治療師の修業
ヘンダース第二王子の息子リンゲートはやんちゃ盛り。王宮恒例のかくれんぼでリンゲートは大胆な作戦に出る。
一方、セシーネは施療院の準備は元大蔵卿のブルックアー伯の協力を得たが、救貧院の院長キルマは相変わらず渋い顔だった。そして、治療師の勉強に没頭したいセシーネは従医長のベンダーと《治療の技》の師ケンナスに子供扱いされる事にうんざりしていた。
朝食の席で国王から提案された「計画」に一番顔を輝かしたのは、足首の湿布のとれたリンゲート王子だった。彼はその計画が持ち出されるのを心待ちにしていた。伯父の国王はリンゲートにとって話のわかる伯父だった。リンゲートは陸軍軍学校への入学を希望していた。一方の叔父の第三王子ランセルにいわすと「戦」の経験もない海軍はただの船乗りの集まりだった。やることといえば港に入ってくる船を行儀よくするぐらいだと。その点、陸軍は「戦」経験も豊富で国内では「無敵」だった。特に「重騎兵」は花形だった。父のヘンダース王子は海軍に籍を置いていた。漠然と父が自分の海軍兵学校への入学を希望しているのではないかと思っていたリンゲートは思いきって伯父の国王に自分は軍学校に行きたいといってみた。その時は、まだ早いといわれたが、特にダメだとはいわれなかった。
リンゲートが何故「陸」を希望するかというと最近とみに厳しくなった父の目を逃れたいという気持ちもあったが、何となく陸軍の方が強そうだという気持ちがある。
アンドーラでは「武術」の振興のために幾つか行事がある。夏に催される海軍兵学校の訓練生が参加するそれは、チェンバー川で「挺」の櫓を漕ぎ、速さを競うものや立てた柱をよじ登る速さを競うものだった。それはそれなりに見ていて楽しかったが、リンゲートは今一つ「勇ましくない」と感じていた。やはりランセル叔父のいった通りかもしれないとリンゲートは思っていた。
とにかく話のわかる伯父である。ケガについても叱責した父に比べ、叱ることもなく優しく言葉をかけてくれおまけに自分が待ち望んだ「計画」を実行してくれるとは。
「今度の休みあたりどうかな。今度は大がかりにやろう、リディアの初めてのかくれんぼだからな。みんなの都合は?」
「僕はちょっと予定があります」とこれは王太子。
「わたしもちょっと調べものがあるから遠慮するわ」とこっちは第一王女。
「わたしはやりたい」と第二王女。満を持してリンゲートはいった
「陛下、僕もやりたいです。すごくいい隠れる場所があるんだ。ねえ、五時まで隠れてもいいかな」
「ほう、五時までか」と話のわかる伯父の国王
「ものを壊したりするな」と厳しい父のヘンダース王子は壊す前に説教しようとした。
「そんなことしない」と自信満々のリンゲート。そこへランセル王子も参加を申し出た。
「リンゲート、自信がありそうじゃないか。よし。俺は捜す方を引き受ける」
リンゲートのケガの容体を確かめると国王は「計画」の決行を決めた。
その後のリンゲート王子は忙しかった。リンゲートには「勉強仲間」がいた。王子の「教育」のためいろんなお相手をする少年たちだった。十人ほどいたが、リンゲートより年長の彼らはそれぞれ軍学校や兵学校へ進学を家のものたちから申し渡されていた。彼らにリンゲートは「計画」をうち明けた。ともかく国王が「大がかり」というからには王宮中どこへ隠れてもいいはずだった。これはちゃんと「確認」してある。リンゲートは、少年たちにものを壊すにはダメだと念を押した。それぞれ「作戦」を練るようにと申し渡し、自分付けの護衛兼教育係の近衛隊長に相談するようにいった。少年たちを「行儀よく」させるのも隊長の彼の仕事だった。リンゲートには密かに立てた「作戦」があった。後は協力者を捜すだけだ。まだ決行まで時間はある。「仲間」の少年たちも活気を帯びた。
国王主催の「かくれんぼ」に不参加を表明した王太子であるが、別に大人ぶって不参加を決めたわけではない。彼には大事な予定があった。多忙な陸軍元帥が自分のために時間を割いてくれる。軍政について学ぶことは王太子として大事なことだった。
エドワーズには「かくれんぼ」に悲しい思い出がある。死んだ母の姿を捜し父と二人で王宮中を歩き回った。その時初めて母がもうどこにもいないのだと悟った。泣きじゃくりながら父に抱きついた。父は彼を強く抱きしめながら優しくいった。
「かあさまは創造主の元へ帰った。もうここにはいないんだ。さびしいけど、我慢で出来るね。お兄さまなんだから、いいね」
幼いエドワーズは涙をぬぐいながらうなずいた。母の死を悲しんだエドワーズに比べセシーネはそうでもなかった。その時、父は、セシーネは小さくてそういうことがわからないのだといった。幼くて人の死が理解出来ないことを今はそうかもしれないとエドワーズは、理解はしていた。それはまだ祖母の死をわからないリディアを見ればわかる。王太后の死を妹のエレーヌは幾らかわかったようだった。王太后の死はそれなりに悲しかったが、母の比ではない。父の再婚相手のヘンリッタについてエドワーズは悪い人ではないとは思っていたが、複雑だった。色々口やかましかった祖母に比べ、ヘンリッタは王太子のあれこれに格段口を挟むことはなかった。それはエドワーズには有り難かった。
ニドルフ・レンドル子爵は複雑な思いで第一王女を出迎えた。王女は馬車を降りると涼やかな声で救貧院院長のキルマ・パラボン侯爵夫人に「おはようございます」と声をかけた。黄金色に輝く髪は一つの束に編み込まれ、謁見の時とはうって変わり質素な身なりだった。その青く澄んだ瞳がニドルフを捉えるとおはようございますと彼に声をかけた。軽く会釈をしながらニドルフも「おはようございます」と挨拶を返した。
第一王女は王位継承者という高い地位にありながら、福音教会から「魔女」と弾劾されるかもしれない存在なのだ。この少女のどこが汚れているというのか。女性が汚れていている存在ならそこから生まれた男たちはどうなのだとニドルフは思った。「魔法」に関して、ニドルフは、メレディス女王の見解を支持したいと思った。女王の即位に反対し、女王を「魔女」と弾劾した福音教会の狂信者や貴族たちは武器を持って宮殿に押しかけた。彼らを宮殿で迎えた女王は逆に彼らをやりこめた。
「余が魔女というのなら証拠を見せよ。魔女は鏡に映らないというが、ほら映るであろう」
鏡には王冠を被った女王の姿がはっきりと映し出された。
「魔女は影を踏まれると動けないと聞くがほら動けるであろう」
女王は影を踏まれてもスタスタと歩き玉座に座り直した。
「今すぐ余にひざまずくなら許してやろう」
何人が慌ててひざまずいた。
「だが、許すのは命までじゃ。余が女だからといって侮るな。余はそなたたちの王である。余が本当に魔女なら今頃はそなたたちをひきがえるに変えていたかもしれぬ。「魔法」は人に害を与えるものだけを違法とする。余がいいと認めたらそれでよい」
宮殿に押しかけた狂信者たちは捉えられ、あるものは逃げ帰った。女王の父ヘンダース王は容赦なかった。軍を自ら率いて娘のメレディス女王の即位に反対した者たちを追いつめた。ヘンダース王の時代から「領地替え」が頻繁に行われたが、その動きが顕著になった。女王の即位に賛同したものはよりよい領地を与えられ、爵位を引き上げられる者もいた。反対したものたちの中には領地を削られたり、狭い領地に換えられたり、中には爵位を取り上げられ平民の身に落とされたものもいた。
この、女王を受け入れ難いものたちは、今度はヘンダース王の弟のフーサル王子を担ぎ出した。しかしこの動きは肝心のフーサルに跡継ぎがなかなか生まれず、女王自身が生んだ王太子が立太子礼をすると次第に収まった。今度はどうやら、男の王になりそうだと気がついたからである。
ニドルフは別に女王で何が悪いと思うが、それは後世になってメレディス女王が賢明な国王だったと知っているからなのかもしれない。アンドーラにとって幸いなのはヘンダース王以降暗愚な国王は出なかった。貴族にとっては王権の拡大と自分たちの特権の縮小の時代ではあったが、ある意味で国の統一性ということをもたらした。かつては土地に縛られていた元農奴の平民たちはもっと広い世界があるのを知った。アンドーラは活気のある国だった。
ニドルフは夕べ、ブルックナー伯から聞いた隣国のサエグリアの現状を思い浮かべた。相変わらず男爵たちは領地の取り合いをし、国王には王女しか生まれず後継者をめぐって争っていた。おまけに「農奴制」を敷いたままだった。二百年前かなとブルックナー伯はいった。確かにアンドーラの平民たちは元気がよすぎるがと、彼は笑った。同じ平民でも自由民出身の多い王都チェンバーは、自由闊達がその気風だった。
