その日。
夏も終わりに近づき、天気も落ち着いて来た頃の話だ。記憶が確かなら雇われてから2年目のこと。私はいつも通り、名も知らぬ企業の顔も知らぬ顧客の情報をぶっこ抜いていた。
その日の私はふと頭をよぎった事を隅っこに追いやることができずに過ごしており、ひと段落ついた所で"それ"をようやく口にすることが出来た。
「前から思ってたんだけど、黒金の誕生日って何時ごろなの?」
「夏あたり」
こうやって彼はまた濁してくる。
「それすら教えてくれないワケ?」
「8月だよ」
「…の何日?」
「8日」
8月8日なんてとっくに過ぎていた。その日もここに来ていたし、言えば『おめでとう』の一言ぐらいは掛ける。言わなかった理由はお得意の"秘匿主義"なんだろうけど、無性に腹が立った。それをそのまま言葉にすると、
「悪かったって。お祝いは来年に頼むよ」
「まったく……」
嫌味の一つでも言ってやろうと思ったけれど、それすら出てこない。私が頭の中で言葉を選んでいると彼の方から口を開いてきた。
「じゃあソッチの誕生日はいつなの?」
「え」
「いや、聞いてるだけだけど……」
意外であった。彼の方から私の事を聞いて来ることは当時一切無かったから。そのことについて触れても良かったが、何より私が気にしている風に思われるのが癪だったのでそのままその日付を伝えた。
「なんだ、もうすぐじゃん」
彼はそれ以上何も言わなかった。
*
"その日"はすぐにやって来た。
けれども"その日"はいつも通りに過ぎていった。あのやりとりの後だからか、僅かでも何かを期待していた自分がバカらしくて嫌になる。かと言えど、それ表情に出せば出したで期待していたと察される。それも腹が立つ。
そうしていると、いつも通り帰る時間がやって来た。私は必死でいつも通りを装い、いつも通りに黒金の家を後にした。いや、しようとした。足早に帰ろうと支度をする私を引き止めたのは彼の声。
「ちょっと待って」
「なに」
「まあ待ってって」
しばらくしてから彼はケーキひと切れを持って来た。
「ほら……こうあんまり盛大に祝われるのも好きじゃないと思ってさ。細やかだけど……」
実家にいる時は私はこの日が嫌いだった。この日はかえって母親の当たりが強くて、この日が来るのが怖かった。
「誕生日おめでとう、火曜」
馬鹿げた話かもしれないけれど、自分ではない誰かにこの日を祝って貰えるのはは初めてだった。
正直、心の底から嬉しかった。目の奥がキュッとなるのを抑えて、相応しい返事をする。
「ありがと」
子供らしいと笑われるかもしれないけど、私はもう既に次に来る“この日"が待ち遠しくなっていた。