15.夕暮れの告白
ルナが洗濯を終えて部屋に帰ってくる。
慎司はその様子を疲れた表情で見やる。
「ご主人様?」
ルナが心配そうな声を出す。
「なんでもない、気にしないでくれ」
「でも……」
「俺は大丈夫だ」
食い下がるルナに、慎司は右手をひらひらと振る。
慎司は、何も言わない、言えない。
普通では有り得ない事が、自分に起こっているのだ。記憶が無くなるなんて、馬鹿げている。
些細なことでも、取り留めのない会話の内容でもない。大切な部下の、上官の、訓練官の、恩人の名前が思い出せないのだ。
脳に刻みつけられたはずの事が消える。
そんなことを言われても困るだろう。
だから、言わない。
それに、心配事は増やしたくない。ルナはまだ立ち直りきっていないのだ。だから、言えない。
ソファーに座ったまま、慎司は項垂れる。
その様子を見て、ルナは悲しくなる。
どうして何も言ってくれないのか。そう思ってしまう。
それに、こんなに憔悴しているのに、大丈夫なわけがなかった。
「ご主人様、よければ私にお話を聞かせてくれませんか?」
「……でも」
「私なら大丈夫です、話して楽になるなら、ご主人様は私に話すべきです。辛いのに無理はしないでください」
慎司は少し驚いていた。
ルナは、慎司のことを考え話を聞いてくれるというのだ。あんなに怯えていた少女に、自分は何を言わせているのだろうか。そう思うと慎司は自分が情けなくなった。
「例えば、例えばだ。ルナが大切な誰かの名前や顔を忘れたとしよう。そして、自分はその大切な何かを忘れていることだけは分かるんだ」
慎司は、ゆっくりとルナに話し出す。
ルナはその三角形の耳をピンと立たせ、一言も聞き逃すまいとしている。
「それが、今ある自分を構成する大切な思い出だったり、忘れないようにと強く刻んだものなんだ。まるで、自分が自分じゃなくなるような感覚に陥る」
語る慎司の言葉を、ルナはただ静かに聞く。
「記憶がないのが怖い、大切なものを無くしたような気がするんだ。これからも忘れていくのかと思うと、震えが止まらない」
いつしか、ルナは慎司の近くに寄り添い、その手を握っていた。
「ご主人様、私はご主人様がどうなろうと、どれ程変わろうと、私は……私だけはご主人様の傍に居続けます」
「ルナ……」
自分を助けてくれた恩人が、大好きになってしまったご主人様が怖いと言うのだ。だったら私はその恐怖をせめて和らげてあげよう。ルナはそう思った。
「大切な思い出が消えるのは確かに怖いことです。消えゆく記憶に恐怖を覚えるのは当然です。ただ、それでも私は味方であり続けます。私がご主人様を支えます。怖いなら共に立ち向かいます」
慎司は、自分の中に暖かな感情が湧き上がるのを感じた。
触れ合う手から、温もりが伝わる。
「それに、全てを無くしても、ご主人様はご主人様です。ご主人様が忘れても、私はそのことを覚えています」
「なんで、そこまで……?」
ルナは、これだけ自分に尽くそうとしてくれている。記憶がなくても、思い出がなくても、慎司が自分を見失っても味方でいると、傍にいると言ってくれる。
どうしてここまでしてくれるのかと、そう思った。
「どうしてそこまでしてくれる、俺はただの主人であるだけの他人だろう?」
「いいえ、ご主人様。私はご主人様に救われたのです。あの地獄のような日々から、暗く鬱屈とした場所から」
ルナはそう言うが、慎司はただ狐族の少女にかつての記憶を重ねただけだ。
今となっては思い出せない、忘却の中の少女に。
「それに、私はご主人様が好きです。王子様の様に、思ってしまったんです」
ヒロインが窮地に陥る、または難病に罹る、或いは悪役に囚われる。
いつだって助け出すのは王子様やヒーローだ。
喉を焼かれ、碌な食事も与えられない生活からルナを助け出した王子様は、慎司だった。
「だから、今度は私がご主人様を助けます。辛いなら支えます、寂しいなら傍にいます、悲しいなら涙を拭います、私が、そうしたいんです」
慎司は、自分の目から涙が零れるのを感じ取った。いくら体を鍛えても、心は脆弱なままである。ましてや軍の訓練を忘れた慎司の心は、とても脆かった。
それゆえに恐怖に負ける。
だからこそ、涙を流せる。
「ルナ、俺は……。最低だ、大切だと言いながら忘れる。無くしたくないといいながら失う。そんな俺は……」
「いいえ、そんなご主人様が私は好きなのです。例え無くしたものがあっても、忘れたものがどんなに大切であろうと。私にとって重要なのは、ご主人様がご主人様であることなのです」
最低であろうが、構わない。
ルナにとっての慎司は、今ここにいるのだ。
「それにご主人様、忘れてしまうというのなら、ずっと傍にいると誓った私が代わりに覚えておきましょう」
慎司はルナの言葉に優しく溶かされる。
大切な部下を思い出せなくても、ルナはいいと言ってくれる。
自分が覚えておくから、怖がらなくていいと言ってくれる。
「ルナ、俺には仲間がいたんだ。みんないい奴だったはず、時には悪ふざけもした、仕事となると真面目な点を俺は気に入ってたんだ」
「良いお仲間さんですね……」
「ああ、最高の仲間だ。俺のために死んだ奴もいた、俺が守れた奴もいた」
記憶にあることを必死に口に出す。
無くした名前と顔は戻らないが、どんなに大切だったかは、思い出せる。
「戦うことが取り柄の俺をみんな慕ってくれてた。みんなが推薦してくれて、俺はどんどん出世した」
