侍女の条件
施療院の準備を進めながらも、セシーネは王女としての努めも果たさなくてはなならなかった。
王女付きの侍女として侯爵令嬢のエランダが王宮にやってくるが、セシーネの侍女と言う役目に不満顔だった。
そして、ある夜エランダはとんでもない行動に出るのだった。
「施療院」の計画は遅々として進まなかったが、セシーネには「施療院」は「医学」を学ぶいい口実だった。しかし、《治療の技》を嫌っていた祖母の王太后が何故「施療院」の設立を思い立ったのかセシーネには皆目見当がつかなかった。確かにケンナスの「授業」に祖母は同席したが、セシーネの王太后自身への《見立て》も《治療の技》も頑固として許さなかった。そして、時間が来るとケンナスを下がらせ、“第一王女”としての勉強をセシーネに強いた。その大部分は立ち振る舞いに費やされた。王太后にいわすとセシーネの動作はがさつで品性に欠けるということだった。刺繍をしている祖母の横に行儀よく座り、アンドーラの第一王女はどうあるべきかという祖母の「講義」を受けるのが、セシーネの午前中の日課だった。
この日、《治療の技》をそれなりに理解を示し始めたブルックナーにセシーネは、以前から疑問に思っていたことについてたずねてみた。彼は、快く調査を約束してくれた。
「確か、救貧院の運営は国母さまの持参金の一部からその費用は賄っていたはずですが、一応、調べてみましょう」
セシーネは礼儀正しくお願いしますといった。アンドーラの国母である祖母は、セシーネに常々重臣たちはお前の家来ではありませんよといっていたが、祖母自身は家来のように扱っているようにセシーネには思える時もあった。ブルックナー伯が懐中時計を取り出し、そろそろお時間ではといった。セシーネのこの日の午後の日程は、他にもあった。
その予定のために、セシーネは王宮の自分の居室へと急いだ。ブルックナー伯と話し込んで少し、時間が過ぎてしまったようだ。だが、走ったりはしない。少し早足程度である。歩きながら護衛の一人に話しかけた。
「お肉の件はもういいわ。それより《治療師》の見習というか《治療の技》を習いに来ている子たちの方を調べてみて、薬草園を計画しているかどうかその辺りを聞いてみて」
「薬草園ですか」
「どうやら、《治療の技》を習うより、薬草を育てることに興味があるみたい。そうね、どのみち、男の子たちは兵役があるし、その辺りから仲良くなってみるというのはどうかしら?ともかくやってみて、お願い」
ともかく護衛は引き受けた。護衛の近衛兵たちはしばしば王家のものたちから「お使い」を頼まれた。彼らの本来の役目は国王を始め王家の人々の「身辺警護」ではあったが、救貧院の食事内容を調べるというセシーネの頼みに第一王女付きの近衛兵たちはなにやら面白そうな表情で引き受けてくれていた。近衛兵を使いこなすぐらい出来なくては“第一王女”とはいえないとセシーネは考えていた。
キルマの身分を考えろという言葉に自分の服装かしらとセシーネはふと思った、今日も“第一王女”とはいえないような粗末な服を選んで着ていた。別に服で立派な人物どうかは判断出来ないが、服で身分が多少はわかる場合もあった。セシーネは護衛たちに着替えると告げた。
いつものように王宮の自分の居室の前で立ち止まったセシーネに、部屋の中を調べた護衛の一人がお客人がいますぜと報告した。セシーネが王宮の自分に部屋にはいる前に護衛に調べさせるのは身の安全のためではない。宮殿のあちらこちらに近衛兵が配置され、警備は厳重だった。セシーネが護衛たちに部屋の点検をさせるのには別の理由があった。妹のエレーヌ王女は姉の留守中こっそり姉の持ち物を散らかすという子供らしいいたずらをすることがしばしばあった。その現場を見つけようと自分付の近衛兵たちに「偵察」を頼んでいた。しかし、今回はエレーヌではなく別な人物だ。今日の予定であうはずの人物であろう。どうやら先に来て待っていたらしい。部屋に通したのは、多分、叔母で女官長のメレディスの仕業だろう。セシーネはこの人物に会う前に王女らしい服に着替えたかったが、仕方ない、覚悟を決めてセシーネは部屋の中に入った。部屋の中には着飾った二人の女が椅子に腰掛けていた。無遠慮にセシーネをじろじろと見て立ち上がろうともしない。セシーネは二人に近づいた。セシーネが口を開く前に若い方が
「ちょうどよかったわ、わたくしのどが渇いたの、お茶を持ってきて」と甲高い声でいった。どうやら粗末な服のセシーネを侍女と間違えたらしい。無理もないとセシーネは思った。セシーネが、その朝、選んだ服は王宮で下働きをしていた者から手に入れたものだった。セシーネは別に腹も立たなかったが、
「わたくしはあなたの侍女ではありません」といって奥の寝室の方に向かおうとした。年上の方が今度は
「失礼ですけど、あなたもセシーネ王女さまの侍女になられるのかしら」と尋ねた。セシーネは近衛兵が護衛をしている人物が誰なのか推測出来ない二人に「鈍いわね」といってやりたがったが、ただ、違いますと返事をして寝室に入った。化粧台の上に手に持っていた麦わら帽子を置こうとしてセシーネはハッとした。抽斗の一つが少し開いていた。抽斗を開けて中を確かめた。かき回した形跡があった。セシーネは、抽斗の中をもう一度いつものように戻すと続き部屋に戻った。年上の方が再び王女さまはいつお戻りになるか聞いてきて欲しいといったが、セシーネは無視して、扉の前で笑いをこらえている護衛の一人に
「エレーヌ第二王女さまを呼んできて頂戴」と命じた。怪訝な顔をした彼にセシーネは、いそいでと急き立てた。やはり怪訝そうな年上の女の方が、口を挟んだ。
「第二王女さまではなくて第一王女さまの方だと伺っておりますけど」
セシーネは、逆に女官長のメレディス王女はと尋ねた。若い方がわたくしはあんたの侍女じゃないといった。セシーネはただ、あ、そうとだけこたえた。
エレーヌ王女は走ってセシーネの前に現れた。セシーネは妹に王宮の廊下を走るなと注意をしようと思ったが、ズバリと本題にはいることにした
「エレーヌ、勝手に人の抽斗を開けたりしたらだめよ。借りたいものがあったら、ちゃんと断ってから、して頂戴。いいわね」
エレーヌは口をとがらせ、そんなことはしていないと答えた。セシーネは、あらそうだったかしらと妹をジッと見つめた。エレーヌは、今日はお姉さまの部屋へは自分は入っていないと再び言い張った。別の疑念がセシーネの頭をよぎった。セシーネは、妹に借りたいものがあったら断ってから借りるように約束させると、戻っていいといった。そこにメレディス王女が現れ、エレーヌにこんなところで何しているのと尋ねた。セシーネは妹に代わって、借りたいものがあるかどうか聞いてみただけよと答えた。女官長は
「あら、そう、エレーヌはお勉強に戻りなさい」
エレーヌは何か不服そうだったが、セシーネがお勉強の邪魔をして悪かったというと、おとなしく戻っていった。女官長のメレディス王女は、セシーネの服を少し非難がましくみたが「セシーネ、改めてご紹介するわ。コンラッド侯爵夫人とエランダ侯爵令嬢」と、やっと事情を飲み込み赤面しているコンラッド侯爵夫人と小馬鹿にしたような表情を浮かべたエランダ侯爵令嬢を紹介し始めた。
勘違いについてしきりに恐縮するコンラッド侯爵夫人に第四王女はこんな格好しているから無理もないとにこりともせずにいったが、第一王女は、最近農業がはやりなのとだけいった。メレディスは片方の眉を少し上げただけだった。
