王女の義務と特権
セシーネのいらだちは剣術と乗馬で多少解消されるが、なかなか《治療の技》を試みる機会には巡り会わなかった。そんなある日救貧院に向かう道で事故にあった馬車引きを見つけるが…
セシーネは様々な不満のはけ口を武術の稽古に費やすことにした。アンドーラの王家では、女性でも武術が奨励されていた。それは、現国王の代に始まったことではなく、メレディス女王の代から女性でも剣をとることがあった。史実では女王自身が剣をとるのは儀式だけの時だったが、女王の名を受け継いだメレディス王女は、武術が好きだった。セシーネ自身も気がついたら、剣をとり、乗馬をこなしていた。自分付の侍女であるナーシャが武術に関してまるでダメなのを気がついて驚いたことがある。
「自分で自分の身を守れなくてどうするの。それでも武官の娘だといえるの」
セシーネの指摘にナーシャは口ごもり、もう一人の侍女のタチアナはズボン姿のセシーネをあっけにとられたような顔をした。タチアナの関心はいかに自分が女らしく美しく見えるかだった。セシーネの男装に批判的なことを口にした「そのような服は王女さまのご身分にふさわしくないのではありませんか」
「馬鹿なこといわないでよ。馬に跨るにはこっちの方がいいわよ。まぁ、あなた達に無理に勧めないけど」とセシーネは「フィード」と名付けた、国王の父から贈られた馬にブラシを掛けながらいった。タチアナは王宮に来た当時、馬に近づくことさえ怖がった。セシーネは、あきれたが、これにも王女と貴族の娘の違いを感じた。だが、実際のところは「家風」の違いであろう。同じ王女でも、他の王家では、それほど武術をたしなまない。エドワーズの婚約者メエーネのイザベル王女は、武術の訓練は眺めることは好きだったが、彼女自身はほとんどしたことがなかった。
ナーシャにもいったことだが、自分の身を自分で守るという考えは、セシーネが祖母の王太后と意見の一致をみた数少ない事項でもある。ある意味で、近衛兵に守られている王女に武術は無用に思えたが、セシーネは体を動かすことが嫌いでなかった。
当然のことながら、剣を構えるのがやっとの初心者のナーシャやタチアナでは稽古相手にならない。セシーネの稽古相手には第一王女付の近衛隊長のビランが務めている。朝起きてから朝食までの間、セシーネはもっぱら剣術に励んだ。セシーネの傍らには末弟のランセル王子を相手に組み打ちをしている国王の姿があった。
「まるで、軍学校だな」とランセルは額の汗を拭いながらいった。
「叔父さま、軍学校には女性がいないわよ」
「セシーネは、ヒョッとして男に生まれたらと思ったことはないか」
「別に、どちらでも同じよ」とセシーネは肩をすくめた。セシーネの不満はベンダーやケンナスが自分を子供扱いすることであって、女だからといって差別をされた覚えはなかった。
「俺は違うと思う。まったく、ネリアのやつまだいっていやがるんだ。王女だって、王家には必要さ、そう思いませんか、陛下」
「まぁ、そうだな」と国王は曖昧に答えた。国王自身は、最初の結婚で王子と王女、二度目の結婚で王女を二人設けている。これが逆だったら、厄介なことになるのはわかっていた。今の王妃は物わかりのいい王妃であったが、自分が王子を生めば、妙な野心を抱くかもしれない。アンドーラは王女でも王位継承権があるが、やはり、男子優先である。女王を戴くに賛同しない連中もいる。国王ジュルジス三世の世継ぎであるエドワーズは立太子礼も無事すませ、後継者を巡っての血なまぐさい争い事は皆無だった。後継問題で揺れる隣国のサエグリアに比べてアンドーラの王家は、表面上はのどかであった。
和やかに見える王家の朝食の席で、一見、物騒ないでたちだったのは、王太子のエドワーズだった。エンバーから戻ってくると、エドワーズは、重い金属でできた重騎甲冑を脱ぎ、今度は大部分が革でできた軽騎甲冑を着込んでいた。これは、彼のある計画に必要な装束であった。彼の計画とは、王太子主催の「鹿狩り」である。この計画に関しては、すでに父である国王の許可ももらっていたし、普段は厳しいことをいう叔父のヘンダースも珍しく、彼を誉めたのである。外見に反して王太子殿下の機嫌は上々であった。自然と軽口もでる。妹の第一王女のズボン姿をついからかいたくもなる「なんでそんな格好しているんだ、セシーネ」
「いいでしょう、ほっといてよ。謁見の日じゃないんだから、好きな服を着たっていいでしょう」と気分があまり上々とはいえない第一王女。そこへ第二王女が口を挟んだ
「わたしはそんな格好しない。お姉さまと違うもの。なんだか男の子みたい。変なの」
セシーネは妹に一言なにかいい返したがったが、その代わり儀式用の顔を作った。セシーネにはエレーヌの当てこすりがわかっていた。エレーヌのいうお姉さまと違うというのは母が違うという意味であるぐらいセシーネにはわかっていた。そこへランセルが混ぜっ返した「まさか、女官長殿、新しい礼装とは、ご婦人方にドレスではなくズボンを履かせることのではないでしょうね」
「まさか、馬鹿なことをいわないで」と女官長でもあるメレディスがいった。メレディス自身もしばらくズボン姿で過ごした時期もあったし、重騎甲冑こそ持っていなかったが、軽騎甲冑は以前あしらえて持っていた。メレディスは服装に関しては、時と場所を選ぶべきだと考えていた。普段は簡素な仕立ての服だったが、各行事では華やかに装うことが好きだった。その落差が大きいほど、正装した時の効果があることを知っていた。そして、その効果を十分楽しんだ。王宮に侍女としてやって来た、メレディスの兄弟たちの妃たちもメレディスの助言でずいぶんと垢抜けてきた。王家の一員である以上、貴族たちよりも美しくなければならない。メレディスは女性の価値が美しさだけではないとは思うが、美しい女性を嫌う男はいないとも思っていた。そして、姪の第一王女は彼女にとって腕の振るい甲斐のある素材であった。何しろ、女のメレディスからみても嫉妬に駆られるほどの美少女だった。
国王は、第一王女のズボン姿に妙な既視感にとらわれていた。妹のメレディス王女もそういった時期があった。母親である王太后が諫めたが、メレディスの男装は、父である先王のジュルジス二世を面白がらせた。剣を与えるだけではなく、わざわざ、軽騎甲冑まで誂えるということまでした。国王が、第一王女に馬を与えたのは、武術好きなメレディスがそう進言したからである。乗馬も出来ない王女なんてアンドーラの王女らしくないとメレディスはいった。自分もその年の誕生日に父親から馬を贈られた事実を指摘した。それで、セシーネ王女に何を贈るか頭を悩ませた国王は、馬を第一王女に贈ることを決めた。実は、国王自身も乗馬は嫌いでなかった。その乗馬を巡って言い争ったことがある武官が今は陸軍の最高位についている。ガナッシュ・ラシュール陸軍元帥である。かつて、国王は、王国軍の近代化に努めた今なき大叔父のヘンダース王子から軍学校での彼のあだ名を聞いたことがある。それは「文句屋」である。その歯に衣を着せない物言いが気に入って、ガナッシュを今の職に就けた。大叔父は、死の直前まで陸軍元帥の職に就いていたが、後任については何人かの名を挙げただけであった。その中に国王の末弟ランセルの名もあった。大叔父は何かと逸話の多い人物であったが、軍事面では天才的な力を発揮した。現在、国王の座に安心して座っていられるのも大叔父の尽力によることが多いことも国王はわかっていた。そして今、その陸軍での後継者「文句屋」は、報告書の束を部下に持たせて、国王の執務室にやってきた。いつものように国王は椅子に掛けたまま敬礼を返すとガナッシュ元帥にこれも、いつものように「掛けたまえ」と声を掛けた。ガナッシュ元帥はいつものように「失礼します」といって、椅子に腰掛けた。
「なぁ、ガナッシュ、鹿狩りについてはどの程度聞いている」
「王太子殿下の主催ということぐらいは伺っておりますが、小官が思いますに何故、陛下ご自身の主催でなさらないのです」と、相変わらずの「文句屋」らしい一言をいった。
「ここだけの話だが、実は、弓術はそれほど得手ではない」
「ほう、それは存じませんでした」
「わざわざ、その話を広めなくてもいいぞ」
ガナッシュ元帥はちょっとニヤリとしただけだった。国王が気にいっているのはその武官らしいさっぱりとした気性である。国王に対してもおもねることがない。
「ところで、大蔵卿とはうまくやっているか」
「まあ、やりにくいのはあちらの方ではないでしょうか、あれの軍歴など大したことはございません」
ガナッシュ元帥のいう、あれとは大蔵卿のことである。大蔵卿は、ガナッシュの兄の息子、つまり、甥である。この人事に対して、色々喧噪があるのを国王は知っていたが、知らん顔をしていた。国王はいつものように報告書に目を通すと、今度は、口頭での報告を促した。
