表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
癒しの手  作者: 双葉 司
アンドーラの第一王女
3/18

武官の娘

王宮勤めは、貴族の娘たちにとってあこがれの地位のように思えたが、医学を学び、不思議な《治療の力》を持っているセシーネ王女が、侍女に選んだのは…

 自分付けの侍女がまたいなくなってしまった第一王女のセシーネは、予告通り救貧院に向かった。馬車の中で少し気が重たかった。一昨日、救貧院院長のキルマ・パラボン侯爵夫人にああいったものの、彼女が歓迎してくれるとは思えなかった。だが、出迎えたキルマは心なしか挨拶がいつもより丁寧だった。セシーネもなるべく明るい声でおはようございますと声を掛けた。キルマはセシーネの肩越しに馬車の中を見、エランダはどうしましたと尋ねた。セシーネは何気なく聞こえるように「エランダはやめてもらいました」

「やめた?三日も持たずに?」とキルマは呆れたように「そうですか。ところで王女さま、わたくしからお話がございます。どうぞこちらへ」とキルマは院長室に案内し始めた。セシーネは来たなと思った。

 院長室に入るとキルマは椅子を勧め、セシーネが腰掛けるとキルマは低いテーブルを挟んで向かい合った椅子に失礼しますと断ってから腰掛けた。セシーネは用心深くキルマを見つめ「パラボン侯爵夫人、お話って何ですか?」

「わたくしのことは、キルマとお呼び下さい。王女さま」とキルマは、やけに礼儀正しかった。セシーネがそれはどうかしらというと、キルマは骨張った顔に少し笑みを浮かべ「では、わたくしからのご褒美ということで如何でしょう?王女さま」

「ご褒美ですか?」

「ええ、セシーネさまは第一王女としてのご自覚が随分お持ちになるようになったご褒美ということで。それにけじめということもございます。やはり、他に示しがつきません」

「お話ってそのことですか?」

「いえ、王立施療院のことございます。わたくしも急なことで気が回らず失礼しました。もう少し先のお話だと思ったものですから。この救貧院を王立施療院になさるという陛下のご裁可には頭が自然と下がります。亡くなられた国母さまもさぞ、あの世とやらでお喜びでございましょう。わたくしも出来る限りのことはされて頂く所存です。準備の方はどの程度お進みですか?」

「パラボン侯爵夫人、まず、いっときますがまだここが施療院になるかどうかは決まっておりません。候補の一つだということです」

「そうですか、わたくしの伺った話と少し違うようですが、場所は決まっていないが院長だけがお決まりということですか」

 なにやら皮肉ぽいキルマの言葉にセシーネは少しカチンときたが、ただそうですとだけ答えた。キルマは、続けた。

「お勉強なさるのは結構なことだと思いますね。モリカがいてくれて助かりましたわね。王女さま。ところでエランダは何故やめたのですか?やはり、ちょっと伺った方がいいと思いますが」

 セシーネは、少し躊躇し、ちょっとお行儀が悪いことがあってと言葉を濁した。キルマはどのようにと再び、促した。セシーネは、また躊躇し、こう考えた。どのみちキルマのことだからわかるだろうと。キルマは、秘密を嗅ぎつけるのは昔からうまかった。それにエランダのことをかばう気にもなれなかった。元女官長に、自分のせいで侍女がやめたと思われたくなかった。

「ここだけの話にしてください」というと、キルマはええと請け負った。

「昨日の夜、呼ばれてもいないのにお兄さまの部屋に行って追い出されたの」

「王太子殿下のお部屋に?」

「そう、それも、廊下を歩くのにふさわしくない格好で」とセシーネは付け加えた。キルマは意地悪そうな笑みを浮かべた。

「それで、叔母様はカンカンなの。あなたがいた時と違って、だらしない王宮になったといわれたくないんですって。今朝、すぐやめて貰うといっていました。わたしも、引き留めるつもりはなかったし、ただ、お母さまがお気の毒だわ、エランダの」

「気の毒?」

「ええ、一所懸命娘をしつけようと、ああしなさい、こうしたらダメといっているんでしょうね。それなのに、わざと悪いことをして困らせようとして、なんだかそうね、子供じみていると思えたわ」

「何故、そんな風に思うのです?」キルマの質問にセシーネは少し目を伏せた。

「時々、おばあさまのことを思い出すの。いろいろいわれたけれど、今になって、なんだかわかることがあるの。年長者のいうことは全て正しいと思わないけど、一応、耳は傾けるべきだと思います」

 キルマは目を細めてセシーネを見た。

「随分、大人になられたこと。王女さま、ついでにいっておきますが、わたくしに《見立て》は、なさらないで下さい。あれは、あの後、しばらくして必ず気分が悪くなるんですよ。わざわざ、試さなくても結構。もう、年ですからね。今さら病気になったって驚きませんよ。それと、いきなり、手首をつかんで《見立て》をするのは不作法だと思いますよ」

「そんなことはしないわ、小さい時だったら、したかもしれないけど…」とセシーネは少し考え込んだ。《見立て》をされると少し、体の中が揺さぶれるように感じる。それかしら、気分が悪くなるのはと思いあぐねていた。キルマは畳みかけた。

「ともかく、断ってからして下さい。いいですね」と最後は、女官長時代に戻ったようにキッパリといった。

 キルマは、王太后の生前、よくこんな口調でセシーネにお説教をした。キルマは、セシーネの行動を一部始終知っているように思えたものだ。しかし、《治療の技》も《見立て》も気味悪がる人が、多いだろうとセシーネは思った。気がついたらこのような《力》が備わったセシーネにしてみれば、為すすべがなかった。

「後、もう一つ、明日は、ここでお昼を召し上がって下さい」というキルマをセシーネは伏せていた目を上げて見た。

「その後、宮殿までご一緒します。陛下に救貧院のご報告をしなければなりませんから」言い終わるとキルマは、椅子から立ち上がり、モリカを呼んできますと院長室を出ていった。キルマの態度の豹変にセシーネは戸惑いを覚えていた。

 キルマは、ほぼ満足だった。これで当分《見立て》は逃れられるだろう。それだけは避けたかった。それさえなければ、何とかやって行けそうな気がしていた。それにしても、エランダのこともある。思い切って打った手がよかった。キルマはエランダのことで他にも知っていることがあった。だが、これは噂の段階だった。キルマはエランダがまだ謁見を済ましていないのを思い出した。恥さらしの娘をコンラッド家は謁見に出すだろうかと考えた。国王は謁見を大事にしていた。特に新年の謁見は、貴族たちも大勢やって来るし、また、その後、晩餐会、舞踏会など華やかな行事があった。「爵位持ち」とも呼ばれるいわゆる領主たちにとって、一族のものを謁見に出すということは一族のものか、そうでないかの決め手だった。謁見に出すということは一族にものだと認めることになる。謁見に出ていないものには、爵位を継ぐことが例外を除いて許されなかった。キルマの一人息子もとうに初の謁見を済まし、今は、海から離れようとしない夫に替わり「領地」の面倒を見ていた。後は、孫息子が謁見を済ます時期を待っていた。

 キルマは計算してみた。昨日の王宮へ伺候して、予想以上に歓待を受けた。王妃もメレディス王女も彼女に相談したいことがあるといっていたし、夫は、菜園を国王に案内され、農業にも熱心な「領主」だと印象づけた。

 最後は、ヘンダース王子に夕食に誘われた。それは、一応断ったが、伺候にそれなりの手応えがあった。しかし、夫も自分も国王にそれなりの「信」は得ているが息子は今一つである。その点は少し気がかりだが、打つ手はいくらでもある。

 セシーネが「医学」を学びたがっていることはキルマにもわかっていた。王女自身そういっていたし、これにはモリカに相手をさせとければいい。


 その日の午後、約束事のようにブルックナー伯に《見立て》をした後、彼に気分悪くなることがないかセシーネは尋ねてみた。

「いや、かえって体調はいいですな。まあ、なんだか、こう、気分は悪くないですな」

 セシーネは、また、考え込んだ。ブルックナー伯は、のんびりとした声で「いや、確かに、最初は驚きますよ。だけど、わたしは《治療の技》を拝見したことがありますからな。あれも驚いたのなんのって」

 セシーネは、閣僚たちの前で《治療の技》を披露したことがあった。「御前会議」と呼ばれる会議に呼ばれ、閣僚たちの前に引っ張り出された。国王は、閣僚に皆を驚かすことがあるといって、着ていた服の前をはだけた。それだけでも閣僚たちには驚きだったが、王太子のエドワーズと第一王女のセシーネに「治療の技を見せよ、余がそう命じる」と厳かにいった。エドワーズは、短剣をというと

「王太子、その必要はない。第一王女、この辺りだ。浅く頼む」と丁度胃のあたりを手でさすり示した。息を飲むように閣僚たちが見守る中、セシーネはそのあたりを指でなぞり《力》で切った。その切り傷を国王は、国務卿に確認させた。確かに切れていますと、国務卿はいった。その後、お兄さまといって、場所を譲り、まず、王太子が、国王の切り傷を《治療の技》でつなぎ始めた。その後、王太子が、セシーネといって今度は、その続きをセシーネがつないだ。その場に閣僚だったブルックナー伯はいた。

