王太子の視察
王太子のエドワーズは、叔父のランセル王子と陸軍元帥のガナッシュ・ラシュール中将ともに地方の駐屯地視察に出かける。
海洋大会の翌々朝、王太子のエドワーズと第三王子のランセルが駐屯地視察のため旅立った。視察団の先頭には、白地に王家の紋章を縫い取り金糸で縁取られた王太子旗が掲げられていた。本営旗と呼ばれる大きな旗は畳まれ、ガナッシュ・ラシュール陸軍元帥の鞍袋に納められている。一行は補給隊と呼ばれる荷車を引く歩兵たちの速度に合わせてゆっくりとすすんだ。時々、斥候を走らせ行く手の安全を確かめる。
かつて、ヘンダース王は王妃を亡くすと、幼いメレディス王女を伴い「ヘンダース王の親征」と呼ばれる旅に出た。行く先々で貴族たちに自分とメレディス王女に忠誠を誓わせ、従わぬものは容赦なく叩きつぶすというやり方で貴族たちを震え上がらせた。忠誠を誓ったものを列に加えるとヘンダース王は再び別な貴族領へと向かった。これが王国軍の始まりだといわれている。ヘンダース王は武力だけではなく、宰相に法典の見直しを命じ、「領地法の上に国法がある」という考えを貴族たちに植え付けた。貴族たちにとって受難の時代の始まりだった。
ヘンダース王率いる王国軍はやがてチェンダー港の交易で繁栄をしているチェンバース公爵領に辿り着く。自分の城よりも大きい宮殿を構えるチェンバース公爵にヘンダース王は警戒心を募らせたが、チェンバース公爵はヘンダース王とメレディス王女を暖かく迎え、二人の息子と共にヘンダース王とメレディス王女に忠誠を誓った。
やがて、メレディス王女が十六才の誕生日を迎えるとヘンダース王はチェンダーでメレディス女王の戴冠式を執り行った。アンドーラ王国史上初めての女王の誕生である。ヘンダース王は戴冠式に列席しなかった貴族たちを容赦なく追いつめた。「ヘンダース王の親征」はその死の直前まで続けられた。
アンドーラの王家は結婚運にも恵まれていた。メレディス女王はチェンバース公爵位を継いだジュルジス・チェンバースと結婚し、その間に生まれたジュルジス一世は子供に恵まれなかったキルバーン公爵の姪と結婚し、その息子ジュルジス二世はエンガム公爵の一人娘と結婚をし、婚姻によって大きな公爵領を王家に取り込んだ。唯一残ったのがゲンガスル公爵領だった。ジュルジス二世の度重なる招集にもゲンガスル公爵は応じようとはせず、領地に立てこもり、国王に屈すること拒んだ。そして、温厚なジュルジス二世が、武力行使を決意したのは、ゲンガルス公爵が、兵を募り、軍備を増強したという報告を受けたときであった。ジュルジス二世は、今一度、ゲンガルス公爵を王都に招集すべき王国軍を派遣した。だが、ゲンガスル公爵は、弓矢を打ち込むことでそれに答えた。こうしてゲンガスル戦の火ぶたが切って落とされた。しかし、組織だって訓練を施された王国軍の前にゲンガスル軍は為すすべもなく次第に追いつめられていった。やがて、敗戦を悟ったゲンガスル公爵は、自ら館に火を放ち、自害をする。生き残った者たちは捕らえられ、公爵家が平民に落とされたことを告げられ、辺境の地へ苦役を申し渡される。ただ、ゲンガスル一族でも王国軍に加わったものは母方、あるいは祖母方の姓を名乗ることが許され、貴族の身分は保障された。そして、ゲンガスル公爵の領民たちは二年の兵役がすむと大部分は土地に返され、ゲンガスル公爵領は王家領となった。
エドワーズはゲンガスル公爵のとった行動がどうしても理解出来なかった。
「何で、ゲンガスル公爵は勝ち目のない戦をしたんだろう」とエドワーズは轡を並べた元帥に尋ねた。
「本人が亡くなってしまったので、よくわかりませんが、ゲンガスル戦の原因は領地替えと侯爵に爵位を落とされることだと聞いております。領地替えの理由ですが、過酷な税をかけ、農奴制とまではいかなくても小作人が多かった。それと王家としては銀山を王家領にしたかったと聞いております」
ヘンダース王は抜け目なかった。領地替えを頻繁に行い、金山を始めとする各種鉱山を次々と王家領に組み入れていった。採掘権を失った貴族たちは自然と農業と牧畜業に目を向けた。それでも制限がある。
元帥は太陽の位置を見上げて確認すると懐中時計でも時間を確かめた。
「そろそろ、お昼にしましょう」と元帥は手綱をひいた。
昼食は、ブリキのコップに入った水と乾し肉、煎った豆だった。それを受け取るとエドワーズは歩兵たちに近づいた。
「君たち、疲れていないか」
「何、このぐらいは行軍のうちに入りません」と答えた歩兵の階級章をみると軍曹だった。
「君は、軍曹だな、近衛は何年?」
「五年になります」と軍曹。エドワーズは別な歩兵に声を掛けた「君は、出身はどこ」
「王都です」と一等兵は答えた。隣の二等兵にエドワーズは「君は、どこ」と尋ねた。
「スクリューズです」
「スクリューズか、ちょっと遠いな」といいながらエドワーズは草むらに腰を下ろした。
「君たちも休めよ」と兜を脱ぎながらエドワーズはいった。軍曹が腰を下ろすと他の歩兵たちもそれぞれに腰を下ろした。
エドワーズを取り囲むように歩兵たちが腰を下ろし、昼食を取り始めた。時々、笑い声が起きる。
その光景を見守っていた元帥にランセルが「今度は自分が斥候にいきましょうか」と申し出た。ランセルは少し、のろのろと進む行軍の速度に焦れていた。ビラン中尉殿のいった通り、騎兵は馬をとばす理由を探すものらしい。
「何、調達局員がそんなことをなさらずとも結構ですよ」と元帥はにべもなかった。はあといってランセルは「しかし、よろしいのですか、本営旗をしまいこんでいて」
「殿下閣下のおられた時代は、殿下閣下のおられるところが本営だという考え方をしておりましたが、移動の時は、本営旗をどうなさっていたか伺っていないので。それに、かさばりますから」
「しかし、暑いですね。重騎甲冑なんて誰が考えたのですかね」とランセルは兜を脱ぎ、額の汗を拭った。
「小官が軍学校に入った時は、重騎兵を見直し始めた時で」と元帥は昼食を配り終えた補給隊長の退役大佐のポーテッドに「食料はどの程度用意した」と尋ねた。
「二日分の携帯食料と水はこの暑さだから一日分」
元帥は肯き「まぁ、日暮れ前には、第五駐屯地につくだろうから大丈夫だろう」
エドワーズとランセルの視察旅行は始まったばかりだった。
王室付きの魔術師ガンダスも王都を旅立っていった。目的地は特にない。かつて、魔法があふれていたこの地もチュグエンの登場で魔法が失われつつあった。チュグエンは自分と同じ力を持つ者を認めず、次々と滅ぼしていった。チュグエンの死でもその動きは止まることを知らず、不思議な力を持つという噂だけで無実の人々が次々と処刑されていた。安住の地を失った魔術師たちはこの地を去っていった。どこへ行ったかはガンダスも知らない。ガンダスが生まれる前の時代の話である。
ガンダスは自分に言い聞かせていた。これは、魔法を取り戻すのではない。《治療の技》は人の生命力を生かすだけのこと。創造主が与えた命を生かすだけのことと。それにしても命の美しさよ。アンドーラは、自然の恵みにあふれていた。
第一王女セシーネは海洋大会に着た衣装を侍女のタチアナに売りつけることを断念した。タチアナも少し無念だった。
「まぁ、仕方がないわ」とセシーネは、あまり当てにはしていなかった。副女官長でもあるお針子頭のミルブル夫人とセシーネの前の侍女サラボナがやってきた。挨拶がすむとミルブル夫人は早速仕事に取りかかった。セシーネの衣装を念入りに点検し始めた。
「今度はいかが致しましょうか」とミルブル夫人
「任せるわ、ただ、わたしはあまりピラピラしたのは好きじゃないの。品よく仕上げてちょうだい。じゃあわたしは救貧院へ行くから、後はお願いね。それといっておくけど糸クズ一本でもわたしのものですからね。大事にやってよ」
ミルブル夫人は「ええ、わかっておりますよ」とうなずいた。
セシーネが部屋を出ていくとナーシャは「これをどうなさるおつもりですか」
「全部、ほどいて一回洗濯して、乾かして火伸しをかけるの、その後、別な衣装に仕立てるのよ」とサラボナが説明した。なるほどとナーシャは肯いた。ミルブル夫人が「こういうこと習いたい?」と尋ねた。ナーシャは「教えて頂きたいですわ。こんな立派な衣装はともかく、普段着ぐらいは自分で縫いたいですから」
