男女逆転世界の婚約破棄。
※男女の逆転が価値観した世界でのお話です。ややこしいです。
そういった設定が苦手な方はご注意くださいませ。
「ウォレス・セントバーナー! 貴方との婚約を破棄しますわ!」
卒業式のパーティの最中だと言うのに、騒がしい叫び声が会場に響き渡った。
パーティの参加者達が何事かと声の聞こえた方を見てみれば、そこにいるのは第二王女クリスティナ。
彼女の傍には男爵家の子息であるラグナ・カリオスの姿があり、王女の影で優越感に満ちた薄気味悪い笑みを浮かべている。
「貴方がラグナにしてきた悪質な悪行の数々、最早許しておけません!
卒業資格は与えず、貴方はこの学園を……いえ、国外への追放処分と致します!」
周囲の喧騒を気にも留めずにクリスティナは一方的に宣告した。
その有様と、セントバーナー公爵家の子息であり、クリスティナの婚約者であるウォレスに対する処罰に、周囲の人々は驚愕してざわざわと騒ぎ立てた。
王女の宣告に驚いたのは、突然始まったこの騒ぎの観客達だけではない。
友人と卒業前の談笑を交わしていたウォレス当人は、何故このような扱いを受けねばならないのか、まったく理解できなかった。
「王女殿下、何故に私が国外追放など……そもそも、悪行とは何のことですか!?」
「まあ、この後に及んでまだ認めぬおつもりで? 貴方がラグナに醜い嫉妬心から行った嫌がらせは、最早悪戯で済まされるものではなくってよ!
ラグナを貶める嘘を学園に触れ回り、彼の制服や教科書をぼろぼろに引き裂いて、挙句の果てに階段から突き落としたというではないですか!」
クリスティナ王女殿下が言うその行いは、確かに貴族に似つかわしくない行いだ。
しかしウォレスはそのような悪行を行ってはいなかった。
身分の差を考慮せずに王女殿下に無遠慮に近づくラグナに、忠告をしたことくらいはある。
忠告といっても僅かなものだ。本来であればもっときつく言うべきだったのでは、と後で悩むくらいのそれとない注意だけ。
それ以上のことなんて何もしていない。王女殿下が婚約者を放って別の男と逢引をしていると噂には聞いていたが、学園にいる間のつかの間の自由くらいは邪魔しないであげたいと、後の時間は自分の勉学に励んでいた。
クリスティナ王女殿下もきっと、王家の者として正しい答えを選んでくれると、そう信じて。
だというのに王女殿下は、ウォレスのありもしない罪を声高に叫んでは、ウォレスの処遇が妥当であると周囲の同調を求めて「皆様もそう思いますわよね?」なんて声を掛けている。
「信じてください王女殿下、私は我が家の誇りにかけて、そのようなことは――!」
「やれやれ、潔く罪を認めず足掻くなんて見苦しいですよ? 兄上」
ウォレスの必死の訴えを遮ったのは、マリエル・セントバーナー……ウォレスの実の妹だった。
彼女は王女殿下の、いや、彼女の傍にいるラグナの傍で、彼を庇うように前に立ち、ウォレスに冷たい視線を向けている。
「まったく、兄上は公爵家の恥です。……ああ、そもそも貴方はもう兄上ではなくなるのですね。国外追放になるのですもの、そのような恥晒しはセントバーナー家からも追放せねばなりませんもの」
「マ、マリエル……君も、私を信じてはくれないのか?」
「当然ではないですか。王女殿下の婚約者という立場を笠に着て、他人を傷つける人なんて信用に値しません」
立場を笠に着る、なんてしたことは一度もない。
将来は王女殿下の傍で彼女を支えて、この国のために一生懸命に働こうと、努力を続けてきただけだ。
作法、勉学、社交界での処世術、どれもこれも王女殿下に相応しい男になるためにと、頑張ってきた。
それなのに、王女殿下は自分のことを罪人として処罰しようとしている。
家族である妹もまた、自分のことを信用できないと断じている。
彼女達の突き刺すような視線と言葉に、ウォレスは足元が硝子のように砕け散っていくような絶望を覚えた。
あまりのことに眩暈を起こして、膝から崩れ落ちてしまう。
