第4話
第4話はしずくさんが書いたお話です。一馬がいなくなったアクアはどうなってしまうのでしょう、、、
アルコールの少し残る体に飲み過ぎたか、と今更になって後悔しながら冴子は今日もアクアに出社した。
休憩室に入れば既に着替えをしているスタッフが所々に見える。
自分も着替えようと更衣室に入ろうとしてノブに手を掛けた時、冴子は一瞬動きを止めてもう一度休憩室を一瞥した。
「・・・葵は、まだ来てないの?」
誰に言う訳でもなく、その場にいる数人に問い掛ける。
葵がアクアに来るのは早い。冴子より後に来る事なんて今まで一度たりともなかった。
いつもある存在が今日は無い違和感に気付いたのだ。
「葵さん?・・・そういえばまだ来てないですね、休みの連絡もないです」
キッチン担当の一人も見回しながらそう言った。
冴子と視線が合った後藤は、知らないと言うように慌てて首を横に振った。
バッグの中から携帯を取り出す。そこには着信履歴は無く、いつもの待ち受けだけだった。
冴子は葵の番号をアドレスから呼び出すと掛けようと携帯を操作した。
と、同時にその部屋に電話の呼び出し音が響いた。
その場にいるスタッフは冴子を見る。冴子は携帯をバッグに再びしまうと白い電話へ手を伸ばした。
「おはようございます、アクア・・・・・・、・・・葵?」
相手が葵だったのか。
一応、と決まり文句の挨拶から始めると冴子はやっぱり、と息を着いた。
「どうしたの?遅刻なんて珍しいわね。・・・、え、・・・何?」
からかうように笑いながら言う冴子の顔は、一瞬にして凍り付いた。
その様子から周辺のスタッフは窺うように冴子を見つめる。
「葵!どういう事!?・・・葵!!・・・っ!」
それ程大きくない部屋に冴子の叫び声が響くと、暫くして冴子は受話器を持った手をゆっくり下に下ろした。
いつまで経っても離そうとしない冴子にしびれを切らしたのか、スタッフの一人は恐る恐るといった感じで「・・・どうしました?」と問い掛けた。
受話器を持つ手は微かに震えている。
まるでこの世の終わりのように青ざめた表情の冴子は、どう見ても異常だった。
一体この数分・・・いや、数秒の間に何があったのか。
問い掛けから大分時間が経った後、冴子は消えそうな声でこう言った。
「葵は・・・・・・、もう来ないわ」
休憩室がざわついた。
さっきまで忘れていたと言うのに、残ったアルコールが回る感覚に陥る。
葵が来ない、という言葉の理由を問うスタッフの声が今の冴子には遠くに感じた。
冴子は、手に持った受話器を元の位置へと置いた。
フラつく足元をしっかり見つめると、顔を上げた。
「葵は、もう来ないと・・・ただそれだけよ。理由は分からない・・・でも、店を開けない訳にいかないわ。さぁ、行きましょう」
冴子の言葉に、反応する者はいなかった。
それは、葵のいない状態で成り立つのかという不安と・・・冴子のあまりにもさっぱりした態度がそうさせていた。
「・・・店長・・・無理ですよ」
誰が言ったのか、その台詞が小さく部屋に響いた。
「何言ってるの、早く・・・」
イラっとしながらそう言い掛けた所で、冴子は言葉を止めた。
一体どうして今まで気付かなかったのか・・・そこにいるスタッフには、見るも明らかに疲労が見えていた。
唯一入ってきたばかりの後藤だけが違うが、アルバイトを全て辞めさせて少人数でのやりくりを余儀なくされたキッチンのメンバーが特に酷かった。
これが女性だったら、とっくに根を上げていただろう。
開店20分前。
冴子は時計の音だけ響く部屋にぽつりと言葉を落とした。
「今日は・・・、いえ・・・暫く店は閉店します。皆帰っていいわ・・・」
まさかの発言にスタッフは急には動きはしなかったが、一人が動くと連鎖するように皆着替えて部屋を出て行った。
最後の一人が姿を消すまで、冴子はずっとその場に立っていた。
きっと外では未だCloseの立て看板の前で人が疑問に思いながら待っているのかもしれない。
しかし、その前に出て理由を説明する気力は今の冴子には無いに等しかった。
冴子は私服の侭、足をフロアへと移動させた。
広がる青の世界・・・そこは変わらず神秘的なのに、ガランとした空間は寂しげだった。
「・・・う・・・っぅ・・・」
