宮廷の作法
宮廷では様々な侍女たちが「行儀見習い」をしていたが、その中でも、セシーネ王女の侍女アリシア・ブライトンは、「医学」を学ぶために「救貧院」へ治療師の「見習い」カディアに医学書による文字の読み書きを教えていた。
治療師が,なんなのかを知るためにカディアの《見立て》を受ける事になるが
アンドーラの王家の従医長カルーン・ベンダー博士が、その職に就いたのは,現国王のジュルジス三世の強い要望があったからであった。当初,前職でカルーンの父親であるメルボンが,従医長の職を辞する時,カルーンはまだ若く,熱意だけが取り柄の凡庸といっていいほどの医学技術しか持ち合わせていなかった。そのような訳で、当時のエレーヌ王妃は、反対をしたが、先王のジュルジス二世も例によって優柔不断な態度をとり、王太子の意見を聞こうといった。父王に問われた王太子は、妻の王太子妃のミンセイヤの数少ない擁護者であるメルボン・ベンダー博士の息子のカルーン・ベンダー博士を推挙した。エレーヌ王妃は従医長の職は世襲制ではないと反対をしたが、結局,ジュルジス二世が,かつては従医長の職も世襲制だったといってカルーン・ベンダー博士の就任を決定してしまった。そのような経緯でカルーン・ベンダー博士は、エレーヌ王太后の信用は、終生得ることがなく、王太后の死を傍観することになった。従医長としては面目が立たないとは思ったが、それを口にするほどではなかった。
王太后の信頼は今一つだったが、閣僚や侍従長の受けはよかった。それは、カルーン・ベンダー博士の誠実な人柄と医学以外への口出しはしないという分をわきまえた姿勢にあった。そして、何よりも研究熱心であった。従医長に就任すると自身の医学技術の向上のため、市井に診療所を設けることを願いでて、ジュルジス二世はそれを許可した。それもエレーヌ王妃を激怒させた。それは、診療所を場所を提供した人物が、エレーヌ王妃の不倶戴天の敵といってもいい人物だったからである。
そして、何よりも王太后の機嫌を損ねたのは治療師ケンナスとの信頼関係にあった。何やら、得体の知れない《治療の技》を使うというサエグリア出身の男を従医長という立場にありながら、ケンナスの医学的な技量を認める発言をしたのである。そして、王太子エドワーズとセシーネ王女に医学の勉強を王太后から見れば積極的に指導し始めたことで王太后の逆鱗に触れるのである。エドワーズは、医学の勉強は飽きてしまったが、セシーネは熱心に取り組んでいた。そのセシーネにもケンナス同様に不思議な力《治療の技》の才があった。それが、創造主の恵みなのか、呪いなのか当時のアンドーラでは、判断を出来る人物は、誰もいなかった。
そして、意外なことに王太后の遺言で、セシーネは王立施療院の院長に就任をすることが、決定するが、その準備に従医長としてベンダーは出来るだけの協力をしていたが、その彼の身体の異変に気がついたのは、《治療師》ケンナスだけであった。ケンナスはその《治療師》独特の診断方法で、従医長の膵臓の病巣を発見するのである。それは、ケンナスの《見立て》は、ベンダーにとって皮肉な結果を告げていた。その病巣は、一種の腫瘍で、これには《治療の技》は、有効ではなく、外科による除去手術しか治療法がなかった。若いときからの地道な努力のおかげで、アンドーラでは、指折り数えられる名医となったベンダーは、その病巣の除去手術を出来るのは、自分だけだという事実を受け入れなければならなかった。しかし、特に痛みなどの自覚症状がなく日常の生活に何らかの影響を受ける事もなく、その病状を周囲には伏せたままベンダーは平常心で日々を過ごしていた。
だが、やがて、セシーネ王女の知る事となる。恩師の病気にセシーネは動揺していた。そういう周囲の反応が懸念されたので、ベンダーは自分の病を伏せていたのだが、ベンダーの病状にケンナスは不安を抱いていた。ケンナスの《見立て》では、腫瘍は日々大きくなって来ていると告げていた。そこで、ケンナスは、ベンダーの宮廷での立場を考えて、病を公表するように説得した。
アンドーラでは、第一王女セシーネを院長とする王立施療院の設立の準備が進められていた。その準備にベンダーも従医長という立場から、また自身の心情からも、積極的に協力をしていた。セシーネもベンダーの教示を必要としていた。独学で医学を学んだケンナスもアンドーラの宮廷で《治療師》として過ごすようになってから,ベンダーの薫陶を受け、王立大学の医学の学士位を取得していた。そして、その上位の博士号を取得するためにベンダーの助言は不可欠であった。ケンナスは《治療の技》という不思議な技の持ち主であったが、《治療の技》に頼る事は、危険が大きいと承知していた。
セシーネは、師のケンナスに教わった通りに丁寧に《治療師》独特の診断方法《見立て》で、ベンダーの身体を探った。その《見立て》の感覚は、ベンダーのかなり大きな腫瘍を告げていた。そして、セシーネは衝撃を受けていた。
「先生、いつから、気がついたんですか」と二人の医学の師のセシーネは尋ねたが、その目には涙がにじんでいた。
「そうだな。ほぼ、三ヶ月になる」とベンダーは冷静だった。ケンナスは、腫瘍の大きさがわかるかとセシーネに尋ねると、セシーネはその大きさを石版にチョークで書き記した。
「結構、大きいだろう」とケンナスは、苦い顔をしていた。
「セシーネ、この患部に《治療の技》をかける事は出来るかな」といつもは《治療の技》を用いる事に慎重なケンナスが、《治療の技》で病気の治療をするように勧めるのは珍しかった。
「今まで、やってみた事はありませんが、やってみます」とセシーネは、緊張と期待で自分の胸の鼓動が、自分の耳に聞こえて来るような気がした。セシーネはベンダーの背中に手を当てての患部の当りをもう一度《見立て》をしながら、《力》を加えた。しかし、何の反応もなかった。再度試みたが、やはり、反応はなかった。
「先生、だめです。何の反応もありません」とセシーネは落胆を隠せなかった。
「やはりそうか。私の経験では、腫瘍に《治療の技》は、効果がないんだ」とケンナスも、それほど期待はしていなかったので、落ち着き払っていた。しかし、セシーネは、その動揺を隠せなかった。どれだけ、ベンダーを頼りにしていたか、思い知らされることになった。
「ベンダー、やはり、陛下には、ご報告をした方がいいと思います。王立施療院の件もありますし」とケンナスは、従医長が病に冒されるという微妙な位置に立たされる恩人を思いやった。ケンナス自身はアンドーラの最高権力者国王ジュルジス三世が少々苦手だった。隣国サエグリアで生まれたケンナスは、まさか、身分の低い自分がアンドーラの宮廷で過ごすようになるとは思いもかけなかったのである。そのためか、宮廷での暮らしにはなかなか馴染めなかった。そこで、魔術師ガンダスが見つけて来た《治療の才》があるという子供たちを教えるためという口実で救貧院で過ごす方が、気が張らなくてよかった。それでも、多少の宮廷での暮らしに必要な政治的な判断力は、持ち合わせていた。ベンダーの従医長という職分は、アンドーラの医学界において、最高権威という立場にあった。そして、ベンダーの医学的な技量も今ではその権威に似合うものになっていた。
しかし、そのベンダーの病は、セシーネもケンナスもそして当然ながらベンダー自身も打つ手がなかったのである。
第一王女セシーネが従医長の病を知り苦悩していたとは、反対に喜びの知らせに心躍らせている人物がいた。セシーネ付の侍女ナーシャ・ルンバートンである。ナーシャの父ルッセルト大佐が、将官昇進の内示を受け、将官研修のため王都にやって来ることになった。ルンバートン侯爵家にとって、待望の将官が誕生するのである。メレディス女王以前からの貴族であるルンバートン侯爵家ではあったが当主のビクトル・ルンバートン侯爵とルッセルトとは、それほど血縁的に近い訳ではなかったが、侯爵家の当主としてビクトルは、ルッセルトに助力を惜しまなかった。ルッセルトの息子へスターが軍学校こと王立士官学校への入学を希望しているときけば推薦状を書き、駐屯地暮らしでは娘の養育もままならないと考えたマチルダ・ルンバートン侯爵夫人が、娘のナーシャを領主館に引き取り貴族の娘にふさわしい素養を身につけさせた。その仕上げとして、第一王女付けの侍女という名の「行儀見習い」として王宮に暮らすように算段もした。