ウォレスの様子を、罪を認めて観念したと思い込んだクリスティナがそれみたことかとでも言いたげに、婚約者であるはずの少年を見下した。
「ふん、ようやく観念したのですね。さあ衛兵、この罪人を捕らえなさい!」
王女殿下に命じられて、衛兵が傍に歩み寄ってくる。
しかし彼女達は、このまま本当にウォレスを捕縛してもいいものか迷っているようだった。
未だ悪事の証拠は何一つ提示されておらず、しかも容疑を掛けられているのは王女殿下の正式な婚約者であり、公爵家の子息だ。
だが彼女達も国に仕える衛兵として、王女殿下の命令を無視するわけにはいかない。
迷いながらも衛兵の女性達は、「ウォレス様、ご同行願えますか……?」と遠慮がちに尋ねるという、罪人を捕らえるには些か丁寧な対応を選んだ。
「ええい何をもたもたしている! このような罪人に遠慮など無用だ!」
しかし、それに痺れを切らしたように一人の女性がウォレスに駆け寄り、無抵抗な彼を強引に床に押さえつけた。
苦痛に顔を歪めながらも、ウォレスは抵抗しようとしなかった。
それなのに彼を取り押さえた女性はさらに力を強めて、ウォレスの腕を握り締めて、彼の背を踏み躙る。
「この貴族の恥さらしが! 国外に放り出す前にこの私、セイラ・キャリベルが成敗してくれる!」
誇り高い騎士の家系に生まれ育ったはずの彼女は今、恋に目を曇らせて暴力を振るうだけの女でしかなかった。
それに戒めることもせずに、王女殿下はセイラを行いに賛同するかのように満足そうな笑みを浮かべていた。
「貴様には余罪もありそうだからな、締め上げて全て白状させてや――」
セイラの言葉が突然止まる。
すぱあん! と。何かを叩くような音と共に。
その音が響くと同時にセイラによる拘束が解けて、ウォレスは痛む腕を顔を顰めながら呼吸を整えようと息を荒げた。
背中を強く踏みつけられていたせいで、ずっと息苦しかったのだ。
「くっ……だ、誰だ!? 私の顔を、」
「私ですが、何か文句でもありますか?」
苦しんで床に伏せているウォレスの傍に、一人の女性が立っていた。
彼女は、セイラの顔を叩いた鉄扇を正眼に構えて、セイラを睨みつけている。
その女性の持つ鉄扇には、王家の紋章が煌びやかに刻まれていた。
「――ト、トリストス第一王女様!?」
「あら。貴族の在り方を忘れても、わたくしの顔は覚えていたのね」
第一王女が傍にいるとあっては無様に床に這い蹲っているわけにはいかないと、ウォレスは慌てて身を起こそうとした。
しかし取り押さえられた時に腕を痛めてしまったらしく、支えにした手に痛みが走り、体勢を崩してしまう。
そんなウォレスに、トリストスは優しく手を掴んで、彼を助け起こした。
「この度は愚かな妹のせいで、本当に申し訳ございません……」
「い、いえ、そんな……」
戸惑ってしっかりと返答できないウォレスに、トリストス王女は安心させるように柔らかな微笑みを浮かべた後、セイラへと向き直る。
その顔は先程の優しさなど欠片もなく、愚か者への侮蔑と怒りが満ち溢れていた。
「人を守るべき騎士の家系に生まれながら、罪なき婦男子に暴力を振るうなど、恥を知りなさい」
「なっ……お、お言葉ですか王女殿下! この男は貴族にあるまじき罪人であります!」
「セイラ・キャリベル。それは、王女である私に対しての、正式な訴えとして思ってよろしくて?」
「は、はい! この者は権力を悪用して、一生徒に対して極めて悪質な行為を――」
「証拠は、揃っているのでしょうね?」
ウォレスが罪人であることを捲し立てていたセイラだが、トリストス王女の声色に怯んでその言葉が詰まる。
トリストス王女のその声には、有無を言わせぬ威圧感と、聞く者を恐怖に震わせる迫力が込められていた。
「王家に対して罪を訴えるのです。当然、証拠は十分に取り揃えているのでしょうね?」
「い、いえ、しかし被害者本人の証言が」
「証言だけでは法廷で通用しないことくらい、常識ですもの。無抵抗の、罪人と疑われているだけの人物を武力を以て取り押さえて、王家に突き出そうというのですから……証言しかありませんでした、なんて間抜けなことを言えばただでは済まない事、当然ご理解されておりますわよね?」