「王女さま、切り傷を付けたり、治したりは拝見しましたけど、他にはどんなことが出来るのですか?」

「ケンナス先生は、《治療の技》を使うことにとても慎重なんです」

「確か、医学の学士学位はもっているですな」

「普通の医学で治療出来るのならそちらの方が確実だと」

「やはり、一度ご当人にお目にかかった方がよさそうだ。確か、救貧院におるとか、明日、わたしも王女さまとご一緒にして、王女さま、治療師のケンナスにお引き合わせをお願い出来ますか?」

「喜んで」とセシーネは答えた。セシーネは重臣であるブルックナー伯のケンナスへの扱いが変わったのを感じた。かつては、信用が今一つだったが、今はそうでもなさそうだ。セシーネは《治療の技》の理解者が増えること望んでいた。

 翌日、セシーネが、ブルックナー伯とケンナスを引き合わせると、その場にいたキルマが、さあ王女さまはモリカが待っていますからとセシーネを追い立てた。セシーネは、二人がどんな話をするか気になったが、モリカの待っている薬草園へ向かった。

 薬草園は、春が盛りだった。日差しをよけるための麦わら帽を被り治し、セシーネはモリカを捜した。モリカは薬草園の以前セシーネも手伝った、薬草保管庫の建物の前あたりにいた。何か屈み込んでいたが、少し小太りな体と着ている服で見分けが付いた。声を掛けるとまあ、王女さまといって挨拶をした。

「これをご覧下さい。王女さま、虫が付いてしまって」とモリカは薬草の上に再び屈み込んだ。

「虫が付くとどうなるんですか?」とセシーネが尋ねると

「これは、種も薬になるんですけど、虫が付くと使い物にならなくて」とモリカは薬草の花から虫をよけ始めた。

「モリカ先生、これは、何ていう名前でしたっけ。伺ったのに忘れてしまって」

 これはといって、モリカの「講義」が始まった。結局、昼食に呼ばれるまで、セシーネはモリカと薬草園で「講義」を受けながら過ごした。

 昼食の席には、セシーネとキルマ、ブルックナー伯とケンナスの四人がついた。昼食をとりながらブルックナー伯は熱心にケンナスと話し込んでいた。その様子を見ながらセシーネはケンナスがブルックナー伯とどうやら「うまく」やっていると確信した。

 昼食は、王宮でのそれに比べて粗末とまではいわないが、質素だった。キルマがお味は如何ですかとブルックナー伯に尋ねると彼は、食事も大切ですからなとベンダーから聞いた話を披露し始めた。最後にブルックナー伯はケンナスにこういった。

「施療院の成功する鍵は君が握っている。君は我が国の唯一の《治療師》だ。体を大切にな。病人を診るものがケガや病気になっては話にならん」

 国王の重臣からそういわれたケンナスは、少し当惑気味だった。

 馬車に乗り込む際、キルマとブルックナー伯が席を譲り合い、結局、二人はセシーネと向かい合う形で座った。馬車が動き出すと、ブルックナー伯はキルマに救貧院は如何ですかなと水を向けた。

「来た当初はひどい有様でしたよ。だらしないというか、まったく不潔そのものでしたよ。おまけに来るものたちはただで泊まれる宿屋程度に考えているですから、いってやりましたよ。お金がないなら、替わりに働いて貰うと、おかげで、少しは清潔になりましたけど」

 セシーネはキルマが「きれい好き」なのを思い出した。国王はキルマが来てから王宮はきれいになったといったことがある。王太后は「掃除」が苦手で、部屋を散らかすとキルマを呼び、後かたづけを命じていた。キルマは侍女たちに指示しながら、こまめに自分も働いた。セシーネはふと向かい合って座っているキルマの手を見た。節くれ立ったその手はなぜだか働き者の手とセシーネは感じた。

 キルマは饒舌だった。救貧院のあれこれについて語りながら、院長としての実績を誇示しているようにセシーネは感じた。これは、セシーネにというよりブルックナー伯に向けての行為のようにセシーネには思えた。

「いい若い者が仕事もせずブラブラしているんですからね。陛下はよく、働けば暮らしていける国だと仰せられますが、わたくしもそう思いたいですね。働こうと思えば仕事はいくらでもあるんですから。ただ、ケンナスが病気だというので、本人も驚いていましたけど、仕方がないのでしばらくはおいてやることにしました」

「どんな病気ですかな」

「肝の臓が悪いそうですけど、典型的な症状が現れているとか」

「ケンナスは《見立て》でわかったですかな、その病気が」

「いえ、《見立て》だけではないそうですけど。申し訳ございませんけど、ブルックナー伯、《治療の技》や医学に関しては、あなたよりわたくしは詳しいと思いますよ。王太子殿下やセシーネ王女さまをお育て申し上げるのに国母さまを始めいろんな方と随分相談いたしました。陛下がまずは丈夫な体と仰せられて…」

 話を聞きながら、セシーネは叔母のメレディスがキルマを煙ったがるのは、幼い時のことをキルマが覚えているかではないかとふと思った。キルマはセシーネが生まれた時から自分のことを知っているのだ。膝の上に置かれたキルマの手を見つめながらこの手でお尻をぶたれたこともあったと思い出した。

 宮殿に到着すると、三人はいつもの小部屋に向かった。救貧院の院長が国王に面会を求めたことはすでに伝えてある。キルマはここで待たせて頂くといいながら部屋を見回した。懐かしいですねといい「ここは、女官長時代に頂いていたお部屋でしてね」

 セシーネはそのことを知らなかった。セシーネがそういうと、キルマはただうなずき懐中時計を取り出した。時間を見ると再びしまった。セシーネが時間を尋ねるともう王宮へ戻る時間だった。新しい侍女をメレディスが紹介してくれるはずだった。キルマとブルックナー伯にそう告げ、セシーネは王宮に戻った。

 セシーネの新しい侍女、ナーシャはルンバートン侯爵家の出身だったが、侯爵の娘ではなかった。父親は陸軍大佐で、ある師団で副官を務めていた。やたら「着飾って」いたコンラッド母子に比べ、ナーシャ母子は、せいぜい外出着程度だった。初老のルンバートン侯爵夫人は多少「着飾って」はいたが、ナーシャがルンバートン侯爵家で侍女の経験があることを強調していた。

「やはり、一族の娘のしつけはわたくしの責任だと思いましてね。やはり、謁見出す以上、きちんとして貰いませんと。行儀作法だけでなく女としてのたしなみとと申しますか、何処へ出しても恥ずかしくないようにはしつけたつもりですわ」

 セシーネはナーシャに好感を持った。ナーシャは19歳で、婚約もしているということだった。相手は父親の部下でこちらは子爵家の出身だそうで、将来有望な士官だとルンバートン侯爵夫人はいった。セシーネはしばらく様子を見てから決めることにするといった。慎重ねとメレディスはいった。

 ただの王女なら、別に何の問題点はないはずだった。ルンバートン侯爵家にとって一族の娘が第一王女の侍女を努めることはそれなりに利点があった。ナーシャが王女の侍女になることによって彼女にいわゆる「箔」がつくのである。またナーシャが王宮にいることによって、ただ謁見に行くだけではわからない王宮の様子も知ることが出来る。

 貴族たちにとって王家の特に国王の意向を無視することは自殺行為だった。アンドーラで国王は、圧倒的な軍事力とアンドーラ全土に課した王国税を背景に絶対的な権力を手中に収めていた。その絶対権力者の娘であるセシーネは《治療の技》という不思議な力の持ち主だった。新たに第一王女の侍女になるナーシャが《治療の技》や《見立て》にどう反応するか問題だった。部屋頭のメリメは平気なたちだった。毎朝セシーネの《見立て》を受け、時には他の王宮で働く者で体調が悪いものを診てやってくれと頼むこともあった。ただ、これは王太后が亡くなってからでその前は《見立て》の相手も王太后が決めていた。そして、王太后はセシーネに《治療の技》を覚えることより大事なことがあると言い聞かすのだった。

 その祖母の王太后が施療院設立を言い残すとは、セシーネにはその辺りがよくわからなかった。そして、国王の父は自分に何を期待しているのだろう。


 次の日、セシーネはナーシャを伴って日課となっている救貧院へと向かった。馬車の中でセシーネはナーシャにわからないことがあればメリメに聞けばいいといった。

「メリメは長いから、いろいろ教えて貰えばいいわ、服は何着ぐらい持っているの?」

「この服では、まずかったでしょうか?王女さま。あの、絹の服は持っていないんです。謁見の時も侯爵家の伯母から礼服はお借りして、わざわざ作ることもないって」

 ナーシャは昨日と同じ毛織りの簡素な形の服だった。スカートの襞もそれほど取ってなく、セシーネはごてごてせずあっさりしていていいと思った。黒い髪も結い上げてなくて後ろで一つに束ねリボンを結んでいた。