ジュルジス三世が即位してから、もう、先王以上の治世が続いていた。先王と違って、ジュルジス三世自身は国政を執ることが苦ではなかった。即位当時ほど細かい指示は出さなくなったが、それでも、王国内外の事情について細かい報告はさせている。即位以来、アンドーラに大きな戦乱はない。ランセルにいわすと、陸軍の相手になるのは鹿ぐらいである。陸軍元帥との会話も自然と王太子が計画している鹿狩りの話になった。
「王太子は、海軍の連中も呼ぶつもりだそうだ。どう思う」
「海軍でございますか、陛下」と一旦言葉を切り元帥は考え込む表情になった。
「提督はなんと申しておるのですか」
「それが、結構自信ありげだったそうだ。陸軍としてはうかうか出来ないな」
「問題は、騎射でございましょう」と陸軍元帥は事も無げにいった。
さて、その鹿狩りである。エドワーズはその行事の予算書を何とか作り終えると、今度は「下見」の計画を練り始めた。たかが、鹿狩りであるがこれも大事な軍事訓練であると王太子付の武官が主張した。そして、かなり危険性を伴うことも指摘した。エドワーズは危険なことを怖れては何も出来ないと反論した。文弱な家風ではない。叔父二人は、それぞれ海軍、陸軍に属し、エドワーズからみれば誇らしげに軍服を着ているようにも思えた。近頃、エドワーズが、甲冑を着込んでいるのはそういった面もある。自身にはその義務はないが兵役義務期間の二年間は甲冑姿ですごそうとエドワーズは考えていた。そして、鹿狩りが軍事訓練の一種なら、自分も積極的に参画するべきことだと思った。まぁ、色々理屈もあるが、実のところは同じ弓を射るなら的ではなく実戦で試してみたいというあたりが本音であろう。武術の稽古も自信がつけば腕を試したいという気持ちにもなる。
一方、腕を試したくてもなかなかその機会に恵まれない第一王女は、父から贈られたフィードに跨って、つまりズボン姿のまま救貧院に向かった。人通りの多い町並みを抜け、チェンバー川に架かる橋を渡ると、後は救貧院まで一本道だった。セシーネはフィードに全速力を命じた。護衛の近衛のビランたちが慌てて追いかけてくる。疾走するフィードに身を任せ、セシーネはなぜだか開放感を味わっていた。体に当たる風が心地よかった。ふと、なぜ、今まで、こうしなかったのだろうとセシーネは思った。こんな楽しいことをタチアナは怖がるのだ。医学書の人体解剖図ですら、タチアナは気味悪がった。ましては、手術の話をしても、青ざめるだけだった。ナーシャの方は、タチアナほどでないが、医学には無関心といってもよかった。彼女たちに、セシーネは、なんだか物足りなさを感じていた。それにしてもフィードの足はすばらしい。ビランたちの馬はなかなか、セシーネに追いつかなかった。
セシーネがフィードの手綱を引いたのは、前方になにやら人だかりらしきものを見つけた時だった。フィードが徐々に速度を落とし、やがて、人垣から三十m位手前で立ち止まった。ビランたちが追いついてきた。この辺りは、あまり人通りはあまり多くない。ここまで来る時にすれ違ったのは、王都に農作物を売りに来る農夫たちの荷車ぐらいだった。それが、道をふさぐように人が集まっている。何だろう。
「姫、ちょっとお待ち下さい」とビランが息を弾ませていった。
「何かしら」
「今、調べてきますから、このままでお待ち下さい」ビランは部下の一人に「何があったか調べてこい」と命じた。近衛騎兵が一騎、人垣の方に向かった。セシーネは辛抱強くフィードの上で待った。その間、近衛騎兵がセシーネを守るように取り囲んだ。
前方の偵察から近衛騎兵が戻ってきた「どうやら、荷馬車が倒れて下敷きになったものがいるようで」
セシーネは前を塞いでいるビランに「ビラン、ちょっとどいてちょうだい。様子を見たいわ」と声を掛け、フィードを前に進めようとした。ビランは動こうとせず「姫、危ないですから」
セシーネは言い返した「何が危ないのよ、いいからどいて」最後は「命令よ」と付け加えた。結局ビランはセシーネと並んで大騒ぎの渦中に近づいた。
横倒しになった荷馬車の下から、男たちが下敷きになった男を引っ張り出そうとしていた。だが、荷物を満載した荷馬車が重くてなかなかうまくいかない。
「ビラン、手伝ってやりなさい」といいながらセシーネはフィードから降りると「それと誰か救貧院へいってけが人が出たからといって大急ぎでケンナス先生を呼んで来なさい」そしてフィードの手綱を護衛の一人に渡した。「フィードに乗せて先生をつれてくるのよ」
「しかし、王女さま、」「これは、命令よ」フィードの手綱を持った近衛騎兵は上官のビランをみた。ビランは覚悟を決めると馬から降り、てきぱきと指示を出し始めた。
ビランの指示で、荷馬車の下から男が助け出され、道路の端に横たえられたのは、二十分ぐらいたった頃だろうか、セシーネは、助け出されうめいている男に近づきひざまずくと男の手首を握り《見立て》をした。
「右の大腿骨が、折れているわ、後、肋骨が何本か、ひびがはいっているわ」
男は怪訝そうにセシーネをみた
「わたしは医学を学んだの、今わたしの先生を呼びにいっているから、ここでおとなしく待っているのよ」
「動こうにも動けやしません」
「いったい、何があったの」
「いきなり、狼が飛び出して来たんで、」
「この辺りには、狼はいないぜ、狐だろう、しかし、あんた、運がいいぜ」とビラン
「これのどこが運がいいんだ」
「馬は、足の骨を折っていないぜ」
男はホッとしようだった。この間に、近衛騎兵によって横倒しになった荷馬車が元に戻され荷駄がもう一度積み込まれていた。
ケンナスを迎えに行った護衛が、戻っていたのはその十分後ぐらいだった。ケンナスはフィードから降りてくると「けが人が出たそうだが」といいながら、人垣をかき分けてきた。セシーネは自分の《見立て》をケンナスに伝えた。ケンナスは険しい顔をしてうなずき、男の側にひざまずいた。ケンナスはまず、男の右足のズボンをナイフで切り取り、従来の医学的な診察を行った。ケンナスに患部を押されて男が悲鳴を上げた。その後、《見立て》をした。痛みに喘いでいた男は《見立て》の不思議な感覚に気がつかなかったようだった。
「セシーネの《見立て》通りだな。取り敢えず、救貧院へ運ぼうか」
「そんな必要ないわ」とセシーネはキッパリというと、物言いたげなケンナスに小声でささやいた「今こそ、治療の技を掛けるべきよ」
しかしとケンナスはためらった。
「先生がやらないのなら、わたしがやるわ」
「それは、どうかと思うね」
セシーネは辛抱強く慎重なケンナスを説得した「先生、骨折が治るまで、一ヶ月以上かかるわ。その間、多分、彼は仕事を休まなくちゃいけないわ。でも、治療の技をかければ、すぐに働けるようになるわ。違う?」
ケンナスはため息をつくと「わかったよ。ビラン、すまないけど見物人を追っ払ってくれ」
「了解」とビランは敬礼をすると「さあ、見せ物じゃないだ、いった、いった」
ケンナスは、最初は荷馬車の下敷きになった男を助けるために集まり、そして、今はことの成り行きに興味津々で残った人々が立ち去るまで待った。やがて、道ばたに横たわった男の周囲にはケンナスとセシーネとセシーネの護衛の近衛騎兵だけが残った。
ケンナスはまず、男の折れた右足を正常な位置に戻した。男がうめいた。ケンナスは患部に手を当て大きく息を吸うと治療の技をかけ始めた。
「痛みがなくなっていく」と男は驚いた声を出した。
「いいから、黙っていろ」ケンナスの額に汗が浮かんだ。セシーネは息を殺すようにしてケンナスの様子を見守った。ケンナスは男の太腿から手を離すと
「今度は、肋骨の方だな」といって、男の胸元をはだけた。「セシーネ、ちょっと手を貸して」
セシーネが右手を差し出すとケンナスがその手を左手で握った。ケンナスの右手は男のひびの入った肋骨あたりにあてがわれている。右手から伝わる感覚でセシーネはケンナスが《見立て》をしたのがわかった。セシーネは右胸に痛みを感じていた。その時、セシーネは自分の《力》が引き出されていくのがわかった。痛みを感じていた右胸の肋骨あたりが暖かくなり、痛みが和らいだ。ケンナスがセシーネの手を離した。男が目を丸くして「息をしても痛くない」
「起きあがってもいいぞ」とケンナスは、男に手を貸し立ち上がらせた。
「いったい、どうなっているんだ?」と男は首を傾げた。ケンナスが口を開く前にセシーネは「新しい治療法よ。ところで、ケガが治ったんだから、先生に治療代を払うべきだとおもうわ」
「セシーネ」とケンナス
「ケガの治療をしたのだから、当然、払うべきよ、いくら払える?」
「あの、あっしは金は持っていないんで」
「でも、お酒は飲むのくらいのお金はあるんでしょ」男の息は少し酒臭かった。男は自分を取り囲んでいる甲冑に身を固めた近衛騎兵を不安そうに見回した。ケンナスが
