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癒しの手  作者: 双葉 司
アンドーラの第一王女
6/18

待遇の改善闘争

第二王子のヘンダースの長子リンゲート王子は、母親の添い寝という夜の習慣を従妹のエレーヌ王女に馬鹿にされるのが不満だった。

そして、エレーヌ第二王女も母親のヘンリエッタ王妃のお小言に不満だった。

 夕食の席でヘンダース第二王子の長子であるリンゲート王子は、いつもの元気がなかった。夕食の献立に嫌いなほうれん草があるのもいやだった。妹のジョイス王女に食事をさせていた母親のアンジェラ妃がそれを見とがめて「リンゲート、ほうれん草も食べなさい。残したりしたら、ダメですよ。」

 リンゲートは、この世に何でほうれん草があるのか、そして何でそんなものを食べなくては、いけないのだろうかと思った。それでつい、母親に口答えをした「ほうれん草を食べなくても、死んだりしない」

 それが、いけなかった。アンジェラ妃は怖い顔をすると、リンゲートをジッと見、「そう、そういうことをいうの。今度から、毎日、ほうれん草を出しますからね。ほうれん草は体にいいのよ」

 リンゲートは自分の不運を呪った。皿の上のほうれん草を力無く見つめた。母親は、彼をまだ見つめている。今日という日は、最悪だった。いつも、馬術の稽古の時、リンゲートは、従姉の第一王女セシーネの馬フィードに乗っていた。ところが、今日は、王宮の厩舎にはフィードの姿はなく、よぼよぼの老馬しか残っていなかった。仕方なく、リンゲートはその馬で我慢をしなければならなかった。そして、今度は、リーバイト前提督が、王宮に来て、王太子のエドワーズに紹介してもらった。そこまではいい。だが、侍従のハロルドが「リンゲート殿下はお勉強がありますから」といって、そこから、連れ出されてしまった。リンゲートは、なにやら、面白そうな話が聞けると抵抗したが、エドワーズまで「リンゲィ。また、後でな」と追い出しにかかった。リンゲートは、ハロルドに抗議をした。ところが、ハロルドは「殿下、海軍へいきたいのですか」と尋ねた。リンゲートは、身震いした。うわさでは、海軍では、士官でも、水兵と同じように櫓を漕ぎ、漕ぎ方が悪いとむちで打たれるという。リンゲートは、絶対海軍なんかに行きたくなかった。

 リンゲートの不運はまだ、続いた。夕食後、部屋に戻ると、侍従のハロルドが待ちかまえていた。

「殿下、パスーケール侯爵から、お手紙が届いております」と母方の祖父からの手紙をリンゲートにハロルドは渡した。リンゲートはその手紙を待ちかねていた。ふと、気がつくと封蝋がすでに破られていた。

「ハロルド、先にこれ読んだの」

「いえ、お母上です」とハロルドの口振りは当然だという風にリンゲートには、聞こえた。リンゲートは、宛名を確かめた。宛名はリンゲート王子殿下と書かれていた。たとえ、母親でも、自分宛の手紙を読むなんてと、リンゲートは、少し不愉快だった。でも、お祖父様はなんていってきたのだろうと、少し、期待を持って、リンゲートは手紙を読み始めた。そこには、侯爵領では馬を育てていないし、買うとすればかなり高価だということ、そして、こういうご無心は、大変、遺憾であると書かれてあった。リンゲートはその部分がわからず、ハロルドに尋ねた。ハロルドは、手紙を読みもせず「おねだりは、困るという意味です」

「別に、ねだってなんかいない」とリンゲートは、落胆しながら、手紙の最後の方を読んだ。手紙は、きちんと勉強をするようにと結ばれていた。リンゲートは自分の馬が欲しかった。勉強仲間であるリンゲートのお相手役の少年の中には、父親に頼んで、馬を手に入れたものすらいた。実家で育てているから、いくらでも手に入ると自慢していた。その馬は、年をとっていたが、それでも、リンゲートは羨ましかった。それで、もしかしたらと思い、ハロルドには内緒で、母親のアンジェラ妃の実家であるパスーケール侯爵に手紙を出したのだった。その手紙は随分前に書かれたもので、リンゲートは、半分それを忘れていた。手紙は、リンゲートの味方のカッセル大尉がこっそり、手伝ってくれた。

「殿下、よろしいですか」と、ハロルドの口調が、お説教の始まりであることを告げていた。

「大体、馬の世話も、きちんとできてないのに、ご自分の馬を持ってどうします」

 確かに、ハロルドの言う通りだった。セシーネと約束したフィードの世話は、精々、飼い葉を飼い葉桶に入れるくらいだった。そのためだろうかとリンゲートは、思案した。

 そこで、リンゲートの不運は、少し、幸運へ傾いてきた。部屋に、夕食を終えた少年たちがどやどやと入ってきたのである。ハロルドのお説教は中断された。ハロルドのお説教は、いつも長かった。ホッとしたリンゲートは、ふと、少年たちと夕食の献立は同じだろうかと疑問に思い「みんな、夕食はすんだ?ほうれん草はでなかった?」と少年たちについ聞いてしまった。ハロルドが「ほうれん草がどうかしましたか」と聞きとがめた。リンゲートはあわてて、「いや、何でもないよ。それより、知っている、今日、リーバイト海軍大将が、お見えになったんだ。前の海軍提督の」

「リーバイト提督なら、お名前を聞いたことがある」

「海軍が何だっていうんだ。たいしたことないさ」とリンゲート同様、陸軍びいきの少年がいった。その後は、海軍が強いか、陸軍が強いかと皆口々に言い始めた。ハロルドが、「さあさあ、この話はこのくらいで、文法の復習をしましょう」

 リンゲートは、文法が、少し苦手だった。いつもは、この時間、地理の勉強をするはずだった。リンゲートは、地理は好きだった。アンドーラの各地からやってきた少年たちの話を聞くのが、リンゲートの地理の勉強だった。しかし、ハロルドは、少年たちがおとなしく椅子に座るのを待って、課題を出した。リンゲートもおとなしく、課題に取り組んだ。石版に文章を書き込みながら、一人ずつ、それを持ってハロルドに見てもらう。リンゲートは、何度もやり直しをさせられた。部屋付の侍従が、部屋の燭台に明かりを点しにやってきた。ハロルドが、懐中時計を見て「今日は、このくらいで、終わりにしましょう」といった時、リンゲートは少しホッとしていた。そこへ、近衛兵が、父親のヘンダース王子の来訪を告げた。ハロルドは立ち上がり「お通しするように」と近衛兵に告げた。リンゲートも椅子から立ち上がりながら、それは、自分がいうべきことなのにと思った。この部屋は、自分の部屋だし、第一、自分は王子なんだから、エドワーズは、こういう時、自分で近衛兵に答えていた。ヘンダース王子は、部屋の中にはいると少年たちの顔ぶれを見回しながら「ハロルド、勉強の邪魔をしたかな」と尋ねた。

「いえ、もうそろそろ、休ませようと思っていたところです」

「そうか、ちょっと、リンゲートに話がある」とリンゲートの父親は、思わせぶりな目つきをした。ハロルドは、少年たちに「もう、部屋に戻りなさい」といった。少年たちは、入ってきた時と同様にどやどやとリンゲートの部屋を出ていった。それを見送りながら、ヘンダース王子は「どうも、お行儀が今一つだな。リンゲート班は」と感想をいった。そして、息子に「石版を片づけなさい。リンゲート」と命じた。何で、自分がとリンゲートは思った。王子の自分が、なぜ、こんなことをしなくてはいけないのだろう。石版を棚の上に重ねながら、今度から、あいつらにやらせようとリンゲートは思った。石版を片づけ終わると、リンゲートは、父親に「お話って何ですか、父上」と尋ねた。その間、リンゲートの父親は、祖父からの手紙を読んでいた。リンゲートは、しまったと、思った。

「リンゲート」と父親の口調は、優しげだった。そのあとは、意外なことをいった。どっか面白がっているような口調だった「ほうれん草は、嫌いか」

 リンゲートは、しまったと思った。自然と顔が赤くなった。うなずいた息子に諭すように「食べ物の好き嫌いは、あまり、感心しないな」

「はい」とだけしかリンゲートには答えられなかった。

「ところで、リンゲィは馬が欲しいのか」とやはり優しい口調で、父親は尋ねた。リンゲートはこくんとうなずいた。

「そうか、でもな、とうさまも、お前の年頃、自分の馬が欲しかった。自分の馬を持ったのは、ちょうど宣誓式のちょっと、前だった。リンゲィもそれまで、待ちなさい」

 リンゲートは、気が遠くなるような気がした。王家では、十二才になると、宣誓式をおこなう。王家と、王国に忠誠を誓う式典は、王家の一員にとって大事な式典だった。リンゲートは、この春で、七才になったばっかりだった。後、何年、待てばいいのだろう。ここで、リンゲートは、王子である自分が馬を持てなくて、侯爵家の遠縁に過ぎないネットスがすでに自分の馬を持っている不条理について、父親に切々と訴えた「ネットスは、まだ、十才なのに自分の馬を持っているんです。そんなの、なんだか、変です」

「何が、変なんだ」

「だって」とリンゲートは口ごもった。ヘンダースはハロルドに「いい馬なのか」と尋ねた。ハロルドは

「たいした馬ではありません。年取っておとなしいのが取り柄の馬です。馬術の稽古を始めたものには向いているかもしれませんが」

 その後は、リンゲートの馬術の進展振りをハロルドが「父上に言い付けた」。リンゲートのしてみれば、ネットスの馬術も大したことがなかった。それなのにと、リンゲートは不満だった。ついでに、ハロルドは、リンゲートが、文法が苦手なのを指摘した。そして、「それでも、パスーケール侯爵にお手紙を書けるくらいには、文章が書けるようになりましたが」とハロルドは嫌みったらしく付け加えた。ヘンダースは、片方の眉を上げた。もう一つ、リンゲートにいわなくては、ならないことを思い出した。

