5-8
「あっははははははは!」
長い口づけを終えたマリヤは、私の無様な姿を見て大きな笑い声をあげる。そして、最後に、天使を召喚するときのように、彼女が指を鳴らすと、彼女の大きく膨らんだお腹に、暗い影が落ち、そこからずるずると小さな人影が引きずり出された。
生まれたのは男とも女とも言い難い真っ白い人形のような赤ん坊だった。それは人型をしてはいるものの、彼らが呼ぶ天使のような質感で、その関節には球体がはまっていた。体育座りをしたそれを、マリヤは大事に胸に抱いた。
それと同時に、杏子のお腹に開いた暗い穴も、膨らんだお腹も元に戻って、私はほっとするものの、実際にそこに生まれてきた杏子の子供がいるという事実に、戸惑いを隠せなかった。というかあれは杏子の子供なの?
マリヤは、それを慈しむように撫でると、旅立たせるように放り投げる。ふんわりと宙を泳いだ赤ん坊は川の上へと空中を進んでいく。
気づけば、私の手足にかかった拘束は外れていて、地面に広がった闇も、マリヤに引き戻されるように元の河原の地面を露出させていた。それに連動するようにマリヤの傷も治っていき、生えていた片翼すら消えていく。なにも阻むものもなくなった私は迷うことなく、マリヤに飛び掛かった。
「マリヤ! お前! 杏子になにしたの!?」
胸倉を掴んで地面に押し倒して問い詰めるも、向こうは上機嫌に笑って、応戦する。
「あははっ! 喧嘩なら自信あるわよ」
いうが早いか彼女は、躊躇いもなく、三つ編みのほどけた私の髪を掴んで引っ張る。「いたっ!」と声を上げつつ、私は頭皮に走った痛みに反射的に頭をそちらに傾けてしまう。すると同時に、彼女は逆の手で私の脇を押し上げて、私の身体はいっぺんにバランスを崩してしまった。
逆に私に馬乗りになろうとするマリヤのすべすべとした銀髪を乱暴にひっつかんで、やみくもにそれを引っ張れば、彼女も痛みに顔を歪める。お互いに痛みと意地に動かされて、ぐるぐると何度か草むらの上を転げまわった。草と土の感触と、星の輝く夜空が何度も反転して、青臭い匂いと彼女の汗と血の香りがないまぜになって立ち上る。最後に上になっていたのは、私だった。
はあ、はあ、と肩で息をする私はもう一度同じ質問を繰り返す。
「マリヤ、杏子に、なにをしたの!?」
「見ればわかるでしょぉ?」
もう一度髪の毛を引っ張って「わかるわけないでしょ!」と言ってやろうかと思ったところで、隣に人が立った。ステッキを携え、銀の枝を背負った彼女は、冷静な声で、私に声をかけた。
「かさねさん。女同士で子供は出来ないって言ってましたよね」
舞ちゃんが話題に出したのは、この間の会話。
確か、この間お風呂に入ろうとしたときの――って、いまそれが関係あるの?
「な、なんでそんなこと今いうの」
「他のことを考えれば落ち着くかと思いまして」
うぐっ、と私は言葉に詰まる。
我に返って、さっき生まれた赤子が進んでいった方向に目を向けて、愕然とした。
そこにはさっきと同じように体育座りをした赤ちゃんが浮いていた。ただし、四トントラックを超える大きさになっていたそれを赤ん坊と呼ぶならば、であるが。
「なに……あれ……!」
成長とともに、その身体には紫がかった服のような部位も現れていて、いくらかその後の姿には見当がついたが、未だ目に見えるほどの速度で大きくなっていく育ち盛りの赤子が、いったいどれほどの大きさになるのか、私には想像もつかなかった。
「かさねさん、シェミハザは、人を監視することを命じられたグリゴリの長の堕天使です。そして、グリゴリ、彼らは監視していた人の女の美しさのあまり地に降り、彼女たちを娶って〝ネフィリム〟を為したんです」
――ネフィリム。
シェミハザによって率いられたグリゴリが地に降り立ち、女たちを娶った際に生まれたとされる、大食の巨人。その背丈は3000キュビト、1350メートルになるといわれ、地上の作物、鳥、獣、さらには人間まで、すべてを食い尽くし、最後には巨人同士の共食いを始めたという。
その証拠に、その巨人が足を下ろした地に生えていたあらゆる草木が、その皮膚から一定のうちに入るごとに、消え去っていく。