「ズボンを切り取ってしまったからな。それで、あいこだ。もう、いっていいぞ」
男は自分の荷馬車に駆け寄った。
「ちょっと、お礼ぐらいいいなさいよ」
男は荷馬車の御者台に乗ると荷馬に鞭を当て逃げるように走り去った。
「追いかけますか」とビラン。
「まったく、助けてもらって、お礼もいわないなんて、失礼よ」
「まあ、驚いたんだろうよ」とあきらめ顔のケンナス。
「治す前に、金をもらっておけばよかったんじゃないですか」とビラン。その言葉に近衛騎兵が笑い出した。ケンナスも笑い出した。セシーネもむきになった自分が何だがおかしくなって笑い出した。
笑いが収まると、歩いて救貧院に戻るというケンナスをビランは自分の馬の鞍の後ろに跨がせると「姫、全速力はなしですよ」といってから、先頭に立った。
救貧院の門を過ぎると見習の子供たちが走り寄ってきてセシーネたちを取り囲んだ。ケンナスはビランの馬から飛び降りると「さあ、遊んでいないで、授業だ」
「先生、けが人はどうなったんですか」
「何、大したことはない」
セシーネは出迎えに出てきた救貧院の院長の前にフィードを横づけ、フィードから降りた。セシーネのズボン姿にキルマは何か言いたげだったが、
「おはよう、キルマ」とセシーネは、にこやかに声をかけた。キルマは、軽く膝を折る高位に対する礼をしてから「けが人が出たということですが」
「それだったら、もういいの。大したことなかったわ。ところで、ペトールの様態はどうかしら」
「ベンダーが診察して、しばらくは安静にしているように」
「そう、ベンダー先生はまだ、いらっしゃるかしら」
従医長のベンダーは、朝、国王の検診を終えると国王に許可をもらい、救貧院へ昨日手術をしたペトールの容態を確かめに来ているはずだった。不思議なことに、セシーネの腹立ちは治まっていた。ケンナスが治療の技をかける時、セシーネの《力》を使ったことで、体の中に沸々とたぎるような感覚はきれいさっぱりなくなっていた。
ベンダーは、ケンナスが「授業」に使っている部屋にいた。キルマが追いかけてきて「王女さま、お話があります。院長室へどうぞ」といった。
「今じゃないといけないかしら、パラボン侯爵夫人」とセシーネはまた、儀式用の顔を作った。
「早いほうがいいでしょう」
「そう、わかったわ」
院長室にはいるとキルマはセシーネに椅子を勧めた。セシーネが椅子に腰掛けるとキルマは失礼しますといってから自分も椅子に腰掛けた。セシーネはキルマの話が見当がついていた。
「お話って、この格好のことかしら、それとも、けが人のことかしら」
「けが人はどうなりましたか」
「それだったら、ケンナス先生に聞いて下さい」
「わかりました。ところで、王女さま、その服装は、いかがと思いますね」
「そうかしら、でも、乗馬にはこちらの方が、都合がよろしいの。スカートだと足が丸見えになるでしょう。大丈夫よ、メレディス王女さまのように、甲冑まで着ようとは思わないから。後、礼装が替わるといっても、ご婦人方にズボンを履かせようなんてことにはならないと思うわ」
「しかし、いかがと思いますね」
「だから、馬に乗るにはこの方がいいだけ、他に理由なんてありません。第一、乗って欲しくなかったら、陛下はわたしに馬なんか贈らないと思いますけど、ともかく、陛下はこの格好に何も仰せになりませんでした。この話はこれでお終い。これから、救貧院へはフィードに乗ってまいりますから、そのおつもりで」
「フィード?」
「わたしの馬の名前です。そんなことより、誰か、医学に興味がありそうなご婦人はいらっしゃいませんか」
「どういうことです」
「パラボン侯爵夫人、以前にも申し上げたと思いますけど、わたし付けの侍女なら、できれば同じことを楽しいと感じるような人じゃないと長続きしないと思います。そうね、ナーシャもタチアナもどこが悪いといっているのではありません。でも、薬草の名前ぐらい覚えようとなぜしないのかしら」
「その点がご不満だと」
「そうね、ここだけの話にして下さい。パラボン侯爵夫人」
「わたくしのことは、キルマで結構です」
「そう、だったら、わたしのこともセシーネで結構よ」とここでセシーネは儀式用の顔から一転してにっこりと微笑んだ。
「それでは、示しがつきません」
「そう、以前はそう呼んでいたじゃない。キルマ先生。あなたからは、色んなことを教えて頂いたわ。改めてお礼を申し上げます。後、お説教をしたかったら、セシーネと呼ぶのね」とセシーネは席を立った。
キルマは、相変わらず口達者な第一王女に舌打ちしたい気分だった。キルマがセシーネを院長室に呼んだのは無論、服装について注意しようと思ったからである。しかし、セシーネは言い逃れを国王に求めた。まあ、先王ほどではないが、父親というのは、大概、娘に甘いものである。しかしである、キルマはセシーネの侍女に対する不満もはっきりと聞いた。キルマは、第一王女の注文通りの医学に興味がありそうで王女の侍女を勤められるような貴族の娘たちには心当たりがなかった。再び、舌打ちしたい気分になる。以前、侍女に推挙したエランダ・コンラッド侯爵令嬢は、見事にしくじった。そして、キルマは、エランダが、まだ、謁見をすませていなかったことを思い出した。それは、女官長のメレディス王女が式部省に手を回した結果だった。コンラッド侯爵夫人から相談を受けたキルマは、礼装が替わることをそれとなく伝え、それからでも遅くないといってコンラッド侯爵夫人を安心させた。コンラッド家はキルマの持ち駒の一つになった。キルマは、頭の中で、他の貴族の各家の娘たちの顔を思い浮かべた。
キルマ自身は、第一王女が医学を学ぶことに賛成でもなければ反対でもなかった。王太后は、あまり賛成しなかった。王女にふさわしい学問ではないというのが王太后の理由だった。確かに、ある意味ではそうともいえる。だが、ケンナスの授業を聞きながら、キルマ自身結構ためになった。どうすれば健康でいられるか、あるいは、病気になった時どうすればいいのかを学んだからである。同じ王女でも、メレディスは時間をもてあまし、武術の稽古に励んだ。それは、王太后も止めなかった。丈夫な体を作るのによろしいというのが、その理由だった。
キルマは、ふと「血」は争えないと思った。セシーネの母方の祖母は、医学者の家の出身だった。彼女自身も医学の心得があった。そのことをセシーネに告げるべきかどうか、キルマは、計算してみたが、今はその時期ではないと判断した。いや、誰かがそのことをもう告げているかもしれない。キルマは、王宮の細かい情報が、手に入らないことにいらだちを覚えた。王太后の死後、王宮の侍女たちの顔ぶれも替わった。キルマは自分の持ち駒が少なくなったことに不安を募らせた。
院長室を出たセシーネをモリカが待ちかまえていた。セシーネのズボン姿に「王女さま?」といって驚いたように目を丸くした。その後、あわてて、高位に対する礼をした。セシーネもおはようと声をかけた。モリカは率直に「どうしたのでございますか、その服は」セシーネは肩をすくませ「乗馬にはこの格好が一番よ」
「乗馬でございますか」
「ええ、王女であることは、色々不便なこともあるのよ」
「わたくしはそのあたりはわかりませんが」
実際のところ、ズボン姿は王女の不便さよりも、王女の特権といってもよかったが……
セシーネはモリカを従えて、ベンダーの「講義」のおこなわれている部屋に戻った。ベンダーの講義は昨日の手術のことではなく、もっと基礎的な一般的な医学知識についてであった。セシーネはすでに修得したといってもよい知識だった。ベンダーは、見習たちに質問を浴びせ、見習たちの進展振りを確かめていった。質問に淀みなく答えをいうものもあれば、そうでないものもいた。セシーネは誰がそうなのか頭の中にたたき込んだ。
実は、見習たちも不満を抱えていた。自分たちが《治療の技》という不思議な《力》の持ち主であるらしいことはわかったが、なかなか実際にそれを試す機会に恵まれなかった。今日、けが人が出たと知らせを受け、彼らは色めきだった。しかし、自分たちをおいてケンナスだけがその場に向かった。戻ってきたケンナスは、大したことがなかったとしかといわなかったが、本当にそうなのか、確かめようにも確かめようになかった。
その不満が、まず、セシーネのズボン姿に向けられた。
「なんで、そんな格好しているんだ?男みたいじゃないか」
「君に、とやかく言われたくはないわ」
「王女だからといって、威張るなよ」
「これ、王女さまになんて口に利き方をするのです」とモリカがたしなめた。
「べつにかまわないわ。そんなことより《見立て》はどの程度上達したの」
「《見立て》なんて、少しも面白くない」
「何、いっているの。どんな病気かわからなかったら、治療法もわからないでしょう」