そこまで言われて、セイラはようやく自分が追い込まれていることに気付いたらしい。
先程までの妙な自信に溢れていた表情は曇り、「いえ、その……」と満足に反論もできずに呻いている。
「もしもそれを理解していないというのであれば……そのような無様な教育を施した者達も含めて、ただで済むとは思わないことね」
蛇に睨まれた蛙、とはこのことだろうか。周囲の人々がそのようなことを思うくらいに、トリストス王女の鋭い眼光を受けたセイラは、表情を強張らせて今にも倒れそうに足を震わせていた。
「家族にまで罪を及ばせたくないのであれば、大人しく連行されなさい。抵抗すれば……言わなくても分かるわよね?」
トリストスが命じると、衛兵達がセイラを取り囲む。
既にセイラが反抗する様子はなく、恐怖に身を竦めたまま、彼女は衛兵に連れられて会場を退出させられた。
「お集まりの皆様、王家の一員であるべき我が妹の愚かな行いにより、記念すべき卒業式典をこのように騒がせてしまい、申し訳ございません」
セイラの退出を見届けた後、トリストス王女は謝罪と共に頭を下げた。
王家に連なる者が頭を下げるというのは、非常に重い意味を持つ。本来なら一生見る機会がないであろうその光景に、会場にいる人々は驚愕していた。
それは、愚かと称されたクリスティナも同様で、自分の味方であるはずのセイラが退場させられたことに文句のひとつも言えず、姉の姿を呆然と見ていた。
「マリエル・セントバーナー」
名前を呼ばれて、彼女は怯えた様子で「ひっ……」と声を漏らした。
ああ、昔から強がりなくせに本当は怖がりで、子供の頃はよくあんな顔をしていたな、なんて。
目の前の光景がまるで現実感がなくて、遠い昔に思いを馳せながら、ウォレスはその光景を見ていた。
「人を愛するのはいいでしょう。しかし恋に盲目となり、血の繋がった家族の言葉をまるで信じようとせず罪人にしようなどと……貴女には家族への情はないのですね」
「お、王女様! 確かに証拠はありませんが、ラグナは本当にいじめられて――」
「はっきりと申しましょう。貴女の言葉なんて、まるで、これっぽっちも、信じられない」
「――!」
それ以上は語る価値もない、とばかりにトリストス王女はマリエルから視線を外して、歩み出す。
その歩みは堂々としていて、ただ歩いているだけだというのに優雅なものだった。
彼女はそのまま誰に邪魔されることもなく、この騒動の主の前に辿り着いた。
「ね、姉さま――」
「この愚か者め」
クリスティナの呼び声を遮り、トリストスは冷酷な声で告げる。
その眼光は彼女がいつも家族に向けていた優しいそれではなく、王家の者として罪人を裁く執行者としてのものだった。
「婚約者がいる身でありながら、別の男に現を抜かすだけに飽き足りず、王族としてあるまじき振る舞いでこのような騒ぎを起こすなど……王家の恥である」
「そ、そんな! お姉様、わたしは!」
「王命は国王様から改めて下されることになるが……汝の王位継承権の剥奪は決定されていることを伝えておく。己が罪を悔い改めよ」
「……お、おねえ……さま……」
他人行儀な言葉遣いのまま、トリストスは妹への言葉を終える。
家族からそのように扱われるとは思っていなかったのだろうクリスティナは、絶望の底に沈むようにへなへなと床へ崩れ落ちた。
最後にトリストスが睨み付けたのは、自分の家族を誑かして、王家に仕える忠臣に下劣な牙を向けたラグナ・カリストだ。
「ラグナ・カリストよ。申し開きはあるか」
「ト、トリストス王女殿下! ウォレス公爵子息による悪事は真実であります! この身体には階段から突き落とされた際の傷も残って――」
「そうか。――そんなに、死にたいか」
ぱちん、と。王女殿下が指を弾き鳴らす。
すると何もなかった空中にいくつもの魔法陣が浮かび上がり、陣を構成する魔力が光り輝く鏡となって、いくつもの光景を映し出す。
