141.神から神へ
慎司の、一言も聞き逃さないようにする表情を見て、テミスは小さくため息をついた。
その顔には憐憫と諦観が浮かんでおり、これからされるのが、あまりいい話ではないことを十分に伝えてくれる。
「あなた、その質問がどれ程危険なのかはわかっているの?」
「いいえ、わかりません。それでも知らなければいけないと思うんです」
慎司は素直に答えた。知らないものは知らないのだ。
ここは無知を逆手に取ってどこまでも貪欲に情報を得ようと考えたのだ。
「まぁいいわ。……どこまで信じていいのか、だったわね?」
テミスは呆れた口調で一旦言葉を区切ると、慎司の前に手を差し出す。
その行為の意味が分からず慎司が動けずにいると、テミスが説明してくれる。
「話すと長くなるでしょうから、直接情報を送り込むわ。記憶の剥離に耐えられた貴方ならば、これぐらいは平気なはずよ」
「手を、握れば……?」
頷くテミスの手を、激しく嫌な予感を覚えながらも握ると、それはやってきた。
「あっ、が……」
手に触れた瞬間流れ込んできた、情報という名の暴力の奔流。
知っているものも、知らないものも、見てきたものも、知識として蓄えていたものも、一切合切関係なく、情報が頭の中に流れ込んでくる。
感じるのは痛みであるが、同時にスッキリとした気分の良さも感じていた。
「なんだ、これ……なんなんだこれ」
情報を得ていくにつれて、慎司は感情を昂らせていく。
痛みに耐えるように握られていた拳は、いつしか耐え難い、煮えたぎるような熱い感情を押し留めるために握られていた。
「……シンジ、人の子よ。貴方はずっと踊らされていたのだわ。あの原初の神に。知らないうちに記憶を差し替えられ、ずっと、ずっとね」
流れ込んでくる情報。その中にはテミスと原初の神アイテールのやりとりもあった。
そう、記憶の欠落に悩む慎司を嘲笑う姿や、世界に細工をして影を生み出した情景がテミス視点で流れ込んできたのだ。
それを受け取った慎司に残ったのは、怒り。
「最初から、最初から騙していたのかッ!俺が悩むのを見て!疲弊するのを笑って!立ち直るのすら一興だと?……ふざけるのも大概にしろ!」
アイテールがこの場にいないため、耐え難い程の怒りは行き場を失う。
目の前にいるテミスに当たるのは八つ当たりだ。それを分かっているからこそ、慎司は体の内側から溢れる感情に身を任せ、強く地面を踏み付ける。
「全部……全部全部全部全部ッ!」
これまで行ってきた行動が。
信じてきたものが。
思ったことが。
「全部嘘だって言うのかよ……!」
どれだけ自分がルナを愛していると言っても、それは偽物の心なのかもしれない。
どれだけ自分がコルサリアを大切に思っても、それはまやかしかもしれない。
どれだけ自分がアリスを愛おしいと感じても、それは作り物かもしれない。
「そんなの、あんまりだろ……!」
怒りと悲しみ、混じりあった感情のままに慎司は絞り出すような声を出す。
信じてきたものが全て瓦解して、惨めさに打ちひしがれる姿を、テミスはただじっと見つめていた。
貼り付けられていた嘘の記憶に惑わされることのなくなった今、慎司には自分の馬鹿らしさがよく分かる。
この世界に来た経緯も忘れ、生前の記憶を無くし、守る理由を思い出せずに生きていたのだ。これを馬鹿と呼ばずになんと呼べばいいのだろうか。
記憶を無くしても側にいてくれると誓ったルナの思いも、信頼してくれていた部下の顔も、あの日救えなかった少女の名も忘れて、自分は何をしていたのだろうか。
大切な人を守りたい?国が傾く?──そんなことは関係ない。
自分のことすら忘れて人のことを救えるのだろうか。そんなはずはない。
己の過ちに気づいた慎司は、自分に対する怒りを覚えながらも、冷静さを保つ。
今は馬鹿な自分を叱るよりも行動すべきであろう。
虚構の記憶に気づいたのならば、真実を取り戻すべきだ。
そのために慎司は、決意を秘めた表情でテミスへと向き直る。
「……そうね。貴方ならそうすると思ったわ」
心を読んだのだろう。テミスは慎司が何も言わない内に先んじて言葉をかけてきた。
おもむろに差し出された右手の上には、淡く光る球体が乗っている。
それが何なのかはわからないが、テミスの言葉からして受け取るべきなのだろう。
「本当の貴方のままでいるためには、アイテールの干渉を防ぐことが重要になるわ。これはその役目を担ってくれるのよ。受取りなさい」
慎司が手を伸ばすと、テミスが球体について簡単な説明をしてくれる。
説明を聞く前からそうであったが、聞いた言葉の内容を考えると、ますます受け取らない理由がない。
「ありがとうございます。……でもここまでしてくれる理由は?」
素直に球体を受け取れば、伸ばした手の先に球体はスルリと溶け消える。
それを確認した慎司は、疑り深くなっているのを自覚しながらも一つだけ質問をする。
ここまで唯唯諾諾と言われるがままに受け入れてきたが故の現状、全てをというわけではないが、不確かなものは確実にしておきたかったのだ。
「簡単な話よ、私はアイテールのことが煩わしいのよ。だから貴方に殺して欲しいの。原初の神をね」
「神殺しなんて、俺にできるとでも?」
神殺し──果たして人間である慎司が成し遂げれる偉業なのだろうか。だが、その疑問にはすぐに回答が言い渡される。
「そのために力を与えたのよ?その目と、魔力、身体能力も。……そうね、事が一段落ついたのならば、精霊王に会うといいわ。彼女はきっと協力してくれるはずよ」
「精霊王……どうして?」
「行けばわかるわ。私が協力を確信している理由も、貴方がすべきことも……ね」
テミスの言葉を最後に、慎司の意識が薄れていく。恐らく肉体の損傷が回復されつつあるのだろう。
途切れ途切れになる意識を必死に繋いで慎司は叫ぶ。
「アイテールを、神を殺せば世界はどうなるんですか!」
その問にテミスはゆっくりと口を開く。
緩慢な動作が、薄れていく意識もあって非常にもどかしい。
既に声は聞こえなくなり、完全に意識が闇に閉ざされる間際に見た、口の動きだけで判断することになる。
────終わりになるの、何もかも。
そう言っていたような気がした。
何が終わりになるのかは分からないが、劇的な変化は起こるのだろう。
落下する感覚とともに、慎司は意識を手放した。