セシーネ王女はパラボン侯爵夫人となにやら薬について話し合っていた。元女官長は王女に対しても媚びることがなかった。ニドルフはたかが病気やけがの治療をする「王立施療院」の設立にも複雑な政治状況があることを知った。《治療の技》をブルックナー伯は治療法の一つだといっていたがニドルフは彼がそう自分に言いきかせているようにも思えた。
パラボン侯爵夫人はニドルフに救貧院の建物の図面を作成するに当たって「仕事部屋」を提供してくれた。どのみち空いていますからねと彼女はいった。彼女はやせ細って気むずかしげに見えたが、「仕事」に関しては有能なのだろう。彼女のいう通り救貧院は閑散としていた。活気があるのは《治療師》の見習だという子たちのいる部屋ぐらいだった。巻き尺で各所の寸法を測っているとその見習の少年の一人が話しかけてきた
「なにしているの?」
「見りゃわかるだろう、寸法を測っているんだよ」
「そりゃわかるけど何のために?」
「色々必要だからさ」
「フーン。ねえ、あんたさ、骨にも名前があるのって知っていた?筋肉って肉のほうにも難しい名前があるんだ」
ニドルフは少年の話に好奇心をそそられた。
「先生はそれを全部覚えろっていうんだけど、薬草の名前だって覚えなきゃならないしな」
どうやら《治療師》の修行も大変そうだなとニドルフは思った。少年は続けた。
「先生は大学ってところで学士って偉い位を持っているんだ。兵隊でいえば下士官ぐらいだっていうけど、もっと偉い先生が俺たちを教えに来てくれるはずなんだけど、王子殿下がけがをしたんで忙しくてこられないらしいんだ」
少年との会話は救貧院の修道女がきたところで終わった。少年はその修道女に慌てて姿勢をただした
「あの、皿洗いは終わりました」
「だったら、いつもの部屋に戻って綴りの練習をしなさい。この方々のお仕事の邪魔なしないの」
ニドルフはあの少年が「魔法」や「福音教会」をどう思っているだろうと考えた。それより少年は「偉い先生」が自分たちを指導してくれるという今の境遇に満足しているのだろう。少年の口振りは少し自慢げだった。
第一王女は先の大蔵卿ブルックナー伯からアンドーラの「医学」事情について説明を受けていた。
「何しろ、兵役がありますからな。大学の医学部のほうでは、学士位を先に取らせてから兵役につかせるように勧めるんですな。そうしますと医務官の元で医務官補、つまり助手ですな、それをしながら今度は博士号を目指すわけで。資格を取って開業するのは大概、領主に招かれてということになりますな。」
「すると、軍は大勢、医学学士はいるというわけですね」
「ええ、何しろ、給料が出ますからな。開業すれば診察料や治療費を請求出来ますが、資格がなければそれは出来ませんからな。他の博士の元におっても給料どころか逆に指導料をいわれたりするとかも聞いております。そんなわけで資格を取るまでは軍におるのが多いですな。医者が近所そこらにいるというわけではないんで、そこで、大概は病気になると薬草売りから薬草を買ってそれで治すものが多いようですな。医者に診て貰うものもおりますが、診察料はお安くない。こういったらなんですが、ベンダー博士の診察料はお高いですな。あと、駐屯地に近いものはそこに医務官がいるのを知っておりますからな。そこで診て貰う。わたしの領地でも医者はおるんですが、駐屯地に近いものはそっちへ行っているようですな」
セシーネはアンドーラが「軍」を中心に動いているのを改めて実感した。セシーネが生まれてから、戦乱らしい戦乱は起こっていない。それは、国軍がしっかりと国内を押さえているからだった。駐屯地に駐在している各師団は王家領に限らず貴族たちの領地を巡回し、国内の平安を支えている。農民たちは不安なく畑を耕し、商人たちは心配なく商売が出来た。王都チェンバーから出たことのないセシーネには地方の状況はわからないがそれなりに安定はしているらしい。
ブルックナー伯はこう主張した。きちんとした医療をアンドーラに行き渡らせるためには「王立施療院」は必要だと。自分の知る限りではアンドーラの医学は対処療法で、病気を根本から治す研究はされているようだが、まだこれという成果は上がっていない。むしろ、人が元来持っている「治す力」を促す《治療の技》がこの病気をその根元から治す治療になるのではないかと。
セシーネは《治療の技》がそれほど有効かどうかわからないというと、ブルックナー伯は笑って少なくとも切り傷は治せましょうといった。そう難しく考えない方がいいと、ただ、始めないと何も始まらないと。
ブルックナー伯は、《治療の技》について、これは道を切り開いていくことに似ていると思った。国王陛下はこの王女にどれだけの重荷を背負わしたのだろう。しかし、あのケンナスなら王女を助けてくれるだろう。そして、自分もまたこの王女を出来る限り助けたいと思った。
セシーネは、ブルックナー伯に救貧院と施療院の違いについて質問してみた。
「そこですな。救貧院は貧しいものたちの面倒を見る。中には病人もおるかものしれない。しかし、問題なのは、治療代を払えるくらいの金は持っていても医者がどこにいるかわからない連中には、いい目印になりましょう。そこに行けば診て貰えるという場所が必要ですな。あと、これは、私見ですが、どうやったら病気になりにくい体になるかそういった指導もしてみたらと思いますな。食べ物が偏って病気なるなんて馬鹿らしいですな。まぁ、徐々にやればよろしいでしょう。やはり、これはやってみないとわからないですな。後これをご覧下さい」
ブルックナー伯が取り出したのは救貧院の報告書だった。そこには何故救貧院にやってきたのかあるいはその後の処遇について数字で書き記されていた。大部分は王都にいけば仕事口があると聞いてやってきた者たちだった。セシーネは病人がいるから薬草をわけて欲しいといってわけてもらった薬草を売る抜け目のない者がいるとキルマが話していたのを思い出した。それを見抜いたキルマも抜け目なかったが。
先王の時代から大蔵卿を長く勤めたブルックナー伯は、国王から、常々「国税は王家が贅沢をするための金ではない」といっているのを聞かされていた。いうだけでなく国王は王室の費用をいかに削るか苦心をした。ただ、普段の費用は切りつめたが、行事にはお金をつぎ込んだ。その幾つかの行事は貴族だけでなく平民たちも大いに楽しんだ。陛下は人心を掴むのがうまいなとブルックナー伯は思っている。この施療院もうまく国民たちの心を掴むだろうか?
第四王子のリンゲートが楽しみに待っていた「休日」の前日、セシーネは、ニドルフ・レンドル子爵に救貧院の彼の「仕事部屋」に招かれた。レンドル子爵は宮殿の図面を見たことがあるかと尋ねた。
「ありますけど、それが何か?」
「じゃあ、あるんですね。工部省を捜したですけれど見あたらなくて」
「どうしてそんなことをわたしに尋ねるのですか?」
「いや、一度拝見したいと思って、工法に興味があるのですよ」
「工法?」
「建物の作り方ですよ。」
「わたしが見たのはせいぜい部屋の間取りというのかしら、どこにどんな部屋があるのかわかる程度ですけど」
「それだけでも結構です。何しろ工部尚書の話では、そういったものを拝見するには陛下のご許可いると伺ったものですから」
セシーネはふと思いついて明日なら拝見出来るかもしれませんといった。
「明日ですか?」
セシーネは「かくれんぼ」の計画をレンドル子爵にいってみた。子爵は怪訝そうだったが、セシーネはリンゲートがいい隠れ場所を見つけたといっていること、その場所を見つけるために多分叔父のランセルあたりが図面を見ながら予想を立てているかもしれないといった。
ニドルフ・レンドル子爵は大いに興味がわいた。ニドルフにとって国王は犯しがたい存在である。盲目的な忠誠心こそなかったが、「いい国王」の元でアンドーラは平和で豊かなだとニドルフは思っている。その国王は父親のように彼を諭した。学問も人の役に立たなければ意味がない、君は人の役に立つ人間になりたくはないか、この国をよい国にするのはどうすればいいか考えてみたことはあるかと。これはニドルフにとって耳の痛いことであった。ある意味で働かずとも暮らしていけるニドルフにとって生きるということは、自分の知識欲を満たすことでもあった。ニドルフはこの世界がどのように造られているか知りたかった。そんな彼を国王は「研究」の世界から引っ張り出した。
国王は彼に医学に興味があるかと尋ねた。ありますと彼は答えた。国王は医学書も読んでいるだけでは病人は治せないといった。そしてこう尋ねた、アンドーラは健全な国かと。ニドルフは答えに躊躇した。