とまぁ、口達者な第一王女である。セシーネはそういいながらも、自分にもそういい聞かせていた。ペトールの場合も、結局は、外科の切開手術という治療方しかなかったのだろうかと疑問に思ったりした。エドワーズは《治療の技》で何でも治せる訳ではないというが、果たしてそうだろうか。やはり、セシーネは、限界を試しかった。しかし、その時のセシーネは知らなかった。治療師が《力》を使い果たすとどういったことになるのか、それを知るのは、もう少し後になる。
ブルックナー伯が、ペトールの容態を確かめにやってきた。年老いた修道女に案内され、授業の部屋に入ってきた。
「やあ、ベンダー博士。そして。王女さまもおはようございます。ちょっと手術の経過が気になりましてな。どうです、病人の様態は」
ベンダーに替わり、ケンナスが「今のところ、順調のようですよ。今は、安静が大事だそうで、眠っていると思いますが」
「なになに、順調ならそれで結構」とブルックナー伯は、なにやら満足そうだった。そして、授業を進めてくれといって、その場に残った。ベンダーはそのまま授業を続けた。ケンナスが懐中時計を取り出し、ベンダーに時間を告げた。ベンダーは「今日は、このくらいでいいだろう、ただ、もう少し、復習をしておくように」といって授業を終了した。その後、ペトールの診察に、見習たちを残して向かった。
ペトールは、目を覚ましていた。昨日と同じようにベンダーが脈を診て、ケンナスが《見立て》をした。ベンダーが「王女さまも《見立て》をしてご覧なさい」と勧めた。セシーネはペトールの手首を握ると《力》で探った。体の中で《見立て》の感覚が走った。ベンダーがメスを入れた場所にかすかな痛みが感じられた。ペトールの手首を離し、「少し、痛みがあるようですけど」
「まだ、傷口はふさがっておりませんからね。抜糸するまでは、少し痛みが残るでしょう。ちょっと失礼」といってベンダーはペトールの瞼をひっくり返して「うん、少し、貧血があるかな。どうだ、ペトール、めまいとかあるか」
「いえ、それより、腹が減って」
「まぁ、最初は、肉汁ぐらいにして、徐々に普通の食事に戻すからな。救貧院の方々には、そうお願いしてある。指示通りの食事をするようにな。少しくらいは、起きあがって歩いてもいいぞ」とベンダーは、手術後の過ごし方をペトールに指示した。ブルックナー伯が「ちゃんと、博士のいうことを聞けば、健康になれるんだ。いいな」と念を押した。
そのあと、ブルックナー伯の馬車でベンダーは一足先に宮殿に戻っていった。
そして、再び、フィードに跨ったセシーネは、乗馬の楽しさを味わっていた。ビランは自分の指揮する近衛騎兵隊を一定の速度ではなく、速めたり緩ませたりした。幼い時からセシーネを知っていたビランは、王女の気性をよく知っていた。《治療の技》についても、ビラン自身試したことがあった。結局、その《才》はないとわかったが、ケンナスの授業にはよく付きあわされた。見習たちが今、学んでいる程度の医学的知識はあった。セシーネの横に並びながら「姫、ご報告した方がいいと思いますが、あの見習たち危ないですよ」
「どう、危ないの」
「《治療の技》を試したがっています。特にヨハムは危ない」
「そうなの。ケンナス先生には、そういったの?」
「一応、それとなく、申し上げておきました」
「そう、わたしだって、色々試したいけど、でも、わざわざ、けが人を作るまではしなくていいけど」
「畏まりました」と幼い時のエドワーズとセシーネの遊びを知っていたビランは、ニヤリとした。
「それより、もう少し速度を上げない?」
「畏まりました、速力前進」とビランは号令をかけた。結局、チェンバー川の橋まで、セシーネたちは全速力で、馬を走らせた。ビランたちと抜きつ、抜かれつを繰り返しながら、橋の手前でセシーネは手綱を引き、フィードの速度を並足まで落とした。セシーネは息を弾ませながら、こうでなくちゃと思った。フィードを贈ってくれた父にもう一度お礼をいおうと思った。
「ビラン、当分は、救貧院には馬車でなく、フィードに乗って行くことにするけど、かまわないでしょ」
「自分はかまいませんが、一応、師団長殿に報告しておきます」
「あら、そうなの」
「一応です、姫のご希望通りになるかは、お約束出来ません。まあ、その点はおわかりでしょう」
「何か、危険なことがあるの」
「いえ、そうではありませんが」
「乗馬がダメなら、陛下は、馬を下さったりしないわよ。師団長が文句をいうなら、陛下に伺うわ」
「わかりました」
セシーネは、自分の身分にちょっと不便を感じた。王女だからといって自由気ままにならないことも多かった。だが、王太后の生前に比べて、幾らかの自由は手に入れた。それは、年齢よるものかもしない。もう、子供ではなかったが、かといって、大人とも言い切れない。セシーネの体はまだ、大人の女性の体ではなかった。
平日の王宮での昼食の席は、王女と妃だけだった。ついこの間まで、リンゲートも同席したが、エドワーズに誘われ、別の部屋で食事をするようになった。リンゲートの母親のアンジェラはあまりいい顔をしなかったが、父親のヘンダースは、男同士の方がいいのさと許可をした。これには、メレディスが少しへそを曲げた。メレディスの不満は王太子のエドワーズが計画している鹿狩りに女性が参加出来ないことにあった。
「何で、殿方だけでやろうとするの、わたしだって、行きたいわ」
「メレディス、問題は、弓術だと思うわ。女性は、あまりしないもの」と王妃のヘンリエッタが指摘した。
「そこなのよ、わたしは、女性だって、多少の武術は心得ておくべきだと思うわ。セシーネはどう思う?」
「問題は、イザベルだと思う。彼女が、参加したいといったら、お兄さまも考えるでしょう。イザベルはそういったことに興味があるのかしら?」
「どうも、そのあたりが、わからないわ。礼装に関してはかなり、興味があるようだったけど」
「ところで、海洋大会の衣装だけど」とネリアが話題を変えた。エレーヌが「わたしも、新しい服が欲しい。いつも、お姉さまのお下がりばっかり」とふくれっ面をした。王妃がすかさず「あれで十分、何、贅沢をいっているの」とたしなめた。
「わたしだって、叔母様のお下がりだったわよ。気に入らないなら、リディアに上げることにするわ」
「メレディス、少し、手直しをしたらどうかしら、ちょっと刺繍を入れるとかすればだいぶ、違う服のように見えるわ」とやはり王女を持ち、エレーヌやリディアのお下がりを当てにしているアンジェラ妃。
「そうね、後で、持ってきてちょうだい。みてみるわ」とメレディス。彼女の衣装に関する目は確かだった。普段簡素な仕立てのドレスを着ているのも彼女なりの計算だった。そのドレスは、長身の彼女の体型を引き立たせた。王女である以上、美しくなければならない。それがメレディスの持論だった。無論、妃たちにもそれを求めた。女性が自分を美しく見せたいと思うのは、当然の心理であった。話題が俄然盛り上がった。エレーヌさえ発言した。だが、セシーネは、衣装のことはメレディスに任しておくことに限ると、あまり口を挟まなかった。
セシーネはにぎやかだった女性だけの昼食をすませると、いつものように新宮殿に向かった。いつもの小部屋にいく前に国王の執務室の前で国王付の近衛兵に国王との面会を求めた。近衛兵が許可をセシーネに伝えた。セシーネは、執務室にはいると膝を折って、高位に対する礼をした。
「陛下、よろしいでしょうか」
「何だ、セシーネ」と椅子に腰掛けたままの国王。
「お礼を申し上げようと思って」
「お礼?」と国王が片方の眉を上げた。
「そう、フィードを下さってありがとうございます。フィードはすばらしい馬だわ。当分は、フィードに乗って救貧院へ行くつもりです。よろしいでしょうか」
「かまわんが、ズボンも履いてか?」と今はスカートに履き替えた第一王女をみた。
「そのつもりですけど、いけませんか」
「まあ、いいだろう」と国王はかすかに微笑んだ
「ありがとう、お父さま」とセシーネも微笑んだ。これで、近衛師団長が何をいおうと大手を振るってフィードに乗れる。まぁ、フィードを当てにしているリンゲートはがっかりするだろうが……
「ところで、救貧院の病人の様子はどうだ」
「昨日、ベンダー先生が手術したペトールのこと。それなら、今のところ順調よ。熱もないようだし、特に問題はないと思います」
「そうか」
「では、お忙しいでしょうから、これで失礼します。退出してもよろしいでしょうか」
国王はうなずいただけだった。セシーネはもう一度、膝を折り高位に対する礼をして、国王の執務室を出た。
いつもの小部屋にブルックナー伯が待ちかまえていた。ブルックナー伯はこの部屋のことを準備室と呼んでいた。ブルックナー伯は、王太子の鹿狩りの計画も聞いていたが、その計画についての参画には、国王の指示によって、それほど重職でない大蔵省を定年退職した平民出身の元部下を充てていた。在職中は王太子と親しく言葉を交わす機会に恵まれなかった元部下は、感激し、毎晩のように進捗状況を報告に来る。ブルックナー伯は、大蔵卿を辞したものの、まだ、自分の影響力が低下していないことに気をよくしていた。