「リンゲート、お祖父様に、おねだりは、ダメだ」

「おねだりなんかしていません。馬を育てているか、聞いただけです。本当にそれだけです」

「そうか、どのみち、海洋大会には、お出でになるだろうから、聞いて見よう」

 リンゲートは、自分の書いた手紙の内容を思い出そうとした。何と書いたっけ、後で、カッセル大尉に聞いてみるべきだろうか。

 そこへ、近衛兵が母親のアンジェラ妃の来訪を告げた。アンジェラ妃は入室の許可を待たずにリンゲートの部屋に入ってきた。それも、リンゲートの不満だった。アンジェラ妃は自分の夫に膝を曲げて高位に対する礼をした。母上は、一度だって、自分にはそんなことをしたことがないと、リンゲートは気がついた。

「リンゲート、そろそろ、休む時間よ」と、リンゲートの母親は、そう息子に告げた。それも、リンゲートの不満だった。リンゲート班の連中のからかいの的だった。いい加減、赤ん坊じゃあるまいし、母親が寝かしつけようとするのは、やめて欲しかった。しかし、父親は「もう、そんな時間か」と、懐中時計を見て「ジョイスはもう休んだのか」とアンジェラに尋ね、アンジェラは、優しい表情で「ええ、もう、グッスリ」と微笑んだ。

「じゃ、お休み、リンゲート」といって、父親のヘンダースは、部屋を出ていった。「さあ、リンゲート、寝間着に着替えなさい」というとリンゲートの母親は、ハロルドにそれとなく身振りで、指示をした。ランセルが、寝間着を持ってきた。リンゲートは、ため息をつきながら、着換え始めた。

 いつものように寝間着に着換え寝台に入ったリンゲート王子の横に母親のアンジェラ妃が添い寝をしながら、リンゲートの好きな物語の本を読み出した。それは、昔の騎士が怪物と勇敢に戦う話だった。リンゲートはちょっと疑問に思っていたことを尋ねた「この騎士は、爵位は何だったの」

「さあ、この本には書いてなかったわね」

「ねえ、母上、僕はこの本なら自分で読めると思うだけど」と何回もこの物語を読んでもらっていたリンゲートはおずおずと切り出した。

「だから、なんなの、リンゲィ」とリンゲートの母親は、優しく尋ねた。この添い寝の習慣は、夫であるヘンダース王子が、リンゲートが生まれた時、強く主張したことだった。王子を生んだことに内心では誇りを持ったアンジェラは、自分が生んだ王子の父親の言葉に意を強くした。実家のパスーケール侯爵家からは、生んだ子の世話をするために自分の幼い時世話をした年取った乳母が、侍女として王宮に送り込まれていた。しかし、内心では、自分で世話をしたかった。妊娠をした時から、夫は、日々、大きくなっていくアンジェラのお腹をなでながら「どっちかな、王子かな王女かな」といいながら、嬉しそうに出産を楽しみに待っていた。それは、アンジェラも嬉しかった。

 王宮に侍女として来て以来、ヘンダース第二王子は、アンジェラのあこがれの存在だった。それが、父親のパスーケール侯爵から、第二王子との結婚話を聞かされた時、アンジェラは、まさに、天にも昇る気持ちだった。だが、将来の義理の母親になるエレーヌ王太后は、彼女に手厳しかった。アンジェラの目の前で「まあ、持参金がこれだけなの」とパスーケール侯爵家の申し出に呆れたように王太后はいった。海軍士官の制服を着た第二王子は肩をすくめ「別に、金と結婚するのじゃあるまいし、これで、十分ですよ」と屈辱で真っ赤になったアンジェラを庇った。確かに、公爵家と侯爵家とは格がちがうし、領地からの収益も違う。メレディス女王の時代に吹き荒れた貴族の階級の変動を生き延びたパスーケール侯爵家は、名門貴族によくあるように一族が多かった。パスーケール侯爵家としては、王子と結婚するために精一杯、アンジェラの結婚持参金を用意した。それでも、王太后は、不服そうだった。だが、ヘンダース第二王子は意に介せず、兄である国王に「気に入りましたよ。パスーケール侯爵はなかなか、学問がお好きで、一族の中には、博士もいるそうです」と改めてとアンジェラを紹介した。国王は、その当時は、陽気な第二王子に比べて、どこか気むずかしい顔ばかりしていた。国王は「君が気に入ればそれでいい」としか言わなかった。国王の承諾を得た第二王子は、晴れてアンジェラと婚約し、その次の新年の舞踏会でアンジェラだけと踊った。それまでは、貴族の令嬢と片端から踊っていた時とは、大違いだった。国王は、一曲だけ、王太后と踊ると早々に舞踏会の会場の大広間から出ていった。その年の舞踏会でアンジェラは女としての幸福を感じていた。その幸福感が最高潮に達したのは、リンゲートを生んだ時だった。さすがの王太后も、アンジェラに優しい言葉をかけた。だが、それが、どこか上の空だったと気づいたのは、ヘンリエッタ王妃にエレーヌ王女が生まれた後だった。しかし、第二王子は、王子の誕生に喜びこういった「いいか、アンジェラ、子育てを侍女任せにするな。乳母なんかは、よほどのことがないかぎり、王家ではおかないのは知っているだろうな。それに王家に生まれようが、金がたくさんあろうが手に入らない物はいくらでもある。その一つが愛情だ。この子には、絶対、寂しい思いをさせるな」

 無論、アンジェラもそんな気は毛頭なかった。アンジェラは愛する人の子供を産んだ女性の幸福感に包まれながら、リンゲートに惜しみない愛情を降り注いだ。そして、月日は流れ、リンゲートは、すくすく育っていった。リンゲートの一挙一動が、アンジェラには喜びだった。しかし、王太后の命令でリンゲートの養育には、侍従のハロルドが当たることになった。その時にはアンジェラは二度目の妊娠に気づいていた、アンジェラは渋々と王宮中を走り回るリンゲートを手放した。

 アンジェラは、二人目の子供のジョイス王女を生んだことで、少し、リンゲートが、夜、独りで寂しい思いをしているのではないかと心配した。しかし、それは、夫のヘンダースがリンゲートの添い寝をかって出てくれた。第二王子は、リンゲートに勇ましい物語を読み聞かせていた。

 父と過ごすその時間は、リンゲートには、それは、それで楽しかった。それが、また、最近その役目が母親に変わった。この事実が、従妹のエレーヌ王女に伝わり、リンゲートは馬鹿にされた「何なの、赤ちゃんみたい、変なの」

 この「変」という言葉は、王宮の子供たちのはやりの言葉だった。リンゲートは思いきって「やっぱり、変だよ。母上」といってみた。

「何が変なの」

「だって、この本は自分で読めるし、自分で読みたいんだ。そうしてもいいでしょう」

「そう、だったら、明日から、別の本にしましょう」と母は、リンゲートの言いたいことをわかってくれない。

「そうじゃなくて、エレーヌは、夜一人で眠るんだって。僕もそうしたい。ねえ、いいでしょう」

 リンゲートの母親は、ちょっと衝撃を受けた。この時間は、アンジェラにとって大事な時間だった。昼間はほとんど、ジョイスに手がかかり、息子の方はハロルド任せである。せめて、リンゲートが寂しい思いしないようにこうして眠るまで一緒に過ごすことで、それを埋め合わせしようと思っていた。それをこんなことを言い出すとは、アンジェラは、なんだか寂しくなってしまった。リンゲートはもう一度、ねだった「ねえ、いいでしょう、一人になりたいんだ」

 アンジェラは、ため息をつき「わかったわ、今日は、一人で寝れるのね」といって起きあがると、また、ため息をついた。そして、寝台からでると布団をかけ直し「ホントに、一人で大丈夫?」と息子に聞いた。

「大丈夫だよ、もう、一人で眠れる、赤ちゃんじゃないんだから」とリンゲートはあくびをした。

 まだ、心配なアンジェラ妃はリンゲートの部屋を出る時、部屋の前で歩哨に立っている近衛兵にいつも以上に念入りに頼んだ。

 アンジェラが、自分たちの寝室に戻ると、夫のヘンダースは入浴中だった。新婚間近だったら、遠慮したろうが、そこは二人も子をなした間柄である。入ってきたアンジェラを見て、夫は「リンゲィは、もう寝たのか」と尋ねた。アンジェラはため息をつき、夫に今夜の出来事を話して聞かせた。ヘンダースは、体を拭きながら「へえ、そんなことを言うようになったんだ」

「そうなの、なんか寂しくなっちゃって」

 ヘンダースは、ちょっと笑っただけだった。子供が成長していくのは、親にとっては楽しみでもあったが、それは、寂しさもその一方である。アンジェラにとって二人目のジョイスも離乳の時を迎えていた。


 さて、リンゲート第四王子が「独り寝」を勝ちえたその夜、セシーネ第一王女は、再び、海洋大会の席次について持ち出して来た侍女のタチアナ・プルグース子爵令嬢に、癇癪を起こしそうになった。ついに、根負けして「わかったわ、こうしましょう。午前中は、ナーシャ、午後はあなたということにするわ。それで、いいでしょう」