「わたしだって普段はこれよ。謁見や行事には絹の服を着るけど、絹はお高いから。薄汚れた絹の服よりちゃんと洗濯した服の方がいいと思うわ」

 ナーシャは黙って頷いた。

 救貧院につくといつも通りキルマが出迎えた。ナーシャをキルマに紹介した後、セシーネは思いきってキルマに昨日、馬車の中で聞いた肝臓を患っている若者のことを尋ねた。キルマは「それなら、ケンナスに聞いた方がいいでしょう。どうせ、あなたのことだから《見立て》をしたいんでしょう」

 セシーネはキルマに胸の中を見透かされているような気がした。

 ケンナスはセシーネの《見立て》に同意した。ただその前に、普通の医学での診察方法で、肝臓病は見分けられるといった。セシーネはケンナスに教わりながら、その若者を診察した。どうやら「診察」には慣れているようだった。その後、《見立て》でセシーネは、その若者の手からそれを「感じた」。今度は、上着を脱いだ背中に直に手を当て《力》で探った「感じ」がはっきりした。ケンナスは触診も大事だといって《力》を加えずに診てごらんといった。

 ケンナスは、解剖図を見せながらセシーネに患部はわかるかなと尋ねた。若者の肝臓の一部にはれ物が出来ていた。若者も覗き込む。この辺りだなといってケンナスは指でなぞった。

「今のところ、この病気に内科の治療法、つまり薬で治す確実な方法は現在のところない。幾らかいいのではないかといわれているものもあるが、今、アンドーラでは、名医と呼ばれる偉い先生が治療法について調べて貰っている。後は外科、つまり手術をしてこの部分を切るという方法もある」

「切るんですかい?」

「その方がいい場合もある。余り確実ではないが、内科の治療をしてみよう」

 不安そうに若者はうなずいた。注意深く診なければその若者は健康そうに見えた。

 その後、セシーネは《見立て》についてキルマが、気分が悪くなるといってみた。ケンナスは少し苦笑いをし、《見立て》の人体における影響はわからないといった。

「先生、ブルックナー伯は、《見立て》をしてからの方が、体調がいいみたいなことをいっていたわ。メリメは毎朝するけど気分が悪くなるとはいってなかった」

「セシーネ、キルマ夫人が、気分が悪くなるのはその後、いろいろ調べられたりしたからかもしれないよ」

 そうかもしれないと思ったが、セシーネに確信はなかった。ケンナスは《見立て》の正確さを立証するため、《見立て》をした後、その人物をベンダーたちとあれこれと診察したり、研究したりした。その相手によくキルマが選ばれた。キルマは病気でないと言い張ったが、王太后は協力するように申し渡した。キルマが進んでそういった研究に協力しているのではないことは薄々セシーネも気がついていた。

 帰りの馬車の中でナーシャはおずおずと伺ってもいいでしょうかといった。セシーネはいいわよと答えた。

「王女さまはいったい何を、そのう、なさっているのでしょうか?」

「わたしは医学を学んだの。多少だけど。今、陛下は王立施療院を設立してその院長にわたしが就任することをお決めになりました。そのために、わたしはいろいろ勉強をしなくてはならないの。そういうこと」

 セシーネはその後、胸の中で、決まっているのはそれだけと付け加えた。

 その日の午後、なかなか動かなかった王立施療院設立が動き始めた。いつもの小部屋にナーシャを連れて行くと、ブルックナー伯ともう一人の人物が待ちかまえていた。挨拶が済むとブルックナー伯がその人物を引き合わした。

「こちらは工部尚書に決まりそうなニドルフ・レンドル子爵、ニドルフ、こちらが第一王女のセシーネ王女さまだ」

 レンドル子爵は、年の頃は二十代半ばだろうか、ひょろりと背高く顔は鷹か鷲を思わせた。椅子に腰掛けるとセシーネは、振り返ってナーシャに部屋の隅の椅子を指し示した。ナーシャはおとなしく座った。

 ブルックナー伯はいつものように《見立て》をお願いしますかなといって手を差し出した。セシーネはその手首を握り《見立て》をした。

「いつも通りですわ、ブルックナー伯」

 レンドル子爵は、怪訝そうに何ですかと尋ねた。何、《治療師》の診察だ、君もやっていただいたらとブルックナー伯はさりげなくいった。レンドル子爵は、はあ、あのどうすればいいですかと頼りなげに聞いた。何、手を握って貰うだけでいいとブルックナー伯。レンドル子爵は手を差し出した。セシーネはその手首を握ると《力》で探りながら《見立て》をした。レンドル子爵は、ウッとかすかにうめき、目を見開いた。如何ですかとブルックナー伯。セシーネは手を離し、

「そうですはね、特に、悪いところはないです。これといって病気の兆候は見られません。健康といってよろしいでしょう」

「それは、よかった。君、健康だそうだ」

「あの、どういうことなですか、なんだかさっぱりわからない」とレンドル子爵。

「医者が脈を診るのと同じだ。《治療師》は、そうやって診察をするんだ。ケンナスは総合的診察といったが診察法の一つだ。覚えておき給え。さて、王女さま、そろそろ、具体的に計画を練りましょう。王立施療院というからには、建物がいる。陛下は、救貧院をそれに当てたいとお考えなようで。レンドル君、持ってきた図面は?」

 レンドル子爵が、その言葉で我に返ったように机に古い図面を広げた。

「これは、随分、古いんですよ。正確かどうかわからない。ブルックナー伯、もう少し詳しく教えてください。さっぱりわからない。大体《治療師》ってなんですか」

「そうだな、《治療師》というのは、従来のアンドーラの医学とは少し違った治療法で治療をするものことだ。取り敢えず《治療の技》と呼んでいる。」とブルックナー伯はレンドル子爵に説明し始めた。レンドル子爵は確認するように「すると、人間が持っている治す力を引き出すだけだと?」

「普通ちょっとした風邪なら、一晩グッスリ休めば治るし、ちょっとした傷もいつの間にか治っているもんじゃないか。そう、不思議なことじゃない」

「その辺りがどうも」とレンドル子爵は粘った。

「何、そのうちわかる、どのみち《治療の技》はまだ解明ができとらん。大体、薬がどうして効くのか、君にはわかるかね。これは効くと実績があるから、その薬を飲んだりいろいろするだろう。それで治ればその薬が効いたということになる、そんなもんじゃないか。取り敢えず、工部尚書としての君の初仕事だ、がんばり給え」

 はあといってレンドル子爵は、少し不承不承にうなずいた。ブルックナー伯が古ぼけた図面を覗き込みながら、やはり診察室がいるでしょうな、王女さまといった。セシーネも覗き込んだ。

「この図面は、正確かどうかわかりませんよ、ブルックナー伯。これで、わかるのは柱の数と壁の位置。広さも何もわからない。やはり、正確な数字を出さないと、実測したいですね」

 ブルックナー伯が実測と聞き返した。

「ええ、実際、建物の大きさを測った方がいいでしょう」

「それもそうだな。君の明日の予定は?」

 特にないとレンドル子爵がいうと、ブルックナー伯は、早速、明日、救貧院に行こうといい、こう付け加えた

「どの程度の手直しが必要か、計画書を作らんとな。無論、費用もどの程度かかるか、見積もってくれ」

「費用ですか?」

「むろんそうさ、金の計算も出来ないで工部尚書が務まると思うか?」

 セシーネは、ブルックナー伯のレンドル子爵への態度とキルマ・パラボン侯爵夫人への態度が違うの気がついていた。ブルックナー伯は、キルマには鄭重だった。これは、爵位の序列に関係してくるのだろうか。だが、それだけではあるまい。ブルックナー伯は、キルマに「一目」おいていた。

 そして、キルマはセシーネに施療院の設立の協力を申し出た。だが、それはある意味でキルマが救貧院の院長の座を追われることになるのではないかとセシーネは考えていた。キルマはどうしたいのだろうか?

 レンドル子爵は広げていた図面を巻き戻しながら

「わかりました。それもそうですね。しかし、もう少し、その《治療師》について伺いたいですね。すみません、王女さま、もう一度さっきの《見立て》ですか、やってみて下さい」

 セシーネは、黙ったままレンドル子爵を見つめた。お嫌ですかとレンドル子爵は尋ねた。

「気分が悪くなる方もおられますから」

 いや、大丈夫ですと、レンドル子爵。セシーネは、彼の《見立て》をもう一度した。今度は声は出さなかったがレンドル子爵は目を見開いた。

「どう、わかるんですか?どうやって病気かどうかわかるんですか?」

「感じるんです。この辺が重いとかうまくいえません」

 レンドル子爵は、少し考え込んでいたが、共鳴ですかねといった。セシーネが聞き返すと

「音叉ってご存じですか?同じ高さの音に反応して振動、細かく振るえるんです。それと同じように触れるとこう反応が感じられるんじゃないですか?どうですか、ちがいますか?」

「そうかもしれませんな、どうですか、如何ですか、王女さま」

 セシーネは小首を傾げた。そうかもしれいないとだけいった。ブルックナー伯は少し笑いながら

「ニドルフ。君が興味を持つと思った。しかし、程々にな。ところで、王女さま。これは、意見が分かれているところなんですが、施療院を普通の医師をおくかどうかですな。これは、わたしの私見なんですが、わたしはこの施療院を《治療の技》を広める場所にしたらいいと考えておるんですが、如何ですかな」