アンドーラは論議の盛んな国である。ニドルフも大学時代は色んな論議をかわした。法科の学生たちは「政治論議」が好きだった。それは歴代の王の評価から始まり、中には王は必要か否かという過激な発言も飛び出した。レンドル子爵家は半ば「新貴族」である。貴族の出ではあるがメレディス女王の代に遷都に功があったとして新たに子爵位を授かった。亡くなった祖父は元の家の当主にあっちはあっち、こっちはこっちと、本家面したがるその当主の干渉をはねつけた。あっちに頭を下げんでいいのは陛下のおかげだとよく祖父は彼にいった。頭を下げるのは陛下だけでいいと。祖父の跡を継いだニドルフにとって、国王は謁見の間で玉座に座る遠い存在であった。自分が好きな学問を出来るのも子爵という有り難い身分である位はわかっていた。
だが、目の前の国王は、今度は、アンドーラはどんな国になればいい?と尋ねた。それも彼は答えられなかった。君は意見というものがないのか?アンドーラでは珍しいなと国王はいった。食べ物の好き嫌いだって立派な意見だという意見もあるがと笑った。ようやくニドルフは難しい問題ですとだけいった。国王は働けば暮らせる国になればいいと思っている。君にも働いて貰うよといった。厳しい国王の目がそこにあった。身近に見る国王は威厳そのものだった。人として格の違いを感じた。
その国王が「かくれんぼ」をするとは……
その「かくれんぼ」の当日、王都チェンバーは雲一つない快晴であった。前夜は風が吹き荒れたが、その風も止んだ。リンゲートは伯父の国王に幾つか確認をした。国王は機嫌良く
「新宮殿のほうはダメだ。王宮の中だけだ。本当に五時まで隠れているのか?」
「いい場所があるんです」と協力者を得たリンゲートはいった。この「作戦」の遂行には協力者が不可欠である。それに秘密を厳守出来るかが鍵ではあるがリンゲートは協力者を信頼していた。
たかが「かくれんぼ」であるが亡くなった第五王子のヘンダース元帥はこれも「軍事訓練」だと主張した。孫を引き連れよく「参戦」した。確かに王家の人々を警護する近衛兵たちにとって警護する相手を見失ってはその任務を果たせない。
朝食の後、国王は休日の日課である菜園に足を向けた。第一王女と第二王女が同行した。王宮の庭園では園丁たちが、前夜風が吹き散らした木の葉を掃き集めていた。第二王女のエレーヌに隠れなくていいのかと国王は尋ねた。エレーヌは、自分は捜す方にするのといった。国王はそうかとだけいって菜園の世話を始めた。
父と農作物について話しながら菜園の世話を終えたセシーネは自分の部屋に戻った。そこにはナーシャが待っていた。
「今日はお休みにしてもいいといったはずだけど」
「いえ、大した用もありませんし、それに邪魔だといわれまして」
「邪魔?」
「ええ、私たちのお部屋のほうは鍵をかけるといわれまして。それにこれを仕上げてしまいたいので、お邪魔でしようか?」とナーシャは刺繍を取り上げた。セシーネは構わないと許可をした。セシーネは自分の机に向かい「勉強」を始めた。セシーネが「かくれんぼ」に参加しなかったのは、それは子供じみていると思ったからではない。それは、父と妹たちや張り切っているリンゲートのお楽しみであってそれを邪魔する気はなかった。父との交流は朝夕食事を共にし、さっきの菜園での会話で十分だった。それより自分に課せられた責任を果たすためにセシーネは勉強をしたかった。医学の道は深くけわしい。
人が成長するきっかけは自分の未熟さを悟ってからであるまいか。セシーネは自分の未熟さを十分自覚していた。未熟さを補うためには自身を成長させなくてはならない。人は漫然と生きていても成長はしない。様々な経験から何かを学ばなくては、成長はあり得ない。
王太子のエドワーズも自身を成長させるために研鑽に励んでいた。相変わらず甲冑姿である。休日の今日は「武術訓練」は休み、軍略の勉強に取りかかっている。王太子の右隣の席の人物は甲冑姿ではなく軍服姿である。左の肩章には陸軍でただ一人許されている王家の紋章が金糸で刺繍されている。陸軍元帥の「階級章」である。彼は武勇だけの人ではなかった。むしろその機略に富んだ発想で今の地位を掴んだ。だが、頭脳だけでなく、体格もよかった。日々の鍛錬の賜物でその背筋はぴんとし、その目つきは鋭かった。武官らしく髪を刈り上げている。
「包囲戦で注意をしなくてはならないのは後ろですな」
王太子は後ろ?と聞き返した。そうですとガナッシュ・ラシュール陸軍元帥はうなずいた。
「後方から敵が襲ってきたら目も当てられません」
エドワーズはなるほどとうなずき、先を促した。この「勉強」は叔父のランセル王子の勧めに従ったものだが、エドワーズは叔父の助言を有り難いと思った。いささか苦言の多いその上のヘンダース叔父よりランセルは気さくだった。いささか言葉が乱暴なのはこの方が武官たちに「受け」がいいからだといった。「戦」になって、礼儀作法なんていってられるか?ともいった。ランセルは「戦」経験のない海軍に籍を置いているすぐ上の兄をからかってはこう言い返されていた。戦わずして勝つのが一番さ。だがやがて海軍も「戦」を経験することになる。
ランセル王子は首をひねった。リンゲートは昼食の時間になっても見つからなかった。今日の「主役」リディア王女は国王自身が王妃の衣装タンスから見つけだし、別の遊びに国王と興じていた。しかし、五時まで隠れると豪語したリンゲートどころかリンゲートのお相手に選ばれた少年たちも見つかっていない。ランセルは彼らをリンゲート班と名付けていた。王太子のエドワーズにもそんな少年たちがかつていた。彼らはすでに兵役を果たすために軍服に着替えアンドーラの各地に散らばっていった。ランセルも普段は陸軍本営本部に「出勤」し、「数」数えに専念していた。内心では参謀本部を希望していたが、階級上は上官である陸軍元帥は手厳しかった。
「よろしいかな、ランセル大佐。軍の基本は何だと思いますか?」
「やはり、戦略でしょう」と陸軍きっての「軍略家」に敬意を表してランセルはいった。
「違いますな、まず兵士を食べさせることですな、腹が減っていては、兵士はいうことを聞いてくれません」
ランセルはなるほど思った。
それにしてもリンゲート班はどこいったんだ?彼らも「かくれんぼ」に参加しているのはわかっている。これは本腰を入れて捜さなきゃならないなとランセルは思った。昼食もそこそこにランセルはまず、リンゲート付の近衛隊長を捜し始めた。彼ならリンゲートの所在を知っているはずだった。彼は近衛兵の控え室にいた。ランセルの問いに
「存じておりますが、申し上げる訳にはいきません。まさか上官の命令だとおっしゃるような野暮な真似はならんでしょう」隊長の階級は中尉だった。ランセル大尉は、リンゲート班は?と尋ねた。
「それも把握しております」と隊長はすました顔で答えた。
ランセルはこの近衛中尉から聞き出すのは諦めた。これは各個撃破だなと覚悟を決めた。自分付きの護衛を従え王宮の建物の上階から探し始めた。彼らは普段陸軍本営本部へランセルの送り迎え以外、暇だった。こき使っても文句はないはずだった。まず王宮の屋根に登らせた。これは以前エドワーズが使った手だった。
王宮には各所に近衛兵が配備されている。彼らは一時間毎に交代で決められた場所に立っている。彼らに尋ねても要領を得なかった。捜索しているうちに驚くべきことが判明した。リンゲート班は用意周到だった。昼食で釣ろうかと思ったが「食料」までを持参していた。見つかった一人はもう食べましたといった。他の少年たちの所在を尋ねたが知らないといった。少年たちは次々と見つかった。だが、リンゲートの姿はなかった。
ランセルは「かくれんぼ」に参加していないセシーネの部屋にも行ってみた。
「念のため部屋を捜させてもらうぜ、まったくあいつらときたら」
「叔父さま、あいつらって?」
「リンゲート班だよ。食料は持参するは何はで、ここからは天井裏には上がれないな」天井を見上げた後、今度はとセシーネの部屋の寝台の下を覗き込んだ。衣装ダンスも開けてみた。暖炉の中も覗き込む。
「一人は煙突に隠れていやがった。上から綱を使ってハンモックでぶる下がっていたんだ、邪魔したなセシーネ」
図書室にも捜索の手を伸ばした。大きなテーブルの下を覗き込みながらランセルはエドワーズにぼやいて見せた
「まったく、あいつらときたら、天井裏には潜り込むは煙突にはぶらさがるはで、とんでもない奴らだ」
「まぁ、いいじゃないですか、リンゲートはケガをして少し憂さをはらしかったでしょう」
当然、リンゲートは図書室にもいなかった。なぜだか、陸軍元帥とエドワーズ付きの退役大佐が顔を見合わせてクスクスと笑った。だが、くまなく捜したおかげでリンゲート班はリンゲート以外見つけだされた。しかしリンゲート第四王子はどこに?