トリストス王女が作り出した魔法の鏡には――ラグナ・カリストの姿が映し出されていた。
自らの手で自分の制服や教科書を切り刻んだ姿が。階段から一人で落ちていく姿が。「これであの娘達はみんな俺のものだ」と高笑う姿が。
「汝の罪は明らかだ。王家に対して虚偽を働き、己が欲望を満たさんとするその悪行――万死に値する」
「な、あ……何、その魔法……そんなの、ゲームにはない……」
「国王様に代わり、汝への王命を告げる。余罪の追及が終わり次第、極刑と処す」
その王女の宣言を待っていたかのように、王家の紋章が刻まれた礼装に身を包んだ騎士達がどこからともなく現れる。
彼女達は罪人であるラグナ・カリストを迷うことなく捕縛して、連行するのだった。
〇
「この度は貴方には本当に申し訳ないことをしてしまいました。王家を代表して、謝罪させていただきます」
深々と頭を下げるトリストス王女殿下に、ウォレスは慌ててつい「い、いえこちらこそ」なんて謝り返してしまっていた。
卒業式の騒動から既に半月が過ぎて、色々な後始末が落ち着いた頃になって、トリストス王女殿下に呼び出されたのだ。
場所は王宮の庭。王女殿下と二人だけでテーブルに座って、彼女と向かい合っている。
そして真っ先に行われたのが、彼女からの謝罪だった。
王家に嫁ぐための教育を受け続けてきたとはいえ、自分はあくまで王家に仕える身であると心を戒めてきたウォレスにとって、王女様に頭を下げられるというのは何度されても慣れないものだった。
あの後、ウォレスとクリスティナの婚約は解消されることになった。
クリスティナの側が既に王位継承権の剥奪が決定されており、婚約を続けるのに相応しくないためだ。
彼女は処刑こそ免れたものの、今後は王宮内でも生涯肩身の狭い思いを続けることになるだろう。
現在はラグナの真の所業を知ったことで塞ぎこみ、自室に引き篭もっているそうだ。
肩身の狭い思いをするのは、他の女性達も変わらない。
マリエルは両親から公爵家の追放が言い渡されようとしていたのを、ウォレスがなんとか庇ったことで家に残してもらえている。
しかし兄を無実の罪で追放しようとしたことによって、最早使用人達にも冷たい視線を向けられる立場となった。
さらに、自分が散々罵倒して切り捨てようとした兄に庇ってもらったとあっては、本来真面目な性格をしている彼女自身が自分を許せなくなっているようだ。
使用人達の話によると、毎日のように自室からは「ごめんなさい、ごめんなさい……」とすすり泣く声が聞こえてくるらしい。
セイラは、実家で軟禁状態で再教育を施されているらしい。
彼女が毎日大切にしていた騎士剣は折られて、恥晒し者の剣としてキャスベル家の戒めの証として飾られているそうだ。
騎士の誇りである剣と共に彼女のプライドも折れたようで、今のところ大人しく教育を受けているとのことだ。
そしてラグナ・カリストについては――宣言通り、処刑された。
彼が何故あそこまで女性達に執着したのかは、今でも謎のままだ。
聞いた話では「こんなのゲームのシナリオにない」「主人公の処刑とか、なんてバットエンドだ」と理解できない呟きを零していたらしい。
余罪追及のために彼を問い詰めた人々も、まるで理解できないままだったそうだ。
「私は、その……もう王女殿下の婚約者ではありませんが、これからも王家に仕えたいと存じ上げます」
「そう、ですか。そう言っていただけますか……」
ウォレスが自分の意思をトリストス王女に告げると、彼女は少し、俯いて。
彼女にしては珍しく、はっきりとしないか細い声で。
「でしたら、その……わたくしと婚約を結んではいただけませんか?」
「……え、ええ!?」
そんなことを言い出して、ウォレスを驚かせた。
あまりに唐突な提案に、何を言われたのか理解するのに数秒を要する程に。
「貴方の忠誠に差し出せるものが、わたくしにはこの身しかありませんし、その……とても優秀な貴方の婚約者がいないとなると、令嬢達が殺到してご迷惑をおかけしてしまいますし……」