「あなたは」と今度はタチアナにミルブル夫人が尋ねた。
「わたしは」とタチアナは口ごもり「ホントにほどくんですか。なんだかもったいない」
「これが、王家の秘密っていうやつよ」とサラボナ
「それほど、大げさなものでないでしょう。とにかく見ていてちょうだい」とミルブル夫人は衣装をほどき始めた。その様子を見守りながら、ナーシャは「礼装が替わるようなことを伺いましたけど」
「そのことだけどイザベル王女さまの意見も伺ってからということになると思うわ」とミルブル夫人
タチアナは、聞き慣れないその名前に「あのイザベル王女さまって」と何気なく聞いた。サラボナが「若の許嫁」と何気なく答えた。再び「若って?」とタチアナは尋ねた。ミルブル夫人が「サラボナはエンバーだから、王太子さまのことをそう呼ぶのよ」と教えた。
タチアナは腰掛けていた椅子から立ち上がった。「なんだか、気分が」と呟いた。
衣装から目を上げたミルブル夫人が「あら、顔色が真っ青よ。大丈夫」と尋ねた。タチアナは血の気の失せた顔で視線も虚ろだった。
「従医長のベンダー先生に見てもらいなさい。先生の部屋はわかる」とミルブル夫人。ナーシャは頭を振った。
「わたしが連れて行ってあげる」とサラボナ。
「わたしも一緒にまいります」とナーシャ。
従医長のベンダーはタチアナの脈を診てから、彼女の瞼をひっくり返して「貧血ではなさそうだな」
タチアナはベンダーの部屋までくる間、逆に頬を上気させていた。
「のぼせかな。行事ごとの後だから、疲れたんだろう。今日は少し暑いからね。薬は出さないよ。手拭いを水で浸して額と首筋の後ろを冷やすといい」とベンダーは手で自分の額と首の後ろを触った。
礼を言ってベンダーの部屋を出るとサラボナは「自分の部屋に行って休みなさいよ」といった。
自分たちあてがわれた部屋で、二人きりになるとベンダーの指示通りに額と首筋を冷やしながらタチアナは聞かずにいられなかった質問をナーシャにした。
「イザベル王女さまってどんな人なのかしら」
「確か、メエーネの王女だって聞いたけど」
「そんな話、誰から聞いたの」
「侯爵家の伯母からだけど」とナーシャは自分が使っている寝台に腰を下ろした。
「それより、あなた馬鹿なことを考えているじゃないでしょうね」とナーシャはいつになく険しい顔をした。
「馬鹿なことって」
「いい。大体、貴族の結婚は家同士、親同士が話し合って決めるものよ。わたしの場合だってそうだったわ。父が侯爵家の伯父と伯母にどうかといって相談して、そちらのプルグース家と話し合って婚約ということになったの。あなただって縁談があるかもしれない」
「そんなのいやよ」
「だったら、断ればいいじゃない。ともかく、貴族でもそういうものよ。ましてや王家となればそう簡単にいかないと思うわ」
「会ったこともない人と結婚するの」
「そんなことまでは知らない。ともかく、馬鹿な真似はしないで頂戴。メリメさんから聞いたんだけど、王太子さまを追っかけ回して迷惑がられ、やめさせられた侍女もいたそうよ」とナーシャは先日の件を匂わせた。
「わたしは」とタチアナはつぶやいた。
「ともかく、あなたの恥はわたしに恥でもあるのよ。結婚すればわたしだってプルグース家の人間になるのですからね。行動には気をつけて頂戴。ともかく、わたしは仕事に戻るわ」とナーシャは寝台から立ち上がり部屋を出ていった。一人残されたタチアナはなぜか涙が止まらなかった。近づいたと思った王太子の存在が再び遠のいていく。タチアナはかなわぬ恋心を持て余していた。
ブルックナー伯は、救貧院の院長であるキルマ・パラボン侯爵夫人に施療院設立の協力を取り付けるため、ちょっとした策を講じていた。手紙を持たせて救貧院に迎えの馬車を送り出したのだ。手紙は救貧院の現状について話を伺いたいと鄭重な文面である。手紙を持ってきたのはブルックナー伯爵家の家僕らしかった。院長室でキルマが手紙を受け取った時刻は、丁度エドワーズが歩兵たちと談笑しながら昼食を食べ終わり、セシーネが王妃たちと昼食を摂り、国王はいつものように執務室で一人昼食を食べ終えた頃だった。キルマも昼食を食べ終わっていた。
「ご都合はいかがでしょう」とブルックナー伯の家僕は尋ねた。
キルマは断る理由を探している自分に気がつき、なんだか情けなくなった。逃げ回っても、第一王女は毎日のように救貧院にやって来る。まさか《見立て》が怖いとは口が裂けてもいえなかった。王女とはいえ十四才の小娘に過ぎないセシーネを扱えない自分はないはずだ。自分には女官長時代の実績があり、国王の信頼も厚いという自信もあったではないか。何を臆しているのだと自分を叱った。キルマは意を決して、馬車に乗り込んだ。
宮殿に着くとキルマは国王の面会を求めた。国王の執務室前に立っているジャンク少尉が「今は、お取り次ぎ出来ません。お待ちになりますか」と姿勢を崩さずいった。
「いえ、こちらに来たからご挨拶をと思っただけです」とキルマは何気なくいった。女官長時代は、ある程度自由に国王に面会出来た。何となく、国王から遠ざかった気がした。仕方なく自分が以前与えられ、今は施療院の準備室となった小部屋に向かった。
準備室では第一王女とブルックナー伯と工部尚書のニドルフ・レンドル子爵がキルマを出迎えた。挨拶がすむとブルックナー伯に椅子を勧められた。キルマは椅子に腰掛けながら工部尚書に「あなたはこんなところで何をしているのです」と聞いた。工部尚書は肩をすくめ「施療院が新しい建物を造るとなれば工部省の仕事ですし、救貧院を改装して施療院にするにしても同様です」
「まあ、取り敢えず、救貧院の現状についてお話下さい」とブルックナー伯。キルマは敢えて答えず「王女さまはどう思われますか」と切り返した。
「わたし?」とセシーネは少し考え込み、意を決したようにいった「わたしは、救貧院なんてあるのは国の恥だと思います。飢えで苦しむ人たちに食事を与えるだけでなく、そうですね、ちゃんと暮らしていけるように仕事を与えるようにすべきではないでしょうか。お父さま、いえ、陛下のお考えは働けば暮らせる国でしょう。問題は年取って働けなくなった人や病気で働けない人たちをどうするかでしょう。生意気なことを申しましたか」
ブルックナー伯はセシーネの一言一言にウンウンと肯き「いや、よくおっしゃった。貧しさから飢えで苦しむ人間が多いのは、国政上、何か問題があると、いわざる得ないですな。キルマ夫人、わたしが見たところ救貧院は人が大勢押しかけているようには見えないんですが」
「そうですね、今は夏場だから、そんな連中はいないのですが、お金を持っていて王都に買い物に来たとか、王都見物に来たとか、まぁ、中には仕事を探しているというものもおりましたが、海軍では港の整備を考えていて仕事はありますから」
「ちょっと、待って下さい、そんな話どちらからでたんです」とキルマから出た海軍の話に工部尚書はあわてた。
「何、キルマ夫人の夫君は海軍の兵学校校長のパラボン海軍少将でもあらせられる」とブルックナー伯が説明した。「結論から言うと」とブルックナー伯は促した。
「そうですね、わたしは今まで見た限りでは、あまり必要がないと思います。特に王都近辺では、飢えてなくなったなんて聞いたことがありませんよ。地方では民部官が見回っているでしょうし、領主たちもそれぞれ領民たちの面倒は見ているでしょう。今では、救貧院では、食事をしたり、泊まっていくものにはお金を払うか、働いてもらうことにしています。付属の農園もありますし、以前はまったくほったらかしでしたよ」とキルマは前職者の無能振りを話し始めた。
「ともかく、困窮者の救済は特に今のところ必要がないでしょう。ただで泊まれる宿屋ぐらいに考えているものが多いのですよ」とキルマは締めくくった。セシーネは何となく安堵感があった。確かに、貧富の差が全くない訳ではなかった。それでも、貧しいなりに暮らしているのだろう。後は、病気で苦しむ人たちをどうするかだろうとブルックナー伯はいった「こうなると、益々、施療院が必要となって来ますな」
「確かに、そうでしょうね」とキルマは用心深く同意した。