 セシーネは、そう出来たらいいですけどとだけ答えた。

「なに、ケガや病気の治療をして何が悪いですかな。治療法が少し変わっているで、広まれば、誰も不思議がったりしませんな。そうでしょう、王女さま」と最後は、励ますようにブルックナー伯はいった。

 王宮にナーシャを従えて戻る時、セシーネは彼女にあなたも《見立て》をして欲しい?と尋ねた。ナーシャは口ごもった。無理にとは言わないとセシーネはナーシャにいった。嫌がる人もいるのだ。ケンナスは、リンゲートの捻挫も《治療の技》を使わなかった。今日、診察した若者にもそうだった。《治療の技》でどんなことが出来、どんなことが出来ないのか、セシーネには皆目見当がつかなかった。

 夕食後、自分の部屋でセシーネは机に向かい、ペンを走らせていた。ふと、目を上げて大人しく椅子に腰掛けているナーシャに声を掛けた。

「ナーシャ、あなたも本を読みたかったりしたらそうしてもいいのよ。用がない時はそうしてくれてもわたしは構わないけど」

「あの、それでは、王女さま、刺繍をしてよろしいでしょうか?」

「刺繍台をここにおくのはごめんよ」と刺繍と聞いてセシーネは祖母を思いだした。

「わたしは、あの、台ではなくて、枠で刺繍をいたします。お邪魔にはならないと存知ます」

 枠?とセシーネは聞き返した。ナーシャはうなずいた。

「まあ、見てみて邪魔だと思ったらそういうわ」

 ナーシャはよろしかったら取りに行って来ますといった。セシーネは、いいでしょうと許可をした。

 今日一日だけだが、ナーシャはエランダと違い行儀がよかった。ルンバートン侯爵家で、侍女をした経験のせいか特にこれといって問題はなかった。まるで、自分の方が上だといわんばかりのエランダと比べて、ナーシャは年下のセシーネに対しても年長ぶることもなかった。セシーネより一つ年上のサラボナには少しそんなことがあった。セシーネはよくそっちだって子供じゃないと言い返した。そして、キルマだった。キルマは完全にセシーネを子供扱いしていた。確かに、子供というか、孫といってもいいかもしれない年の開きがあった。

 ナーシャが袋を持って戻ってきた。これですがといって、袋から刺繍の道具を出し、セシーネに見せた。手を広げた位の大きさの丸い枠に布が張られていた。セシーネはこれならいいでしょうといった。ナーシャはお許し下さってありがとうございますと礼を述べた。ナーシャは実に行儀がよかった。


 意外なことに救貧院の院長は丁度いい、少し建物の修理を頼もうと思っていたといった。ブルックナー伯とレンドル子爵を案内しながら救貧院の建物中に入った。セシーネは、一昨日のように追い払われると思ったが、キルマはそうしなかった。そして、キルマはレンドル子爵に上から見るか下から見るかと尋ねた。レンドル子爵は出来れば下からお願いしますといった。

 ロウソクの燭台を手にキルマは地下室へと一行を案内した。階段を下りながらセシーネは誰にいうのではなく、かくれんぼを思い出すわといった。レンドル子爵が、かくれんぼと聞き返した。キルマは素っ気なく「わざと隠れてそれを探し出す子供のお遊びですよ。あなただって小さい頃したでしょう」

「覚えていませんね」

「そうですか。王太子殿下や王女さまがお小さい時よくしましたよ。陛下はお子さまたちを遊ばせるのがお上手でしたから」とキルマの口調は何故か懐かしがっているようだった。

「陛下が隠れてそれを捜したり、逆に陛下が捜す方をなさったり、国母さまもわたくしも隠れたり捜したりして」

 セシーネはふとキルマが自分と同じ時を過ごした人なのだと実感した。確かに色々口うるさかったが、色々なことを教えてくれた人物の一人だと気づいた。わたしは色んな人から学ばなければならない。セシーネは自分の未熟さを痛感していた。

 地下は、ロウソクの明かりだけでは薄暗かった。階段を下り右に曲がると廊下に出た。その廊下に面して木の扉があった。その一つに近づくとキルマは燭台をブルックナー伯に渡し鍵を取り出した。

 地下を一通り見て回ると、レンドル子爵がもう今日は、いいですといった。ブルックナー伯が、君それで良いのかとたしなめた。

「いえ、あの工部省にあった図面はまったく役に立たないことがわかりましたよ。あれでわかるのは、そうですね、体でいえば骨組みだけ、それも足の部分だけです。パラボン侯爵夫人、こちらにはこの建物の図面のようなものはありませんか」

「そういったものはありませんね。何しろ古い建物ですから」

「やはり、実測をしたいですね。そうしてもかまいませんか」

 まあ、いいでしょうとキルマは許可した。

 セシーネはキルマの真意を測りかねていた。キルマにはセシーネのやることが「お見通し」なのにセシーネにはさっぱり見当がつかない。救貧院が施療院になれば、キルマは院長の座を失うことになる。そして、亡くなった祖母の王太后である。セシーネには祖母が《治療の技》を嫌っていたように思えてならなかった。祖母はどうして「施療院」の設立を思い立ったのだろうか。ブルックナー伯は《治療の技》を広める場にしたらとはいってくれたが、父の国王はどう考えているのだろうか。

 院長室で、救貧院院長のキルマが、レンドル子爵に「注文」を出していた。建物は手入れが悪いと長持ちしないですからねとキルマはいった。レンドル子爵が、費用は?と聞くと、キルマはこともなげに「救貧院の方からお出しします」

「施療院の準備金というのがあるんですがな」とブルックナー伯が口を挟んだ。

「それは、どうかと思いますね。これはこれですわ、救貧院をお預かりしている以上、きちんとしておきたいですね」

 確かにキルマのいう通りだった。救貧院に対してセシーネは何の権限もない。セシーネにはキルマの救貧院の院長という座が、不動のようにも思えた。

「ちょっと伺いたいんですが、パラボン侯爵夫人は王立施療院についてはどうお考えですか?」とレンドル子爵。

「結構なことだと思いますね。さすが、国母さま、この国に何が必要かよくご存じだとつくづく感服いたしました。昔からご聡明な方だとは存じ上げてはおりましたけど、わたくしなぞには思いつかないことで」

「僕が伺いたいのは、施療院はいかになるべきかということです」

「それは、わたくしなどが申し上げる筋合いではないと思いますね。陛下がお決め遊ばされることだと思いますね」

「王女さまは、どう思われますか?」とレンドル子爵が今度はセシーネにたずねると一斉に皆の視線がセシーネに集まった。その中で最年少のセシーネは答えに窮した。セシーネは青い目を伏せ「わたしは、《治療の技》だけでなく普通の医学でもケガや病気の治療をしたいです」とだけいった。

「そこですな。《治療師》のケンナスはアンドーラの医学を学んでいる」とブルックナー伯がいうとレンドル子爵が、あってみたいといいだした。

「あなたの役目は、施療院の建物を造ることであって、《治療師》を作ることではありませんよ」とキルマは、息子と言っていい年のレンドル子爵をたしなめた。

 セシーネの知る限り《治療の技》を使えるのは、自分と兄のエドワーズ、《治療師》のケンナス、そしてケンナスの弟子のルシバ、彼は今、兵役についていた。そしてまた、魔術師のガンダスも多少心得てはいた。そのガンダスの連れてきた「見習」の子たちは《治療師》になれるのかどうかさえ疑問だった。

 父の国王から、王立施療院の院長を命じられてから、自分はいったい何をしてきたのだろう。医学を学ぶの夢中で、せいぜいブルックナー伯に《治療の技》について舌足らずな説明をしただけだった。兄のエドワーズのいった通り自分には施療院の院長なんて無理なのだろうか。「医学」ですら、ケンナスやベンダーの足元にも及ばない。セシーネは自分が情けなかった。


 自信喪失気味の第一王女に引き替え、エドワーズ王太子は意気軒昂だった。念願の「重騎訓練」である。はりきるのも無理はない。最初は重い甲冑で身動きさえままならなったが、今は何とか敏捷とまではいかないが、ランセルのいうさまにはなってきたようにエドワーズには思えた。稽古相手の剣の攻撃を左腕の楯で何とか受け止め、右手の剣で打ちかかる。今度は相手が楯で受け止める。そしてエドワーズにまた打ちかかる。

 別に武術に秀でることが王太子の必須科目ではないことぐらいエドワーズにはわかってはいた。だが、心得が多少なくては面子が立たない。それぞれ、海軍と陸軍に属している二人の叔父は武術に関してなかなかの腕前だった。そして、普段は剣を身につけない父の国王も剣術の腕前は確かだったと記憶している。