「問題は、予算書ですが、まぁ、概算でよろしいでしょう」とブルックナー伯は、書類を取り出した。
「王女さまは、算盤がおできになりますかな」と今度は算盤を取り出した。
「少しは」
「暗算もよろしいのですが、やはり、数字の桁が多くなると計算違いが多くなりますからな」とブルックナー伯は算盤の使い方をセシーネに教え始めた。
第一王女は飲み込みがよかった。算術の基礎はできていた。しばらくすると、かけ算も算盤で計算出来るようになった。そこへ、ビランが工部尚書の訪問を告げた。
部屋に入ってきた工部尚書は、挨拶がすむと「施療院の準備の方はいかがですと」と尋ねた。
「君のこそ、役所の方は、どうなっているんだ」
「少しは、なれてきましたけど、やはり、施療院の設立も気になりますから、新しい建物を造る予定はありますか」
「そういった案もあることはあるが、最初から大規模にやるのはどうかという意見もあってな、多分、救貧院を手直ししてということになるだろう」
「すると、救貧院は廃止ですか」
「何、働こうと思えば仕事はいくらでもある」
ここでセシーネはようやく口を挟んだ「男の人は、そうでしょうけど、女の人はどうですか」
それがといって、ブルックナー伯は、陸軍の「計画」について話し始めた。
いわゆる軍需物資の中で、武具のたぐいは工兵と呼ばれる職人たちが作っていた。各駐屯地の建物さえ工兵たちの手で作られていた。今度は軍服に必要な布地の生産も、軍部内で始めようとしていた。それは、女性の労働力を見込んでいた。
「つまり、後は、病気で働けないものをどうするかということになる。そこで、施療院が必要になってくるわけですな」とブルックナー伯は話を締めくくった。
「ブルックナー伯、病気の治療には《治療の技》はあまり、有効ではないんです」
「それは、存じております、王女さま、しかし、《見立て》をして、薬を調合すればいいでしょう。よろしくないのはきちんとした医学的知識がない者が勝手に薬草を煎じたりすることですな、かえって病気を悪化させてしまうかもしれませんからな」
ブルックナー伯は、即位して間もない頃の国王から「働けば暮らせる国」という理念を聞き、感服したことがある。そして、今、王立施療院の設立に関わることで、自分もまだまだ「お国」の役に立っている実感があった。
さて、この日の朝、ケンナスに《治療に技》で骨折を治してもらった男である、彼の名前はセルバンという。セルバンは、荷馬車の御者で、荷物を預かってはあちらこちらに届けては荷駄賃をもらうという暮らしをしていた。馬と荷馬車が彼の財産の全てだった。セルバンは、金が入るとそのほとんどを酒代に費やしていた。しかし、酒で仕事をしくじるほどではない。約束通り、荷駄を届けると金を受け取り、定宿にしている宿屋に腰を据えた。顔なじみの宿屋の亭主に「のどがからからだ、エールをくれ」と頼んだ。宿屋の亭主は昼間から酒を飲むなとは当然いわなかった。酒場の売上も大事な収益である。黙って、ジョッキにエールをなみなみとつぎ、セルバンに差し出した。
「うちは前金だよ」
「ああそうだったな」とセルバンは受け取ったばかりの金を財布から出した。勤労が貴ばれる国ではあるが、セルバンにもそれなりの理屈はある。一仕事した後、自分の金をどう使おうが勝手である。セルバンは一気にエールを飲み干すとジョッキを差し出し、宿屋の亭主にお代わりを頼んだ。それにしてもやけにのどが渇く。セルバンが、今朝、自分の身に起きた出来事を話し始めたのは三杯目のエールのジョッキを手にした時である。やはり、顔なじみの荷馬車の御者がそちらもエールのジョッキを片手に話しかけてきた。
「セルバンじゃねえか、久しぶりだな、景気はどうだい」
「おう、カーチャク、そっちこそ、どうだい」
「まあ、しけた話しかねえな」とそれは同業者である以上、うまい話をうっかり洩らしたら、仕事を横取りされかねない。カーチャクは用心深かった。セルバンは、三杯目のエールに口を付けながら、
「しかし、今朝は、えらい目にあった。街道に狼がいきなり飛び出してきてな、手綱を引いたら馬車が横倒しになってその下敷きになってしまって」
「そりゃ、大変じゃねえか、それでどうしたんだ」
「ちょうど、騎兵隊が通りかかって助けてくれたんだ。ちょっと待てよ、あれは、どこの師団だ」とエールを流し込む。あの時は動転していたので思い出せない。四杯目のエールを頼んだ。結局、セルバンが話し終えたのは、六杯目のエールを飲み終わった時だった。カーチャクは、ケガが一瞬のうちに治ってしまったというセルバンの話を半信半疑で聞いていた。大方、大したケガではなかったのだろう。カーチャルの見たところ、セルバンは運がよかったのであろう。馬車から放りだされても、大したケガもなくこうして無事でいるのだから。第一、王都の近くに狼がいるなんて聞いたことがない。
「そんな、話を大げさにいうなよ。最初から、大したケガじゃなかったのさ」とカーチャクは、すっかり酔いの回ったセルバンの話を酒の上のほら話と決めつけた。セルバンは、いつもよりなんだか酔いが早いなと思いながら、すっきっぱらにエールはいけなかったと思ったとたん眠気が襲ってきた。セルバンは椅子から立ち上がろうとしてバタンと椅子ごと仰向けにひっくり返った。宿屋の亭主は動じなかった。酒場ではよくあることである。酔いつぶれたセルバンを宿屋の亭主は他の客に邪魔にならないように酒場の隅に引きずって運んだ。セルバンはいびきをかいてすっかり眠り込んでいた。それを横目でみながら、カーチャクは、エールで腹一杯にするのは考え物だと鳥のあぶり肉を注文した。宿屋の亭主は金と引き替えにあぶり肉を渡しながら「ところで、賭はどうする」とカーチャクに持ちかけた。
「海洋大会か、掛け率はどうなっている」と賭け事の好きなカーチャクは乗ってきた。他の客もその話題に乗ってきた。春の競馬や秋の馬上試合ほどではないが、賭け事の好きな連中は、海洋大会の優勝を巡って金を賭けていた。ちなみに、賭け事はアンドーラでは違法行為ではない。酒場の中はその話題で盛り上がり、セルバンの大げさな話は、皆、忘れ去られてしまうのである。どこにでも、自分の身におこった出来事を大騒ぎする手合いはいる。カーチャクがセルバンの話を思い出すのは、王立施療院が設立されてから、何ヶ月も経った頃だった。
さて、海洋大会の準備に追われているように見える海軍本営本部では、退役海軍士官の臨時招集をかけていた。臨時招集をかけたのは、前提督のリーバイト海軍大将である。リーバイト海将は、王太子から鹿狩りに海軍も参加して欲しいと要請を受け、退役した元部下たちを再び集めたのである。集まった元部下たちを前にリーバイト海将は、一席ぶった。
「ここは、陸の鼻をあかす時で御座るよ、いつまでも、陸に大きい顔をされているのも困るので御座る。ここは海の意地を王太子殿下にお見せしなければ」
「確かに、そうですな。弓術なら、多少自信がありますから」と不適な笑みを浮かべたパラボン海軍少将。
「問題は、騎射でしょうね」とこの会議で唯一の現役大佐のヘンダース王子。
「何、今から、特訓すれば間に合うで御座るよ。今年が無理なら来年ということも御座ろう」
「確かに、エドワーズは毎年開催したいといっておりましたから」と、ヘンダースはことの成り行きに少々驚いていた。エドワーズはエンバーから帰ってくると重騎甲冑から軽騎甲冑に着換え、海軍兵学校の視察をおこなった。それは、ヘンダースが勧めたからであるが、エドワーズは熱心に訓練生に声をかけ、航海術だけでなく武術の訓練についてあれこれ教官に尋ねたりした。その後、訓練鑑に乗り込みチェンバー湾を一周した。これは、大いに兵学校の士気を高めた。そして、この鹿狩りである。これが、リーバイト海将の戦好きを大いに刺激した。王太子にその計画をうち明けられたリーバイト海将は、陸軍に負けてならじと大張りきりである。現在の陸軍元帥など、リーバイト海将は、若造扱いである。あんな若造に率いられている陸軍に一泡吹かせようとまず退役した海軍士官に声をかけた。海軍士官でも、馬術は必須科目である。これは、現国王の方針でもあった。ヘンダースは亡くなった名付け親から、その話を聞いたことがあった。リーバイト海将自身も馬には目がなかった。海軍の馬車行列など、見たくもない。むしろ見たいのは海軍の騎馬行列だと国王にいわれてリーバイト前提督は、海軍士官たちに馬術も訓練を課した。その成果が発揮される時が来たのである。張り切るのは無理もない。たかが、鹿狩りであるが、王太子主催ともなれば、国家行事である。ヘンダースは退役しても意気軒昂な顔ぶれをやれやれと思いながら見回した。エドワーズはことの成り行きをわかっているのだろうかとヘンダースは、ふと思った。まあ、女を追い回すより鹿の方が無難だろうとヘンダースは結論づけた。