王太后は遺言状で施療院を設立しその院長に第一王女が就任することが指定されていた。国王は王太后の遺言状など無視出来る立場にいた。王太后が第一王女を施療院の院長にと言い残したのは、むしろ宮殿から第一王女を遠ざけたいという気持ちが王太后にはあったのでなかろうか。病に倒れた王太后は見舞いに来た第一王女を「お前が生まれてから、王家ではろくなことがなかった。何もかもお前のせいよ」と病気の後遺症でよく回らない口で罵倒した。第一王女も負けていなかった。
「そんなだから、お祖父様は帰ってこないのよ」と言い返した。この王太后と王位継承権第二位である第一王女のやりとりを聞いていたのは、当時女官長だったキルマだけだった。キルマはこのことを国王に密告をした。国王はため息をつき「困った人だ」と眉をひそめた。そして、キルマに口止めを当然した。キルマもうなずいた。
到底、愛情から施療院の院長の座に第一王女をつけようと王太后が思ったのではないことは推察出来た。だが、キルマはこの考えを口に出さなかった。キルマが今考えているのは施療院の設立に協力することで自分にどんな利点があるのかいうことだった。態度を決めるのはまだ早い。ここは自分を高く売りつける場面かもしれない。しかし、用心は必要だった。
国王は式部卿のハルビッキ・サングエム子爵と執務室で面談していた。話題はエドワーズ王太子とイサベル王女の結婚式とその参列者たち特にメエーネの国王ロバーツ王のことだった。
「今までの儀礼集の記録を当たっても、他国の国王がアンドーラを訪問したことはございません」と式部卿は、
「まぁ、そうだろうな、しかし、やはり、閲兵式はしたがるだろうな」と国王は王太子の結婚式の費用の見積書に目を通し始めた。
「これは、概算でして、ただ、晩餐会の費用は司厨長の話ではやはりその時になってみないと金額はわからないと、料理の品数も例年の晩餐会の時より増やしたいといっておりました」と式部卿は説明した。
「折角、お見えになるのだから、アンドーラの料理をお楽しみ頂きたいものだ」
「ええ、もちろんです。ただ、大蔵卿が結婚式の費用について、そのう、陛下の最近の結婚式の時と同じでいいのではないのかと申しまして」と少し、式部卿はいいにくそうだった。
「そうは、いかん。一国の国王が参列するというのにことは簡単に済まされない」と国王。確かに経費節減も大切だが、これは国運をかけた行事でもある。
「ハル、ここはまず結婚式の費用を抑えてしまおう。今、王太子とランセルは駐屯地の視察に出かけているから、帰ってきたら、御前会議を開こう」と国王は自分が出席する会議を自分でそう呼ぶことに少し、違和感を持った。
「ご視察ですか」と式部卿は王太子の視察の話は聞いていなかった。
「ああ、ガナスがそう勧めたらしい。今日から出かけて十日ほどかけて見てくるらしい。鹿狩りの話は聞いているだろう」
「聞いております。王太子殿下ご主催でなさるとか」と式部卿。
「ああ、そろそろ、何かやりたいのだろう。自分でそういいだした」
「左様ですか」と式部卿は王太子が提出した鹿狩りの費用の予算書を持ってこなかったことに気がついた。しかし、鹿狩りもいいが結婚式はもっと大事である。
「ともかく、結婚式の晩餐会の費用は多めに見積もっております」といった。
「随行員の人員はどれくらいになるかな」
「それほど、多くはならないでしょう。取り敢えず、ランガルク公爵がお見えになるのは」と式部卿は覚え書きに目を落とした「馬上試合は是非見たいとおっしゃっておられましたが、多分、そのあたりでしょう」
「そうか」
「あちらにはそういったものがないそうで」
国王主催の馬上試合は国王ジュルジス三世が即位してからジュルジス三世自身の提案で始まった。主な目的は無論、武術の振興である。ジュルジス三世は即位すると貴族の家に伝わっている先祖伝来の甲冑を各家に一つだけ残して取り上げた。重騎兵は伝統の甲冑を脱ぎ、鉄で出来たより強度の優る重騎甲冑を身につけていた。ただ、馬上試合には先祖伝来の甲冑で参加することは許されていた。中には、腕試しとばかり参加するものもいる。年々盛んになり、多くの観衆を集めていた。平民にも人気の行事の一つだった。
王太子一行は、午後三時半頃最初の目的地第五駐屯地に到着した。駐屯地の門の前の歩哨に王太子の到着を告げると、歩哨はあわてて駐屯地に駆け込んだ。やがて、建物の中から制服を着た第八師団の師団長が一行を出迎えるためにでてきた。元帥は面頬を下ろした兜の中で眉をひそめた。規則では休日以外師団長は将官甲冑を身につけることになっていた。
面頬を上げて元帥は馬上から「今日は休日ですか」と元帥より年長の師団長のマークルト少将に尋ねた。
「いや、今日は書類仕事をかたづけてしまおうと思って、あの伝令は何ですか」とマークルト少将は聞き返した。
「甲冑が重くなったのではないでしょうね」と元帥はやんわりと皮肉った。
「何々、そんなことはない」
「とりあえず、王太子殿下は天幕でお休みになられるから、お部屋を用意することはない。小官も同様です」
エドワーズは歩兵たちが駐屯地の訓練場と呼ばれる整地され兵舎に取り囲まれた場所に天幕を張る様子をジッと見つめていた。兜を脱いだランセルが「いよいよだな」といった。ランセルも天幕で休むのは初めての経験だった。マークルト少将は仕事があるといって天幕を張る場所を指示すると師団長室に戻っていった。
夕食の席で制服のマークルト少将は少し、恥ずかしそうだった。
「やはり、夏ですからな、事務官たちにも上着を脱いでいいといってあるのですよ。汗で書類がぬれるといけませんから」
「夕食の献立はいつも通りですか」とエドワーズはマークルト少将に確認した。
「突然のお出でですので、いつも通りです」とマークルト少将は答えた。当然、酒はでていない。ランセルは少し、酒が飲みたかったが元帥の目もあるので我慢した。
翌朝、エドワーズは天幕の中で、起床ラッパで目を覚ました。時刻を告げるラッパは駐屯地ならではの光景である。近衛師団だけはこんなことはしない。天幕の中は以外と暑かった。簡易寝台に毛布を掛けて休んだのだが、着ていた甲冑下と呼ばれる重騎甲冑の下に着る木綿の下着のようなものは汗でびっしょりだった。着替えの甲冑下と石けんを手にエドワーズは天幕をでた。ランセルも甲冑下姿で続く。隣の天幕で休んでいた元帥も甲冑下ででてきた。
「おはようございます。殿下」と元帥も着替えを手にしていた。ランセルは周りを見回し「しかし、こんな格好でうろついていいんでしょうかね」
「何、駐屯地は男だけですから、気にすることはない。混まないうちに顔を洗いましょう」と元帥は記憶にある流し場に歩き出した。訓練場の外周を新兵だろうか走っている者たちもいた。
「エドワーズは自分で洗濯する気か」とランセルはからかった。
「悪い?汗くさいのはいやなんだ」
「まあ、今洗えば、昼過ぎには乾きますよ」と元帥。ランセルもやはり、洗濯することにした。これが、武官の野戦の暮らしなのだろうかとふとランセルは思った。
朝食の席にさすがにマークルト少将は甲冑姿で現れた。夕べのうちに副官に朝の掃除を念入りにしろと命じてあった。王太子と陸軍元帥の突然の視察に昨日は少々あわてたが、特に大意はなく、王太子の陸軍の勉強のためと聞かされ安堵の息をついた。
「あの、お願いがあるのですが、マークルト師団長。昼食はともかく、夕食は兵卒と一緒にしたいのですが」とエドワーズは鄭重だった。
「こちらは、かまいませんが、どうしてそんなことを」とマークルト少将は理由を聞きたがった。
「あの、食事は兵卒も同じですか」
マークルト少将に変わって元帥が答えた「今は、士官も兵卒も同じ食事を出すようにしております。初代の調達局長が兵卒こそ十分な食事を与えるべきだと主張して。昔に比べて軍の食糧事情はよくなりましたよ。ランセル少佐は本営本部で書類を見たでしょうから、軍の食料費がいくらになるかご存じでしょう」
「ええ、べらぼうな金額ですね」
「まあ、大所帯ですからね。かなりの金額です。大蔵卿は、軍は金がかかるといいますが、まず兵隊たちにきちんと食べさせないと話になりません」
エドワーズはその金額がいくらになるか聞いていなかった。後で、ランセルに聞いて見るべきだろう。