その甲斐もあって、ルッセルトの将官昇進の内示は、ルンバートン侯爵家を歓喜で満たした。そもそも、メレディス女王時代に騎士団長を拝命したこともある武勇の家柄であった。だが、騎士団が近代的な軍組織に変貌する間にルンバートン侯爵家は、やや時代から取り残されていく感があった。陸軍が将官制度を取り入れて以来、その最高位はルッセルトの父の大佐である。将軍の地位には届かなかった。それだけにこの度の内示は、ルンバートン一族の念願が叶うまで、後一歩まで、来たのである。
しかし、肝心のルッセルトの妻デライラは、戸惑いを隠せなかった。夫が「閣下」と呼ばれる身分になるからではない。デライラは夫の昇進の条件の一つが、妻である自分の馬術の心得があるかどうかにかかっていると聞いて驚きを隠せなかった。夫のルッセルトはもちろん、息子のヘクターは、軍学校への入学試験の武術試験の科目である馬術は十分訓練をして来ているが、デライラは馬に触った事もなかった。
そんな事情をナーシャは、マチルダ・ルンバートン侯爵夫人から聞く事になる。
「まったく、将官昇進に妻の馬術の心得が必要だなんて、私は、聞いたことがありませんよ。元帥の嫌がらせにしか思われないわ」とマチルダは、王宮の中での事なので声をひそめていった。ルンバートン侯爵家と陸軍元帥の実家ラシュール伯爵家とは、ラシュール伯爵家が、ルンバートン侯爵家から伯爵に叙せられたという同じ血を分けた縁戚になる。マチルダは、最後の騎士団長だったラシュール・ルバートンのメレディス女王から、拝領した甲冑が、ラシュール伯爵家の領主館の広間に飾ってある事が、内心では、残念に思っていた。ルンバートン侯爵家の広間に飾ってある甲冑はそれよりも見劣りするのが否めなかった。
「まあ、それで、伯母さま、母はどうしているのかしら」
「今は、馬術のお稽古をしてますよ。元帥夫人のマリーゼ夫人が教えて下さるという事になって。マリーゼ夫人は、かなり心得があるみたいなの。まあ、彼女はスタバイン侯爵家の出身ですからね」とルンバートン侯爵夫人は元帥夫人の出自を口にした。メレディス女王以前からの侯爵家のスタバイン家と違って、ルンバートン家は、メレディス女王の時代に伯爵から侯爵に格上げされた半ば、侯爵家では格下と見なされる事もある。
貴族の社会では、出自は大事な要素だった。出自がよければ、それだけ尊重をされる。無論、それだけではないが、序列をつけたがる人間たちには、貴重な判断基準の一つであった。そして、ルンバートン侯爵夫人は、口に出さなかったが、デライラの出自はそれほど、いいという訳ではなかった。
「ねえ、ナーシャ、確か、第一王女さまは、馬術をなさるのよね」と以前見た第一王女セシーネ王女のズボン姿を思い出して、マチルダは、ナーシャにそれとなくほのめかした。
「ええ、馬術はお好きみたい。剣術もなさるのよ」
「剣術はともかく、あなたも馬術を習った方がいいのではないかしら。あなたの婚約者は、武官ですからね」
「私が、馬術を?」
「ええ、今のうちに習っておいた方が、後で苦労しなくてすむわ」とマチルダは、ナーシャの婚約者の昇進も期待していた。
そんな訳で、第一王女付けの侍女、ナーシャ・ルンバートンは、馬術を習う許可を第一王女セシーネに願い出る事になった。しかし、馬術の訓練を必要とする侍女は、他にもいた。ブライトン侯爵家のアリシアである。
つい最近、第一王女付けの侍女となったアリシアは、医学を学ぶために王宮の「行儀見習い」になったのだが、セシーネ王女から、一見無関係な馬術を修得するように申し渡されていた。アリシアは、救貧院に通うセシーネ王女のお供で救貧院へついて行くのだが、その往復には、セシーネ王女は、愛馬にまたがって行くが、アリシアは馬に乗れないので、馬車を使っていた。
アリシアは、他にも救貧院の《治療師》の見習いの女の子のカディアに文字の読み書きを教えるようにも申し渡されたいた。《治療師》という耳慣れない言葉にアリシアは、古株の侍女のナーシャに問いただしてみたが、ナーシャは、微妙な顔つきでその話題はあまり口にしない方が得策だとほのめかしていた。しかし、カディアの学ぶ読み書きの教材は、医学の基礎的な用語が書かれた書物で、医学を学びたいアリシアには、自身の勉学の助けにもなったので、不満はなかった。
しかし、同じセシーネ王女付けの侍女のうち,タチアナ・プルグース子爵令嬢は、不満だらけだった。新入りの「行儀見習い」のアリシアは、医学を学ぶという口実で、様々な雑用から解放されていた。当初、雑用のほとんどを引き受けてくれたナーシャも、部屋付けの侍女のメリメにタチアナにも雑用を分担するようにと助言されると、タチアナにその役が回ってくる事もしばしばだった。それほど、人使いが荒い王女ではなかったが、それでも、恒例の「馬上試合」の開催が近くなって来ると、その準備のため、用事が増えたのである。
第一王女は、「馬上試合」の優勝者の腕にリボンを巻き、優勝者を讃えるという大事な役目があった。無論、第一王女のそばに陪席するのは、王女付けの侍女の役目である。出自からいえば、一番上位のアリシアは父親を亡くして喪中なので、当然の事ながら今年は除外される。ナーシャは侯爵家の出身とはいえ血筋は、少し遠い。当然、子爵の娘である自分がその陪席を指名されると思っていたタチアナは、第一王女が、ナーシャを選んだ事に、不満を募らせていた。以前、海洋大会の時には、第一王女の陪席は、ナーシャが午前、タチアナが午後と割り振って、タチアナは、会場からの帰りの馬車で王太子と同じ馬車に乗り合わすという幸運に恵まれたが、「馬上試合」は、第一王女の衣装に併せて陪席の侍女の衣装もあつらえるので、席を午前と午後で分けた海洋大会のようにはいかなかった。
タチアナが不満だったのは、その衣装が自分の持っている衣装よりも、豪華な出来上がりになると聞いたからである。タチアナは、それとなくナーシャにその役目を譲るようにといってみたが、それが、メリメの耳に入ると、メリメは「一体、何さまのつもり何だい。ナーシャのお父さんは今度、将軍閣下になるんだよ。准将閣下といえば、子爵と同格なんだからね」と叱られるはめになってしまった。結局、メリメがそのことをセシーネ王女に告げると、王女は、来年の陪席は、タチアナを指名する事で決着がついたのである。王家の行事に些か無関心なアリシアには、文句はなかった。
一方、不満どころか、途方に暮れている侍女もいた。第四王女のメレディス王女の下に「行儀見習い」で王宮暮らしを始めたシルビナ・カウネルズ伯爵令嬢である。シルビナは、初謁見という、アンドーラの貴族の令嬢では大事な行事を迎えるにあたって、女官長でもあるメレディス王女と式部卿夫人であるオルガ・サングエム子爵夫人に衣装をはじめ一挙一動を点検され、「行儀見習い」を申し渡されたのである。シルビナは、良縁を求めていた。そのため、自身の容貌に磨きをかけるため、服装や化粧法は無論の事、豊かな胸を強調する歩き方などいろいろ工夫を凝らしていた。その工夫をメレディス王女とオルガは、徹底的に否定するのである。シルビナは、信じられない思いで、初謁見のために用意した自分を魅力的に見せる衣装を「下品だ」と評するメレディス王女の言葉を聞いていた。
「ともかく、この衣装は手直しをしなければだめよ。あなた裁縫はできる?シルビナ」
「裁縫だなんて、針も持った事はありません」とさすがに王女には礼儀正しい口の聞き方をしたシルビナだった。いつもの鼻にかかった甘ったるい話し方は影をひそめていた。