結局、王妃の居間でお茶を飲もうということになり、ちょっとした「作戦会議」となった。休日の午後にはよく貴族たちが王宮に「ご機嫌伺い」にやってくる。今日もニドルフ・レンドル子爵がやってきていた。王太子も陸軍元帥と近衛師団長を伴って居間にやってきた。
「厩や馬車の中は見ましたか?」とエドワーズ。ランセルは自分の近衛隊長に合図した。彼は敬礼すると早速探しに行った。リンゲートの母のアンジェラ妃がさすがに心配しだした。夫のヘンダース王子は
「ハロルドは今日休みじゃなかったか?」と息子付きの侍従のことを尋ねた。アンジェラがええというとランセルは
「王宮の外に隠れているなんて反則負けだ、新宮殿も同様だ、そっちは封鎖してあるからな。どこに隠れたんだろう」
お茶を受け取った陸軍元帥が箱や空き樽の中は?と尋ねた。
「積み重ねた樽の間に隠れているやつは見つけた。つまり、誰かがその上に積み重ねて隠した訳だ」とランセルはいまいましげにリンゲートの護衛隊長を睨み付けた。彼は知らん顔していた。それが余計ランセルを苛出せた。
「なんか悔しいな。俺が小さい頃はこんな大がかりなかくれんぼなんてやらせて貰えなかった。あっちの部屋は入るな。この部屋は覗くなで、そういわれると余計覗きたくなるものだろう」
ランセルは父親と遊んで貰った記憶は、ほとんどない。譲位をしてから多少、自分の将来について話し合ったことがあるくらいだった。冷たい父親とは思わなかった。息子の将来よりもアンドーラの将来を父親のジュルジス二世は案じていた。まだ、少年だったランセルは、そんな父親を尊敬していた。
「しかし、どこに隠れているだろう。なんか悔しいな、逃げ回っているという手もあるけど。王宮の建物は上から下まで探したんだ。階段は封鎖してある」とランセル。
「建物の中でないとすると庭は如何ですか?」と思案顔の陸軍元帥。
「植え込みの間に一名、木の上に一名、見つけた」と報告するランセル。陸軍元帥は、箱や空き樽の数は?と近衛師団長に言いかけて、眉をひそめた。まさかとつぶやいた。リンゲートの護衛隊長に
「君、まさか、殿下を箱の中に隠してそれを土の中に埋めて隠したんではないだろうね」
近衛中尉は、ご明察の通りですといった。居間にいた全員の目が近衛中尉に集まった。元帥は立ち上がった。いつになく慌てている
「君、窒息でもしたらどうするんだ?」と近衛中尉に詰め寄った。中尉は落ち着き払い、大丈夫です。空気穴を通してございますといった。しかしねえと上官の元帥は、本当に大丈夫なのかと詰問した。中尉はリンゲートの「作戦」を説明し始めた。
「空き樽に穴を開けましてそこに竹筒を通して地上にだしております。埋めた後、自分自身そこから殿下にお声をかけ、ご無事を確かめております。そうですね、三十分ほど付き添っておりました。その後、昼食時にもお声をかけ、昼食を召し上がって頂くようお声をかけました。ここに伺う前にもご無事を確認しております」
ランセルは、用意周到なリンゲートに呆れかえったが、元帥は、追及の手を緩めなかった。
「しかし、目を離すのはまずいじゃないのか、何かあったらどうする?」
「大丈夫です、信用のおける人物が随時お声をお掛けし、ご返事がない場合は、すぐ掘り出す手はずになっております。呼吸回復術の方も、昨年の夏、誰が心得ているか、確かめてございますし…」
ランセルは中尉のいう信用のおける人物が誰なのか検討がついた。多分、園丁頭のバルカンであろう。彼が勝手に庭園に穴を掘らせるわけがない。休日だというのに園丁たちは庭園で仕事をしていた。 だが、中尉の話は捜索の手がかりになった。
「つまり、竹筒の出でいるところが、リンゲートの居場所だ」と断定したランセルに、中尉は
「おわかりなるでしょうか、陽動作戦で、竹筒を何本か偽装で埋め込みました。お声をかけるにも合図を決めまして」
国王は笑い出した。ランセルは、そこまでやるかとつぶやいた。
「そこまで、考えてあるなら、折角だ、五時まで待ってやろう」と国王
「俺はその前に探し出すぜ」とランセルは立ち上がった。そこにヘンダースが
「バルカンが入るなといったところがそこさ。」とため息をついた。
五時きっかりにリンゲート王子は「見つけだされた」。まず、園丁頭のバルカンが竹筒から声をかけた。
「やりましたね、リンゲ若」とエンバー出身のバルカンはいった。下からリンゲートがもう五時?と聞いた。
「もう、約束の五時だ、リンゲート」と次に国王が竹筒を通して話しかけた。
「本当に五時?」とリンゲートは尋ねた。
地中に埋められた樽の中で立ち上がったリンゲートは、周りを取り囲んでいる人垣に驚いた。父親のヘンダースの手を借り、地上に出ると、国王が、怖くなかったかと尋ねた。リンゲートは胸を反らせ、少しもと、答えた。陸軍元帥が「ご自分でお考えになったのですか?よく思いつきなされましたな」と声をかけた。
従医長のベンダーとアンジェラがリンゲートの「身体検査」をした。ヘンダースは息子を叱っていいものやら褒めていいやらわからなかった。ともかく、無事なのが何よりだ。
このリンゲート王子の「冒険」は、瞬く間に王宮で働く人々の口に上った。ある侯爵爵令嬢の不行跡を論うよりも「愉快な」話題ではあった。
約束の五時まで隠れきったリンゲート王子の国王からの「ご褒美」は「馬の世話」だった。次の日の朝、朝食の席でそう申し渡された。怪訝な顔の第四王子に、第三王子が、乗馬の上達のコツだと教えた。リンゲートも乗馬は上達したかった。甥にしてやられた感のあるランセルは、馬は利口だから世話をしてくれ者になつくのさといった。
第二王女のエレーヌは少し面白くなかった。エレーヌは自分より八ヶ月ほど年上のリンゲートと何かと比べられる。無論第一王女とも比べられる。「出来のよかった」姉に比べ「学科」が少し苦手だった。どうせお馬鹿だもんといって母に叱られた。エレーヌはリンゲートにしかめ面をして見せた。
アンドーラの第一王女セシーネは、救貧院院長のキルマ・パラボン侯爵夫人の手になる救貧院の報告書を読んでいた。その報告書によるとキルマのいった通り、ただで泊まれる宿屋ぐらいに考えて救貧院にやってくる人たちが多いのはわかった。しかし、自分では健康だと思っていたものが病気を発見される場合もある。この間、診察した若者はまだ救貧院にいるはずだった。彼の病気に対する治療法は《治療師》ケンナスや従医長のベンダーが試みてはいる。だが、ケンナスもベンダーも内心では「外科手術」を考えていた。肝心の若者は、その決意がつかなかった。手術に対する恐怖心がその原因だった。ケンナスは「眠りの技」を使ってみたらと考えていた。魔術師のガンダスは技をかけて人を眠らせることが出来た。セシーネもその技をかけることが出来た。そのことはケンナスもベンダーも知ってはいたが、彼らは慎重だった。ガンダスの帰りを待とうということになっている。
キルマは救貧院の運営に見事な手腕を発揮しているようにセシーネには思えた。この感想を元大蔵卿のブルックナー伯にいうと、ブルックナー伯はうなずき同意を示した。セシーネは祖母の持参金に「使途不明金」があるのを思い出した。キルマはその調査もしているはずだった。これをブルックナー伯に確かめると、意外な返事が返ってきた。セシーネの祖母の王太后はある「教会」に多額の寄付をしたことが判明したとブルックナー伯はいい、こう付け加えた。わかっているのはそれだけでどの教会かわからないと。
セシーネの記憶では王太后は熱心な「教会」の信徒ではなかった。熱心な信徒はことある毎に教会に足を運び、祈りを捧げ司教や司祭の言葉に耳を傾ける。セシーネは祖母からそう強制をされた覚えもないし、王宮に司教たちの姿を見かけたことがなかった。
ブルックナー伯は第一王女には告げなかったが、国王が「教会」に対してある計略を考えていることを知っていた。メレディス女王に「教会税」を廃止され、経済的に打撃を受けた「教会」はいわば王の前に跪いた。
「教会」は、人々の心の安寧を計るためにあるのであって、人々やましては国王を支配するための存在ではないと国王のジュルジス三世は考えていた。それは、ブルックナー伯も同感であった。
現在の「聖徒教会」の長である大司教は、政治的には無難な人物であった。学究肌で古い教典の編纂や礼拝の復旧に努めていた。不倶戴天の「福音教会」も同様である。王家は今までどちらの教会にも一線を画していた。王太后も同様だったはずだった。ブルックナー伯は気丈な王太后が病気で気弱になりそこにつけ込んだ司教か司祭がいるのだろうと推測していた。
大蔵卿を努めた経験から「金」が人を動かす原動力になることをブルックナー伯は知っていた。無論、それが全てではない。全てではないが多額の「金」の動きには十分な警戒をして警戒しすぎることはないと思っていた。多額の寄付を受けるほど王太后の心を動かしたのはどの「教会」なのだろう。
セシーネは「教会」から救貧院に注意を戻した。
「これを読んだ限りでは、飢えで苦しんでいる人がいないのがわかりましたけど、それはキルマ、つまりパラボン侯爵夫人が救貧院へいってからのことですね。その前はどうだったのですか?救貧院はその役目を終えたのでしょうか」
「そこですな。陛下も廃止を考えておられたのですが、実際、王都には、困窮者はおらんでしょう。仕事ならいくらでもありますからな」とブルックナー伯はいった。
ブルックナー伯の言葉にセシーネはほっと安堵の息をついた。飢えた国民が皆無とまではいえなくても、救貧院に困窮者が大勢押しかけるような事態でない事がうれしかった。この国に富める者もあれば貧しい者もいることぐらいはセシーネも知っている。父である国王はアンドーラが「働けば暮らせる」国にしようと懸命だ。セシーネもその父の理念は間違っていないと思うし、そのために自分に出来ることは何だろうと考えてみたこともある。亡くなった王太后は、セシーネに王女という身分がただ威張るだけのものではないと、アンドーラのために何が出来るかが大切だとよく言い聞かせた。今の自分に出来ることは何であろう?
