117.神の悪戯
「ねぇ、今度は何をしたの?」
そう尋ねたのは、額に青筋を浮かび上がらせ美貌を台無しにしているテミスだった。
「えー?なんのことかわからないなー」
白々しい態度でふんぞり返るアイテールは、怒り狂うテミスのことなど目に入っていないかの如く振る舞う。
その行動が余計にテミスを苛立たせるのだが、分かっていてアイテールは煽ることをやめない。
「わからないなー……じゃないわよ!なんなのあの黒い影は!これじゃあ世界のバランスが崩壊するわ」
「だって、それを望んだのは彼らなんだよ?僕はただ手助け──種をあげただけなんだ」
そう言って、口の端を歪めるアイテールの手には1粒の種が握られていた。
真っ黒い種は、そこに存在しているだけで何故か無性に嫌悪感を刺激する。
「なんなの、それ?」
「なにって……見てわからないかい?種だよ」
「それは分かるわ。何の種かってことよ」
黒い種を手のひらでコロコロと転がしながら、少し思案するような顔をすると、アイテールは唐突に1つの提案をした。
「ねえテミス。それを教えたところで僕にはなーんのメリットもないよね?」
「ええ、そうね」
「対価として、君が何かを支払ってくれるなら教えてあげよう」
相変わらずの無茶苦茶な性格で、取引を持ちかけてくる。
世界の秩序を守るためにもテミスは種の正体を聞かねばならない。
それを知っているからこそ、アイテールは強気な交渉をしてこれる。
「……いいわ、何が対価に欲しいのかしら?」
「何か履き違えてないかい?質問しているのは僕なんだよ?テミス、君は何を対価に差し出してくれるんだい……?」
苦虫を噛み潰したような顔をするテミスとは対照的に、アイテールの顔は心底楽しそうなものであった。
自分の優位を確信しているからこそ、強者の立場にいられる。普段何かと口煩いテミスを下に見ることができ、歓喜していた。
愉悦からか、楽しそうに喉を鳴らすアイテールの顔を睨みつけながら、テミスは差し出すことの出来る対価を考えていく。
(絶対足元を見てくるに決まってるわ。ギリギリのところまで搾り取ろう。そう考えているに違いないわ)
原初から存在しているアイテールは、快楽主義なところがある。長く生きてるうちに、楽しさを追い求めていくようになったのだとか。
そんなアイテールがテミスの苦しむ顔を見て楽しんでいる。
それはもう、差し出すことのできるギリギリのラインまで攻めてくるだろう。
「……あなたの好きなようにさせると、本当に世界が壊れかねないわ。前にやったこと、忘れてないでしょうね?」
「ああ、勿論だとも。忘れたことなんてないさ……ククク」
「最低ね、あなた」
嫌悪感を催させる態度のアイテールは、ひとしきり笑うと、対価を差し出すように催促する。
「それで?」
ニッコリと笑うアイテールに、テミスは諦めたような表情を浮かべて第1案を提示する。
「1つだけ、好きなことをさせてあげるわ。ただし、世界を壊さない範囲内で」
「……へぇ、もっとしょぼいのが来るかと思ってたんだけど、それなら別に問題ないかなぁ」
「それなら、例の黒い種について教えてもらえるかしら?」
思ったよりもスムーズに進む交渉に薄ら寒い思いを抱きながらも、テミスはそのまま話を続ける。
「そうだねぇ……まずこれはね、瘴気を集めて作ったものなんだ。これを飲み込んだりして体内に宿した生命体は、等しく己の影に取り込まれるんだ」
「影に取り込まれる……?」
「うん、今彼らを襲っているのは影でしょ?それらは元を辿れば彼らと同じ人間なのさ」
何でもないようにアイテールは言うが、テミスは目の前が真っ暗になる思いだった。
世界では魂が巡り、物質は還元され、1つの循環としてサイクルが成り立っている。
そのサイクルの管理も、一応はテミスの領分である。
「あなたねぇ……なんてことをしてくれてるの!これじゃあ上手く世界が回らないわ!」
「うん、知ってるし、わかってるよ?」
「ぐ、ぐぐ……わかってるなら、こんなことはしないでくれる?」
殴り飛ばしたい気持ちをなんとか押さえつけ、テミスは詰問する。
ただ、やはりというべきか返ってきた答えは、テミスをより一層怒らせるものだった。
「え、嫌だよ?」
「頭おかしいんじゃないの?」
「ひどいなぁ、僕は楽しいことが好きなんだよ。そりゃあやめないさ」
「何が楽しいって言うのよ!」
徐々にこらえきれなくなってきた怒りに、テミスの口調が段々と荒くなっていく。
それすらも、アイテールは楽しそうに眺めるだけであった。
「僕はね、人の苦しむ顔、悲しむ顔、怒る顔、苛立つ顔、泣きじゃくる顔、絶望する顔が大好きなんだよ」
その言葉で、テミスは目の前にいる男がまるで化け物のように思えてきた。
テミスはいつだって世界の秩序を守ろうとしてきたし、人間だけでなくあらゆる生物を愛おしく思っている。
それゆえに、アイテールのことが理解出来ない。
「あなたは、何を言ってるの……?」
「言葉の通りさ。知ってるかい?光が強ければ強いほど、影は濃く、深いものになっていくんだよ?」
「そんなの、当たり前じゃない」
「そう、当たり前さ。僕は知ってるんだよ、人がどれだけ黒くなれるかをね」
両手を広げて語るアイテールの目が、一瞬だけ憂いを帯びたように見えたが、それもすぐに何を考えているかわからなくなり、テミスはアイテールに目を向けていられなくなる。
「私、あなたが怖いわ……」
「そうかい?」
「ええ、とっても」
「ま、この種は時間が経てば消えちゃうから深く気にする必要はないと思うよ。……それまでにルガランズ王国は崩壊するかもしれないけどね?」
頭を抱えたテミスの耳に、楽しげに笑うアイテールの声だけが響いた。