そして、リーバイト海将は、王太子の成長振りに目を細めていた。日頃、武術の訓練を怠らないこともあってか、その体は筋骨たくましい若者に育っていた。それだけではない、兵学校の視察では、頭脳明晰なところもかい間見られ、訓練生にも気さくに声をかけ、案内をかって出たリーバイト海将にも、体をいたわるようにとねぎらいの言葉をかけてくれた。有り難いものである。
実は、リーバイト海将は、陸軍元帥に「賭」を持ちかけようと考えていた。獲物の数を競い合うのである。鹿狩りに参加する人数は多分、陸軍の方が多いだろう。だが、こっちは少数精鋭でいけばよい。とにかく、陸の若造なんぞに負ける気は毛頭ない。目に見せてくれるとリーバイト海将は意気込んでいた。
ヘンダースは、リーバイト海将の気持ちがわからないでもなかった。名付け親の大叔父によって近代化された陸軍は、装備も人員も充実していた。それに比べ、海軍は、やっと育った士官や下士官が、商船に引き抜かれその人員補強に追われていた。その対応策として、給金を上げることを検討したが、大蔵省がなかなかうんといわない。経費削減を申し渡されているのは、海軍だけではなかったが……
第一王女付けの侍女、タチアナ・プルグース子爵令嬢は不満だった。その一つが海洋大会での自分の席が、ナーシャよりも下なことだった。ナーシャは侯爵家の出身とはいえ、侯爵自身の娘ではない。席次からいえば自分の方が上である。こう主張して、セシーネをうんざりさせた。
「そんなに文句を言うのなら、連れて行かないわ。替わりにメリメを連れて行きますからね」
「そんなことはなさらないでしょう」
「するかもしれない、わがままを言わないでちょうだい。第一、ナーシャには色々教わったのでしょう。席を譲るぐらい何でもないでしょう」
タチアナは不承不承にうなずいた。
王宮での生活は、タチアナの思い描いた生活と違っていた。毎日、きれいなドレスを着て面白おかしく過ごすものだとばかり思っていた。ところが、第一王女は、変わっていた。まるで、男の子みたいなところがあった。剣術はするは、馬術はするは、おまけに、なにやら薄気味悪い医学書を読んだりする。国王だって変わっている。すり切れた服を着て、農夫のまねごとをするのだ。自分の父親は、そんなことをしたことがなかった。女官長のメレディス王女も口うるさかった。タチアナは化粧が濃いと叱られた。
「なんだか、下品よ、タチアナ。もう少し上品な化粧にしなさい」
女官長のいう上品な化粧というのがタチアナには今一つわからなかった。ただ、予想通りだったのは、王太子だけだった。王太子はタチアナの思っていた以上にハンサムだった。背も高く、軽騎甲冑姿はりりしかった。だが、なかなか、話す機会が訪れなかった。側近に取り囲まれた王太子と廊下ですれ違うたびにタチアナの胸はときめいた。だが、王太子は自分に目もくれない。なにやら急ぎ足で立ち去っていく。
「何を急いでいるのでしょう」とついタチアナはいってしまった。
「誰が」
「あの、王太子殿下ですけど」
「色々、あるんでしょう」と第一王女は肩をすくめ、こちらもスタスタと歩き始めた。
セシーネは、王太子が忙しくしているのは、自分から言い出した鹿狩りのためだと知っていた。無論それだけではない。王位を継ぐために色々学ばなくてはいけないこともたくさんあった。セシーネ自身も医学ばかり学んだわけではない。文字の読み書きから始まって、算術や歴史・地理なども学ばされていた。学問は武術と同様、王家では奨励されていた。
それにしても、今日の工部尚書の話は面白かった。工部尚書は、なかなか博識だった。《治療の技》についても独自の見解を述べた。それについては、セシーネは答えようがなかった。それに従来のアンドーラの医学でも解明出来ていないこともたくさんあった。それでも、工部尚書によるとメレディス女王の代に王立大学が設立され、各種の学問は学術的にかなり進歩したらしい。セシーネはふと、大学の医学部はどうなのだろうかと思った。覗いてみるのも悪くない。その機会を作るべきかセシーネは迷った。王太后が生きていたらなんというだろうか。そして、キルマは?明日も、セシーネはフィードに乗って救貧院に行くつもりだった。誰がなんといおうと国王が許可したのだから。
近衛師団第一連隊第二大隊第四中隊第一騎兵隊隊長のビラン中尉は、第二騎兵隊隊長と勤務を交代すると直属の上官である第四中隊隊長に報告をしていた。「第一王女殿下は、救貧院へは、明日からも馬車でなく、騎馬でお出かけするおつもりだそうであります。後は、異常ありません、以上報告終わります」
「いってよし」と中隊長
ビランは敬礼をすると、武官らしくきびきびと回れ右をし、屯所と呼ばれる上官たちの部屋を出た。ビランは今朝の出来事を中隊長に報告するつもりはなかった。部下たちにも口止めしてある。中隊長は、定年まで何とか佐官に昇進出来ればと考えているような、いわゆる王宮育ちのビランから見れば小心者である。あの出来事を話せば、動揺するだろう。それに《治療の技》をかけたのは姫じゃなかったしなとビランは思った。下手に話せば騒ぎ立てて、ケンナス先生も迷惑だろう。ビランは、ケンナスが好きだった。王宮にやってきた時、アンダーラ王国の男子には兵役義務があるのを聞くと、すすんで軍服を着た。ケンナスにはそういう律儀なところがある。それにしても、第一王女が馬車でなく騎馬で移動をするなら、警備の方法も違ってくるだろうに、何もいわない上官にビランは、少々呆れていた。俺だったら、馬車の方が安全だと一応はお諫めするだろう、多分、姫は聞かないだろうし、ちゃっかり、殿の許可をもらってしまったしな。やれやれだ。
ビランは、勤務時間でなかったので、王太子のところへ顔を出すことにした。この時間は図書室だろう。勝手しったる王宮である、案の定図書室の前に、王太子の護衛である第二中隊の当番兵が立っていた。敬礼をし、自分の名を名乗る。当番兵は元上官のビランの顔を知っていてその必要はないのだが、これは手続きである。入室の許可が出た。図書室の中に入り、敬礼をする。ビランは図書室の顔ぶれを見て少し驚いた。リーバイト前提督を始め海軍のお歴々が揃っていた。それも、海軍甲冑と呼ばれる完全武装である。真正面にいるエドワーズが
「ビラン中尉、用は何だ。セシーネのお守りに飽きたのか」
「いえ、そうではありません、今は非番ですので」
「それで、遊びに来たのか」
「いえ、鹿狩りのご計画について伺って、たしか、場所は第七軍区ですよね、あそこは近衛に配属される前の勤務地でして」
「そうか、ならば、ちょっと座れ」
「あの、よろしいのですか、後にいたしましょうか」
「いいから、掛けろ、ビラン」
そんなわけで、ビラン中尉は鹿狩りの作戦計画に参加することになった。ビランは上官の中隊長が聞いたら悔しがるだろうと思った。しかし、まさか、海軍まで乗り出して来るとは、うわさに聞いていたが、うわさは本当だった。壮大な鹿狩りになるだろうとビランは思った。
さて、第一騎兵隊長のビラン中尉の報告は第四中隊長から第二大隊長へそして第一連隊長から、近衛師団長に伝わった。報告を聞いて近衛師団長・サッカバン・バンデーグ准将は少し苦笑いをした。副官に「もう一度、第六師団に、救貧院までの街道の巡回をこまめに頼むと伝令を走らせろ」と指示を出した。王家の人々の身辺警護が役目の第一連隊長は「すでに出してありますが」
「そうか、ただ、念には念を入れろだ」
ハッと敬礼をして副官と第一連隊長は師団長室から出た。部屋を出ればそこには副官の席と連隊長たちの席がある。副官は伝令を呼び、指示をする。伝令役の当番兵が敬礼をし、部屋を出ていくと、副官は隣の席の第一連隊長に話しかけた「君、今日、海軍のリーバイト前提督がお見えになったろう、それも、物々しいいでたちでさ」
「さあ、伺っておりませんが」
「なんでも、例の鹿狩りに海軍も参加するらしい」
「海軍もですか」
「海軍が、鹿狩りなんてやってどうするんだろう」
「さあ」と第一連隊長は、上官ではあるが、同じ大佐の副官に首を傾げた。アンドーラの陸海両軍の将官制度では、同じ階級でも、その昇進が一日でも早ければ、席次はそちらの方が上である。だが、たまに大佐となると先に連隊長から副官に上がるものもいた。だが、近衛師団の副官は第一連隊長より大佐歴が長い。第一連隊長は、海軍の鹿狩り参加よりも鹿狩りの下見にいきたいという王太子の警備計画に着手した。第五大隊長から、ランセル王子も同行するという報告を受けている。やれやれと思いながら、第一連隊長は、近衛師団付けの参謀を呼びだした。彼にとって、王家の人々が行動範囲を変えるのは、それなりに気の張ることであった。