「そう、だったら、サラボナに教わって、この衣装を直す事から、始めるのね」とメレディス王女は、無情にも伯爵令嬢である自分に針仕事を命じた。シルビナは、逃げ出したくなった。
「それにその歩き方も直しなさい。まるで」といってメレディス王女は、さすがに「娼婦みたいだ」とは口に出せなかった。それを引き取って、オルガが「酒場女みたいで下品よ」といった。オルガは、晴れて「典礼長」という式部省管轄の役職に就き、その表情は自信にあふれていた。二人の年長者に「下品」と酷評され、シルビナは自分のどこが下品なのか理解できなかった。しかし、シルビナ一人に時間を割く訳にいかない、メレディス王女と典礼長は、シルビナの指導を王宮で育ったと云っていいサラボナに預けて、他の初謁見を控えている娘の点検にいってしまうのである。
「王宮育ち」のサラボナには、シルビナの問題点がよくわかっていた。その豊かな胸を強調する立ち振る舞いが、まるで男を誘っているように見えるのが、女官長も典礼長も気に入らないのである。それは、王宮の風紀を預かる女官長として許しがたい事であった。清廉潔白が、女官長の信条でもあった。女官長として、「娼婦もどき」を宮殿を闊歩させる訳にはいかない。それで、衣装の手直しという理由で王宮の裁縫室にシルビナを閉じ込めて他の人々の目に触れないように策を練ったのであった。
しかし、閉じ込めたつもりのシルビナを役目上目撃した男性がいる。メレディス王女付の近衛兵である。重騎兵でもある彼らは、兜の中から一部始終を見守っていた。メレディス王女付けという役目上、メレディス王女に常に同行している彼らは、警護対象である王女にあだ名をつけるような不敬罪ともとられかねない事は、さすがにしなかったが、王宮にいる侍女たちには遠慮せずにあだ名を付けるという、些か、貴族の令嬢を軽視する風潮があった。そこで、新入りのシルビナについたあだ名は少し露骨でなんと「オッパイちゃん」である。まあ,少し”芸”がないような気もするが、率直にシルビナの特長をつかんでいるといえば、そうなのであろう。
アンドーラの最高権力者国王ジュルジス三世の跡継ぎエドワーズ王太子はこのところ上機嫌だった。念願の「鹿狩り」は、大成功のうちに終わり、一番の大物を射止めたのは、多少「地の利」を活かしたギルデン子爵だったが、エドワーズ王太子の射止めた鹿もなかなかの角を持った雄鹿で、初めての「鹿狩り」にしては上出来だとガナッシュ・ラシュール陸軍元帥に褒められ、獲物を逃がした叔父のランセル王子を悔しがらせた。その「鹿狩り」には、陸軍だけではなく多くの爵位を持った貴族たちが、駆けつけた。自分たちが鹿狩りに参加するのは無理でも、一族のもので弓術に自信のあるものを参加させていた。これは、参加者の名簿を作成した式部卿から報告があった。その報告は、エドワーズの自尊心を満足させるものであった。
そして、元帥の天幕で鹿狩りに集まった陸軍の師団長たちに出席し、次期将官の昇進について候補者の人選についての師団長たちの意見を聞く事になった。まあ、候補者となる各師団の副官たちにそれほど顔なじみがないエドワーズは、ただ頷くだけで、ガナッシュ元帥や近衛師団のサッカバン准将のやや辛辣な評価に多少驚くが、同席した叔父の海軍大佐のヘンダース王子も、なかなか厳しい意見を述べた。
将官昇進の条件もこのように平和が続いていると戦闘能力よりも駐屯地を治める統治能力が重要視されがちだが、ヘンダース王子は、平和はアンドーラ国内だけの事で、国外をみれば一触即発の危険もあると指摘し、師団長たちの士気を引き締めた。内戦の経験がある陸軍でも、他国との戦闘の経験は、なかった。これは、ヘンダース王以降の国王が国内の統一に力を注いだ結果だった。
しかし、将官昇進の方は、大多数の師団長たちの意見はルッセルト・ルンバートン大佐で、まとまりつつあった。ルッセルト大佐は、何よりも部下たちの人望があるとその上官にあたる師団長が強調した。将官昇進の最終決定は、国王がすることになるのだが、ヘンダース王子がその人となりをみたいから、早めに将官研修を課して王都に呼び寄せることにしたらと提案した。どのみち、退役する将官は一人ではなかった。つまり、もう一つ師団長の席が空くのは時間の問題だった。
その後、鹿狩りが行われた第七軍区から王都まで一気に馬で駆け戻った。途中、疲れた馬を乗り換えるという事までやってのけた。あらかじめその計画は、近衛師団の参謀に予告しておいたので、参謀は、お供の近衛兵が追いつかないのを見越して、二カ所ほどエドワーズが替え馬を用意していた駐屯地に予備兵を待機させる手配をしていた。まあ、国内は安定しているとはいえ、王太子を単独行動をさせる訳にはいかなかったのである。
そして、エドワーズは、大事な人物をメエーネから迎えようとしていた。エドワーズの結婚相手であるイザベル王女の父親ランガルク公爵である。ランガルク公爵は、アンドーラ海軍の軍船で、アンドーラへ向かっていた。それは、アンドーラの賓客である事もあったが、メエーネは、海軍はもちろん、外洋船を所有していなかったからである。そのためか、メエーネの国王ロバーツ二世は、アンドーラの船を要望していた。
チェンバーの港にエドワーズは、将来の義理の父親を、最近着込んでいる甲冑ではなく平服で出迎える事にした。だが、護衛の近衛兵は、重騎兵である。出迎えには、何度もメエーネに足を運んだ外務卿も顔を出していた。
ランガルク公爵を乗せた艦隊が、港に到着し、岸壁に横付けになる。ランガルク公爵の乗っているのは艦隊の旗艦である。旗艦の旗を確認するとエドワーズは、その旗艦が横付けされている岸壁に歩いて向かった。ランガルク公爵に会うのは、エドワーズの立太子礼の時以来だった。その時より、エドワーズは背も伸びて、日頃の武術訓練で胸回りもたくましくなっていた。
ランガルク公爵が、旗艦からおりて来た。メエーネからのお供もいっしょである。そして、エドワーズとランガルク公爵は、どちらともなく握手を求めて手を差し出していた。
ランガルク公爵は、将来の義理息子の成長振りにやや安堵の気持ちを抱いた。エドワーズは、チェンバース家の遺伝である高い背丈とエンガム家の整った容貌を受け継いだ青年に育っていた。外見は、娘のイザベルの希望に添っているいるだろう。だか、その中身はどうなのだろうとランガルク公爵は、滞在期間中にそれを見極めるつもりだった。それは、将来の義理息子を値踏みするというより、友好国のアンドーラの次期国王の素質を見定めるという意味合いもあった。
握手を交わしながら、エドワーズは「アンドーラにようこそ、ランガルク公爵。お久しぶりです。船旅はいかがでしたか?もう少し早くアンドーラにおいでになれば、鹿狩りを楽しめましたのに」
「久しぶりだったな。エドワーズ。ほう、鹿狩りか。若い頃はいろいろ狩りもしたものだが、最近はとんと縁がない」とランガルク公爵は、チェンバース王家が、武術をたしなんでいることを思い出していた。国王の二人の弟はそれぞれ海軍と陸軍に所属していることも記憶にあった。やはり、出迎えに港にやって来ていたメエーネのアンドーラ駐在大使スラード伯爵が「王太子殿下は、見事な牡鹿を射止めましたよ」と口を挟んだ。メエーネのスラード大使も王太子主催の鹿狩りに招待されて参加していた。
「ほう、それは、拝見したかったな」と社交辞令を述べながら、ランガルク公爵はメエーネの王太子のクリフト王子が、あまり武術に興味を示さないのとつい比べてしまう自分に気がついていた。迎えの馬車に案内しながら、エドワーズは「この二年間は自分の兵役義務だと考えているんです」
「ほう、兵役義務とな」とランガルク公爵は、馬車に乗り込みながら、アンドーラの隅々まで行き渡っている国民の兵役義務制度を少しうらやましく思ったが、メエーネも兵役義務制度が平民にも浸透しつつあると内心で自分を納得させていた。
「ええ、今日は文民服ですが、普段は日中は甲冑で過ごしています」