エランダ侯爵令嬢は、第一王女付きの侍女になるために王宮にやってきたのだが、これには訳があった。第一王女のセシーネは、自分付の侍女サラボナとケンカをしたのだった。セシーネの乳母の娘であるサラボナは、「医学」に夢中なセシーネに自分は「医学」なんてまっぴらだと言ってのけた。それがきっかけで売り言葉に買い言葉になり、結局、メレディス王女付となった。幼い時から王宮に出入りして、セシーネの遊び相手も努めたサラボナは、王宮の事情に詳しく、侍女という役目向きであったが、頑強に「医学」だけはいやだと言い張った。別につきあわなくてもいいとセシーネはいったが、サラボナは自分もやりたいことがあるのだとセシーネにうち明けた。これを聞きつけたメレディスが丁度いいと自分付ということにした。侍女を一人取り上げられた格好の第一王女であったが、返ってその方が、都合がよかった。サラボナはセシーネの乳母という母親の役目柄、セシーネに自分の母親を取られたようなことをセシーネにほのめかした。これが、セシーネには心外だった。セシーネには自分の乳母を自分で選んだわけでなく巡り合わせというものだった。確かに乳母のユーリンは自分の乳で育ったセシーネに甘かったが、サラボナの言葉はセシーネを傷つけた。セシーネには、自分を生んだ母親の記憶がほとんどなかった。セシーネにとって「母」はヘンリッタ王妃だった。だが、もう母親に甘える年頃ではない。サラボナの言い分は少し子供っぽいように思えた。新しい侍女について女官長でもある叔母にセシーネは希望をいってみたが、せいぜい小言の多いのはうんざり程度だった。メレディスはにやりと笑っただけだった。
新しい侍女のエランダについてメレディスから尋ねられたセシーネは、ある疑念についていってみたが、メレディスは、鼻でフフンと笑うと。侍女なんてそんなものだといった。そして、自分の経験を話してくれた。その後、自分の計画について話し始めた。この話だとメレディスはキリなく話すのでセシーネは、サラボナはちゃんとやっているかと尋ねてみた。大丈夫よ、うまくやっているという叔母にセシーネは多分二人だとお互いわがままが出るのかもしれないと、少し反省の弁を述べた。叔母は、おもむろにうなずいた。
次の雨降りの朝、いつものように朝食をすませるとセシーネは自分の居室に戻った。部屋にはいると昨日と同じように着飾ったコンラッド侯爵夫人とその令嬢が待っていた。さすがに今朝は礼儀正しくセシーネを出迎えた。挨拶がすむとセシーネは、二人ともお早いのねと声をかけた。二人とも髪を鏝で形を整え、化粧をし、着付けるのに手間がかかる正装といっても良い服を着ていた。そのためには、早起きが必要だったろうとセシーネは思った。セシーネも謁見の日は、それなりに礼装を整えるが、普段は「清潔さ」を重点に置いていた。これは、国王自身もそう心がけていた。高価だが手垢の付いた服よりも、洗濯の行き届いた服を好んだ。
その時、護衛が兄の王太子の訪問を告げた。セシーネは通すように護衛に伝えた。この何日か王太子は「重騎兵訓練」に勤しんでいた。今朝も、朝食にはその装束で現れた。首から下を重い鎧で固め、小脇に兜を抱えたエドワーズは部屋に入るなり、頼みがあるんだと切り出した。セシーネは、自分より高位にある兄に少しだけ膝を曲げて挨拶をしてから、黙って兄を見つめた。エドワーズは一緒に部屋に入ってきた自分の護衛を籠手をはめた右手の親指で指し示しながら、ビランのことは覚えているだろうといった。一緒に入ったきた兄の護衛はそのビランだった。セシーネがうなずくと、ビランは敬礼をしながら「お久しぶりです、姫」といった。これだからな、エンバーのやつはとエドワーズはいった。
ビランは、アンドーラ国王であるジュルジス3世が、王位を継ぐ以前に継いだエレーヌ王太后の生家であるエンガム公爵領のエンバーの出身だった。武功を誇るエンバーの出身のものたちに国王はある種の特権を与えていた。その一つが称号に関するもので、彼らは、国王を「殿」と呼び、王家の他の男子は「若」であり、王女たちは「姫」である。これは、「身内」だけの時や他の貴族に自分たちは王家に近しいと誇示する時に限られていた。
エドワーズの頼みとはそのビランとセシーネ付きの護衛の一人と交代だった。セシーネが、陛下はなんて?と尋ねると、兄はすでに許可は頂いたといった。セシーネも異存はなかった。では、早速とエドワーズは、交換した近衛士官兵を連れてガチャガチャと甲冑の音を立てながら、セシーネの部屋を出ていった。ビランはそのまま残り、姫、若の魂胆を知りたくないですか?と尋ねた。彼は、サラボナと同様、いわば「王宮育ち」だった。セシーネは、「王宮育ち」でないエランダはどうかしらと思いながら、エランダに出かけるわよとだけいった。ビランは、ため息をつくと、外出の用意を命じに部屋を出ていった。
降りしきる雨の中、セシーネを乗せた馬車は、救貧院に向かった。近衛兵の先導に続いた馬車には、エランダ侯爵令嬢とコンラッド侯爵夫人も同乗していた。馬車の中でコンラッド侯爵夫人は、しきりと、しつけの行き届かない娘についてくどくどと言い訳をしていた。
「ともかく、領地育ちでございますから王宮での作法については今一つでございまして。言葉づかいも行儀作法もこんな有様で」
セシーネは、自分は、エランダのしつけ係ではないといいたかったが、辛抱強く、どなたも母親はそんな風に思うものらしいとだけいった。これは、亡くなった王太后の言葉だった。王太后は、しばしば娘のメレディス王女について同じように育て方を間違えたようなことををいっていた。王太后はこれを反省し、セシーネ王女の教育に幾つかの変更点を加えていた。その主な点は、身の回りのことは自分でやるということだった。これは、むしろ、父である国王の教育方針でもあった。自分のことも出来ないものに、偉そうなことはいえないという訳だった。セシーネは、12歳になるまで服の洗濯もしたことがあるし部屋の掃除もある程度自分でやった。
突然、エランダが詰るように、何故、王太子殿下に紹介してくれなかったのとまるでセシーネが自分よりも目下であるかのような口調でいった。セシーネは、化粧をしたエランダの顔をまじまじと見てから「そうね。あなたを正式にわたくしの侍女に決めたらその時に改めて紹介することにするわ」そして、まだ決めた訳ではないのと付け加えた。コンラッド侯爵夫人が、再び、娘のしつけがどうとか言い始めた。確かにエランダ侯爵令嬢の、王女のセシーネに対しての口の利き方は今一つだった。
救貧院に到着すると、さすがに雨の中を建物の中から出てきはしなかったが、例によって救貧院院長のキルマ・パラボン侯爵夫人が出迎えた。キルマはまた来たのかといわんばっかりだった。セシーネは、キルマにコンラッド侯爵夫人とエランダ侯爵令嬢を紹介し、また二人に、救貧院院長でパラボン侯爵夫人のキルマを紹介した後、こう付け加えた。
「パラボン侯爵夫人は、長い間、女官長を努めていたのはご存じでしょう。王宮の色々なことをご存じだから、色々教えて頂くとよろしいわ、無論パラボン侯爵夫人がお暇な時に」気むずかしげな表情のキルマにセシーネは、ケンナスの居所を尋ねた。
治療師のケンナスは、見習の子供たちと一緒だった。子供たちは、皆珍しそうに、セシーネの後ろから入ってきた着飾ったコンラッド侯爵夫人とエランダ侯爵令嬢を眺めていた。セシーネは、ケンナスに朝の挨拶をしてから、用件を切り出した。
今日、雨の中、救貧院に来た用件の一つが、叔父のヘンダース王子からの頼みだった。ヘンダースの息子リンゲート王子は、昨日の午後、左足首を捻挫したのだった。従医長のベンダーの診察もセシーネの《見立て》も「捻挫」だったが、念のためケンナスに《見立て》をして欲しいとヘンダースもその妃のアンジェラも朝食の席でセシーネに伝言を託したのだった。セシーネが二人からの伝言を伝えると、ケンナスは快く承知してくれた。これはケンナスにとってもセシーネにとっても、ケンナスの《見立て》が、王家の人々の信頼を勝ちえたということでもあった。
