王宮の風紀
第一王女セシーネに王都近郊の地図を探すように命じられた王女付きの侍女タチアナ・プルグース子爵令嬢は、図書室であこがれの王太子にその理由をセシーネに聞くように言われるが…
救貧院にいる《治療師》の見習いの子供たちを海洋大会に連れて行くという一番目の計画案の実行決定に気をよくしたアンドーラの第一王女セシーネは、再び愛馬フィードに跨り、この計画の協力者であるビラン中尉と並んで、朝、来た道をゆっくりと戻っていった。
「それにしても、うまくいったわね、でも、ビラン、本当に協力してくれる騎兵は、いるの」
「おりますよ、ざっと数えても一個中隊はおります。姫、わかりますか、騎兵の一個中隊というのは」
「そのぐらい知っているわ。それより、どうやって集めたの、そんな人数」
「何、簡単ですよ、面白い奴らに会わしてやるといったら、みんな乗ってきましたから」
「それって、治療の技のこと」とセシーネが少し儀式用の顔になった。
「何、心配はいりません。少し、匂わせただけですよ。このビランにお任せあれ」と槍を持った右手を少し挙げた。
昔から、そうだった。セシーネが小さい時から、ビランはセシーネの味方だった。エドワーズとケンカしても「お兄さまなんだから、その位、我慢しなきゃ、じゃないと、若と遊んであげませんよ」と王太子を諫めてくれるのも、ビランだった。園丁頭の孫であるビランにとって宮殿の庭は、いわば、なわばりだった。どこで、泥んこ遊びをしていいのか、あるいはどこの木に登っていいのか、よく知っていた。そんな訳で、自然とエドワーズもセシーネも彼の後を追いかけていわば、二人にとって、遊びの教師役だった。そんなビランが利発だと気がついた父親の国王のジュルジス三世は一緒に遊びの計画の参加させることにした。ビランの利発さは、幼い二人にとって危ない限度がわかることだった。そして、孫が生まれ、やはり遊びの計画に参加した亡きヘンダース陸軍元帥がこれは武官向きだと軍学校と呼ばれる王立陸軍士官学校への入学を勧めると、物怖じしない性格のビランは王国の重鎮にもキッパッリと言い切った「エンバーでは軍学校へはいかない決まりになっています。お断りします」
「残念じゃな。そんな法はない、これを読んで見ろ」とヘンダース元帥はビランに王立陸軍士官学校入学法を見せた。
「ほれ、声に出して読んで見ろ。それとも文字が読めぬのか。どうじゃ、まいったか」と甲冑を脱ぐと些か子供じみた癖のあるヘンダース元帥はいった。ビランは声に出して読み上げた。ちなみに王立陸軍士官学校入学法は、解りにくい法典の条文が、多いアンドーラの法律でも少年でも解る明快な文章で知られている。しかし、王国の重鎮に、ビラン少年は負けなかった。
「そんなことおっしゃったって決まりは決まりですから」
「国法より上はないじゃ。陛下の勅命じゃからな。それとも軍学校はわしが造ったのが不満なのか。そうなんじゃな」とエンバー領の領主エンガム公爵家の血筋ではないヘンダース元帥はすねて見せた。
「そんなことは、いっていませんよ、あれ、王立というのだから陛下がお作りなったじゃないですか。殿下」と論議の好きな国の子供は子供でも口達者だった。
「それは、言葉のあやじゃ。口がへらんやつじゃ。どうしても嫌だと抜かすからには、わしにも考えがある。どうせ、兵役の時がやって来る。フン、そなたのことじゃ、兵役はエンバーと思っているじゃろうが、そんなことをしてみろ、王国軍を率いてエンバーへ攻めていくぞ。覚悟してとおけ」と王国陸軍元帥は宣戦布告をした。まさか子供の自分を巡って戦争を起こす気なのかとビラン少年は呆れたが、そこで、妥協案を提案した。
「だったら、海軍にします」
「フン、同じことよ、あの提督とは、一度、一戦交えたかったら、丁度、いい」と妥協案も蹴飛ばす勢いである。孫が出来ても好戦的な性分は、少しも変わらない。
「でも、決まりがあるんですよ。それも、殿がつまり陛下がお決めになったと伺っています。つまり、勅命ということなんでしょう、どうなんでしょう」とビラン少年は、泣き出しそうな顔をした。ビランは内心では軍学校に行きたがったが、祖父から、エンバーの出身者は入学できないと聞かされ、ようやく諦めたばかりの頃だった。ここで、ようやく、自分が年甲斐もなく少年を苛めているような状況に気がついたヘンダース元帥は「じゃったら、その勅命を取り消して頂く」と請け負った。
「そんなことが出来るのですか」と藁もすがる表情のビランにヘンダース元帥は「どうしても、必要だとそなたの殿を説得するまでのことよ。それより、馬術を磨いておくんじゃぞ」と席を立った。その後、紆余曲折があったが、ビランは、晴れて軍学校の一回生となった。そして、軍学校を卒業したビラン准尉は近衛師団に配属になりセシーネ王女付となった。やることは、軍学校へいく前とあまり、変わりはなかった。違うのは近衛兵の制服を着ていることだけだった。ただ、この配属には王太后がケチをつけた。ビランの存在は王太后には不満の種だった。王家の子供らしくない遊びを王太子エドワーズや第一王女に教えたのがビランだったからである。それで、ヘンダース元帥に苦情を何度なく申し入れをして二年後、ビランは第七師団に配属替えになった。ただ、ヘンダース元帥は自分の采配に口を挟む王太后に条件を付けた。ビランの昇進である。王太后は自分の気にいらないビランがいなくなればと条件を飲んだ。そして、ビランは少尉となって赴任先に向かった。行き先は無論エンバーではなかった。そして、王太后の亡くなった今、ビランは近衛師団に再び、配属となった。いわば、古巣に戻ってきたのである。古巣に戻ってきたビランは水を得た魚のようだった。一個中隊の騎兵を集めるのは訳もないことだった。戦争でもない限り軍隊の生活は、ある意味、単調だった。刺激を求めてケンカ沙汰を起こすことすらある。これは大きな声でいえないがランセル第三王子付きの近衛兵がそうだった。ランセル王子自身がケンカを吹っかけるのだから、ちょっと始末が悪い。このケンカ沙汰も王太子が鹿狩りの件をランセルに持ちかけると、ピタッと収まった。不思議なものである。
王太后には邪魔な存在だったビランもセシーネには有り難かった。やはり、頼りになるビランお兄ちゃんである。ビランが一個中隊をかき集めたのは、別に海洋大会に見習たちを連れて行くためだけのためでもなかった。直属の上官が事なかれ主義で、頼りにならないと判断した彼は、預かっている小隊を優秀な小隊にすべくあちこちの騎兵に声を掛けたのである。まあ、予備兵とでもいうかそんなところである。やはり、武官である以上佐官には登りたいと思うし、将官だって夢ではないかもしれない。夢を見るのは自由である。
ビランは、自分の立場をよく解っていた。エレーヌ付のパケット少尉がそうであったようにたとえ近衛師団の尉官でも、国王と口を利くことなど滅多にない。例外は国王付だけである。上に覚えが目出度いほどそれに甘えてはいけないことは、ビランは、知っていた。話のわかる国王だが、厳しい面も持ち合わせているのは、ビランにも解っていた。
「ねえ、ビラン、後は、これが上手くいったら、次は、薬草採りだけど、バルカンは忙しいじゃないの、大丈夫?」
「一日中、働いている訳では、ありませんよ。外仕事だから、夜になったら手が空くでしょう。その時に話をすれば、いいでしょう。取り敢えず自分から話しておきます」
「見習たちには、まだ、話してないでしょう」
「ええ、そういったことは、自分たちから話さないと方がいいと判断したので、こいつらにもいってあります。後は、ケンナス先生からか、姫からですが、自分は姫からの方がいいとおすすめしますね」とここで、ビランは弟子が急に増えたケンナスを思った。ケンナスにはどこか孤高の影があった。
「そう、でも、海洋大会が無事終わってからの方がいいでしょうね。あんまり期待されては困るし、それとも行きたがらないかしら」
「そんなの遊びがてら、いけばいいんですよ」とここで遊ばせ上手なビランは「しかし、姫、ここで提案なんですが、海洋大会は、全員連れていいた方がいいと思いますよ。やはり、親元から離されて寂しい思いをしているんですから。そのぐらいはしてやらないと」と、さすがにビランお兄ちゃんである。子供心をよく解っている。それに、あの厳しい元女官長もいるしなとビランは思った。その後、どの子がどうとかの話になった。
ビランは、よく見ていた。それは、武官になる前の彼の職業だった。彼は、国王からわずかだが給料をもらっていた。小姓制度を廃止していたアンドーラの王家では異例のことだった。裕福とはいえないビランの実家ではそれは、有り難かった。ビランは、それを軍学校へはいるための馬術の稽古料に費やした。武官でも金銭に細かいものもいれば、大まかなものいる。ビランは細かい方だった。少年の時から、少しは金で苦労したせいもある。部下たちにはいい馬を買えといってある。そして、定年まで尉官で過ごすのかといってある。やはり、自分を軍学校へ入れるために骨を折ってくれた今は亡きヘンダース元帥のためにも、ビランは少しでも階級を上げたかった。