「どんな甲冑なのかな。後で拝見させてもらうよ。馬上試合に出るときの甲冑はなと云ったかな。馬上試合は、楽しみに来たのでね」
「重騎甲冑です。無論、昔の騎士団時代の甲冑でも、出場は可能ですが」
「エドワーズ、君は出るのかね、馬上試合に」
「いえ、今年は叔父のランセルが出場します。僕は、まだ、武術教官から許可が出ないのです。それに王太子として出場すべきかちょっと検討しているところです」
「そうだな、まあ、けがでもしたら、大変だからな」
確かにエドワーズは迷っていた。「鹿狩り」も武術の腕試しという面があったが、個人の武術の技量よりも、弓矢を持った集団を動かすという少々、軍略に似た作戦が必要だった。だが、馬上試合は、完全に個人技の腕前が試される競技で、そこに王太子という立場の自分が出場する意義があるのか、エドワーズも答えがわからなかった。父親のジュルジス三世は、御前馬上試合の発案をしたが、弟のヘンダース王子に出場を命じたが、自身は出場はしたことがない。
エドワーズが、内心憧れているヘンダース王は馬上試合も得意だったと聞く。だが、今は、戦は個人戦より団体戦で戦うのが時流になって来ていた。ただ、隣国のサエグリアは相変らず男爵たちが領地をかけて馬上試合が、盛んに行われているという。アンドーラでは、馬上試合は、重騎兵の訓練の一部で行う他、年一度の国王主催の「御前馬上試合」以外は、禁止されている。
まあ、今は国王になるために馬上試合の名手である必要はなかったし、たとえ馬上試合の敗者になっても失うものは、多くはなかった。そのような訳で、エドワーズ王太子が、馬上試合に出場しなくても、臆病者という誹りを受ける心配はなかったのである。
アリシア・ブライトン侯爵令嬢は、王宮暮らしに慣れつつあった。だが、第一王女のセシーネ王女が、院長に就任するという王立施療院の設立は、理解出来たが、理解できないのは《治療師》という聞き慣れないものたちの存在だった。その《治療師》の見習いのカディアに聞いても、自分たちは《治療の才》があるといわれて王都に連れて来られたと説明にもなっていない答えが返ってくるだけだった。
だが、アリシアがその真相を知る機会は、ある雨の日に訪れた。その日は、セシーネ王女は、乗馬ではなく、アリシアと共に馬車で救貧院に向かった。
「どう、王宮での暮らしには慣れた?」とセシーネ王女は、まだ、喪服のアリシアに尋ねた。アリシアの王宮での「行儀見習い」を半ば強引にキルマ・パラボン侯爵夫人が、アリシアに強制したことに些かアリシアの母方の祖母ミネビア・サリンジャー侯爵夫人は、気分を害していたが、母親のアマンダの方は、アリシアの医学を学びたいという願いに複雑な思いをしていた。それでも、王家に対する立場から、大っぴらに反対の意思表示を出来ないでいた。それが、アリシアにはわかっていたので、アリシアの雑用をこなすためにブライトン侯爵家から送られて来た侍女のバニラにも、救貧院での様子を話すことも控えていた。無論、ブライトン侯爵領でも《治療師》と名乗るものはいなかった。
「あの、王女さま《治療師》って一体どんなことをするのですか。お医者さまとどう違うのでしょう」
「そうね、口で説明するより、実際、体験をした方がわかりやすいと思うわ」と王女は落ち着き払っていた。
「カディアに《見立て》をしてもらうわ」
「《見立て》って何ですか」
「《治療師》の独特な診察方法なの。受けてみればわかるわ」
《治療の才》があるセシーネ王女も当然のごとく《見立て》が出来たが、《見立て》の独特なあの感覚は、揺れる馬車の中では、はっきりとはわからないので、セシーネ王女は《見立て》をしなかった。しかし、カディアの《見立て》は、とんでもない影響をアリシアの身体に与えることになろうとは、誰にも予想がつかなかったのである。それで、人々が《治療の技》の不思議さを余計に思い知ることになるのである。
自信たっぷりなセシーネ王女と疑問だらけのアリシアを乗せた馬車が救貧院に到着すると、雨の中をカディアが出迎えた。これは、カディアの自主的な行動ではなく、救貧院院長のキルマ・パラボン侯爵夫人が、文字の読み書きをアリシアから教わっているカディアに師を出迎えるようにと命じたのであった。
馬車から降りるとセシーネ王女は、雨の中を玄関から出て出迎えたカディアに「まあ、ぬれるから玄関の中で、待っててくれればいいのに風邪を引くわよ」
「院長さまがこうしろとおしゃるので」とカディアは無表情だった。セシーネがアリシアにカディアに文字の読み書きを教えるようにと命じたのにこのカディアの態度がある。カディアは、自分が平民のそれも貧しい小作人の娘であることを引け目に感じていて、セシーネに馴染もうとしなかった。侯爵令嬢であるアリシアにもなかなか親密な態度を取るということは、なかった。《治療師》の見習いではないが、アリシアもゆくゆくは施療院で働くことになろう。施療院院長の座につくセシーネは同じように働く娘たち同士で、身分を越えて多少は仲良くなって欲しかった。
「おはよう、カディア」とアリシアもカディアに声をかけた。アリシアのカディアに対する態度は、多少、領地にいた頃に領民の娘たちに対する態度とあまり変わりがなかった。それをセシーネは注意をしようか迷っていた。アリシアが《治療師》の見習いならば、貴族と平民という身分よりも、どれだけ《治療の技》に長けているかが、身分の序列の基準となろう。しかし、《治療師》の見習いのカディアとそうでないアリシアに序列をつけるのは、やはり難しいことであった。
建物の中に入り、いつもカディアとアリシアが学んでいる部屋に入るととセシーネは「カディア、今日は、アリシアに《見立て》をしてもらうわ」
「《見立て》ですか」とカディアは、緊張の表情を浮かべた。
「別に診断は、いいのよ。アリシアに《見立て》の感覚を味わってもらうだけでいいの」と《治療師》ケンナスの一番弟子であるセシーネは、カディアの緊張を解こうとした。緊張をしていては《見立て》はうまく出来ないであろうからの配慮であった。
「カディア、まずは、ビラン中尉から,やってもらいます」とセシーネは護衛に付き従っている近衛兵のビランを指し示した。これは、初めて《見立て》を受けるアリシアが不安にならないという配慮である。《治療師》には、いろいろ配慮が必要であった。
幼い時からのセシーネを見知っていて《治療師》の微妙な立場を知っていたビランは、何故とは聞かなかった。王宮から雨の中を騎乗で来て、雨でぬれている甲冑姿のビランは、部下に盾を渡すと、左手の小手を外して、カディアに手を差し出した。その手首をカディアは右手で軽く握ると軽く眉を寄せた。カディアの目が遠くを見るような目になり、セシーネはカディアが《見立て》をしたのがわかった。カディアがビランの手首を離すと
「王女さま、《見立て》をしました」とカディアはセシーネに報告をした。ビランは再び小手をはめた。
「アリシア、わかったかしら。これが《治療師》の《見立て》という診察方法なの。今度は、あなたが、カディアにやってもらいますからね。怖がることはないわ。さあ、カディア、今度はアリシアに《見立て》をしてご覧なさい」
「はい、王女さま、診断はいわなくてもいいのですね」といくらか不安そうな表情のカディアである。
「ええ、これは、アリシアに治療師とは何かを説明するためにやってもらうのだから、診断をいわなくていいわ」
「わかりました。アリシアさま、手を出して下さい」
「あの、王女さま、手はどちらでもよろしいのですか」とこちらもやや緊張気味のアリシアである。
「どっちでも、いいのだけど、どちらかといえば心臓に近い左手の方が心臓の診断にはいいわね」
「そうなんですか、王女さま」とカディアが驚いた。
「あら、ケンナス先生は、教えて下さらなかったの。まあ、多少個人差があるみたいだけれど、私はその方がわかりやすいけど。ともかく、やってみなさい」とセシーネは、カディアを促した。
カディアは、アリシアがおずおずと差し出した左手を軽く握った。それは、ビランの時と何の変わりがないように見えた。だが、それは、起こった。
