水の低きに就くが如し
西を目指せば帝都につくらしい。
むかしの地理で言えば、スマイル・タウンは東京だか山梨だかに位置する。例の「おいでやす帝国」の首都は、おそらく京都。かなり遠い。
誰かが自動車を発明してくれれば、歩いて移動する必要もないのだが。
凡人である俺は、千年生きても、自動車さえ発明できないのだ。きっとあと千年あってもムリだ。
いや、自分で作らずとも、才能のある人材に任せればいいのは分かる。
実際、腕のいい鍛冶屋はいた。しかし職人気質だけあって、こちらがうるさく言うとすぐにヘソを曲げてしまう。「そんなトンチキなモン作れねぇよ」となる。
俺の説明がマズかったのかもしれないが。
彼にとっては見たこともない、バカげたしろものだ。自動で走る車を作れなんて言われて、簡単に作れるなら誰だって苦労はしない。
「もー! 疲れた! 休む!」
茨が地べたに座り込んだ。
まったくなにもない平原のドまんなかだというのに。
青空の頂点には太陽がひとつ。
初夏だとは思うが、風は涼しかった。
キュウ坊はジト目になった。
「こんなところで座る?」
「座るの! 疲れたから!」
茨はてこでも動かないといった様子。
この疲れやすい女性は、いったいどこから、どうやってスマイル・タウンまで来たのだろうか。本当に兄とやらは京都にいるのか?
俺はしかし彼女を責めなかった。
歩けば疲れるのは事実だ。
「少し休憩しよう」
俺はそう提案した。
誰かに狙われている気配はない。
その代わり、食えそうな動物さえ見当たらないが。
ともあれ俺たちしかいないのだから、座ろうが横になろうが自由ということだ。
「キュウ坊、君は目がよかったよな? この先に街はあるか?」
「えっ? でもなんか、いろいろ邪魔で見えないよ」
キュウ坊は荷物をおろし、ぴょんぴょん跳ねながらそんなことを言う。
背が低いのが災いしたか。
俺は身をかがめた。
「肩車してやる」
「村長さん、ボクのことバカにしてる?」
「そうじゃない。お前の目だけが頼りなんだ。協力してくれ」
「うん……」
日本は山がちだが、かつて整備された道は完全にムダになったわけではない。
大きな道に沿っている限り、意外と前方の視界は確保できた。
キュウ坊がまたがってきたので、俺は力を込めて背を伸ばした。
じつに軽い。
「わあ、高い」
「なにか見えるか?」
「うーん」
身を乗り出して重心が前に移動したので、俺は背筋に力を込める。
神の眷属がぎっくり腰になるわけにはいかない。
「あー、たぶん街だよ! 煙が見えるもん」
「ああ、見えるな」
「え、見えるの? 肩車の意味ないじゃん!」
「そう言うなよ」
よくよく目をこらすと、うっすら煙の立ち上っているのが見えた。
これなら肩車の必要はなかったな。
「あ、待って。もう少し見たい」
「俺は無料の展望台じゃないぞ」
「お金とるの?」
「有料の展望台でもない」
「もうちょっとだけ」
「……」
人のジャケットは返さないし、気を抜くとワガママを言ってくる。
だが、子犬みたいで本当にかわいい。
小さいころ、野良犬に優しくしたら、家の近くまでついてきたことがあった。
あのときは中途半端な優しさで接してしまったために、飼えもしないのに、犬に妙な期待をさせてしまった。
きっと捨て犬だったのだろう。
あのときの犬の寂しそうな姿を、いまでもときおり思い出す。
「村長さん、もういいよ」
「ああ」
床におろすと、キュウ坊はぐっと背伸びした。
「うーん、楽しかったぁ」
「よかったな」
「うん。村長さん、大好き」
「……」
あのときの野良犬の姿と重なってしまう。
俺は人を助けるような器じゃないが、もう二度と裏切りたくないという気持ちがある。
*
街は活気があった。
「ああ、旅の人かい? 全員の名前と、どういう理由で、どこから来たのかだけ教えてくれ。いや、形式的なものだから、そう警戒しなくていい。偽名でも構わないよ。ただ、この名前で呼び出すこともあるから、ちゃんと分かる名前でね」
門番はじつに気さくだった。
行商人などと積極的に受け入れているらしい。
ま、街に入ったところで、金なんて持ってないし、交換できるようなモノもないのだが。
そもそも、なにが貨幣として機能しているのかさえ把握していない。
まさか日本円ってことはないと思うが。
偽名は使わなかった。
まあキュウ坊は偽名かもしれないが。柴三郎、キュウ太、茨で記帳した。どうせ確認しようがないんだから、偽名でよかったかもしれないが。
「なあ、茨さんよ、金ってのはどんなのが流通してるんだ?」
歩きながら尋ねると、茨はやれやれと肩をすくめ、ふところの巾着袋から小銭を見せてくれた。
「こういうのだよ」
銀色の、四角い小さな金属板。
江戸時代の一分銀みたいだ。
「そういや、無一文って言ってなかったか?」
「あのときは信用してなかったから」
なら、いまは金を見せられるくらいには信用してるってことか。
ありがたい話だ。
「なあ、悪いんだけど、あとで返すから、キュウ坊になにかおやつでも買ってやってくれないか?」
「遠慮しないでぜんぶ持ってったら? たいした額じゃないし」
「俺は別に……んんっ!?」
カッコつけてるところなんだが、見てはいけないものが視界に入ってしまった。
いや見間違いであって欲しかったが。
ビールだ!