 タチアナは、少し考えてから、これ以上、第一王女の機嫌を損ねないようにそれで、妥協することにした。

「ありがとう御座います。王女さま、ところで、晩餐会のお席はどうなっているんですか」

「わたしは、でないわよ、もちろん、あなた達の席もないわ。ただ、晩餐会のお手伝いをするとお手当がでるんじゃなかったかしら?メリメに聞いて見てちょうだい」

「あの、なぜ、お出にならないのですか」

「十六才にならないと、そういった席にはでられないの。まぁ、あまりでたくもないけど」

「まあ」といってタチアナは口に手を当てた。

「もう、この話はこれでお終い」といって、第一王女は手を振ってタチアナの質問を遮った。まったく、タチアナは始末が悪かった。話すことは、衣装のことや行事のことばかりだった。確かに、それはそれで、大事なことではあるが、それが人生の全てではないだろう。もっと、有意義に時を過ごす方法があるはずだ。しかし、待てよとセシーネは、あることに気がついた。救貧院にいる見習たちは、各地から、連れられて来て以来、どこか出かけたことがあるのだろうか。確か、ガンダスは、王都見物はさせたといっていた。救貧院にいる見習の子供たちにタチアナが大騒ぎする海洋大会ぐらい見せてやってもいいのではないだろうか。それとも、そんなものに興味を持たないかも。これは確かめた方がよさそうだとセシーネは判断した。タチアナに「ビラン中尉を呼んできてちょうだい」と命じた。

 タチアナは、おとなしく第一王女の言い付けに従った。まず、第一王女の部屋を出て廊下に立っている歩哨の近衛騎兵にビラン中尉の居所を確かめる。彼は姿勢を崩さないまま「さあ、非番だから、詰め所じゃないかな」

 タチアナはその場所を知らなかった「詰め所ってどこ?」

「さあ」

「教えなさいよ。王女さまが、呼んでくるようにおっしゃったの。教えないと、言い付けるわよ」

 歩哨の近衛騎兵は「わかった」というと「詰め所」の場所を教え始めた。そこは、タチアナの行ったところのないところだった。もう一人の歩哨が「わからなかったら、歩哨につまり、こうやって廊下に立っている近衛に聞けばいい。尉官詰め所って言えばわかるから」とタチアナに教えた。

「尉官詰め所ね」

「第一連隊第二大隊第四中隊第一騎兵隊隊長のビラン中尉だ。覚えられるか」

 タチアナは「第一連隊第二大隊ええーと」

 歩哨がもう一度繰り返した。今度はタチアナは、何とか覚えられた。もう一度繰り返す。

「そうだ」

 タチアナは、教えられた通りに王宮の廊下を歩きだした。

 それを見送った近衛師団第一連隊第二大隊第四中隊第二騎兵隊の騎兵は、同僚に「なあ、あのご令嬢も困ったもんだ。お礼ぐらいいえっていうの」

「前の誰ほどでもないけど」

「あれはどうなっているんだか」と思わず、笑いが出る。

「こら、私語厳禁」と上官である隊長が注意をした。あわてて、口を閉じ、もう一度、部屋に聞き耳を立てる。第一王女の部屋は静かだった。

 第一王女付けである近衛師団第一連隊第二大隊第四中隊第二騎兵隊では、王女付けの侍女のうち、ナーシャの方が、人気が高かった。それは、ナーシャの父親のルッセルト・ルンバートン陸軍大佐の存在だった。師団こそ違うがルッセルト大佐は師団の副官だった。つまり、もうすぐ将官の地位まで手が届きそうなところまで、上り詰めたのである。尉官である彼らには、あこがれまではいかないが、一目おくべき存在である。もしも、その師団に配属となったらと少しは考える。タチアナが子爵家の令嬢だろうがそれは、武官である彼らには、あまり意味を持たない。そして、ナーシャも感じよかった。護衛の彼らに「ご苦労様」とかちょっとしたことに声を掛ける。最初、独身者の中には色めきたつものもいたが、婚約していると聞いて、それなりに思惑があった彼らを少し、残念がらせた。しかし、世の中には幸運なやつはいるのものだと彼らはため息をついた。そんな訳で、何か用を頼まれても、ナーシャだと快く引き受けるが、たかが、子爵家令嬢をひけらかすタチアナは今一つ評判が悪かった。

 そんな、評判を知ってか、知らずか、タチアナは王宮の随所に立っている歩哨達に場所を聞きながら、ようやく尉官詰め所にたどり着いた。そこにも歩哨が立っていた。最初は、槍を交差させ、行く手を阻まれたが、教えてくれた通りに「第一連隊第二大隊第四中隊第一騎兵隊隊長のビラン中尉はどこなの、教えなさいよ」と高飛車に言うと通してくれた。その歩哨が、ニヤリとしたのをタチアナは気がつかなかった。まあ、兜の面頬を下ろしていたので当然であったが…

 タチアナは、必死だった。普段は、第一王女に用を言い付けられても大概は、ナーシャが引き受けてくれいた。しかし、今夜は、ナーシャは女官長に呼ばれて、留守だった。それは、海洋大会の衣装のことだった。女官長のメレディス第四王女は、第一王女が、新宮殿に行っている間、王妃を始め王家の妃を引き連れ、今回の海洋大会に着る衣装の点検に現れた。それは、まず、豪華な第一王女の衣装を注意深く点検し、その後、タチアナの衣装とナーシャのそれを点検した。第四王女は、タチアナの分は「まぁ、いいでしょう」と合格点を出した。しかし、ナーシャのドレスを見た第四王女は「ちょっと、地味じゃない?」といった。王妃がナーシャに「あなたは、地味なのが好きなの」と尋ねた。ナーシャは赤くなって「これでは、いけなかったでしょうか」

「いけないとは、言わないけど、今回は、ちょっと華やかにしたいの。喪が明けたことだしね」とメレディス王女

「それもそうね、少し、襟のあたりを直したら、今はこういう襟は流行らないと思うわ」とアンジェラ妃がいった。結局、衣装の手直しをすることになった。そのことは、ナーシャ自身が第一王女に断り、承諾を得た。そして、第一王女の部屋に残されたタチアナは、再び、海洋大会の席次について第一王女の説得に取りかかった。タチアナが海洋大会の席にこだわったのは、自分が子爵家の出身というからではなかった。衣装の点検の後、タチアナは女官長のメレディス王女にそれとなく自分の席を確認してみた。女官長は席次表を取り出すと見せてくれた。それは、王家の人々、そして王太子から遠く離れた席だった。ナーシャの方が幾分近かった。声が聞こえそうなほど近かった。王太子が自分に声を掛けることはないかもしれないが、なるべく近くに行きたかった。どんな話をするのか聞きたかった。それで、こだわったのである。そして、何とか、第一王女を説得して、近くの席に座れるようになったのに、また、第一王女の機嫌を損ねたくなかった。こんな用も足せないようではと…

 タチアナは、ビラン中尉を捜すのに懸命で、「詰め所」がどういうところかはっきりわからなかった。大佐の娘であるナーシャなら、多少は気がついたかも知れない。そこは「男の世界」だった。そこは、軍人たちが、甲冑を脱ぎ、くつろぐ場所だった。中には、裸同然の格好をしているものもいた。歩哨に通されて、中に入ったタチアナは、むせ返るような男の匂いに卒倒しそうになった。下着姿の男が興味深げに声を掛けた「お嬢さん、ご用は何ですか。誰に会いに来たのかな、それとも、誰でもよかったりして」ドッと男たちが笑い声を上げた。タチアナは、これはとんでもないところに来たとようやく気がついた。しかし、第一王女の用は足さなければならない。タチアナは何とか「ビ、ビラン、ビラン中尉、第一連隊第二大隊第四中隊第一騎兵隊隊長のビラン中尉はどこなの」といった

「ビラン中尉殿か、知らないな、それより俺、今、暇なんだけど、遊んでいかない?」

「わたしは」とタチアナは、からからに乾いた口の中で唾をようやく飲み込んだ「第一王女、第一王女さまのご用なの。ビラン中尉は、どこなの」

 男は急に興味を失ったようだった「何だ、だったら、早くいえよ。誰か、ビラン中尉殿の居所を知らないか」

「さあ、外出したんじゃないか」

 部屋の奥の方で「ビラン中尉なら、多分、図書室だろう、さっき、俺も誘われたけどな」

「何なんだ」とタチアナに声を掛けた男が、そちらの方に向かった。タチアナは、逃げるように「尉官詰め所」を走って出た。後ろの方で、男たちの笑い声が聞こえた。

 ようやく見慣れた場所にたどり着くと、タチアナは、立ち止まり息を整えた。こんな目にあうとは、信じられなかった。ともかく、図書室に行ってみよう、そこにいなかったら、後は、それまでだ。タチアナは覚悟を決めて図書室に向かった。そこへは、何度か、第一王女に連れられて行ったことがあって場所はわかっていた。

 図書室の前には、二人、近衛兵が立っていた。向かい側の廊下にも二人。王家の誰かが、いる証拠だった。その位なら、タチアナにも察しがついた。王宮に来てまず驚いたのは、王家の人々に必ず、近衛兵が随行することだった。宮殿の各所にも近衛兵が立っていた。プルグース子爵家の領主館では門番がいる程度だった。領地育ちのタチアナは大きな建物が建ち並び人通りの賑やかな王都にまず驚き壮大な宮殿の大きさにも驚いた。何もかも、領地とは大違いだった。しかし、今は第一王女の用を足さなければならない。タチアナは、大きく息を吸うと扉の前に立っている近衛兵に「第一連隊第二大隊第四中隊第一騎兵隊隊長のビラン中尉はどこにいるの」

 近衛兵はタチアナにここで待っているようにというと図書室の中に入った。タチアナは扉の前で待った。

 図書室の中に入った近衛兵は敬礼をし大声で「失礼します。妙齢なご婦人がビラン中尉を訪ねて来ております。いかが致しましょうか」

 図書室の中には、軽騎甲冑姿の王太子、軍服姿のランセル王子、他にもビランを始め何人かの武官たちが集まっていた。奥の方の席に腰掛けていたランセル王子が「妙齢なご婦人か、ビランも隅におけないな」