王宮では、第一王女の帰りをタチアナ・プルグース子爵令嬢は、首を長くして待っていた。第一王女から王都近辺の地図を探せと命じられたタチアナは、まず、朝食前に図書室で、迷い、その後、王太子からその理由を聞いて来いといわれ、立ち往生して迷いに迷って彼女なりの決断をした。セシーネから見れば、頭が空っぽに見えたタチアナでもその程度の知恵は働く。無論、ナーシャには、一言も相談していない。第一、相談出来ない。王太子と口を利く機会など滅多にないのだから。まあ、人間というのは欲求があるとない知恵もでてくるようである。結論はこうである。まず、第一王女へ王太子の伝言を伝える。その返事をまた、王太子に伝える。それから、タチアナは、色々その後のことを想像したが、ちょっと夢心地すぎるので割愛する。ほら、タチアナの頭の中だって、一杯、詰まっているでしょう。頭が空っぽだなんて医学を学んでいる第一王女らしからぬ表現だと思いませんか。ねえ。
第一王女が何となくそう思ったのは、それは受けた教育の違いであった。第一王女は王位継承権を持つ身として王太子ほどではないが、それなりの教育を受けていた。学問好きだけは、王太后も渋々認めざるえなかった。女性に学問はいらないと国王は考えてはいない。学問の領域がどこからと学者論議になってしまうが、軍学校式に学科といえばよいだろうか、それとも、大学入学合格の基準というかその程度まで、もう少しのところ前まで、来ていた。末恐ろしい王女である。
それに比べてタチアナの方は学科の方は、男子では、兵役で恥をかかない程度である。プルグース家の教育方針は恥をかくなである。いわゆる新貴族と呼ばれるメレディス女王時代に子爵位を授けられたプルグース家としては当然な教育方針である。王家の方々も大変だが、貴族の方だって大変なんですから。
当然、礼儀作法に重点を置かれる。ところが、重大なことが判明した。タチアナは上がり性で、人前に出すと金縛りにあったようになって、身動きがとれない。高位にする礼がちゃんと出来ないのである。家族だけだときちんと出来るのにである。第一王女の侍女となったのは、そんな事情もある。これは、一族同士の縁組みで懇意なったルンバートン候爵夫人から勧められこともある。王宮に出入りしていれば、その上がり性も治るのではないか、慣れですよとルンバートン候爵夫人はいった。思いきってそうするかと父親のプルグース子爵と母親の子爵夫人は意を決してタチアナに王宮勤めをさせることにした。第一王女は自分の侍女に恥をかかせたりしないだろう。そういう計算もあった。
第一王女には、その辺の事情がよく伝わっていなかった。ナーシャが大部分の用を引き受けていたのもそんな事情もある。聞かなければ解らないものである。ただ、第一王女は聞かなかった。王太后が病気になる前は、やはり初謁見という貴族たちの儀式を控えた貴族の令嬢たちが、「行儀見習」として大勢やって来る。だから多分そんなところだと思い、聞かなかった。セシーネは特に意地悪をして聞かなかった訳でもない。
上がり性のタチアナだが、ルンバートン候爵夫人の助言もあって初謁見を何とか無事すませた。王宮勤めはタチアナには驚きの連続だった。驚いている間に上がり性も何とか出ずに今日まで来ている。
近衛騎兵の先導に続いてフィードに跨った第一王女に姿にタチアナは今まで出なかった上がり性が出てきたのがわかった。胸の中で何度も繰り返していた言葉を繰り返した。王宮の玄関と呼ばれる場所にセシーネは乗りつける。先に降りたビランがセシーネに手を貸す。タチアナは、少し、足がもつれる。何とか高位に対する礼が出来た。タチアナは待った。セシーネの方が先に声を掛けた。礼儀としてはそれがアンドーラでは正しいが、正確に言うと王家では大体そうである。行事の日でない時はしばしば破られる。じゃないと日々の暮らしが円滑にすすまない。無論、違うところもある。
「ただいま、タチアナ」とセシーネはいった。そこでもうタチアナは混乱して来た、普通ならお帰りなさいとかお帰りなされませとかいえばいいのに言葉が出てこない。その代わり「あの、王女さま、地図は」といって事情を説明しようとした。そうしたら、意外なタチアナの予想もつかなかった返答が返ってきた。
「それなら、もういいわ」とセシーネはもう歩き出している。
そこで、よろしいでしょうかともう一度尋ねれば、よかったのだろうか、気まぐれな王女に振り回されたタチアナ嬢である。少し、遅れながらセシーネについていく。セシーネの後ろにビランとタチアナが並んで歩く格好となった。「タチアナ、着換えるわよ」とセシーネは歩きながら話す。この辺りも教えられた礼儀作法とは、違っていたが、少しは慣れた。はい王女さまとタチアナが返事をする前にセシーネに「地図は見つからなかったのでしょう」と図星を指された。キルマ・パラボン侯爵夫人ではないが、第一王女は人の心理を読むことに長けているのだろうか、そんなことない。ただ、何となくセシーネにはわかった。種を明かせば、ビランから地図は軍事機密だと教えられたのである。王宮で育った彼が王宮の図書室にある書籍を全て知っている訳ではないが、そこにはないはずだとビランは、いった。「陸」こと陸軍はそういったことにうるさいのだと。やれやれと思ったが、セシーネは作戦変更をビランの助言でしていた。ただ、ビランのいった地図は、最近の測量術で作成された地図で古地図ならあった。ただ、それでは歴史を学ぶにはよいが、この計画には役に立たない。
足早に歩くセシーネにとぼとぼと歩くタチアナは次第に遅れていく。タチアナの心境はやや茫然自失状態である。まあ、夢と現実は一致しないのが人生である。ビラン中尉が小声で「あんた、歩くのが遅いぜ。もたもたするなよ」とタチアナに注意をする。前方にいたセシーネが「何しているの」ととがめた。あわてて、タチアナは、追いつく。第一王女一行の陣形が整ったところで、再び前進する。号令はかけない。王女の速度に合わせるのがお供として当然である。
「ビラン、ところで、ホントに騎兵は大丈夫なの」
「姫、騎兵というのは、馬をとばす理由をいくらでも捜すものです。姫だって、そうでしょう」
「それもそうね」と乗馬の楽しさを味わったセシーネ。むろん、タチアナにはその会話は理解出来なかったし、耳にも入ってなかった。
タチアナは、当初、宮殿の近衛兵におびえたが、これは、ナーシャから、壁だと思えと助言されていた。だから、壁に対して些か不作法な態度をとっていることに、タチアナは気がついていない。近衛師団には、新兵はいないし、その陣容も一生というか定年退役まで軍人として過ごすものたちだけで構成されていた。彼らには、各師団から選抜されたという意識が強い。
もう一人の侍女、ナーシャは、第一王女の部屋でこれまた、少し夢心地気分で刺繍をして王女の帰りを待っていた。これは、セシーネが留守の間、侵入者を防ぐためであった。侵入者とは、エレーヌ王女のことである。セシーネは几帳面で、部屋はきちんと整理整頓していないと気が済まない。部屋を荒らされるのが嫌だった。そしてまた、医学に興味ないナーシャとタチアナを救貧院に連れっていっても邪魔になるだけだとセシーネは、思っている。
部屋に戻ってきたセシーネは、着換えながら「タチアナ、ご苦労だったわね。ともかく、地図はいまのところいいわ」とタチアナの労をねぎらった。そして、昼食に出かけた。労をねぎられてもタチアナは少しも気分が晴れなかった。
王家の女性たちだけの昼食で意外な話がでた。ズボン姿を再び話題にした王妃に第四王女が「前、お父さまから伺ったのだけどお母さまは十才位まで男の子として育てられたらしいわ」
「あら、そうなの、知らなかった」と王妃
「多分、女王がいれば女公爵がいてもいいと思ったのでしょうよ」と女王の名を継いだメレディスはいった。王太后は、エンガム公爵の一人娘だった。国王は王位につく前、外祖父の跡を継いで七才でエンガム公爵となった。ここで第二王女があることに気がついて「ねえ、叔母さまのお父さまって、わたしのお祖父さまってことよね。どんな人だったの」
王家の話題で、あまり口にしない方がいいのは、亡くなった前王妃ミンセイヤと「龍」にさらわれた先王ジュルジス二世の話だった。王妃がすかさず「エレーヌ、大人の話に口を挟むんじゃありません」とたしなめた。
「わたしだって、女侯爵よ。まあ、女官長としての手当も含めてと言うことらしいわ」とメレディス。第四王女は兄の第二王子や弟の第三王子と同じ扱いを受けたのが内心では自慢だった。やり手の前職者以上に女官長としてやらなければと思っている。子爵家出身の王妃では貴族たちに侮られる。ここは自分が睨みをきかす役目だと心得ている。
昼食が終わり、一旦部屋に戻ったセシーネは「わたしは、準備室へ行くけど、あなた達は好きにしていいわ」と予定を侍女たちに告げた。昨日、ブルックナーから渡された王立施療院の予算書を手に新宮殿へと向かった。
好きなことをしていいと言われた侍女の一人、ナーシャは再び、刺繍に取りかかった。タチアナは、地図の件を懸命に考えていた。そして、こう考えた。もしかしたら、王太子が地図を探しているかもしれない。やはり、ここは、もう不必要になったと王太子に伝えるべきではないかと。タチアナの前途に光明がさしてきた。
恋というは、人を大胆にも臆病にもする。タチアナ自身も自分の気持ちに気がついていない。上がり性のタチアナは、一種の使命感で、王太子を捜す行動に出た。場所は、図書室であろうと検討をつけた。ナーシャには、散歩をすると嘘をついた。彼女に王太子に言づてを伝える役をとられたくなかったから、タチアナは必死だった。
案の定、図書室の前には近衛兵が立っていた。期待に胸を弾ませながら近衛兵に「第一王女さまのご用よ」と告げた。近衛兵はあっさり、扉を開いた。中に入ったタチアナは、思わず、立ちすくんだ。そこでは、国王の次弟ヘンダース王子の長子リンゲート王子とそのお相手役リンゲート班と呼ばれる少年たちが勉学に励んでいた。無遠慮な少年たちの視線にしつけられた礼儀作法も忘れてタチアナはあわてて図書室を飛び出した。
