第3夜 パグ
夜の大冒険が終わろうとしている。わたしは家に向かう道をゆっくり歩いた。増えた時間で今日の出会いを振り返る。
インパクトは十分。初めて見たパグ使いに今もにやにやが抑え切れない。
リードに繋がれた六頭のパグは困ったような顔で、ご主人様の青年をどこかに連れて行こうとする。短い足をちょこちょこ動かす。尻尾はくるんと回ってドーナツのようだった。
あまりの可愛さにわたしは足を止めた。六頭のパグが押し寄せてくる。その場にしゃがんで両手を広げると見事に避けられた。
青年は困り顔になって、危ないよ、と声を掛けて笑った。立ち上がったわたしは、ですよね、と照れ笑いを返した。
素敵な時間はとても短く、別々の方向に歩き出す。
あのころころしたパグをギュッとしたかった。
思い出したついでに自分を両腕で抱き締めてみる。肉付きの悪さが災いして素に戻った。幸せな時間がすっかり薄れてしまった。
取り返す思いで横道に入った。薄暗い民家に挟まれた道を突っ切って二車線の道路に突き当たる。
目の前を真っ赤なオープンカーが走り抜けた。急ブレーキの音がして横を向くと、さっきの車が停まっていた。
なんだろう?
運転手の男性がポーチを歩道に投げ捨てた。助手席にいた女性が慌てて車を降りる。狙っていたかのように車を急発進させた。
女性は追い掛けて、途中で諦めたみたい。ぺたんと歩道に座り込んで項垂れた。顔は見えないけれど、すすり泣く声が聞こえてくる。
わたしは落ちていたポーチを拾った。表面を手で払って女性のところにいく。
「あの、落ちていたので」
女性の顔の下にポーチを差し出す。乱暴な手付きで奪い取り、何なのよ、と声を荒げた。項垂れたまま、手の甲で目を拭った。
わたしは立ち去ることができなかった。丸まった背中が小さく見える。しゃっくりで肩が震えるように上下した。
自然にしゃがんでいた。女性の背中にそっと手を当てる。驚きが掌に伝わった。安心させるように撫でる。
「……どうして?」
掠れた声で聞かれた。わたしは思ったことを口にした。
「見たことを見なかったことにできないし、こうした方がいいと思ったから」
女性は項垂れた姿で、そう、と息を吐きだすような声で言った。
「これは大きな独り言だから、気にしないで」
深呼吸のあと、女性は語り始めた。
「さっきの彼氏、もう、元彼なんだけど。私が太ったから嫌いになったんだって。幸せ太りだって言ったんだけど、前のほっそりした私が好きだから無理だって」
「そんなに太いですか?」
わたしは手を止めた。女性はゆったりしたブラウンのワンピースに白いカーディガンを合わせていた。ふくよかには見えるが太いという印象はなかった。
「ほら、これならどう?」
女性は顔を上げて前髪を掻き上げた。黒目勝ちの丸い目の周りが落ちた化粧で黒ずんでいた。
「可愛い」
「え、可愛い?」
「あの、ギュってしていいですか」
「私を抱き締めたいってこと、だよね」
女性はわたしの全身に目を向ける。
「同性でもダメですか」
目深に被っていた野球帽を脱いだ。ボブの頭を見せてふんぞり返る。
「む、胸は、小さいけど、あ、あります。どう、ですか」
無理な姿勢で声が途切れがちになった。
「いいけど、なんで私と」
「そんな気分なんです。パグさせてください」
「パグじゃなくてハグだよね」
「そう、それです。ハグでした」
本音が漏れたことを女性は気にしなかった。ふくよかな胸を見せて、ほら、と両腕を軽く開いた。
わたしは女性を抱き締めた。胸いっぱいに広がる柔らかい感触に力が抜ける。
「……こんなに、柔らかいなんて……幸せな気分です……」
「大げさなんだから。でも、ありがとう。少し、元気が出たよ」
「わたしは幸せな気分になれました」
どちらともなく離れて立ち上がる。女性はさっぱりした顔で伸びをした。
「ここでお別れだね。私はタクシーで帰るよ」
「そうですか。また、会えたらいいですね」
「今度は泣き顔じゃなくて、最初から笑顔で」
最後は笑顔で別れた。姿が見えなくなるまで手を振った。
帰る足がとても軽い。スキップして調子はずれの鼻歌を披露した。
「パグ、大好き!」
今日もとても素敵な夜になった。あ、でも目の周りが黒いこと、教えてあげた方が良かったかも。