呪術
夜になった。
既に昼間のドレスから寝巻に着替えている。
今は日記を付けている所だ。
この国には「紙」という便利なものがある。
倭では、いや漢でさえも物を書くのは竹簡か木簡。稀に絹帛つまり絹の布を使う事もあるが、それぐらいだ。竹簡や木簡は重く嵩張り、絹帛は軽く薄いが貴重なので然う然う使えない。
一方、紙は絹帛のように薄く軽い。しなやかさでは絹帛に及ばないものの気軽に使える物らしい。容易に作れるのだろう。
今日何十枚もの白い紙を綴じた冊子を渡され、毎日の出来事を書き留めておくように言われた。
これも教育の一環らしい。
アリスは平民にしては良い育ちのようだ。
生家である商家は色々手広くやっているお陰でかなり余裕があるらしい。
その為アリスは力仕事や水仕事とも無縁。逆にそれなりの教育を受けており、この国の礼儀作法等もある程度は身に付けている。その知識には日中大分助けられた。
当然ながら読み書きも出来る。
しかしながら貴族としては至らぬところが多いらしく、日記を付けて毎日家庭教師に添削してもらう事になった。
日記は俺にとっても都合がいい。
俺が気にしているのは体をアリスに返した後の事だ。
この体はアリスの物だ。何時までも鬼である俺が使い続けるべきではない。だから出来る限り早く返したいのだが、その際、心配な点が一つある。
今アリスには俺が憑いている。見たり聞いたりは俺がしている。
であるならば俺が去った後のアリスは一体どうなるのか。
思い出すのは巫の神降ろしだ。
巫は神が降りて神憑りしている間の事を憶えていない。
もし今の状態が神憑りと同じたとしたら、俺が去った後にアリスは記憶がなくて困ったことになるだろう。
俺が憑いたままで行った学習はやり直しになるだろうし、今日受けた魔法の基礎、魔法の力の源である魔力を操作する訓練ですらどれだけアリス自身の血肉になったのか分からない。そもそもこんなに長期間神憑りしていた話は聞いた事がない。どうなるのか見当もつかない。
俺に出来るのは二つ。
一つは一刻も早くアリスに体を返しこの状態を終わらせる、その為の努力をすること。時間が経てば経つほどアリスの知らない出来事、やり直さなければならない訓練が増えてしまう。
もう一つは俺が去った後にアリスが困った羽目に陥らないように立ち回る事だ。
日記は彼女の役に立つだろう。思い出せずとも何があったかを知る手掛かりになるのだから。
俺が居るのはアリスに与えられた個室だ。
とても広い。庶民なら一家が暮らせるだけの広さがある。
但し一人でいる訳ではない。昼間はメイドが常時居るようだし夜になった今も次の間に人が控えている。
壁は石造り。それを色鮮やかな模様が織り込まれた壁掛けが覆っている。
ボーデ家は男爵という貴族としては下位の家柄だが石造りの館は広く大きい。しかも二階建てだ。生前父が建てさせた木造板葺きの家とは比べるべくもない。話に聞く漢の諸侯の館がこんな感じだろうか。
机を照らすのは火ではなく、魔力で白く光る魔導灯だ。
熱を発しない代わりに非常に明るく、夜だというのに読み書きには不自由しない。
筆記用具は毛筆ではなく大きな羽根を加工して作る羽根ペン。これは細い線を繋げて書くこちらの文字には合っている。しかしすぐにペン先が劣化するので頻繁に作り直す必要がある。その為ナイフが手放せない。
墨液の代わりにインク。少し青みがかった液が、最初から水に溶いた状態で小さな壺に入っている。一々墨を磨る必要がないのは楽でいい。
ペン先をインクに浸し、今日一日あった事を書き連ねていく。
美豆良の事、朝食での一幕、家庭教師の名前、魔力操作の訓練のやり方や、その他習った事……
アリスの記憶を頼りにこの国の言葉で書き連ねていく。上から下ではなく左から右へ。
アリスに説明するために、アリスに分かるように。
一通り書き終えて考える。
俺は何故こんな状態になってしまったのか。
実は心当たりがある。俺が死んだ日の事だ。
◆
奇襲だった。
敵が雪崩れ込んできたのは殯の為に建てた小屋。
倭風の葬儀なら大勢で飲み食いしていただろうが、父の遺言によりその場に居たのは俺と父の遺体のみ。
味方はいなかったが、そうかと言ってあっさり殺される訳にも行かない。俺には国王としての責務がある。国民やまだ年若い弟妹を守らねばならないのだ。
だから父の遺品である鉄刀を取り立ち向かった。