当初、セシーネはキルマが救貧院の経費を私しているのではないかと疑っていた。だが、それは正反対だった。ずさんだった経営はキルマの手で効率よく運営されていた。
セシーネは、以前、薬草保管庫で見た木箱のことを思い出した。モリカは古い記録だといっていた。そのことをブルックナー伯にいうと調べてみようということになった。救貧院を存続するかどうか閣僚たちの意見も分かれていた。
その調査には救貧院院長のキルマ・パラボン侯爵夫人もあっさりと同意した。手が空いたら調べてみようと思っていたと。何がしまってあるか記録にはなく、何しろ記録が曖昧でとキルマはいった。そして、好奇心旺盛なニドルフ・レンドル子爵も加わった。薬草保管庫の重い扉を開け、中に入った。薬草保管庫の中は薄暗かった。開けた扉からの日の光で、積み重なった木箱がぼんやりと見られた。ブルックナー伯は、一つ開けてみましょうと提案した。セシーネの護衛の近衛兵が二人係りで木箱の一つを持ち上げ、薬草保管庫の外に運び出した。皆が見守る中、ニドルフが箱のふたをこじ開けた。その中には古びた紙が束ねられて入っていた。セシーネはその一つを手に取った。見られない文字のようなものが書き記せれている。アンドーラは通常ペンで文字を書き記すが、それは筆のようなもので書かれたようだった。アンドーラの文字より力強い筆跡だとセシーネは思った。ブルックナー伯も手に取り「これは、ひょっとして、ラダムスンの文字ではないですかな」
ラダムスンとはセシーネを生んだミンセイヤの生まれた国だった。遠い異国のラダムスンをセシーネは名前ぐらいか知らない。
「わたくしはラダムスンの文字を拝見したことがありますが、こんな感じではなかったと思いますね」とキルマ
「興味深い、実に興味深いですね」とニドルフ。彼はワクワクしていた。ブルックナー伯がもう一つ開けてみようと提案した。そちらも同様だった。何故、異国の文字が書かれたものが救貧院の薬草保管庫の中にしまわれていたのかセシーネには謎だった。
ブルックナー伯とキルマはさすがに手際がよかった。見慣れぬ文字に見入っているセシーネとニドルフの手から紙を取り上げると、再び箱の中にしまった。
「やはり、外務省の通訳官あたりに調べて貰った方がよさそうですな」
「てっきり、救貧院の記録ではないかと思っていたのですが、どうやら、違うようですわね。まったく食事をだした人数も数えていないのですからね」とキルマは前任者の院長を思いだした。中流貴族の出身であるその初老のその女性はキルマから見れば「無能」だった。来るもの拒まずで「施し」を無制限に与えていた。善行を施すことで自分も救済されると信じていた。キルマはその女性にこういってやった
「そんなことをしたかったら自分のお金でやりなさいよ。国母さまのお金を自分のものと勘違いしているんじゃないの」
キルマの鋭い指摘に彼女は口をあんぐりと開けたままだった。彼女には王太后から年金が約束されていた。それを受け取ると、ある教会の修道院へと移っていった。彼女は救貧院へ寄進もしなかった。意地悪くキルマはこう思った。結局、自分の金はしっかり握るという訳ねと。
セシーネは、王宮に戻る馬車の中で、遠い異国からアンドーラに嫁ぎそして死んでいった母のことを考えていた。セシーネには母の顔さえ記憶がない。セシーネにはそれは触れて欲しくない話題だった。自分が母を覚えていないことは、どういう人なのか知りたいと思う反面、知ったところで死んだ母が生き返ってくるわけでもなく、母を失った喪失感が埋め合わせるどころか、むなしい悲しみを増長させるだけだった。母を失った悲しみより、母を覚えていない悲しみの方が大きかった。
今、王家では先の王妃ミンセイヤの話題が出ることはほとんどなかった。ミンセイヤの病死以前から、その祖国ラダムスンとの国交も絶えてしまった。セシーネは母についてもその祖国についても大した知識は持っていない。乳母のユーリンから聞かされたわずかな事だけだった。父の国王からはほとんどその話題について耳にしたことがなかった。何となく避けた方がよい話題の一つだとセシーネは感じていた。
兄のエドワーズ王太子がヘンリッタ王妃に対してどこか冷淡なのをセシーネは気がついていた。セシーネにはエドワーズの気持ちがわからないでもなかった。でも、それは何か駄々っ子のようにも思える時もあった。王家に生まれても手に入らない物はいくらでもあった。母の思い出がセシーネには一つもなかった。その寂しさは口に出したことはない。それはセシーネの胸の奥にそっとしまわれていた。
救貧院にあったあの記録が生母の祖国ラダムスンのものだったら、少しは母について知ることが出来るのだろうかとセシーネはぼんやりと考えていた。しかし、知ったところで何が変わるのだろうとも思った。
一方、第二王女のエレーヌは、姉の帰りを待ちわびていた。エレーヌにはどうしても姉に確かめたいことがあった。気になって勉強どころではなくなった。元々姉のセシーネと違って勉強嫌いの王女ではあったが、これは確かめなくてはならない大事なことだった。
エレーヌは救貧院に出かけた姉の帰りを待ち伏せることにした。近衛兵の先導で姉の乗っているはずの馬車が戻ってきた。エレーヌは、馬車から降りた姉に駆け寄った。息を弾ませながら、エレーヌは一気に用件を言った
「お姉さま、どうしても聞きたいことがあるの」
なんなのと姉は尋ねた。エレーヌは周りを見渡し、声をひそめて、後でお部屋に行っていい?と尋ねた。いいけどと、姉はいいながら、王宮の建物に入った。姉のセシーネは、歩くのが速い。小走りで追いかけながらエレーヌは約束を取り付けた。
夕食後、エレーヌは約束通りセシーネの部屋にやってきた。エレーヌは二人きりで話がしたいと姉にいった。セシーネの部屋には侍女のナーシャが、部屋の片隅で椅子に腰掛け刺繍をしていた。
ナーシャが部屋を出ていくと、エレーヌは、声をひそめてセシーネにこう尋ねた。その質問はセシーネがして欲しくない質問だった。
「お姉さまとお兄さまのお母さまってどんな人なの?」
セシーネはしばらく母の違う妹の顔を見つめていた。妹のエレーヌは真剣な眼差しでセシーネを見つめている。この妹に誰かが、兄や姉を生んだ母と自分の母が違うことを耳に入れたものがいるのは確かだった。余計なことをとセシーネは腹立たしかった。おまけにラダムスンのものかもしれない記録が見つかった今日という日にこんな質問をエレーヌがするなんて、何という巡り合わせだろう。
ようやくセシーネは素っ気なくこういった。
「エレーヌ、そんなくだらないことを知ってどうするの?そんなことよりちゃんと学科のお勉強をなさい。リディアの方が先に宣誓式をするような無様なことにならないようにね」
エレーヌは、答えにならない姉の答えに不満だった。だが、姉は不機嫌そうにエレーヌを見つめ返すだけだった。エレーヌはここでやっと自分の質問が気まずいものだと気がついた。
セシーネは妹を部屋から追い出し、自身の勉強に取りかかった。エレーヌの質問は自身がしたい質問でもあった。セシーネは母が遠い国からアンドーラに嫁いできたくらいしか聞かされてはいない。記憶にない母の面影を追うよりもセシーネには目の前の問題を片づけなくてはならなかった。
セシーネの見たところ救貧院はキルマによってうまく運営されているように思えた。国王が救貧院を施療院に改革しようと考えていることはブルックナー伯から聞かされている。キルマは施療院の設立に協力を申し出た。今でのところ、キルマは実に協力的であった。しかし、セシーネはキルマが自分を好いていないのは薄々感じていた。人に好かれるために物事を決めてどうするとも思うが、嫌われるのは気分の良いものではない。セシーネはキルマをどう扱っていけばいいのか考えあぐねていた。
一方、キルマは迷っていた。第一王女セシーネは、相変わらず救貧院にやって来る。キルマにとって第一王女は扱いにくい存在だった。王女という身分を怖れてのことではない。セシーネの持っている特殊な「能力」がキルマは恐ろしかった。懸命に自分に言い聞かせても精々怖れていることを悟られないようにするのが精一杯だった。女官長の職を辞そうと思ったのも一度ではない。その度ごとに国王や王太后に引き留められ、結局王太后の死を看取ることになった。その後、この救貧院に院長として赴任したわけであったが、それを引き受ける理由の一つがセシーネから逃れたいという気持ちがあったのは否めない。それが、皮肉なことに再びセシーネと毎日のように相対することになろうとはキルマも予想がつかなかった。あの「能力」さえ除けば、王女とはいえ「小娘」に過ぎないセシーネを「扱う」ぐらいキルマにはわけもないことだった。
アンドーラは論議の盛んな国である。「施療院」の設立を巡って閣僚たちも賛否両論の意見があったことをキルマは知っていた。だが、国王が設立を決めた以上閣僚たちはその決定に従うだろう。そして「施療院」の設立に熱心なブルックナー伯が、施療院を《治療の技》を広げる場にしてみたらと、国王に進言していることもキルマは察していた。《治療の技》に関しては、キルマは不思議なことだと思うが、恐ろしくはなかった。キルマが怖れているのは人の心を見透かすような《見立て》だけだった。そして、キルマ自身の処遇に関して第一王女からはキルマ自身に一任されていた。第一王女はキルマに実に礼儀正しかった。
「パラボン侯爵夫人、王立施療院は、最初はそれほど費用を掛けられないと聞いています。それだけではありません。病人の世話は気が張ることです。やりたくない方にまで無理に協力をして頂くのも考え物ですし、失礼ですけどあなたには侯爵夫人としてしなければならないこともおありでしょう。そちらのご都合も遠慮なくおっしゃって下さい」
そういわれてもキルマにはどちらともいえなかった。第一王女の言葉をそのまま受け取るほどキルマは軽率ではなかった。国王の意向がどうなのか気になった。この国の最高決定機関が誰なのかキルマはよく心得ていた。
