「理想の后」を押し付けておいて自分から婚約破棄するなら、私も我慢してた事全部申し上げます。
「お嬢様、殿下がお呼びです」
緑のカーテンから差し込む朝日がまだ柔らかな時間帯。使用人のエリーヌが私の部屋へやってきて、そう告げた。
私は溜め息をつきながら、鏡の前で整えた髪型を指先で少し乱す。どうせ、また「きっちりまとめろ」とか言われるだけだろうけど。
「ありがとう、エリーヌ。すぐ行くわ」
そう返事をすると、私は無意識に背筋を伸ばした。――どうせまた、彼の理想を押し付けられるだけの退屈な時間だろう、と思いながら。
私の名前はリリア・ベルフォード。両親は子爵家を営む貴族だが、国全体の中ではそこまで高い身分というわけでもない。
それでも、なぜか私は王太子であるアルト・マグナス殿下と婚約している。もともと彼の理想とする“花のように美しく気高い女性”という肩書きを、私が条件的に満たしていた……だけの理由らしい。
そう、ほぼ“書類上”の婚約だった。それでも最初は胸が躍ったのだ。なにせ私は、かつて別の世界――いわゆる現代日本から転生してきた身。こっちの世界に来てから何年も経つが、王太子の婚約者なんて、ちょっと憧れるじゃない?
でも、付き合い始めてすぐに幻滅した。アルト殿下は、とにかく理想が高い。見た目から話し方まで細かく注文があって、まるで自分を飾る『人形』が欲しいみたいだったのだ。
「優雅に歩け、もっと上品に笑え、髪は金色が似合うから染めてみろ」
――いや、私、地毛は淡い栗色だし、染めろってどういう神経? この国では貴族が髪色を整えるのは珍しくないとはいえ、そこまで強要されるのは息が詰まる。
結果的に、私はアルト殿下に言われるがままの姿に“改造”されてきた。ドレスの色も行儀作法も、すべて殿下好み。
最初は“婚約者なんだから努力すべきなのかな”と思っていたけれど、実際はただのストレス。自由に服すら選べない生活なんて、好きになれるわけがない。
ましてや、殿下は自分が大好きなタイプ。どんな場所でも自分が一番目立っていないと納得しない。私のことなど、自慢話の“添え物”くらいにしか考えていないのが見え見えだった。
「リリア、早く来なさい!」
大広間の奥で待ち受けるアルト殿下は、銀髪で確かに見た目は華やか。だがすでに私の胸はときめかない。それどころか、その傲慢そうな顔を見ていると、ため息しか出てこない。
「お呼びとのことですので、参りました。殿下、いかがいたしましたか?」
私は軽く礼をしながら問う。するとアルト殿下の隣には、いつもの取り巻き……髪型やドレスなどを指導してくる殿下のお気に入りの侍女たちが数名並んでいる。皆、私を見てニヤニヤしているが、その目はどこか勝ち誇ったようだ。
「あ、あのな、リリア……大事な話があるのだ」
――大事な話? 何だろう。もうとっくに私はあの人に対する恋心なんて消え失せているから、ここで何を言われても全然気にならない。むしろ面倒が増えなきゃいいんだけど。
「あら、なんでしょう?」
「……こ、婚約を……破棄させてほしいんだ」
アルト殿下は少し居心地悪そうに目を逸らし、ポツリと言った。傍らの侍女たちが「そうですわ殿下!」「リリア様には分不相応」「やっと目が覚めたのね」などと口々に囁く。
私が心の中で(あ、ようやく言い出したか)と思ったのも束の間、アルト殿下は慌てて付け加える。
「い、いや、リリアを傷つけたいとかじゃなくて……本当に申し訳ないが、君にはついて来られない部分が多いというか……ぼ、僕も無理をさせたくないというか……」
申し訳なさそうに言うアルト殿下。しかし目が泳ぎまくりでまったく真剣さが伝わらない。そのうえ言い訳ばかりが先行しているあたり、いつもの“自分中心”っぷりがうかがえる。
「……ふふ。わかりました。婚約破棄、喜んでお受けしますわ」
私は、まるで肩の重荷が降りたかのように、素直に受け入れた。
「えっ……そんな、あっさり?」
まさか逆上されるとか泣きつかれると思っていたのか、アルト殿下は面食らった顔をしている。侍女たちの表情も、どこか拍子抜けしたようだった。
「だって、殿下が望むならそうするしかないでしょう? 私も……すでに殿下への想いはないですし、婚約なんて形ばかりのものでしたから」
「な、なに? 想いが……ない……?」