眼前の敵を排し小屋から出ると、そこに居たのは大勢の兵。そして、それに守られた伊都国の王と一人の幼い少女。
伊都国は小国だ。その人口はどれだけ多めに見積もっても奴国の半分にも満たない。実情は精々数分の一程度のはずだ。
本来ならその分だけ国力に差がある。戦争を仕掛ける事など普通は考えない。しかし……
少女は土の仮面をつけていたが、その目の穴の奥から凄まじいまでの怨念が伝わってきた。年齢に見合わぬ憤怒に満ちた声で「かあさまの仇!」と言っていた所をみると、追放された巫の誰かの娘だろう。
その少女が手にした木の枝を俺に向け何事か唱えた。
すると俺の手足が徐々に冷たく重くなり、同時に意識に靄がかかったようになってきたのだ。
呪いだ。
文身を嫌った父の方針で俺の体には一切の魔除けの紋が入っていなかった。入れられる巫がそもそも居なかったのだが。その所為であっさり呪いに屈してしまった。
それでも俺は力の続く限り戦い続けた。
集落から離れた場所だった為周囲には敵しかいない。朦朧とした意識の中、手当たり次第に剣を叩きつけつつ集落へと戻ろうとし、しかし果たせなかった。
◆
奴国からは呪術が無くなっていた。
若者に至っては、俺同様魔除けの紋すら入っていなかった。
戦える者の人数自体は奴国の方が遥かに上。
しかし呪術がその差を覆す。
しかも奴国の民は疲弊していた上、先頭に立つべき王は代替わり直後。しかもその王たる俺が真っ先に斃されてしまったのだ。
そもそも父の病死さえ呪いの所為だったのかもしれない。もしそうなら向こうは事前に確りと準備していた事だろう。
だから奴国は碌な抵抗も出来ずにやられてしまった公算が大きい。
心残りなのは民たち、それに近くの集落にいた弟妹たちだ。酷い目に遭っていないといいが。
一先ずそのことは置いておく。
俺はあの少女に呪いをかけられた。直接の仇は父の筈だが、何故か俺も復讐の対象だったようだ。
幼い見た目から考えるに追放された時には物心ついていないかお腹の中だっただろうから、聞いた話で復讐相手を選んだ筈だ。もしかしたら伊都国王辺りに何か吹き込まれていたのかも知れないな。
真実は不明だが彼女は強い復讐心に駆られていたように見えた。それ故この呪いも通り一遍の物ではないのだろう。
それが鬼となった今も俺を現世に縛り付け、黄泉国で安らぐのを許さないのだろう。
アリスに憑いてしまったのはきっと不幸な偶然だ。
恐らくアリスには巫としての高い素質があるのだ。そして昨日はアリスが初めてこの家に入った日。実の親から離された寂しさと新しい生活への不安から、知らず知らずのうちに助けを求め、神降ろしを行ってしまったのだろう。
全く訓練されていない、巫の素質だけで偶発的に行われた神降ろしだ。たまたま俺を引き寄せ、運悪くそのまま深く憑かれてしまったという訳だろう。
であるならば憑依を終わらせるために出来る事は一つ。
俺自身をアリスから去らしめるのだ。アリスの力で。
きっとアリスには出来る。その素質はある筈だ。
残念ながら俺は正式な方法は良く知らない。
神上げの儀式を見たのはごく幼い頃に一度きり。詳細は全く記憶していない。
しかし魔除けの紋ならよく覚えている。年長者は全員体に入れていたので、見る機会には事欠かなかったからだ。
もし魔除けの紋が俺自身を魔として祓うのならそれが一番だ。俺は解放され体をアリスに返せるだろう。そうでなくても紋によって俺に掛けられている呪いが解ければ、俺はそのまま黄泉国へと旅立てるかもしれない。恐らくは呪いが俺を現世に縛り付けているのだから。
だから魔除けの紋を入れてみよう。
本来魔除けの紋は文身なのだがマーゴット王国の貴族の子女としてそれは禁忌らしい。だから洗い落とせるもので体に描く事にする。
記憶を辿ると、幼子などに仮に紋を描く際は巫が赤土に自らの血を混ぜて使っていたように思う。
室内に赤土は無いし、庭に出ても見付かるかどうか分からない。取り敢えず血だけでやってみよう。
紋にも色々あるが、一先ず最も基本的な魔除け、護身の紋の中でも一番基本的なものを描いてみよう。
それは普通胸の中央に入れる。
上半身裸になる。
鏡に映っているのは華奢な少女。もうすぐ十三歳とは思えない程幼い見た目だ。俺の二番目の妹、こちらの数え方では九歳か十歳かだが、それと大して変わらない、
指を噛んで血を出し、鏡を見ながら胸に紋を描いていく。