 室内にドッと笑いが起きた。

「ランセル若、からかわないでくださいよ」とエンバー出身のビラン。王太后の実家エンガム公爵の領地エンバーの出身者は国王を「殿」と呼び、王子たちを「若」と呼ぶ風習があった。国王の末弟ランセルは「どんなご婦人なんだ、美形か」と近衛兵に尋ねた。近衛兵は「それが、なかなかで」と答えた。近衛兵も長く王太子や王子の近くにいればこういう軽口ぐらい叩くこともある。王太子が「その妙齢のご婦人とやらをお通ししろ」

 近衛兵は敬礼して廊下に出た。廊下で待っていたタチアナに「王太子殿下が入室のご許可を下さった」と伝えた。タチアナは心臓が止まるかと思った。どうしよう、王太子殿下だなんて。近衛兵が「早くしろ、入るのか、入らないのか」と急き立てた。彼にしてみれば、ビラン中尉を捜しに来たうら若い女性が誰なのか、多少の興味はあった。彼は、タチアナの顔を知らなかった。タチアナは高まる動悸を押さえながら、図書室の中に入った。教わった通りに高位に対する女性の礼、スカートを少しつまみ、膝を曲げる仕草をした。足のふるえが止まらなかった。

「ビラン中尉に何のようかな、お嬢さん」とランセル王子、ランセルもタチアナの顔を知らなかった。タチアナの頭の中は真っ白だった。言葉が出てこない。

「なんだ、タチアナじゃないか、俺に何のようだ」とビランの声がして、タチアナは用件を思い出した「第一王女さまが、お呼びです」声が、少し振るえていた。そこへあこがれのエドワーズが「セシーネのお守りも大変だな、ビラン」といった。タチアナはどう振る舞っていいのか、わからなかった。

「いえ、慣れていますから」とビランは椅子から立ち上がった。そして、立ちすくんでいるタチアナに「セシーネ姫は何のようだっていった」

「あの、聞いていません」

「そう」といいながら、ビランは邪魔なので床においてあった兜を拾い上げ、小脇に抱えた「それでは、セシーネ姫のご機嫌伺いにいってまいります」

 再びエドワーズが「ビラン、お前はもういいよ。大体はわかったから、どうしても行きたかったら、転属願いを出すんだな」

「わかりました。考えておきます。若、では失礼します」とビランは敬礼をした。ガチャガチャと重騎装備の音を立てながらタチアナの横に並んだ「ビラン中尉退出します」と再び敬礼をする。図書室にいた全員が立ち上がり返礼の敬礼をした。ビランは小声で「あんたも、お辞儀をしろよ」とタチアナにささやいた。タチアナはあわてて高位に対する礼をした。それとも自分も敬礼をすべきなのだろうか。

「いってよし」とエドワーズがいった。エドワーズはなんだか武官になったみたいでご満悦だった。

 廊下に出るとタチアナはほっと息をついた。まだ、胸がドキドキする。そこにぶっきらぼうに「第一王女殿下は、何のようだ仰せられた」とビランが尋ねた。そして、廊下を第一王女の部屋に向かって早足で歩き始めた。タチアナはあわてて追いかけた。思いきって「あの、王太子殿下と何をしていたの」とビランに尋ねた。「いえねえな、あんたには関係ないだろう」とビランは答える義務がないと判断した。ビランは、何かというとタチアナは第一王女の用をナーシャに押し付けているのを知っていた。ナーシャはタチアナが慣れていないからといっていやな顔もせずその用をこなしていた。まったく、遊びに来ているんじゃないだからなとビランは思った。どうやら、第一騎兵隊の評判もタチアナは今一つのようである。

 いつもの手続きを経て、第一王女の部屋にタチアナと入ったビラン中尉は敬礼がすむと「ご用は何ですか。姫」と尋ねた。

「ああ、ビラン、忙しかった?」とセシーネは尋ねた。ビランを呼びにやったのにタチアナがなかなか戻ってこないのでその間、セシーネは従医長のベンダーから借りた解剖学の本を読んでいた。

「暇だったので、若のご機嫌伺いをやっておりました」

「そう」とだけセシーネはいった。兄のエドワーズが鹿狩りの計画に夢中なのを知っていた。叔父のランセル王子も同様である。夕食の席では、もう一人の叔父のヘンダース王子まで乗り出してきた。だが、セシーネは自分の口を挟むことではないと思っていた。

 一方、タチアナはビランがもう少し、王太子のことを話してくれればいいのにと思った、大体「若」って誰だろう。タチアナは知らなかった。エンバー領の出身者が国王を「殿」と呼び、王太子や王子を「若」と呼ぶことを。

「ねえ、ビラン、救貧院にいる見習たちだけど。海洋大会を見に行きたいとか言っていたかしら。どうなの」

「そうですね、どうだろう、まぁ、一回ぐらいは見たいんじゃないんですか」

「そう、やっぱり」とセシーネは眉を寄せ考え込む顔になった。

「連れて行かれるおつもりですか、姫」

「それは、出来ないわ、でも、明日、ケンナス先生やそうね、パラボン侯爵夫人にも相談してみようかしら」

「まぁ、それがよろしいでしょうね」

「他にも、思いついたことがあるんだけど、それはまた後でね。もういっていいわ、ビラン」

「妙なことでないでしょうね」と幼い時からセシーネ王女を知っているビランは探りを入れた。

「違うわよ、いいから、今、何時かしら」

 王女の質問には答えずビランは「ご用はそれだけですか」

「うん、それだけ、もういいわ、ビラン。下がってよろしい」

 ビラン中尉が敬礼して出ていく間、セシーネは読書に戻った。タチアナはいつもの部屋の隅の椅子に腰掛けた。タチアナは、色々話したかった。ビランを探し出すまでひどい目にあったこと、図書室での王太子とビランのやりとりなど、どうやら、ビラン中尉は王太子と親しそうだ。色々彼に尋ねてみようかしらとタチアナはぼんやりと考えていた。それにしても、昼間見た第一王女の衣装は豪華だった。自分もあんな衣装を着てみたかった。お母さまに頼んでみようかしらとタチアナは、思案した。まぁ、セシーネの推察通り、タチアナの頭の中は各行事やそれに着る衣装のこと、そして、これはセシーネが気がつかなかったが王太子のことで一杯だった。

 

 近衛師団第一連隊第二大隊第四中隊の重騎兵たちに評判がいい、第一王女付きのもう一人の侍女ナーシャ・ルンバートン嬢は、王宮に勤めるお針子たちの手を借りながら、海洋大会に着る自分の衣装の改良に勤しんでいた。それは、ルンバートン侯爵夫人が若い頃着ていた衣装で、王宮勤めになったナーシャにくれたものだった。ナーシャは十三才で侯爵家に呼ばれるまでは、両親と兄と弟と一緒に父の勤務する駐屯地の近くの「家族寮」と呼ばれる武官たちの家族が暮らしている建物で、他の武官の家族と暮らしていた。武官の暮らしは慎ましかった。父親のルッセルトは自分の給料をまず、武官として必要なものにつぎ込んだ。それは、高価な馬だったり、部下たちに時々振る舞う酒だったりした。順調に出世していく夫にナーシャの母親のデライラはそれについては何もいなかった。駐屯地が変わるたび、父は階級を上げっていった。ナーシャは母の家事をよく手伝わされた。それは、家族寮に暮らす同じ年頃の女の子も同様で、取り立て不満はなかった。二つ年上の兄が王立陸軍士官学校を受験する時、初めて、ルンバートン侯爵夫妻に引き合わされた。駐屯地を尋ねてきたルンバートン侯爵の興味は兄の方だったが、侯爵夫人の興味はナーシャにあった。

「今、幾つなの、ナーシャ」と尋ねられ、内気なナーシャに代わって母親が答えた。侯爵夫人は肯くと「どうかしら、そろそろ、謁見に出すことを考えているのかしら」とデライラに持ちかけた。ナーシャには何のことだかよくわからなかった。デライラは「謁見でございますか」と聞き返した。

「ええ、そうよ、無論その前に、ちゃんと礼儀作法は教えないとね」

 その後、侯爵夫妻と両親との間で色んなやりとりがあり、ナーシャは侯爵家に引き取られた。娘のいない侯爵夫人はナーシャを娘のように扱った。侯爵家の使用人たちには「ナーシャお嬢様」と呼ぶように命じ、あれこれ仕込み始めた。それは、礼儀作法から始まり、貴族の娘として必要だと侯爵夫人が判断したことをナーシャは学ばされていった。侯爵家には、同じようなルンバートン一族の娘が何人かいた。皆、侯爵夫人のことは「伯母様」と呼んでいた。侯爵家での暮らしは家族寮と違っていた。まず、使用人の数が多かった。家族寮では、精々、近くの農家から、通ってくる洗濯女ぐらいだった。質素な暮らしになれていたナーシャにとっては、なにやら、贅沢な気がしたものである。そして、ナーシャが十六才になると侯爵夫人は彼女を王都に連れてきた。初めて見る王都は何もかも珍しかった。侯爵家の領主館には、ナーシャはあまり驚かなかったが、王都の宮殿の大きさには、やはり驚いた。まさか、そこで暮らすようになるとは、その時のナーシャには想像もつかなかった。