その言葉に、アルト殿下は驚いたように眉間を寄せた。私があまりにもあっさりと応じるものだから、思わず聞き返したのだろう。
「正直申し上げますと、私は殿下の理想の女性を演じることに疲れ果てておりました。いつも服装から髪型、話し方まで事細かに指示されて。私は私らしくいられないのですもの」
まわりの取り巻きたちが、何やらザワザワし始める。苦々しい顔をしている者もいるし、“そこまで言わなくても”という雰囲気を出している者も。
「お、おい、リリア。そんなことを公の場で言うのは……」
「殿下から婚約破棄を言い出したのですもの。私にだって言いたいことくらいあります」
私は首を傾げた。どうせ破棄になるなら、この際はっきりさせよう。貴族社会のメンツやら評判やら、面倒なものはあるだろうけれど、私だってこれまでずっと殿下に付き合わされてきたのだ。ここいらで言いたいことを言わせてほしい。
「そもそも殿下は、私を“自分の隣を彩るアクセサリー”くらいにしか思っていませんでしたよね? だからこそ、私の外見や態度を自分が好むように改変して満足していた。私には殿下を支える意欲も義務もありますけど、“自分らしさ”までも否定されるのはやっぱり辛かったんです」
周囲から「え……」「そこまで言うの?」と小声が飛ぶ。それを聞いてアルト殿下の表情はますます青ざめていく。
「ち、違う! 僕はリリアのことを想って……」
「いえ、殿下はいつだってご自分を優先していました。私がどんな思いをしていようと、おかまいなし。私がドレスの裾を踏んづけて転びそうになったときも見向きもしませんでしたし、御前試合で勝利したときも、私が必死に声援を送っていたのに一度も目を合わせてはくれませんでした。私をパーティで紹介するときだって、『これが我が婚約者。美しいだろう?』と品評会みたいに言うばかり」
私は次々に思い出されるエピソードを述べた。侍女たちの中には「そ、それはリリア様が美しかったから殿下が褒めただけ……」と苦しいフォローを入れる者もいたが、説得力は皆無。
「それに、殿下が気に入らないときには私を無視したり、髪色を変えろとか、もっと背筋を伸ばして歩けだとか、いろいろ言われました。私だって最初は努力しましたよ。でも、ずっと殿下が求める姿を演じるのは限界でした。婚約を破棄されても仕方ないほどの“できの悪い人形”だったのでしょう?」
わざと笑ってみせる。ああ、こんなに皮肉を口にする私も相当溜まっていたんだなと、自分でも驚く。
「ご、誤解だ! ぼ、僕はリリアに最高の舞台を用意したかっただけで……!」
殿下は必死に言い訳しつつ、どこかしどろもどろだ。そこへ、周りで見ていた貴族たちがヒソヒソ話を始める。
「最高の舞台、ですか?」
「そ、そうだ! リリアを立派な淑女に育てて、誰から見ても完璧な后にしたかったんだ!」
胸を張る殿下だが、その言葉はむしろ自分本位なプライドの表れにしか聞こえない。
「なるほど。では、私の意思や個性は蔑ろでいい、と。殿下の中にはもともと“リリア・ベルフォード”という人物はいなかったんですね。ただ、殿下の思い描く理想像だけを追いかけていたということ」
私がそう言うと、辺りがシンと静まりかえった。侍女たちさえ、言い返せなくなったのか口を閉ざしている。
「い、今だから正直に言うけど……僕だって、人に言われて気づいたんだ。リリアが、全然僕を見ていないことに」
「そうでしょうね。私の心はもうとっくに離れてました。愛されている感じもしませんでしたし、疲れ果てていましたから。殿下の目は常に“ご自分”しか見ていませんでしたもの」
殿下は唇を噛み、拳を握りしめる。取り巻きの侍女たちも肩をすくめ、明らかに立場が悪いと察したのだろう、こちらを睨んでくる。
「じゃあ……お、お前は俺に不満だらけだったから、婚約破棄をすんなり受け入れたというのか」
「はい。私からもずっと言いたかったんです。残念ながら、殿下のような方に仕えるのは光栄どころか拷問みたいでしたので。いえ、失礼ですね、でもそう思ってました」
その瞬間、アルト殿下の眉がピクリと動いた。いつもなら激怒して怒鳴り散らすところだろう。だけど、ここには他の貴族たちもいる。彼は一瞬、プライドからくる怒りを抑えられなかったようで、声を張り上げる。
「そこまで言うなら……お前が理想と違うのは確かだ! いつも俺の言うことにいちいち疑問を挟むし、笑い方だってもっと可憐にできるはずなのに大声で笑うし、素直になれないじゃないか!」