そして、セシーネは、ここにきたもう一つの用件に取りかかった。エランダ侯爵令嬢にこう命じた。
「救貧院の院長のパラボン侯爵夫人と大事なお話があります。ご都合を伺ってきて頂戴」
だが、エランダは動こうともせず、代わりにコンラッド侯爵夫人が、伺ってきますといって部屋を出ていった。確かにエランダはコンラッド侯爵夫人のいうように「しつけ」が今一つだとセシーネはふと思った。
院長室で、机を挟んで向き合ったセシーネに、救貧院の院長は、椅子を勧めもしなかった。椅子に腰掛けたままのキルマは、少し顔をこわばせているようにセシーネには思えた。
「救貧院院長、それともパラボン侯爵夫人の方がいいかしら」
「わたくしのことは、キルマで結構です」
セシーネは慎重に切り出した。
「それは、どうかと思うわ、パラボン侯爵夫人。あなたは、長い間、王家の女官長を努めていらしたわ。女の方にこのようないい方は、変かもしれませんが、あなたは、お父さまつまり、国王陛下にとって重臣のお一人だと私は思っています。その方に対して敬意を払うのが、礼儀に適っていると思いますし、それだけではありません、あなたは、病気のおばあさまの看病もよくやって下さったと思います。特におばあさまは、病気になられてから、ますます気むずかしくなられて、そのお世話は大変だったと思います。これは、陛下もあなたに感謝したいとおっしゃったことがあります。おばあさまが亡くなったのは残念ですが、ここで私からも改めてありがとうとお礼を申し上げたいと思います。本当におばあさまのお世話をしてくれてありがとう御座いました。」とセシーネは深々と元女官長に頭を下げた。
「わたくしは当たり前のことをしただけです」と元女官長は素っ気なかった。
「そうかもしれませんが、やはり、病人の看病はやはり、いろいろ大変だったと思います。特におばあさまのような方が相手では、誰にも出来ることではありません。本当にお礼を申し上げます。ところで、パラボン侯爵夫人、昨日、あなたがおっしゃった身分をよく考えるようにというあなたの言葉を私なりに考えてみました」
キルマが用心深そうにセシーネを見つめた。セシーネは、昨夜、懸命に考えたことを話し始めた。
「パラボン侯爵夫人、わたしは、アンドーラ王国の第一王女です。このことが何を意味するかとわたしなりにこう考えました。王女という身分は、アンドーラ王国と王家のために何が出来るかということが、大事だと思います。アンドーラのために、何か役に立つことをすべきだと思います。陛下は王立施療院の設立を決定されました。施療院の院長には、おばあさまの遺言通り、このわたしが就任することも決まっています。その他には、施療院法というか、名前はまだ決まっていませんが、必要な法律をつくる予定です。そして、この救貧院も、施療院の候補地の一つです。まだ、決定ではありません。先の話です。そして、わたしは、施療院の設立と院長に就任のためいろいろ準備とそのための勉強をしなくてはなりません。ここにいるケンナス先生から医学や薬学、そしてやはりここにいるモリカさんから、薬草の扱い方を学ぼうと思います。パラボン侯爵夫人、薬草に詳しいモリカさんを引き合わせてくれたことにも、改めてお礼を申し上げます。彼女は、かなり、薬草学に詳しいようですから。多くことが学べるでしょう。それから、ここにいるガンダス先生が連れてきた子供たちのことですが、彼らが《治療師》になれるかどうかはまだはっきりとわかりませんが、薬草園の世話の仕方を習いたいという子たちもいます。この子たちの世話もしていただけると助かります。あと、これははっきりと申し上げた方がいいと思いますから、救貧院の院長として、これは困るということがあれば、はっきりそうおっしゃって下さい。身分をよく考えろといわれても、まだ、子供のわたしにはわかりません。とりあえず、明日は、陛下の菜園のお手伝いをすることになっていますから、こちらには伺えませんが、あさっては、こちらに参りたいと思います。救貧院の皆さんの仕事のおじゃまをする気はありませんが…」
セシーネは、ここで、キルマの反応を確かめた。救貧院の院長は机においた組んだ両手を固く握りしめ、引きつったように見える顔でそれを見つめていた。キルマが口を閉じたままなので、セシーネは、自分の話を続けた。
「ところで、もう一つお願いがあります。パラボン侯爵夫人。第一王女付けの侍女のことです。あなたは、いろんな方をご存じでしょう。もし、いい方をご存じならご紹介してくれると助かります」
ここで、キルマは目を上げた。
「エランダは、わたくしの推挙ですが、何か、お気に召さないことでも?」
実は、セシーネは、エランダが、何となく気に入らなかった。だが、最初の出会いがまずかったと思ったが、そのことは、キルマに話さない方がいいだろうと判断した。
「いえ、昨日の今日では、まだ、わかりませんが、わたし付けの侍女というのは、そうね、こういえばよろしいかしら、わたしと同じようなことが、楽しいと思ってくれるような人でないと、長続きしないじゃないかしら?そう思います。エランダが気に入るとか気に入らないということではなくて」
「お話は、それだけですか?」
「あと、ケンナス先生には、リンゲートの《見立て》をしに王宮に一度来て頂きます。今日は、ケンナス先生のご都合がよろしければ王宮に戻ります。では、失礼します」
こういい終わるとセシーネはキルマの返事を待たずに院長室を出た。廊下では、コンラッド侯爵夫人とエランダがウロウロしていた。セシーネは、二人に馬車の中で待つようにいうと、コンラッド侯爵夫人が鄭重にご用は終わりましたかとたずねた。セシーネはまだですと、今度は、ビランにケンナス先生のご用意が出来たか聞いてきてと頼んだ。ビランは何かいいたそうだったが、黙ってセシーネの命令に従った。
馬車の中でも、席次はある。だが、セシーネは自分の隣にケンナスを座らせた。セシーネにとって、コンラッド侯爵夫人母子よりケンナスの方が、格が上だった。互いを紹介する手順でも、ケンナスを優先させた。コンラッド侯爵夫人は、治療師と聞き返してきたが、セシーネは無視して、わたしはケンナス先生とお話がありますからとキッパリいった。
「先生、見習の子たちはどうですか、少しは見込みがありますか?エランという子はどうやら薬草の育て方を習いに来たようですけど」
治療師のケンナスは、王宮に出入りするようになって王宮でどう振る舞えばいいかあるかは、多少は心得てはいた。また《治療の技》に対して、人々がどのように反応するかも十分承知していた。そこで、慎重に答えた。
「まず、見習の見込みですが、あるともないとも。わたしだって最初はそうでしたよ。まだ、始めたばかりですから、なにしろ、中には文字の読み書きさえ出来ない子もおりますから、そこから、始めなけばなりません」
「そうですか。それは、大変ですね」
「出来るだけのことはするつもりです。王女さま」
セシーネは、今度は、ケンナスの書いている論文について尋ねてみた。ケンナスは《治療の技》に頼らない従来のアンドーラの医学による博士論文を準備していた。すでに従医長のベンダーの指導で医学学士の学位をケンナスは取得していた。博士論文に関してそちらもはかばかしくないとケンナスは答えた。
「治療法というのは、一人の患者を治せば、それで確定するという訳ではありません。数が多いほどその治療法に対して信頼出来るというわけで、わたしの申し上げていることがおわかりになりますか?王女さま」
「ええ、大体のところ、なんだか、大変なことを先生にお願いしているみたいで」
「気長にやりますよ」とケンナスはのんびりした声でいったが、セシーネは気が重たかった。あの見習の子たちは《治療師》になれるのかそれとも、一人もなれなかったら?