「そ、そんな……だからといって私がトリストス王女殿下とこ、ここ、婚約なんて恐れ多くて……」
突然の事態に顔を真っ赤にしたまま、彼女の提案を申し訳ないからと断る口実を必死に考えるウォレス。
しかしトリストスはそんな彼の様子に何を思ったのか、テーブルに両手をついて立ち上がって叫んだ。
「~~! も、もうまだるっこしいのは無しです! わたくしが貴方を好きだから婚約してほしいのです! 他の理由なんて後付けですわ!」
一息に言い切ったトリストスの言葉に、ウォレスは唖然としてしまう。
聡明で美しく、理想の姫君として名高い御方からこのように熱烈な告白をされるだなんて、夢にも思わなかったことだ。
だがウォレスからの返答がないことに焦ったのか、トリストスは身を乗り出して彼の顔を覗き込んできた。
「へ、返事はどうしましたの!?」
「え、ええと、その……」
「……駄目、ですの?」
一転して、落ち込んだ様子で目を伏せる彼女の様子が、堪らなく愛おしくて。
ウォレスは、立場がどうとか、将来のことがどうとか、婚約者や妹に裏切られた傷心とか。頭に浮かんでいた断るための口実を全て吹っ切って、思わず叫んでいた。
「こ、こんな私でよければ、よろしくお願いします!」
「貴方だからいいのです! よろしくお願いします!」
何故かお互いに大声でよろしくお願いして、されて。
なんだかそれがおかしくて、どちらからともなく笑い声が零れる。
「ああ、もう。もっと凛々しく優雅にプロポーズしたかったのに……」
トリストス王女は恥ずかしげに頬を赤らめて、視線をそわそわと彷徨わせている。
婚約破棄騒動の時に人々を圧倒していたあの堂々とした振る舞いとは、まるで別人のようだった。
「ふふ。いつもの威風堂々と立たれる王女殿下も素敵ですが、先程の様子もとても可愛らしくて魅力的でしたよ」
「ま、まったく……そのようなことを言われては、また照れてしまうではないですか」
ぷう、と頬を膨らませる彼女は、次代の名君だと人々の期待を一身に背負う女性には、とても思えない。
しかしそれは彼女の魅力を損なうものではなく、このような可愛らしい一面もあるのだと、彼女のことをより愛おしく感じさせた。
「ですが、何故私のことを、その、好いてくださるのでしょうか? 先日まではクリスティナ様の婚約者でありましたし、トリストス王女殿下とは王宮で何度かご挨拶をさせていただきましたが、それ以外の繋がりなどなかったと思うのですが……」
「……そうね。ちゃんと、話しておきましょう」
佇まいを正して、トリストスは視線を庭に美しく咲き誇る薔薇の花壇へと向けた。
釣られて、ウォレスもそちらへ目を向ける。丁寧に世話がされているのだろう赤薔薇は、どれも見た目麗しく花開いている。
「覚えてはいないでしょうか。まだお互い子供だった頃、私と貴方はこの庭で出会っているのですよ」
「えっ……わ、私と王女殿下が、ですか?」
ウォレスにとって子供の頃の王宮の思い出というと、クリスティナとの婚約が約束されて、それからは婚約者に相応しくなるためにとひたすらに努力していたことばかりだ。
王家に嫁ぐ者として学ぶべきことは山のようにあり、忙しくて辛いこともあったけれど、着実に成長していく実感を感じて嬉しくもあった。
こうして思い返してみても、トリストス王女殿下と出会ったことなんて、なかったように思う。
忘れてしまっていては失礼だと、必死に記憶を探ってみる。しかしウォレスにはどうしても思い出せなかった。
「ふふっ……正確には王女殿下として、ではなくて……トリーとして、ですけどね」
ウォレスが頭を抱えるように悩む姿に微笑みながら、トリストス王女はヒントだとばかりに呟いた。
その、トリーという言葉に、記憶の奥底に眠っていた光景が鮮明に蘇ってきた。
幼少期の、クリスティナ王女との婚約者として初めて顔合わせをした後のことだ。
貴方なんて婚約者と認めないわ! と叫んで足早に去ってしまったクリスティナ王女のことを探して、この庭を歩き回っていた。