 エドワーズにはある「計画」があった。それは、かねてから武官たちの間で評判になっていた陸軍のある「行事」に関するものでエドワーズも内心では参加をしたいと願っていた。かつてはその行事はメレディス女王の二番目の王子ヘンダース王子が陣頭指揮をふるっていた。これは、王太子にも納得出来た。ある意味で陸軍は「彼のもの」でもあった。だが、彼が亡くなった今、その息子のチェンバース公爵が口を挟むのは如何なものかと思っていた。そのような「行事」を執り行いたければ自分の公爵領ですればいいのである。王家領で勝手な振る舞いをするのはやめて欲しかった。ましては、一介の伯爵の弟に過ぎない陸軍元帥がいくら陸軍の「行事」とはいえ、陸軍元帥の一存でするのは、言語道断である。

 まぁ、理屈をいえばそういうことであるが、自分の腕前を確かめてみたいというのがエドワーズの本音のところであろう。この「計画」を思いついたのは自分付きの武官のとの昼食の席での雑談からである。現陸軍元帥の若い頃の話になり、ある「訓練」に話が及んだ。この「訓練」は、最初は一軍区の「行事」だったが、やがて当時の陸軍元帥であったヘンダース王子の知るところとなり、アンドーラの各地に駐屯している各師団から選抜された兵士が参加するようになった。無論、指揮を振るうのは亡くなったヘンダース第五王子である。

「まぁ、ご褒美ですな」と参加経験のある退役大佐はいった。彼は、現陸軍元帥と軍学校で同期だった。

「ご褒美?」

「ええ、普段、行いの悪いものは連れてはいきません。こういっては何ですが、手当が出るんです。射止めればということですが、大物ともなればかなりいい値がつきますから」

 エドワーズが興味を持ったのは手当云々より「大物」という言葉だった。自分も「大物」を射止めたくなった。武術の中で、弓術にはかなり自信があった。これは是非参加したいものだと思った。しかし、エドワーズはこの話を聞けば「陸軍」のランセル王子も参加を希望するだろうと思った。まずは、この叔父に話を持ちかけてみるべきだとエドワーズは頭の中で計略を練った。

 ランセル王子は、話に乗ってきた。ランセルにしてみればいささか「重騎戦」に飽きてきたところでもある。おまけにいわば兄の国王への「無心」のような形で近衛師団から本営本部付けにはなったものの「調達局」に配属され、金の勘定や物の勘定に追われていた。陸軍元帥は「金の勘定」の出来ないものに軍を動かす権利などないと素っ気なくいった。いささか不本意ではあったが兄の国王から「実力のない」少佐といわれたばかりである。自分の実力がいかほどか実力のある元帥に尋ねて酷評はされたくはなかった。上官に対する敬礼をしてすごすごと辞令書を持って調達局に赴いた。案の定、書類仕事がランセルを待っていた。そんなランセルにとって甥のエドワーズの持ちかけた話は「渡りに船」であった。

「それもそうだな、いくら王家の出身とはいえ、王家領で勝手にしていいものだか疑問だな。おまけに公爵は陸軍に籍を置いていない。兵役は三年だったかな、確かそんなものだ。ともかくその件に関して調べてみようぜ」

「お願いしますよ、叔父上」

「武術好き」のランセルは快く引き受けた。エドワーズは自分の「計画」の賛同者を一人得た。後は「計画」を練るための情報集めである。軍事用語でいえば「偵察」である。「偵察」なくして「軍略」なし。かくしてエドワーズとランセルは二手に分かれ「偵察」を遂行することとなった。

 当然ながら二人とも計画のための「偵察」ばかり行う訳にはいかない。だが、「行事」の決行は秋である。夏までに「偵察」を完了すればいいとランセルはいった。そしてその時までに自分は父親になっているだろう。これもランセルをいささか落ち着かない気分にさせていた。そして結婚を控えたエドワーズも同様であった。


 さて、エドワーズとランセルが「計画」を練るための「計画」を練っている時、リンゲート王子もある「計画」について自分付きの侍従に持ちかけていた。侍従はにべもなく、そんな危ないことはなさらぬようにと釘を差し、湿布を取り替えましょうとリンゲートがケガの療養中であることを思い出させた。リンゲートは自分の思いつきがなかなかいいものに思え、何処が危ないのかとしつこく尋ねた。

「息が詰まってしまいますよ、さあ、足をここに乗せて下さい」とリンゲートの教育係でもある侍従はキッパリといった。リンゲートは諦めて捻挫した足を差し出した。

 アンドーラの王家は「計画」ばやりである。何しろ、新しい大蔵卿の提言は「計画性」である。その大蔵卿の提案したある「計画」について国王は弟のヘンダースに意見を求めていた。

「うまくいきますかね?」とヘンダースはいささか疑念を表明した。

「うまくいくも何もやってみなければわからんさ。土地税という考え方からいっても不公平じゃないか」

 それもそうかもしれませんがといってヘンダースは兄の国王がすでに「計画」の実行を決意しているのを悟った。

 メレディス王女と王家の妃たちも「計画」を持っていたが、話し合いは昼間と決めていた。そしてセシーネは施療院の設立という「計画」に躊躇していた。その話を父の国王から聞いた時は小躍りする位うれしかった。だが、だんだんとことの重大さに気がつき、自分の無力さに腹が立ってきた。セシーネはふと祖母の言葉を思い出した。やりたいことではなくなすべきことをなせと。そうだわとセシーネは自分に言いきかせた。わたしはやるべきことをやるだけよ。


 次期工部尚書に内定しているニドルフ・レンドル子爵はセシーネ王女に会うのが楽しみになった。お目当ての《治療師》のケンナスは救貧院院長のキルマ・パラボン侯爵夫人とブルックナー伯爵に「お預け」を食らったが、第一王女は眺めているだけでも楽しかった。国王の妹のメレディス王女の美貌も有名だったが、セシーネ王女もその片鱗を覗かしていた。陳腐な比喩だが花ならまだ蕾だろうが、それが花開いたらどんなに見事だろうなとニドルフは思った。彼は、美しい物が好きだった。女性の美しさだけでなく「創造主」の造ったこの世界のあるとあらゆるものが彼の目を楽しませた。そして今「創造主」ではなく、人の手で造ったものに取り組んでいた。

 工部省から連れてきた「手の空いている」ものたちを指図して、救貧院の本館ともいうべき建物の外壁を測り終えると古い図面から写し取った新しい図面にその数字を書き込み、次に地下に移動してその内壁を測ることにした。この実測には救貧院の院長のキルマ・パラボン侯爵夫人は立ち会わず、年取った修道女が部屋の鍵や明かりの用意をした。

 セシーネ王女はモリカの待っている薬草園に行きかけたが、パラボン侯爵夫人に引き留められた。セシーネは再び、混乱してきた。建物の実測に立ち会いながらも、自分のすべきことなのか迷った。だが、キルマは立ち会うべきだと主張した。ここはやがて施療院になるのだからと。結局、その日の午前中は、ケンナスにもモリカにも「教え」を請うことは出来なかった。

 時間だとキルマに急き立てられるように宮殿にセシーネは戻った。宮殿ではブルックナー伯が待ちかまえていた。そこでブルックナー伯は《治療師》か《治療師》でないかと決めるのはセシーネがすべきではないかと主張した。

「無論ケンナスの推挙も必要でしょうが、やはり認定は、第一王女さまがなさるべきでしょう」

 セシーネは自分にそんな権限があるのだろうかといぶかった。後は、施療院をどう運営すべきかという話になった。

 次の日は月例の謁見の日だった。国王ジュルジス三世は即位すると、最低年一度の謁見を「爵位持ち」に課した。月一度、謁見の日を設けその日に「爵位持ち」を始め貴族たちは国王始め王家の人たちの謁見を賜る。特に新年の謁見は華やかであった。

 その月例の謁見の最中、セシーネは施療院の院長として何をすべきかと考えていた。まずはガンダスの連れてきた「見習」の子たちに会って話を聞くべきだと思った。あの子たちの一人でも《治療師》になれれば上出来だ。《治療の技》でどんなケガも病気も治せるわけではない。病床についた王太后に《治療の技》が使われたどうかはセシーネは知らない。記憶では王太后はケンナスを側に寄せ付けなかったように覚えている。その王太后が何故、施療院を思い立ったかはセシーネには見当もつかないが、それはそれだとセシーネは割りきることにした。

 謁見の次の日、救貧院に到着したセシーネをキルマとレンドル子爵が出迎えた。セシーネはレンドル子爵に建物の図面が出来上がったら拝見しますわといって、キルマにケンナスの所在を尋ねた。セシーネが思いついたのは見習たちに自分に《見立て》をさせることだった。そしてけがや病気の治療法を覚えたいかあるいは薬草の世話の仕方を覚えたいかについて聞いてみるべきだと考えた。見習全部にあって話を聞き終わったのは次の「休日」の前日だった。驚いたことには《力》の強弱はあるにしろほぼ全員《力》で探ることが何とか出来ることだった。《見立て》の難しさはその感触を自分の体にどう反応させるかだった。セシーネは約二年かかった。しかし、ガンダスはどうやってこの子たちの《力》を見抜いたのだろうか?