さて、午前中に、国王への報告すませて、本営本部に戻ったガナッシュ・ラシュール陸軍元帥閣下である。リーバイト前提督に若造扱いされていたが、それも、そうであろう。年齢からいうと同じ将官でも若い方である。年上の部下には慣れていたが、以前味わった居心地の悪さを感じていた。それは、甥が大蔵卿と呼ばれる地位に就いたためもある。兄であるミゲル・ラシュール伯爵は、その知らせを受けて、辞退すべきだと諭したが、甥は耳を貸さなかった。なぜ、そんな遠慮をする必要があるのかと逆に父親をにらみ返した。気の強いのはいいがとガナッシュは思うのである、今の自分があるのは、兄のおかげでもある。それを甥は、批判的なことを口にする。ガナッシュは自分の進退を親友でもある国務卿に相談した。
「ガナッシュがやめることないだろう。しょうがないじゃないか、陛下がえらく気に入られ、それが偶然、君の甥だというわけさ。気にすることない」
「しかし、あれのどこがお気に召したのだろう」
「さあ、なんだか熱心に計画性について申し上げたらしい」
「あれのどこが計画性があるというのだ。武官になりたいといって軍学校に入り、大した成績も残せず、楽なことばかり考えて、堪え性がないんだあいつは」
「まぁ、しばらく様子を見よう、ブルックナー伯がついているから、大丈夫さ。それより、今度の工部尚書の方が問題児さ、大学荒らしというか、あちこち手を出して収拾がつかなくなっているらしいよ、パルックスに聞いてみろよ」
「やたら、法律論をぶつのか」
「そうじゃない、その、逆さ、法科で入って、関数学で卒業という変わり種だ」
「関数学か」
「その後、今度は博物学の学位をとった。兵役も陸で一年、海で一年だそうだ」
ガナッシュは、大蔵卿と工部尚書というこの二つの重要人事に関して、解せなかった。それで、軍学校時代に「文句屋」とあだ名された彼は国王にずけずけと尋ねた。国王はただ笑って「すこし、年寄りの顔を見飽きたのでな。ただ、こうも思ったりする、臣下を育てるのも自分の役目ではないかと、まぁ。気長にやるさ。」
ある意味で、自分を育てくれたのも年下の国王であることに気づいたガナッシュは、沈黙せざるえなかった。国務卿のイーサン・カンバール子爵が指摘した通り、新工部尚書のニドルフ・レンドル子爵は、閣僚会議で問題児振りを発揮した。
「なんでも、法律で取り締まればいいというものでもないでしょう。取り締まっても、抜け道を探しますからね、人はずるをするのが、ある意味で本質ですよ」
「君ね、だからこそ、法が必要となってくるのだろう」と生真面目な法務卿は鼻白んだ。閣議の議題は、税法に関するものだった。ガナッシュ元帥は、参謀長時代から出席したこともあって、慣れていた。しかし、顔ぶれは随分変わった。陛下のおっしゃる通りに臣下である閣僚を育てるのも、アンドーラの将来のためであろう。しかし、ガナッシュ元帥は、若い工部尚書が気に入った。確かに、自分はずるをしてここまで登ってきた。そこで、工部尚書の加勢に出た。
「しかし、違法行為だといっても、それを摘発するのに返って費用がかさむのじゃどうしようもないじゃないか。経費節減を説く大蔵省が、それではなあ」
「これは、大蔵省の問題です。陸軍の管轄ではありません」と新大蔵卿
「しかし、結局は増税だろう。税が重いといって暴動でもなったら、それを修めるのは、軍の役目だからね。違うか、大蔵卿」
そこへ、ハッタン海軍提督が大蔵卿の加勢に出た「増税とは、限らない、減税となるかもしれん」
ガナッシュ元帥は「それだったら、なおさら、いかがなものか」
「税の適性という面から、やはり調査は必要だろう。牧草地が畑になっている場合もあるし、その逆もあり得る。」と国務卿。
その後、色々論議がでたが、その日の閣議は、大蔵卿の提案を御前会議へ「上げる」ことで終了した。そして、その日、本営本部から、自宅に戻ったガナッシュに新大蔵卿は食ってかかった「叔父上、わたしの足を引っ張るような真似はやめて下さい」
ガナッシュは閣議のことだとピンときたが「何のための閣議なんだ。お互い意見を出し合うためだろう。立場が違えば意見も違ってくる。それより、ここを出ていってくれないか。大蔵卿と同じ家というのは、ちょっとやりにくいのでね」
「それは、どういう意味です」
「ダース、ここは、わたしの家だ。誰を住ませるかは、わたしの勝手だ、ともかく、早急に、ここを引き払ってくれ」
ダースこと新大蔵卿は、不満げだった。ガナッシュの王都の住まいは、参謀長時代に借金をして購入したものだった。役目上、必要があるので、多少の無理をした。つまり、この家の家主はガナッシュだった。そこへ甥のヘンダース・ラシュールが居宿していた。大蔵卿なら、家一軒ぐらい王都に構えてもいいのではないかとガナッシュは思っていた。結局、大蔵卿は、ブルックナー伯の屋敷に移っていった。甥を追い出した格好のガナッシュは、何となく後味の悪さを味わっていた。
元帥付の従卒が、昼食を運んできた。本営本部には食堂があるのだが、他の部下たちが気詰まりだろうとガナッシュは本営室と呼ばれる自分の部屋で、昼食をとるのが習慣になっていた。ガナッシュは、遅い昼食に取りかかった。そこに秘書官が第三王子でもあるランセル少佐の面会の許可を求めにきた。
「かまわん。お通ししなさい」
ランセル少佐が「ランセル少佐、入ります」と大きな声でいってから、本営室に入室し、入り口のところで直立不動で敬礼をする。元帥も椅子から立ち上がり、返礼をする。もう一度椅子に腰掛けながら、秘書官に「君、少佐に椅子をお持ちして、後、君も食事して来たまえ」と命じた。
机の上の食事を目にしたランセル少佐は「あの、後にいたしましょうか」
「何、かまいません。少佐は、食事は」
「自分はすませました」
元帥はパンを持った手で椅子を指し示すと「じゃあ、少佐もそこに掛けたまえ」
これは、異例なことであった。本営本部では、上官に用件を伝えるのは、立ったままつまり直立不動の姿を保つのが規則であった。ランセル少佐は躊躇した。元帥はもう一度椅子に腰掛けるよう促した。ランセル少佐は戸惑った顔をしながら椅子に腰掛けた。パンを飲み込むと元帥は「それで、用件は」
「あのう、局長が元帥閣下のご許可が必要だとおっしゃるので」
元帥は何の許可か推測できたが、ここはとぼけた「何のどの許可ですか、殿下」
「殿下はやめて下さい、少なくともこの制服を着ている時は」
「殿下と呼ばれることには、うんざりですか」と元帥は鋭い視線をランセル王子に向けた。ランセル王子はうなずき「ええ、まあ、」
「でも、それが、あなたのお立場でしょう。違いますか、少佐」とランセルから見れば冷淡に思えるような元帥の口調である。
「確かに、でもこの少佐という位だって、なくなった母上が陛下にご無心したことだとわかっています」と同じ武官としてガナッシュ元帥を尊敬していたランセル大佐は自嘲気味にいった。
「それが、わかってらっしゃるならそれで、結構」
ランセルは少したじろいだ。それで、これから言い出すことをためらった。ガナッシュ元帥は無情にランセル王子の希望をうち砕いた「鹿狩りの下見の許可はできません」
ランセル王子は、落胆の色を隠せなかった。
「でも、視察はして頂きたい」
「視察?」
「王太子殿下が海軍の視察をなさったことは伺っております。今度は、陸軍の視察をお願いしようかと、無論、ランセル大佐も、調達局の一員として各師団の物資の過不足の調査をして頂きます」ここで、元帥はかすかに微笑んだ「鹿狩りの下見よりも、駐屯地の視察の方が、聞こえがいいでしょう」
ランセルの顔が輝いた。お若いなと元帥は思った「ただし、ご視察には小官も同行します」
ことの成り行きにランセルは戸惑っていた。エドワーズと計画していたのは、小規模な旅行である。ランセルは、母方の祖父の領地であったエンバーに一度、いったことがあるくらいで王都からほとんど出たことがなかった。軍学校を卒業後も近衛師団に配属され、自分の護衛を自分が指揮をするというなんだか、妙な立場にいた。ランセルは地方の駐屯地に配属を願ったが、それはかなわなかった。王太后が反対したのである。何でも、口を挟む母親だった。軍学校では一回生は、親族との面会は禁止されていた。それを王太后は侍女たちを引き連れやってきた。入学当時、王子という身分を隠していたランセルは、王太后が面会に来たことでそれが同期生にばれ、仲間はずれにされてしまった。一回生には班ごとに色々当番があるが、ランセルは、何かというと同級生たちに「殿下は、こんなことなさないでもいいですよ」といわれ、疎外感を味わっていた。ランセルは少なくとも軍の中では王子という身分に甘えたくはなかった。しかし、やはり、甘えているのだろうか?