そのタチアナの行動をみたリンゲート王子は「変なやつ」といった。「大体、失礼だよ。僕を誰だって思っているの」と呟いたリンゲート王子の言葉はリンゲート班の最年長の少年の耳に入った。彼は、我らがリンゲート王子に失礼を働く変なやつを懲らしめるべきだと考えた。大かくれんぼ以来、王宮では、面白い出来事がなかった。精々互いを変だと言い合って、ケンカするぐらいである。暇をもてあますほどではないが、多少の時間はある。彼は「あの失礼な変なやつ」を探し出せと夕方の少ない自由時間をその捜索活動をリンゲート班に命じた。
図書室を飛び出しタチアナは廊下を逃げるように走っていた。やがて、気がついて立ち止まった。どこへ行けば王太子に会えるのだろうか。再び、途方に暮れる。
王太子はそのころ宮殿にはいなかった。午後から、陸軍本営本部で鹿狩りの下見をかねた駐屯地の視察の打ち合わせのための会議に出席していた。そんな事情を知らないタチアナは王太子の捜索活動に従事するのである。つまり、自分の育った領主館と比べようがないほど広い宮殿の随所にいる「壁」に尋ねて回るという根気のいる仕事である。「壁」の彼らも王太子の居所を知らなかった。
そんなタチアナの行動を知らない第一王女はブルックナー伯と準備室と名付けた新宮殿の小部屋で王立施療院の準備に勤しんでいた。
「やはり、あそこがいいかどうかですな」とブルックナー伯は施療院の候補地について検討し始めた。
「そうですね。少し、遠いですけど、あそこには薬草園もありますし、問題は、子供たちを育てるにはあそこがいいのではないかと」とセシーネは救貧院を施療院に変える案の利点について自分の考えを述べた。やはり、ここは慎重に検討すべき課題だった。《治療の技》という特殊な力を持っている子供たちを町中で育てるには問題が出てくるだろう。
セシーネは、海洋大会に子供たちを連れて行くことも、ブルックナー伯に告げていた。やはり、その方がいいと思った。彼が反対したら、取りやめようと思ったが、案外に賛成してくれた。ブルックナー伯は王都に暮らす人々が海洋大会を始め各種行事を楽しんでいるのを知っていた。十二年前、始まった海洋大会も年々、見に来る人で賑わうようになっていた。海洋大会に子供たちを連れて行ってはどうかという第一王女の提案をブルックナー伯はなかなか良い案だと思ったし、そう、第一王女に述べた。
施療院の候補地について検討していると、工部尚書がやってきた。準備室に入ってきた工部尚書のニドルフ・レンドル子爵にブルックナー伯は「君ね、役所の方は大丈夫なのか」と尋ねた。
「いえ、大丈夫です。僕はね、こう定義したんです。工部省というのは、建物を造って、金貨を造るだけの省じゃない。ものを造る職人たちの技術の向上を図るべきだと。修理だって、大事な技術の一つです。ということは、身体を修理するのは、やはり、工部省でしょう」
「ちょっと、こじつけだな」と論議が嫌いでないブルックナー伯「丁度いい、今、施療院の候補地について検討していたところだ」
「しかし、僕は、てっきり、宮殿の職人たちは、工部省の所属だと思っていたんですが、全員、近衛師団に所属しているんですね。呆れました」
「そうなのね。宮殿で働いている男の人は侍従長と従医長と以外そうなの。あと園丁頭は、退官したのね」
「エッ、ホントですか」と何でも軍が優先することに、工部尚書は顔をしかめた。
「陛下のご方針だな。侍従長は、自分は文官であるべきだといってな」とブルックナー伯はそのあたりの事情を説明し始めた。戴冠式がすむとジュルジス三世は、軍で必要なものは軍で作るべきだと主張した。食料まで全て賄うのは、無理であったが、ありとあらゆる職人たちが、軍に徴集されていった。工兵と呼ばれる彼らは、大事にされていた。
軍備を整えるために、彼ら職人たちの衆知が集められた。これは、閉鎖的な世襲制の親方制度を打破する意味合いもあった。それまで、世襲制で受け継がれていた職人の技術が軍のため開放されていった。職人たちは息子ではなく、部下にその技術を伝えなければならない。親方の息子でなくても親方となれることになった。そして、また、職人を別な親方の元で鍛えてもらうという技術の交流という面でも功績があった。
医学の面でも、医学部を卒業すると兵役があるので軍の医務官となる。ブルックナー伯がその辺の事情を工部尚書に説明していると従医長のベンダーがやってきた。
「ベンダー博士は、なぜ、近衛じゃないんです」と工部尚書はずけずけときいた。
「近衛だと近衛全体の健康管理に責任がありますからね。わたしは、王家の方々だけで精一杯。それに、あまり、武術は好きじゃなかったので、でも、陛下にからかわれるのですよ。運動を勧める割には自分はどうなのだと」とベンダーは苦笑いした。
「丁度、よかった、これ見てください。施療院にいりようなものを書き出したんですがな」とブルックナー伯が予算書を取り上げた。受け取るとベンダーは目を通し始めた。
「幾つか、足りないものもありますね」とベンダーは、書き加え始めた。その間、ブルックナー伯は工部尚書に「君ね、救貧院以外の候補地を探してきたまえ」
「あそこじゃないんですか」
「候補地の一つだ。たしかに、国母さまは救貧院を施療院にするように遺言された。しかし、勅命は、国母さまの遺言状の上だ。一番いい、立地条件のところに作るのが当然だろう」
「しかし、地図もないんですよ、軍事機密とかいって」
「だったら、陸軍の本営本部に行って見せてもらいなさい」
はあといって、工部尚書は不承不承に立ちがった。切れ者と評判の陸軍元帥は、苦手だった。
工部尚書が立ち去るとベンダーは最近の大学の医学部の状態について話し始めた。
「そりゃ医学学部長は、内科といいますが、解剖もしない、診察もほとんどしない。無論、うわさの段階ですが、学生たちも減っているというし、どうなっているんでしょうね」
「先生、それ本当なの」とセシーネは問いただした
「まだ、確かめて見ないとわからないが、医学というのは医学書を読むだけじゃダメなんだ。臨床、つまり、実際の診察や治療が大事だ。無論、病理といってなぜ、病気になるかという研究も必要だが」と苦り切った表情のベンダー。ブルックナー伯も、第一王女も眉をひそめた。
陸軍本営本部では、軽騎甲冑を身につけた王太子のエドワーズが、視察のための作戦会議に出席していた。会議には、陸軍元帥他、参謀長、近衛師団長のサッカバン准将、近衛師団付きの参謀、調達局に配属されたランセル第三王子、王太子付の武官などが会議室に集まっていた。
「計画というのは、あまり、細かいと、それに足元を掬われる場合もありますから…後、ご視察には今回は小官も同行します」と陸軍元帥。
なんだか、本格的になってきたなと幕僚会議気分を味わっていた王太子はうなずいた。
「いやがる師団長もいるだろうな」と重騎甲冑の近衛師団長
「そろそろ、師団の移動も考えているんですよ。サックは、近衛はあきたかな」と制服の陸軍元帥
尋ねられた近衛師団長は逆に「お断り申し上げる。近衛であることを誇りに思えといったのはどなたかな。それとも、小官では不服か」と陸軍元帥に詰め寄った。近衛師団長サッカバン准将には、父子二代にわたって当時連隊だった近衛を師団にしたという自負がある。
「いや、それなら、それで良い。わたしは、色々師団を回ったが、近衛だけは経験がないのですね」と元帥
「あれだけ、口を挟めば十分でしょう。ここまでいうかというくらいにいうのだから。殿下、元帥の軍学校時代のあだ名は文句屋というんですよ」と元帥と軍学校と同期の一期生の近衛師団長。
「まあ、副参謀長でしたから、仕事の一つですよ」と文句屋はあっさりとしていた。
「やはり、殿下には、全駐屯地を見て頂きたい。何、国内は安定していますから、大丈夫でしょう」と元帥の提案にエドワーズは「僕はね、今は兵役期間中だと考えています。だから、武官の勉強をまずしようと思って、ホントは軍学校にも入りたかった」
「しかし、殿下、軍学校に入ったら、今度は兵学校ということになりますよ」と元帥は指摘した。海軍にも士官学校があり、それは兵学校と呼ばれていた。
「それもそうだな」と意外な盲点をつかれたエドワーズ。
「取り敢えず、第七軍区までということで、随行員は最小限度の方がいいでしょう」と元帥は軍事機密である地図を眺めながらいった。近衛師団長は随行する部隊の編成を考え始めた。
「僕は、天幕で休みますから」と武官気分を味わいたいエドワーズ。
「補給隊が当然いるな、食料はどうする」と近衛師団長
「持参することはないでしょう。荷物が多くなるだけだし、後は、各師団の方から、ご一行の食費が請求されるかどうかだが、それも、興味がありますね」と軍を動かすとは金も動くと心得ている元帥
「小官だったら、請求するね」と近衛師団長も興味があった。
「取り敢えず、行軍日程を決めましょう」とガナッシュ元帥
元帥の行軍という言葉にエドワーズは内心ワクワクした。突然、元帥が参謀長をしかり始めた「君ね、行軍計画も立てられないのか、午前中、何やっていたんだ」
ハアと反応の鈍い参謀長。
「まったく、軍略の基本だろうが、取り敢えず。移動に一日、視察に一日でいい」と軍略の専門家である元帥
「まあ、歩兵に合わせればいいだろう」と随行員の編成を考えていた近衛師団長。