「ところで、元帥は兵役義務についてどう思いますか。このままでいいのでしょうか」とエドワーズは気になっていたことを尋ねた。
「そのことでしたら、民間人たちに聞いてみたことがあるのです。大体は、兵役は男が一人前になって帰ってくるのでいいというのが大多数の意見ですね。海軍はまだ、人手が足らないといっておりますし、当分はこのままでいいのではないでしょうか、大体、農家というのはそれほど年がら年中、忙しい訳ではないんですよ。収穫期には各師団でも手伝いにいかせたりします」
「どのみち、作物を師団で買い取ったりしていますから」とマークルト少将も言葉を添えた。
ランセルは自分の役目を思い出していた「この師団の調達部長は誰ですか」
大きな食卓の端にいた制服を着た中佐が「自分であります」と名乗り出た。
こんな風にエドワーズの視察二日目が始まった。エドワーズは兵卒の兵舎から見て回った。兵舎は掃除が行き届き清潔だった。一階は兵卒食堂と厨房で、二階以上が兵卒の部屋だった。寝台は二段になっていて、幅も少し狭かった。明け放れた窓の外には洗濯物が風に揺れていた。エドワーズには何もかも物珍しかった。
セシーネは、はれぼったい顔で現れたタチアナに「大丈夫なの」と尋ねた。《見立て》をしようかと思ったがナーシャの話では従医長のベンダーに診てもらい多分のぼせだろうということだった。無理に《見立て》をすることはない。
「大丈夫です」とタチアナはいった。本当は大丈夫どころではなかった。思いきってセシーネにタチアナは聞いてみた「あの、イザベル王女さまはどんな方なんですか」
「メエーネの国王の姪でランガルク公爵の娘よ。お兄さまの立太子礼の時にアンドーラに来たけど、そうね、いいアンドーラの王太子妃に、ゆくゆくはいい王妃になってくれればいいと思うわ。その日が遠ければいいけど、お父さまには長生きして頂きたいわ」と第一王女の関心は質問されたイザベル王女から、どうすれば病気にならずに長生き出来るかに移っていった。タチアナの心中に気がついていない
「後、お願いね」といってセシーネは日課であるフィードの世話に行こうとして足を止めた「ねえ、あなた達も少し武術の稽古をしてみない。女官長のメレディス叔母さまは武術の心得がある侍女には武術手当を出そうかといっているの。無理には勧めないけど考えてみたら」
「武術手当ですか。メレディス王女さまらしいですね」と部屋頭のメリメ。メレディス王女の武術好きは有名だった。
「そうなの。いい運動になると思うわ」
「わたしは、お針仕事を覚えたいので」とナーシャ。セシーネの衣装は、昨日のうちに解かれ、今日は洗濯をする予定だった。
「まあ、考えてみて」とセシーネは部屋を後にした。
厩舎でリンゲート王子はしょげていた。午後に馬術の稽古をするという案に侍従のハロルドは、午後は日差しが強いからと反対したのだった。
「姉上、今日もフィードに乗っていくの」とリンゲートはもしかしたらと期待を込めてセシーネに尋ねた。
「ええ、そのつもりよ。わたしの馬だもの」とセシーネは無情にもいった。
「なぁ、リンゲィ。馬術の稽古には古参の馬のほうがいいぞ」と父親のヘンダースがいった。
「そうかな」とリンゲートは疑問を投げかけた。
フィードの世話が終わるとセシーネは剣術の稽古にあてられている中庭に向かった。ビランが相手をしてくれた。そこへジャンク少尉と話しながら国王がやってきた。国王に対し、それぞれが高位に対する礼をした。国王は第一王女に剣の相手を命じた。「どの程度か見てやろう」と国王は剣を抜き構えた。国王の剣術の腕前はもちろんセシーネを上回っている。受けに回りながら国王はセシーネの剣をはじきとばす。汗をかきながらセシーネは懸命に剣を振るった。やがて、いつものように侍従長が、稽古時間が終わったことを告げにきた。国王も汗をかいていた。
朝食の席で、視察に出かけているエドワーズとランセルはもちろんいなかったが、ランセルの妃のネリアもいなかった。夕べの夕食の席にもネリアは姿を見せなかった。そのことに国王は気がつき「ネリアはどうした」と王妃に尋ねた。王妃に替わってアンジェラ妃が「お乳の時間でしょう」といった。
国王はそうかと呟き「いただこう」といってナイフとフォークを手にした。
朝食がすみ、海軍本営本部へ向かうヘンダースを見送ったアンジェラ妃はネリア妃を訪ねた。ネリアは自分の部屋で朝食をすましていた。
「ネリア、夕べも、ここで夕食をすましたの」とアンジェラ妃はさりげなく尋ねた。
「あの、そうだけど」
「ねえ、授乳の時間があるからしょうがないかもしれないけど、なるべく食堂で陛下とご一緒すべきだと思うわ。どんなお話がでるかわからないでしょう。夕べもメレディスから侍女たちの武術手当の話が出たのよ。ランセルは留守の間、どんなお話がでたのか聞きたがると思うわ。夕食には遅れてもいいからでなさいよ」と言い終わるとアンジェラ妃はネリア妃の部屋を出た。アンジェラにはネリアの気持ちがわからないでもなかったが、露骨に国王を避けるネリアのやり方は考え物だった。国王は決して恐ろしい人間ではなかった。人間味のある暖かい人物であることはアンジェラも気がついていた。
救貧院にやってきたセシーネを出迎えた救貧院院長のキルマは、自分がのっぴきならない状況にあるのを改めて思い知らされた。
「ねえ、キルマ、あなたはここが施療院になったらどうするつもり」とセシーネはズバリと切り込んできた。
「まだ、考えておりません」とキルマは言葉を濁した。キルマは二者選択を迫られていた。施療院設立に協力を申し出るか、それとも、第一王女から逃げ回るか。昨日も国王には会えなかった。不安が心に渦巻いていた。救貧院の現状は行き場のない老人や病人だけで閑散としていた。この事実を曲げて報告するほどキルマは愚かではなかったが、かといってブルックナー伯のように進んで施療院設立に走り回るほど熱心にはなれなかった。しかし、このままでは救貧院の院長の職を失うことも目に見えていた。そのこと自体は何の未練もなかった。だが、権力から遠ざかることもいやだった。他の貴族たちのように王宮に「ご機嫌伺い」をして国王の顔色を伺う羽目に陥りたくなかった。いや、もう、そんな風になっているのではないか。国税の見直しも王太子の視察もブルックナー伯から教えられて初めて知った。キルマは内心の焦りを隠せなかった。
だが、ブルックナー伯は、次の手に打って出た。乗馬で救貧院に現れ、キルマの説得工作に取りかかった。
「いや、これは国母さま云々ではなく、施療院はこれからのアンドーラにとって大事な政策になると思いますな」
「そういう難しいことはわたくしにはちょっと」
「いやいや、わたしは、あなたの手腕をなかなかだと思っているんです。こういったらなんですが、病人の世話はやはり、女手が必要になってくる。その点、あなたは、人あしらいが上手だし、女官長、救貧院院長としても見事だなと。ここは一つ、お国のため、是非、ご協力をお願いしたい」とブルックナー伯は頭を下げた。元大蔵卿という重臣に褒められ頭を下げられて、キルマは悪い気がしなかったが、ここは慎重にと思いこう答えた。「もちろん、協力したいのは山々ですけど、ここはやはり、宅に伺ってみませんと」
「それもそうですな」とブルックナー伯は一旦引き下がった。
ブルックナー伯を見送ったキルマは彼が一人息子を病気で失ったことを思い出した。彼が熱心なのはそのためもあるかもしれないとキルマはぼんやりと考えていた。
しかし、ブルックナー伯は、今度は、将を射るには駒を射よとばかり、今度はキルマの夫パラボン海軍少将を兵学校に尋ねた。ブルックナー伯の協力要請にパラボン海将は快諾した。
「何、奥は、そういったことが嫌いじゃない。お国のために役立つことがあればなんなりとお使い下さい」
「そう、いってくださいって感謝しますよ。ところで、今年の卒業生はどうですか」とブルックナー伯は卒業を控えた兵学校の訓練生のことを礼儀上尋ねた。
「何、一人前になるにはまだまだかかる」
「それもそうでしょうな」と礼儀上答えて、ブルックナー伯は兵学校を辞した。
午後になって、この件をブルックナー伯は第一王女に報告した。
「一存でございましたが、施療院には、女手も必要と思いましてな。キルマ夫人はなかなかのやり手ですから、彼女にも協力して頂こうと思いましてな。王女さまはどう思われますか」
