨木の根本への道。三百年もの間、封印され、忘れられ、恐れとともに閉ざされていたその場所が、今、再び開かれようとしていた。
「本当に……動き出したんだな。」
ラウウルと肩を並べ、高台に立つ。眼下には、濃い霧と雲海に沈んだ谷。そのさらに奥、巨木の根元から、目には見えないはずの魔力の波紋が立ちのぼっている――そんな気がした。舞い上がる光の粒たちが、確かにそこに“在る”と、空気が告げている。
この循環の再開は、派手な奇跡ではない。だが、静かに、確実に、世界の歯車を噛み合わせ直していた。
その夜、ハナウアは小さな祝祭に包まれた。
滝沿いの広場に火が灯り、太鼓の音が水音と混ざり合い、過ぎ去った時代への詩が、低く、穏やかに紡がれる。樹上の家々には、発光する苔と鉱石の光が揺れ、街全体が淡い幻想に包まれていた。歓声は控えめで、どこか祈りに近い静けさがあった。
焚き火を挟んで、ラウウルがぽつりと言った。
「……ミーネが“四つの災獣”って言っていたのを覚えている?」
私も、ゆっくりと頷く。
「あぁ。昨日、改めて聞いてみたけど、詳しいことは分からないみたいだった。ただ、災獣が四つ存在していて……“炎の龍”は、その一つに過ぎないのは確かなんじゃないかな。」
「やっぱり……あんなのが、まだいるんだ……。」
ラウウルの声は、焚き火の爆ぜる音に紛れて小さくなった。
――終わったんだ。
少なくとも、ひとつは。
私は、そう思おうとした。だが、その安堵は、あまりにも早かった。
「……蒼。」
ラウウルが、ふと自分の胸元に手をやった。指先が、額に垂れた前髪に触れる。その仕草に、胸の奥がわずかに冷える。
「もう、いいよね……?」
問いかけの意味を、私はすぐに理解してしまった。だが、止める言葉が出てこなかった。ここまで来て、まだ隠れ続ける理由があるのか――そんな迷いが、私の舌を縛った。
次の瞬間。
ラウウルの瞳を覆っていた水の膜が、ほどけるように消えた。偽装の魔法が解け、焚き火の光を映して――紅が、露わになる。
それは一瞬だった。
だが、その一瞬で、祝祭の空気は音を立てて崩れた。
「……あ……?」
誰かの、かすれた声。
ざわめきが、波のように広がっていく。
「紅い……」
「まさか……」
「そんな……」
ハナウアの人々が、一斉に距離を取った。さっきまで同じ火を囲んでいたはずなのに、その間に見えない溝が生まれていく。祝祭の熱は、急速に冷えていった。
評議会の長老たちが、前に出た。その表情には、恐れと――そして、怒りが混じっている。理解よりも先に、感情が立ち上がった顔だった。
「……この街を、去れ。」
低く、しかし荒い声。
命令というより、拒絶だった。
「世界樹の再生は確かに喜ばしい。だが……それとこれは別だ。」
ミーネが、思わず一歩踏み出す。
「待て。それは、あまりに――」
「そもそもだ!」
長老のひとりが、声を張り上げた。
「その紅目さえいなければ、こんな災いは起きなかったのだ!!」
空気が、凍りついた。
――ああ。
私は、その言葉の重さを、痛いほど理解してしまった。
過去。
恐怖。
理由を与えてしまえば、人はそこにすがる。誰かを選び、誰かを切り捨てることで、安心しようとする。
ティスが叫ぶ。
「ふざけるな! この二人がいなければ、世界樹は――!」
だが、議論はもはや理屈ではなかった。恐れは、責任を求め、そして――排除を選ぶ。
結局、その場はミーネの必死の仲裁で収まった。だが、結論は変わらなかった。
「明日、街を発て」
それが、ハナウアの答えだった。
翌朝。
霧の立ちこめる北門で、私たちは荷を背負っていた。追い立てられるような沈黙。だが、見送りに来た顔は、決して少なくなかった。視線を逸らす者、深く頭を下げる者、そのすべてが、言葉にできない何かを抱えている。
ミーネは、深く頭を下げた。
「……すまない。」
「そして、本当に……ありがとう。」
彼女は懐から、小さな包みを取り出す。中には、二つの首飾り。
ひとつは蒼。
ひとつは紅。
「“炎の龍”の素材を精製した宝石だ。お前たちが為したことを、私は……忘れない。」
首に下げられたとき、不思議と見た目以上の重さを感じた。それは、記念ではなく――託されたものだった。
「……ありがとう、ミーネ。」
風が吹く。
私たちは、風魔法に身を委ね、街を離れた。ラウウルの表情は、深く沈んでいた。
彼の拒絶された経験をまた一つ増やしてしまった。私は自分の無力さに苛まれていた。
そのとき。
「……ラウウル、あれ!」
振り返ると、ハナウアの上空に、無数の送り火が打ち上げられていた。昨日よりも、ずっと多く。静かで、祈るような炎が、空へ、空へと昇っていく。
――見送ってくれている。
声に出さずとも、それは伝わった。
そして、”母なる巨木”の方角から、一陣の追い風が吹いた。
拒絶と、感謝。
恐れと、祈り。
そのすべてを抱いたまま、私たちは前へ進む。