……おやおや。言いたい放題だ。すると私は少し笑ってしまった。
「あはは。すみませんね、素直じゃなくて。でも、もうこれからは遠慮しなくていいのかと思うと、なんだか清々してしまいます。だって私は、私の好きな服を着て、好きな髪型で、好きなように笑っていたいんですもの。殿下に合わせる必要なんて、もうありませんから」
私がそこまでキッパリ言い放つと、アルト殿下は言葉を失った。取り巻きの侍女たちが「失礼ですわよリリア様!」と声を張り上げるが、正直もうどうでもいい。
「……ここまで来ると、僕が悪いみたいじゃないか」
「ご自分の言動を振り返ってみてくださいな。少なくとも、私はずっと殿下の顔色をうかがいながら過ごしていました。それでも『婚約者だから仕方ない』と思って頑張っていたのです。けど、殿下はいつも自分が一番じゃないと気が済まない。私の気持ちなどまったく顧みず、“もっとこうしろ”“それじゃダメだ”ばかり。あるとき気づいたんです。あ、もう私、この人のこと好きじゃないや、って」
私は肩をすくめ、最後にきっぱりと言葉を放った。
「そもそも、殿下は私に隠れて別の令嬢と手をつないで歩いていましたよね? あれは何だったのでしょう?」
突然の暴露に、殿下がみるみる青ざめていく。取り巻きの侍女たちも「えっ……」と目を見開く。会場の貴族たちからは「なんということだ……」「それは本当なのか?」という声が上がる。
「あれは……こ、これには事情が……」
「私も目撃してしまって。もういいかな、って。それで、婚約破棄の決断を殿下のほうから言い出してくださるのを待っていました。――こういう話、表沙汰にするのは避けたかったんですけどね」
そこまで言うと、殿下はとうとう耐えかねたのか顔を伏せてしまった。
「……殿下? もう、よろしいですよね?」
私は彼の反応を待つことにした。ところが、殿下は顔を赤くして拳を震わせながら叫ぶ。
「じゃ、じゃあ俺を最初から好きでもなかったってことか? こんなに恥をかかせて……!」
――おや、だいぶ錯乱しているらしい。そこへ、周りの貴族や侍女たちがそっと目を逸らし始める。どうやら誰も殿下に加勢はしてくれそうにない。
「いえ、最初は淡い恋心があったんですよ。だって、王太子の婚約者になるなんて夢みたいだったし。けれど、殿下の態度や押し付けがどんどんエスカレートしていった。隣を歩くのも苦痛になるくらいに。そうして徐々に気持ちは冷めていきました」
殿下はしばらく黙っていたけれど、やがて悔しそうに唇を噛み、静かにうつむいたまま言う。
「……悪かった。俺は……俺の理想ばかりを押し付けて、お前の気持ちを考えもしなかった」
「ふふ。そう思われるなら、最初からもう少し配慮をしてくださっていたら……いや、結果的にこうなったからこそ、殿下もわかってくださったのかもしれませんね。申し訳ありません、私からも失礼な言葉が多かったと思います」
私もそこは素直に頭を下げる。もうこれで終わりだろうと思ったとき、アルト殿下は俯いたまま、誰にも聞こえないかと思うほどの小さな声で呟いた。
「……すまなかった、本当に。お前のことを、もっと大事にするべきだった。お前は……そんなに嫌な思いをしていたんだな」
なんと、殿下が謝罪してきた。これまで見たことのない素直な彼の姿に、周囲の貴族たちも少し驚いた様子だ。私は肩をすくめて、苦笑いを浮かべる。
「気づいてくださって、ありがとうございます。ですが、もう手遅れというもの。殿下が本当に変わる気があるなら、次に出会う方には、もう少し優しくしてあげてくださいね」
私は、そう言って最後の礼をした。取り巻きの侍女たちは憮然とした顔のままだが、周囲はすでに婚約破棄の雰囲気を受け入れている。
そう、“私たちはここで終わり”。そのことを、ようやく殿下も受け入れたらしい。
「……わかった。もうお前を縛る権利は俺にはない。リリア、すまなかったな」
殿下は小さく頭を下げる。そして面白くなさそうに一瞬だけ取り巻きの方を見たけれど、誰も擁護はしてくれない。ここに来てようやく、彼は周りから冷たい視線を浴びている自分の立場を理解したのだろう。
「こちらこそ、お世話になりました。では……私はこれで失礼させていただきます。婚約破棄の手続き等は、後ほど父とご相談ください」