「パラボン侯爵夫人が協力してくれればいいと思います」とセシーネは慎重にいった。
「そこですな、彼女が協力を申し出れば他の貴族たちもそれを見習うでしょう」
そんな訳で、キルマは自分の意志とは無関係に施療院設立に協力せざる得なくなった。半ばあきらめ顔で第一王女の《見立て》さえ逃れれば、何とかなるのかと思いながら、再びブルックナー伯の迎えの馬車に乗り込んだ。
「わたしとしては、施療院はお金をきちんと払ってもらいたいわ。どうもケンナス先生はお金を受け取ろうとあまりしないでしょう」と金銭に執着しない師を第一王女は思った。
「ケンナスには陛下から《治療師》として、お手当がでているはずです」とキルマは指摘した。
「そう、でもね。こう思うの。あの見習の子たちが《治療師》として一人前になった時、それで暮らしていけるようにならなくては、それもたくさん稼げるとわかれば、一生懸命勉強すると思うわ。お金で釣るみたいだけど、工部尚書じゃないけど、貴重な技術の一つだと思うの」
「確か、全員《見立て》はできるんですな」とブルックナー伯は確認した。
「ええ、まだ、正確に診断出来るまでには、いってませんけど」
「診察は医学の基本ですよ。どんな病気かわからなくてはね」と従医長のベンダー
「それもそうですな」と今日もお約束の第一王女の《見立て》と所望したブルックナー伯。
「ともかく、無料というのは、結局、大事な税をそのために使うということでしょう。払える人には払ってもらいたいわ」
「まぁ、そういう方向でよろしいでしょうな」とブルックナー伯は話を取りまとめた。次ぎにベンダーが王立大学の医学部の現状について話した。
「今年の卒業生は、たった六人ですよ。確かに医者は一人前になるには時間がかかるが、それにしても何とかならないかと思いますよ」
ベンダーの言葉にその場にいた全員が眉をひそめた。
タチアナは、このところ、王太子の姿を見かけないことに不安を募らせていた。ナーシャはしきりに針仕事に誘ったが、なかなかその気になれないでいた。タチアナの足は自然と思い出の場所、図書室へと向かった。期待通り、図書室の前には近衛兵が立っている。タチアナの胸は高鳴った。しかし、図書室に入るにはそれなりの理由がいる。その理由を探しながらタチアナは図書室の前をいったり来たりした。しばらくたった後、図書室から一人の少年が出てきた。少年は廊下をうろついているタチアナに近づきこう尋ねた「あんた、第一王女付の侍女?」
「そうよ、それが何か」
「だったら、いいものやるよ。手を出しな」といいながら少年はズボンのポケットに手を入れた。タチアナは反射的に手を差し出した。少年はポケットからカエルを取りだしタチアナの手の上に乗せた。自分の手に乗せられたのがカエルだと気がつくとタチアナは悲鳴を上げ尻餅をついた。タチアナの悲鳴に驚いたのかカエルはタチアナの手から飛びだし廊下をピョンピョンと跳びはねていった。
「カエルぐらいで驚くなよ」といって少年は立ち去った。少年はリンゲート班と呼ばれるリンゲート王子のお相手役の一人だった。この時を境にタチアナはリンゲート班のいたずらの集中攻撃にさらされることになる。ただ、リンゲート王子はこのことに気がついていない。彼は、馬のことで頭が一杯だった。
タチアナが、思いきって王太子の所在を第一王女に確かめたのは海洋大会から約十日目の夜だった。ちょうど、ナーシャがミルブル夫人に呼ばれ席を外した時だった。
「あの、最近、王太子さまをお見かけしないようですけど」
「ああ、お兄さまなら、駐屯地の視察にいっているわ。そうだ、海洋大会のこと、ナーシャに話した?」
「いえ、誰にも話しておりませんから」とタチアナは力強くうなずいた。本当はセシーネには海洋大会のことなどどうでもよかった。ベンダーが指摘したように医学部の人気は今一つだった。それにしても六人とは。その彼らも卒業後は兵役につくため軍に所属していた。この惨状を打開する案はないだろうかとセシーネは頭を悩ませていた。タチアナの心中など気がつきもしない。
この医学部の状況はすでに国王に伝えてあった。「確か、医学部は授業料が高いんだよ。しかし、六人とは」と国王も眉をひそめた。その日の夕食後、セシーネは、珍しく国王に書斎に呼ばれた。
「この話は、知っていたかな」と国王はさりげなく切り出した。王太子のエドワーズとセシーネを生んだ前王妃ミンセイヤの母親は医学者の家の出身で、自らも医学を学び、アンドーラで唯一の女性学士であること。ジュルジス三世の戴冠式がすんだ後、故国に戻りたいと同行してきた者たちとラダムスンに戻っていった。いや、ラダムスンに到着したかはその後消息がつかめていない。こんな話を国王はセシーネに話して聞かせた。このことは、セシーネは知らなかった。でも、知ったところで自分に何が出来る?気になるのは医学部の今の現状だった。
王太子のエドワーズは約十日間に及ぶ視察から帰ってきた。第五駐屯地からは補給隊の歩兵たちをおいて、一気に王都まで駆けてきた。無精ひげを生やした王太子を国王は執務室で出迎えた。
「で、どうだった」と国王は穏やかに尋ねた
「色々と勉強になりました。どこも、のどかでのんびりしているようです」
「今日は、ゆっくりとして、休みなさい。あさっては、閣僚との会議がある。君も出席しなさい」と国王は御前会議の予定を知らせた。
その日の久しぶりに揃った夕食で、メレディス王女は御前会議に自分も女官長として出席したいといった。
「色々、閣僚の方々に申し上げたいことがございますのよ」とだけ第四王女はいった。そうかとだけいって国王は許可をした。
御前会議の席では、まず、式部卿が王太子の結婚式の費用について概算ですがといってその金額を発表した。そして、国王はまず、皆の意見を聞こうといった。真っ先に大蔵卿が「陛下、少し、費用がかかりすぎませんか、もう少し、切りつめた方がよろしいのでは」と発言した。メレディスが「陛下、よろしいでしょうか」と発言の許可を求めた。よろしいと国王は許可した。
「何、ケチくさいことをおっしゃっているの、大蔵卿。これはアンドーラにとって大事な結婚式ですわよ。外国からのお客様も多分お見えになるのでしょう。またとない機会ですわ。アンドーラの国力を他の国に見せつける時ですわよ。財力、軍事力、政治力、その他諸々を見せつける時ですわ。」とメレディスはその長い指を折った。「アンドーラを敵に回したら怖いと味方でよかったと思わせなくちゃ。そのために費用を惜しんでどうなさるの。アンドーラの威厳というのかしら、そういったものを他国に見せつける絶好の機会に、しみったれた結婚式を行ってどうしますの。大した国ではないと思われてよろしいの。王太子の結婚式ですわ。それなりのものをするべきですわ。わたくしのいっていることは間違っているかしら」
「余の申したいことをメレディスが代わりにいってくれたようだな」と国王はいった。大蔵卿はまだ、納得のいかない顔だった。
「大蔵卿は知らんだろうが、父上が余に言い残したことの一つに普段は切り詰めても行事には金をかけろというお言葉があった。余もそのとおりだと思う。王太子も心してこの言葉を覚えておくように」と国王は、珍しく閣僚の決をとろうとしなかった。
「ところで、陸軍元帥に頼みがあるのだが」と国王は議題を変えた。
「何でしょう」と元帥。
「何、近衛の制服なんだが、赤にしてもらえないかな。ちょっとわかりにくい」と国王。
「赤ですか」と元帥。意外な会議の成り行きにちょっと戸惑っている。
「うん、近衛だとはっきりわかった方がいい。後、武官も礼服というのを考えて見た方がいい。普段とおなじではな」
「わかりました。そうですね。いつ頃まで変更すればいいでしょうか」と元帥
「しかし、費用が」と大蔵卿が口を挟んだ。
「何、制服は毎日造らせている。その分を近衛に回せばすむだけのこと。後、礼服のほうは、将官たちならその位、自分の費用で造らせますから」と元帥はこともなげにいった。
「それもそうで御座るな」と武官の一方の雄、海軍提督も異存はなそうだった。「ところで、陛下。王太子殿下には、陸だけでなく海軍のご視察もお願いしたいので御座る」
「そうだな、王太子はどう思う」