《見立て》というその感覚は、アリシアにとって初めての経験だった。それは、カディアが握っている左手首からアリシアの身体の奥の方へ何か振動のようなものが伝わり、それは、身体の奥の方で何かとぶつかったような、強い衝撃となって、身体の中心が弾けたような感覚だった。アリシアは、その衝撃に耐えられなくなり思わずよろめいた。すると自然とアリシアの左手首を握っていたカディアの右手が、離れた。だが、身体をうねるような感覚はまだ、続いていた。
よろめいたアリシアをその後ろにいたビラン中尉が、手を差し伸ばして抱きかかえるような体制になった。アリシアの「反応」にその場にいたものたちは、驚きを隠せなかった。セシーネ王女付の近衛兵たちは、何度も《見立て》の現場に立ち会い、彼ら自身も見習いたちの稽古台になるさえあったが、アリシアのような反応をしたのは、これまで誰もいなかった。
セシーネも、アリシアの反応に驚き、カディアに思わず詰問調で「カディア、《力》を強くかけすぎたのではないの」と問いつめた。
セシーネ以上に驚き、そして泣き出しそうなカディアが「いえ、そんなことはありません」と頭を振った。そこに気が利くビランが「姫、原因究明は後にして、それより、アリシアを横にさせたほうが、いいでしょう。アリシアは、どうやら、痙攣の発作を起こしたようですよ」と辺りを見回した。ビランの目に留まったのは、診察の時に用いる診察台だった。ビランは、まだ、かすかに痙攣をしているアリシアを軽々と抱き上げると診察台のそばまで運び、診察台の上にそっとアリシアの身体を置くと「姫、どうやら、ケンナス先生を呼んで来た方がいいでしょうね」とビランはエンバーの出身者らしく、セシーネを「姫」と呼び、てきぱきと部下に「ケンナス先生を呼んでこい」と命じた。
「そうね、その方が、いいでしょう」とセシーネもこの緊急事態を《治療の技》の師であるケンナスの力が必要なことは、直感として感じていた。今まで、セシーネはケンナスから、許可を得ず《治療の技》を使うことは固く禁じられていたが、《見立て》を行うことについては特に何らかの規制はなかった。アリシアの《見立て》に対する異常な反応は、セシーネにも初めての経験だった。
「アリシア、聞こえる?口はきける?」とセシーネは診察台の上に震えながら横たわっているアリシアに声をかけた。
「あの、何が起こったのでしょう」とアリシアは声を震わせながら、尋ねた。
「さあ、私にもわからないわ。こんなこと、初めてよ」と、セシーネは、ふと、元女官長のキルマ・パラボン侯爵夫人が、《見立て》を受けるとその後、必ず、気分が悪くなるといっていたのを思い出していた。やはり、《見立て》が、人畜無害とは、いえないのかとも思った。セシーネは、アリシアの症状を見て思いついたのは、アリシアに持病があるのではないかということだった。アリシアは、侯爵家の姫としては、珍しく医学を志している。セシーネは、アリシアにその理由を尋ねたことはなかったが、アリシア自身の病気がその要因となったのかもしれないと思いめぐらせていた。診察台に横たわっているアリシアの症状は、癲癇の発作のように思えた。しかし、アリシアの意識は、はっきりしていた。しかし、セシーネには、その症状にどう対処していいのか手の施しようがなかった。
そこで、ビランの部下がケンナスを呼びにいっている間、セシーネは、何故、このようなことが起こったか、原因を探ろうとした。おびえているカディアにセシーネは、なるべく優しい口調で「カディア、どのくらいの《力》をかけたの。私にやってみて」と手を差し出した。
カディアは目に涙を浮かべていた。
「王女さま、私は、何も変なことはやってません。教えられた通りに《見立て》をしただけで」
「わかっているわ、カディア」とここで、セシーネが、カディアが、他の見習いの男の子たちに比べ、《見立て》の練習は、それほど多くはなかったことを思い出していた。救貧院にいる見習いの中で、ただ一人の女の子であるカディアには、練習の相手があまりいなかった。カディアの経験不足が、このアリシアの症状の要因なのであろうか。
「カディア、私は、大丈夫だから、《見立て》をやってみて」とセシーネはカディアに促した。その間にもアリシアの発作のような身体の震えは、おさまらなかった。
カディアの《見立て》は、緩やかだった。セシーネ自身は、自分の《見立て》を受けた感覚を体感することは出来なかったが、師のケンナスの《見立て》を受けた時と何ら、変わりがないようにも思えた。
その実証ともいえるカディアのセシーネへの《見立て》の間にビランの部下に連れられて《治療師》ケンナスが、部屋に入って来た。ケンナスは、気難しい顔をしていた。診察台の上に横たわっているアリシアを見てケンナスは眉を寄せて今度は泣きじゃくっているカディアを見、それから、物言いなげな表情でセシーネを見た。
「《見立て》の最中にアリシアが発作のようなものを起こしたということだが」とケンナスは診察台に近づき、震えているアリシアの様子を注意深く観察した。
ことの成り行きは、セシーネではなくセシーネ付の近衛兵のビラン中尉からケンナスに説明された。
「最初、自分がカディアの《見立て》を受けて、その時は、何もおきませんでした。先生の《見立て》の時と別段変わったことは、なくて。その後、姫が《見立て》は、左手首を握った方が心臓の具合がわかりやすいとカディアにいって、カディアはそれは知らなかったようです。その後、カディアが今度はアリシアに《見立て》をしたのですが、カディアが、アリシアの左手首を握って、そうですね、カディアが《見立て》を始めた瞬間アリシアの痙攣のようなものが始まって、彼女が倒れそうになったので、自分がそちらの診察台に運びました。自分は、姫が以前からいろんな人に《見立て》したことを見たこともあるし、先生の《見立て》を見たこともありますが、こんなことは初めてです。アリシアは大丈夫ですか、先生」
ビランの説明を聞いたケンナスの表情は深刻だった。セシーネも動揺を隠せなかった。しかし、もっと衝撃を受けていたのはアリシアに《見立て》をしたカディアだった。カディアは泣きじゃくり始めた。それを横目で見ながらも、ケンナスは次にアリシアに質問をしようと診察台に近づいた。
「アリシア、話せるかな」とケンナスの口調は、優しげだった。そして、震えているアリシアの身体を手で触れることなく慎重に頭から足の先まで目視で観察した。
「ビラン、君がカディアの《見立て》を受けた時は、問題がなかったのだな」
「ええ、姫の《見立て》の時とそう変わりはなかったですね。そうですね、まあ、《見立て》は一瞬なのわかり難いのですが、姫の《見立て》と違っているといえば、カディアの《見立て》は、ちょっと目に振動が来たように感じたのですが」
「そうか、目に振動がきたのか」
「先生、多少ですよ」
「アリシア、まずは、この症状が、起こった要因を突き止めなくてはいけない。いくつかの質問に答えてくれ」
「わかりました。やってみます」とアリシアは、声を震わせながら答えた。
この時のケンナスとアリシアは、互いを紹介されただけの顔見知り程度の間柄だった。医学を学びたいとはいえ、治療師の見習いになった訳でもないアリシアは、ケンナスの治療師という肩書きにいくらか疑問を持った程度だった。
「《見立て》を受けるのは初めてかな」
「はい」とアリシアは震えながらうなづいた。
「セシーネ王女の《見立て》もないんだね」
「はい、ございません、あの王女さまも出来るんですか」
「まあ、そうだね。ところでこれまで、こんなような症状になったことはあるかね」
「いえ、初めてです。あの、私はいったいどうなってしまったのですか」
「それをこれから、探ろうとしているのだからね。私の質問には正直に答えてくれ」とケンナスは、念を押した。
「これまで癲癇の発作をおこしたことが、あるかな」
「癲癇ですか、いえ、ありません」