網目模様に三角と丸を組み合わせた簡単な図柄だ。それほど難しくない。
書き終えたとたんそこに何かの力が宿ったのが分かった。
生前はなかった感覚。俺が鬼だから感じ取れるのか、それともアリスの素質が為せる業だろうか。
しかし、その力でも俺がアリスの体から離れることはなかった。
これでは足りないようだ。
でも諦めるにはまだ早い。紋には確かに力が宿ったのだ。
そして魔除けにも、基本の紋の他にも病魔に対するものや水魔に対するものなど様々な種類がある。
それを加えていけば力が強まり、やがて効果を発揮するだろう。どんどん足していこう。
それから時間をかけて、思い出せる限りの護身の紋を腹や腕に描いていく。鰐除けの紋のような、関係なさそうな物まで含め全部を描いていく。
強い力が生まれるのが分かる。
しかし俺はアリスに憑いたまま、離れられる気配は無かった。
何度も確認したが文様に間違いは無さそうだ。背中には描けなかったが問題はないはず。種類も「除ける」若しくは「祓う」紋だけだ。「福を招く」のような何かを呼び寄せるものは念のため避けた。
だというのに、未だにアリスに体を返すことが出来ていない。
起きているのが問題か? 眠れば効果が表れるだろうか。
俺は血が乾くのを待って寝巻を着なおし、アリスへの伝言として枕元に日記を置いて寝ることにした。
◆
結局翌朝も、それどころか幾晩経っても俺は「アリス」のままだった。
魔除けの紋は早々にマーサに見つかってしまった。
この国には沐浴の習慣がない。「タケル」としては気持ち悪くて不満なのだが上流階級だろうと体を洗わない。代わりに濡れタオルで拭く。魔法を使える者は魔法で汚れを落とすらしい。
俺はまだその魔法を修めていないのでタオルで拭くのだが、貴族なので自分ではしない。拭くのもマーサの仕事だ。そういう訳であっさりと見付かってしまい、かなり驚かしてしまった。
「以前小耳に挟んだ遠い国のお呪い」と納得はしてくれたのだが、血を使うことは絶対にいけないと止められてしまった。
養父に話が行くと話が大きくなるし禁じられてしまうかもしれない。交渉の結果、化粧用の赤い顔料で外から見えない位置、つまり肌着の下に描く分には見逃してもらえることになった。
そうやって描いた紋でも一応の力は持っているので体を拭いてもらった後は常に書き直すようにしている。いつの日にか効果を発揮するのを期待しての事だ。
家庭教師も読むから日記には書いていないが俺が帰った後は不要になるから問題ないだろう。
十日が過ぎ、ここでの生活にも大分慣れて来た。
家族にはあまり会わない。
アリスが蔑ろにされている訳ではない。貴族の習慣で、全員が顔を合わせるのは食事の時位なのだそうだ。
食事は基本的に焼いた獣肉と、クタクタになるまで茹でた野菜か酢漬けの野菜。それに麦の粉を練って膨らませて焼いたパンという物がつく。
肉と野菜は平皿に盛られている。皿は表面が滑らかで純白。粘土を焼いた物らしいが茶色くざらついた倭の土器とは明らかに別物だ。
先端が四つ又の小さな銀製の道具、フォークという物を左手に持ち、塊のまま供された肉を刺して押さえる。それを右手に持ったこちらも銀製の小刀で一口大に切る。そしてそれをフォークで口に運ぶ。
食事の作法はアリスが正しく習得していたようだ。記憶に従って振舞っていれば問題なかった。生前努力して習得した箸の出番が全くないのが少し残念だがやむを得まい。
味に関して言うと、「アリス」の感覚ではどれも上質な物のようだ。
しかし「タケル」の感覚では不味くはない、と言った所だ。最初は興味深く味わったが、毎日ほぼ同じなので飽きてくる。
野菜だけは変わるのだが、茹で過ぎて味が抜け切っているか酢と塩の味しかしない保存食かのどちらかなので嬉しくはない。アリスの知識によれば当たり前の調理法なのだが、こんなにしないと食べられない野菜ばかりなのだろうか。あく抜きしただけで食べた山菜の味が恋しい。
恋しいと言えば生前慣れ親しんだ魚介類、それと米だ。何しろここでは一切出て来ない。米に至ってはアリスの語彙の中にすら無い。
しかしここで「蛤が欲しい」とか「炊いた米が食べたい」というような「タケル」の希望を出すと――こちらでの名前が分からないから伝える事自体が困難だが――後で「アリス」が困るだろうから、満足している振りをする。
残念ながら食事の作法以外に関しては「アリス」はまだまだのようだ。