 とにかく、「見習」たちが、多少《力》があることはわかった。後は、それをどう育てるかだ。これについてケンナスは楽観視していたが、セシーネはそう悠長なことはいってはいられないと感じていた。ブルックナー伯は年内に施療院を開設の準備を終えたいようなことを言いだしていた。

 その翌日、休日の日課である菜園の世話を手伝いながら父の国王にセシーネは問いただしてみた。国王は菜園の雑草を抜き取りながらこういった。

「セシーネ、それはやってみないとわからないな。何もやらずに後悔するより、出来る限りのことをやってみる。今のお前にはそっちの方が大事なように思えるね」

 国王の言葉はセシーネを励ますよりも自分に負わされた責任の重さを実感しただけだった。

 実は国王自身も迷っていた。病気やけがの治療する施療院を造ることはその必要性を感じてはいた。きちんとした医療を受けずに病状を悪化させ死んでいく者たちがいかに多いことか。「働けば暮らせる国」が国王の理想である。そのためには国民の健康が不可欠であった。しかし、《治療の技》は別問題である。それは、国王の頭を悩まし続けた。最初の結婚で生まれたエドワーズとセシーネは不思議な《力》を持っていた。その扱いに父である国王は苦慮していた。王太子のエドワーズはそれを自分の「特技」ぐらいに捉えていた。《力》を使わずとも体調に異変が起きるわけでもなく、見せびらかすのはとうにやめていた。問題はセシーネ王女の方だった。先の王妃がまさに命をかけて生んだ王女は《力》を使わないと体調を崩すことがあった。

「あの子は一生ああよ」とまるでセシーネが化け物であるかのような王太后の口振りだった。諦めましょうと王太后はいった。王太后のいう諦めるというのは第一王女セシーネとメエーネの王太子との縁談だった。メエーネの国王は姪をアンドーラへ嫁がす代わりにセシーネと自身の王太子との縁組みを望んでいた。アンドーラの王室にとっても悪くない話だった。だが、断るには口実がいる。まさか、王女が奇妙な《力》を持っているという訳にはいかない。そこに女官長だったキルマが妙案を出した。

「もしもです、こちらに王子さまが生まれ、あちらには王女さましか生まれないとしたらどうでしょう?メエーネは女王を即位させるでしょうか?」

 国王は、したりと思った。キルマはなかなかの「知恵者」であった。

 肝心の第一王女セシーネはこの話をまったく聞かされていなかった。セシーネは、今度は薬草園の薬草について書き記すことをし始めていた。その横では侍女のナーシャが刺繍に精を出していた。ナーシャは聞き分けのいい侍女だった。部屋頭のメリメともうまくいっていた。

「やはり、武官のお嬢さんというのはしっかりしていますね。堅実というか浮ついたところがなくて」

 セシーネは古株のメリメとナーシャがうまくいっていることにホッとしていた。侍女のあれこれで気を遣っていては肝心の「勉強」がお留守になる。セシーネは貪欲に「医学」に取り組んでいた。


 ニドルフ・レンドル子爵も貪欲に「知識」の吸収に取り組んでいた。まずお目当ての《治療師》のケンナスにも引き合わせて貰った。ケンナスは格別変わったところがない普通の中年の男でどこにその不思議な力を秘めているかニドルフにはわからなかったが、その目は知性にあふれていた。

「別に、角が生えてもいないし尾っぽがはえているわけでもありませんよ」とニドルフの率直な質問に《治療師》は苦笑いをしてそう答えた。《治療の技》についても質問してみた。

「《治療の技》が治すのではなく治すのは本人ですからね。同じ薬を飲ませても治るの早い者もいればそうでない者もいますよ。結局は本人の体力というか治癒力ですね」

 ケンナスの説明はニドルフにはわかるようでわからなかった。

 当惑気味のニドルフ・レンドル子爵をキルマ・パラボン侯爵夫人は冷ややかに見守っていた。《治療の技》に初めて遭遇した者は二通りの反応を示す。見たものを肯定する者、そして否定し見間違いだと自分に言い聞かす者。キルマも最初は後者だった。だが「実験」を重ねる内に恐れながらも認めざるえなかった。あらゆる文献が密かに調べられ、国王と王太后の御前で様々な検討が重ねられた。ただ一人悠然と構えていたのはガンダスだけだった。そして得体の知れない男を国王の前に連れてきた。それがケンナスだった。

 ケンナスは自分の母親から《治療の技》を教わっていた。ケンナスは十歳までアンドーラの隣国サエグリアの祖母の元で暮らしていたが、ある日、母親が現れ息子に《治療の技》を教え始めた。息子にも《治療の才》があることを知った母親は息子と共に街で暮らし始めた。「薬草売り」が隠れ蓑になっていた。その母親の母親であるケンナスを育ていた祖母も「薬草売り」だった。ケンナスの母親の「薬草」は効き目がよかった。だが、商売敵が「密告」をした。サエグリアでは「魔法」は男だけに許された「技術」である。女が使うとそれは「聖者」チングエンへの冒涜とされた。その時ケンナスがどうやって難を逃れたかは、キルマは知らない。ケンナスも多くは語らなかった。ただ、流浪の旅でガンダスと知り合いアンドーラへたどり着いた。

 キルマは《治療の技》に興味新々のレンドル子爵にキリないですよと声を掛けた。

「治療法の一つですよ。あなたが医者になりたいのなら別ですけどね。そんなことよりこの建物の雨漏りを直してくれた方が有り難いですね」キルマは自分の声が落ち着き払っているのが心強かった。先王ジュルジス二世が「竜に浚われて」以来、アンドーラでは奇妙なことがおこっていた。魔術師のガンダスが現れ、そして王太子と第一王女は奇妙な《力》を用いてはケガを治してみせる。キルマに出来ることといえば気を失わずにしっかりその目で現実を見つめるだけだった。

 《治療の技》に未練たっぷりのレンドル子爵にキルマは目の前の仕事を思い出させた。

「陛下は、怠け者はお好きではないんですよ。ここに座り込んでおしゃべりをしているようでは工部尚書のお役目なんてとても務まりそうもありませんね」

「それなんですが、なんで僕なんですかね」

「そんなことは陛下がお決めになることです。わたくしが知るわけないでしょう」

 確かにキルマは知らなかった。このことにいささかキルマは内心の焦りを感じていた。王太后の生前、主な人事は事前にキルマの耳に入っていた。国王は事後承諾ではあったが、必ず王太后に就任前の報告を欠かさなかった。王太后はそれに対して何か一言いわなければ気が済まなかった。その席にキルマも同席していた。国王の決定が覆ることはなかったが、国王は王太后の助言を聞くことは聞いた。ただ助言を受け入れるかどうか別だった。そういった時、国王は父親のジュルジス二世のよく使った「手」を用いた。閣僚たちが反対している、あるいは賛成している。そうして国王は母親の王太后からの「くびき」から逃れた。

 キルマには工部尚書の交代があるのはわかっていたことだが、その後任にこの青年が選ばれるとは思いもかけないことだった。国王は何を見込んでこの人選をしたのだろう。現工部尚書は温厚な人物で、人当たりがよかった。しかし、キルマは幾らか慰めを見いだしていた。「勅命」を受ける前にこの青年と知己を得たことはキルマにとって「損」はない。どう扱えばいいのかも検討はついている。好奇心旺盛な彼の興味を引きそうなことはいくらでもあった。これは「使える」とキルマは思った。

 ニドルフ・レンドル子爵は、本来の仕事である救貧院の建物の実測に戻った。《治療の技》の究明を彼は諦めたわけではなかった。彼にとってこの世界がどうなっているかを知ることは彼の知識欲を満たす格好の研究材料だった。いわゆる「教会」の司教たちにいわすとこの世界は「創造主」が造った。だが彼は頑迷な司教たちにその「創造主」を誰が造ったか尋ねたかった。だが、その問いかけは冒涜だといわれた。大体誰が「創造主」がこの世界を造った時を目撃しているのだ?司教たちの主張は推論に過ぎないと彼は結論づけた。

 アンドーラでは、メレディス女王以来「信教」の自由は保障されていた。何を拝もうが自由である。その代わり、他者に強制は出来ない。かつては王ですらその支配下においた「聖徒教会」はその力を失い、今は歴代の王の霊を慰めるだけの存在になりつつある。これは教義において否定されたためでなく、経済的理由で衰退していった。メレディス女王とその夫のチェンバース公爵は抜け目なかった。それまでアンドーラの全ての人に課せられた「教会税」を撤廃したのである。女王は抵抗する司教たちを看破した。

「そなたたちの教えが正しいというのならその証拠を余に見せよ。見せぬのなら余は信じたりせぬ。信じたい者だけがその教えに耳を貸せばいいことじゃ」

 「聖徒教会」の勢力が弱まったおかげで人々は発言の自由を取り戻した。アンドーラの論議好きはその時からだといわれるが、学問も自由を取り戻した。即位にあたって宰相でもあり夫でもあるチェンバース公爵は新婚の妻に「大学」の設立を勧めた。アンドーラ王立大学である。それまで学問の域においても支配を及ぼしていた「聖徒教会」は、その影響力を低下せざる得なかった。

 「聖徒教会」も手をこまねいていたわけでもない。死への恐怖が人々の足を教会に運ばした。そこで「創造主」の怒りを和らげるために寄付が集められ、人々の信仰心がその金額で試された。この傾向はある司教の発言力に比例して高まっていた。