「それじゃあ、これもこの症状の原因を知るためだからね。家族で癲癇の発作を起こした人はいるかね」
「いえ、おりません」
「まあ、そうだろうね。私のわかる範囲ではこれは癲癇の発作ではないと思う」
「じゃ,なんなんですか」とセシーネが、つい口を挟んだ。
「そうだね、ちょっと待ってくれ、セシーネ」といって、ケンナスは少し眉を寄せて考え込んだ。そして、アリシアの手を取って脈をとるということはなく、その診察方法は、もっぱら、問診だった。その質問には、家族の病歴も含まれていて、父の脳卒中での死を悔やんでいるアリシアには、今の症状の他にも精神的につらい気持ちにさせた。他にも食事などの質問をアリシアにした後、ケンナスは、ちょっと、その場の重苦しい雰囲気に合わないことをいった。
「アリシア、ちょっと、アカンベをしてごらん」
「アカンベですか」と不審そうなアリシアにケンナスは説明をした。「まぶたの裏側を見たいのだ、これは、大事な診察方法の一つだよ」とケンナスは、医学を志しているアリシアに気遣いを見せた。
アリシアが、いわれた通りにすると、今度は、ケンナスは首を傾げた。そして、当人のアリシアと《治療の技》の弟子、特にセシーネ王女に聞かせるように「私の経験では、《見立て》でこうした症状になったものは、今までいなかった。だから、断定は出来ないが、《見立て》で、何かの病気の自覚症状を誘発したのかも、しれない。脈を取ってみれば、もっと詳しいことがわかると思うが、アリシア侯爵令嬢は、治療師の身体に持っている《力》に反応するのかもしれない。だから、身体に触れての診察はやめておいた方がいいだろう」と思わず、ケンナスは、ため息をついた。ここで、ケンナスの説明の言葉が、泣きじゃくっているカディアには、むずかしいと気がついたビランが補足説明をした。
「カディア、アリシアは、気がついていなかったが、何らかの病気になりかかっていたかもしれないそうだよ。それが、君の《見立て》で、身体が震えはじめたのかもしれないということだ」
そして、ビランはカディアが自分のせいでアリシアがこの発作のようなものを引き起こしたのだといいださないようにカディアの気をそらす作戦に出た。
「先生、その何らかの病気ていうのは、どんな病気ですか」
「そうだね、脳卒中も、考えられるね」とケンナスの言葉は、アリシアの気持ちを察しては、いなかった。しかし、カディアは、このビランの陽動作戦にまんまと乗った。無論、セシーネも興味津々である。しかし、相変らず、ビラン中尉殿は、気が利く「ビランお兄ちゃん」である。ここで、カディアは、質問こそしなかったが、医学への興味へきがそれたようである。泣きじゃくるのをカディアはやめた。
「他には」と多少の医学的好奇心は持っているビランは、畳み掛けるように質問をした。
「そうだな、多分、脳の病気が一番、疑わしいな。しかし、それほど、深刻なことでは、ないかもしれない。熱が上がる前触れかもしれないね。ほら、高熱になると身体が震えることもあるだろう。特に小さな子供は、高熱を出すと痙攣をおこすこともある」
このケンナスの最後の言葉に一同は、安堵の息をそっと吐いた。ケンナスも当然だが、特にセシーネは《見立て》が、人体に悪影響を及ぼすなんて考えたくもなかった。それは、《治療の技》は、魔法の一種であって、ならば、女の治療師は、魔女ということになる。福音教会が、断罪するように女の魔法は、この世から抹殺すべきものなのであろうか。それは、福音教会の「魔女狩り」のいい口実になることをセシーネは、知っていた。
メエーネからの賓客ランガルク公爵の訪問理由は、表面上は、王太子エドワーズとメエーネのイザベル王女との結婚の準備のためであったが、他にも重要な理由もあった。それは、近代化が進んだアンドーラの陸軍の情報を得ることであった。情報といっても、それは主に訓練方法だったり将官制度などのいかにアンドーラが陸軍の近代化を推し進めていったかが、主なものであった。
無論、それはアンドーラの国王ジュルジス二世も承知をしていた織り込み済みの事項であった。そこで、ジュルジス二世はその説明役に王太子のエドワーズを当てることにした。
当然ながら、その説明役には、ランガルク公爵の質問に答えるだけの陸軍の制度に対する知識や洞察力が必要となって来る。国王は、エドワーズにその資格があると判断したのである。無論一存ではない。ガナッシュ・ラシュール陸軍元帥の了承もあってのことである。国王は内心鼻が高かった。それは、あの切れ者の元帥が、エドワーズのある程度の軍政への理解度を認めたことになる。それは、将来の国王にとって必要な資質でもあった。
一方のランガルク公爵は、何だか落ち着かない気分だった。それは、普段メエーネにいる時と違って大勢の護衛に囲まれていたせいでもある。ただでさえ多い護衛の近衛兵に加え、王太子の護衛も加わったのである。しかも、それは威圧感のある重騎兵である。ランガルク公爵は、その圧迫感とおまけに説明役のエドワーズが必要もないのに重騎甲冑と呼ばれる鉄製の甲冑を着込んでいたのでその重圧感とで、息苦しささえ感じていた。
ランガルク公爵は、当初この彼から見れば、過剰な護衛に辟易し、護衛の近衛兵の数を減らすようにアンドーラの近衛師団の師団長サッカバン・バンデーグ准将に提案してみたが、規則だといってにべもなくその提案は却下されてしまった。ランガルク公爵は、内心この過剰な警備は、国家機密に近づくのをを未然に防ぐ手段なのではないかと推測していた。
だが、説明役のエドワーズには、満足していた。当初は、これも機密漏洩防止の方便と疑っていたが、ランガルク公爵の様々な質疑にエドワーズは、淀みなく的確な応答をしてランガルク公爵を感服させていた。
ランガルク公爵の興味は、大部分が陸軍の方に向けられていたので、王立施療院の計画の話を耳にしても、あまり気もに止めなかった。そこに《治療の技》という重大な国家機密が隠されているとは、公爵も気がつかなかったのである。
副女官長のミンブル夫人は、馬上試合に第一王女セシーネとその陪席の第一王女付の侍女のナーシャ・ブライトンが着用する衣装の製作で多忙を極めていた。ミンブル夫人が副女官長という王宮勤めの女性では、女官長を勤めるメレディス王女に次ぐ地位にあるミンブル夫人のことをたかがお針子頭ではないかと軽んじるものもいたが、わざわざ近衛兵の制服改訂を命じる国王の治世下である、服装も大事であると考えられており、政治に与える影響も馬鹿には出来なかった。
そのような訳で、馬上試合で、勝者を讃えるという大事な役目を担う第一王女の衣装とその陪席を務める第一王女付の侍女の衣装を誂えることは、ミンブル夫人にとって、重要な任務であった。第一王女の衣装は新しい絹地で仕立てるが、陪席の侍女の分は、海洋大会で第一王女が着用した衣装をほどいて、洗濯し、丁寧に火熨斗をかけた絹地から仕立てることに決まっていた。その当時は、特に絹地は貴重で、高価だった。
その貴重な絹地で仕立てた礼服を第四王女で女官長のメルディスに手直しを命じられたシルビナ・カウネルズ伯爵令嬢は、その手直しに不満だらけだった。シルビナは、手直しの理由を「下品」だとメレディスが指摘をしたが、シルビナは納得がいかなかった。その衣装はシルビナが、自分を最高に魅力的に見せる型に仕立てあるとシルビナは思っていた。同様な主旨で仕立ててある他の普段着も着用を禁じられ、その手直しも女官長から命じられていた。
手直しには自分で縫い直しをするように言い渡されていたシルビナには何もかも信じられない思いだった。無論、裁縫などの経験がないシルビナの作業は当然なかなか進まなかった。その作業速度を速めることをミンブル夫人は、やってのけたのである。それは、女官長も典礼長のオルガ・サングエム子爵夫人も出来なかったことである。副女官長の肩書きはダテではなかったのである。