救貧院の院長でもあるキルマ・パラボン侯爵夫人は、セシーネたちの馬車を見送り院長室に戻りながら後悔の念を覚えていた。体よくセシーネ王女を追っ払うつもりが、逆に、ここに来る明快な理由を与えてしまった。キルマは、セシーネが苦手だった。苦手どころか、恐怖の的でもあった。女官長を長く努めた経験から、王家の人々をキルマはうまく「扱え」ていた。国王ですら、それなりに「扱え」ていた。だが、第一王女だけは、彼女の手に余った。それは、第一王女の持つ不思議な《力》に起因していた。王太后の生前中、キルマはしばしば、セシーネの《見立て》の稽古相手になった。その時の奇妙な感覚も恐ろしかったが、《見立て》の上達につれ自分の体調を言い当てるセシーネに、キルマはドキリとしたことが何度もあった。それは、まるで心の中をのぞかれるような思いだった。
長年、生きてきた来た人の常として、また、王家の女官長という職の役目柄、キルマの心の中には、人に知られてはならないあるいは、知られたくない秘密がたくさんあった。キルマにとって「秘密」は、権謀術の「切り札」の一つだった。「切り札」の切りようによっては、相手はいくらでも、キルマの思うがままの働きをしてくれた。だが、第一王女に関しては、キルマの「切り札」は弱かった。その「切り札」は、セシーネの生みの母に関するもので、これは王太子にはかなり有効だった。しかし、第一王女に対してこれを使うのはどうしてもためらいがあった。キルマは、第一王女の《見立て》が恐ろしかった。ケンナスの《見立て》も怖かったが、彼は、素性も今一つ定かでない。いくらでも、抗弁が出来た。だが、第一王女となるとそうはいかない。言葉の重みが違ってくる。キルマの最善の策は、第一王女から遠ざかることだけだった。
しかし、「王立施療院」の設立も気になった。国王は、王太后の「遺言状」の発表の席で機嫌が悪かった。母親の死に関して、国王はそれなりに悲しんだが、一年余りの闘病生活で覚悟は出来ていたようだった。キルマは、役目上、国王と王太后の確執をそれとなく知っていた。何かと国政に口を挟みたがる王太后を国王は煙たがっていた。キルマは国王の、死んでからも余に指図する気かという呟きを聞き逃さなかった。
キルマの見るところ、国王は即位以来その権力をより強固なものにしていった。それは、「竜にさらわれた」先王の失踪以来よりなお一層はっきりしてきた。権力のあるところには、甘い汁があった。それは、私腹を肥やすことではないことをキルマは知り抜いていた。いささか金銭にうるさい国王の元では、それははばかれた。それに金銭面では、国王はそれなりの気遣いをパラボン侯爵家にしてくれていた。領地の広さの割には、収入が今一つだった夫の領地は国王の計らいで「侯爵領」らしい収入をもたらすようになっていた。キルマは、金銭面よりも、人を意のままに繰るという快感が忘れがたかった。だが、“第一王女”はキルマの意のままに動いてはくれない。そして、また、今の自分が権力から遠ざかったという思いがキルマを駆り立てた。だが、打つ手はまだあるはずだ。キルマは、夫のパラボン侯爵と話し合う必要性を感じていた。パラボン侯爵は妻のキルマから見てもなかなかの知恵者だった。万事、派手好きな王太后の元で、無難に女官長という職を無事努められたのも、夫の助言があってのことであることをキルマはわかっていた。夫の助言の大部分は王太后の引き立て役に徹しろというものだった。キルマは自分の容姿が王太后にはかなわないことはわかっていた。王太后が自分を女官長として側に置いていたのも、その恵まれない容姿も一因にあると気づいていた。だが、口にしたことはなかったが、知略では負けないと自負していた。キルマの見たところ、勝ち気な王太后の失敗は、男の面子をしばしば損なうことにあった。その愚をキルマは犯すつもりは毛頭なかった。夫に無断で、何かを決めるのは機嫌を損ねること位キルマにはわかっていた。しかし、その前に、簡単な「手」を打つことにした。
キルマは、薬草園の責任者であるモリカと向き合った。
「どうせ、あの子のことですから、あなたのことも先生と呼ぶのでしょう」
「あの、院長、それがそのう」とモリカはしどろもどだった。
「いえ、かまいませんよ、それが、あの子の手なの」とキルマは、第一王女を「あの子」と呼ぶことで自分が王家と親しいことをモリカに思い出させた。モリカはごくりと唾を飲み込んだ。
「ともかく、第一王女殿下は、お勉強をしにこちらにおいでになります。そのお相手は、モリカ、あなたがするように、いいですね」
院長であるキルマの言葉にモリカは不安そうな顔をした。
「怖がることはありませんよ。あの子は、お勉強が好きなの。あなたのことを先生と呼ぶのはあなたをそれなりに有能だと認めていることですよ。身分よりもそういった事を重要だと思っているからなの。私も国母さまにお仕えしている時は、身分に甘えるようなものよりも、きちんと仕事を出来る人を大事にしてきましたからね。あなた達にもそうしてもらしいますよ」
モリカは畏怖をこめた目で自分の上司に当たる院長を見つめ、こくりとうなずいた。モリカの反応にキルマは満足だった。
コンラッド侯爵夫人母子を着替えや身の回りのものを取りに帰るという名目で追いかえすと、セシーネはケンナスと一緒にリンゲート王子の部屋に向かった。リンゲートは、自分も《治療の力》があるかどうか試したがっていた。そのため、リンゲートは厳重に監視されていた。そして、エドワーズは彼に《治療の技》を使えたからといって偉くも何ともない。むしろ、王子として何が大切かとその一つが武術だと助言した。そこは、王子といってもやんちゃ盛りの男の子である、自分付の近衛兵を相手に剣術の稽古を始め、それに夢中になった。ケガはその最中の出来事だった。
従医長に捻挫と診断され、安静を申し渡されたリンゲート王子はしょげていた。今朝も朝食は寝台の上で一人で食べた。ケガの痛みよりケガをした事実にリンゲートは自尊心を傷つけられていた。少しくらいのケガを怖れるなという父親のヘンダース王子に比べて、母親のアンジェラ妃は少し大騒ぎしすぎだとリンゲートは思った。
ケンナスのリンゲートへの診察には、当然ながら従医長のベンダー博士、そして母親のアンジェラ妃も立ち会った。ケンナスは、慎重な手つきで湿布をはがすとリンゲートの足首を曲げたり伸ばしたりして、普通の医学的な診察をまず行った。その後、断ってから、患部に手を当て《見立て》を行った。そして、所見を述べた「やはり、捻挫のようですね。骨には特に異常は見られません」
アンジェラ妃はホッとした表情を浮かべた。その後、ベンダーとケンナスが治療法や療養期間の過ごし方などを話し合った。結局、リンゲートは寝台で安静に過ごす必要はなく、椅子に腰掛けて学科の勉強をするように母親から申し渡された。リンゲートは、やや期待を込めて、ケンナスに《治療の技》は?と尋ねた。治療師のケンナスは素っ気なく答えた。
「捻挫を《治療の技》で、治しことがありませんので、湿布で患部の炎症を治した方が確実ですな」
リンゲート王子は、がっかりした。
リンゲートの部屋を出ると、ケンナスはベンダーにご相談したいことがあるといい、ベンダーも話があるわたしの部屋に来ないかとケンナスを誘った。セシーネがついていこうとすると、二人に王女さまの部屋はあちらでしょうといわれた。二人に追い払われたような形になって、セシーネはなんだか、子供扱いされたような気分だった。
確かに、十二歳の「宣誓式」を済ました後、セシーネは、ある程度、自分の裁量で物事を決められるようにはなった。しかし、晩餐会など夜の酒の出る行事には出席が許されていなかった。これは、国王も王太后も意見の一致を見た方針で、セシーネ自身も特に出席したいとは、思わなかった。自分が子供扱いされていることに不満がないわけでもないが、三歳半年上の兄のエドワーズ王太子さえ叔父のヘンダース王子は、まだ半人前扱いである。
一般的にアンドーラでは、男子は兵役義務を果たすとほぼ一人前の口を利いてもいいという風潮がある。兵役を果たしていないものが何かいっても、そんなことは兵役を果たしてからいうのだなと、軽くいなされる。ちなみに兵役制度があるためか、アンドーラの男たちは「戦話」が好きである。女たちはどうかというと決して嫌いではない。なくなった祖母の王太后もまたその娘のメレディス王女も好きな方である。セシーネもよく付き合わされた。しかし、父のジュルジス3世が即位して以来、戦らしい戦はない。アンドーラは平和を享受していた。