「あの、俺は、制服なんですかね」と制服のランセル
「本営本部から視察に行く時は甲冑が規則です、重騎甲冑はお持ちでしょう」と元帥。
「僕も、重騎の方がいいかな」とエドワーズ。
「そうですね、そっちの方がよろしいでしょう」と元帥。
「いいよな、エドワーズは将官甲冑で。俺なんか佐官甲冑だもん」とランセルは自分の待遇に少し不満だった。将官だけに許された将官甲冑は、胸当てに打ち出した模様が入っているなかなかの芸術作品である。大事な商売道具である、武官たちは甲冑にかなりそれぞれこだわりがある。軍支給の甲冑は精々体に合わせる程度だが、自分で買い取るとそれぞれ職人たちに注文をつける。だが、それでも規則があって、鉄で出来た重騎甲冑の裏打ちは、尉官は布、佐官以上が革と定められている。胸当ての打ち出し模様は将官だけである。打ち出し模様を入れて欲しいとランセルは甲冑職人に頼んだが、王子でも規則は規則だと職人の親方にあっさりと断られていた。
「まあ、がんばって、将官試験に合格することですね。いいですか、ランセル少佐、初代の調達局長は、元々は文官でしたけど、武勇でなく、物資の手配などで将官になりましたよ。まあ、やり手でね、ついていましたよ、わたしは」と元帥は昔話を始めた。元帥はこういった現在の軍制度が整っていく課程なども王太子に話すべきだと思っていた。
元帥の話はエドワーズには興味深かった。そして、初代の陸軍元帥のヘンダース王子を現元帥は、やはり、大したお方だと称した。確かに王国軍をここまでした功労者であることは事実であろう。アンドーラは、陸軍の存在で平和を享受していた。
「斥候はどうする」と話題を行軍計画に戻した元帥
「軽騎の奴らもいかせるから、そいつらにやらせればいい」と軽騎隊は二個小隊かなと考えている近衛師団長「後、ランセル殿下の方は、重騎の一個小隊でいいでしょう。誰を連れて行くか人選していて下さい」
いくら国内が平穏とはいえ、ぶらり二人旅といかないのが、王太子と第三王子という身分である。元帥は参謀長と近衛師団の参謀に行軍計画を参謀本部室で立てるように命じた。近衛師団長も当然、彼らの仕事だと思って何もいわなかった。
「しかし、文句屋が来たといやがる連中もいるだろうに」と近衛師団長。師団長の中には軍学校を卒業していない、元帥より年長者もいた。
「見られて困る師団にしておく方が悪い。機織りの計画もあるし」と元帥はここで通過地点の駐屯地にいる親友のカルバス・ファンタール中将を思った。元帥は予め、各師団に予告をしておくつもりはなかった。不測の場合に備えるのが武官たるそれも、将官の心得だと思っている。
「後、いつ出立するかですが」とここは王太子の都合を聞くべきだと元帥
「そうだな、海洋大会の次の次の日では、準備は無理かな」と早くいきたいエドワーズ
「よろしいでしょう」と近衛師団長。武官は迅速なりだとこれまた、部下をしかりとばしたい気分の元帥も同意した。
こうして、王太子エドワーズのアンドーラ全土にわたる視察が始まった。この駐屯地視察は各地で色んな波紋を呼ぶが、エドワーズ自身もそれによって成長していくのである。
会議は視察の行軍計画より陸軍の組織的な話になった。これも王太子には勉強になった。まだ、学ぶべきことがたくさんあるとエドワーズは思った。
「役所ですよ。本営本部なんて、武官だって役人ですからね。書類仕事もきちんとやってもらわないと」と陸軍の長は、調達局に配属されたランセルにやんわりと言った。そこへ元帥の秘書官が工部尚書の訪問を告げた。何だろうと元帥は王太子に断って席を外した。すっかり武官気分のエドワーズは立ち上がって敬礼に返礼しながら、まだ、見ぬアンドーラ全土の駐屯地に思いを馳せていた。
工部尚書は、陸軍本営本部の玄関で待たされていた。何となく気が重い。そこへ制服姿の陸軍元帥がやってきた。用件を伝えるとほうという顔をした。よろしいでしょうと本営室に案内し始めた。工部尚書のニドルフは生まれて初めて陸軍の中枢の建物の中に入った。元帥の執務室である本営室にはいると陸軍元帥は秘書官に地図を探すよう命じた。
「どこにあるんです」と秘書官はいった。うんざりした顔の元帥は「調達局にいって聞いてみなさい」
秘書官はあわてて敬礼をして出ていいった。
「まったく、手取り足取りいわないと何にも出来ないんだから」と元帥は文句を言った。やはり、厳しい人だと工部尚書は思った。
「取り敢えずここでお持ち下さい。小官は重要会議がありますので、失礼しますよ」と元帥は本営室を出いった。一人残された工部尚書は、敬礼はなかったなと思いながら、将官甲冑の飾られている本営室を見回した。工部省の自分の部屋より立派だなと思いながら、ふと、下士官それも最下位の伍長だった自分には遙か遠い地位にある陸軍元帥の椅子に座っても良いかなと彼は考えた。
一方、ガナッシュ元帥は王太子たちとの会議に戻った。
「ねえ、元帥、ちょっとお願いがあるんですが」とランセル
「何ですか」
「規則では、本営本部への出勤は私服となっているんですが、小官は、重騎甲冑で来たいんです。大体、私服というのは本営本部の所在を知られないためでしょう。でも、誰だって、ここが本営本部だと知っていますよ」
元帥は少し考え「いいでしょう、小官もそうしましょう」とあっさり許可を出した。その後、鹿狩りの話になった。元帥は自分が指揮ととるといった「あいつには、無理だ」と簡単な行軍計画も立てられない参謀長を切り捨てた。
「海軍はどうする」と近衛師団長
「場所をどこに割り当てるかだな」と思案顔の陸軍元帥。ここで、ニヤリとした。そして、自分の海洋大会についての計画をうち明けた。
「まあ、鹿狩りに出るなら、そっちも出させろということか。面白い」とこっちもニヤリとした近衛師団長
「後は、戦力がどの程度かなということだな」と戦力を確認するためにすでに伝令はだしてある元帥。たかが海軍兵学校の訓練生の訓練成果を見るだけでは物足りないと思っていたエドワーズもランセルも賛成した。あさってでは当然間に合わない。来年が楽しみだなとランセルは思った。
王太子と陸軍元帥の視察計画の会議は、五時に終了した。元帥は会議室から本営室に戻った。そこで自分の椅子に腰掛け地図とにらめっこをしている工部尚書がいた。
「みつかりましたか」と一応聞いてみる。
「地図だけ見ても見つかりませんよ。建物を見たり、実地に見ないと」と椅子から立ち上がった工部尚書
「そんなの部下にやらせりやいいですよ。何のための部下ですか」と元帥は制服を脱ぎ始めた。
「なにしてんです」と元帥の行動に不審な工部尚書
「着換えるんです。君、ちょっと手伝って」と秘書官を呼んだ元帥。飾ってある自分の将官甲冑に近づいた。
好奇心旺盛な工部尚書は陸軍元帥が甲冑を身につける様子をとくと拝見することにした。
陸軍本営本部から、自分の師団長室に戻った近衛師団長サッカバン准将は、副官から妙な報告を受けた。どうやら、王太子を捜し回っている不審な若い侍女らしいものがいると。師団長は顔をしかめた。エランダ事件は記憶に新しい。そこで副官にその人物を連行するように指示を出し、自分は、女官長のメレディス王女に会いに行った。やはり、年若い男女が暮らす宮殿である。当然、風紀の乱れは忌むところである。これは師団長の自分と女官長にその責任があると彼は思った。
「ともかく、本人に王太子殿下にどんな用事があるのか聞いてみるつもりです」
「そうね、お願いね。サック」と心当たりがない女官長はいった。もしも、王太子の寝室に潜り込むようなことがあったら一大事である。あの事件以来、師団長も女官長も神経をとがらせていた。
夕食の席で、国王は、エレーヌは新兵だ、そう扱うように同席している王家の十二歳以上のものにそう命じた。
「まったく、王女という身分をはき違えている。そろそろ、そういったこともわからせないかと、当分はエレーヌ新兵と呼びなさい。今は夏だから、水仕事だってやらせなさい」と平坦な声で国王はいった。王妃は思わずため息が出た。自分も子供時代に新兵扱いされ、それを喜々と受け止めた王太子は、視察について国王に報告した。
「やはり、全駐屯地を見て回るべきだと思うんです。元帥もそう勧めてくれたし、取り敢えずは海洋大会の二日後に出発しようと思います。第七軍区までいって帰ってきます。大体十日ぐらいでしょう。もうちょっとかかるかな」
国王は、ほとんど王都から出たことがなかった。王太子時代にエンバーへ何度かいったことがあるだけだった。やはり、治めるべきアンドーラ全土を見て回るのはエドワーズにとっていい勉強になるだろうと国王は許可した。自分がいけば行幸となって大変な行事になることはわかっていた。エドワーズは、父親の許可をもらい嬉しそうだった。その日の夕食の話題は、鹿狩りと海洋大会の予想と無難な話題だった。
セシーネは、エドワーズが各地を視察することで、色々なことがわかるのだろうと思った。もう本当に飢えて暮らしもままならぬ人々は、アンダーラではいなくなったのだろうか。病気で苦しんでいる人はいないのだろうかとそんなことをぼんやり考えていた。
夕食が終わり、部屋に戻るとタチアナの姿はなく、ナーシャしか部屋にいなかった。別に用もないのでセシーネは、ベンダーから借りた医学書を読み始めた。ナーシャもおとなしく、刺繍に取りかかった。今日の午後、ナーシャは王妃に呼び出された。