私は、舞ちゃんの隣に立ち、巨人の様子を眺めながら、一つ、思いついたことを尋ねる。
「舞ちゃん、前から思ってたけどそういうの……」
「ええ、これは、私の中の、他の魔法少女が知っていたことです」
そう、なのか。
ずっと不思議だった。私たちはほとんどの記憶を共有しているのに、彼女はたまに妙に私の知らない知識を語っていた。それも、彼女の奇跡だったのか。
ネフィリムは私たちが見ている間にも成長し続けていく。初めは行儀よく体操座りをしていた巨人も、ちょっとした高層ビルくらいの大きさになったくらいで、その身体を起こした。幸いにも天使の子は物理法則なんて気にしないようで、その足の裏が地面のつくことはなく、川の上の虚空を踏む。大きくなるにつれて、紫色のドレスのような衣装が身体から延び、身体は次第に女性的なラインを描いていく。
みるみるうちに、彼女はついには雲も突き抜けるような巨人になっていた。目いっぱい空を見上げても、もうその頭がどこにあるかは、もうほとんど見えない。ただ、ネフィリムはその身体からぼうっと光を放っていて、夜空はまるで花火を上げている時のように、ぼんやりとライトアップされていた。川を踏むようにして立つ姿を見上げると、ここが河原でよかったと思わずにはいられない。
光の巨人、という言葉が頭を過ぎる。
天使と人間の子であり、禁忌を犯した象徴、ネフィリムはこの世を蝕む災厄で、だから、立場としては、むしろ怪獣の方だろう。
怪獣映画の中の人物というのはこんな気持ちなのだろうか。
もしも災いが人の形を取ったらこんな風になるのかもしれない、と私は思った。
それはあまりにも巨大で、強大で、ちっぽけな人間の手には余った。
その全貌を見ることすらできないものに、どうやって立ち向かえばいいのか。ただ歩くだけで、ただ生きるだけで私たちのできるすべてを壊すことのできる存在と、どう向き合えばいいのか。
この国で一番高い建物は六三四メートルで、ここから一番近いミ=ゴたちが住む山の標高は八七七メートルだというのだから、本当に、山と戦うようなものじゃないか。
あまりにも現実感がなくて、その途方もなさに口をぽかんと開けて眺めるしかなかった。
反対にマリヤは、花火か星空でも眺めるかのように、私が馬乗りになったときと同じまま、草むらに横たわって、陶然と呟く。
「私が世界に放った、私が世界に遺した、私の奇跡よ……」
マリヤはずっと、奇跡を求めていた。
私はそれを、機密が使えないからだ、と聞いた。あの神は、祈りが届かないのだ、とも言っていた。
でも、舞ちゃんは、彼女に、あなたが求めるのは奇跡ではない、と言った。
彼女が求めるもの。
彼女の目的。
ネフィリムが生まれた時からもう、彼女は片翼の堕天使ではなく、もとの姿に戻っていた。
きっとあの脳とのパスを切ったのだろう。つまり、あの巨人はすでに文字通り以上にマリヤの手を離れている。彼女が、パスを切ったのは、もう、彼女が目的を果たしたから、だろうか。それとも、その目的が果たされると信じているからだろうか。
ネフィリムは、彼女にとって、自分がようやく授かった奇跡であり、そこから生まれた我が子。倫理を犯し、災いを呼んだとしても、それは彼女の子だった。
〝奇跡さえあれば、私だって……〟
私だって――なにができると彼女は思ったのだろう。
少なくとも、マリヤの目的、それを、一番気にしていたのは、舞ちゃんだった。
彼女は、横たわったマリヤに、また、はっきりとした声で呼びかける。
「マリヤ」
光の巨人がイルミネーションのように河原を照らしているせいで、街灯の一つもない河原は、さっきまでよりもずっと明るかったけれど、向き合っていない二人に、お互いの表情はわからなかっただろう。それでも、舞ちゃんが、マリヤのことを気にかけて、向き合おうとしているという事だけは、きっと彼女にも伝わっただろう。
マリヤは、まるで友人から行動を注意されたみたいに、いくらか不満げな声を返す。
「なによ。そんなの間違ってる、とか言いたいわけぇ?」
舞ちゃんは、ただ目の前に立つネフィリムを見つめた。その成長は緩やかになりつつあるが、大きさは未だに増し続けている。それが止まった時、その巨人はきっと動き出す。