平和だからといって、争いごとがないというわけでもなく、小さな争いごとはあるにはあった。この王宮においても、争いごとは絶えなかった。メレディスのいうキルマの野望云々について、セシーネは、根も葉もないでっち上げとまでは思わなかったが、キルマの有能さだけは認めていいとセシーネは思っていた。無能で、長年、女官長という要職がつとまるはずもなかった。キルマがその職を辞したのは、最後の宰相と呼ばれた先代カルチェラ伯が提唱した文官の50歳定年制ではないかとセシーネは推測していた。
そして、その日の午後、ブルックナー伯からセシーネは思いもかけない話を聞く。
「救貧院につきましては、国母さまの持参金で運営されておると申し上げましたが、意外なことがわかりました。その持参金の中から、使途不明金つまり、使い道がわからない支出がございまして、その調査のため、キルマ・パラボン侯爵夫人が救貧院の院長に任命されたということです」
「使途不明金?」
「ええ、かなり高額ですな」
同席していた従医長のベンダーが「何に使ったでしょうね?」
「だから、その調査中というわけで」
「まさか、私的に使い込んだと?」
「そこまでは、まだわかりませんな。しかし、そうなったら横領罪ですな」
「横領罪?」とセシーネは聞き返した。
「ええ、もし、そうなったらことですな。ところで、王女さまは、何故、肉の調査など思いつかれましたか?」
「食べるものも食べないでは、病気は、治らないと思ったからです」
「そうですか、しかし、ベンダー博士、病人には何を食べさせるのがよろしいのかな?」
「病気によって違いますよ。ちょっと面白い治療法があるんですよ。アンドーラの医学ではないのですが、昔読んだ書籍に食事によって病気を治すという治療法について書かれていましてね」
ほうという顔をしてブルックナー伯が、ベンダーの話を促した。
最近、ブルックナー伯は「医学漬け」である。今日も、セシーネの《見立て》を所望した。ブルックナー伯は、年齢による老化は多少見られたもののその他はいたって健康体であるとセシーネは、正直に告げた。長生きはしたいものだといいながら、ブルックナー伯は、体調はいいのだといった
大蔵卿の職をブルックナー伯は、新進気鋭の後継者にその座を譲っていた。だが、この人事は、喧噪をまき散らした。後継者の若さもさることながら、出自が問題になった。彼は、武官の雄である陸軍元帥の甥である。中には、陸軍が大蔵省に圧力をかけた人事だという意見もあった。しかし、これは、前任者のブルックナー伯には心外であった。新大蔵卿はその能力と政治的見識の高さにおいて国王に推挙したのであって、陸軍元帥の甥という事実は偶然の賜物である。別に陸軍におもねるような自分ではないと、ブルックナー伯は思っている。新大蔵卿は、国家財政に「計画性」を持ち込んだ。これが、国王の賛意を得た。計画性なくして安定した国政はなく、行き当たりばったりの国政では、国民は迷うばかりである。
従医長のベンダー博士の「講義」は、しばらく続いた。彼は、食物を植物性と動物性に分類し、これを釣り合いよく摂るのが望ましいと説いた。セシーネもブルックナー伯も興味深く拝聴した。
「肉ばかりに頼るのはいけません、やはり、畑でとれたものも食べなければ」
「軍あたりも、昔から兵隊に何を食べさせればいいのか研究はしているようですが」
「豆辺りはいいですね」
「豆ですか」
ベンダーの話を聞きながら、セシーネは救貧院に思いを馳せた。ブルックナー伯の話はいささか意外ではあったが、その使途不明金とやらについて、セシーネは、少し思い当たる節があった。幾らか金銭細かい国王に反して、王太后は大まかだった。国王は常々国税は王家が贅沢をするための費用ではないといっていたが、王太后は自分に気前がよかった。自分だけではない、お気に入りの侍女たちにも高額な贈り物をした。国王は、しばしば諫めたが、王太后は自分のお金だから好きにさせろと取り合わなかった。いったい王太后は何にお金を使ったのであろうか?
王太后は「施し」が好きだった。裕福なものが貧しいものに富を分け与えるということは「理」に適っていあるようにも思えたが、これを国王はしばしば「怠け者」をつくるだけだと苦言を呈した。「働けば暮らせる国」が国王の理想でもあった。そしてまた、国王自身も「働き者」であった。「働き者」の国王の二人の弟は、それぞれ海軍と陸軍に籍を置き、ただ一人の妹は女官長という職に就いた。
贅沢な資金のある王太后に比べ、現王妃のヘンリッタは、自身の乏しい持参金を何とかやりくりしていた。これは、周辺から王妃は質素と評判を取った。だが、これはいい方で中には「ケチ」というものもいた。王家に嫁いだ妃たちには、それぞれ王室費からそれなりに費用が出たが、それでヘンリッタを始め他の妃たちは何とか面目を保った。
さて、ベンダー博士の「講義」の成果は、夕食の席で発揮された。興味深く聞いていた国王は
「ほう、まんべんなく釣り合いよくな」
「なるべく、いろんなものを召し上がって頂くようにはしては、おりますけど」と献立担当の王妃が、苦心の一端を覗かせた。
「ランセル叔父さま、軍でも、食事の研究をしているはずですって」
「セシーネ、俺にそんな事聞くなよ。そんなことよりリンゲートの足はどうなった」
食卓の話題は、リンゲートのケガに移った。
セシーネは十二歳の誕生日の「宣誓式」の日から、夕食を国王と同席するようになった。この時、王太后はすでに病床にあり、同席しなかった。したがって、王太后がいる夕食の席がどういうものかは、セシーネは知らない。メレディスにいわすと「お説教」の席だと、国王ですらその対象になったらしい。
どこか《治療の技》に懐疑的であった王太后が何故「施療院」の設立を思い立ったのか、セシーネには不思議だった。だが、設立は国王の裁可が下った。国王は細かい指示をセシーネに与えなかった。元大蔵卿のブルックナー伯がその準備を手伝ってくれているが、準備は少しも進まない。
夕食を済ますと、セシーネは自分の居室に戻った。新しい侍女のエランダは、部屋にはいなかった。別にたいした用もないのでセシーネは、自分の勉強に戻ろうとしていた。そこへ、護衛のビラン中尉がエランダを連れてきた。
「廊下をウロウロしていたのを見つけました」
エランダは挨拶もせず、いきなり「あんな部屋いやよ」といった。
「わたしは王家の血を引いているの、あんな狭い部屋はいやよ。あの部屋が気に入ったからあの部屋にして」
セシーネは、相変わらず、謁見に出るような「着飾った」エランダを見つめた。セシーネはここで自分たちの関係をはっきりさせる時だと思った。王女と侯爵令嬢の違いを。
「エランダ、まずいっておくわ、王家の血を引いているかもしれないけど、あなたには。王家の紋章も許されていなし、王位継承権もないでしょう。」
「王位継承権?」
「そう、それが、あなたとわたしの大きな違いね。それと、王宮の部屋割りは侍従長と女官長が決めるの。わたしに文句を言っても無駄ね。侍女の部屋割りは女官長のメレディス王女が決めるの」
セシーネが言い終わると、エランダは挨拶もせず、部屋を出ていこうとした。
「ちょっと待ちなさい」と、セシーネは呼び止めた。ビランが、素早くエランダの腕をつかんだ。エランダはもがきながら、叫んだ「ちょっと何するの。離してよ」
「あんた、行儀が悪いぜ」
確かに行儀が悪いとセシーネは思った「ビラン、この子がお使いをちゃんと出来るか見張って頂戴」
「畏まりました」とビランがにやりとした。
「エランダ、従医長のベンダー先生のところにいって、今日、お話ししてくれた治療法について書かれたご本がお手元にあるなら、お借り出来ないか聞いてきて頂戴。丁寧に頼むのよ」
セシーネに用を言い付けられたエランダは不服そうだった。
「ビラン、ベンダー先生がそのご本をお読みになるのなら、後でいいと申し上げて」
ビランは畏まりましたといってエランダの腕をつかんだまま部屋を出ていった。
セシーネは、エランダの気に入った部屋がどの部屋かはわからなかったが、部屋を変えて欲しいというエランダの要求を受け入るつもりは毛頭なかった。エランダにあてがわれた部屋が王宮のどの部屋かセシーネは聞いていなかったが、コンラッド侯爵家の自分の部屋より狭く粗末なのだろうかと思った。しかし、王女の自分に対してエランダは言葉づかいがなってないとセシーネは少し不愉快になった。王女であることをひけらかすつもりはなかったが…
しばらくして、二人が戻ってきた。ビランはエランダの腕を離すとセシーネに報告した。