ヘンリッタ王妃は、侍女のしつけの責任は自分にもあると思い始めていた。侍女のしつけは女官長の責任ではあるが、現女官長のメレディス王女は未婚である。その辺が不十分だと思ったし、また、王太子は自分の権限外だと思ったが、第一王女に関しては、多少の発言権はあると思っていた。セシーネの様子をナーシャから聞いた後
「あの子は、そんなわがままいわないと思うわ。やることはきちんとわかっている子だから。ところで、婚約しているんでしょう」と針仕事をしながら、王妃はいった。王妃の居間に入ったナーシャは、実家であるルンバートン候爵家の領主館でしばしば開かれたお針の会を思い出した。侯爵家では、王都から持ち帰った服や布地などを見ながら、侯爵夫人自ら、裁縫をしていた。領民の妻女たちも呼ばれ、そちらも縫い物をしたり、色んなおしゃべりをしたりした。ここでも、王妃を始め、それぞれが縫い物に精を出している。
やはり、縫い物をしながら第二王子の妃アンジェラが「まあ、お相手はどんな方なの」とたずねた。居間にいる人々が縫い物から目を上げ、一斉にナーシャに視線を向けた。ナーシャは赤くなってうつむいた。婚約者がどんな方とたずねられても、本人に会ったのは二回だけである。縁談はナーシャの父親がルンバートン候爵夫妻に持ちかけ、ほとんど、両親と侯爵夫妻、相手のプルグース子爵家との間で話がまとまった。
「あの、陸軍中尉です。父の部下で」
ここで、ジョイス王女が泣き始めた。王妃とアンジェラ妃が席を立ち、その側へ行く。王妃が「まぁ、リディア、それはジョイスが使っていたのでしょう。どうぞは?」
どうやら、おもちゃの取り合いらしい。アンジェラ妃が「リディアはそれが気に入っているのよね。ほら、ジョイス、これ」といって別なおもちゃでジョイス王女の気を引く。リディア王女とジョイス王女が遊び出すと王妃とアンジェラ妃は席に戻った。
「さっきの話だけど、結婚するということは、普通、子供が生まれるわ。子供を育てるのは大概、母親でしょう。ナーシャ、子供は嫌い?」と王妃は本題に入った。
そこで今度はコーネリア王女が泣き始めた。ネリア妃があわてて抱き上げ、乳を与えようと服のボタンを外し始めた。
「ネリア、あなたったら、まず、おむつが濡れているか見なきゃ」と二人の子を持つアンジェラ妃。
ネリア妃はあわてて確かめた。ほらとアンジェラ妃。
「ちょうど、いいわ、ナーシャ、やってご覧なさい」と王妃はナーシャにおむつ替えを命じた。
ナーシャは赤ん坊のおむつなど取り替えたことなかったが、なんとかやってみるしかない。見守っていたアンジェラ妃が「そんな、ぐずぐずじゃだめよ」と手直しした。さすが、二児の母親である手慣れている。コーネリア王女はネリア妃に渡され、母乳を飲み始めた。
つまり、王妃は、ナーシャが、子供の世話を覚えるべきだと考えたのである。幼い王女たちにはそれぞれ担当の侍女がいるが、休みの日もある、その時、ナーシャも手伝うべきだと。
そんな、訳で、ナーシャも色々忙しかった。タチアナのことまで気が回らなかった。
第一王女の部屋に女官長のメレディス王女と近衛兵に腕を捕まえられているタチアナがはいってきたのは、夕食後三十分位だろうか。
「何なの、叔母さま」とセシーネは本から目を上げた。タチアナは泣いていた。
「あなた達は、廊下で待っていなさい」と女官長はまず近衛兵たちを部屋の外に出した。女官長のメレディス王女は「セシーネ、ちょっと伺いますけど、エドワーズに何の用があるの」
「お兄さまに?」とセシーネは顔をしかめ「別に、お兄さまにこれって用はないけど」
「そう」と女官長の顔が厳しくなった。
「それで、タチアナ、王太子殿下にどんな用があるの」と今度は泣きじゃくるタチアナに女官長は詰問した。ナーシャは泣きじゃくるタチアナを抱き寄せると「あの、わたしが事情を聞いてみます、あのタチアナは人前に出るのが苦手で」
「へえ、それで、あなたがこの不始末の責任をとるという訳ね」と夕べのにこやかな顔とうって変わって険しい顔のメレディス王女。顔立ちがいいだけに少し迫力がある。
「不始末だなんて、大げさじゃない」とセシーネ。
「セシーネ、あなただって、あの馬鹿娘を忘れた訳じゃないでしょう」と女官長
「そうね、タチアナ、お兄さまにどんな用があったの」とセシーネはエランダのことを思い出した。
「泣かなくたっていいじゃない。まるで、わたしが苛めているみたい」と両手を腰にあてたメレディス
「地図だそうです」とやっとしゃくり上げているタチアナから聞き出したナーシャ
「地図?それは、もう良いといったはずよ」と地図よりバルカンのほうが役に立つと考えているセシーネ。
「あの、王太子さまが探してくれるといったの、どうなの、タチアナ」とナーシャ。
「エドワーズはそれほど親切じゃないと思うわ、いろいろ忙しいんですからね」とここでメレディスはタチアナが馬鹿正直なのではないかとふと思った。報告によるとタチアナは午後一時半頃から夕食の時間まで宮殿中を探し続けていたらしい。タチアナは首を振り「王太子さまが理由を」とようやくいった。
そんなところに近衛兵が園丁頭のバルカンとビラン中尉の訪問を告げた。セシーネは通すようにいった。タチアナが何をやったか気になるが、こっちも大事だ。
「バルカンに何の用があるの」と探りを入れるメレディス
「ちょっと、薬草のことで」とセシーネは叔母の質問をかわした。バルカンとビランが入ってきた。
「何事です」とただならぬ気配を感じたビラン
「あなたには、関係ないわ、ビラン」とメレディスはピチャリといった。
「ともかく、理由をいいなさい、タチアナ」とメレディスは泣いているタチアナに少しうんざりしてきたが、やはり、ここははっきりするべきだと思った。セシーネはここで推理した。探しに行けといった図書室は大概、王太子が使っていた。タチアナは地図を探して欲しいと王太子に頼んだ。だが、王太子は自分が何をしているか探るために地図が必要な理由を聞いてこいといった。ところが今は必要がないとセシーネはいった。このことを伝えるためにタチアナは王太子を捜したのでは、ないかと。セシーネはメレディスに事情を説明しながらこう結論づけた
「つまり、お兄さまに地図は必要がなくなったというために、お兄さまをさがしていたの」
タチアナは泣きじゃくりながら何回も肯いた。その様子を見ていたメレディス王女は
「そういうことは王太子殿下に直接でなく、王太子殿下付の侍従か武官にいいなさい。それが王宮のやり方よ。まあ、なれてないから仕方がないけど、誰かに用がある時はお付きの侍女か侍従に頼むのよ。わかった?あんまりみっともない真似はしないでちょうだい」と少し溜飲を下げた女官長は第一王女の部屋を出ていった。
セシーネはナーシャにまだ、泣きじゃくっているタチアナを自分たちの部屋に連れて行くように命じた。ナーシャとタチアナは部屋を退出し、セシーネは、園丁頭のバルカンに椅子を勧めた。
「バルカン、悪いわね、忙しいんじゃないの」とセシーネは、ここで制服に着換えたビランを見た「ビランも掛けたら」
「じゃあ、失礼します」といって、ビランは椅子に掛けた。バルカンも椅子に掛けていた。
バルカンは、ここでこの場の雰囲気を和らげるために今朝の「人参引っこ抜き事件」も話でもしようかなと思ったが、止めとおいたとほうが無難だと判断した。そして、薬草採りの話になった。バルカンはそういうことなら狩猟頭が適任ではないかといった。セシーネは王家に狩猟頭なんていることを知らなかった。王都のはずれに王家専用の狩猟場がある。そこは国王の許可なく立ち入ることは出来ない。やはり近衛師団を定年退官した狩猟頭が普段、そこに見張り小屋を立てて暮らしていること。薬草などにも詳しいことなどをバルカンは話した。
「とりあえず、あっしから、話してみましょう。ちょっと変わり者というか。人と話すのが苦手なやつなんで」
セシーネは少し考えてから「じゃ、お願いするわ」とバルカンに頼むことにした。どちらにしても、海洋大会が無事すんでからのことだとセシーネは思った。あの子たちがお行儀よくしてくれたらいいのだけどと、セシーネは再び読書に戻った。
国王は書斎と呼んでいる部屋で王太子とランセル第三王子とともに王太子の駐屯地視察について進捗状況を近衛師団長のサッカバン准将から報告させていた。
「まぁ、あのあたりはそれほど険しい山道ではありませんし、王都街道をずうっと行けばいい訳ですから、特に問題はないでしょう」と何度かその道を往復したことのある近衛師団長はいった。普段は、五時に勤務を終えるが、彼の住まいも宮殿の一画である、多少の残業をしてもかまわないと思っている。彼は、王太子に第一王女付けの侍女が王太子を捜し回っていることを告げなかった。それは、女官長に任せた方がいいと判断した。泣いている若い娘を怖がられるだけだと思った。
「ご視察には小官は同行いたしませんが、元帥が同行いたしますので、それで十分でしょう」
「サック、よろしく頼む。エドワーズ、取り敢えず、いってみることだな」と国王は、やはり、自分もアンドーラを色々旅したいとふと思った。
「俺も、視察を色々しなきゃいけないですかね」とランセル
「それは、調達局で必要があれば、でもね、殿下、書類仕事も大切ですよ」とランセル王子のやんちゃ振りをよくしっている近衛師団長。彼も、普段は書類に取り囲まれていた。
「ホントに料理をなさるんですか、いや、鹿狩りですよ、王太子殿下」
「うん、どうしようかな」と少し、迷い始めた王太子。
「やろうぜ、何事も経験だぜ」とやる気満々のランセル。