「少しは、慣れた?」と作業を見守っていたメレディス王女がナーシャに話しかけた。

「はい、多少は慣れましたけど」

「そう、まあ、セシーネのズボンには驚いた?」

「いえ、あの」とナーシャは口ごもった。

「わたしも、あのくらいの年にはああだったわ」といいながら、メレディスはナーシャの衣装を点検した。

「まあ、いいじゃないかしら、大分よくなったわ、ちょっと着てみて」

 ナーシャは第四王女のいわれた通りにした。手直しした衣装を身につけたナーシャをメレディスが腕組みしながらながめている。ナーシャは少し、恥ずかしかった。

「ちょっと回ってみて」

 ナーシャはやはり、いわれた通りにした。第四王女が近づいてきて、ナーシャの後ろに束ねた髪を手に取った。第四王女は、ほのかにいい香りがした。

「後は、髪型ね」

「あのう」とナーシャは口ごもる

「髪型一つで大分印象が違うわよ。女ですものおしゃれしなくちゃ、普段はお化粧しないの?」

「あのう、侯爵家の伯母が、あんまり派手なのはダメだと」

「時によりけりよ、まあ、けばけばしいのは感心しないけど、華やかなのはいいと思うわ。顔立ちは悪くないだから、いくらでもきれいになれるわよ、ナーシャ。おしゃれというのは、ちょっとしたコツがあるのよ。ただ、お金を掛ければいいというものじゃないわ、ちょっとこっちへいらっしゃい」と第四王女は鏡の前へナーシャを引っ張っていった。

「ちょっと椅子を持ってきて」

 部屋にいる誰かが椅子を持ってきた。

「さあ、ここに座って」

 ナーシャは素直に従った。椅子に腰掛けたナーシャの束ねた髪を第四王女がほどいた。

「ちょっと、ピン持ってきて」と第四王女は、今度は、ナーシャの髪型の改良に着手した。

 ナーシャが第一王女に自分の衣装の手直しをするように第四王女からいわれているといった時、第一王女は「まぁ、叔母様は、そういったことが好きなの。どのみち、女官長だから、侍女たちが何を着るかそういったことも色々いうと思うわ。いいわよ、こっちの方は大した用もないし、タチアナがいてくれるから、大丈夫よ」といってくれた。ナーシャは、第一王女の「そういったことが好き」という意味が最初はわからなかったが、第四王女が、あれこれナーシャの髪型を試したり、終いには、化粧まで施し始めたのには驚いた。それは、今までのナーシャには無縁の世界だった。駐屯地での暮らしと違った世界があるのをナーシャは実感していた。


 さて、リンゲート第四王子を「赤ちゃんみたい」といったエレーヌ第二王女も、ある不満を持っていた。それは部屋割りのことだった。エレーヌは妹のリディアと同室だった。それは、どうみても「変」だった。生まれたばかりの第六王女のコーネリアが一人部屋なのに第二王女の自分が第三王女と同じ部屋を使うのは「変」だった。他にも部屋はいくらでもあるのにとエレーヌは思った。このことを自分たちの部屋にやってきた母親の王妃にぶちまけた。

「変よ、お母さま」

「何が変なの」と王妃は、部屋に散らかったおもちゃや服を片づけながら聞いた。

「だって」とエレーヌは頬をふくらませた。

「だって、何なの」

「どうして、わたしは、リディアと一緒の部屋なの。そんなの変よ」

「どこも、変じゃありません。そんなことより、使ったものはちゃんとしまいなさい」

「それは、リディアが使ったものだもの、わたしじゃないわ」

 王妃は、床に落ちている人形を拾い上げるとエレーヌの方を向いた「あなたは、お姉さまでしょう。あなたがだらしないと、リディアが真似をするでしょう。いつも、散らかしては、そのまんま、どうしてお片づけが出来ないのかしら」

 どうやら、雲行きが怪しくなってきた。そこで、エレーヌはもう一度話を戻そうと「コーネリアだって、ジョイスだって、お部屋は一人よ、それなのに何で、わたしは、リディアと一緒なの、そんなの変よ。絶対、変」

「お片づけもちゃんと出来ない子が何いっているの」と王妃は話題を元に戻した。しかし、それは「変」だとエレーヌは思った。お片づけは侍女の仕事だとエレーヌは思った。自分は王女なんだし、そんなことは自分はしなくてもいいはずだと思った。それなのに、お母さまはリディアが散らかした分まで片づけるようにいうのだから。そんなの「変」よとエレーヌは思った。思っただけでなく口に出した。

「何で、わたしがお片づけをしなきゃいけないの、そんなの変よ」

「当たり前でしょう。どうして、あなたって子はそうなのかしら」と王妃はため息をついた。「ねえ、パティ」と王妃は第二王女付けの侍女パティス夫人に今度は声を掛けた。部屋の片づけを手伝っていたパティス夫人は手を止め「何でしょう、王妃さま」と尋ねた。それから王妃がパティス夫人にいったことは、エレーヌには信じられないほど「変」だった。

「今度から、エレーヌにこのお部屋のお片づけはきちんとやってもらいます。あなたは手を出さないで、パティ、エレーヌにやらせなさい。まぁ、リディアにも少し、手伝うように、使ったものはきちんと元に戻す習慣をつけるように、いいわね、マージ」と今度はリディア王女を着換えさせていた第三王女付けのマージュル夫人にも念を押した。

「さあ、早く片づけなさい、エレーヌ」と王妃は拾い上げた服をエレーヌに渡した。第二王女は「いやよ、そんなの変よ」と抵抗した。

「いいから、早くやりなさい。お尻をぶたれたいの」と王妃は大声を出した。

「そんなことしないでしょう」とエレーヌはパティス夫人に救いを求めた。パティス夫人はかすかに首を振った。

「必要があれば、そうします」と王妃はキッパリと言い切った。事態は最悪の方向に向かっていた。王妃の監視の中、渋々とエレーヌは部屋を片づけ始めた。こんなの「変」と思いながら、エレーヌは、こんな仕打ちをされたことを誰にいえばいいのか、そうだ、お父さまに言い付けてやるとふと思いついた。何たって、お父さまは国王陛下なんだから、この国で、一番えらい人なんだから、フン、お母さまなんて、大嫌い。お尻をぶつなんて脅かすんだもの。フンだ、お母さまこそ、お尻をぶたれた方がいいわ。王女のわたしにこんなことをさせるなんて。

 それは、とてもいい思い付きのように思えた。そうだ、お部屋のこともお父さまに頼んだ方がいいわ。そうしようっと。第二王女は「権力」というものに気がつき始めていた。無論、そんな言葉は、彼女はまだ知らなかったが…

 そして、アンドーラの最高権力者の妻であるヘンリエッタ王妃は、子育てに悩んでいた。第一王女のセシーネはあの不思議な《力》を除けば、手のかからない子だった。王太子の子育ては、ヘンリエッタの範疇ではなかった。ヘンリエッタが、エレーヌを生んだ時、夫の国王は、出来るだけ手をかかるようにといった。王太后は侍女上がりのヘンリエッタには冷淡だった。他の妃にも、自分が公爵家の出身であることをヘンリエッタからは、ひけらかせているように思えた。気位の高い人だったとヘンリエッタは、感慨にふけった。確かに国母と呼ばれるだけのことはあった。三人の王子と王女を一人生み、国政にも多大な影響力を及ぼした。そんな芸当はヘンリエッタには出来そうもなかった。また、王太后と自分とは立場が違うのはよくわかっていた。何しろ、王太后の生んだ王子は王位についたのだから。

 王都で暮らす人々の悲喜こもごもの思いを乗せながら、アンドーラの王都、チェンバーの夜は更けていった。善良な人々は大方、眠りにつき、昼間は賑わった通りも、今は静まりかえっていた。宮殿でも、大半が眠りについたが、眠れない人々もいた。夜勤と呼ばれる近衛兵たちである。彼らは、一時間交代で、宮殿の警備にあっていた。彼らは、所属でいうと近衛師団第二連隊と第三連隊である。彼らの大半が歩兵で、階級も兵卒が多かった。かつては、王家領の出身者だけでしめられていた近衛師団もアンドーラ各地から集められ、今では、ほとんどの地域を網羅していた。出身地も様々なら、その思いも様々である。少しでも早く昇進をしたい願うものいれば、何とか勤務を無事終えてエールでも飲みたいと願うもの、一人一人が顔が違うように、人生も様々である。

 夜が明けない夜はないというように、王都チェンバーにも夜明けが訪れた。初夏の夜明けは早い。アンドーラでは、ジュルジス一世の時代に時計が、導入された。それまで、大まかだった時間の観念が一時間、あるは一分単位で切り刻まれる。だが、大半の暮らしは相変わらず、大まかな時間単位で過ごしていた。

 昨夜、王妃から第二王女のことについて愚痴を少しだけ聞かされた国王は、王太后とてメレディス王女の教育に失敗したといって慰めた。

「まあ、メレディスはそれほどひどくありません、あら、そういった意味じゃなくて、ちゃんとしているわ」

「そうかね。まぁ、気長にやるさ。もう休むよ」といって、その話を打ち切った。王妃も色々な気苦労があるであろう夫を気遣い「お休みなされませ」と答えた。

 そして、その朝、国王は、いつものように目が覚めた。王妃も寝台の中で身動きをした。どうやら、そちらも目が覚めたようである。国王は寝返りをうって、王妃に背を向けた。王妃が静かに寝台から抜け出すのを国王はそのままの体勢で待った。たとえ夫婦でも、多少の礼儀というか、気遣いは必要である。国王は、王妃に少し身繕いをする時間を与えるために自分は寝台の中で待った。王妃はやがて寝台の天蓋の垂れ幕を明け「陛下、おはようございます」と形式上は国王を起こした。「おはよう」と答え伸びをしながら、国王も寝台を出た。王妃は、高位に対する礼をすると、寝室を出ていった。隣の部屋で着換えたりまあ、まぁ、色々と夫に見せたくはないことをするために。王妃はその前に呼び鈴を鳴らすひもを引っ張った。これもいつもの習慣である。

 その呼び鈴に答えるように侍従が何人か入ってきた。国王はいつもの朝の習慣に取りかかった。国王はなるべく規則正しい生活をするように従医長から助言されていた。その侍医長ベンダー博士も寝室に現れ、毎朝の診察を始めた。