「まったく、お使いも出来ないだから。仕方がない、自分がベンダー先生に申し上げました。ご本のほうは、大掃除の時にどこかにしまいこんでしまったそうで、一応捜してみるということでした。姫、他のご用は?」
「そうね、メリメが来たら通して頂戴」
ビランは敬礼をすると部屋を出ていった。部屋に残されたエランダは、こった髪型に結い上げた頭をそらし、
「あんたの侍女なんかしたくないわ」
「そう、やめたかったらそれはそれで結構。あなたの代わりはいくらでもいるんですからね。でも、エランダ、家に帰っても、あなたのお母さまから行儀よくしろとかいろいろいわれるだけよ。その辺をよーく考えるのね」
エランダはまだふくれ面をしていた。そこに王太子の訪問を護衛が告げに来た。そのとたんエランダの表情が変わった。
部屋に入ってきた王太子のエドワーズは相変わらず甲冑姿だった。セシーネはふと、寝る時も甲冑を身につけたままなのかしらと思った。
「あのな、セシーネ、イザベルからまた手紙が来て、お前に会いたいといってきているんだ」エドワーズは眉をひそめ、怪訝そうにいった。
「それは、よろしくという程度じゃないかしら。まさか、メエーネまで遊びに行けるわけないでしょう?」
「それが、メエーネはいいところだから一度来てみたらと書いてあるんだ。なんか聞いているか?」
「そんな話聞いていない。そんなことよりイザベルにお返事でも書いたら?お兄さま」
「うん、そう思うんだけど、何を書けばいいんだ?」
「そうね、取り敢えず、わたしは、多分メエーネにはいかない。そうだ、礼服が替わることでも書けば、メレディス叔母様にその辺りを伺ってみたら」
多分その辺りがいいんだろうなといいながら、王太子はセシーネの部屋を出ていった。扉が閉まったと同時にエランダが、イザベルって誰?と尋ねた。セシーネはその質問を無視しようと思ったが「イザベルは、メエーネの王女よ、お兄さまの婚約者よ。多分正式に婚約したんだと思うわ。あと、イザベルのことはイザベル王女さまとかイザベル殿下というように。ほんと、あなたのお母さまのいう通り言葉づかいが悪いわね」
エランダは、フンという顔をした。
祖母の王太后は礼儀作法にやかましかった。日頃、行儀よくしていないといざという時その悪癖が出ると口を酸っぱくしてセシーネにいっていた。祖母のいざという時とは、各種の行事ごとだった。祖母の小言にセシーネはしばしば反発したが、今になって、祖母の言葉があたっているように思える時もあった。
第一王女の部屋付の侍女頭のメリメがやってきた。部屋付というのは、王家の人々の様々な雑用をする係で、部屋の掃除から洗濯など下働きをした。侍女の序列からいうと、第一王女付きの中で、メリメはエランダの次ぎになる。
「王女さま、今日はお風呂の日ですが如何致しますか?」
「そうね、いつも通りでいいわ、メリメ」
そこへエランダが、わたしもお風呂へ入りたいわと割り込んだ。メリメは、呆れたように「何いっているですか、王女さまのご用に方が先です」
ここで、セシーネはふと着飾ったエランダをチラッと見た。エランダは「着飾って」いたが何故か薄汚れているようにセシーネには思えた。
「メリメ、この子にお風呂の入り方を教えてあげて」といいながら、セシーネは鼻をひくひくさせ、こう付け加えた「なんんだか、匂うわ」
エランダは、怒りで顔を真っ赤にした。だが、セシーネはエランダの機嫌なぞ取る気もなかった。エランダの態度は、十分セシーネを不愉快にした。セシーネの見たところエランダは、王宮に招かれた「客」のように振る舞っていた。コンラッド侯爵家でどういわれてきたのか知らないが、侍女は侍女である。それに、エランダは王女と侯爵令嬢の違いを受け入れようともしない。母親のコンラッド侯爵夫人の前では少しは行儀よくはしていたが……
翌朝、着替えをすませたセシーネの元に、いつも通り、メリメがやってきた。メリメは手早く寝台を整えながらエランダについて呆れたようにセシーネにこう告げた。
「まったく、まだ、起きてこないんですよ。ご用を承るのにあれじゃどうしようもありませんよ」
「別に、これといって用はないけど」と黄金色の髪を櫛でとかしながらセシーネはいった。
「しかし、王女さま、普通、世話をしたらお礼ぐらいいうでしょう。それを当然のような顔をして。勝手なことばかりいうんですからね。よっぽど、いってやろうかと思いましたよ」
「何て?」
「自分の世話をして欲しいのなら、自分の侍女を雇えばいいって」
王宮の侍女たちの中で高位にある者はよく自分たちの身の回りの世話をする侍女を雇うことが許されていた。エランダもそうしたければそうしてもいいはずだった。昨夜、エランダの世話をメリメに頼んだのは王宮でのあれこれになれていないエランダに色々、王宮勤めが長いメリメから教えて貰えばいいとセシーネは考えたのだが、どうも裏目に出たようだった。「宣誓式」の前から第一王女付のメリメとセシーネは気が何となくあった。
「メリメ、あなたとうまくいかないなら、やめて貰うのはエランダのほうですからね」
鏡に映ったメリメは満足そうにうなずいた。
その日は「役所」が仕事を休む「休日」だった。国王は、その休日には火急の用件がない限り新宮殿と呼ばれる建物にある執務室へ行かず、王宮で一日過ごした。国王は「家庭」を大事にしていた。それは、自分の直系の王太子や王女だけでなく、弟王子たちの妃や王子・王女にも心配りを忘れなかった。
朝食の席で、作法通り、椅子から立ち上がったリンゲート王子に国王は、足は大丈夫なのかと声をかけた。リンゲートに替わって母親のアンジェラ妃が、このくらい大丈夫ですわと答えた。そうかといって、国王は侍従の引いた椅子に腰掛けた。
第二王子の妃アンジェラは、王子と王女を一人ずつ生み、宮廷内で確固たる地位を築き始めていた。王太后の亡き今、王妃ヘンリッタのよき相談相手となっていた。いわゆる新宮殿での政治に口を挟みたがる王太后に比べ、ヘンリッタ王妃は「国政」にはほとんど口出しせず、アンジェラと共に王宮内を「家庭的」な雰囲気をつくることに心を配った。ミンセイヤ王妃の死で失意の国王の前に現れたのが、ヘンリッタだった。幼いセシーネはなぜだか、王太后になつかなかった。王太后が声をかけても第一王女は乳母にしがみつくばかりだった。そこで第一王女を乳母のユーリンから引き離そうと王太后は一計を案じた。自分付の侍女の一人ヘンリッタに第一王女セシーネの相手を命じた。幼いセシーネの遊び相手をしているうちに国王の目にとまった。国王は忙しい合間を縫って、王太子やセシーネ王女の遊び相手も努めた。ヘンリッタはセシーネを遊ばせるのが上手だった。国王は、しばしば、セシーネとヘンリッタと三人で時を過ごすようになった。
「家庭的」な国王は、朝食の後、長女と次女を連れて王宮の庭園の片隅で最近始めた「菜園」へ足を向けた。昨日の雨は夜更けに上がり、青空が広がっていた。
「お父さま、気持ちがいい朝ね。」とセシーネは深呼吸をした。
そうだなといってから国王は、走り出したエレーヌ王女にどこ行くんだと呼び止めた。エレーヌは振り返り
「お水をやるんでしょう?お父さま」と再び走り始めた。
「エレーヌ、今日はいいんだ。昨日、雨が降ったからな」
気を利かせたつもりのエレーヌは少しがっかりした。
国王が「菜園」を始めたきっかけは、ある農業に熱心な領主に勧められたからである。彼は、同じ面積の耕作地でも工夫次第で収穫量を増やせば、農民たちの収入を上げられると国王に進言した。この進言は随分前に行われたが、母親の王太后の病死や他のことに紛れてなかなか実行に移せなかった。国王が思いきって「土いじり」をしようと思い立ったのは、従医長のベンダーに「野外生活」を勧められたこともあるが、国王としてアンドーラを豊かな土地にしたいという思いもあった。
父親同様、国王という「職業」についたジュルジス三世は、ある意味で「職業」を選べなかった。王太子を始め子供たちを育てるにあたって国王は、子供たちが「世間知らず」になるのを怖れた。宮殿の中に籠もっていては世の中の動きがわからない。まず、国王が王太子とセシーネ王女に見せたのは、ものをつくるという仕事だった。国王自身も興味深く宮殿で働く者たちの仕事ぶりを眺めたりし、時には、鍛冶仕事に手を出したことすらあった。
王宮の庭園にリンゴの木が何本かある。リンゴの実がなると、園丁たちに混ざって王太子やセシーネと一緒に国王もその実をもいだりした。国王にとってリンゴの収穫はなかなか楽しみなことだった。そんな経験もあって「土いじり」をしてみようという気になった。話を聞くだけではわからないと国王は思った。
