憑依
明けましておめでとうございます。
ゴンッ!!
地面に頭を打ち付けたお陰で一気に覚醒した。
全力で飛び起きる。
まだ殺される訳にはいかない。
最前まで感じていた手足の冷たさも吹き飛び、意識にかかっていた靄も晴れた。
理由は分からないがこれでまだ戦える。体が動く限り足搔き続けてやる。
……おかしい。
周囲が真っ暗だ。
目がおかしくなったのか?
物音一つしない。俺の国に攻め込んできた奴等はどうなった? 俺を囲んでいた敵兵は何処へ行った?
背後から冷たい風が吹きつける。
振り向くと、闇が四角く切り取られ星空が見えていた。
夜なのだ。そしてここは建物の中。真昼の広場にいたはずなのに。
持っていたはずの鉄刀も無い。
鉾で突かれた左の脇腹に手をやる。
全く痛みがない。いくら探っても傷口がない。
手に触れるのはさらさらと妙に手触りのいい布地だけ。いつの間にか服が変わっている。
む? 何だ、この手は。
血と泥に塗れていたはずの両手。しかし今は何の穢れも無く星明りに白く浮かぶ。
俺の手はもっとゴツゴツしているはず。しかしこの手は細く滑らかで、日焼けしてもいない。まるで働くことを知らない手だ。
子どもの頃に見た巫の手がこんな感じだったか。
その時、背後で木の軋む音が聞こえた。
「誰だ!」
言いながら俺の声が妙に可愛らしいのに驚く。
振り返ると俺より大柄な女が入って来るところだった。
馴染みのない服装。手には見たこともない明かりを発する道具。
「お嬢様、マーサでございます。如何されたのですか? 酷く大きな音がしましたが」
聞いたこともない言葉だったが何故か意味は解った。
◆
朝起きて鏡を見る。
俺の家にも漢から下賜されたという丸い銅鏡があったが、これも似たような形の銅鏡だ。
周囲にあるのは幕を巡らした寝台や厚手の布を敷いた床等、俺にとっては馴染みのない物ばかり。その中に見知った物があると少し安心する。
鏡に映っているのは可愛らしい少女。俺が顔を顰めれば鏡の中の少女も同じことをする。
俺はこの少女に取り憑いてしまったのだ。
昨日の晩に憑依して、今もそのままだ。一晩寝れば憑依が解けるかも知れないと期待したが、そうはならなかった。
ここは俺のいるべき場所ではない。
立ち去りたいのだが、どうやれば憑依が解けるのか見当もつかない。
俺の名はタケル。
倭にある奴国の王だった。といっても嗣いで三日目に死んだようだ。その間に為した事と言えば僅かに父の葬儀の準備だけだった。
祖父が王だった時代、奴国は強国だったそうだ。
俺が生まれる前の話だが、海の向こうの大帝国、漢に遥々使者と貢物を送り、王の証として紫色の組紐がついた金印を賜ったりもした。
その際、使者は精巧な文様の入った鏡や剣、絹、そして時間の許す限り書写したという論語等の書物も断片的ながら持ち帰った。
奴国の民は最先端の文物に触れた。
触れてしまった。
恐らくそこで道を間違えてしまったのだろう、祖父は生前そう述懐していた。そして王位を嗣いだ父が国を過つのではないかと危惧していた。
果してその虞は祖父の死後現実となり、父の施策は国力を損ない続けた。そして俺の代になって奴国は隣国に攻められる羽目に陥ってしまった。
俺はやはり戦いの中で殺されたのだろう。
思い返せば脇腹をあんなに深く抉られていたのだ。助かるはずがない。
それにもう一晩経ったのだ、戦い自体も決着がついてしまっているだろう。
縦んば戦いがまだ続いていたとしても、黄泉道を辿るべき死者たる俺に出来る事は無い。
無いのだが、顛末だけは知りたい。
皆無事だといいのだが。
それを知るには黄泉国で、俺より後に死んだ者達に尋ねる他ないだろう。その際には、真っ先に斃され王としての役目を全うできなかった事を幾重にも詫びなければなるまい。
それもこれも、ここに囚われたままでは叶わないが。
俺は鏡の中の少女を見つめた。