 しかし、大部分の国民は日々の暮らしに追われ、死後の世界への興味より現実の生活の苦楽に心奪われていた。何しろ「働けば暮らせる国」が国王の理想である。勤勉さは尊ばれ、享楽的な人物は「お気楽な」と蔑まされる。それは「聖徒教会」の教義にも反してはいなかった。

 つい最近までただひたすら自分の知識欲を満たすだけの日々を送っていたニドルフ・レンドル子爵は、別な知識欲にそそられていた。救貧院の建物は大いに彼の好奇心を刺激した。数字を図面に書き込みながら「人がこれを造ったなんて驚きませんか?」

「石組みの建物が珍しいのですか?そちらの方が驚きですね」と救貧院院長のキルマ・パラボン侯爵夫人は素っ気なかった。ニドルフはこのパラボン侯爵夫人が並々ならぬ頭脳の持ち主だと察していた。キルマは続けた

「図面を造るのはいいですけど、陸軍がなんといいますか」

「なんで、陸軍がでてくるんです」

「あなたは宮殿の建物の図面を見たことがありますか?」

「そういえば工部省にはなかったですね」

「わたくしは拝見したことがあります。ただ、保管には十分配慮が必要です。ここの図面も陸軍が何かいってくるかもしれません」

「なんだか、さっぱりわかりませんね、なんで陸軍が口を挟むのです?」

「宮殿にしろいわゆる役所の建物にしろ、国の主な建物の図面の保管について陸軍はうるさいんですよ」というキルマ夫人の言葉にニドルフは面食らった。

「どういうことなのかご説明して頂きませんか?」とニドルフはまさにお手上げだと両手を上げてキルマを見た。

「つまり、軍事機密というわけですよ」

 ニドルフはその言葉に顔をしかめた。ニドルフの兵役は陸軍が一年、海軍が一年、階級は下士官だった。大学の入学資格があるので新兵訓練の後、伍長となったが陸軍ではさんざんだった。その後、海軍に移りそちらでは天文学の知識を買われ幾らかましな待遇を受けた。最初から海軍にいけばよかったが、なくなった祖父が航海の危険性を言い立て陸軍への入隊手続きをニドルフに無断で取ってしまった。ニドルフには陸軍との相性が悪い。噂では切れ者の陸軍元帥とは面識もなく「軍事機密」云々といわれたらことが面倒になると思った。しかし、女性の口から「軍事機密」という言葉がでてこようとは……

 当惑気味のニドルフを残してキルマは自分の聖域、院長室に戻った。キルマが救貧院の院長を引き受けたのは困窮者の救済に賛同したわけではない。女官長の職も何度か辞職を申し出た。引き留められるのはわかっていたがやはり、先代カルチェラ伯の提唱した官の「定年制」という理由もあった。辞職の申し出の度に王太后と国王に引き留められ、結局王太后の死を看取ることになった。そして、この救貧院に赴いたのは王太后が何に「無駄遣い」をしたか突き止めるためでもあった。そして証拠はないがある程度の目星はついた。

 この報告を国王は重いため息と共に受け止めた。キルマは王太后について聡明な方なのにともいわなかった。国王は、ただ証拠はないのだなと念を押した。キルマは黙ってうなずいた。国王は目を細めるとキルマに当然とも思える指示を出した

「このことは当分、君の胸の内にしまっておいてくれ。無理に証拠集めなぞするな、いいな」

 キルマは顔を引き締め、畏まりましたと頭を下げた。

 キルマは王太后の気持ちがわからないでもなかった。「竜に浚われた」先王の失踪以来、常識では考えられないことが王家におこった。それは、王太后にとって第一王女の誕生以来、王家の不幸が続いているかのようだった。さすがに口には出さないものの王太后の気持ちが、キルマには手に取るようにわかった。王太后にとって第一王女のセシーネは不幸をもたらした張本人だった。だが、冷静に考えてみればそれは王太后の八つ当たりだった。セシーネが王太后になつかないのも王太后を苛ださせた。そして、王太子と王女の不思議な《力》が王太后を恐怖に陥れた。幼い王女はその青く澄んだ目で王太后を見返しこういった

「だって、できちゃうんだもん。痛いの治れといってさすると治るんだもん」

 王太后の恐怖は王太子がその遊びに飽きると少し収まった。国王は王太子にそれが出来るのはよくわかった、他には何が出来る?と尋ね、他の遊びに誘った。王女もその誘いに乗った。母親のいない二人にとって父親の存在は大きかった。キルマの見るところ国王はいい父親だった。そしてその父親である先王ジュルジス二世もいい父親であったし、いい夫でもあった。だが、竜に浚われてしまった。

 しかし、真相は竜巻に巻き込まれたことをキルマは知っていた。メエーネからの帰途、予期せぬ天候に遭遇し運悪く先王だけが船上から消えてしまった。その知らせに王太后は気丈に振る舞っていたが、やはり動揺は隠せなかった。だが、先王のために喪服を着ることだけは拒み続けた。国王も先王のために葬儀を執り行ったりはしなかった。記録上は「行方不明」のままである。


 アンドーラ王国の国王ジュルジス三世は、封蝋に押されている何度か見たことのある「紋章」を見つめていた。机を挟んで向かい合っている人物に掛けたまえと声をかけた。

「見下ろされるのは好きでないのでな」

 目の前の人物は椅子に腰掛けた。

「この紋章はどう意味かな」と国王は尋ねた

「我が国では龍は尊いものです。我が国に恵みをもたらす有り難い存在です。それを紋章に用いることはわたしには残念ながら許されておりません」

 ともかく拝見しようと国王は封蝋を破り中に書かれている文章を読み始めた。それは国王にも読めるアンドーラの文字で書かれていた。それは遠い異国からの手紙だった。その国との交易はアンドーラというよりチェンバーに豊かな富をもたらしていた。その富は貴族にも平民にも分け隔てなく懐を暖めていた。その分け前にあずかりたかったら、船に乗り込み荒波を乗り越えていけばよかった。そしてその国からも富を求めて船がやってきた。王都チェンバーの港は交易でにぎわっていた。

 その国はいつも礼儀正しかった。ことあるごとに様々な挨拶の親書と贈り物が贈られてきた。こちらからは自分の代に限ってだが立太子礼らしきものが行われたと聞いて贈り物をしたことがある程度だった。手紙の内容は、その国の国主とでもいうべき人物の後継者が見聞を広めるためにしばらくアンドーラに滞在したいということだった。その国では支配者を「王」とは呼ばないらしい。無論、国王はその国とは話す言葉が違うことは知っていたが。

 アンドーラの支配者ジュルジス三世は自分の後継者エドワーズ王太子に思いを馳せた。近頃「重騎訓練」に熱中している息子は随分大人びてきた。結婚が彼をまた大人にするだろうと国王は思った。同じ年に国王は最初の結婚をしその一年後には父親になった。

 王太子のエドワーズをメエーネにいかせるべきか論議の的になったことがある。結局は大した用もないで終わってしまった。父の先王がメエーネに赴いた時は、メエーネにとって試練の時だった。国王と王太子が相次いで病に倒れ国王の二番目の王子が急遽王位についた。ロバーツ王である。ロバーツ王はアンドーラの先王、ジュルジス二世を歓迎し、国王としていかにあるべきか教えを乞うた。ジュルジス二世はしばしメエーネに滞在しその王権の強化に助力した。その後何度かメエーネとの往復で「行方不明」になった。龍に浚われて……

 その龍を紋章に用いる国との交易はチェンバーをそしてアンドーラに富をもたらしていた。


 エドワーズ王太子は「重騎訓練」に明け暮れていた。朝起きるとまず馬の世話をする。馬なくして騎兵はあり得ない。その後、侍従の手を借り甲冑を身につける。食事もせいぜい籠手を外し、兜を脱ぐ程度である。甲冑を脱ぐのは夜寝台にはいる時ぐらいだった。無論その前に入浴することもある。この訓練を始めてから、昼食は図書室で王妃たちとは別に取るようになっていた。彼には「計画」が幾つかあった。その中の一つが成功しつつあった。今度の休日に陸軍元帥を呼び出すことに成功した。

 メレディス女王の王子でもあったヘンダース第五王子なき今、陸軍でその辣腕を振るっているのは陸軍軍学校の一期卒業生の軍略の才に恵まれた陸軍中将である。アンドーラの将官制度では現役でいる間その最高位は中将である。退役する時に中将時代の功を鑑みて功があれば大将位を贈られる。したがって退役大将はいても、現役の大将は一人もいない。軍学校時代からその才を見込まれていたその中将は当然のように陸軍の最高位についた。その彼から直に、ランセルが勧めた彼の立案でもあるゲンガスル戦の話を聞こうと思っていた。これは王太子として当然知らなければならないことでもあった。だが、元帥の任務の邪魔をする気はさらさらない。