それほど広い菜園ではない。普段の世話は、園丁頭がやっていた。国王自身は、朝、散歩がてら見回る程度である。種をまいた何種類かの野菜が芽を出し、雨上がりの土の匂いが、国王の心を和ませた。娘たちにも父親としての愛情をたっぷり注ぐ。このひとときは国王にとって国王であるよりも父親でいられるつかの間の休息だった。
さて、一男一女の父親であるヘンダース王子も「父親業」に精を出していた。彼も「休日」以外は海軍の本営本部に「出勤」していた。普段は、リンゲート王子の養育はリンゲート王子付きの侍従任せである。リンゲートはケガをしているとはいえ「学科」の勉強になんの支障が無いことがわかっている。侍従から息子の学科の進展振りを点検し、細かい指示を出す。ヘンダースには、息子と同じ年頃の時、忙しい両親に構って貰えなかったいう思いが心の片隅にある。そんな思いをなるべく息子にはさせたくないとヘンダースは思っていた。そんな気持ちを知ってか知らずかリンゲートは神妙な面持ちで聞いている。実はこの日の休日の予定は、最近武術に興味を示している息子の剣術の稽古の相手でもしてやろうかとヘンダースは思っていた。剣術なら多少自信はある。だが、リンゲートのケガで予定は変更を余儀なくされた。早く治るといいなといって、今度は娘のジョイス王女のところへと向かった。ふと、ランセルの方は王子か王女かどっちだろうなと思う。弟のランセル王子の妃ネリアはもうすぐ産み月に入る。
一方、その近々父親になる予定のランセル王子は、昨夜、兄の国王からいたわってやれといわれた自分の妃をいたわる前に「重騎訓練」と呼ばれる甲冑を着込んでの訓練を始めた王太子に図書室で助言を与えていた。
「随分動きがよくなったじゃないか。走り回れるようになれば一人前だ。後は、中身だな」
「中身?」
「そう、頭の中身も大事だぜ。軍略の勉強も本格的に始めたら。この中に軍学校で戦略組だったものはいるかな?」とランセルは図書室に集まっている王太子の「勉強」のために王太子付けになっている武官の顔ぶれを見回した。年若い士官が自分は戦術組でしたと名乗り出た。戦術か、ま、いいかとランセルは思いながら「取り敢えず最後の国内戦といわれているゲンガスル戦の作戦あたりどうだろう。この作戦は今の陸軍元帥が若い頃たてた有名な包囲戦なんだ。これを見直すことから始めたらいいじゃないか。この中でこの作戦に参加したものはいるか?」
「自分は、補給部隊でした」とやはり甲冑姿の退役大佐がいった。
ランセルのいうゲンガスル戦以降、アンドーラの国内では、戦乱らしい戦乱は起こっていない。このゲンガスル戦をもってアンドーラは「国内統一」を果たすことになる。アンドーラ全土に「領主」の上に国王が君臨するという構図が出来上がった。この「国内統一」で「領主」たちは勝手気ままに領地を治められなくなった。領主たちは、なお一層、王家の顔色を伺うことになった。
顔色を伺われる王家を継ぐ身のエドワーズ王太子は、叔父のランセル王子の助言を受け入れ軍略の勉強をしようかと決意していた。軍事用語の基礎は出来ている。叔父の助言は父の国王からの間接的な指示に思えた。王太子自身は叔父たちと違い陸軍軍学校へも海軍兵学校へも入学していない。父の国王にその必要はないといわれた。だが「軍」の勉強は必要だと思っていた。確かにゲンガスル戦以来アンドーラは平和が続いては、いる。
穏やかな平和が続いているアンドーラでも、心中穏やかでない人物もいた。救貧院院長のキルマ・パラボン侯爵夫人である。彼女は、先王の時代から国王二代に渡り女官長を努めた経験から、この国の方針が何処で決定され実行に移されるのかよく知っていた。だから「王立施療院」設立は「以外」であった。国王は、余り乗り気でなかった。セシーネ王女の話が真実ならそれが覆されたのである。キルマは不安だった。施療院設立の準備のためセシーネ王女が、毎日のように救貧院へやって来るのも不安だった。この不安の一部を夫にうち明けた。夫のパラボン侯爵は海軍少将でもある。彼は、根っからの「海の男」だった。定年で「艦」を降りた今でも外洋に出たがっていた。現在は、海軍兵学校の校長を務めている。キルマの夫は彼女の話を聞くと、あっさりいった。王宮に伺候しようと。キルマは躊躇した。夫は再び、陛下に伺うのが一番といった。キルマは決意した。
女官長時代、王太后の元に「ご機嫌伺い」にやって来る貴族たちをキルマは、内心では、軽蔑していた。王太后の機嫌なぞ取っても無駄なことをキルマはよく知っていた。全ては、玉璽を握っている人物が、この国の最高権力者であり、全てを決定していた。先王時代はまだ、国政にそれなりの影響力は王太后にもあった。だが、先王の失踪以来、その影響力も徐々に低下し、精々、生母を亡くした第一王女の教育方針ぐらいであった。その事実に王太后は、かなりの抵抗を試みたが、国王は礼を失しない程度にやんわりとそれをかわした。
国王に対して、キルマは王太后の権威を笠に振るうほど愚かでなかった。ましては、王太后のいない今、誰の機嫌を取ればいいのかキルマはよくわかっていた。そしてその機嫌の取り方も……
エランダ侯爵令嬢は、相変わらず「着飾って」いた。服は昨日着ていた謁見に着るような礼服といっていいだろう高価な絹の服で、赤みがかった褐色の髪は昨日ほどでは凝ってはいないが高々と結い上げられ、濃いめの化粧をしていた。これでは「身支度」に時間がかかったろうなとセシーネは思った。セシーネ自身は背中まで伸ばした金髪を一つ三つ編みにし、化粧もしていなかった。服も絹ではない。外見から見るとどちらが王女で侍女なのかわからないがセシーネは構わないと思っていた。行事で礼装が必要な時以外、身なりにお金や暇を費やすより別なのものに掛けた方がいいと考えていた。その別なものため、セシーネは王宮の図書室へ向かっていた。エランダは渋々ついてくる。歩きながらエランダに毎日礼装しなくてもいいのよとセシーネはいった。エランダは返事をしなかった。
図書室の扉の前に近衛兵が立っていた。誰かが図書室にいる証拠だった。セシーネは、昼食の時、ランセルがエドワーズは図書室で昼食を取り、ちょっとした「幕僚会議」気分を味わっているといったのを思い出した。自分付の護衛の肩越しに入室禁止かしらと尋ねた。扉の前の近衛兵は伺って参りますと扉の中に入った。近衛兵が戻ってきて、王太子殿下は入室をご許可なさいましたと告げた。煩わしい手続きだが、セシーネは慣れていた。護衛が脇によけてセシーネは図書室の中に入った。鎧を着込んだ男たちが大きな机を囲んでいた。セシーネは膝を軽く曲げ、王太子に挨拶するとお兄さまよろしいかしら?と尋ねた。何だと兄は聞き返した。エドワーズは、机を挟んで扉の向こう正面にいた。机の上には大きな紙が広がっていた。どうやら、地図らしい。
「ちょっとご本を捜したいの。おじゃまなら後にするけど」
いや構わないと兄は許可した。セシーネは椅子に腰掛けている甲冑姿の男たちの後ろを周り、正面の壁に沿って立っている書棚に向かって歩き始めた。エランダも後ろからついてきた。丁度セシーネが兄の背に周り、書棚の前にたどり着いた時だった。エランダが、やけに甘ったるい声で王太子に話しかけた。
「王太子殿下、わたしのこと覚えている?」
何だと怪訝そうに王太子は眉をひそめエランダの顔を見た。セシーネは慌ててエランダのそばに戻り彼女の腕を引っ張りながら、ごめんなさいお兄さまと謝った。もがくエランダを書棚の前まで連れてくるとセシーネは、お兄さまの邪魔をしないのと小声で叱った。エランダは不服そうだった。エランダを部屋の片隅に追いやり、あなたはここにいてといって、セシーネは当初の目的である本を探し始めた。エドワーズは「会議」に戻った。
セシーネは何冊かの本を選び出し、それをエランダに持たせ自分の居室に戻った。エランダは重たい、こんなものを持たせるなんてと文句をいったが、セシーネは無視した。部屋の椅子を示してここに座っているようにとエランダに命じた。
セシーネは本に熱中して、エランダが部屋を出ていったのも気がつかなかった。エランダは、断りもせずにセシーネの側を離れた。別に用は無かった。そこでセシーネは探しもしなかった。だが、エランダの図書室での行動は、ちょっとした「事件」の前触れだった。