冴子はゆっくり一つの椅子に座ると、テーブルへと腕を置いて顔を伏せて声を押し殺して泣いた。
頬を伝わる涙は、その日ずっと水槽を流れる水と共に止む事はなかった。
『都合により、暫く休業致します。
お客様にはご迷惑をお掛けしますがどうぞ宜しくお願い致します。 Aqua』
次の日、冴子は泣き腫らした赤い瞳のままアクアに来ていた。
勿論誰がいる訳ではない。休憩室は変わらず静まり返っているしフロアは熱帯魚が今日も優雅に泳ぎ回っている。
冴子が来て一番始めにしたのは、Closeの看板と共に添える謝罪文の作成だった。
一文字一文字パソコンで打つ度に胸が締め付けられる思いだったが開店時間前にはやらなくてはいけない作業だった。
でないと、今日もお客様が来てしまう。
謝罪文を添え終わると、何もする事がなくなった冴子は掃除を始めた。
掃除などフロアやキッチンの担当に任せっきりなので冴子にとっては店長になって以来、初めての作業だった。
一人で隅々まで掃除をしていくに連れて色々な所が見えてきた。
子供視線にある玩具が壊れていたり、汚れが酷かったり・・・ガラスの置物が壊れているのを見た時にはよく怪我がなかったと安堵の息さえ零した。
ガラスの置物を撤去して代わりにぬいぐるみを置いた。
キッチンに至っては男性に任せているからか、見えない位置の汚れは酷く落とすのにかなりの時間を要した。
全ての掃除が終わるのに1日だけでは収まらず5日も費やしてしまった。
冴子の体力も底を尽きていたが全てを掃除し終わると達成感からか久々に心地良い疲れと感じた。
見えない部分の改善も完璧で、衛生上も問題ない。
ドリンクバーでコーヒーを入れると一息着く為に禁煙席の一番端に座った。
どうしてその位置に座ったのか分からなかったが、あの一件から何故か全く煙草を吸わなくなったので座る場所はどこでも良かった。
コーヒーを口にすると、ふとその場所がほんの一週間ちょっと前に面接を行った場所だという事に気付いた。
目の前では慌てながら書類を捜す佐々木一馬の姿がちらつく。
冴子はその時感じていた可愛らしい、とかボウヤ、とかそんな事は一切捨ててじっとその残像を見た。
ふとフロアを見れば決戦だった土日の映像が流れて消える。
勿論、葵も、一馬も・・・キッチンを見れば他のメンバーが忙しなく動いていた。
『今の状態でこのお店を続けていったら確実に潰れますよ』
記憶の中の一馬が別れの挨拶の前に言った言葉を繰り返した。
一馬と、自分。
対面しているのを今の冴子は冷静になって見つめていた。
あの時のような怒りが、今は全く起こらない。
何故ならあの時言われた事が現実になろうとしているからだ。
受け入れたくない現状だったが、事実から目を背けてはいけない。
冴子は履歴書の控えをテーブルへと持ってきた。
『その理由が知りたかったらいつでも連絡下さい』
一馬はこうなる事を予想していた。
その理由を、どうしても冴子は知りたかった。
プライドが許さないとかそんな事を言っている場合ではない。
一馬の履歴書を開く。
あの時はじっくり見てもいなかったが冴子はもう一度じっくり見直した。
特に変わった所は見当たらない。普通に学校を卒業して会社員になったという経歴だ。
視線は電話番号に移った。
冴子はポケットに入っている携帯を取り出してその番号に電話をした。
『はい、もしもし』
一馬にとっては知らない番号だからか、どこか様子を伺うような口調が聞こえた。
冴子は何かを言おうとするが言葉がうまく出て来なく、暫く黙った侭だった。
『・・・・・・もしもし?』
怪訝に思ったのだろう。電話の向こうでは疑問符で声を掛けてくる。
冴子は持っていた携帯を握る力を少し強めると口を開いた。
『水瀬、ですが』
水瀬というのは冴子の苗字だ。
一体苗字だけで伝わるのか分からなかったが冴子にとって今はこれが精一杯だった。
『店長、じゃないですか』
不審な電話だと思っていたからか、一馬の口調は柔らかいものになった。
それが伝わると自然に冴子の肩の力も抜ける。
少しの沈黙の後、言葉を続けたのは一馬の方だった。
しかし、それは冴子にとって衝撃の一言になる。
『店の事でしょうか?それとも・・・葵さんの事、でしょうか?』