周りは美しい薔薇に囲まれていたけど、王女に嫌われたようだという焦りと、だんだん道がよく分からなくなって、不安になってきた頃。
『ねえ貴方、こんなところで何してるの?』
見知らぬ少女から、そんな風に声を掛けられたのだ。
一瞬クリスティナ王女とよく似た姿に見間違えそうになったが、注意して見ると別人であることが分かった。
けれど、王女とよく似た姿をしていても、彼女が何者なのか分からなかったウォレスは、不安で泣きそうになりながら自分の名を名乗り、彼女の名前を問うた。
『私? 私はね、トリスト……い、いえ! トリー! 私の名前はトリーよ!』
そこまで思い出して、過去の回想から意識が今へと戻ってくる。
あの時、トリーと名乗った少女の顔と、トリストス王女殿下の顔を照らし合わせてみれば、確かに目の前の彼女から、記憶の中で微笑む少女の面影を感じた。
「あ、あの時の女の子が……トリストス王女殿下だったのですか!?」
「良かった、思い出してくれたのね」
「し、しかし……あの時、彼女は自分がトリーであると」
「あの時の貴方、私がトリストス王女だってことを知らなかったようでしたから。王女としてばかり扱われることに辟易していたので、とっさに家族との愛称を伝えてしまいましたの。
ふふっ、愛称でも呼び名に違いはないのだから、嘘をついたことにはなりませんよね?」
いたずらっぽく微笑むトリストス王女の顔は、トリーと名乗った少女が浮かべていたものとそっくりだった。
不安で泣きそうだったウォレスのことを、このような笑顔を浮かべてからかってきたことを思い出す。
ウォレスはこの時ようやく、今の姿こそが彼女の本来の人柄であるらしいことを察するのだった。
「貴方とあの時交わした僅かな言葉のやりとりが、束の間の時間が、わたくしにはずっと忘れられない思い出なのです。
あの瞬間だけは、王女トリストスではなくて、ただのトリーという少女になることができたのですから」
多くの女性達の憧れである王女という立場に生まれた彼女。しかし、本人からすれば窮屈な思いをずっと続けてきたのかもしれない。
生まれた時から王家に名を連ねる者の一人として、国のために生きることを義務付けられていたのだから。
その重圧感は他人には想像すらできない程に重く、苦しいのだろう。クリスティナのように、歩むべきだった道を誤ってしまう程に。
「貴方と別れた後で、自分の妹の婚約者であることを知って、嬉しく思いながらも泣きたいくらい悲しかった。
王家に嫁ぐ婚約者として王宮に来ることは多いでしょうから、貴方にまた会える機会はあっても……貴方と恋を始めることができなくなったのですもの」
婚約者がいる相手を口説くなんて、王家の者でなくても恥じるべき行いだ。
幼いながらもその理屈を理解できたトリストス王女にとって、淡い初恋は芽生えと同時に失恋へと繋がっていたのだと。
彼女はその時の悲しみを思い出すように目を閉じて、ウォレスに己の心情を語って聞かせていた。
「貴方に恋心を抱いていると自覚したのはずっと後のことでしたが……婚約者のいる男性に不用意に近づいてはいけないと、貴方への思いは胸に秘めて、わたくしは自分にできることに励もうと決めたのです。
わたくしの努力でこの国がより栄えて、貴方と妹が幸せに生きてくれれば、それがわたくしにとっての幸せである、と。自分に言い聞かせて。
そんな貴方と妹が学園を卒業する晴れ姿くらいは見届けたいと、政務と外交の合間になんとか時間を作って式典に出向いてみれば……あのような事態になってしまっていて、気付けば大立ち回りを始めていましたわね。
ああ、外交に振り回されていなければ、学園の不穏な様子に気付けたでしょうに……!」
「あの日、学園に来られていたのはそのためだったのですか……」
第一王女として外交においても目覚しい働きをしていたトリストス王女は、本来であれば学園の卒業式典に出席する余裕などないはずだった。
しかし彼女はその優秀な能力で数多くの政務をこなして、僅かながら自由に使える時間を作り上げたそうだ。