それが動き出せば、大惨事になることは目に見えている。伝承通りなにもかも食べ尽くすのか、それをしなかったとしても、ネフィリムを超える人工物はこの世に存在しないのだから、ただ歩くだけですべてを壊してしまうだろう。
だから、あれは私たちの敵だ。だって、あれは、私たちが守る街を、人を、壊してしまうのだから。
「間違ってるとか、そんなことはどうでもいい。たとえあなたが正しかったとしても、私たちはあれを止めるから。……でも、欲しいものは、間違えない方がいい」
付け足された言葉に、一息に起き上がって河原に座り込んだマリヤは、魔法少女の背中を睨みつける。ひゅうっと吹いた夏の夜の風が、彼女たちの髪を揺らした。ざわざわと響く葉擦れの音が彼女たちの声に重なる。
「それは忠告? それともお説教?」
「……ただの、ひとりごとだよ」
舞ちゃんの言葉を最後に、二人の会話は途切れた。もう、言いたいことはなくなったのか、それとも巨人の成長が止まりかけていることを見て取って切り上げたのか、私にはわからなかったけれど、私は、川面に立ってそれを眺める彼女の隣に並ぶ。同時に、ミーたちに指示を出して、杏子を回収させて逃がす。最初からこうしておけばよかった思うことしきりだが、過ぎたことは仕方がない。
赤いフリルドレスに、マスク、そして、手にはステッキを握ったいつも通りの格好の彼女は、もうなにもかも準備を終えたようだった。今回は、ずっと頼りっぱなしだな、なんて考えながら、私は自分のパートナーに話しかける。
「舞ちゃん、頼める?」
「ええ、最初からそのつもりです」
目の前にそびえる、まさに災厄としか呼びようもない巨人を見て、彼女は頼もしい返事を返す。当然のことだというように首を縦に振った。
マリヤは、信じられない、というように後ろから声をかけるが、彼女はそれに短く返すだけだった。
「平須舞、あんた、本当にネフィリムを止めるつもりなの……?」
「もちろん」
確信を滲ませる答えに、マリヤは息を呑む。
私だって、このネフィリムを前にそういったのが舞ちゃん以外だったら、きっとそういう反応を取っただろう。でも、私は彼女を信頼していた。
マリヤはさらに、わめくように、声を上げる。
「嘘……嘘よ! どうしたってあんたのちっぽけな奇跡では、ネフィリムを止めることなんてできっこない!」
「できるよ」
そう舞ちゃんが答えた瞬間、巨人の身体が震えた。
ネフィリムはついに成長を止めて、その身は完成する。夜空をライトアップする光は、ひときわ輝きを増し、夜の河原は、まるで昼日中のように煌々と照らされていた。ついさっきまで微動だにしなかった手足へ、その調子を試すように、ゆっくりと力が籠められる。
舞ちゃんは、とん、と地面を蹴って、宙に浮きあがる。徐々に河原から離れ、光の中に溶けていくような彼女を、追いすがるようにマリヤは叫んだ。
「どうしてそんなことが言えるのよ!? あんたは私にだって――」
私の一つ下の後輩で私の先輩な彼女は、神々しく輝く光を背景に、軽快に振り返った。
そして、躊躇いなく応える。
「私は、魔法少女だから」
私が魔法少女になるとき、私の中の誰かが言った。
どうやったらこの状況が変えられるのか。どんな代償を払えば、どんな条件を呑めば、今目の前にある絶望を取り除けるのか、と問うた私に、彼はこう答えた。
〝これは、魔法だから〟
だから、願え、と。
だから、祈れ、と。
だから、望め、と。
この、果てしなく理不尽で、どうやってもままならない世界で、たった一つ、すべてを変える方法がある。
それは、悍ましくて、おどろおどろしくて、冒涜的で、狂気的で、恐ろしくくそったれな代物だけど、なにもかもを変える力を持っている。
マリヤは知らない。
最後には、私は死に絡めとられてしまったけれど、実際にあのセフィロトの彷徨者を葬り去ったのがいったいなんだったのかを。
彼女の背中に、セフィロトの枝はもうない。
「マリヤ。ハスターが、なんで私たちに力を与えるか、知ってる?」
取り残された私は、同じように残されたマリヤに話しかける。マリヤが魔法少女の実態について知っているということは、なんとなく舞ちゃんから聞いていた。でも、きっと、あれを見たら驚くと思うから、少しくらい教えておいてあげようと思ったのだ。