 エドワーズは休日でもないのに父の閣僚たちを呼び出すほど尊大ではなかった。亡くなった祖母はしばしば閣僚を呼びだし「すっぽかされて」いた。彼らが王太后の元にやってくるのは翌日かそのまた翌日だった。業を煮やした王太后は王太子の名前で呼びだし国王の怒りを買った。夕食の席で国王は王太子を叱責した。身の覚えがないエドワーズはびっくりしてそんなことはしていないと父に弁明した。国王はそうかと呟きこういった

「閣僚たちは遊んでいるんではないんだ。尋ねたいことがあったら手の空いている時にきて貰いなさい。それくらいはわかるな」

 その後、エドワーズの部屋を訪れ、父である国王はエドワーズに勉強ははかどっているかと尋ねた。エドワーズは幾つか質問をし、父はそれに答えてくれた。そして、部屋に飾ってある母の肖像画に目を留めるとすぐ目をそらした。エドワーズにとってそれは唯一母を思い出す品だった。母の遺品はその時には全て片づけられエドワーズの手元にはその肖像画だけが残った。そして今でも肖像画の母は彼に微笑みかけていた。

 ともかく、エドワーズは「休日」を楽しみに待つことにした。だが、例の「計画」についてうち明けるにはまだ早い。叔父のランセル王子もここは慎重にといった。

「何しろ数が多いらしい。矢を射れば向こうで当たってくれるという寸法らしい。ただ、牝鹿をやると馬鹿呼ばわりされるらしい。何しろ雌は子供を増やすからな。我が陸軍も鹿ぐらいしか今のところ戦う相手がいないわけだ。まぁ元帥閣下は甥の大蔵卿とやり合ってはいるみたいだが」

 エドワーズはランセルの言葉で先の大蔵卿のブルックナー伯が「王立施療院」の設立に手を貸しているのを思い出した。そのことに触れるとランセルはまぁお目付役みたいなもんさと肩をすくめた。

 エドワーズも《治療の技》に興味を失っているわけではない。だが、ケガの治療はしたがるセシーネに任せた方が無難だった。《力》を見せつけても相手は驚くだけでそれは子供っぽい行為だった。もう子供ではない。

 《治療の技》にも限界があることをエドワーズは気づいていた。限界がなければ王太后も第五王子も死なずにすんだ。そして、ケンナスが宮殿にもっと早く現れば、母も死なずにすんだかもしれない。死者を生き返らすことは《治療の技》でも魔法でも不可能だった。


 来月、工部尚書に就任することが決まっているニドルフ・レンドル子爵は元大蔵卿のブルックナー伯爵を訪ねていた。昼間、救貧院院長のキルマ・パラボン候爵夫人から聞いた話が気になったからである。

「軍事機密なんて少し大げさすぎませんか」

「施療院設立だって、機密事項だよ。特に《治療の技》に関しては慎重に対応する必要がある」

 ニドルフはブルックナー伯の意外な話ちょっと驚いた。

「ちょっと待って下さい。あなたまでそんなことを」

 ブルックナー伯は、まだ若さのあふれているニドルフを少しうらやましく思いながらも「ニドルフ、考えてもみたまえ。わたしは《治療の技》を拝見したことがあるがその時ははっきり言ってぎょっとしたよ。アンドーラは魔法を特に違法とはしていないが、違法と決めつける国もある。特に女性が使う場合は」

 ブルックナー伯の言葉にニドルフは思い当たった。「福音教会」だった。「聖者」チングエンを教祖と仰ぐその宗派は「魔法」に一定の基準を設けていた。いい「魔法」とそうでない「魔法」と。そうでない「魔法」を使うのは禁じられ、それを使ったものは「死罪」だった。特に女性に関しては汚れた「魔法」しか使えないとされ、多くの女性が処刑されていた。

「しかし、ブルックナー伯、《治療の技》は魔法なんですかね」

「わたしは治療法の一つだと思っている。大体、魔法がどういうものか、君だってわからないじゃないか」

 確かにその通りだった。ニドルフはまだ少女といってもいい第一王女のセシーネの顔を思い浮かべた。青く澄んだその瞳は「汚れて」なぞいないとニドルフは思った。


 アンドーラの第一王女は自分の部屋で薬草の調べものをしていた。モリカから教わった薬草の名前やその薬効を紙に書き記し、頭の中の新たな知識を整理していた。その横で侍女のナーシャがおとなしく刺繍をしていた。セシーネはナーシャにそろそろ休みましょうと声をかけた。ナーシャは刺繍から目を上げハイと返事をした。それから、おずおずとお願いがあるんですがと切り出した。セシーネがなあに?と促すとナーシャは

「プルグース子爵家のことなんですが」

「プルグース子爵がどうかしたの」

「わたしの婚約者はプルグース子爵家の出なんです」

 ナーシャは事情を説明し始めた。ナーシャの婚約はルンバートン伯爵家でもプルグース子爵家でも歓迎された。ナーシャの父親は陸軍大佐である。ルンバートン伯爵家では将官制度が出来て以来その最高位は大佐である。それはナーシャの祖父だった。ルンバートン伯爵はナーシャの父親がもう一階級昇進し将軍と呼ばれる地位まで昇ることを期待していた。一族の中で将軍位のものがいるといないとでは「箔」がちがう。王家の各種の行事で将軍は「領主」と同じ扱いを受けた。ナーシャの婚約者はナーシャの父親の部下である。彼も武官での栄達を望んでいた。彼自身はプルグース子爵家の当主のいとこの息子である。その子爵家の当主の一人娘がもうじき初の謁見を控えていた。ナーシャが第一王女の侍女になった話がプルグース子爵夫人の耳に入り、自分の娘も第一王女の侍女として王宮に伺候することを望んでいるということだった。

 貴族たちにとって王家の人々に親しく知己を得るということは重要だった。アンドーラは法治国家である。あらゆる面で法が定められ、それに則り国家運営がなされていた。だが法は紙に書かれた書物である。それを生かすも殺すも人次第である。法の適用において多少の情実が絡むのは止む得ない。権力者の「取りなし」で罪を軽減されることもある。それだけではない。あらゆる面で貴族たちは「宮殿」の意向を伺った。自分たちの身分が保障されるのは、国王がそう認めたからである。王家に刃向かって貴族という身分を剥奪されるような愚挙をする気にはなれなかった。貴族と平民と比べると貴族は遙かにアンドーラでは「優遇」はされていた。

 ナーシャの話を聞いてセシーネは少し考えた。ナーシャはそれなりに気に入っていた。出しゃばらず慎ましかった。ナーシャにとって婚約相手のプルグース子爵家に「恩」を売ることは決して損ではない。

「あなたはやめたいの?」

「いえ、王女さま、出来れば一年間は勤めたいと思っています。出来ればなるべく長く」

「まぁ、いいわ。その子に会うぐらいはしてもいいわ。それから決めましょう」

 ナーシャはホッとした顔をして礼を述べた。

 セシーネは自分の侍女を増やすことは余り考えていなかった。普段は部屋付だけで十分だった。ただ、行事にはそれ用の侍女が必要だった。第一王女にふさわしい身分の侍女が側に付き従わなければならなかった。

 セシーネは十二歳から自分にかかる費用に計算をさせられていた。侍女たちの手当も自分で決めていた。その時、部屋付たちの手当を少し上げた。ナーシャの場合は一年勤めれば謁見の時に貸した礼服をやることで話が付いている。ナーシャは、一着は欲しかったといって喜んだ。

 ナーシャはメリメに勧められてセシーネの《見立て》も受けてみた。メリメにいわせると《見立て》をして貰うと食が進むという。確かに胃腸が弱かったメリメは丈夫になった。ナーシャはこれで病気がわかるのかと尋ねたがセシーネは首を振った。

「これで病名がわかるわけではないの。他にも診断方法が色々あるの。痛みがあるとか色々あるじゃない。後はどう治療をするかそっちのが大切だわ」

 ナーシャは黙って頷いただけだった。ともかくナーシャは不思議な《力》を持つ王女を穏やかに受け止めて始めていた。





講義名 「アンドーラ王国における国政制度のあり方」

「各役職名とその実態について」

「何故、工部大臣だけが、工部卿ではなくて、工部尚書と呼ばれるのですか?」

「それは、メレディス女王の即位と共にチェンバーに遷都の布告をして、新たな王都建設に工部省という部署を設け、そこに各職人組合の職人たちが徴収されたのは諸君も歴史で知っているだろうが、その時に女王と宰相であるチェンバース公爵が、職人組合の解散させ、職人組合の総元締めであったマルケス・ヨードをその工部省の大臣に任命しただが、その時マルケスの身分は平民だったため、「卿」という爵位のある貴族の尊称でもある呼び方は、ふさわしくないと判断され、古い文献にあった「尚書」という呼称を持ち出してた訳だな。その後、マルケスは、爵位を授けられるのだが、それは工部省の大臣を退いた後であった。現在の工部大臣は、爵位をお持ちだが、女王時代の慣習のまま今も工部大臣は「工部尚書」と呼ばれている。まあ、あえてそれを変えようという提言もないようだからね。王家は、女王時代の風習は、なるべく残そうとしていると推察することができるな」

アンドーラ王立大学法学部 法学部部長 

バルックス・スタバイン法学博士の講義録より

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