「今日も救貧院へ行くのか」と国王は従医長に声を掛けた。「お許しがいいだけましたら」と従医長はいった。「かまわん」と国王は許可を与え、侍従に手を借りながらひげをそり始めた。侍従の役目は鏡を持つことぐらいである。その時、侍従長がやってきた。「本日のご予定は」と彼は国王に奏上し始めた。その間にひげを剃り終わり、顔を洗い、髪を整える。その後、儀式用でない剣を身につけた。そして、寝室を出て、侍従長のいっていた朝の予定の散歩を始めた。その前後を近衛兵が随行した。王家の人々に常に近衛兵が随行するのは身辺警護のためであるが、その他にも王家の威光を見せつけるという意味合いもあった。

 さて、その朝、第二王女も侍女のマージェル夫人に起こされた。エレーヌはもう少し寝台の中にいたかったがあることを思い出して、寝台から飛び起きた。朝、起こしに来るのはマージェル夫人の役目だった。同僚のパティス夫人と話し合い、少し、勤務時間をずらしたのである。夜の見回りはパティス夫人が引き受けた。マージェル夫人は、自分の担当であるリディア王女を起こすと、その世話を始めた。時々、エレーヌ王女の様子も確認する。「さあ、エレーヌ、さっさとお顔を洗いなさい」

 それも、エレーヌの不満だった「マージ、わたしは、王女なのよ」とふんぞり返った。

「そうだったら、王女さまらしくなさい。お顔ぐらい自分で洗えるでしょう。もう、お姉さまなんですから」と以前は第二王女付けだったマージェル夫人は言い返した。エレーヌとリディアが身支度を終える頃、パティス夫人が部屋付を従えてやってきた。パティス夫人は二人の王女の寝室を見ると「エレーヌ、自分の寝台は自分で整えなさい」

「そんなの変よ」と第二王女は抗議した。やはり、このことはお父さまに言い付けてやろうともう一度決意した。

「いいから、おやりなさい」とパティス夫人は無情にもそう第二王女に申し渡した。

 マージェル夫人とパティス夫人は王女付の侍女というほかにも、二人には共通項があった。それは二人とも未亡人ということであった。孫も生まれ多少の余裕があるパティス夫人と違い、マージェル夫人の王宮勤めは深刻だった。

 彼女は、侯爵家の傍系の家に生まれた。各領主には農地率というのがあり、耕作地の全てを自分の所有財産には出来ない。一種の財産分けのような形で隣の侯爵領の土地を曾祖父が手に入れた。祖父の代に始めた葡萄園があたってマージェルの生家は、豊かだった。マージェルの生家での暮らしは、貴族というより地主の娘に近かった。家事はもちろん、農作業も手伝させわられた。人を雇えばその分、賃金を払わなければならない。収穫期には、家族総出で働いた。彼女が十六才の時、縁談が持ち込まれた。相手は、近くにある駐屯地に勤務する軍学校出の陸軍少尉だった。出自も直系ではないが、侯爵家の出身だった。祖父も伯爵家の当主もいい話ではないかと乗り気になり、彼女も陸軍士官の制服姿が眩しく思え、マージェルはその陸軍少尉と結婚した。しかし、それが生家の金値当てのとんでもない男だと判明したのは一月も立たなかった。豪放磊落な性格というのは、ただの放蕩者を取り繕った言葉だった。実は、酒場に入り浸る彼を心配した上官が結婚すれば、腰が落ち着くのではないかと期待して縁談を取り持ったのである。放蕩だけならまだしも、酒を飲んではマージェルに殴る蹴るの乱暴を働いた。彼女の父親や兄が止めに入ったこともしばしばあった。父も兄も兵役は兵卒だったが、普段の農作業で体は鍛えてある。腕っ節では負けなかった。夫の言いぐさは「俺はこんな田舎で終わるような人間じゃないんだ、絶対出世してやる。お前みたいな田舎娘と結婚するじゃなかった」とマージェルを罵倒した。それが、祖父を決意させた。本家と呼んでいた侯爵家に彼女を連れて相談に行った。特に憤りを感じていた兄も父も同行した。

「このままじゃ、マージは殺されてしますよ」と兄ははっきりと言った。

 事情を聞いた侯爵は困った顔をした「上官にでも諫めてもらったらどうなんだ」

 祖父は首を振った「そんなことをしたら、逆恨みをして益々ひどくなるでしょう」

「考えてみたら、あの年でまだ 少尉というのも、腑に落ちない。だまされたんですよ」

「しかしなあ」と侯爵は離婚を言い出した祖父を見た。兄は「実はこういうことがあったですよ」とマージェルの知らなかった話をし始めた。

「駐屯地に売った作物の代金をあいつは横取りしたんです。マージの持参金の一部だといって。この間だって、酒蔵の葡萄酒を持ち出そうとしたし、うちだけではありません。本家の方だって手を出し始めたらどうするんです?」

 それを聞いた侯爵家の嫡男が顔色を変えた。侯爵家も陶器の製造で内容はよかった。

「やはり、別れさせましょう」と中立説から離婚説に傾いた。

「しかし、相手は伯爵家の人間だ。侯爵家の中だけなら、わたしが決められるが、離婚となると向こうの体面もある。そう簡単にはいかない」と慎重論の侯爵。

「こういうことは早いほうが、いい。傷が大きくならないうちに、第一、伯爵家だって結婚式にも一人も来なかったでしょうが」と祖父は主張した。その間マージェルはただ泣いていた。侯爵夫人がしきりに慰める。夫への愛情はマージェルにはなかった。恐怖しかなかった。

 意外なところに助言者が現れた。旅回りの商人で領地に必要な日用品を王都から持ってきては売り、一方、侯爵家で製造する陶器を王都で売りさばいてくれる人物だった。

 話し合いが長引き、事情を知らずただの親族の親睦を図る集まりだと思っていた執事が部屋に通してしまったのである。商人は愛想がよかったが、部屋の雰囲気がただならぬものだと感じ取ると出直しましょうかといった。そこへ祖父が声を掛けた「丁度、いい、あんたに頼みがある」

「何なりとお申し付け下さい。あたしでお役に立つことがあれば」

「あんたを信用してのことだが、この孫娘を王都に連れて行って下さんか」

「ちょっと、待ちなさい」と侯爵が止めた

「しかし、マージをうちには置けんでしょう。無論ここにも」

「それも、そうだが」と侯爵

 察しのいい商人は「なんだか、込み入った事情がおありのようですね」

 これは身内の恥ではないと判断した侯爵の嫡男が事情を説明し始めた。そこへ兄も言葉を添える。事情を飲み込んだ商人はマージェルに同情を寄せた。

「わかりました、そういったことなら、お力になりましょう」

 結局、離婚を匂わせて伯爵家の当主から諫めてのもらおうというところに落ち着いた。侯爵は相変わらず慎重論だった。ただ、マージェルの身柄は、王都に移すことには同意した。

 王都には商人と供に兄も同行した。生家の葡萄酒に目を付けた商人が王都で売った方が高く売れると勧めたからもある。表向きは商談のための方がいいでしょうといった。王都までの旅は楽ではなかった。荷車の荷台に乗ったり、時には歩いたり、マージェルは旅を楽しむどころでなかった。旅の間、商人は色々な助言を兄にしていた。のんびりとロバに乗ったその商人は、各地の事情に詳しかった。夫の出身の伯爵領にもいったことがあるといった。

「あちらは、代替わりで大変じゃないでしょうか」とだけ言った。

 ナーシャやタチアナが王都の繁栄に目を奪われたの違い、マージェルは、それどころではなかった。道中、たびたび、吐き気に襲われ、王都の商人の家にたどり着いた時には、ぐったりしていた。それが、妊娠だと気が付いたのは、商人の母親が朝、食事を吐き戻したマージェルの様子を見にきた時だった。

「まあ、おめでたじゃないの」

 マージェルは青ざめた。兄は、祖父からの指示を受け離婚のための準備を商人の助言を得て進めようとしていた矢先だった。商人は顔が広かった。あちらこちらに色んな知り合いがいた。

「まったく、殿方というのは」と老夫人はいった。多少の事情を聞いていた老夫人は息子を呼びつけた。

 再び、話し合いがもたれ、老夫人はマージェルにキッパリと言った。

「まぁ、生むのなら覚悟を決めなさい。ご主人のことなど当てにしないで、自分でお腹の子と生きていく、まぁ、後家になったつもりでいればいいわ、世の中にはそう人もいるのよ、それとも、お腹の子を始末する?」

「かあさん」と商人がいった、老夫人は厳しい顔をして「まあ、そういった方法もあることはあるのよ。あまり勧められないけど」

「ひょっとして、子供が生まれれば、少しは変わるかもしれないよ。ともかく、あちらに伺ってみよう」と商人がいうあちらとは夫の実家である伯爵家のことだった。

 兄も苦り切った顔をした「お前は、運がないな。まったく。しかし、知らせるのは、あいつの乱暴振りだけで、子供が出来たことまでは、ちょっと、待った方がいい」

 それからの日々は、息をひそめるようにマージェルは過ごした。商人の家は商人の父親が健在で、一階では雑貨商を営み、二階には下宿人を置いていた。商人自体は次男で、長男は国務省に勤めていた。マージェルは老夫人に実家では教わらなかった町での暮らしを教わった。お産を軽くするためだと、色々な用を言い付けた。無論自分もこまめに働いた。そして離婚は難しいかもしれないといった。乱暴を働くぐらいでは、なかなか認めらないかもしれないといった。