「そうですね、機会があればそうしたいな」と王太子は海軍も大事だと思った。国王は肯き「じゃあ、そういうことで、ガナス、新しい制服は、来年の新年の謁見までには間に合うかな」
「陸軍、総力を挙げて間に合わせます。やはり、各地に王太子殿下がご視察でお行きになりますし、近衛だとはっきりわかった方がよろしいでしょう」と元帥は力強くいった。
「じゃあ、この件はよしなに頼む」と国王は席を立った。御前会議の終了だった。国王の退席を立ち上がって、それぞれアンドーラの最高権力者に高位に対する礼をして見送った。文官はお辞儀をし、武官は敬礼をした。メレディスは軽く膝を曲げた。大蔵卿は幾分不満げに陸軍元帥に「費用のことで、ご相談しましょう」
「何、さっきもいったように、他の師団の分を近衛に回せばすむ。心配ご無用。式部卿、ちょっとご同行をお願い出来ますか。近衛の制服が替わることを近衛師団長に知らせたいと思いますから、それに礼服についてもご相談したい」と元帥は式部卿を誘った。「もちろん」と式部卿は答え、女官長のメレディスが「そういうことでしたら、わたくしも協力をさせて頂きますわ。制服用に布を赤く染めなくてはないでしょう」
「これは、心強い。お願い出来ますか」と陸軍元帥は、今度はランセルに目を向けた「ランセル少佐。視察の報告書をお忘れなく」
「はい」とランセルは答え、元帥と式部卿は会議室を出ていった。
一方、提督は王太子に「王太子殿下。今日のこれからのご予定は」と尋ねた
「特にないですよ」と今日も重騎甲冑のエドワーズ
「では、早速、本営本部におこし願えますか、お見せしたいものが御座るよ」と提督は誘った。王太子はうなずき、兜を床から取り上げ、小脇に抱えるとやはり提督と肩を並べ会議室を後にした。その後にヘンダースも海軍本営本部に戻るため後に続いた。
残された大蔵卿は少し鼻白んでいた。やはり御前会議に出席していた元大蔵卿のブルックナー伯が「ダース、ちょっと」と呼び止めた。
「何でしょう」とぶっきらぼうに大蔵卿は前職者に聞いた。
「何、費用のことはあんまり心配するな。王太子殿下の結婚式は前もってわかっていたことだから、その費用は積み立ててある。このことはいわなかったかな」
「積み立ててあるのですか」と不審気な大蔵卿
「そうさ、その位出来なくて式部卿といえるか。やはり、メレディス王女のいった通りだと思うよ。陸軍だって、不測の事態に備えて蓄えてある。その中から何とかするさ。それが、閣僚というものだ」とブルックナー伯は、少し才気走っている大蔵卿を諭した。経費節減も大事だが、やはり、ここはアンドーラ王国の王家の威光を見せつける時だと彼は思っていた。
会議室を出た国王は執務室に戻ろうとして、護衛のジャンク少尉に「ジャンク、菜園の記録を整理しよう」と声をかけた。ハイと言ってジャンク少尉は国王の後から、執務室に足を踏み入れた。机に向かいながら国王は「そうだ、ジャンク。近衛の制服が代わる。赤にしてもらった」と教えた。
「へえ、すると親父は忙しくなりますね。赤ですか」
「うん」とうなずきながら国王は、ジャンク少尉の父親が近衛師団所属の仕立て職であるのを思い出した。ジャンク少尉の祖父は貴族の出身だったが、王都で仕立て職人をしていた。少年の頃、当主から分ける土地はないといわれ、仕立て職の修業を命じられていた。やはり、国王ジュルジス三世と同じように、他に服の仕立てを頼むのが癪だったらしい。腕はよかったし、貴族たちの評判もよかった。戴冠式のすんだジュルジス三世はあらゆる職人たちを軍に再編入させた。その中にジャンク少尉の祖父もそして、やはり仕立て職だった父親も混じっていた。祖父は二年で近衛を退役したが、父親はそのまま近衛に残り、国王の服を始め近衛兵の制服も手がけていた。そしてジャンク少年もビランと同じように王宮育ちだった。ジャンク少年は年頃の少年らしく軍学校を希望していた。父親は仕立て職でも士官になれるといってなかなか、ジャンク少年の希望に納得しなかった。それを説得してくれたのがビランだった。「試験を受けさすだけでもいいじゃないですか。職人の息子だからといって継がなくちゃならないことはないと思いますね。それにカンク兄さんはそっちを継ぎたいといっているんだし」とビランはジャンクの兄のカンクがすでに仕立て職の修業を祖父の元でしていることを指摘した。祖父も加勢してくれた。ビランが軍学校に行くと、ジャンク少年は王太子の相手役のリーダー的存在になった。ただ、ビラン少年のように国王はジャンク少年に手当は出さなかった。
国王はジャンク少尉の手を借りながら菜園の見取り図を作成していた。これで、どこに何が植えてあるように一目でわかるというものだ。国王が普段、執務室にいるのは、先王のジュルジス二世の勤勉さを見習ったこともある。いつもの日課通りに五時までそこで過ごすと国王はふと思いついて近衛師団長室に向かった。
「陛下、近衛の制服が替わることは元帥から伺いましたよ」と近衛師団長のサッカバン准将は師団長室を訪れた国王にいった。サッカバン准将はこれで、益々近衛らしくなると国王の発意に賛同していた。宮殿内の近衛にはそんなことがないが、宮殿の外を警護する近衛師団第三連隊は連隊本部から宮殿に向かう途中しばしば王都民に呼び止められ、苦慮していた。王都の巡回は近衛師団の役目ではなかった。これで、この問題も解決するだろう。
「サック、そうではないんだ」と国王は「どうも、王宮育ちというのは小賢しいな」
「小賢しい?ですか」と近衛師団長は聞き返した。
「ああ、少しわがままを言わせてくれ。ジャンクのことだが、あいつの顔は見飽きた。いや、菜園のほうは手伝ってもらいたいが、わたし付けを外してくれ。近衛を追い出すまではせんでいい」
「畏まりました。どのみち調達部が忙しくなるでしょうからそちらに回します」と近衛師団長は承諾した。
「じゃあ、頼んだよ」といって国王は師団長室を出ていった。
近衛師団長はジャンク少尉を呼びだし、近衛師団調達部へ配属替えになったことを告げた。
「どこがいけなかったのでしょうか。自分としては特に心当たりがありませんが」とジャンク少尉は戸惑い気味だった。辞令書を渡しながら近衛師団長は「まぁ、少し書類仕事を覚えてもいい頃だ、それと、陛下は菜園のほうは手伝ってもいいおっしゃった。後、規則はわかっているだろうな。甲冑は自分で買い取るかどうか決めろ」とだけいった。重騎甲冑姿のジャンク少尉は「買い取りです。まだ払い終わっていませんが」とこの処遇に不満顔だった。折角、任務になれてきて自信が出てきた矢先だった。
しかし、師団長命令である。致し方なくジャンク少尉は辞令書を持って調達部長の元に出頭した。調達部長は辞令書を見ると「これは人事部長に提出するように。後、机は」と部屋を見回し「それぐらい自分で調達しろ、明日の朝、九時までにやっておけ」と命じた。ジャンク少尉は「何で」とはいわなかった。ともかく、調達部員としての初仕事に取りかかった。
さて、近衛師団長はもう一人の有名な、国王が小賢しいと表した「王宮育ち」を思い出した。彼は今、再び第一王女付けだった。近衛では常時王家の人々の付き従う任務に就いているものを「直付け」と呼んでいた。この直付けはかなり気がはる任務だったが、大事なのは王家の人々と気が合う、合わないも大事な要素だった。この真意を確かめるべく近衛師団長は第一王女の元に向かった。第一王女は近衛師団長の訪問に不思議そうだった。
「なにかしら」と敬礼をした将官甲冑の近衛師団長に尋ねた。
「ビラン中尉のことですが、お気に召さないのなら、配属を替えますが」と近衛師団長は切り出した。
「困るわ。ビランを替えないで下さい」と第一王女はいった。セシーネにとって頼りになるビランお兄ちゃんである。配属替えなどとんでもないことだった。
「わかりました。それならそれで結構です」と近衛師団長は敬礼をして第一王女の部屋を後にした。
近衛師団長のサッカバン・バンデーグ准将は《治療の技》が発覚した時のことをよく覚えていた。王太后は真っ青になっていたし、サッカバン自身も腰が抜けるほど驚いていた。幼い王太子と第一王女は周りの大人の反応に少し驚いていた。気を取り直した国王が微笑んで「エドワーズ、他にはどんなことが出来るのかな」と優しく尋ねた。不思議な《力》を持つ王太子と第一王女に国王の心労はいかばかりかとサッカバン准将は思うのである。幸いに王太子はその遊びに飽きて、別な遊びに熱中し始めた。
