140.記憶の在処
神妙な顔つきをした目の前の女性は、慎司ではなくどこか遠い所を見つめて話し出す。
「まず、第一前提となるのだけれど、貴方は私のことを覚えているかしら?」
「覚えてるもなにも、初対面のはずでは……?」
記憶の底まで探っても見当たらない女性の顔をまじまじと見ながら返答すれば、綺麗な顔立ちが複雑そうに歪む。
「そう……そういうことになってるのね」
女性はそう言うと、表情を戻す。
悲しそうな、それに怒りを滲ませた表情はなりを潜め、代わりに完璧と言えるほどの微笑が貼り付けられる。
「私の名前はテミス。法と秩序を司る女神よ」
テミス──そう女性が名乗った瞬間、慎司は軽い頭痛を覚えた。
まるで脳みそに電極を刺して弱めの電流を流したような、鋭い痛みだ。
「っ!」
「……そして私は、貴方が死んだその時に会っているわ。貴方がこの世界に転生する、その前にね」
テミスから投げかけられる言葉のひとつひとつが、慎司の頭痛を酷くしていく。
鋭かった痛みはやがて、貼り付けた何かを剥がすように鈍く、持続性のあるものに変わり出す。
「待ってく、ださ……頭が……」
「頭痛がするでしょう?貼り付けられた嘘の記憶を剥がしているのだから、当たり前ね」
「嘘の、記憶……?」
「ええ、そうよ」
テミスが話すのをやめないため、痛みはずっと続いている。
遂に慎司は耐えきれずに膝を折った。
ズキズキと痛む頭を片手で押さえつつ、どうしても気になる一言──嘘の記憶について耳を傾ける。
「貴方の記憶は偽物なの。それすらもわからないようになっているけれど、確かに偽物なのよ」
「そ、んな……」
「──そんな事言われても信じられない?……でも貴方はおかしいと思わなかったの?どうして自分がこの世界にいるのか、どうして自分が金狐族の少女を助けたいと思ったのか」
テミスの質問に答えようして、自分の記憶にぽっかりと空いた大きな穴──記憶の欠落を慎司は自覚する。
どうしてルナを助けようと思ったのか。どうして失いたくないと手を伸ばしたのか。どうして自分を犠牲にしてまで救おうとするのか。どうして、どうして、どうして────
加速する思考と増してくる痛み、頭の中を直接引っ掻かれている感覚に、吐き気すら覚える。
だが、それでも思考をやめることは出来なかった。
テミスの言った嘘の記憶について、慎司は考えなければならない。そうしないとダメだと己の中でもうひとりの自分が叫んでいるのだ。
「貴方、は……俺の本物の記憶を……知っていると?」
「ええ、もちろん。貴方の知りたがることには全部答えられるぐらいには、知っているわ」
「それなら、俺は……俺は──」
信じてきていた自分の記憶への、大きすぎる疑問を慎司は投げかける。
「どこまで信じて良くて、どこからが偽物なんですか?」
その答えを聞いて、慎司は自分というものを見失うことになるのだった────。
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失われた血液の補填をすべく、アルテマは周囲の魔力を集め、仰向けに寝ている慎司へとひたすらに注いでいた。
「…………自分の体のことを度外視しすぎです、シンジ」
ぽつりと呟いた言葉は、いつも通りの感情を思わせない声だったが、ほんの少しだけ、わかる人にはわかる程度の悲しさが混じっていた。
治療に専念しているアルテマだが、その横には顔を涙でぐしゃぐしゃにしているフラミレッタの姿がある。
泣きじゃくってひたすら慎司の名前を呼ぶフラミレッタ。それを不快に思ったのか、珍しく語気を強めた声がアルテマから出てくる。
「シンジさん、シンジさん……」
「少し静かにしてください、フラミレッタ。手元が狂います」
「あっ、その……ごめんなさい」
なんでもないようにやってはいるが、大気中の魔力をかき集めて人に注入する行為は、正直なところ人間業ではない。
泣いていたフラミレッタもそのことを思い出すと、口元を手で押さえて声が出ないように努める。
「そうです。そうしていてください。できれば離れていて貰えれば助かります」
「や、やだ……せめて近くにいさせてください!」
「だからうるさいです、フラミレッタ。……静かにしているなら、近くにいてもいいですよ」
「わかりました……!」
癒えるのが遅い慎司の体に視線を向けながら、アルテマは淡々と作業をこなす。ひたすらに魔力を集めては、注入するのだ。それはまるで機械のようにも思えて、人としては破綻しているだろう。
その姿をこれまたひたすらに眺めるフラミレッタも、なかなかに壊れているのかもしれない。
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──それから何時間そうしていただろうか。フラミレッタには10分にも、1時間にも、10時間にも感じられるほどの不思議な時間感覚が流れ、いつしか慎司の傷は塞がり穏やかな寝息を立てて眠るようになっていた。
「シンジさんは、もう平気なんですか……?」
「いいえ、まだ傷が塞がっただけです。後は慎司の生きたいという気持ち次第です」
「そ、そうですか……」
傷が塞がったと聞いて少しだけ明るくなった表情が、平気になったわけではないと聞いて再び落ち込む。
フラミレッタが顔を伏せたその時、どこからかガシャガシャという金属音が聞こえてきた。
「鎧の音……?まさか!」
追っ手が来たのかと身構えるフラミレッタ。エイブリット王が殺された時には恐怖で動けなかったが、倒れた慎司を守らなければならないという思いが、追っ手への恐怖よりも勝り、辛うじて魔法を放つ体制に体が動く。
「アルテマ……さん?なにやってるんですか!敵かもしれないです!」
「いいえ、フラミレッタ。敵ではありません」
慌てるフラミレッタに対して緩く首を振るアルテマ。アルテマには魔力感知があるため、金属音を立てる者達の正体が最初からわかっていたのだ。
「向かってきているのは、敵ではなく騎士団の者達です」
そう言うとアルテマは蒼い粒子となって虚空に消えるのだった。