アンドーラの貴族たちは国政に関して対応は二手に分かれていた。積極的に関わる者、そして、一線を画して「領地」に引きこもる方と、そして、キルマの夫、パラボン侯爵は積極的な方だった。侯爵家から侯爵家に嫁いだキルマは当初、国政なんて興味もなかったし、女の口を挟むべきことではないと思っていた。思いもかけずに女官長という役職を得てからもそう思っていた。だが、先王のジュルジス二世は当時のエレーヌ王妃に国政に関して意見を求めた。エレーヌ王妃は積極的に意見を述べた。そして、これはジュルジス二世が息子のジュルジス三世に譲位をしてからも続いた。だが、国王となったジュルジス三世は、王太后の意見は聞くが、その意見をそのまま受け入れることは稀だった。母親に対する礼を失さない程度にやんわりとその進言をかわした。それが、王太后となったエレーヌ元王妃の不満だった。すでに父親になっているジュルジス三世を王太后は子供扱いをしようとしているようにキルマには思えたし、王太后はやりすぎたとキルマは思っていた。同じ息子でも国王の次弟のヘンダース王子は母の王太后の前で子供扱いをされても喜々として受け止めていた。
王家の暮らしぶりを身近に見ていたキルマはそこから多くのことを学んだ。女だからといって国政にまったく無関心ではいられなかった。夫は王家、特に国王が何を考えているのか知りたがった。確かに国王の意向を無視して行動するのは愚かだった。いつの間にかキルマは政治に興味を抱かざる得なくなった。
救貧院で働いている者たちを取りまとめるくらいは、キルマにとってそう難しいことではなかった。ここにいる者たちは侯爵夫人であるキルマに比べて同じ貴族でも身分上はたいしたとことがない。王家の人々と親しく口を利く機会など滅多にない者ばかりだった。第一王女のセシーネが毎日のように救貧院にやって来る事態は彼女たちにさざ波のような影響を与えた。特に薬草園の責任者モリカは、彼女たちの注目の的だった。モリカ自身はそうした事態に対処しきれなかった。しばしば院長のキルマに助けを求めた。キルマは鷹揚に第一王女の相手を努めるようにモリカに命じた。
「王女さまはここへ遊びに来ている訳ではありません。お勉強をしにお見えになっているのですから、あなたもそれをお手伝い出来ることを光栄に思わなくてはいけませんよ。モリカ」
モリカは不安そうに肯いた。王家の威光をかさにかけることくらいキルマにはわけもないことだった。今ではモリカはキルマにも十分な敬意を払うようになっていた。だが、そのモリカにも第一王女の《見立て》が恐ろしいとはキルマはいえなかった。
熟考の上、キルマは王太后の使った手を使うことにした。救貧院にいる治療師のケンナスにこう提案した。
「見習いのあの子たちの《見立て》の稽古には救貧院にいる者たちを相手にしても構いませんよ。ただ、わたくしは気分が悪くなるのがわかっていますから、やめて下さい。あと体調が悪い者がいたらわたくしに報告して下さい。ここで働いている者たちの健康かどうか知っておくのもわたくしのお役目ですからね」
ケンナスは「協力的」なキルマに感謝の言葉を述べた。キルマは第一王女を除けば救貧院にいる者たちの手綱をしっかりと掴んだ手応えを感じていた。
季節はいつの間にか春が過ぎ夏にさしかかっていた。セシーネの日課は相変わらずだったが、その周辺には幾つかの変化が見られた。
まず、叔父のランセル王子に王女が誕生した。妃のネリアは王子を望んでいたようだったが、ランセルはそれよりもネリアの初めてのお産が無事にすんだ事に安堵していた。国王からも慰労の言葉がネリアに伝えられた。各種の祝典が華やかに催され、その幾つかにはセシーネも出席した。
セシーネ自身も十四歳の誕生日を迎え、父の国王から乗馬用の馬が一頭セシーネに贈られた。これは、まだ、持ち馬を持つことが許されていない従弟のリンゲートから羨望の目で見られた。馬の世話を手伝うことを条件にリンゲートに乗ってもいいとセシーネは約束した。
そして、王太子のエドワーズは立太子礼を執り行ってから毎年、恒例になっているエンバーの行幸へと旅立った。例年と違っていたのは、王太子が甲冑姿で向かった事である。これは道中の安全を懸念してのことではなく、儀礼的な意味合いが強かった。アンドーラの国内は平安だった。
エドワーズがエンバーに向かった次の日、侍女のナーシャのいっていたプルグース子爵家の令嬢タチアナが王宮にやってきた。タチアナは彼女自身の十六歳の誕生日をすました後、初めての謁見を控えていた。彼女の頭の中はどうやら、そのことでいっぱいのようで執拗にセシーネにどう振る舞えばよいか尋ねた。セシーネはそれにはナーシャに聞けばいいと答えた。そして、タチアナが第一王女の侍女として仕えることにはこれといって断る理由もなかったのでセシーネは承諾した。
ただ、ナーシャもタチアナも医学にあまり興味を示さなかった。この不満をセシーネはヘンリッタ王妃に相談してみたが、王妃は穏やかな微笑みを浮かべながら「中途半端な知識は危険だわ」とだけいった。
「お母さまは女が医学を学ぶのは反対?」
「いえ、そんなことはありませんよ。セシーネには必要な学問だと思いますよ。お勉強ははかどっているの?」
セシーネは思わず苦笑いをした。王妃の口調は王太后によく似てきたとセシーネはふと思った。セシーネは、従医長のベンダーから借りた医学書に取り組んでいた。王妃のいった通り、セシーネにとって医学を学ぶことは施療院の院長に就任するために必要不可欠な学問であった。《治療の技》は、ケガに対してはかなり有効だったが、病気に対してはそれほどの効果が見られなかった。少なくともセシーネは《治療の技》で病気を治した経験はなかった。王太后の生前、セシーネが《見立て》で発見した病気の治療は従医長のベンダーが薬の処方をするのが常だった。セシーネが医学を学ぶことに反対しているように思えた王太后が、何故、施療院の院長にセシーネを指名したかセシーネには疑問だった。王太后の腹心だった元女官長のキルマなら何か知っているだろうかとも思ったが、その機会はなかなか訪れなかった。たとえ尋ねてもキルマはこう答えるだろう。
「国母さまは、アンドーラのために何が必要かよくご存じでしたからね。何しろ国母さまはご聡明な方でしたから」
アンドーラは国王を頂点とする身分制度が敷かれている。その上下関係とは別な序列がある事をセシーネは気がついていた。
例えば、ブルックナー伯は、鄭重な態度でセシーネに接してくれている。だが、それは“第一王女”に対して敬意を払っているのであって、セシーネ自身の人格に敬意を払ってくれているのかは別問題だった。一人前扱いされない事への不満はある。あるが、何の実績もない自分が周囲から認められるのは「王立施療院」を成功させることだとセシーネにはわかっていた。そのためには協力者が必要だった。セシーネは胸の中で協力者の顔ぶれを数えてみた。成功の鍵を握っているのはまず治療師のケンナスではあるが、それ以外にもブルックナー伯を始めとする《治療の才》がない人々の理解も必要だった。その中でキルマの態度が気になった。救貧院が施療院になれば救貧院の院長の職にあるキルマは職を失う。形式上はどうであれ、セシーネがキルマを追い出す格好になる。キルマが自分のことを嫌っているように思えるのはそのためかとも思ったが、それだけではないとセシーネは思った。女官長時代からキルマにとって自分は扱いやすい王女ではなかったとセシーネは感じていた。手こずったといっても過言ではない。強情な子だといわれたこともあった。それは、王太后の代弁者としてセシーネにあれこれ指図する時に限られていたが、セシーネにとってキルマと祖母の王太后は一心同体だった。
つまりは、王太后にとって自分は王太后が望んだような王女ではなかったということだ。王太后は素直で従順な王女を望んでいた。その王太后が自分に何をさせたかったかセシーネは気がつき、暗然たる思いを抱いた。それは、「教会」との対決だった。
魔法に関して、教会の見解は宗派によって幾多の相違が見られた。魔法全てを違法とする教会もあれば、女の魔法のみ違法と見なす教会もあった。セシーネは《治療の技》が魔法だとは思わないがそう思う人間もいるだろう。ガンダスがいうように、人は不思議な出来事に遭遇すると魔法だと思いたがる。セシーネにとって《治療の技》は不思議でもなんでもなかった。生まれた時から備わっている《力》だった。そして、兄のエドワーズと違ってセシーネは《力》を使わないと体調を崩す。《力》を隠し通すのは無理だった。それだけはない、セシーネはガンダスの見つけてきた子供たちにも責任を負っていた。当初はおとなしかった彼らも、救貧院での生活に慣れるに従い、ケンナスの手に余るようになって来た。そこに助け船をだしたのがセシーネ付きの護衛ビラン中尉だった。ビランはやんちゃ盛りの彼らをうまく手なずけてしまった。ビランは、軍学校に入学するまで、王宮で王太子のお相手役に選ばれた少年たちの大将格だった。貴族の子弟よりも、ビランにとって彼らはずっと扱いやすかった。確かにセシーネ自身もそのようなことを護衛たちに頼んだ覚えはあった。問題は約束の半年を過ぎてもケンナスの元で《治療の技》を習うかどうかだったが、ビランの話だと男の子たちは兵役につくまで学びたいということだった。これは、セシーネよりブルックナー伯を喜ばせた。セシーネはそう簡単に喜べなかった。彼らが残るというのはそれまでの生活よりも救貧院での暮らしが楽なのではと疑っていた。彼らのほとんどが貧しい身分の出身者であることをセシーネは知っていた。彼らが一人前の治療師になれるまでどの位の年月がかかるのだろう。セシーネは不安だらけだった。
王室付け魔術師のガンダスが旅から戻ってきた。ガンダスらしく一人でフラリと宮殿に現れた。彼の報告をセシーネは国王と共に国王の執務室で聞いた。セシーネはガンダスに尋ねたい事がたくさんあったが、出過ぎた真似をしないように口をつぐんでいた。
「陛下、ただいま戻って参りました」とガンダスは宮廷流に国王にお辞儀をしながらいった。以前ランセルがいったように文民服を着たガンダスは、魔術師というより、宮廷に出入りする小貴族か役人のように見えた。
「ガンダス。今回は手ぶらか?」と同じように文民服を着た国王。
「いえ、治療の才のあるものは見つかりましたが何分、少し若すぎましてな。王都へ連れて来るには少し早過ぎると存じまして」
「若すぎるとは?」
「五歳か六歳では若すぎましょう。中には三歳というものもおりました。親元から引き離すには少し若すぎましょう、もう少し、ご猶予を」という訳だった。