王立施療院の設立は自分の範疇でないことぐらいサッカバン准将はわかっていた。この件に関して元大蔵卿のブルックナー伯が熱心に取り組んでいるのを噂では聞いていた。
宮殿からブルックナー伯の馬車で救貧院に戻ったキルマは、少し気をよくしていた。今日の御前会議の様子はブルックナー伯から、聞かされていた。キルマは御前会議には出たことがなかった。やはり、宮殿の様子が少しわかるだけでも収穫だった。やはり、施療院設立に協力することで何かしら、利点があるのではないかとキルマは思い直した。
国王が施療院の設立を決めた以上、それに協力することで、国王の自分への評価がますます高くなる。それに、病人やけが人たちの世話をすることで、慈愛のある人物と周囲は思うだろう。いわゆる人望が高まる。第一王女の《見立て》さえ逃れれば何とかなるとキルマは計算をした。
なくなった王太后は慈愛のあふれた人物と評されていたが、決してそうではないことを身近にいたキルマは知っていた。そうならば、第一王女にあのような仕打ちはしなかっただろう。確かに子供を甘やかすのは考え物だが、かといって厳しいだけでは子供が萎縮する。その点、国王は公平だった。いいところは褒め、悪いところは叱る。キルマは王太后のやり方を諫めたことはなかった。気位の高い王太后の機嫌を損ねるだけだとわかっていたから。
次の雨降りの朝、さすがに第一王女は乗馬ではなく馬車で救貧院にやってきた。馬車から降りるとセシーネは護衛のビランに「大変ね」と声をかけた。ビランの重騎甲冑は雨で濡れていた。
「何、軍人に雨も雪も関係ありませんよ。この位大丈夫です」とビランは雨の滴を拭いながらいった。
そして、ブルックナー伯も馬車で救貧院に現れた。キルマが用心深く「今日は、どういったご用件ですか」と尋ねると「何、ちょっと子供たちと話そうと思って、どちらですかな」といそいそとブルックナー伯は見渡した。キルマがケンナスの「授業」を受けている子供たちのところへ案内するとブルックナー伯は「いいかな、ケンナス、ちょっと子供たちと話がしたい」
「かまいませんよ。どうぞ」と少し戸惑い気味のケンナス。キルマもブルックナー伯の話とは何だろうと思った。
子供たちを前にブルックナー伯は一席ぶった。「君たちは、今、アンドーラの新しい医学を学んでいる。こちらのいる《治療師》のケンナス先生がそれを君たちに教えてくれるはずだ。それを修得するのには時間がかかるだろうが、これは、大事なことだ。ケンナス先生を始め、色んな人から、色々学ばなければならない。君たちがそれを学び、色んな人の病気やけがを治す《治療師》という立派な仕事に就くことを、国王陛下を始め、色んな人がそう望んでいる。《治療師》というのは今までにない新しいやり方で病気やけがの治療をするもののことだ。無論、従来の医学でも治療が出来ることもあるだろう。だが、この新しい医学を広めるには君たちの協力も必要だ。君たちはこの《治療師》と人から感謝され、尊敬される、わかるか、他の人から病気を治してくれてありがとうといわれる仕事を覚えたいかどうかだ。どうだね」
「あの、俺は、薬草の育て方を教わるようにと侯爵さまからいわれているんで」と赤毛のエラン。
「薬草を育てることも立派な仕事だが、その薬草がどんな病気に効くのかを知っておいた方がもっといいだろう。それとどんな病気になのかを診察することも重要だ。ケンナス、全員《見立て》は出来るんだったな。ちょっとやってもらおうかな」
「まだ、確実ではありませんよ」とケンナス。
「無論、わかっているさ、でも、ちょっと確かめたい」とブルックナー伯。「じゃあ、ちょっとやってごらん」とケンナスがいうと、見習の一人がごくりと唾を飲み込み、差し出されたブルックナー伯の手首を握った。ブルックナー伯は《力》を感じた。
「どうだ」と尋ねたケンナスに見習は首を軽く傾げた。ウンウンと肯きブルックナー伯は「次ぎ」といった。別な見習がブルックナー伯の手首を握った。
「少し、強いな」とブルックナー伯。「どうです。キルマ夫人にも伺いたい。《見立て》は慣れているでしょう、どうですかな、彼のは少し強く感じるですが」
「キルマ夫人は、《見立て》が合わないようで」とケンナス。「わたしは《見立て》をして貰うようになってから体調はいいし、体が軽くなったように思えるですがな」とブルックナー伯。キルマはいやとはいえなかった。ここで下手に拒めば返って疑念をもたれると思い「一回くらいなら大丈夫ですよ。ちょっとやってごらんなさい」とキルマは手を差し出した。見習がキルマの手首を握り、キルマの《見立て》をした。やはり、第一王女やケンナスのそれより《力》が強く感じられた。「ちょっと、強いわね」
「あのう、そうしないとわからないんです」と見習は俯いた。
「ケンナス、《見立て》でどうして体調が、わかるの」とキルマは尋ねた。
「感じるんです。例えば頭が痛いと、同じように痛い部分が痛く感じる。それでわかるんです」とケンナスは説明した。ブルックナー伯はウンウンと肯いている。キルマはなおも追求した「じゃあ、ペトールはどうだったの」
「あれは、普通の診断方法でもわかりましたよ。」
「でも、《見立て》もしたのでしょう」
「ええ、そうですね、澱んでいるって感じですかね。手を当てると患部がもう少しはっきりわかります。腫瘍ですから、第一王女さまは腐っていると感じたそうですけど、腫れ物は大体そんな風に感じます」
「健康だとどうわかるの」
「それはすっきりした感じですね。体調がいいと気分がすっきりするでしょう。そんな感じです。ただ、自分の体調が悪いとそれに気を取られて区別が付かず、よくわからない時があります。やはり、従来の診察方法が大事なのはそのためでもあります」
「ケンナス、体調にはくれぐれも気をつけてな、何しろ、君が頼りなんだから」とブルックナー伯はケンナスを気遣った。
ブルックナー伯の実験は続いた。見習全員が《見立て》を終えるとキルマはブルックナー伯に話があると院長室に誘った。院長室に入るとブルックナー伯は「無理にお誘いしてご迷惑でしたかな」と施療院設立のいささか強引な協力要請を謝った。
「いえ、そのことなら、よろしいのですよ。わたくしも出来る限りのお手伝いはさせてもらうつもりでしたから。それより、国税の見直しはどうなっているのですか。息子がその辺りを伺って欲しいと申しまして」とキルマは気になっていたこと尋ねた
「ああ、そのことなら、まだですな」
「確か、上に上げると伺いましたが」
「昨日は、結局、近衛の制服を替えることを陛下が指示なさってそれで退席なさってしまったので」
「あの、陛下は、国税の見直しには賛同なさってないということですか」
「いや、陛下も見直しの必要性は感じておられる。国税が制定されてから、もう十年以上になる。ただ、まだ、もう少し具体的にどう調査をすればいいのかその辺りを煮詰めてからということになるでしょう。後は、国税を見直せば領地税もと、いうことになるでしょうな。どこも税は上げたいのは山々ですからな」と領地を持っているブルックナー伯はいった。
「それもそうですわね」とやはり、侯爵夫人でもあるキルマも同意した。「ところで、王太子殿下の結婚式はいつ頃になりそうですか」
「多分、来年の春頃でしょうな、まだ、こちらも煮詰めないといけないことがあるようで」とこちらも交渉中であることをブルックナー伯はキルマに教えた。
「どうも、宅は、海軍のことばかりで、他のことには無頓着で」
「いや、兵学校のことでお忙しいのでしょう、しかし、お元気ですな。パラボン少将も」とブルックナー伯は、パラボン侯爵夫妻は自分より高齢だと気がついた。勧められるままにブルックナー伯は救貧院で昼食を摂り、午後から、揃って宮殿の準備室に向かった。
準備室で約束の第一王女の《見立て》をブルックナー伯はしてもらい「体調は、ホントにいいですな。これは、何か効力があるでしょうかな」と尋ねた。
「さあ、どうでしょうか」とセシーネにもその効果はわからなかった。