とここで鹿狩りの話になった。何度も参加したことがある近衛師団長が「射止める数は、師団ごとに決まっています。その以上だった場合は、その翌年その分数を減らされる訳で、牝鹿をやったものは罰金ものですな。子鹿も同様で、やるのは角がある雄鹿だけ。あの時期は、結婚というか、雌を奪い合って、角をつき合わせる。少し、気が荒くなっています」
「しかし、何で、俺は連れて行ってもらえなかったでしょうね」と不満顔のランセル。
「勤務態度が悪い。それに重騎兵になりたいって。あれは、軽騎兵を連れて行くことになっています」
「勤務態度が悪い?」と国王。しまったと思うランセル。
「ダメですよ、殿下、夜勤の連中に酒を飲ましたりしたら」
「ちょっと親睦を深めようと」と、いい訳するランセル
「別な方法だってあるでしょう。陛下だって、お酒を召し上がるのは休みの前の晩と行事の時だけでしょう。小官はね、近衛は他の師団の手本になるような師団であるべきだと思うし、規律は厳しくなきゃ」
「すいませんでした」と元上官に謝るランセル少佐
「わかってくださればいいです」と謝罪を受け入れた近衛師団長「しかし、何で陛下主催になさらないのです?」
「鹿を射止めて、勲章というのもな」と国王。弓術が今一つ自信がないとはいえない。
「それも、そうですな」と近衛師団長
そして、話は、陸軍元帥の若い頃の話になった。
「なんだか、生意気なやつだと思った。それで。ガナスの名前を覚えた」と陸軍元帥より年若い国王はいった。その後、軍学校時代の陸軍元帥の優秀さを近衛師団長が披露した。やがて、国王が懐中時計で時間を見、それぞれ国王にお休みなさいをいってそれぞれの部屋に引き上げた。
宮殿は、夜勤の者たちを残して、眠りについた。
翌朝、ペトールを見舞ったブルックナー伯は救貧院の院長室で救貧院院長のキルマ・パラボン伯爵夫人と向きあった。第一王女はケンナスと見習の子たちと共に、ペトールを念入りに診察している。ブルックナー伯はキルマの説得に取りかかった、
「実は、ですな。キルマ夫人。施療院の設立は国母さまの遺言です。あなたは長年女官長を努められ、国母さまの看病もなさった。この施療院に関して、何か、国母さまから伺っていませんかな」
実は、キルマは王太后が遺言状を作っていたことも施療院のことも、なに一つ王太后から聞かされていなかった。このことはキルマを不愉快にしていた。
「施療院を思いつかれるとは、国母さまらしい思いつきですわ」とだけキルマはいった。
「そうですな。問題は、それをどこに造るかという事ですな」
「ここでは、ないのですか」
「いや、候補地の一つですな。他に適切な場所が見つかればとも考えております。それは、ともかく、あなたには施療院設立のお手伝いをしていただければとわたしは思っているのですよ。キルマ夫人。あなたは女官長としても、立派な業績を残されたが、救貧院の運営でも、見事な手腕を発揮されていらっしゃる」
「別に大したことではありませんよ」とキルマは、元大蔵卿に卑下して見せた。キルマは《治療の技》に関わるなんて内心ではまっぴらご免だった。元大蔵卿は食い下がった「しかし、ここは、もう一つ、お国のためにお役に立ちたいと思いませんかな。適切な医療を行き届くために」
ブルックナー伯は施療院の必要性を説き、その協力をキルマに再び要請した。キルマは夫に相談してみると態度を保留した。
ブルックナー伯や第一王女が帰った後、キルマは院長室で一人物思いにふけっていた。王女とはいえ、小娘に過ぎないセシーネにおびえている自分が情けなかった。逃げれば逃げるほど追いつめられるとは。ブルックナー伯の協力要請が国王の意志かどうか確かめようにも宮殿は遠く、女官長時代と同じようにはいかない。《見立て》が怖いと、もちろんいえなかった。王立施療院の設立に携わることで何か自分に利点があるのだろうか。ブルックナー伯は「お国のため」といったが、さて、自分はどうすれば、上手く立ち回れるのだろう。キルマの計算はそこに絞られていた。
そして、海洋大会の当日、心配していた天候は、晴れ渡り、大勢の見物人が会場であるチェンダー川の沿岸に詰めかけた。観衆は、競技に歓声を上げたり、拍手を送ったり、大いに楽しんでいる。その中で、第一王女付け侍女のタチアナ・プルグース子爵令嬢の関心は、競技ではなく王太子の一挙一動に向けられていた。王太子のエドワーズは、今日は甲冑姿ではなく、礼装と呼ばれる服を着ていた。時折、望遠鏡をのぞき競技を見ている。
やがて、全ての競技が終了し、総合点が発表され第三組の優勝が決まった。海軍では軍の最小人員要員を十人で一組と呼ぶ。陸軍は一班であるが、海軍の独自性を強調した結果である。優勝した組にはヘンダース杯と呼ばれる金杯が国王からヘンダース第二王子へ渡され、優勝した第三組の組長に授与された。組長は高々とそれを掲げ、優勝の喜びを表した。ちなみに優勝した組はその金杯でエールを飲み回すという行為が黙認されていた。海洋大会は無事終了した。後は、晩餐会があるだけだった。
王太子も席を立って第一王女に近づいた「なぁ、セシーネ、鹿狩りのことなんだが」
「また、その話、お兄さま。そのうち頭から角が生えてくるんじゃないの」とセシーネはからかった。
「そういう医学的根拠のないことはいうな」
第一王女の後ろを歩いていたタチアナは、医学的根拠ですってなんてむずかしい言葉を王太子は言うのだろうと思った。
「それも、そうね、それでなんなの、お兄さま」とセシーネはエドワーズと並んで待っている馬車に近づいた。
「かなり、危険らしい、ケガ人がでるじゃないかなと思ってさ」といいながらエドワーズは馬車に乗り込んだ。
「その、治療をお兄さまがするというの」とセシーネも乗り込んだ。座席に座ったエドワーズは「まさか、お前じゃあるまいし」と肩をすくめた。タチアナは馬車の前で立ちすくんでいた。馬車から身を乗り出しセシーネが声を掛けた「タチアナ、何ぐずぐずしているの、早く乗りなさい」
何という幸運であろうか。王太子と同じ馬車に乗れるとは、タチアナはあわてて乗り込んだ。従者が馬車の扉を閉め、馬車が動き出した。タチアナは斜め前にいる王太子のほうを見ないように目を伏せた。
「そんなに危険なの」とセシーネ
「危険を承知の上さ。ケガを怖れていていたら何も出来ない」
ここで、セシーネはブルックナー伯から聞いたアンドーラの医学事情をエドワーズに話した。
「ふうん、じゃ、医務官は、各師団にいるんだな」とエドワーズは確認した「ところで、海洋大会もな、ちょっとわかりにくいな。最後の上陸艇の競争がすんでも、どこが優勝か点数を発表するまでわからないだろう」とエドワーズは苦言を呈した
「それも、そうね」とセシーネも同意した。少し考えてからこう提案した「こうしたら、どうかしら、最後の競争の時、それまでの点数で、出発地点を変えるの。点数によって、ゴールまでの距離を変えるの、いい点数の組は距離を短くして、悪いのは距離を長めにする。差を予め付けておくの。どうかしら」
同乗していた王太子付きの若い侍従が身を乗り出した「それ、いいですよ。最後の競争ですぐわかる。盛り上がりますよ」
エドワーズは腕を組んだ「うーん、そうだな。あまり差を付けすぎても、しらけるし、その辺が難しいところだな。よし、提督には僕からの提案ということで、いってみるか。セシーネ、わかっているだろうけど、軍のことで女が口挟むのは軍がいやがるんだ」
「もちろん、この功は、王太子殿下にお譲りしますわ」とセシーネはすました口調でいった。ここで、エドワーズはクスクスと笑いだした。海洋大会に陸軍も参加したいといった陸軍元帥の言葉を思い出したのである。
「なんなの、お兄さま」
「何でもないんだ、セシーネ。ちょっとした軍事機密というやつさ」とエドワーズは馬車の窓から外を眺めた。
「そう」とセシーネは受け流した。
「しかし、去年はどしゃぶりだったな、ひどかった」
「ええ、そうでしたね」と侍従
「しかし、僕の記憶では、馬上試合は一度も雨になったことはなかったな。去年もどうかなと思ったが、何とか持って、夜になって降り出した。不思議なもんだな」
「そういえば、そうですね」と侍従は相づちを打った。タチアナは会話に加わるような勇気はとてもなかった。そして、幸運は馬車が宮殿に到着することで終わりを告げた。馬車から降りた王太子は護衛の陣容が整うと「じゃあな、セシーネ」と手を挙げるといってしまった。
それを見送ったセシーネはタチアナに「タチアナ、馬車の中で聞いたことしゃべっちゃダメよ」
「あのう」
「海洋大会のこと。まだ、決まっていないのに競技のやり方が変わるとかすぐうわさになるから。余計なことはいわないこと」
「はい、わかりました」とタチアナは上気した頬で肯いた。タチアナは王太子と秘密を共有出来るという事実に胸がときめいた。
第一王女も護衛の陣容が整うといつもよりゆっくりとした歩調で歩き始めた。
「ねえ、ビラン、子供たちはどうしているかしら。やはり、協力してくれた騎兵にはわたしからお礼をいった方がいいかしら」
「何、あいつらには酒の一杯もおごればすむことです」とセシーネの斜め後ろを歩いているビラン。
「だったら、そのお金はわたしが払うわ」
「そりゃ助かります」
部屋に戻るとセシーネは奥の寝室の化粧台の抽斗から金貨を取り出してきて部屋の入り口で待っているビランに手渡した。ビランは礼を言って「今日はもうお出かけにはならないんでしょう」と確かめた。
「ええ、メリメとナーシャがきたら通してちょうだい」