「……ご主人様」
「ルナみたいに可愛い奴はいなかったはずだ。男だけの部隊だったんだ。そういえば訓練と称してよく覗きをして怒られていた奴もいたな」
そこまでだった。
記憶がここで途絶えている。
辛かった訓練の内容も、心にグッときた上官の名言も、たくさんの失敗や成功も、思い出せなくなっていた。
「……ルナ、お願いだ。あいつらと共に生きてきた俺を忘れないで欲しい。もう殆ど思い出せないけど、大切な記憶のはずなんだ」
「……お任せ下さい」
記憶は軍人としての記憶だけが消えていくようだ。高校で親しかった友人や両親の顔は思い出せる。思い出せないのは、高校を出た後だ。
30年以上の記憶の空白の後に、この世界の記憶が始まる。
無くしたのは記憶だけだろうか。
それとも考え方まで変わってしまうのだろうか。
今の自分の考え方や思考回路からは、変わって当然だろう。
人間、生きてきた経験から考えを導き出すのだ。記憶が消えたのならば、残った記憶のみで考えは纏まろうとする。
肉体は高校生の頃ぐらいに戻っている。
もしかしたら記憶の方が後から肉体に追いついてきただけかもしれない。
それなら、記憶もやがて戻るのだろうか。
そうだと、いいな。
慎司はそう思った。
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慎司とルナは、手を重ね合わせたまま、暫くそのままでいた。
なんとなく手を離すのが躊躇われた。
「そういえば、ルナ。俺のことが好きって言ってたよな?」
「……っ!」
間が持たないため、話を振った慎司だったが、振る話題を完全に間違えた。
一瞬でルナの顔が真っ赤になり、ふさふさの耳と尻尾はピンと立った。
「あれって、ほんとか?」
「うぅ、そのぉ……はい」
「そっ、そうか……」
まるで思春期の男女のような会話。
慎司もルナも、お互いに顔を赤くしていた。
「そ、そうだ!飯!腹減ったよな!?」
「そうですね!ご飯を食べましょう!」
2人は誤魔化すように、食堂に向かい、少し早い夕食をとることにした。
ちなみに、2人とも妙に緊張して、食事の味は覚えていない。
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食事を終えて部屋に戻っても、2人はずっとお互いを意識していた。
ルナは好意を表に出してから以前より意識するようになり、慎司も、目の前にいる可憐なルナの姿に心奪われていた。
鋼の精神は、とうの昔に忘れ去った。
「……すぅー、はぁー」
このままじゃダメだ、と慎司が打開策を探していると、ルナが何やら真剣な顔で深呼吸をし始めた。
「ルナ?」
何だか覚悟を決めたような顔のルナ。
慎司を見つめるルナは、やがてその口を開く。
「ご主人様、私は、ご主人様が好きです。ご主人様は……私を好きだと言ってくれますか?」
いきなりだった。
ルナの改まった告白に、慎司は胸の鼓動が早まるのを感じる。
真剣なその顔から、目を離せないでいた。
「俺は……その、好きだよ」
「えと、ご主人様は……私を抱きたいと思いますか?」
「は!?何言って……!」
慎司はルナの言葉に焦る。
こんな展開は予想していなかった。
正直な話をすれば、もちろん抱きたい。
慎司だって男なのだ。可憐な少女であるルナから告白され、体を許すような発言までされたのだ。たまったものではない。
「どうなんですか?やっぱり私じゃ魅力、足りないですか……?」
「そんなことない!ルナは十分魅力的だ!」
勢いに任せて変なことを言ってしまった。嘘ではないが、わざわざ断言するようなことでもないだろう。
ルナは顔を赤くしてもじもじとしている。
「なんでいきなりこんな話を?」
「その、私はご主人様が……好き、なので。ご主人様も私を好きだと言ってくれるなら、そういうこともやぶさかではない、と思いまして」
慎司は少しだけ冷静になる。
慎司は、ルナのことが好きだ。こんなに尽くそうとしてくれる相手を好きにならないわけが無い。我ながら単純ではあるが、だからこそ確かな気持ちである。
「……ルナは、それでいいのか?」
「はい、ご主人様になら、全てを捧げます」
「っ!」
全てを捧げる、そんなセリフを女の子から言われて、慎司の脆い理性は崩壊する。
記憶が無くなるという、異常な事態が起きて、慎司の心は酷く磨り減っていた。
そこに優しい言葉をくれるルナが、どれだけ輝いて見えたことか。
今日だけは、今だけは……
溺れてしまうのもいいのかもしれない。
そう思ってしまった。
慎司はルナをベッドに腰掛けさせる。
小さなルナの肩に手を置くと、ルナはピクリと体を強ばらせる。
「目、閉じて」
慎司がそう言うと、ルナはゆっくりと目を閉じる。両手はスカートをギュッと握り込んでいる。
慎司はゆっくりと顔を近づけていき、その柔らかな唇に、優しくキスをした。
「……ん、んん」
「……ルナ、好きだよ」
僅かな水音、甘い時間は流れていく。
やがて、緊張の解けたルナの体を慎司はダブルサイズのベッドに寝かせる。
ルナもこれから起こる行為が何なのか、ちゃんと理解しているようだ。
既に太陽は沈み、月が世界を照らしている。
すべてを飲み込むような闇が広がり、一時の感情に溺れていく2人を包み隠す。
2人が眠りについたのは、それから2時間後だった。
慎司の身に、何が起こっているか、次ぐらいには書いていきたいと思います。