「ここで、暮らせばいいじゃない。どのみち武官の奥様は、一緒に暮らさない方だっているのだし、うちはかまわないのよ」

 そして、マージェルは、その家で男の子を生んだ。夫への愛情はなかったが、無心に自分の乳をすう我が子にマージェルは、この子を守らなければ、強くならなければと思った。子供の誕生は王都で暮らす夫の実家の伯爵家に知らされた。その前にもマージェルが王都にいることを知らされた伯爵家ではマージェルを引き取ると申し出があったが、老夫人が、キッパリ断った。そんなところへいっても肩身の狭い思いをするだけだと。「どうせ、ただで、女中代わりに使うつもりよ。それだったら、ここにいた方がいいわ。多少はお給金を出しますからね」

 実は伯爵家でも、この件は迷惑な話だった。事を大げさに言い立てるだけだと捉えられていた。ただ、生まれた子の名前は、前伯爵の未亡人が夫の父親にちなんでコーディンと名付けてくれた。そして、夫の赴任地が王都の近くの駐屯地に変わった事を伝えると、ソコクサと帰っていった。マージェルは再び忘れかけていた夫への恐怖を覚えた。そして、数日後、夫は現れた。息が酒臭かった。コーディンを見ると夫は「本当に俺の子か」と言った。マージェルは「当たり前でしょう」と言い返した。夫はフフンといって「そんなことより金をくれ。馬がいるんだ、今度は軽騎兵だからな、いい馬がいる」

「そんなお金あるわけないでしょう」

「だったら、実家から持ってこい」

 いわあせた老夫人が「どうやら、お里の方も作柄がよくなくって大変なようですよ」とうそを付いた。商人が勧めてくれた王都での取引はうまくいき、実家の葡萄酒はかなり高値で売れていた。金が手に入らないと思った夫は畜生といいながら帰っていった。さすがに他人の前で乱暴は働かなかった。

 夫の赴任地が代わったことにマージェルは一抹の不安を覚えたが、老夫人が大丈夫と請け負ってくれた。しかし、馬を買うとは大嘘で、夫の放蕩は王都近くに来たことで拍車を掛けていた。遊ぶところはいくらでもあった。そのためのお金だった。

 若伯爵夫人が王宮勤めの話を持ち込んできたのは、産後一月も立たない頃だった。

「ねえ、お乳のではいいの」と最初は、マージェルへの気遣いかと思ったがそうではなかった。半ば、強引に王宮にマージェルは連れて行かれた。王家では第二王子の妃アンジェラが懐妊し、乳母を捜しているとのことだった。若侯爵夫人はマージェルを女官長のキルマ・パラボン侯爵夫人に引き合わせた。

「お乳の出は、いいそうですの、余るほどだそうで」

 女官長は、気むずかしげに若伯爵夫人が貸した服を着たマージェルを見た「ところで、謁見はすませたの。伯爵家の一員ならば、謁見ぐらいして貰わないと」

「謁見はまだしたことがありません」と正直にマージェルはいった。

「あら、侯爵家でしなかったの?」と若伯爵夫人は尋ねた。これは祖父の方針だった。若い娘が王宮など行ってもろくな事がないと。兄は一度だけ謁見をさせてもらっていた。

「今は、お宅の一族でしょう。まずは、そっちが先ですよ」といって女官長は席を立った。

 あわてて、マージェルの謁見の用意が調えられた。謁見がすむと再び若伯爵夫人と前伯爵夫人に王宮に連れて行かれた。息子のコーディンも連れてくるようにいわれていた。息子を抱いたマージェルは王太后と第二王子とその妃の前に緊張して立ちつくしていた。ようやく、教わった礼儀作法を思い出し、高位に対する礼をした。

「礼儀作法は、今一つね」と王太后がいった。女官長は「お乳の出はいいそうです。余るくらいだそうで」

 その後のやりとりはマージェルは、知らない。コーディンが泣き出し、侍女の一人に連れて出されたからである。退出したマージェルになぜかアンジェラ妃がついてきた。彼女のお腹も妊娠中であることを告げていた。コーディンは乳を与えるとすぐ泣きやんだ、懸命に乳をすう。アンジェラ妃が興味深くそれを見ていた「お乳の出がいいのでしょう。わたしもそうだといいのだけど」と羨ましそうにいった。

 その日は一旦、伯爵家に戻り、マージェルは、荷物を取りに行くと言う名目で商人の家に逃げ帰った。事の事情をマージェルは老夫人にうち明けた。

「王宮勤めねえ」と老夫人はいった。マージェルはこの家の暮らしが好きだった。平民と変わらない暮らしをしていた彼女には、王宮勤めなどとんでもないことだった。しかし、老夫人の長男の意見は違っていた。

「王宮なら、あいつも手を出さないんじゃないか、この間はおとなしく帰ったけど、店で暴れたりしたら」

 ここで、マージェルは自分がこの家の好意に甘えすぎていると気が付いた。そこへ、若伯爵夫人が馬車で迎えに来た。

「荷物はまとまったかしら?」

「いえ、まだです」

「早くして頂戴」

「やはり、王宮勤めななんか、田舎者のわたしには無理です」

「何いっているの、謁見までしたのに、それに言いたくはないけど借金があるのよ」

「借金?」と老夫人が聞いた。

「ええ、何でも、馬を買うとか何とかいって、それだけじゃないわ、随分用立てたのよ、うちだって楽ではないのですからね。こんないい話を断って、うちの立場はどうなると思うの」

 若伯爵夫人の言葉にマージェルは、王宮勤めを決意した。

 王宮で彼女にあてがわれた部屋は他の侍女たちと同室だった。部屋に荷物を置くと女官長に再び、コーディンを連れてくるようにといわれた。廊下を周り、階段を下り、また廊下を通り、豪華で広い王太后の部屋に到着した。

「ちゃんとご挨拶をするんですよ」といって女官長は中に入った。

 ぎこちなく、息子を抱きながらと高位に対する礼をすると、思いも掛けず王太后は優しい声で「その子は、そこに寝かせなさい」と長いすを指し示した。マージェルが指示通りにコーディンを寝かせた。コーディンはスヤスヤ眠っていた。泣き出したらどうしようとマージェルは、ハラハラした

「キルマ、アンジェラを呼んできなさい」

「はい、国母さま」と女官長は答えたが、部屋に控えていた侍女の一人にまた同じように命じた。

 しばらくして、アンジェラ妃が侍女を連れて現れた。国母に高位に対する礼をするとアンジェラは

「なんでしょう、お母さま」と尋ねた

「あなたには、そろそろ母親がどういうものか知ってもらいます。今日はこの子の世話をしなさい」と一旦言葉を切り「この子の名前はなんていうの、えーっとマージェルだったかしら。お前の名でありませんよ、お前の息子の名前です」

「コーディンです。王太后さま」

「王太后さまのことは、国母さまとお呼びするように」と女官長が注意をした。あわてて言い直す「コーディンでございます。国母さま」

「そう、ともかく、コーディンの世話はアンジェラが今日はしなさい。覚えなきゃダメよ。アンジェラ」

「はい、お母さま」というとアンジェラ妃は長いすに寝かせているコーディンを抱き上げようとした。

「だめ、折角眠っているのに起こすの。抱き癖はよくありません」と厳しい声の国母。

 こうして、マージェルの王宮務めが始まった。昼間は大概、アンジェラ妃の部屋でコーディンと過ごした。アンジェラ妃はあれこれマージェルに尋ねた、その大半はお産のことだった。その辺は、マージェルも気持ちがわかった。彼女も初めてのお産だったし、不安で一杯だったから。

 アンジェラは次第にうち解けてきて、夫のことを尋ねてきたりした。マージェルは陸軍少尉で軽騎兵だとしか答えようがなかった。

「同じ武官ね、こっちは海軍だけど、でも大変、学位をとらなくちゃいけないですって。陛下のご命令でね」

 とアンジェラ妃は夫の第二王子について色々話し始めた。マージェルは、ただうなずくだけだった。だか、その話は大部分がのろけだった。夫婦仲の良さはマージェルにもわかった。夕方、部屋に現れると第二王子は人目も気にせず妻を抱き寄せキスをする。クスクス笑いながらアンジェラは「人が見ているわ」

「そんなもの気にするな。今日は、この子は元気だったか」と今度は妻の腹に手を当てる。マージェルは目を伏せた。こういう夫婦もいるのである。いや、自分の方が間違っていると思った。

 何日か経って夫が訪ねてきた。夫は上機嫌だった「お前が王宮務めとはな。俺にも運が向いてきたぜ。ところで、金あるか」

「ないわ」と答えると「けちくさいな」と言い捨てると立ち去った。それが夫の姿を見た最後だった。

 マージェルが王宮に来て、約一月立った頃、アンジェラ妃のお産はその日の夜明けから始まり、昼過ぎに王子が誕生した。初産の割には安産だった。そして、心配していた母乳の出もいいのが、わかった。このことは女官長から知らされた。これは、マージェルには悪い知らせだった。乳母という職を失うのである。今さら、あの家には戻れない。ましては、乳飲み子を抱えて実家にも戻れない。

「お願いです、女官長さま、ここを追い出さないで下さい。何でもします、掃除でも洗濯でも何でもします。ここを追い出さないで下さい」とマージェルは泣きながらいった。

「なんだか、事情があるようね」といつもは厳しい女官長が優しい口調でいった。マージェルは夫のことをうち明けるべきかと迷った

「まあ、いいでしょう。実はもう一人お生まれになる予定なの、ここにいていいわ。折角なれたことだし。また、新しい乳母を捜すのも面倒だから、ここにいなさい、しかし、今までとは違いますよ。色々用はして貰いますよ」