「確か、神に封印された悪魔は人間に力を与えて、代わりに餌を狩らせることで、力を蓄えるのでしょぉ?」
「そ。でもね、その力は、どうやら私たち、魔法少女の力にもなるみたいなの」
「は? ……じゃあ、なに、コツコツ貯めた力で、どうにかしようっていうの?」
私は、曖昧に笑って、再び正面に視線を戻す。
巨人に立ち向かう彼女は、虚空を踏んでいる足のその真下に潜り込むように、川面すれすれを飛んでいく。そして、水面に立つようにした彼女は、おもちゃのようなステッキを掲げ、真上に照準を定めた。
彼女は、かつて私に放ったその奇跡を、再び口にする。
「《幻想は彼方を望み、夢想は此方に姿を映す――」
呪文を唱える彼女を中心にして、彼女の足元に、淡い星屑のスクリーンが広がっていく。
初めは、ほんの薄い光の膜で、真上に輝く巨人の光にかき消されてしまう程度のものでしかなかった。けれど、彼女が火をくべるように、光を灯したステッキでその中心に触れれば、そこからゆらゆらと波打つように白光が広がっていく。
波打ちながら広がる星屑は次第に大きく渦巻いていく。広がる波と寄り集まる渦。
二つの動きが、彼女の足元に広がる輝きを増していく。最初はただの星屑に過ぎなかった光は、渦巻き、寄り集まることで、その中心に太陽のように輝く星を成す。
それは――奇跡を超える努力の結晶。
たった十三歳の彼女が、ここまで命を燃やしてきたことの証明。
例え悪魔に騙されていたとしても、彼女が孤独に光を放ち続け、戦い続けてきたことは、決して無駄なんかじゃなかった。
だって、これは、彼女が重ねてきた思いを、彼女が抱いた願いを、この世界に認めさせるためにできる、たった一つの叫びなのだから。
血反吐を吐いてあがいた末に手に入れた、最強の魔法。
もしかしたら、神そのものに届くやもしれない、星そのものを飲み込む銀河の再現。
いつかこの神話を終わらせるための、この宇宙に存在する不条理を焼き切るための、真なる冒涜の刃。
「――星は墜ち、地に立つはただ閃光のみ――」
輝きを増し続けた光は、ある一瞬を最後に、欠落する。突然、黒々とした闇がその光の中心を居座り、星は消えたかのように見える。
その欠損は決して限界を意味しない。その証拠に、穴を埋めるようにして、勢いを増して、星屑は中心を目指した。
それは一つの銀河の形。
それはこの宇宙で最も大きなエネルギーを放出するクェーサーの一形態。
〝輝く者〟
――その銀河が持つ、目の前にあるすべてを熱に変えて進み続ける激しさは、きっと彼女に似ている。
もしかしたら、マリヤは、勝ちたかったのかもしれない。
自分で手にした奇跡で、ある少女が求めもせず受け取った奇跡を、負かしたかったのかもしれない。
でも、その少女の本当の強さは、つい一か月前に、植えつけられた奇跡なんかでは決してない。
彼女は気づいていなかった。
最初から、彼女が相手をしていたのは、遍く物語を破壊する魔法少女だったということを――
「――ルヴェレ・ディ・ステッレ・リ・シンティラ》!」
そして、魔法は放たれる。
渦の中心、欠損を示す闇が燃え上がる。
光の世界では、撃鉄が下りてから銃弾が撃ち出されるまでのタイムラグは、ゼロに等しい。
呪文の完成とともに放たれたのは、星屑のなれの果て。
事象の地平から逃れたプラズマの帯は目も眩むように輝く。
膨大なエネルギーによって加速され、それは自由を得て、遠く、天の果てを目指して、生んだ母を蹴り飛ばす。
神が顕現するように、空間を切り飛ばすように、たった一点から広がって、夜空は光錘に占められる。
ほんの小さな粒子が触れるだけで、空気は発火し、私たちは唐突に、空間そのものが輝いているかのような場所に放り込まれた。
星々のスケールの中で、音も光も、なに一つ、私たちには届かない。
きっと、瞬く間もなく、天と地を繋ぐ柱のように光は巨人を貫いたのだろう。かけらも残さないほどに、ネフィリムを焼き尽くしたのだろう。
けれど、目の前すべてを占めていた災いが消えたことにすら、私たちは気づけない。
それがちっぽけな私たちの限界だった。