それは、シルビナの衣装を見た時に、ミンブル夫人は、ピンと来たのである。そして、メレディス王女の「下品」という論評よりも、服装の手直しを渋るシルビナの気持ちを変えることを一言いっただけだった。
「シルビナ、この衣装は、古くさいわ。流行遅れよ」
「そんなはずは、ないわ」とシルビナは、否定をした。
「いえ、こういった形は、ヘンダース王の時代には、流行っていたけど、今じゃ誰も古くさくて着ないわよ」とミンブル夫人は、自信たっぷりだった。それもそうであろう、アンドーラの王家の女性の衣装を一手に引き受けているのだから。ミンブル夫人の自負は、流行を作るのは市井の仕立て屋ではなく、王宮で王家に仕えている自分たちだと思っていたところにある。
この「流行遅れ」というミンブル夫人の指摘は、シルビナの自信を打ち砕いた。この「流行遅れ」という言葉は服装にうるさい人物には、有効なことをミンブル夫人は知っていた。ミンブル夫人の部屋には、馬上試合で第一王女セシーネが着る衣装とその陪席の侍女のナーシャの衣装もほぼ出来上がりつつあった。シルビナの目にもその衣装は、自分の衣装よりも手が込んでいるように思えた。それを着たいとまでは思わなかったが、仕立て屋に頼めばかなりの金貨を払わなければならないだろうと思った。シルビナは、ミンブル夫人が、こういった衣装の専門家だということはわかった。その専門家の意見を無視はできなかった。シルビナの衣装の改造の速度が速まった。無論、裁縫の経験がないシルビナは、自分の手を使うのではなく金貨を使って衣装を最新流行に仕立てることに精を出したのである。それは、賄賂と呼ぶべき種類のものであった。そして、生憎なことにそれはシルビナに成功をもたらすのである。残念なことにアンドーラの宮廷も決して全てが清廉潔白ではなく多少の堕落は、あることには、あった。
しかし、この経験はシルビナに宮廷も金貨次第だと考えるようになるという拝金主義の結果をもたらすのである。確かに金貨は、人を説得する場合もあるが、人の尊敬は得られないことをシルビナは知るべきだった。しかし、シルビナはそれに気がつくことは生涯なかったのである。それは、生まれ育った環境に少なからずの影響を受けている。シルビナ・カウネルズ伯爵令嬢の父親ステファン・カウネルズ伯爵は、享楽的で、国王が求めるように爵位を授けられた領主としての義務を果たすよりも資産を殖やすことに熱心な貴族だった。そのためか、貴族社会では、当然、人々の尊敬を得られるような人物ではなかった。娘のシルビナも父親の姿を見て、金貨がすべてではないことに気がつくべきだった。だが、その機会はおとずれることは、なかった。いや、訪れていても気がつかず過ごしてしまったのだろう。それを幸福と呼ぶか不幸と呼ぶかは人それぞれであろう。
初めて受ける治療師の《見立て》に今までに経験のない反応をした第一王女付の侍女アリシア・ブライトン侯爵令嬢の容態は思わしくなかった。そこで、治療師ケンナスは、彼女を王宮に帰すことを《治療の技》の弟子でもある第一王女セシーネに提案をした。
「やはり、ベンダー博士に診察をお願いした方が良さそうだと思うがね。今日は救貧院にはお見えになっていないからね。王宮につれて帰った方がいい」
これには意外なことに門外漢の第一王女付の近衛隊長のビラン中尉が反対をした。
「動かさない方がいいのではないのですか」
「ここにいても、大したことは出来ないよ。王宮にはここには置いてない薬もあるしな」とケンナスは譲らなかった。そして診察台に横たわり、まだ身体を震わせているアリシアに「起き上がれるか」と尋ねた。
「ええ、何とかやってみます」とアリシアは健気にもそういった。そして、重々しい重騎甲冑を着込んでいるビランに手を借りてアリシアは何とか起き上がり診察台の上に腰掛けた。
「アリシア、どうだね、立てるか」
アリシアは、再び、ビランの手を借りて何とか立ち上がってみたが、その身体はフラフラとしながら立っているのがやっとだった。そこへまたビランがその身体を支えた。
「先生、歩くのは無理だと思いますよ」とビラン。
「何だか、それは、無理みたいです」とアリシアもまたそういって座り込んでしまった。
相変らず、ビラン中尉は、機動力があった。部下に馬車の用意を言いつけると今度は、別な部下にアリシアを運ぶ「担架」を見つけてくるように命じた。
そして、この騒ぎは、当然のことながら、「早耳」の救貧院の院長であるキルマ・パラボン伯爵夫人の知ることとなった。ただ、キルマは、病人が出たというだけでそれが、《見立て》によるものだとは気がついてなかった。
「病人が出たそうですが」といってキルマは、騒動の起きている部屋に入って来た。その時、キルマがわかったのは、病人がアリシア・ブライトン伯爵令嬢だということだけだった。
「キルマ夫人。ちょうどよかった。ちょうど、アリシアを王宮に連れて帰ろうとしたところです」とだけケンナスは、いった。
「アリシアは、どうしたのです」
「それが、よくわからないので、従医長に診ていただこうと」
「ケンナス、あなたでもわからないなら、ベンダーにもなおさらわかりませよ」とキルマはその時、治療師の《見立て》、特にケンナスのものは、その診断はかなり信用できるもの思っていた。そこで、セシーネ王女が「《見立て》が、出来ないのよ、アリシアには」と悔しそうにいった。
「どういうことです」とキルマは、説明を求めた。
「つまり、《見立て》をしたら、このような症状が出たので、多分《見立て》が、病状を誘発した可能性があります」
「まあ、ケンナス、そんなことがあるの」とキルマは、眉をひそめた。
「いえ、私の経験でも初めてですよ。まあ、やはり、ベンダー博士に診察をしてもらうのがいいのでしょう。とりあえず王宮に連れていきます」
「わかったわ、そういうことなら、私も同行します」とキルマは慌ただしく王宮に向かう用意をするために部屋を出て行った。
そこへちょうど担架が運ばれて来て、アリシアは重騎甲冑を着込んだセシーネ王女付の近衛兵たちによって、外の馬車まで運ばれていった。その後にセシーネを始め、王宮に向かうケンナスや事を引き起こしたカディアも続いた。アリシアを抱きかかえるようにして馬車に乗り込ませたビランが「まあ、ベンダー博士は、アンドーラで一番の名医だからな、心配はしないで、きっと治るさ」とカディアに声をかけた。
「本当ですか」
「もちろんだとも」とビランは請け負った。だが、内心では、ベンダー博士でも、治療は無理なのではないかと危惧していた。
一方、カディアの師匠であるケンナスは、馬車に乗り込む前にカディアに「ここは、もういいから、君はモリカさんの手伝いをしなさい。ただし、アリシアのことは、誰にも話すんじゃないよ」とだけ彼女に指示をした。カディアは頷いただけだった。
王宮に向かう準備をすませたキルマが玄関先で合流すると、ケンナスは馬車での作法を無視してアリシアの隣の席にキルマ・パラボン侯爵夫人が座るようにと指示を出し、自分はセシーネ王女の隣の席に座った。これは、馬車での身分による序列を無視した行為だった。
「作法はわかっていますがね、キルマ夫人、アリシアが治療師の身体の力に反応するかもしれませんからね」とケンナスは説明をした。キルマもそれは納得した。まあ、キルマは元来、身分による序列よりも能力で人を判断する傾向があったが、自分はケンナスより下だとは思ってはいなかった。だが、この時はケンナスの指示にしたがった。
馬車が走り出すと、揺れる馬車の中で、互いの身体が自然と触れ合うようになる。キルマに身体にアリシアの身体が、触れる。確かにアリシアの身体は震えというか、痙攣というか、何故だか経験のあるような振動をしていた。
馬車の中では、症状のあるアリシアは、当然のことながら、他の誰しもが無言だった。その事実が、事の重大性を物語っていた。無害だと思われた《見立て》が、このようなことを引き起こすとは誰も予想できなかった。そして、その解決策も当然ながら、誰も持っていなかったのである。