ビールが、屋台で売られている!
ドンと樽が置かれ、親父が柄杓ですくって提供している!
クソが……。
俺だってビールの醸造には何度もチャレンジした。
だがことごとく失敗し、しまいには村人から「麦がもったいないからやめて欲しい」と怒られる始末。
車は作れない、ビールも作れない、村もまともに運営できない……。
バカみたいな衝撃波がなかったら、俺という人間の存在価値はいったいどれほどなのだろうか。
「え、なに? 泣いてんの?」
「泣いてない」
「いいよ。なにも聞かない。お金、持ってっていいからさ。キュウちゃんにおやつ買ってあげなよ」
「悪いな、恩に着る……」
だが、おやつの前にビールだ。
ここで飲まないと、この先いつ飲めるか分からない。
震えるぜ。
千年ぶりのビールだ。
*
気が付くと、すべての金がビールに消えていた。
「クソ、日の高いうちから飲むビールは最高だ……」
まだ飲み足りない気もするが、腹がガボガボにあるほど飲んだ。
いまはベンチで横になっている。
あちこち見て回っていたキュウ坊が、血相変えて近づいてきた。
「どうしたの村長さん? 体調悪いの?」
「いや、そういうわけじゃない。ただ、ちょっとビールを飲み過ぎてな……」
「えっ?」
「あ、ええと……」
「ビール? お金はどうしたの?」
「……」
茨から借りて、それをすべて使ってしまった。
その事実を、素直に伝えるべきだろうか。
いや、なんでもかんでも話せばいいというものではない。ときにはウソが必要なときもある。
「ちょっとおしっこしてくる」
「うん……」
なにかいいアイデアが浮かぶといいのだが。
どこかに都合よく金でも落ちてないかな。
*
トイレから戻ると、ベンチには茨もいた。
「あのさぁ、あたしが渡したお金、まさか全部ビールに消えたわけじゃないよね?」
「はぁ?」
なんだこいつ、証拠もナシにいきなり決めつけて。
確かに事実ではあるけど。
「キュウちゃんにおやつ買うんじゃなかったの?」
「か、買おうと思ったよ? 思ったけど……その前になくなっちゃったから」
「なくなっちゃった? なにその言い方。まるで勝手に消えたみたいな……」
勝手に消えたのだ。
そう断言しても過言ではあるまい。
茨は大袈裟に天を仰いだ。
「人には薬やるなって言っておいて、自分はアルコールに全額つぎ込んで」
「いや、違うだろ。これは薬物じゃなくて……食事! そう、食事だ! グルメ旅!」
「頭おかしくなる以外になにかメリットあるわけ?」
「た、楽しくなるだろ……」
「ふぅん……」
いや待て。
違法行為でもないのに、なぜ俺はこんなに責められている?
他人の金を全部ビールにつぎ込んだからか?
まあそれは怒るだろうけど……。
キュウ坊は「いいよ」とこちらを見つめてきた。
「村長さん、ずっと頑張ってたもんね。村長さんがいいならいいんだ。だってボク、なにも恩返しできてないし。だから茨さんも、村長さんを責めないで? ね?」
しかし涙目だ。
近くを通りがかったカップルが「うわぁ、子供泣かしてんぞ」「やば」などと言いながら通り過ぎていった。
これじゃまるで、アルコール依存症のダメ男が、娘を泣かせてるみたいじゃないか。
「いや、あの、あと少し金に余裕があれば、おやつも買えたんだ」
すると茨が溜め息をついた。
「ごめんね、あたしの稼ぎが悪いばっかりにさ」
「いやいや、そういう意味じゃ……」
全人類の視線が痛い。
だが待て。
本当に俺だけが悪いのか?
水みたいに薄いビールをなんべんも売りつけてきた店の親父にも責任があるのでは?
あれがもっとちゃんとしたビールなら、二杯くらいで満足できたかもしれないのに。そしたらおやつも買えた。
世界は未熟だ。
神による大破壊から、まだ回復しきれていない。
人々の意識も、秩序も、文明も、まだまだ発展途上なのだ。
「悪かった。ふたりとも、俺が悪かった」
俺がそう告げると、ふたりはまっすぐにこちらを見つめてきた。
真剣な話だ。
ちゃんと聞いて欲しい。
「俺はたしかに、神に選ばれた人間だ。それは否定しようがない。もっと真剣に、この世界を修正すべきだったのだ。それなのに……。俺はただ漫然と、千年という時間を浪費してしまった。己の怠惰が憎いよ。素直に認める。これは、俺自身が招いたことだ。ふたりとも、すまない」
すると茨が「え、なんなの?」と顔をしかめ、キュウ坊も「お水持ってこようか?」などと心配そうな顔をしている。
いや、いい。
理解は難しいだろう。
なぜなら彼女たちは、あの光景を見ていないのだ。
そう。
あのまばゆい塔の頂上の……。
いや、それは関係ないか。
じゃあ擬人化した狐が……。
あ、これはダメなやつだ。
えーと、そもそもなんの話だったっけ……。
(続く)