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第60話:「影の帳」

その夜――。


館は静まり返っていた。

重厚な木造の廊下に、雨の音だけがかすかに響く。


葵生はベッドの上で目を閉じたまま、時間の流れを感じていた。やがて、深夜に差し掛かったことを確信すると、そっと体を起こす。


足音を立てぬよう、慎重に床へ足を下ろし、扉へと向かう。


(今なら、誰にも気づかれずに動ける…)


ドアノブを握り、音を殺すようにゆっくりと開ける。重みのある木製の扉は、きしみ一つ立てることなく静かに開いた。


――コツ、コツ。


細く長い廊下を、慎重に歩いていく。宿泊者の部屋が並ぶこの回廊には、薄暗い照明だけがぼんやりと灯っていた。


しかし、角を曲がったその瞬間。


「こんな夜遅くに、どちらへ?」


不意に声をかけられ、葵生は小さく肩を跳ねさせた。


そこには、淡く光るランプを手にした宮河が立っていた。

黒髪を背に流し、凛とした佇まいでこちらを見つめている。


「……すみません。ちょっと、トイレに」


葵生は間髪入れずに言った。できるだけ自然に、目をそらさず。


宮河は微笑を浮かべたまま、ゆっくりと頷いた。

「そうですか。では私はそろそろ寝させて頂きます、おやすみなさい。」


そして、そのまま(きびす)を返して去っていく。

(……信じてくれた、か?)


内心の警戒は消えなかったが、ここで引き返せば次は機会がないかもしれない。そう判断し、葵生はそのまま階下へ向かった。


薄暗い広間に戻り、昼間見つけたあの場所――床の切れ目の前にしゃがみこむ。

ポケットからピックツールを取り出し、鍵穴に差し込んだ。


(少し古いタイプ……いける)


カチ、カチ――小さな音を立てながら、ピンを一つずつ外していく。やがて、鍵が外れる音がした。


「……開いた」


慎重に取っ手を掴み、床を持ち上げる。木の軋む音が広間に響く。

そこには、下へと続く石造りの階段が伸びていた。湿った空気が、ゆっくりと地上へと這い上がってくる。


(これは、明らかに“何かを隠してる”構造だ……)


ランプを手に取り、葵生は迷いなく一歩、地下へと足を踏み入れた。


階段を数段下りると、急に視界が開けた。


石造りの空間に広がるのは、重く湿った空気。そして、ほのかに灯る蝋燭の光だけが、暗闇の中に赤茶けた影を落としていた。


壁際には、装飾とは思えない本物の武器――異国風の剣や槍がいくつも立てかけられている。

その鉄はどれも黒ずみ、いくつかは赤黒い染みが残っていた。


(……これは、ただの飾りじゃない)


血の匂いが、鼻をつく。まるで拷問部屋のようだった。


葵生はゆっくりと進みながら、奥の壁際に設けられた鉄格子に目を留めた。

古びた格子の向こうには――人影。


「……誰か、いるのか?」

声をかけると、返ってきたのは震えるような返答だった。


「だ、誰……? ここに来たのは……」

「助けに……来てくれたの……?」


鉄格子の中にいたのは、20代前半ほどの男女。

服は泥にまみれ、髪も乱れていた。明らかに長い間閉じ込められていたことがわかる。


葵生は身を低くし、ゆっくりと手を見せながら言葉をかけた。

「安心して。私はユスティティア・ルカヌス所属、第20班の柄本葵生です。君たちもそうですね?」


2人は驚いたように頷いた。


「ここの女にやられて……気づいたらここに……」

「もう、何日経ったかも分からなくて……」


「話は後で聞く。まずは、出してから...」


葵生は腰の道具を取り出し、鍵穴に素早くピックを差し込んだ。

焦る気持ちを抑えながら、手元に集中する。


――そのとき。


「や……やめて……!」


男の方が、顔を引きつらせながら、葵生の背後を指差す。


「う、後ろ……後ろに……!」


女も顔面蒼白で、言葉にならない声を漏らした。


葵生の手が止まる。

胸の鼓動が一瞬で速くなる。


(まさか……)


ゆっくりと、背後を振り返る――。


そして、蝋燭の明かりの中に、静かに佇む“何か”の影が浮かび上がった。

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