149.口付け
目の前の金色の少女に手を伸ばす。
サラサラとした手触りが指の隙間を零れ落ちていく。
「俺は、どこまでやれば……」
暗い部屋の中、男の声だけが反響する。
心地よい手触りに顔を顰め、男は内心の苛立ちを抑えきれずに乱暴に椅子から立ち上がる。
ガタリ、と音を立てて椅子が倒れる。
その音にさえ怒りを覚えるほど、男の心は荒れ狂っていた。
瞳に宿った魔眼のお陰もあり、着実に目的へと近づいている実感はある。
しかし、例えどんなに策を弄しようとも、小細工など無視出来るほどの力があれば、男の計画は簡単に崩れ去ってしまうだろう。
なまじそれを理解しているが故に、目的への足がかりとなるルガランズ王国襲撃の件で相対した『蒼剣』の存在が気がかりだ。
「人質はいるが、魔眼の仕組みに気づかれちゃ……おしまいだ。どうやれば、奴を退けられる?」
立ち上がったままぐるりと部屋を歩き回り、男は窓の外に広がる景色を眺める。
暗く沈んだ荒野────それが見た瞬間に湧いた感想だ。
ゴツゴツと出っ張った岩肌や、潤いを感じさせない乾いた大地がそう感じさせるのだろう。
「ここも、絶対に見つからないとも言えない。奴の友人らしき男は殺してみせたが、心が折れたりはしないみたいだし……いざとなったらこいつを殺すか」
心の中を表すかの如く荒れ果てた大地を背にして、男は金色の少女へと目を向ける。
行き場のない憎悪に塗れた視線は、見られた者を不快にさせるであろう。
それが普通の状態であれば、の話だが。
「魔眼も、狐のガキも、使える物はなんだって使ってやる。……ニナの苦しみを、この国の連中に思い知らせる。そう決めたからな」
明かり1つない薄暗い部屋で、男は静かに決意を新たにする。
失われた妹、国への憎悪、世界への呪詛。
あの日からぽっかりと胸に空いた穴を塞ぐように、激しい怒りが埋め尽くす。
「絶対、殺してやる」
腹の底から放たれた恨み言は、虚しく荒野に吸い込まれるだけだった。
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騎士団を訪ね、ディランと話をした後、慎司はコルサリアとアリスの待つ家へと帰ってきていた。
「……ただいま。コルサリア、アリス」
屋敷は広く、リビングに人が1人いないだけでやけに広く感じる。見ればコルサリアも同じことを思っているのか、浮かない顔をしている。
ソファに座っているアリスだけは、ルナの不在の理由に気づいていないのでいつも通りだが、他のメイドたちやグランにステルたち召喚組もいい表情とは言い難い。
「おかえりなさい、シンジ様。その……また出かけるのですよね?」
返事をしてくるコルサリアは、慎司の表情からこれからどうするのかを読み取ったようで、寂しげな笑みを浮かべながら、近寄ってくる。
「ああ、長い間家に帰ってこない女の子には、お仕置きが必要だからな」
「……シンジ様」
なるべくコルサリアの顔を見ないようにして放った言葉だが、所々震えてしまった声音のせいで、強がっているのが丸わかりだ。
「我慢、しなくていいんですよ……?」
「我慢?何を我慢するって言うんだ。俺はただ単に家族を救いに行くだけだ」
「前に言いましたよね。私はとことんシンジ様を癒しますって」
いつの間にかリビングには慎司とコルサリアだけになっている。
気を利かしたグランやステルたちがアリスを連れて部屋を出ていったのが、気配でわかる。
「ルナちゃんが囚われてからのシンジ様は、その……とっても辛そうでした。まるでこの世の終わりを見たような、そんな表情でした」
コルサリアの銀色の尻尾が、項垂れるように垂れている。
目を奪う胸の前で組み合わされた指は、忙しなく絡みを解いては再び絡むのを繰り返している。
「そして、何となく。……知っていたようにも感じました。まるで2度目のような、表情にも思えたんです」
その言葉を聞いて、慎司は肩をビクリと上げる。
そう、何かを失うのは、2度目なのだ。
家族のように思っていた存在が、一瞬にして消えていく光景。自分を信じて散っていった仲間の顔。そして、世界を色づけた少女の声。
「よく、見てるんだな……」
「愛した人を見てしまうのは、しょうがないじゃないですか」
「俺は、愛されてる、んだな……」
「ええ、少なくとも……私とルナちゃん、アリスの3人には」
愛されている。それがどれだけ力になるか。
慎司は1度息を吸い込み、大きく吐く。
自分の中で渦巻く悪感情を吐き捨てるつもりで。
「コルサリア、少しだけ……勇気を貰ってもいいか?」
「ええ、私はいつでも貴方の味方でいますから……」
目と目で合図をする。
どちらともなく肢体に腕を回し、慎司は背中に、コルサリアは腰に巻き付ける。
密着度の高い格好になり、より強くお互いを感じることが出来る。
「俺は、本当は怖かったんだ。ガレアスが殺されて、ルナも殺されるんじゃないかって」
「……ええ」
「でも殺されなかった。その事に安堵している自分が、余計に嫌で、腹立たしくて……」
「はい」
「なんでだ?なんで俺なんだ?なんで俺から奪っていくんだ……!」
強く、強く、強く。
想いが、怒りが、慎司の回した腕へと力を込めさせる。
きつく抱きしめても、コルサリアは何も言わない。ただ相槌を打つだけだ。
それが、嬉しかった。何も言わず、ただ聞いてもらえるだけで、心が楽になる。
「いつもだ。命令されるままが嫌で多少の権力を得たが、それでも奪われた。今だって力があるのに奪われる」
「……シンジ様」
「愛しても、大切にしても、すり抜けていくんだよ。何もかもが」
「シンジ様!」
心情を全て吐き捨てた慎司の唇に、コルサリアの柔らかな唇が押し付けられる。
感触はすぐに離れたが、慎司の意識は一瞬で暗い思考から引き戻された。
コルサリアは朱の差す頬に潤んだ目を向けて慎司を見つめてくる。
まるでその目は全てを見透かしているようでもあり、何もかもを包み込むような眼差しだった。
「大丈夫です。ルナちゃんは戻ってきます。何より貴方が救いに行くのでしょう?貴方が信じなくてどうするのですか。何事も信じることからですよ」
「でも、俺は……」
「どうしても信じられないなら、私を信じてください。私はシンジ様を信じますから」
冷静になって考えてみれば、よくわからない言葉ではあるが、ここで重要なのは意味ではなく意思なのだ。
自分を信じれないなら、自分を信じる誰かを信じる────いい言葉だな、と思える。
慎司は1度だけ強く抱きしめると、抱擁していた腕を緩める。
「ありがとう、コルサリア」
「どういたしまして、シンジ様」
礼を言う慎司に、コルサリアはふわり、とはにかんでみせる。
その笑顔がやけに眩しく思えて、目を細める。
覚悟は決めていたつもりだが、さらに気を引き締められた気分だ。
慎司は右手を強く握り、ドアへと歩き出す。
「それじゃ、行ってくる」
「はい、いってらっしゃいませ」
一緒に来ると言わないのは、力不足を悟っているからだろう。
背中越しに見つめてくる視線を受け止めて、慎司は精霊の森へと再び訪れるべく、転移魔法を発動するのだった。