ガンダスを待っていたのはセシーネだけではない。従医長のベンダーと治療師のケンナスも待っていた。春先から救貧院にいるある若者の治療のためガンダスの術を二人は待っていた。その術はセシーネもかけられたが、ベンダーもケンナスも慎重だった。二人はいわなかったが、それはセシーネが教会から「魔女」の疑いをかけられないようにする配慮なのはセシーネも薄々気がついていた。セシーネ自身は自分が魔女だなんて思ってもいない。ベンダーもケンナスも少し過保護だとセシーネは思った。
国王への報告を終えるとガンダスは待ちかまえていたベンダーに捕まった。セシーネはまた、子供扱いされ追い払われるかと思ったが、そうはされなかった。
ベンダーの話を聞くとガンダスは素っ気なく、その術なら第一王女も掛けられるといったが、ベンダーは
「あんたの方が経験もあるし、すぐ目が覚めてしまっては意味がない。手術の間、眠っているかどうかが重要なんだ。なぁ、ガンダス、ちょっとした実験をしてみるのはどうだろう」
ガンダスはベンダーの実験という言葉に興味をそそられたようだった。
その実験は、救貧院で行われることになった。救貧院院長のキルマは、医学の発展のためだとブルックナー伯が説得した。キルマは相変わらず気むずかしげな表情で承諾した。だが、肝心の若者は、やはり恐ろしがって、実験を承知しなかった。そこで、ケンナスが自分に《眠りの技》を掛けてみてはどうかと提案した。
その実験は、キルマの提供した救貧院の一室で、ひっそりと行われた。ガンダスに《眠りの技》を掛けられて眠り込んだケンナスの体をベンダーが色々調べた。この実験は、《眠りの技》を掛ければ、外科手術における痛みを感じるかどうかを確かめることであった。ベンダーを始め実験に立ち会った人々の期待に反して、眠っているケンナスは、太腿をベンダーに強くつねられてかすかに身動きをした。ベンダーは失望の色を隠せなかった。
「これでは、手術に使えそうもありませんな。ガンダス、もう少し深く眠らせることは出来ないか?」
ガンダスは、首を振り、それは危険だといった。《眠りの技》を強く掛けすぎると目を覚まさなくなると説明し、眠り込んでいるケンナスを揺り起こした。実験に立ち会った者たちはこの結果にがっかりしていた。
ベンダーもケンナスも《眠りの技》を掛けて眠らせている間に痛みを感じさせないで開腹手術を行うことが出来るのではないかと考えていた。それが可能なら今まで躊躇していた大きな外科手術も出来るのではないかと期待していた。期待が大きい分、落胆も大きかった。
実験自体は失敗といってもよかったが、思いもかけぬ事態になった。それまで手術を渋っていた若者が手術をしてくれといい出したのだ。これには、ベンダーを始めケンナスもセシーネも一安心した。肝臓を患っているその若者ペトールの治療法は《治療の技》も含めて色々検討したが、手術が一番確実な方法だとベンダーもケンナスも判断し、ペトールにもベンダーからその説明をしたが、怖がるばかりでなかなか手術に同意しなかった。
これにはブルックナー伯の手腕に因るところが大きかった。簡単にいえば、彼はペトールを脅かしたのだった。その詳細についてはセシーネも聞かなかった。セシーネにしてみれば《治療の技》でペトールの病気を治す事が出来ないことには歯がゆかったが、それでも治療法があることに幾分救われる思いだった。
ペトールの手術は、ベンダーの執刀で行われることになり、行われる場所は救貧院の一室と決まった。この手術にセシーネも立ち会いたかったが、ベンダーもケンナスも許可しなかった。セシーネは第一王女といったって何の権限もないのだと思った。それでも別室で他の子供達と手術の経過を持つことは許された。
この手術については、エラン達も興奮を隠せなかった。これを諫めたのはやはりブルックナー伯であった。
「資格もないのに腹を切り裂いたら、傷害罪になる。勝手にするんじゃない」
「そんなこと考えもしません。本当です」
エランの言葉遣いはこの数ヶ月で随分ましになってきていた。
手術の費用は救貧院の院長であるキルマが頑強に主張し、救貧院の費用で支払われることになった。従医長のベンダー博士は王家や王宮で働く人々を診る他に依頼を受ければ診察や治療を行い、その人たちから多額の謝礼を受け取っていた。これは国王の許可を得てのことであった。独身のベンダー自身は従医長という役職から得る収入で十分だったが、金はいくらあっても足らんと国王自身がそう勧めたからでもある。
金が万事を動かすのではないが、金で思わぬ苦労をしている人間もいた。エドワーズ王太子である。彼はある計画のために費用の計算に追われていた。父である国王は計画自体の遂行には賛同はしたが、その計画の費用は王太子自身が見積もるように申し渡されてしまった。ブルックナー伯に替わり大蔵大臣の座についたその人物は国家財政に新しい制度を持ち込んでいた。年度ごとに予め予算を組んで計画的に各費用を賄うというやり方だった。エドワーズは自分の計画のための予算書と格闘していた。その予算書の作成にあたり前大蔵大臣のブルックナー伯爵に助力を求めたがやんわりと断れてしまった。それでも大蔵省を定年退官した平民出身の官吏を一人紹介はしてくれた。
アンドーラではエドワーズの祖父に当たるジュルジス二世の代から王国の各省の官吏に平民を採用してきた。重職にこそ就いてはいないが、国家運営の基礎を担っていた。そして、それは王国民の男子全員に兵役を課したのと同様に平民たちに王国民であるという意識を植え付けていた。ましては論議の盛んな国である、平民出身のその元官吏は貴族たちに批判的だった。
「まったく、何かというと引きをあてにするのですからね。まったく当てになりませんよ。役所に来たり来なかったりで、仕事も横着というか、だったら、役所勤めなんかやめればいいんですよ」と実名こそ上げないが歯に衣を着せぬ物言いでエドワーズに大蔵省の内部事情について色々話して聞かせた。多少なりとも医学を学んだエドワーズにとって人の違いは男女の差ぐらいで、貴族だろうが平民だろうが同じ人種だということはわかっていた。エドワーズには身分の差よりも男女差の方が大きかった。叔父のランセルではないが、女という生き物は訳がわからない。まあ、男にとって女性は永遠の謎ではある。その謎であるエドワーズの婚約者はまもなくアンドーラに到着することになっていた。
エドワーズは、自分の結婚が純然たる恋愛の結果ではなく政略的なものだとわかっていた。それに対して不満はなかった。むしろ、気が楽だと思っていた。女性の気をひくためにあれこれするのは、面倒くさかった。それでも、しばしば手紙をよこす婚約者のイザベルへは返事の手紙を書くぐらいのことはしていた。書く内容については、叔母のメレディス王女に助言を受けていた。それは主に服装についてであった。エドワーズには何が面白いのかさっぱりわからなかったが、イザベルは興味をそそられたようであった。ランセルにいわすとご婦人方はドレスのことになると躍起だからなである。エドワーズも同感だった。服装に無頓着に見えるセシーネでさえ、普段の質素な身なりもそれなりに考えてのことらしい。まったく女というものはである。
エドワーズが扱いに苦慮する女性の中でその最たるものは、継母である王妃のヘンリエッタである。人柄がいいとか悪いとかいう話ではなく、立場上、複雑な胸中だった。エドワーズは、父親の再婚相手と一線を引くことでその対応をしていた。同じ母から生まれた妹のセシーネがヘンリエッタをお母さまと呼ぶことについても口にしたことはないが何となく抵抗感があった。エドワーズは自分自身にこう言い聞かせていた、女同士だから話があうのさと。
さて、エドワーズが予算書と格闘している間、セシーネも自分の中途半端な立場と格闘していた。医学的にみてまだ、未熟なのはわかっていたが、セシーネは、ベンダー執刀の開腹手術に立ち会えなかったことでベンダーやケンナスに腹を立てていた。この不満を父である国王に訴えてみたが、国王は従医長であるベンダーの判断に任すとセシーネに告げた。結局、セシーネは他の見習たちと別室で待たされることになった。兵役期間中のケンナスの弟子のルシバを赴任先の駐屯地からわざわざ呼び出し、手術に立ち会わせたのに比べ、自分は手術をする部屋にも入れて貰えなかった。セシーネは悔しくてならなかった。祖母である王太后の存命中ならいざ知らず、自分は王立施療院の院長に就任するのである、それをベンダーとケンナスは子供扱いをしていると憤然としていた。
だが、セシーネは知らなかった。表向きはベンダーの判断ということになっているが、国王が許可しなかったのである。国王も迷っていた。王立施療院の設立と第一王女の院長の就任を決意したものの、医学にいささか夢中の第一王女に古傷を触られた思いがしてならなかった。第一王女のセシーネに話したことがなかったが、王太子のエドワーズと第一王女のセシーネを生んだミンセイヤの母親は、代々医学者の家の出身者だった。彼女自身も医学を学んでいた。遠い異国から嫁ぐ娘に彼女は同行してアンドーラにやってきた。その母方の祖母に成長するに従いセシーネはそっくりなってきた。黄金色に輝く豊かな髪と青く澄んだ目、まだ若かった国王は、その美しさに目を奪われたことがある。父親として美しく育っていく娘に国王は心中穏やかでなかった。女性の価値が美しさだけではないと思うものの、美しい王女を巡って争い事が起きることは避けたかったし、また、セシーネの不思議な《力》も国王にとって頭の痛い問題でもあった。
セシーネ自身は、医学を学ぶことは必然性があるというより、医学という学問に魅せられていた。学べば学ぶほど自分の未熟さというより、学術的に未解明な部分が多いのに気がついていた。《治療の技》についても、まだまだわからないことだらけだった。セシーネは自分の力の限界を試したかった。だがその機会はなかなか訪れそうにもない。この不満を誰にぶつけていいのかわからなかった。以前なら王妃のヘンリエッタに相談したろう。だが、異母妹のエレーヌが、セシーネを生んだのはヘンリエッタではないと知った今、ことある毎にわたしはお姉さまとちがう主張し、目を光らしているので、何か言い出す機会がなくなってしまった。ヘンリエッタが、実の母親だったら素直にうち明けられたかもしれない。セシーネは自分が無邪気な子供ではなくなったと自覚した。しかし、周囲からみれば、まだまだ子供だと思われているのもわかっていた。