全ては、ウォレスとクリスティナが一人前の貴族として認められる瞬間を、見届けるために。
自分のためにそのように努力してくれたのだと思うと、ウォレスは胸が熱くなる思いを抱いた。
思えば誰かのためにと働くことはあっても、ウォレス個人のためにと何かしてもらったことは、家族以外ではこれが初めてかもしれない。
「今、妹と貴方の婚約は無くなった。それを喜ぶのは、苦しめられた貴方に対して本当に失礼なことだと思うけど……」
すっ、とトリストス王女は立ち上がり、ウォレスへ手を差し伸べた。
華奢なその手には、美しさだけでなく未来を掴み取ろうとする力強さが宿っているようにも見えて。
けど同時に、想いを断られはしないかと、不安に震えているようにも思えて。
「わたくしと婚約して、これからもこの国で共に生きてくださいますか……?」
そう言って、頬を朱に染めながら自分を真っ直ぐに見つめてくる少女の手を。
「――不束者ですが、どうか私と共に生きてくださいませ。私の王女様」
しっかりと掴んで、今度こそはっきりとした自分の意思で握り返して。
ウォレス・セントバーナーは、愛おしい少女の手の甲に口付けることで、己の想いを伝えるのだった。
悪役令嬢が婚約破棄を言い渡されて、無実の罪で貶められているところからの逆転劇――という作品がたくさん書かれていることから「まだ見たことない悪役令嬢、婚約破棄ってどんな話があるだろう」と頭を捻って夜も眠れず昼寝して、思いついたのが「男女の価値観が逆転した世界での婚約破棄ものって見た事ない気がする……」と思いつきのまま書いてみたのが今回の作品になります。
男女逆転世界は、例えば男は家で家事をして子供を育てて、女性は働きに出るというのが当たり前になっている。そんな世界です。
他にも、貴族の家を継ぐのは基本的に女で、男は政略結婚させられたりだとか、家督の問題で男であることを隠して女として育てられたりだとか……。
そんな感じで、とにかく男女の価値観が逆になっている世界を舞台にした小説というのは色々と書かれているのですが、その設定での婚約破棄を書いた作品を見たことがないなあ、どんな風になるだろう、と思ったのです。
自分が知らないだけで既に書かれていたり、ネタ被りしていた場合はすいません(汗)。
補足するなら少なくともこの世界では男女の服装における価値観や、可愛い、かっこいいという価値観は逆転していないため、可愛いスカートを履くのは女性です。女装の場合はその限りではないですが……。
ただし戦いは女の仕事という価値観なので、基本的に鎧や騎士礼装を着るのは女性です。この世界で盗賊やオーク(女)に戦い敗れて「くっ、殺せ!」となるのは男騎士の役目……役目? です。
本来ならこういう逆転世界ものでは主人公が本来の価値観から転移なり転生して、価値観の相違によるギャップでなんやかんやすることが多いのですが、今回の短編では転生者は女性達を誑かしたラグナ(本来の価値観の婚約破棄ものではヒロイン()の役割)だけのため、説明する人が本編内にいなくて、非常にややこしいものとなっておりました。説明不足、描写不足、共に作者の力不足です。すいません(汗)。
最初はともかく最後の方は、普通にボーイミーツガール的な恋愛が始まるお話になっちゃったような気もして、男女逆転世界を舞台にした小説に初めて挑戦しましたがすっごい難しくてややこしいと実感しました。
作中で「婦男子」という変な言葉が出てきますが、ネット検索で家政『婦男子』
って出たりしたのでセーフと思って……思っていいのでしょうか?(汗)
作者自身戸惑いながらも、最後まで書ききれて満足いたしました。出来具合に関しては自信ありませんが(汗)。
あとがきをここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
妙な思いつきばかり小説に書きまくる作者ではありますが、今後もお付き合いいただければ幸いです。
読んでいただいて、ありがとうございました!