「ところで」と元帥は話題を変えた。これから話すことは国王の命ではない。陸軍元帥として閣僚に席を置いている身として当然気がつくべきことだった。ランセルが、少し身構えた。かまわず、元帥は言葉を続けた「これは、元帥として、つまり、上官としての命令ではなく、殿下に対する助言と思って頂きたい」
ランセルが緊張するのが、元帥にはわかったが「気を楽にお聞き頂きたい。殿下は、御前会議にはお幾つから出席なされましたか」とすでに知っていることを尋ねた。
「十八からですけど」
元帥は軽くうなずき「法律書ぐらい目を通されたことはありますか」
「多少は」とランセルは元帥の質問の真意を測りかねていた。
「兄上のヘンダース殿下が、法学の学位をお持ちなのはご存じですか」
「知っています。それが何か」
「わたしとしては、殿下にもそれをおすすめしたい。何、退官して大学へ行けと申しているのではありません。無論、そうなされたかったら、そうしてもよろしいが、わたしとしては、勤務の傍ら、学位をとるお勉強をなさった方がいいと思いますね」
「あのう、それは」
「どのみち、佐官研修でも多少は、学ばれたと思いますが、法律の知識も武官でも必要です。小官としても法学の学位を持っている少佐が居れば、多少は閣議で、面目が立ちますから。それに」
「それに?」
「鹿狩りも結構ですが、そういったお勉強も殿下には必要だと思いますね、陸軍少佐は他にもおりますが、王子殿下は陸軍にはお一人しかおられない。学位をとれば、兄上のヘンダース殿下にも、太刀打ち出来ると思いますよ。どうですか。学科はお好きでないのですか」
「学位ですか」とランセルは少し気が重たかった。武術は好きだったが、学問となると今一つやる気がでなかった。元帥は畳みかけた「少し、お考えなってみて下さい。今も申し上げたように、学位をとれば、いつまでもヘンダース殿下に、兄貴風をふかされないですむと思いますよ」と元帥は国王の末弟の顔色を伺った。ランセルはニヤニヤし始めた。どうやら、この提案に乗ってきたようだった。
「もし、そのおつもりになられたなら、パルックス・スタバインをご紹介します」
「どなたですか」
「わたしの家内の二番目の兄です。何で、あいつがと思いますが、一応、王立大学の法科の学部長です。副学長も兼任しております」
ランセルは、陸軍元帥の意外な人脈に驚いていた。大蔵卿は甥っ子だったしなとランセルは思った。
「ともかく、この件は少しご検討下さい。ヘンダース殿下にご相談されるのもされないのも、ご随意にどうぞ」
「相談なんかしませんよ」とランセルはこの助言がもたらす効果を計算していた。兄貴の鼻をあかす機会を見逃すほどお人好しではない。
「そうですか。あと、申し訳ないが、王太子殿下には、下見ではなくて駐屯地の視察をお願いしたいと小官が申しておったとお伝え願いますか。殿下を伝令役に使って申し訳ないが…」と、元帥はまだニヤついているランセルに会談が終了したことを伝えた「ランセル少佐は退出してよろしい」
ランセルはあわてて椅子から立ち上がり敬礼をしながら「ランセル少佐、戻ります」といった。元帥は、今度は椅子から立ち上がらず椅子に腰掛けたまま返礼をした。
ランセル少佐が退室すると元帥は中断していた昼食に戻った。かつて、亡くなった前職者のヘンダース陸軍元帥に「ちっぽけな策謀家」と評された現陸軍元帥は、昼食を食べながら頭の中でちょっとした策謀を巡らした。しかし、これも、軍略の一つであると彼は断定した。自分の甥の名付け親も存命ならば、同意するであろう。「でかした。ガナッシュ」と誉めてくれるであろうと、少しだけ前職者を忍んだ。だが、いつまでも、その死を悼んでも仕方がない。昼食をすますと、戻ってきた秘書官に副将を呼んでくるように命じた。
それにしてもと、副将を待ちながら、伯爵の弟であるガナッシュは思った、王子という身分は端で見るほど楽ではないと。ましてや国王という王冠はいかに重たいものか、察してあまりある。それに付け加え、王太子と第一王女には、説明のつかない不思議な《力》が備わっていた。ガナッシュには、魔法や魔術がどんなものか解りもしなかったし、解ろうとも思わなかった。自分は門外漢と割り切っていた。ブルックナー伯が王立施療院設立のため奮走しているのは知っている。問題は教会がどう出るかであろうとガナッシュは思った。宗教が絡むと厄介だなと陸軍元帥は、何となくいやな予感がした。幸いにしてアンドーラでは教会には軍事力がない。しかし、隣国のサエグリアでは、教会の騎士たちがサエグリアの国王を悩ましていると聞いている。それだけではない。貴族たちも、互いに争っていた。内乱とまでいかないが、うわさでは、馬上試合で、互いの領地を取り合っているとか、それでも、戦争になるよりもましだろう。戦争は国力を疲弊さす。戦争が職業の陸軍元帥は、それを十分わかっていた。アンドーラの繁栄が、平和の上に成り立っているのを創造主に感謝していた。
副将がやってきた。「メングラン中将、入ります」
ガナッシュ陸軍元帥は立ち上がり、メングラン中将の敬礼に返礼をした。
「君も掛けたまえ」と元帥はまた、椅子に腰掛けながら、秘書官がまだ片づけていなかった机の向こうにある椅子を指し示した。はあといって、メングラン中将は椅子に腰掛けた。メングラン陸軍中将は、ガナッシュ陸軍元帥より、年長であった。軍学校と呼ばれる王立陸軍士官学校の卒業生でもない。ある意味で、年功と家柄によって今の地位に上がったといってよい。自分もある程度、家柄による「引き」があったと自覚しているガナッシュは、それをとがめようとは思わなかった。だが、軍略において、ヘンダース元帥なき今、自分より秀でているものは、そう多くはないだろうとガナッシュは自負していた。軍略において、大切なのは「情報」である。ガナッシュは、その情報収集に当たるようメングラン中将に指示を出した。メングラン中将は、怪訝そうだった。
「ともかく、各師団に伝令を走らせろ。指示は、口頭でよい。報告は、一ヶ月以内にな、いってよし」といって陸軍元帥は立ち上がった。副将も立ち上がり「メングラン中将、戻ります」といって敬礼をした。元帥も返礼をする。メングラン中将が退出すると、話を聞いていた秘書官が「閣下、どういうことでありますか」と尋ねた。元帥は秘書官から見れば謎めいた顔をして「君、軍略の基礎は何だろうと思う」と逆に質問した。
「さあ、偵察でしょうか」と軍学校の成績が今一つで、戦略組ではなかった秘書官は自信なさそうに答えた。
「それだけ、わかれば十分だ。それよりその椅子を元に戻しなさい」
「はあ」といって秘書官は元帥の命令に従いながらも、元帥が自分の疑問に答えてはくれないのが、少し不満だった。
「君、いいか、秘書官というのは、口が軽いのはダメだ。ここで、見聞きしたことをべらべらしゃべるのは、秘書官、失格だな」といって、元帥は机の上の書類を手にした。なんだかわからないが、このことは、誰にも聞いたりできないのかと思いながら、秘書官も自分の席に戻った。元帥が何を考えているのか彼にはさっぱり検討がつかなかった。
ガナッシュ元帥は書類仕事に取りかかりながら、亡くなったヘンダース元帥の「謀は密なるを尊ぶべし」という言葉を思い出していた。何人の師団長が、彼の「計画」に気がつくだろうか。そして、海軍提督の反応は?いや、その前に陛下がなんと仰せられるか。この程度なら、陛下はお許し下さるであろうと、そして、この計画を午前中、国王にお目通りをした際に思いつかなかった、自分の迂闊さにガナッシュは自分もまだまだだと思ったが、いや、その前に戦力を確認することが肝要だと思い直した。
陸軍本営本部から、各師団に伝令が向かったのは、その日の、午後の半ばだった。季節は初夏である。日が日々長くなっていた。伝令たちはそれぞれ、日が沈むまで、どこまで行けるだろうと計算しながら、馬を並足から徐々に速度を上げていった。それにしても、メングラン中将の指示は訳がわからなかった。だだ、上官の命令は絶対である。理由など聞こうものなら、拳が飛んでくる。ともかく、各師団へどれだけ早く到達できるかが、伝令として、優秀かどうかである。伝令たちは、王都の道で馬を急がせた。