「ありがとうございます」と涙を拭きながらマージェルは女官長に礼を述べた。

 今度のマージェルの仕事は王妃の部屋付きという役目だった。王妃も懐妊していた。マージェルはいやがらずにどんな仕事でも引き受けた。少しずつ、王宮の暮らしになれていった。無論、親切な人間もいればいじわるな人間もいた。それでも、夫と暮らすよりましだった。侯爵夫妻と父も訪ねてきた。コーディンを抱いて現れたマージェルに父は、暖かく抱き寄せ、涙声でいった「苦労を掛けてすまない」

「いいのよ、コーディンがいるから、大丈夫よ」とマージェルは気丈に振る舞った。侯爵夫人が「何かいるものはない?」と尋ねた。マージェルは首を振った。父はこうなったら、ここでいればいい。時々様子は見に来るからといって帰っていった。

 そして、王妃にエレーヌ王女が誕生した。マージェルはエレーヌ王女付となった。王妃も母乳はまずまずだった。マージェルの仕事は、エレーヌ王女の世話だった。王妃も時々していたが、大部分はマージェルがやっていた。

 夫の消息を聞いたのはその二ヶ月後だった。師団の馬を売り払い、降格処分を受けたというだった。結局、それは、馬の代金を伯爵家が弁償し、階級を准尉に降格されるだけで何とかすんだということだった。そして、遠くの赴任地に配属替えになったということだった。この知らせをもたらした若侯爵は苦り切っていた。この金はマージェルの実家に出してもらうとはっきり言った。「あいつは、あんな悪じゃなかった。あんたと結婚してから、悪くなったんだ。夫をほったらかしているからだ」

 マージェルは呆れかえった。王宮勤めを持ち込んできたのは伯爵家である。それを何をと思った。このことをマージェルは、女官長に思いきって相談した。彼女を第二王女付けにと強くいってくれたのも彼女だった。

「それは、大変ねえ、でもその位では離婚は難しいわ、不貞行為、わかる?浮気でもして、子供でも出来たら多少は、その理由になるかもしれないけど、どのみち裁判ということになるわ、その覚悟が出来たら、もう一度相談しましょう。いつでも相談に乗ってあげるから」

 マージェルは礼を言って仕事に戻った。そして、再び夫の消息を知ったのは、王妃が二度目の懐妊をした時だった。陸軍の伝令が持ってきた夫の赴任先の師団長からマージェルに宛てた一通の手紙からだった。酒場のケンカで刺し殺され、その裁判に来るかどうかとその手紙には書いてあった。マージェルにはさっぱり訳がわからず伝令に尋ねた。伝令は気まずそうな顔をして詳しい話をしてくれた。夫は酒場兼売春宿で、酒に酔って娼婦をなぐりはじめ、止めに入ったその店の用心棒に夫の剣で刺し殺されたという事だった。先に剣を抜いたのが夫で、それを取り上げようとした用心棒ともみ合いになり、そして、自分の剣で腹を刺され死んだと。そして、今、その裁判がおこなわれていると。ただ、夫が剣を振り回し店で暴れ回っているのを見た証人が、いくらでもいるし、相手は素手だった。裁判でも、相手の落ち度はなかったといわれているとなど話してくれた。

 その後始末は実家の侯爵家がしてくれた。借金も方々にあったが、何とかそれも決着がついたのは、王妃にリディア王女が生まれた後だった。そして、未亡人となった彼女は、今度は、リディア王女付けとなった。そして、息子のコーディンは、リンゲート王子の相手役の一人となっていた。

 マージェルは、乳飲み子だったエレーヌ王女の世話をすることで、第二王女には何かしら、愛情も感じていた。しかし、王妃はキッパリと第二王女に自分の事は自分で出来るようにとマージェルとパティス夫人に申し渡していた。そして必要があれば、お尻をぶってもいいと王妃ははっきりいった。呼び方も王女さまでなく、エレーヌでかまわないと。

 第一王女が自分には何の権限がないと内心不満に思っていたと同様に、第二王女も自分の待遇を不満に思っていた。この待遇改善に乗り出すべく、第二王女は、その小さな頭を精一杯動かした。それを解決するのは、決まっている。国王への直訴である。無論、第二王女は、その時はまだ、アンドーラの裁判制度などは知るよしもなかったが…

 エレーヌは、その直訴の機会を考えた。朝食の席ではまずい、敵も同席する。エレーヌは、パティス夫人にこう命じた「お父さまに大事なお話があるの。どこにいるか聞いてきて」パティス夫人に代わってマージェルが「陛下なら、今の時間、お庭をお散歩されていますよ」

 エレーヌははたと思い当たった。庭といっても王宮の庭は広い、でも、あそこだとエレーヌは駆けだした。「エレーヌ、走るんじゃありません」とパティス夫人が追いかけてきた。初老にさしかかっているパティス夫人には少しきつい労働だった。そこで彼女は王女付き近衛兵を使った「王女さまをお止めして」

 気の利いた近衛兵が第二王女の服を掴み、服ごと持ち上げた。以前は、第二王女の大好きなお遊びだった。エレーヌはもがきながら叫んだ「何するのはなして、こんなの変よ」すると、ゆっくり近衛兵はエレーヌを床に下ろした。

 その間にパティス夫人が追いついた「エレーヌ、廊下を走るじゃありません」そこでもう一言付け加えた「そんなのは王女さまらしくありません。変ですよ」

 それもそうだとエレーヌは思った。わたしは王女なんだからと。エレーヌはパティス夫人と近衛兵を従え、しずしずと目的地に向かい始めた。


 その朝、第二王女の直訴など思いもかけないアンドーラの絶対君主ジュルジス三世は初夏の朝の外気を吸いながら、日課となっている菜園の見回りへ足をのばした。国王らしくゆったりと歩く。菜園近くで園丁頭のバルカンが出迎える。

「おはようございます。殿」とエンバー出身のバルカンはエンバー出身者らしく国王に声を掛けた。ちなみに、第一王女付きのビラン中尉の母方の祖父でもある。

「おはよう、バルカン」と国王も機嫌良く答えた。それもそのはずである、国政において何ら由々しき事態はおきていない。軍政は、王太子主催の鹿狩りを巡って陸軍と海軍が競い合っている程度である。文政も新しい人事でそれぞれ活気が出てきた。アンドーラは安泰だった。

 アンドーラの最高権力者ジュルジス三世はバルカンと並んで歩きながら菜園に足を踏み入れた。それぞれ何を植えたか、どんな種をまいたか、頭に入っている。時々、屈んで、葉の丈を物差しで測る。肥料のことを話しながら、ふと国王の足が止まった。ある区画だけ、土しかなかった。そこには、確か人参が植わっているはずだった。昨日見た時は、青々とした葉が茂っていたはずだった。後、何日かしたら、収穫出来るところまで来ていた。それが、ない。跡形もない。

「バルカン、ここは」といった国王の声が少しうわずっていることに長年仕えてきたバルカンは気づいた。

「ここは、確か、人参だったな、どういう事だ」とやや強い口調で国王はバルカンに詰め寄った。バルカンは「実は、昨日、エレーヌ姫が、そのう、引っこ抜いてしまったんで、いや、その時は、バラ園の虫取りをしていたもんで。人参をエレーヌ姫が持ってきて、これは食べれるかと聞いたんで、ええとお答えしました」とバルカンはそっと国王の様子を窺った。

 国王は呆然と人参が植えられていたあたりに視線を何度も走らせていた。そして、ふと、昨日の夕食に人参が出たのか思い出そうとした。

「殿、もう一度植え直した方がよかったでしょうか」とバルカンがおずおずと切り出した。

「何てことだ」と国王は呟いた。こみ上げてくる怒りを必死に押さえ込んだ。国王は人参の収穫を楽しみに待っていた。折角だから、王女たちにも手伝わそうと日取りを色々計算していた。それを何だって…

 国王は、体を震わせながら、大きく息を吸った。「バルカン、大きさはどの位だった?」と国王は尋ねた。声が少し振るえているように聞こえたのは、バルカンの気のせいだろうか。バルカンは手でその大きさを示そうとした。

 その時、お父さまと呼ぶ声がした。人参が消えてしまった地面を見ていた国王は声のする方に視線を向けた。第二王女がお供を引き連れ近づいてくる。

「コラッ、そこは勝手にはいるじゃない」と国王は怒鳴った。その声は初夏の晴れ渡った空に鳴り響いたという。第二王女の足が止まった。お供も立ち止まった。国王は、大股で、しかし作物を荒らさないように気をつけながら、第二王女に近づいた。第二王女が、かわいらしい仕草で高位に対する礼をした。再びこみ上げてくる怒りを国王は押さえ込んだ。

「おはよう、お父さま」

「おはよう、エレーヌ」と国王は、臣下たちを振るえがらせる口調でいった。そして、やはり、臣下たちに冷や汗をかかす視線で第二王女付の侍女のパティス夫人を見た。この、国王の楽しみを奪ってしまったその責任は誰にあるのだろうと国王は考えていた。落ち着けと自分に言い聞かせながら、まず、当事者の話を聞くのが先決だと国王は判断した。

 ここで、第二王女は作戦上、大失態をした。国王は、微笑んでいた。そこで彼女は、国王は機嫌が悪くないと判断したのである。古参の閣僚、例えば前大蔵卿のブルックナー伯なら、その微笑みが、誰かを叱責する時だったり、いわば、機嫌が今一つだったり、そういう時の微笑みだった。史実に曰く、ジュルジス三世は冷然と微笑みながら、勅命を発した。

 エレーヌもまずは、可愛らしくにっこりした。その後、眉を寄せ真剣な表情になった「ねえ、お父さま大事な話があるの、とっても大事な話なの」と、人参引っこ抜き事件の主犯は、どうやら、自供を始めたようである。国王はなんだい。話してごらんと促すとエレーヌの話に耳を傾けた。しかし、犯罪者の告白が大概そうであるように自供は身の上話から始まった。

「わたしは、第二王女だわ」とそれは始まった。国王も「そうだな」といって先を促す



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