夢
夢を見た。
千年前、塔へ連れてこられたときの夢――。
かつての俺は、特に言うこともない人生を送っていた。
誰でも行けるような学校を出て、相応の会社に就職しただけ。
成果もなく、誇れるものもなく、ただ一日をこなす。給料は渋く、車や時計を買う余裕さえなかった。アパートに帰ってコンビニ弁当を食う。自由時間は目的もなくネット。しかしネットを眺めても、楽しいことより、イライラすることのほうが多かった。
そこでは常に、誰かが、誰かにマウントしていた。俺も巻き込まれてマウントされた。
俺にはなにもなかった。女にもモテなかった。友達は数名いたはずだが、長いこと会えていなかった。社会に対する希望も持てなかった。
なのに、まわりの人間たちは、少なくとも俺よりは楽しそうに見えた。
わけが分からなかった。
ただまっとうに生きていただけなのに、どこで選択肢を間違えたのだろうか。いや、間違えてさえいないのに、こんなことになったのか。
メシは食えている。だから贅沢を言うなと言われる。努力が足りないと言われる。たぶん誰かに言われたか、ネットの書き込みを見たのだと思う。不満さえ言いづらかった。
俺はこのまま歳をとり、最後は一人で死ぬんじゃないだろうかと、漠然とした不安を抱き始めた。
なにかで一発逆転したかった。
なにか……なんでもいいから、とにかく、なにかが起きて……。俺は人から一目置かれる人間になりたかった。
ふと気がついたとき、俺は檻の中にいた。
長方形をした鋼鉄の檻。
洗面台、トイレ、ベッド、そしてテーブルがあるだけ。
どこかで誰かが怒鳴っていた。
あるいはすすり泣いていた。
檻に閉じ込められた人間が、俺以外にもいっぱいいた。
金属の軋む音。
水道管を水が流れる音。
途中の記憶はなかった。
だが、きっと自分はなにかよからぬことをやらかして、警察に逮捕されたのだと思った。というより、それ以外に解釈のしようがなかった。
女がやってきた。
髪をまとめた白衣の女だ。冷たい目をしていた。
「二〇三号。あなたには今日からここで暮らしてもらいます。さあ、食事です。残さないように」
格子窓の下の細長いスロットから、パンとスープの乗せられたトレイが差し込まれた。
残すもなにも、ほとんど量がなかった。
女は檻から檻へ移動しながら、みんなに食事を与えているようだった。
鋼鉄の床を踏む足音が遠ざかる。
ボソボソと会話の声。
「キャハハ」
そこが警察の施設でないことはすぐに分かった。
なぜなら少女が、楽しそうに通路を駆け回っていたからだ。
見開いたまるい目で檻の中を覗き込んでは、一人で笑いながらダッシュする。たまに戻ってきてまた檻を覗き込む。
まるで動物園を楽しむ子供のようだった。
警察ではなく、マッドサイエンティストかカルト教団につかまったのだと思った。
あとで分かったことだが、彼女は狐だった。神に能力を与えられ、人の姿となった眷属。名は玉藻という。知能はあまり高くなく、理性よりも本能が優先される。
白衣の女が世話をしていたはずなのだが、基本的に放し飼いになっていた。
施設の中央は吹き抜けになっており、檻は壁側に並べられていた。対面は暗くて見えない。上や下からも声がした。ビルのような構造だと思った。
「神などいない!」
「うるさい!」
「やめて……」
「誰か助けて!」
意味不明な言葉を叫ぶもの、口論するもの、泣くもの、救いを求めるもの……。いろいろな人間がいて、いろいろなことを喋っていた。
たまに白衣の女が、檻から人を連れ出すことがあった。
しばらくすると戻ってくる。
ごくまれに戻ってこないこともある。
「あんなの神じゃない! 悪魔だ!」
そんなことを叫ぶものもいた。
ある日、白衣の女が食事のついでに手紙をよこしてきた。
手紙というより、小さな紙切れだったが。
冷淡そうな女ではあったが、顔立ちは嫌いじゃなかった。だから俺は、わずかな期待とともに手紙をひらいた。
そこにはこう殴り書きされていた。
下等生物
主語も述語もなく、ただ名詞が記述されているだけ。
だからこれは、脱出の手がかりとなる暗号かもしれない。などとポジティブにとらえようとしたが……。いや、まあ、普通に考えて、俺はバカにされたのだ。
この白衣の女は……いまいちよく分からない存在だった。
眷属と人間の中間のようなポジションとでもいうのか。
いちおう不老不死ではあったが、特別な能力は有しておらず、神の指示で塔の世話をしていた。会議に出たこともない。
人間たちに対して、たまに小さな意地悪をしていたようだ。
玉藻が通路を駆けまわっていたので、俺はその手紙をくれてやった。