貴族の礼儀作法は庶民のものとはまた異なるようで、家庭教師に一から学んでいる。
その他歴史や地理、国の仕組みや領地経営、貴族同士の関係や諸外国との関係など学ぶべきことは多い。
学んだことは全て「アリス」に分かるように日記に詳細に記しているが、どんどんとその分量が増えていく。
なるべく早く憑依を解かないとその分だけ「アリス」に負担がかかってしまう。急がねばならない。
その為に魔法を必死に学習している。
魔法の訓練、今行っているのは基礎中の基礎である魔力操作の訓練だが、それは「タケル」が幼い頃垣間見た巫の修行と相通じる物があるように感じるのだ。
それに毎晩自分の体に描いている魔除けの文様も、魔力を込めながら書くことで宿る力が強くなる事が分かった。憑依が解ける気配は全くないのだが、呪いにも魔力が関係しているのは明らかだ。
恐らく魔法と呪いはどちらも魔力を扱う技術。ならば魔法の中に呪いを解く手掛かりがあっても不思議はない。
思い出せる限りの呪いを思い出しつつ、魔法を学ぶ。それが今為すべき事だ。
幸いアリスの魔力量は桁外れに多いらしい。
普通は魔力切れで長時間の訓練など不可能らしいのだが、アリスは一日中続けても問題ない。それほどの魔力量がある。
魔力の性質も良いらしく魔法の習得は早いでしょうと言われている。
時間の都合で一日中訓練とはいかないのが残念だが、少しでも暇があれば屋敷にある関連の蔵書を読ませてもらっている。
服については下半身のスカートはともかく上半身が窮屈で仕方がない。
寝巻はさすがに楽だが、昼間のドレスはどれもこれも体を締め付ける上に腕の上げ下げがしにくい。
しかも一人では着ることも脱ぐこともできない作りなのだ。アリスの記憶ではもっと楽なものだった様なので、これは貴族の服の問題なのだろう。男性の上半身はもっと動きやすそうなので貴族女性の服の問題と言うことかもしれない。肌ざわりが良いのだけが救いだ。
直ぐに去る予定の俺と違ってアリスは一生こういう服と付き合っていかなければならないのかと思うと可哀想になってくる。
でもアリスの感覚ではどれもとても綺麗な服なので本人は満足するかもしれない。
そう思うと苦情は言えない。
尚、この国の貴族は全員戦士であるというのが建前なので男女とも剣術を習う。
その時は男女とも同じ動きやすい服装になるのだが、個人的にはこれが一番楽だ。一日中着ていたいのだが残念ながらアリスの美意識にはそぐわないようなので我慢する。
◆
ある時アリスの個人用の印章を作ることになり、意匠について希望を聞かれた。
少し迷ったが奴国が賜った金印の文面「漢委奴国王」にしてもった。
少しは「タケル」が居た証を残してもいいと思ったのだ。
実物の金印に使われている字は漢より前、秦の時代に制定された複雑な篆書なのだが、残念ながら俺はその字体はあやふやだ。漢から持ち帰った文献は全て今文、つまり漢が制定した簡易な隷書で書かれていたから覚える必要が無かったし、実際読み書きの訓練も隷書でしか行わなかったからだ。
それに実は俺は金印の実物を数えるほどしか見たことがない。金印は滅多に使用しないので、普段はとある場所に隠してあったのだ。場所を知っていたのは祖父と父と俺だけ。全員死んだのだから、今でも隠されたままだろう。
それはともかく、文面は知っていても同じ字体で書ける自身が無い。そこで、代わりに自信のある隷書で書いた。
出来上がった意匠は、アリスの感覚ではとても異国風で面白い物のようだ。
養父は少し首を傾げながらも他と重複がないからと希望通りの印章を作ってくれた。
【メモ】
紙: 後漢の蔡倫が製紙法を確立し紙を皇帝に献上したのは西暦105年。主人公は生前にそれを知ることはなかった。
伊都国: 奴国の西にあった国。福岡県糸島市あたりにあったとされる。「魏志倭人伝」(主人公の時代より百年以上後についての記述)によると伊都国の戸数は千戸あまり。奴国は二万戸あまりだから記述が正しければ人口に大分差があったはず。尚「魏略」という同じ時代について書かれた本には何故か倭の中で伊都国の人口だけが記されていて、それには一万戸あまりとある。ちなみに邪馬台国は魏志倭人伝によると七万戸あまり。
篆書: 象形文字っぽい見た目の古い漢字。狭義には秦の李斯が制定した「小篆」を指す。現代でも印章等に使われたりする。
隷書: 現代の漢字に近い文字。