-第三十二話:送り火-
私たちはハナウアに戻った。
夜の焚き火を前に、私とラウウルは肩を並べて腰を下ろしていた。火の粉が静かに宙を舞い、闇の中へと溶けていく。その向こうに、巨木――世界樹の黒い影が、夜空を背負ってそびえている。
負の魔素は、確かに私たちの手で取り除いた。けれど、それでも巨木は、まだ深い眠りの底にいる。枝葉が風にざわめくたび、その音は喜びというより、長い痛みに耐える生き物の寝息のように聞こえた。
――本当に、これで足りるのか。
私の胸の奥にも、同じ問いが沈んでいた。
「ねえ、蒼。」
焚き火を見つめたまま、ラウウルがぽつりと口を開く。
「これで……悪い魔素は、もう無くなったんだよね……? なのに、どうして……?」
不安を隠そうとしない瞳が、私を見上げる。
「ああ。」
私はゆっくりとうなずいた。
「詰まりは、もう無い。けど……枯れた世界樹が、元の力を取り戻すには、まだ“足りない”んだ。」
魔素の循環は、ようやく動き始めた。だがそれは、弱々しい脈拍のようなものだ。魔力合成は起きている。けれど、命を満たすほどには、まだ至っていない。
「じゃあ……何をすればいいの?」
「巨木の周りで、大量の魔力を消費して、魔素を生み出す必要がある。」
私は焚き火に視線を落としながら言葉を探す。
「それと……適切な量の光と、水だ。」
そのとき、背後で扉が軋む音がした。振り返ると、宿家にミーネが入ってくるところだった。私たちに気づくと、いつものように柔らかく微笑む。
「何か、困っている顔だな。」
「……ああ。」
私は正直に答えた。
「巨木は、まだ本当には目覚めていない。何か、一度に魔力を大量に消費する方法はないかと思って……。」
ミーネは顎に指を当て、しばし考え込んだ。焚き火の光が、彼女の瞳に揺れる。
やがて、ふっと目を細めた。
「――送り火、だな。」
「送り火……?」
「そう。」
彼女はどこか懐かしそうに言った。
「もともとは、死者を送るための儀式だが……今は、命を迎えるために使えばいい。」
「ハナウアの人々が一斉に魔法の火を灯し、空へ放つ。一時的だが、莫大な魔力を消費できるだろう。」
私は思わず息を呑んだ。 個人ではなく、街全体で魔力を循環させる――それは、この世界樹にとって最も自然な方法かもしれない。
「私から評議会に掛け合おう。」
ミーネは静かに、だが力強く言った。
「――巨木を蘇らせるために、今こそ、火を空へ送ろう、と。」
私たちは思わず顔を見合わせた。
「……お願いします!」
声が、同時に重なった。
――
二つの太陽が、ほぼ真上に来る頃。
空は雲ひとつない、澄み切った青に満ちていた。
ハナウアの猿人族たちが、静かに、しかし確かな意志をもって、巨木の根元へと集まっていく。
ティス、コル、レン――見知った顔も、見知らぬ顔も、それぞれの手に、小さな火球を抱えていた。
その火は、揺らめきながらも、恐れではなく祈りを宿している。
ミーネが、一歩前に進み出る。
「世界を巡る光よ……」
「古き命に、新たな巡りを。」
彼女の声に呼応するように、最初の火球が、空へと放たれた。
ぼうっ、と柔らかな音を立て、炎のかけらが天へ駆け昇る。
続いて、次々に。
青、緑、金、紅――
さまざまな色の光球が弧を描き、青空を染め上げていく。その光景は、まるで空そのものが祝福の火を灯したかのようだった。
「蒼!」
ラウウルが私の袖を引く。
「空気が……光で、満ちてる!」
彼の声は、喜びに弾んでいた。
新たに生まれた魔素が、目には見えない粒となって空気を満たし、世界樹の皮膚へと静かに、確かに吸い込まれていく。私は魔力合成に必要な水を、根元へと少しずつ注いでいった。川から皆で運んできた水を、水魔法で慎重に操る。
――与えすぎるな。
――足りなすぎても、いけない。
そのとき。
巨木が、微かに震えた。
大地の奥から、低い共鳴音が伝わってくる。まるで、長い眠りから目覚める前の、深い息のように。
そして――
枯れていた枝先から、
ぽつり、
ぽつりと、
柔らかな葉が芽吹き始めた。
葉は淡い青緑色に光り、陽を受けて透明に輝く。ひとつ芽吹けば、またひとつ。光は枝を伝い、幹を駆け下り、世界樹全体へと広がっていく。
幹の裂け目はふさがり、導管は満たされ、魔素が川のように流れ始める。
「……再生が、始まった。」
私は、ほとんど祈るように呟いた。
世界樹は、新しい魔素を吸い上げ、古い導管を満たし、失われていた命の循環を取り戻していく。風が枝を揺らすたび、葉は光を散らし、まるで星々が昼に降り注いでいるかのようだった。
ラウウルが、言葉もなく目を輝かせる。
「蒼……!」
「本当に……世界樹が……!」
「……ああ。」
私は静かに、しかし確かにうなずいた。
巨木はみるみるうちに再生し、青々とした――かつて語られていた、あの“世界を支える樹”の姿を取り戻していく。
それは、ただの再生ではない。
世界そのものが、もう一度、息をし始めた瞬間だった。