華奢な少女だ。名をアリスと言う。
俺は鬼となって、この何処とも知れぬ異国に住むこの少女に憑いてしまった。
しかも単に憑いただけではないのかもしれない。
何しろ「アリス」の記憶を自分の事のように思い出せるのだ。
昨晩も入ってきた女、マーサの顔を見て直ぐに「アリス」付きの侍女だと思い出せたし、知らぬはずのこの国の言葉で淀みなく会話することができた。
もちろんアリスの記憶だけではない。「タケル」の十六歳までの記憶も間違いなく残っている。
憑依についての深い知識など持ち合わせてはいないが、獣に憑かれた者は家族の顔さえ分からなくなると聞いている。人でも同じだとすれば、今起こっているのは単なる憑依ではないだろう。
それに銅鏡には破魔の力があるはずだが、目の前のそれが俺に影響を与えている感覚もないし「タケル」を映し出す事もない。
そこから考えると、今起こっているのは神降ろしのような物なのかも知れない。
神降ろしは幼い頃に一度見たきり、記憶が曖昧なので同じかどうかの確信は持てないが。
昨晩の事は特に問題にはならなかった。
アリスは昨日この家、ボーデ家に養女として引き取られたばかりだったのだ。
緊張が昂じて悪い夢でも見たのでしょう、という事になった。
たまたま時期が良かったようだ。幸運だった。
しかし今後も幸運を当てにするのは良くない。
俺はいずれ黄泉国へと旅立つ。しかし何時になるのかは分からないし、その間はアリスとして振る舞う必要がある。
おかしな事をしでかして後に残るアリスが困るようなことは避けたい。
その為には、今の内にこの地の事、何よりアリス事をしっかり「思い出して」おく必要があるだろう。
改めて鏡を覗き込む。
アリスは幼く見えるがもうすぐ十三歳だ……“もうすぐ”十三歳?
“もうすぐ”というアリスの感覚に少し引っ掛かりを覚えたがすぐに理由が分かった。倭とは年齢の数え方が違うのだ。
全員が元日に一歳増やす倭とは異なり、この地ではそれぞれの誕生日に歳を加えるのだ。だからアリスのように年が改まって暫くしてから十三歳になるという事も起こる。
しかも出生時に一歳と数えるのではなくその一年後、最初の誕生日に一歳になるようだ。それまでは零歳。そんな知識もすんなりと出て来る。
するとこの地の数え方では俺はまだ十四、五歳か。年齢一つ取っても細かな点で差異があるな。気をつけないと。
アリスは商家の生まれ、市井の育ちだ。
一方アリスを養女にしたボーデ家は貴族、つまり王家に服しながら代々領地を引き継いでいく家柄だ。
倭の小国にも匹敵するだろう広い領地を持ち多くの領民を治めていて、市井で暮らしていたアリスの感覚では土地の支配者だ。尤も貴族内での序列は最下位、五段階中の五番目だそうだが。
この位階、漢で言うとどうなるかと考えたが国の有り様が違い過ぎて丁度当てはまるものが無さそうだ。大昔、周の時代の諸侯の爵制が同じ五段階だったと言うからそちらに近いかもしれない。それに当てはめると男爵か。
考えが逸れた。
貴族であるボーデ家が商家の娘アリスを養女にしたのは何故か。
記憶によれば血縁があるわけではない。“魔法の才”を見込んで事らしい。
魔法とは何か。
常ならぬ出来事を引き起こす業だ。
そこまでなら倭の呪いと同じ。しかし魔法は五感ではっきり効果が分かるようなもの――例えば光を出すとか熱を加えるとか――が多いようだ。
魔を退けたり神に呼びかけたり心に働きかけたりといった倭の呪いとはそこが異なる。
しかも呪いとは異なり女人でなくても使えるらしい。役に立つかどうかを度外視するなら訓練すれば誰でも使える。
尤もその威力は魔法の練度と、何より才の如何によって大きく左右されるそうだが。
例えば光を出す魔法なら、才ある者ならある程度の訓練で昼間と見紛うような光を出せるようになるが、人によっては星の煌めき程度を出す為に気の遠くなるほどの訓練を積む必要がある、という具合だ。
