第73話:「裁きの夜」
残り2日の夜――
湿った空気が肌にまとわりつく。
気がつくと、宮河は足元にぬかるみが広がる、見知らぬ湿地帯に立っていた。
薄い霧が立ち込め、月明かりさえぼやけている。
「……夢、ってわけじゃなさそうね」
彼女がぼそりとつぶやいた、その瞬間。
ジャリ……ッ
草の間から、ゆっくりと現れた人影があった。黒ずくめの装束に身を包み、顔の下半分を隠す――忍者のような男。
「久しぶりだなぁ、宮河」
その声には、ねっとりとした嘲りと、どこか懐かしさが混じっていた。
宮河は眉ひとつ動かさず、冷たく言う。
「……何の用、九鬼」
「用? おまえ、“裏切った”だろ? 敵に情報を流したって話だ。今ここで粛清しろって、辰月様のお言葉でなぁ」
そう言って、九鬼半蔵はゆっくりと短刀を抜いた。
その動きはまるで音を吸い込むかのように静かで、獲物を仕留める蛇のように滑らかだった。
「でもなぁ……」
九鬼は目元を細め、にやりと笑う。
「今なら、まだ許してやれる。“戻る”って言えばな。俺が口利きしてやるよ。昔の仲間だろ?」
宮河はふうっとため息をついた。
「私が戻るわけないでしょ。こんな、くだらない組織に」
その目には怯えも迷いもない。
ただ、冷たく、真っ直ぐに九鬼を見据える。
「そうかい……」
九鬼は肩をすくめると、楽しげに呟いた。
「じゃあ、しょうがねぇなぁ」
シャッ――
九鬼の短刀が闇に鈍く光る。
その瞬間、宮河の足元の泥がわずかに跳ねた。緊張が一気に高まる。
宮河は即座に戦闘態勢に入る。
「……やるってのね。いいわ、相手になってあげ――」
スッ
背後。
その気配は、音も風もなく、忍び寄っていた。
「っ……!?」
触れられたのは、肩のすぐ上。
一瞬の感触。だが、すぐにそれが“ただの接触”ではないと、体が理解した。
「……はい、終わり」
女の声。
落ち着き払った、薄ら寒い声が耳元で囁く。
振り返るとそこには、赤髪の女――是津 志緒里が、笑みを浮かべて立っていた。
「やっぱり、隙だらけだね、宮河」
九鬼がククッと喉を鳴らして笑う。
「いやー、やっぱ二人がかりだと楽だなぁ。」
「……ッ……あ……が……」
宮河の身体が、ゆっくりと膝から崩れる。
視界が歪む。内側から焼けるような激痛。
目の奥が熱く、鼻腔に血の匂いが満ちる。
そして――
ブシュッ……!
口、鼻、目、耳……あらゆる穴という穴から、鮮血が噴き出した。
「……っ、うぁ……あ……」
力が入らない。体がいうことをきかない。
能力を発動しようとするが、それすらも制御できず、ただ倒れるしかなかった。
ドサリと音を立てて、ぬかるみの地面に横たわる宮河。
九鬼はつまらなそうに肩をすくめる。
「せっかくもう少し遊べるかと思ったけどな。ま、是津が触れちまったら終わりか」
是津は、指を振るように自分の手を見つめながら呟いた。
「触れたものの“中身”を少し動かすだけよ。肝臓、胃、腸……うん、ちょっとした『整理』ってところかしら。綺麗になったでしょ?」
その声には、慈悲も喜びもなかった。ただ“事実”を述べるだけの無感情な音。
だが、その直後だった。
クス……クスクス……
どこか離れた場所から、乾いた笑い声が聞こえてきた。




