72.藍色
或いは海中、もしくは空中。
ただただ浮遊感だけが支配する世界の中に、慎司は放り出されていた。
(ここは……?)
ハッキリとしていく意識の中、慎司は自分が足場のない空間にいることに気づく。
だがそれも一瞬の内で、瞬きした次の瞬間、慎司は色とりどりの配色がされたガラスの板の上に立っていた。
(夢……?)
慎司はそう思うが、夢にしてはやけにハッキリと認識できている。
明晰夢──そんな言葉が頭をよぎるが、それも違うと慎司は首を振る。
立っているガラス板に目を向ければ、赤や青、黄色に緑など、様々な色がある。
踏みしめても軋む音ひとつあげない板を不思議に思うが、この空間自体が不思議なために慎司は考えることを諦める。
(とにかく、なんとかして戻らねぇと)
一先ず慎司は出口を探すことにする。
辺りにあるのは、現在慎司が立っているガラス板と、同じくガラスでできた階段だけだ。
他に道がない今、慎司には階段を上る以外の選択肢はなかった。
ふわふわと浮かんでいるようで、その実しっかりと安定している階段を上っていくと、再びガラス板で出来た場所に出た。
(うわ、広……さっきの場所より何倍も広いぞこれ)
階段を上りきった先に広がるのは、半径10メートルぐらいはある円形のガラス板だった。
階段の下にあったガラス板との違いには、その大きさだけでなく、配色も挙げられる。
原色が目立っていた下のガラス板とは違い、目の前のガラス板は藍色を中心とした青系統の配色だ。
(藍色……アルテマが関係していたりするのか?)
慎司がそう思った時、唐突に階段が霧散し、慎司はガラス板の上に取り残された。
後ろを確認して、階段が消失したのを見た慎司が視線を戻せば、今度は5メートル程先に光の粒子が集まっていく。
光の粒子は輝きを増していき、やがて人の形を取った。
それはまさしくアルテマであり、慎司はつい声をかける。
「アルテマ!」
慎司は駆け寄ろうとするが、見えない透明な壁にでも阻まれているのか、アルテマに近づくことができない。
そのアルテマだが、ゴシックドレスに身を包み、藍色の髪を靡かせ、空色の瞳でこちらをジッと見つめている。
「アルテマ!何してるんだ!?」
そんな慎司の問いかけに、やっとアルテマが口を開く。
「シンジ……質問に答えましょう。現在あなたは出血多量が原因で意識不明です。辛うじて回復魔法の効果で生きながらえてますが、直に命を落とすでしょう。そんな生死の狭間を彷徨っているあなたを、救うためにここにいます」
慎司はアルテマの言葉に頭をガツンと殴られたような気分になる。
その言葉が本当ならば、今頃大騒ぎになっているに違いない。
「それで、俺はどうすればいいんだ?」
震える声で尋ねる慎司の方へ、アルテマは黙ってゆっくりと歩み寄ってくる。
コツコツと、アルテマの履くブーツが音を鳴らす。
その緩慢な動作に焦る気持ちが沸き立つが、慎司は黙っておく。
やがて、慎司の目の前──透明な壁を一枚隔てた距離まで来ると、アルテマは両手を広げてこちらに伸ばしてくる。
まるで幼子が抱っこをねだるような、そんな格好をとったアルテマは、優しく妖艶に──
「私と契約してください」
──そう言った。
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「契約……?」
「はい、あなたが生き残る道はもう残されていません。今のあなたはただの魔剣の所持者ですが、私と契約することで、あなたは魔剣の契約者となり、私の恩恵を受けることが出来る」
慎司の問に、アルテマは間断なく答えていく。
いつものように抑揚のない声で答えるアルテマだが、少しだけその表情に喜びを感じた。
「恩恵って?」
「私が魔力を使ってあなたの生命を繋ぎとめます。これがあなたが生きながらえる方法ですね。それに加えて、力を与えましょう」
アルテマは滔々と語る。
慎司は一つ目の恩恵については想像がつくが、二つ目の恩恵が抽象的過ぎて全く想像がつかなかった。
力と言っても、いろいろある。
例えば財力。金さえあれば好きなものが買えるし、俗物的な者であれば飼い慣らすこともできるだろう。
例えば権力。権力に逆らう者は基本的におらず、権力を笠に着て好き放題することもできるだろう。
「アルテマ、力ってのはどんな物なんだ?いまいち想像できないんだが……」
「──そうですね。では、慎司は大切なものを守るために必要なのはなんだと思いますか?」
慎司の質問に少し考えた後、アルテマはそう問いかける。
大切なものを守るには、何が必要か。
考え込む慎司に、アルテマは言葉を重ねる。
「危機から守り抜く力ですか?それとも危険を排除する力ですか?それとも傷を癒す力ですか?」
アルテマの言葉に呼応するように、慎司の目の前に盾、剣、杖の映像が透けて見える水晶玉が浮かび出す。
「シンジ、あなたの答えとなる水晶玉を取ってください」
「俺は……」
慎司は目の前に浮かぶ水晶玉を眺めていく。
守る力があれば、危機から仲間を救うことができるだろう。しかし、守るだけではどうにもならない時もあるだろう。それに、病気や怪我を肩代わりすることなどできやしない。
敵を打ち倒す力があれば、仲間に迫る危機を排除してやることができるだろう。しかし、敵を倒しても仲間がその隙に攻撃されれば意味がない。それに、破壊しかできない力では傷を癒すことなどできやしない。
仲間を癒す力があれば、窮地に陥った仲間を救うことができるだろう。しかし、癒す間もなく即死してしまえば救うことはできない。それに、癒しだけでは敵を倒せず無限に続くループとなってしまうだろう。
どれを取っても何かが足りない。
慎司は悩み、苦しみ、答えを探していく。
そして、一つの答えに辿りついた慎司はアルテマに契約について尋ねる。
「……なぁ、アルテマ」
「なんでしょう、シンジ」
「契約ってどうすればいいんだ?」
「水晶玉を手に取って、私の体のどこかに契約の口付けをしてください」
手の甲なんかにするだけでもいいのだろう。
“口付け”と口にした時のアルテマが、少しだけ照れたように感じたのは慎司の錯覚だろうか。
「それじゃ、契約しよう」
「答えが決まったようですね……では、どうぞ」
慎司の言葉に、ほんの少しだけ頬を赤く染めたアルテマが手の甲を上にして、右手を差し出してくる。
それを見て、慎司は水晶玉を3個手に取る。
「なっ、シンジ何をしてっ……んん!」
「なぁ知ってるか、アルテマ」
驚いて目を見開いたアルテマの右手をグイッと引っ張り、慎司は慌てるアルテマの口を、自分の口で塞ぐ。
口付けは一瞬、驚きで何も言えないアルテマに、慎司はニヤリと笑って──
「──俺はな、我侭なんだよ」
そう言って契約を済ませたのだった。