ビランは敬礼をして廊下へ出ていった。しばらくしてナーシャとメリメがやってきた。メリメも今日はいつもと違っておしゃれをしていた。メリメとナーシャの手を借りセシーネは豪華な衣装を脱ぎ、頭から宝冠を外し、結い上げた髪をほどき始めた。宝石がちりばめてある宝冠は王家の女性だけに許された権威と富の象徴だった。国王は普段は戴冠式に用いた王冠を被らない。謁見の時だけである。他の儀式の時はもう少し簡素な造りの王冠を用いていた。
「ねえ、この衣装だけど、よかったら売ってあげるわ、どうせ、もう、着ないのだから」と第一王女は侍女たちに持ちかけた。
「とても、わたしには手が出せそうもありませんわ」とナーシャ。
「あの、本当に売ってくださるのですか」と案の定顔をほころばせたタチアナ。こんな衣装を着てみたかった。
「値段はメレディス叔母さまに聞いてちょうだい。メレディス叔母さまに売りつけられるのよ」と衣装代も馬鹿にならないと考えている第一王女。
「あの、母に聞いてみます」とタチアナは、セシーネが脱いだ豪華な衣装が欲しいと思った。
普段着に着替えたセシーネは化粧を落とすと「ああ、さっぱりした」といった。メリメが「王女さまはこういうのがお好きでないようですね」と笑った。
海洋大会の翌日、国王は執務室へはいかず、政務を休んだ。これは例年のことで、海洋大会を観戦し、晩餐会に出席した貴族たちが「ご機嫌伺い」にやってくるのでそれを見込んでのことである。朝食がすむと国王は菜園に足を向けた。柵で囲まれた菜園の入り口で制服姿のジャンク少尉が待っていた。
「何だ、ジャンク、休みじゃなかったのか」と鍵を開けながら国王はいった。
「だから、お手伝いしようと思って。王女さま方は?」
「セシーネは救貧院へ行くといっておった。エレーヌは、当分手伝わせない」
「陛下、あれは残念でしたね」とジャンク少尉はエレーヌ王女が人参を勝手に引っこ抜き、国王があわてたことを思い出し、我知らず笑みがこぼれそうになった。
「まったくな」といいながら国王は柵の中に入った。ジャンク少尉も後に続く。
「ところで、陛下、記録をとられるなら、その場でなさった方がいいと思います。自分は多少速記が出来ますから」といってジャンク少尉は陸軍特製の手帳と発明品である新しい筆記用具を取り出した。見かけないその道具に国王は「それは何だね」
「これですか、同期のやつが持ってきたのですが、簡易筆記具と呼んでいました。試しに使ってみて改良点をいって欲しいって」
「ちょっと、見せなさい」と新しもの好きの国王は手を差し出した。国王の気性をある程度は心得ているジャンク少尉はおとなしくそれを国王に手渡した。どうやら木炭を細くして紙で巻いてある。国王は興味深げに手の中のものを眺めている。
「変わったやつなんで、家の事情で軍学校に入ったんですが、ものを造る仕事がやりたいって、職人になりたいとかいって」
「ほう」といって国王は簡易筆記具をジャンク少尉に返しながら、何ヶ月か前、陸軍元帥から軍備のための様々なものを研究開発するための施設を作ったと報告を受けたのを思い出した。この簡易筆記具とやらもその産物であろうと推察できたが、人参の行方ほど熱心にはなれず、国王は菜園の作物の発育状況を確かめ始めた。問題の人参の育っていた場所に行くと
「ここは、どうなさるおつもりですか」とジャンク少尉
「やはり、もう一度、人参を蒔こうと思う。その前に肥やしをやらんとな」
大蔵卿の父親で陸軍元帥の兄でもある、ミゲル・ラシュール侯爵の提唱した人の排泄物を熟成させ肥料に用いる農法は今やアンドーラ全土に広まっていた。
「あれは、すごく効くそうですね」とジャンク少尉。
「そうらしいんだな」と国王。
「場所はわかっておりますから、持ってきましょうか。ところでバルカンじいさんはどうしたんですか」
「なんだか、苗木を見に行くとかいっておった、まずは、全部みてしまおう」と国王は実をつけ始めた胡瓜に近づいた。ジャンク少尉は簡易筆記具をどうも今一つだなといいながら、巻いてある紙をはがした。
「まだ、改良点はありそうだな」と国王はいった。
タチアナは様子を見に来た母親のプルグース子爵夫人と会っていた。
「もう、謁見もすんだことだし、おうちに帰りましょう」
「いやよ、折角なれてきたのに」とタチアナは首を振った。第一王女付けの侍女だから王太子と同じ馬車に乗り合わすという幸運に恵まれたのである。これから、もっと幸運が巡ってくるかもしれない。
「それより、お母さま、第一王女さまが衣装を売ってくださるって。とってもすてきなのよ」
「売ってくれる?」
「値段はメレディス王女さまに聞いて下さいって。ねえ、いいでしょう」とタチアナはねだった。プルグース子爵夫人は出かけているという第一王女ではなく女官長になったという第四王女に取り敢えず挨拶をすることにした。
「とりあえず、セシーネからは苦情はないわ」とメレディス第四王女。先日の件は待ち出すつもりはなかった。
「ねえ、お母さま、それよりご衣装のことを伺ってよ」とタチアナは母親を急かせた。
女官長は衣装の値段をいった。
「まぁ、そんなお高いもの、うちではとても手が出せそうもありませんわ」とプルグース子爵夫人。
「まあ、手が込んでますからね」とメレディス王女。衣装一つでも王家と貴族とでは格が違うとメレディスはいいたかった。
メレディス王女の部屋を辞するとプルグース子爵夫人は未練タップリな娘に「あなたにはあれで十分。あれだって結構お高いですからね。身分相応というのがあるのよ」と釘を差した。タチアナは不満顔だった。第一王女の部屋に戻るとナーシャとルンバートン候爵夫人がいた。
「まあ、お久しぶりですこと」とプルグース子爵夫人は、挨拶をした。
「こちらこそ、今、王女さまにご挨拶をしようと待っていたんですの、そちらも」とルンバートン候爵夫人
「伯母さま、王妃さまにもご挨拶をした方がいいと思うんだけど」とナーシャ。ちょっと怪訝な侯爵夫人
「色々、お世話になっているし」とナーシャ。
「それも、そうね、どちらにいらっしゃるかしら、わかる、ナーシャ」とルンバートン候爵夫人。ナーシャは肯いた。廊下に出ると伯爵夫人は「セシーネ王女さまは救貧院に行かれたと言うけどあなたはお供しなくていいの」
「邪魔になるだけだって。どのみち、乗馬でお出かけになるから」
「乗馬ねえ」
「王女さまは医学のお勉強をしたんですって、施療院を造るのですって。その院長に就任なさるですって」とナーシャは息せき切って一気に王家の情報を伯母に伝えた。
救貧院では見習の子たちが興奮状態だった。彼らの興奮は海洋大会を見たことより騎兵たちの馬に乗せてもらったという滅多にない体験をしたことにあった。
「さあさあ、王女さまにお礼を申し上げるんですよ」と気難しげな表情の救貧院の院長。エランが代表してセシーネにお礼をいった。
「みんなも楽しんだといいのだけど、楽しんだ後は、お勉強をちゃんとしなくちゃ」とセシーネはにっこり微笑んだ。
「当然だ、ほら、部屋に戻って勉強、勉強」とブルックナー伯。彼は、キルマを何とか説得しようとしていた。ある意味で、《治療の技》に関してキルマは自分より詳しいのでは思っていた。
「ところで、ブルックナー伯もキルマも、ちょっとお話があります。ビラン、ケンナス先生を呼んできて」とセシーネは院長室に向かった。再び、キルマは不愉快になった。今度は何を言い出すのだろう、第一王女は。
ビランに伴われてケンナスが院長室にやってきた。挨拶がすむとセシーネが「掛けてください、先生」
これもキルマには不愉快だった。ケンナスが椅子に腰掛けるとセシーネは切り出した。
「そろそろ、見習の子たちをどうするか考えなくては、あの子たちは医学の勉強が好きなのかしら。大事なのはその点だと思います。好きでないと長続きしないでしょう。お兄さまは、好きじゃないから、医学は途中で諦めたでしょう」
「そりゃ、王太子殿下は医学を学ばれるより、大事なお勉強がありますからな。今度は、駐屯地をご視察なさるとか」とブルックナー伯。キルマは思わず問いただした「ご視察?」
「ええ、これもいい王太子殿下にはいいお勉強になるでしょうな」
「そんな話、どこで聞いたんですか」と王太子の駐屯地視察などキルマには寝耳に水だった。
「何、陛下からですよ。施療院の準備状況をご報告した時にそんなお話が、でましてな」とブルックナー伯は何気なくいった。もちろん話はそれだけではないが、ここでいう必要がないのでいわなかった。
「ところで、あの子たちをどうするかですな。まずは、ケンナスはどう思う」とブルックナー伯は尋ねた。
「そうですね、わたしの場合は祖母が薬草売りをしていて自然とそんなことを覚えて、その後、母から《治療の技》を教わりました。それで、きちんと医学を学びたいと思い始めて、まぁ、わたしには、これしか能がないですから」
「そう、卑下することもない。大事な技術だよ。問題はあの子たちだよ」と《治療の技》は工部尚書のいった通り技術の一つと割り切ることにしたブルックナー伯。
「やはり、好きでないと長続きしないと思います。《見立て》だけでも確実にわかるようになるのは何年もかかりますから、根気がいるわ」とセシーネ。彼らが一人前になるのは何年かかるのだろうか。
「ちょっとよろしいでしょうか」と院長室の扉の横に立っていたビランは「そんなに難しく考えない方がいいですよ、学校のつもりでいればいいです。ついでに医学も教えてやるという程度で、こういっては何ですが、学校に通ったことのない連中ばかりですからね」