彼女は意味が分かっているのかいないのか、けたけた笑いながらどこかへ行った。
しばらくしたある日、食事の時間でもないのに白衣の女が来た。
「二〇三号、出なさい。主が面会するそうです」
ついに来た。
主とかいうサイコ野郎に、苦情を言える唯一の機会だ。
工場にあるような、鉄骨だけのエレベーターに乗った。
二人きり。
会話もない。
ただゴウンゴウンと機械の立てる音を聞きながら、上昇するリフトに身をゆだねた。
やがて光が見えた。
特別な光じゃない。ありふれた太陽の光だ。いや、かつてはありふれていたが、しばらくの間まったく触れることのできなかったもの。
最上階から見えたのは、この世のものとは思えないほどの絶景だった。
輝くような白い空。
そして一面の森。
優しい風。
ただそれだけなのに、世界の広さと美しさをを存分に体感できた。
もちろんテレビなどで見てなんとなく分かってはいたのだが、上空からの景色はなぜかいつでも素晴らしく見えたものだ。
人間が映っていないおかげかもしれないが……。
玉座には表情のない少年。
彼の背後には、神の眷属が並んでいた。
当時は眷属だと分からなかったが。古代ギリシャみたいな格好をしていたから、なんらかの宗教団体には見えた。
「こちらへ」
まだ目が慣れていないのに、白衣の女はそう促した。
サディストとしか思えない。
そこは円形のフロア。
錆びた鋼鉄の塔の頂上。
壁はエレベーター側にしかなく、残りは吹きさらしになっていた。
庭園のつもりなのか、わずかな壁からは水が湧き出し、細い水の道をつくり、惜しげもなく下界へと流れ出していた。
植物のツタが一面を這い回っており、おかげで古代遺跡のような雰囲気があった。
「今日はいったいなんの集まりで?」
俺は精一杯強がって尋ねた。
頭のおかしなカルトにしか見えなかったが、それだけに、抵抗するだけムダだということも理解できた。こんな大掛かりなものを作るのだから、きっとただものではない。
少年は無表情のまま、かすかに目を細めた。
「力を授与する」
どことなく硬質な声。
周囲からはどよめきが起きた。
白衣の女は、その場にひざまずいた。
「お話しは、なさらないのですか?」
「うん。彼の場合、きっとそのほうがいい」
力を授与――。
てっきり銃かミサイルでもくれるのかと思った。
あるいはカルトらしく体をサバいて、意味不明な石でも埋め込むつもりなのかと……。
白衣の女がこちらを見た。
「二〇三号、前へ」
「気が進まないな」
「これは大変な栄誉です。さあ、前へ」
カルトの栄誉が、俺のような常識人にとっても栄誉になるのだろうか?
しかしこちらには選択肢がなかった。
俺が玉座の前へ進むと、少年はじっとこちらを見つめてきた。
「ひざまずいて」
「忠誠を誓えと?」
そう尋ねたとき、彼は初めて笑みのようなものを浮かべた。
「力を授けたい。だけどこのままでは、君の頭に手が届かない」
カルト特有のジョークなのだろうか、周囲の者たちは控えめに笑った。
よく見ると、そこには玉藻もいた。もちろんだが、彼女もこのクソみたいなサークルのメンバーだったのだ。
俺がひざまずくと、少年が手をかざしてきた。
「神の名において、このものに力を授与する」
*
かくして俺は能力を得た。
なぜ選ばれたのかは、いまだに分からない。
そして俺以外のメンバーを思い返すと、もっとよく分からなくなる。
あの塔には、一千万ほどの人間が集められていたらしい。
人格者ならほかにいたはずだ。
英雄的な人間だっていただろう。
なのに、なぜ俺なのだろうか? あるいはなぜ中野なのか? なぜジョシュアなのか? 真に英雄たる人物はひとりもおらず、どいつもこいつもなにかが足りなかった。
人類の痕跡はすべて緑に覆われ、あらゆる文明が滅びた世界。
全員で一からやり直すことになった。
なのに、神が死んだ。
マイケルとミハエルが争い、死者が出た。
メンバーは上級、中級、下級に分けられた。
ジョシュアたちが塔を去った。
能力を与えられなかった人間たちも、いつの間にか各地へ散った。
俺は追放された。
一人になった俺が目指したのは東の地。
こんな世界になっても、故郷が恋しかったのだ。
何名かの人間たちと協力し、船で日本へ渡った。
塔のことは忘れるつもりだった。
関わることは二度とないし、勝手にやってくれればいいと思っていた。
かくして千年が経ち、勝手にやっていたジョシュアたちに土地を征服されそうになった。
いま、俺たちは西を目指している。
そのジョシュア軍を壊滅させるために。
世界はまだ平和ではない。
(続く)