セシーネが「事件」のことを知ったのは、翌朝の朝食前、叔母で女官長のメレディス王女からだった。メレディスはセシーネの部屋に怒りで紅潮した顔で入ってきた。そしていきなり、いったいどういう訳?といった。セシーネは何のことかわからず、オウム返しのようにどういう訳ってどういうこと?と聞き返した。叔母は少し怒りを収め「そう、まだ、聞いていないのね。エランダ・コンラッドのことよ」といってメレディスは昨夜の「事件」について話し始めた。
エランダは、昨夜エドワーズ王太子の部屋にあられもない格好で押しかけ、王太子に部屋を追い出されたということだった。セシーネは、叔母にあられもないって?と尋ねた。未婚の叔母は頬を赤らめ「つまり、部屋着というか、つまり寝間着だったのですって。ともかく、エランダは今すぐやめて貰いますからね。いいわね」
セシーネは、この一件を抜きにしても、短い間だったがエランダはどう考えてもいい侍女になりそうもないと思い、同意した。
「やめて貰うのは構わないけど、替わりの侍女は見つかるかしら?」
「替わりなら心当たりがあるわ。そっちにすればよかったわ。どっちか迷ったんだけど、年が近い方がいいかなと思ったものだから。ともかく、エランダには今日中にここを出ていって貰いますからね」と念を押すとメレディスは部屋を出ていった。
朝食の席でも、メレディスの怒りは収まらず、エランダのこの「事件」を話題にしようとした。朝食の席には「大人でない」エレーヌとリンゲートが同席していた。したがって、メレディスはただ、お行儀が悪いとだけエランダを評した。
「あんなお行儀が悪い侍女はやめて貰います。いいわね。エドワーズ」
「どうして、僕に聞くんです?さっぱりわからないなあ」とエドワーズは迷惑そうだった。
この事件のことは王宮で働く人々の格好の話題となった。エランダはその後、ある異名で「勇名」を馳せることになるのだが、その一端を思わせる事件でもあった。エランダのしでかしたこの出来事は、人から人へ伝わる内に次第に尾ひれがつき、中には、服を身につけていないと彼女を見たという目撃談まで現れた。ただ、主人公の名前は伏せられ、ある王女付侍女の侯爵令嬢がという匿名になっていて、他の侯爵令嬢には迷惑な話である。あらぬ濡れ衣を着せられた侯爵令嬢もいた。ちなみにエランダの異名は女性にとってあまり有り難くない「称号」ではある。
エランダは自分の「魅力」に絶対的な自信を持っていた。何しろ「実績」はある。彼女は弟の家庭教師を誘惑することに成功したのである。確かに男はこの手の誘惑に弱い。しかし利口な女は「餌」を見せるだけですぐ与えたりはしない。エランダは何度も「餌」を家庭教師に与えた。彼は、エランダのいうなりだった。最後には結婚を言い出しコンラッド侯爵夫妻の知ることとなった。たかが家庭教師と侯爵家の娘を結婚される訳にはいかない。エランダは領地から王都に移され、家庭教師は職を失った。
この経験から、エランダは「餌」を与えれば男はいいなりになると思いこんだ。王宮へ来て、彼女は、王太子と「出会った」。家庭教師とは比べられないほどの大物である。この大物を釣り上げるべく彼女は「餌」を与える機会をうかがった。狙った獲物の部屋を確認すると彼女はすぐ行動に出た。
さて、エランダの標的にされたエドワーズ王太子殿下であるが、彼はこの事件をどうも女の子のすることはよくわからないで片づけてしまっていた。エランダの「いいことを教えてあげる」という「いいこと」が何を暗示するか彼は察していたが、そこは婚約者もいる身である、慎重且つ迅速に行動を起こした。大声で護衛を呼びつけ、彼女を部屋から排除した。こうして、エランダの「速攻」は、見事に肩すかしを食らうのであるが、このエランダの敗因についてもう少し分析してみると、要は簡単である。まず、王太子は、そういったことにその時はまったく関心なかった。彼の頭の中は、昼間の「軍略」のことでいっぱいだった。そして、明日からの「武術訓練」に備えて少しでも早く眠り体を休めたかった。そして、決定的な決め手が、エランダの容姿は彼の好みからは遠かった。彼の女性の容姿の好みをいうと亡くなった母は美しかったと記憶している。叔母のメレディスも正装をすると華やかで悪くないと思っている。ただ、これは容姿の面からであって、男勝りの叔母は妻にするには骨が折れるだろうなと漠然と感じている。婚約者のメエーネの王女イザベルも会った時の印象は悪くない。ただ、この容姿に関してイザベルに余り期待はしてなかった。何年か会っていなし、成長過程でどう変化するかわからない。余り期待を掛けて裏切られるのを計算に入れてのことである。ただ性格は素直そうで気に入っていた。健全な結婚生活を長持ちさせるのには、重要な要素でもある。ついでに容姿もそれなりに愛らしかったとは思ってはいた。
王太子が武術訓練や軍略に精力を注いでいるのは、結婚を控えて少し手持ちぶさたからでもある。やはり王家同士の結婚である。いろいろな「外交交渉」の結果待ちの時期だった。エランダのことは大事な時に失点になりかねない。再発を防ぐ意味もあって、自分の護衛にあたる近衛兵に「女は絶対入れるな」と命じた。
エドワーズは、母の王妃が病死した後、父の国王が再婚し、幼心に深い傷を負った。先祖のヘンダース王は、その王妃の死後、幼い一人娘のメレディス王女を男手一つで育て上げ女王の座につけた。その史実もあってか、なかなかヘンリッタ王妃になじめなかった。妹のセシーネが素直に「お母さま」と慕うのに自分はなかなか母とは呼べなかったし、そう認めたくなかった。自分にとって母はただ一人だった。これが、彼の女性観や結婚観に多大な影響を与えた。その後、何年かたって、父に母のことを尋ねたことがある。国王は、ただ、愛していたから辛かった。辛かったから、思い出すのさえ辛かった。と語った。その時ようやく、母の死で傷ついたのは自分だけではないと彼は気がついた。
サラボナ・メングス嬢に聞く「王宮に仕える侍女の心得」
記者「すると、第一王女さまの陪席から、女官長である第四王女さまの配属に代わられたのはご自身の希望だったということですか?」
サラボナ嬢「いえ、正確には、副女官長のミルブル夫人の配下ということになりますね」
記者「すると、大幅な降格人事ですよね」
サラボナ嬢「それは、王宮での実力を実際はどう思うかですね(笑)。確かに、もう謁見の間である黄金の間には、伺候しませんけど、そこへ伺候する方々の衣装を拝見する機会はあるわけで、私は、衣装を着るよりも作る方に心が惹かれるというか、お針仕事が好きなんですよ。第一王女さまの陪席では、そのようなことをする必要は、ないわけで、もう、御前馬上試合での第一王女さまの陪席は、一度、務めせせて頂いたわけですしね。結構、あのお役目も大変なんですよ。第一王女さまの前にあの勝者の祝福のお役目をなされたメレディス王女さまや、最初にその陪席を務められた、式部卿の奥方さまになられたオルガ・サングエム子爵夫人の厳しいご指導を賜って、生半可な気持ちでは、あのお役目は、到底つとまらないと思いましたね。まあ、若い侍女たちの憧れのお役目ですけど、私が頂くことにも、ある意味で、嫉妬の対象ですからね。なんでサラボナのという声が聞こえてきそうでしたよ。まあ、お役目が決まった時は、叔父と叔母は、喜んでくれましたけど、母は、心配で試合をゆっくり見る気分では、なかったそうでしたよ。陪席を退いた今は、ゆっくり拝見できるようになりましたけどね」
記者「すると、ご自身の希望で第一王女さまの陪席を退いたというわけで」
サラボナ嬢「もちろんですわ。今のお役目を頂いて、こんな幸せなことはありませんね。好きな仕事をしてお給金がいただけるわけでもの。それに他の侍女たちから意地悪をされなくなったし、逆に色々、口添えを頼まれたりします。つまり、以前より、立場が良くなったと言えますね」
記者「他の侍女と上手くいくようになったと?」
サラボナ嬢「ええ、まあ、第一王女さまの部屋頭のメリメさんとは、上手くいっていたし、王女さま付きの陪席だからといって部屋頭より、偉そうなことを言っては、ダメですね」
記者「つまり、そのあたりが、陪席としての心得だと」
サラボナ嬢「そうですね、部屋頭の方と上手くいかないとお付きの侍女としては、失格ですね」
「都の風」の記事より抜粋。
尚、最初に発行された新聞「アンドーラ通信」は、やや王政に批判的な論調も目立つが、次に発行された「都の風」は、王家や貴族たちの動向を中心に記事が構成され、貴族たちはもちろん平民たちにも愛読者がいることで「アンドーラ通信」と人気を二分する新聞である。