「ここを学校にするつもりですか」とキルマはビランを睨み付けた。ビランは平気な顔で続けた「どのみち男の子には兵役がありますし、医学以外の学科なら自分たちもお手伝い出来ます。陛下がこうおっしゃったそうです。子供を育てるのは親だけではない。周りの大人にもその責任があると」
「それは、そうですな」とブルックナー伯
「どうして、そんなことを知っているの、ビラン、つまり、陛下がどうしてそんなこと仰せられたか、どうして、知っているの」とキルマは追求した。
「いや、陛下付けのやつからですよ。陛下はいいことをおっしゃると子供もいないの自慢するんですよ。後は、勝手にあいつらが《治療の技》を試さないかどうかですけど、若や姫みたいなことをしなきゃいいですけど、どうなんですか、先生」とキルマの追求を軽くかわすと今度はビランがケンナスに質問した。
「面白半分にやられたら、困るな。返って傷が悪化する場合もある」と深刻な表情のケンナス。
「やはり、難しいものですかな」とブルックナー伯
結局、もう少し様子を見ようということになった。セシーネとケンナスはペトールの容態と他にもいる病人の様子を見に行った。
キルマは、内心の焦りを感じていた。救貧院に閉じこもっていては、宮殿の様子が少しもわからない。何となく、権力から遠ざかった感が拭いきれない。王太后の死後、女官長の職を辞したいというキルマに国王は引き留めなかった。
「その代わり、君にはやってもらいたいことがある、救貧院の実情を調べて欲しい。どうしてあんな費用がかかるのか調べて欲しい」と国王は救貧院の院長の職をキルマに命じた。そして、救貧院の院長の職にキルマは就いた。
院長室に残ったブルックナー伯が「実はですな。キルマ夫人、お耳に入れておいた方がいいことがありましてな」
「何ですか」と用心深くキルマは尋ねた
「いや、国税の見直しですよ。何しろ国税が制定されてからもう十年以上たつ。そろそろ見直すべきだとダースが主張するですな。適正な税かどうか。牧草地が、農作地になっていたり、家畜の数も変わっているだろうし、やはり、調べるべきなのでしょう。一応、上に上げるということになって」
「上に上げる?」
「ああ、御前会議で陛下のご裁可を仰ぐということで、多分、決まるでしょう。一応、お知らせしておこうと思いましてな。ところで、そちらの領地のほうはどうなすっているんで?」
「わたくしもこちらですし、宅も兵学校にかかりきりなので、息子夫婦がみておりますけど、国税ですか」
「多分、決まれば、大事業ですな。ただ、困ったことがありましてな」
「困ったこと?」
「陸軍元帥はダース、つまり大蔵卿のやり方が強引過ぎると批判的なですな」
「でも、確か甥御さんじゃありませんか、陸軍元帥の」
「何か、心配なのでしょうな。まぁ、一応お知らせしておこうと思って。それじゃ、わたしは帰ります。第一王女さまには午後から、いつものように準備室でお待ちしているとお伝えしてください」とブルックナー伯は席を立った。
「準備室?」
「ええ、陛下から頂いたあの部屋をそう呼んでおります。王立施療院の準備のための部屋ということで。では失礼しますよ」
やはり、乗馬で来ていたブルックナー伯を見送った後、キルマは、夫のパラボン侯爵と話し合う必要性を感じていた。それも、早急に。
セシーネは、病人に《見立て》をしたり、一般の医学による診察をして回った。ケンナスがどんな治療法がいいとか、大体は薬草を始めとする薬物治療だった。一通り見て回ると、今度は子供たちの様子を見に行った。子供たちはモリカから薬草の使い方を習っていた。真剣な子もいれば退屈そうな子もいた。
セシーネもモリカの話を聞いていたがビランがそろそろ時間だと告げた。
セシーネが護衛の近衛兵に取り囲まれるように帰った後、キルマは、やはり、夫に会うべきだと思った。昼食をすますとキルマは、徒歩で夫がいるはずの海軍兵学校へ向かった。熱い日差しの中、とぼとぼと歩きながら、キルマは第一王女に腹を立てていた。セシーネが救貧院へ馬車で来ればそれに便乗して宮殿までは行けたはずだった。それなのに侯爵夫人でもあり海軍少将夫人でもある自分が歩かなくてならないとは。女官長時代は、何か用がある時は王太后の馬車が使えた。侯爵家でも馬車があったが、それは息子夫婦が領地と王都の行き来に使っていた。そして、キルマは、海洋大会の観戦と王都で様々な品物を購入するため息子たちが来ていることを思い出した。どのみち、夫のパラボン侯爵は、侯爵であるより海軍少将であることのほうが重要だと考えているようなことがある。やはり、このことはまず息子に知らせようとキルマは思った。
セシーネが救貧院から戻るとルンバートン候爵夫人とプルグース子爵夫人が待っていた。二人ともセシーネのズボン姿に驚いたようだった。
「まぁ、乗馬にはこっちのほうがよろしいのよ」とセシーネは肩をすくませた。如才ないルンバートン候爵夫人は「施療院をお造りになるとか」と尋ねた。
「ええ、今その準備のため色々やらなくてならないことが多くて。ゆっくりお話ししたいですけど。ご心配は無用ですわ、ナーシャもタチアナも、ちゃんとやっていますから」
ルンバートン候爵夫人は引き時を心得ていた「じゃあ、私たちもそろそろ引き上げましょう。王妃さまにも女官長のメレディス王女さまにもご挨拶はすませましたし、ただ、ちょっとナーシャを拝借出来ますか。結婚の準備なため、色々ちょっと」
「かまいませんわ、大した用があるわけではないし」とセシーネ王女は鷹揚だった。
「ありがとうございます。では、ごきげんよう、王女さま」とルンバートン候爵夫人はセシーネに高位に対する礼をするとナーシャとプルグース子爵夫人を従えて第一王女の部屋を出ていった。
部屋に残ったタチアナは「絶対、誰にもいいませんから」
「何の話?」とセシーネは尋ねた
「あの、海洋大会の」
「ああ、あれね、そうね、その方がいいわ、着換えるわ、タチアナ」とセシーネは寝室に向かった。
宮殿の廊下を歩きながらルンバートン候爵夫人はナーシャの結婚持参金の話を始めた「やはり、わたくしが仕込んで謁見に出した以上、侯爵家としてそれなりの持参金は用意すべきだと侯爵は申しますからね。あなたのお祖父様もそれなりことは考えてはいるようだけど、でも、ナーシャ、持参金はいざというときのためのお金ですからね、あなたが贅沢をするためのお金ではないことは覚えていてちょうだい」
「はい、伯母さま、色々ありがとうございます」とナーシャは礼を述べた。ナーシャの祖父は武官を退官し、ルンバートン候爵領にある自分が相続した農園で暮らしていた。ナーシャは自分の家つまり両親の家計がどうなっているのか詳しくは知らなかった。慎ましい暮らしをしていたから、多分父の武官としての給料だけだったのだろう。
「それにしても、立派なお衣装でしたこと」とプルグース子爵夫人は、見せてもらった第一王女の衣装に話題を変えた。ナーシャの持参金がいくらになると露骨に聞くのは避けた方がいいと思ったし、それなりのものを用意するということを聞くだけで十分だった。
「王家は王家、貴族は貴族ですわよ。陛下は普段は、慎ましいと伺っておりますわ」とルンバートン候爵夫人。
「それもそうですわね」とプルグース子爵夫人。確かに王家と貴族では財力が格段と違うことぐらいプルグース子爵夫人にもわかっていた。
昼食の席で、国王は賑やかだなといった。確かに王太子時代より王家は人が増えていた。弟王子二人がそれぞれ結婚し、それぞれの妃との間にも王子や王女が誕生していた。やがて、来年にも王太子が結婚をすれば、国王にとって孫が生まれるだろう。世襲制である以上、王家の人数が増えることは王家の安泰に繋がる。アンドーラでは王女にも王位継承権がある。第一王女は王太子に次ぐ王位継承第二位ということになる。だが、出来れば女王は避けたいと国王は思っていた。王太子の婚約で亡くなった王太后は露骨だった。相手のメエーネのイザベル王女が、子供が産めるかどうか確かめてからの方がいいと。確かにそれは結婚に関して重要な要素ではあった。
「セシーネ、施療院のほうはどうなった」と国王は尋ねた
「そうね、お父さま、ブルックナー伯は、場所は救貧院にこだわることはないって。ただそうすると建物を建てたり、費用がかかると思うの」
「それもそうだな」と国王は自分以外でこの日の昼食の席についている男であるリンゲート王子に目を向けた。王太子とランセル王子は陸軍本営本部へ行っていたし、ヘンダース王子も海軍本営本部に出かけていた。
「リンゲィ、元気がないな。どうした?」
確かにリンゲートは元気がなかった。今日ぐらいはセシーネが救貧院へいかずにフィードに乗れると思ったのに、おまけに尋ねてきた母方の祖父のパスケール侯爵から馬の件で再びお説教を食らった。やはり、馬術の稽古は午後にしてもらうと思っていた。
「ねえ、姉上、午後はフィードに乗る?」と思いきってリンゲートはセシーネに尋ねた。
「いいわよ、乗らないから貸してあげるわ」
「ホント」とリンゲートの顔がほころんだ。
「変よ、お姉さまの馬に乗るなんて」とエレーヌがいった。
「いいじゃないか、馬術が出来なきゃ軍学校へ入れないだから」とリンゲートは反論した。
「これこれ、ケンカはよしなさい」と国王はたしなめた。確かに賑やかな食卓ではあった。
昼食がすむとセシーネは準備室に行くといった。国王はブルックナー伯が施療院の設立のため熱心に取り組んでいるのを知っていた。