「しかし、新しい医学とは、お考えなりましたわね」とキルマは今朝のブルックナー伯の発言をやんわりと言った。
「しかし、医学部が当てにならない以上、彼らにがんばって貰わないと。適切な医療を広めるためにも、施療院の存在が必要ですな。王女さまは、施療院は有料がいいとお考えのようだが、無料ということも一応、検討するべきでしょうな」
「わたしは、反対ですよ。そんなただで診てもらえると知ったら、病気でもないのに面白半分でやってきますよ。ましては《治療の技》を聞きつけたら、どういうことになるか」とキルマ
「それもそうですな。王女さま、《治療の技》でどこまで出来るのかですな」
「ケンナス先生は《治療の技》にとても慎重なんです。でも、わたしは色々試してみたいんです」とセシーネは少し意気込んでいた。
「お気持ちは、わかりますよ。治せるものなら治してあげたい。医学を学べば自然とそういう気にもなる」と《治療の技》を新しい医学だと考えたいブルックナー伯。
「あと、病気にならないというか、丈夫な体を作るにはどうすればいいかとかそんなこともやりたいです」とセシーネは自分の考えを述べた。やはり治療も大事だが予防も大事である。
「最近は、体をきれいに洗うことぐらいは、わかってきたようですけどね。不潔にしていたら、病気にもなりますよ」ときれい好きなキルマ
「そういった指導も大事でしょうな。何を食べればいいとか。食事が偏るのはいけないそうですからな」と最近は食事にも気を使い始めたブルックナー伯
その日の雨は夕方になって上がり、雲の合間から日が差してきた。ブルックナー伯は実りある話し合いに満足げだった。やはり、元女官長のキルマを誘ってよかった。救貧院にキルマを送りながら「《治療の技》でどこまで出来るんですかな」とブルックナー伯は尋ねた。
「さあ、わたくしが知っているのは切り傷を治すくらいですけど」
「後は、《見立て》ですかな」
キルマはうなずき「あんまり、当てにしないほうがいいと思いますよ。どんな病気も治る訳ではありませんから」
「それも、そうですな」
馬車が救貧院に着くとキルマは礼を言って馬車から降りた。ブルックナー伯はよろしければ明日も迎えにくるといった。ええ、伺いますとキルマは答えた。
亡くなった王太后は「女が政治に口を挟むのは考え物だ」といっていたが、これは、王太后は例外で、彼女はあらゆることに口を挟んだ。確かに王妃時代はかなりの国政に影響力を及ぼした。息子のジュルジス三世が即位するとその影響力は自然と低下していった。キルマの見たところ、幾分、感情論が先立つ王太后に比べ、ジュルジス三世は合理的だった。意に添わない意見でも聞く耳を持つというところがあった。
王太后の手前、意見を差し控えることが多かったが、それでも王太后に「キルマ、お前はどう思うの」と尋ねれば意見を述べることもあった。ただ、キルマは王太后の意に添わないと思ったら自分の思うところを述べることはなかった。長年、王太后の側に仕え、王太后の考えは手に取るようにわかっていた。その王太后は、すでに亡く、キルマはもう誰にも遠慮することなく自分の考えを述べられるようになった。後、問題は第一王女だと思いながら、ふと自分の孫といっていい位の第一王女と張り合おうとしている自分に気がつきキルマはなんだか可笑しくなった。そして、自分の意見を尊重するブルックナー伯の態度にもキルマは気をよくしていた。王太后の死によって、キルマは自分の舌に自由を取り戻したことを実感していた。
王太子のエドワーズも気をよくしていた。ハッタン提督の提案した海軍の視察は、陸海両軍合わせての大がかりなものになりそうだった。提督のいう視察がチェンダー湾一周ぐらいではないだろうと踏んだ陸軍元帥は、近衛師団長と共に海軍本営本部に現れ、海路と陸路を組み合わせた視察を提言した。以前から、海軍提督はチェンダー港以外の海軍寄港地の必要性を説いていた。その予定地は、陸軍元帥にも検討はついていた。
海軍本営本部の会議室で地図を眺めながら元帥は「この辺りは、陸路では、物資の輸送が大変なんですね。どうです、提督、海路で運んでもらえませんかね」
「海軍は、海運業者でない。それだったら、商船にでも頼めばよろしい」と提督。
「まあ、殿下はどう思われますか。海路でここまでいって、少し、足をのばせば第十二駐屯地はすぐそばです」と元帥は水を向けた。
「そうだな、だが、馬がいるだろう」と今日も重騎甲冑のエドワーズ。元帥の海路でいって陸路で帰るという案はなかなか興味深かった。
「運べばいいでしょう、艦ではどの程度運べますか、何頭ぐらい?」と元帥。
「精々、二三頭ぐらいかな」と提督。
「すると、十頭は、難しいか」と元帥。
「いや、全艦隊出動をさせるつもりだから、もう少し、運べるで御座ろう」と同席していた前提督のリーバイト海将。
「全艦隊出動か」とエドワーズ
「無論、我が輩もお供をするで御座る」とネーバイト海将
「そんなの艦長たちがいやがりますよ」と提督
「何をいうか」とリーバイト海将
「どうしても、いわれるのならご自分で船を仕立ててくるんですね」と提督
「それですよ、商船で馬を運べばいいでしょう。かなりの荷物が運べるじゃないですか」と元帥は指摘した。
そういう訳で、行きは海路、帰りは陸路となった。時期については、今は、メエーネとの行き来が多くてと提督は少しいい訳じみていた。外務省からの要請で海軍は外交文書をメエーネに運んでいた。
様々なやりとりがあって、ともかく陸海合同作戦となった。
「ところで、海洋大会なんだけど、競技のやり方を少し変えてみたらどうだろう」と昨日はすっかり忘れていたことをエドワーズは提案した。エドワーズの提案は提督も前提督も賛同した。
「こっちのほうが面白そうで御座るな」とリーバイト前提督。
「実は、僕が思いついたことじゃないですけどね」とエドワーズ。ふと、施療院はどうなっているのだろうと思った。まぁ、セシーネには元大蔵卿のブルックナー伯がついている。心配することはないだろう。
陸軍と海軍、両雄の話は自然と鹿狩りの話になった。エドワーズはここである提案をした。「帰りは一気に王都まで戻ろうと思うのだけど、ずっと全速力でね。途中で馬を乗り換えて、ぶっ飛ばして帰りたいですけど、無理ですか」
元帥は少し考えて「よろしいでしょう、換え馬を用意すれば、一度、そういうことも試したかったですから」
「毎回でなく、今年はそうしようと思います」とエドワーズは鹿狩りが今年限りの行事でないことを暗にほのめかした。
海軍の本営本部をでると雨が上がっていた。海軍の視察はまだ、先になりそうだったが、それでもエドワーズは、色々楽しみだなと思った。
その日の夕食の席で第一王女は亡くなった王太后を痛烈に批判した。
「大体、おばあさまは、施療院を造るように言い残したけど、医学に少しも理解があるとは思えなかったわ。医学の向上のため解剖ぐらい言い残してもいいと思うわ」とセシーネは舌鋒鋭かった。
「まあ、お母さまが、ええかっこしいのはわかっていたわ」と王太后の娘のメレディス
「そうなのよ。わたしはそんなおばあさまを認めませんからね」とセシーネ
「死んだ人間を悪くいうものではない」と国王は、やんわりと言った。彼自身も王太后にはいいたいことがあったが、死んだ今になって思い返すのは、王太后もこの国を愛していたという感慨のほうが多かった。
「それよりも、海軍の視察は大がかりなものになりそうです。海路でいって、陸路で帰る。帰りは陸軍の駐屯地を回ってくる、合同視察かな、そんな風になりそうです」とエドワーズが話題を替えた。
「僕も視察に同行します。新しい海軍寄港地の話はご存じですか、陛下」とヘンダース
「聞いている」
「王家領でないのですが、なかなかいい位置にあるので、まだ、整備が無論必要ですが、チェンバー港以外にも寄港地は必要ですから、一艦隊はそこを中心に巡航することになるでしょう」
そうかと国王は呟いた。戴冠以来、海軍は補強を続け、今では四艦隊、十二艦の戦船を有している。提督も前提督もまだそれでも足りないといっていた。アンドーラの法律上、また技術的にも大型船の新造船は海軍造船所でしか造ることが出来ない。国王はメエーネが欲しがる船を造れるアンドーラの造船技術と航海術に絶対的な自信を持っていた。