私は軽く会釈して、赤い絨毯の大広間から出て行く。心配そうに私を見つめる数少ない知人の顔もあったが、その人たちは微笑んで頷いてくれた。
廊下を抜け、王城の玄関ホールに差しかかったところで、どこか力が抜ける。ふぅ、と大きく息を吐き、心の底から解放感に包まれていくのを感じた。
「リリア様、お疲れになったでしょう。今後はお屋敷に戻られますか?」
使用人のエリーヌが心配そうに声を掛けてくれる。私は「うん」と頷きながら、微笑み返した。
「いろいろ巻き込んじゃってごめんね、エリーヌ。これで晴れて自由の身よ。好きなときに好きな髪色にできるし、好きなドレスも着られる。私……長かったなぁ、本当に」
エリーヌはふっと微笑む。
「ですが、リリア様は頑張ってこられました。殿下も最後には少しだけ改心していたように見えましたし、きっとこれで良い方向に進みますよ」
「そうだといいんだけど……あはは。でも、もう私には関係ないもの。自由万歳って感じ」
私は笑みを浮かべながら、これまでの重圧を一気に振り払うように両腕を広げてみせた。エリーヌが「まあ!」と笑う。その様子がほほえましくて、私もつられて笑いがこみ上げる。
「ねえ、エリーヌ。今日はこのまま屋敷に戻るけど、明日は街にでも出ない? 今度こそ、私の好きなドレスを買いに行きたいの」
「もちろんです! どんなドレスを選ばれるんです?」
「うーん……殿下にドレスは淡い色じゃないと品がない、なんて言われ続けたから、思いっきり赤とか黒とか派手なのに挑戦してみたいな。あ、それと街のパン屋さんにも寄りたい! 殿下に『お菓子は太るからやめろ』って言われてあんまり食べられなかったのよね」
私が言うと、エリーヌは「そうでしたわね」と、苦笑いしながら相槌を打つ。
「ああ、思えば本当に息苦しいだけの婚約だったわ。恋愛って、もっと違うものだと思ってたのに……でも、これからは違うはず」
私は王城の正門をくぐり抜け、敷地の外に待機していた馬車へと向かう。空は青く、雲ひとつない快晴。なんだか足取りがやけに軽い。
「さあ、早く屋敷へ帰りましょう。いくらか荷物をまとめて、まずはゆったりと休むの。あ、でもその前にお茶でもして帰りたいかも……」
「ふふ、よろしいですね。では途中の町で少し寄り道をいたしましょう。おいしいケーキ屋さんを知っていますよ」
エリーヌに促され、私は笑顔で馬車に乗り込む。閉じた扉の向こうで、アルト殿下がどんな顔をしているのかはわからない。だけど、彼がもう少し自分以外の人を思いやるようになってくれるなら――それはそれで、救いになるかもしれない。
少なくとも、私にはもう何の関係もない話。私は次の人生へ向かって、自由に羽ばたけばいいだけなのだ。
「……ああ、なんてすがすがしい気分なんだろう」
馬車が動き出し、窓から外を眺める。晴れ渡る空の下で、私はようやく“自分らしく”笑うことができた。
そのころ、大広間に取り残されたアルト殿下は、呆然と立ち尽くしていたという。侍女たちに「殿下、もうお部屋にお戻りになって……」と声をかけられ、ようやく我に返ったとか。
「俺は……リリアに何をしてきたんだ……」
後悔を噛み締めながら、殿下はひっそり頭を下げたらしい。時すでに遅し、ではあるけれど。それでも、あの頑なな彼が謝罪したのだから、今後は多少ましな王太子になってくれるかもしれない。
ま、私としては彼の更生を願うよりも、まずは新しいドレスとお菓子の夢を膨らませるほうが大事。これからは、私が私らしく過ごせる世界を創っていくんだから。
そう、ここは異世界。私が転生してきた理由なんて神様しか知らないけれど、とにかくこれからが本当の人生の始まり――
そして何より、私の“次の恋”は、私をあるがままに受け止めてくれる人としたいものだ。アルト殿下という反面教師のおかげで、理想がはっきりしたしね。
「さあ、行きましょう、エリーヌ」
私が笑顔で言うと、エリーヌも嬉しそうに微笑んでくれた。馬車は陽の光を浴びて輝く石畳を走り出し、私の未来へ向けて軽やかに進んでいく。
私は馬車の中で、そっと窓越しに青い空を見上げた――まるで私の新たな一歩を祝福しているかのような、明るい光だった。
お読みいただきありがとうございました!
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