アリスは全く訓練していないからまだ魔法は使えないのだが、直ぐに学ばせてもらえる事になっている。
責務を果たせなかった元王としては不謹慎だが、かなり興味がある。もし黄泉国に下る前にその一端にでも触れる機会があったら嬉しい。
さて、何故魔法の才で養子に求められるのかというと、この国の社会が関係している。
この国でも家は血筋で継いでいく。しかし貴族の間では血統と同程度に魔法を使う能力、魔法力と呼ばれるものも重んじられている。
跡継ぎも通常は長男なのだが、魔法力如何によってはその弟や姉妹が選ばれる事もある。
更に言えば、突出した魔法力さえあれば相当格上の相手との婚姻もあり得るらしい。
何故か。
魔法力を高めるには魔法の才が必須。そして才は血によって継がれていく事が多い。しかし代を重ねる毎に弱くなってしまう場合もある。
そういう場合、貴族は結婚相手の条件として第一に魔法力を求めるのだそうだ。子孫に強い才を残す為に。
魔法の才だけでなく魔法力まで求められるのは、それがきちんとした教育を受けた証左とされているからの様だ。
しかし如何に魔法力が高かろうとも結婚相手が平民、特に商人の家系だと差し障りがある。
漢では商人は賤民扱いとの話だからそれよりはましだが、この国でも商業は賎業であり卑しいもの、それに携わる者もまた卑しいとされている。
結婚相手の一族は親族になる訳で、その所為で貴族が商家の者と結婚するのは憚られるのだ。
そしてアリスの生家が正に商家。
そこでボーデ家が一旦アリスを養子にし、そこから嫁に出すことでそれを避けようという訳だ。
しかし、アリスの嫁入り先が既に決まっているかと言えば、そうではない。
アリスの魔法の才は尋常一様のものではないらしい。それこそ国一番の魔法使いでさえ羨むような、鍛えていけば男爵家から王家に嫁入りする事さえも夢ではない程の類稀なる才だと聞かされている。実際、同等の才を探すなら伝説の建国王にまで遡らねばならないそうだ。
その才を偶々見出したのがボーデ家。奇貨居くべしと即座にアリスを養女に迎えた。将来的に有力な家との縁を結んでくれるのを期待しての事だ。一先ず貴族としての教育を施す必要があるので、嫁ぎ先探しはまだまだ先らしい。
その様な事情なら養家はアリスを家の娘としてきちんと遇するだろう。アリスにとっては安心できる事実だ。
しかし、当のアリスはこの養子縁組を如何捉えているのだろう。
記憶を呼び起こすと、真っ先に出て来たのは心細さだ。家族や友人と引き離され一人で連れて来られたのだから無理もない。
また「領主様の命なので仕方ない」と諦めに似た気持ちがある一方、別れの際に生母から送られた「努力次第でいくらでも輝かしい未来を掴み取れる」という言葉を胸に、必死に前向きになろうともしていた。
そんな彼女の人生を、死者たる俺の所為で行き止まりにしていいはずがない。
彼女の今後を考えると、出来るだけ早く体を返すべきだろう。
【メモ】
奴国: 弥生時代にあった国。場所は現在の福岡県内とされる。奴国が漢(後漢)に使者を送り金印紫綬をもらったのは西暦57年。但しその際、鏡や論語を含め他の物を持ち帰ったという記録も遺物もない。ちなみに卑弥呼が「親魏倭王」の金印その他いろいろを魏からもらったのはずっと後の238年若しくは239年。
漢: 主人公タケルの時代の中国の王朝。国号は単に「漢」だが後世では後漢(または東漢)と呼ばれている。
国の有り様が違い過ぎて: 漢代の爵制は二十等爵と言い、上級の官僚に高い爵が与えられると同時に庶民でも良民の男子ならある程度までの爵が与えられた。なお商人は賤民扱いだったので爵は与えられなかった。
鏡: 古代では特別な意味を持っていたらしい。伊都国(奴国の隣国)の女王の墓とされる弥生時代の遺跡(平原遺跡1号墓 200年頃?)からは、大小の割れた鏡が大量に出土している。