後になって振り返れば、この時期のセシーネは、ひな鳥が初めて巣から飛び立つように懸命に翼を広げ羽ばたこうとしていた。それとも、幼虫がさなぎになり成虫に変わるように苦しみもがいていたとでもいうべきか……
手術の間、どこかイライラしている第一王女に比べ、救貧院院長のキルマ・パラボン侯爵夫人は悠然としているように見えた。キルマにしてみれば、手術が成功しようがしなかろうがどちらでもよかった。手術が成功してもベンダーの名声が上がるだけで、何の得にもならなかった。ただ、ベンダーに幾ばくかの金貨を払うことによって別な人望が上がるのを計算してのことであった。手術を受ける若者はすでに手なずけてある。ガンダスの連れてきた治療師の見習たちも同様である。長年、女官長を努めていた彼女にとってそれは簡単なことであった。何でも一番でなければ気が済まない王太后はすでにこの世を去った。キルマ自身は一番になるよりも陰になって動くことが気性に合っていた。一番になるということは人のねたみを受ける場合もある。そのいい例が陸軍の人事である。現在のアンドーラの陸軍の基礎を築いたヘンダース元帥の亡き後、その地位を受け継いだのは、陸軍兵学校の第一期卒業生である。彼の卒業時の成績は一番ではなかった。
そしてまた、アンドーラの女性として席次の一番上位にいるのは王妃である。それは謁見の時の式次第で決まっていることだった。子爵家から王妃になったヘンリエッタについては色々なうわさ話を耳にするが、キルマは聞くだけでうわさ話を自分からしたことがない。口は災いの元とよく心得ていた。ただ、王太后の存命中はそうはいかなかった。王太后はうわさ話が好きであった。そのうわさ話を集めてくるのは女官長だったキルマの役目だった。無論、逆にうわさを広める場合もあった。キルマは身近に仕えていて王太后の人となりをよくわかっていた。うわさを鵜呑みにするほど王太后は愚かではなかったし、うわさを無視するほど迂闊でもなかった。巧みにうわさを利用し、王家はもちろん王太后自身の人望を高めていた。王国を統治するという政治的な観点からみて人望も大切な要素である。統治者の妻としてあるいは統治者の母として王太后は優秀であった。それは認めていいとキルマは思っていた。だが、王太后とて完璧な人間ではない。欠点も多かった。その一つが人の好き嫌いが激しかった。王太后は自分の機嫌を損ねるような人物を徹底的に嫌った。人として当然の心理ではあるが、キルマにはおべっかつかいを集めているように思えた。その点、息子の現国王は違っていた。ある時、キルマは反射的に国王にさすがだと誉めたことがある。国王はすかさず「世辞はいい。世辞を聞くために国王になったのではない。ただでさえ自惚れの強い男だと思っておるのに、これ以上自惚れさせてどうする?自惚れは足元を危うくするだけだ。わたしが聞きたいのはむしろ、苦言だな」
これを聞いて、キルマは心の中でさすがだと思った。この時、キルマは女官長として仕えるべきは王太后ではなく国王なのだと意を強くした。そして、それはキルマの心の負担を軽くした。キルマは王太后に屈折した思いを抱いていた。同じ女として持てるものの違いを見せつけられていた。どこか敗北感があった。それがいつの間にか消え去り、王太后の死の直前には深い同情心がわいていた。人の一生を勝ち負けで評価しても仕方がなかったが、王太后の死を看取ることによって、キルマは何となく彼女に勝ったような気がした。長寿も人生において勝利といえるのかもしれない。
さて、話は救貧院の院長室に戻る。キルマは手術の結果を自分の院長室で待つことにした。これは、キルマの得意分野、権謀術の計算の結果そう判断したことである。女官長時代、従医長のベンダーよりも役職の席次はキルマの方が上だった。救貧院の院長となった今、席次としてはキルマは、ベンダーよりも少し下になる。だからといって、風下に立つつもりは毛頭なかった。
この手術が失敗に終わってもキルマの体面に傷がつくことはなかったが、多少は成功して欲しかった。これは金銭的な面を考えてのことである。キルマは、ベンダーに報酬を払うことを約束していた。自分自身のお金ではないが救貧院を預かっている以上、財政もキルマの責任である。キルマは、あのペトールという若者が健康を取り戻したら、救貧院で働いてもらおうと考えていた。どのみち職のない彼を救貧院で働かせてもどこからも苦情が来るわけでもない。ある程度の裁量権はある。王太后の設立した救貧院は今まで女性だけで運営されていた。しかし、男手も必要ではないかとキルマは感じていた。
院長室の扉をノックして修道服を着た救貧院の職員が入ってきた。机の前に座っているキルマに向かって膝を折ってお辞儀をする。キルマは軽くうなずいただけだった。
「手術が終わりました。院長」
「それで?」
「手術は成功したそうです」
「まだわかりませんよ。ともかくベンダー博士にはご苦労様とお伝えして。それから、博士に院長室でお茶を差し上げたいからその用意をして。王女さまもお声をおかけしてもちろん、ブルックナー伯にも」
「畏まりました」職員は、再びお辞儀をすると院長室を出ていった。
キルマは、救貧院で働く修道女たちを職員と呼んでいた。元々は聖徒教会の修道院だった場所を王太后は王太子妃時代に救貧院に変えたのであるが、働いているのは創造主に誓いを立てた修道女だけだった。救貧院の院長に就任してまずキルマがしたのは、ここにいる修道女たちの意識改革だった。その一つが部下を職員と呼ぶことだった。国王はまるで役所だなといって笑ったが、キルマは救貧院の報告書が国務省の民部局に送られている点をそれとなく指摘した。国王は片方の眉を上げただけだった。
しばらくすると、先ほどの職員に案内されてセシーネたちが入ってきた。キルマは椅子から立ち上がり、一同を出迎えた。各自に椅子を勧めながら、キルマはサッと視線を走らせ彼らの表情を読みとった。疲れた表情のベンダー、ホッとした表情のケンナス、相変わらずおどけた表情のガンダス、喜色円満のブルックナー、ここまでは、予想通りといっていい。そして、無表情なセシーネにキルマは内心オヤと思った。お茶が運ばれてくる前に口火を切ったのは、ブルックナー伯だった。
「手術は大成功でしたよ、キルマ夫人」
「まだ、わかりませんよ。失礼なことを申し上げるつもりはありませんけど、ベンダー博士、こういったことは術後が大事ではありませんか」とキルマはベンダーと目を合わせた。ベンダーは目をそらせ軽くうなずいた。
「お厳しいですな、術後と申しますと、どういった点に気をつければよろしいのですかな。ベンダー博士、後学のためにお聞かせ願いたいですな」
キルマはにが笑いをしそうになった。大蔵大臣の職を辞した後、ブルックナー伯は、王立施療院の設立のため走り回っていた。《治療の技》だけでなく医学にも興味津々である。それを国王がからかうと自分は長生きをしたいのだといった。
手術後の注意点を話すベンダーの様子をうかがいながら、キルマはそれとなくセシーネをうかがった。相変わらず仮面を被ったように無表情だった。それは儀式用の顔だった。元々は表情が豊かな子供だった。それを式典のために表情を消すことを覚えさせたのは、国王だった。王家に生まれたものはいつまでも子供じみた振る舞いをすることは許されなかった。
いつもならこういった場合、ベンダーたちをあれこれ質問ぜめにするのにこの日のセシーネは、口を開こうとしなかった。替わりに質問役はもっぱら、ブルックナー伯だった。
儀礼上、お茶のおかわりをキルマは勧めたが、ブルックナー伯がセシーネにそろそろお暇しましょうと声を掛け、セシーネが椅子から立ち上がった。キルマは忘れないうちにといって、ベンダーに用意してあった金貨の包みを差し出した。ベンダーは一旦躊躇したが、ブルックナー伯が「何、金はいくらあってもたらんぞ」というと、ベンダーは包みを受け取った。ガンダスがおどけたように「わしにも頂きたい」と手を差し出した。
「なにしろ、病人を眠らせたのは、わしじゃからな」
「魔術にお金を払うなんて聞いたことありませんよ。第一、あなたなら、金貨を魔術で作り出せるでしょう」とキルマは言い返した。
「何、それは、陛下に禁止されておるんじゃ」
「ほう、魔術で金貨を作れるのなら、国家財政のために一つお願いしたいですな」とブルックナー伯。
「ホントは出来ないのじゃ」
「それは、残念だ」
ベンダーがもう一度、病人の様子を診たいと言い出し、キルマも病室に当てた部屋を見に行くことにした。ペトールはグッスリ眠っていた。ベンダーがペトールの脈を診て軽くうなずくと、今度は、ケンナスがペトールの手首を握った。ケンナスの目が遠くを見るような目つきになり、キルマにはケンナスが《見立て》をしたのがわかった。
「順調ですよ。ベンダー」
「まあ、これからだな。わたしは取り敢えず宮殿に戻るが、後のことはよろしく頼む。キルマ夫人もよろしくお願いしますよ」とベンダー。キルマはうなずいて「わかっています。出来るだけのことはしましょう。明日もこちらに来るんでしょう」
「急用がない限り」
キルマは再びうなずいた。セシーネの方を横目でチラッと見ると、相変わらず、儀式用の顔をしていた。
そして、ブルックナー伯に急き立てられるようにセシーネとベンダー、ガンダスは宮殿に帰っていった。
セシーネたちを乗せた馬車を見送った後、キルマは、セシーネの様子が気になって、やはり見送りに出てきたケンナスに話があるから手が空いたら院長室に来るように告げた。
一時間ほど立った頃だろうか院長室にやってきたケンナスにキルマは「第一王女さまは機嫌が悪かったと思わない」とたずねた。ケンナスは意外そうな顔をして「王女の機嫌が気になるのですか」と聞き返した。
「難しい年頃ですからね」
「確かに、多分、手術に立ち会えなかったのが不満なのでしょう」
キルマもそうではないかと思っていたが、気になったのは、セシーネの態度だった。幼い時からセシーネは、癇癪持ちというほどではないが、どちらかというと感情を表に出す方だった。不満があればはっきりと口にした。それは、亡くなった王太后に対しても同じで、口達者なセシーネは王太后を言い負かすことすらあった。どこかおっとりしている王太子のエドワーズに比べ、セシーネはどこか早熟なところがあった。キルマも一男一女を持ち、心あたりがあった。兄に比べ、妹の方が、大人びるのが早かったように思えた。しかし、なんだか気になった。