王宮に馬車が到着すると、護衛の第一王女付の近衛兵の小隊長のビランが、アリシアを従医長のベンダーの待つ医務室に連れて行くための担架を玄関先まで運んでくるのをセシーネとキルマは馬車の中で待ったが、ケンナスは馬車を降りて、ベンダーがいるはずの医務室に向かった。
担架を待つ間、キルマは、セシーネ王女の様子をそれとなく探った。セシーネは、儀式用の無表情を顔の上に作っていた。そのことが、セシーネの内心の動揺を表していた。一方のキルマ自身も、予定にないアリシアの症状にいらだちを覚えていた。キルマの予想では、ベンダーでも、この症状の治療法は見つかるまいと思っていた。これで、亡くなった国母エレーヌ王太后の遺言の「王立施療院」の計画も当然変更を余儀なくされることになるだろう。セシーネが願っていた、思う存分《治療の技》を振るう機会は、なくなるだろうとまで、キルマは予想していた。
アンドーラを訪問中のメエーネのランガルク公爵の表向きの理由は、自身の一人娘のイザベル王女とエドワーズ王太子の「結婚の準備」であったが、本当の目的は、アンドーラの軍制度のそれも、陸軍の各種の制度の調査であった。従って、エドワーズが、各駐屯地を視察していると聞いて、その同行をエドワーズに願い出た。
「どうでしょうか、公爵、陸軍元帥がなんというか。お約束は出来ませんよ」と未来の義理息子はいった。
「エドワーズ、君は、将来、国王になるのだぞ。一々、元帥の顔色をうかがってどうする」とランガルク公爵は、エドワーズにけしかけようとした。しかし、エドワーズが、ランガルク公爵の同行をしぶったのは、「軍事機密」という面から、元帥を口実にしたのである。友好国とはいえ、何もかも公で秘密がないことは、あり得なかった。そして、アンドーラのチェンバース王家の最大の秘密が明らかになろうとしていた。
エドワーズは、自身も《治療の技》の持ち主であったせいか、《治療の技》を危険視することはなかった。「魔法」に関する福音教会や隣国サエグリアの考え方は、馬鹿らしいと思っていた。男の「魔法」は善で、女の「魔法」は悪だなんて、どんな根拠で主張するのか,エドワーズには、単なる男女差別だと思っていた。要するに「魔法」は技術である。それは、その技術の持ち主次第であると思っていた。
王室付の魔術師のガンダスは、気まぐれではあったが、人を害するような人物ではなかったし、治療師のケンナスも誠実な人柄だった。この二人に共通しているのは、二人とも物欲がないということであった。そして、出世欲にも無縁だった。不思議な力がそうさせるのであろうかとエドワーズは、推測してみたが、自分も幾ばくか不思議な力を授かっていることを思い出し、それは、ガンダスとケンナスの二人が、独身で家族を持っていないためなのかとも考え、自分が結婚を控えて、どう変わっていくのだろうかと想像をしてみた。エドワーズの結婚のお手本は、再婚した父の国王ではなく、叔父のヘンダース王子だった。ヘンダースは、アンジェリカ妃との間に一男一女を設け、夫婦仲も悪くない。
世襲制である限り、子孫を増やすのは、当然の義務である。自分は、イザベル王女との間に何人の王子や王女が生まれるのだろうかと想像してみて、何か面映い思いもしている。だが、一方で、《治療の技》で、この結婚が破談になってもかまわないと思っている。
サエグリアの王家が、魔術師たちを滅ぼしたチェングエンの信奉者たちが担ぎ出した王家であるのに比べ、アンドーラの王家チェンバース家もメエーネの王家パルッツエ家も、かつて大勢の魔術師が闊歩していたカメルニア帝国を支配していた皇帝の血を受け継いでいる。当然、パルッツエ家も魔法に対して寛容な見方をするだろうとエドワーズは思っていた。従ってそれほど《治療の技》に関してパルッツエ家の反応は、問題はないと思っていた。
第一王女付の侍女で、「馬上試合」で、第一王女の陪席を命じられているナーシャ・ルンバートン嬢は、女官長のメレディス王女に呼び出されていた。ナーシャは「馬上試合」の衣装のことだろうと予想をしていたが、その予想は覆された。それは、最近になって始めた「馬術」の事だった。
「ナーシャ、馬術の稽古にはどんな鞍を使っているの」とメレディス王女は、意外な質問をした。
「馬丁頭の用意した普通の鞍ですが、それが何か」とナーシャは、いささかメレディス王女の質問の意図が分からなかった。
「では、服装はどんな服装で、馬に跨がっているの」とここでやっと質問の意図が見えて来た。
「あの、ズボンをはいています」とナーシャは、これが問題なのだろうと思った。
「そう、やっぱりね」とメレディス王女は、訳知り顔だった。
「ねえ、ナーシャ、やはりズボンは、淑女にふさわしい服装とはいえないと思うわ。私も若い頃、ズボン姿で過ごした時期があって、よく母に叱られたものだったわ。男に生まれなかったのが悔しかったのね。でも、今は女性は女性らしく振る舞うべきだと思うの」
「あの、馬術はいけなかったでしょうか」
「いえ、馬術は大いに結構よ。だけど問題は服装よ」
「ええ、でもスカートだと馬に跨がった時にめくれてしまって脚が出てしまうんです」
「ええ、わかっているわ、だから、ミンブル夫人と乗馬用のスカートを作ってみたの」とメレディス王女は、おもむろにそのスカートを取り出した。
「ナーシャ、ちょっとはいてみて」とメレディス王女は、半ば命令をした。
以前、海洋大会で着る衣装の手直しを言い渡された時、メレディス王女が、それは熱心に衣装だけでなく髪型や化粧法まで細かく指示をしたをナーシャは思い出していた。あの時も、王宮勤めの侍女がどのような服装で過ごすべきかメレディス王女とミンブル夫人は、細かいことまでこんこんといって聞かされていた。つまりは、問題は馬術ではなく、その時の服装なのだとナーシャは合点がいった。
多分、ミンブル夫人の手になるものであろうそのスカートは、見た目はスカートだが、ズボンのように二つ分かれていて、これなら、鞍に跨がっても、脚があらわになることはないだろうとナーシャは思った。
その乗馬用スカートを試着をしたナーシャに女官長は王女らしからぬ言葉を口にした。
「ねえ、ナーシャ、この乗馬用スカートを買わない」
てっきり、ただでもらえるものだと思っていたナーシャは内心驚きながら「あのお幾らですの」と尋ねた。その金額は侍女とはいえ「行儀見習い」というただ働き同然のナーシャの財布からは、払えそうもない金額だった。
「とっても、私には払えそうもありません」と正直に白状した。
「多分、そんなことだと思ったわ。セシーネは、お金に関してはケチくさいところがありますものね」と姪の性分を知り尽くしている女官長は、ナーシャに断られても気を悪くすることはなかった。そこで、ナーシャはおずおずとある提案をした。
「あの、このスカートの縫い方を教えていただく訳にはいきませんか」ナーシャは、いくら,乗馬のためとは、やはり、ズボンは抵抗があったが、この乗馬用スカートは、品があっていいと思った。正直にいえば,これこそ,貴族の娘の乗馬のための服装だと思った。
「もちろん、ミンブル夫人が教えてくれるわよ。教えるのはただよ」と鷹揚なところを見せたメレディス女官長である。
「ありがとうございます。いつから、始めた方がよろしいでしょうか」とナーシャはホッと胸を撫で下ろした。
「まあ、馬上試合の衣装は、もうほとんど出来上がっているからし、ミンブル夫人も手があくと思うから、いつでも、いいわよ。これは、もう一人の、乗馬を習っている侍女に売りつけることにするわ」と女官長は、なかなかの商売人である。
だが、その女官長も、同僚であるナーシャも肝心のアリシア・ブライトン侯爵令嬢が、《見立て》で大変な目にあっていることを想像すら出来なかったのである。
王宮の医務室に第一王女付の近衛兵たちの手で担架で運ばれたアリシア・ブライトン侯爵令嬢は、重騎甲冑のビラン中尉に抱きかかえられるように診察台の上に横たわった。アリシアの身体の震えはまだ、収まっていなかった。
ケンナスから、事情を聞いた従医長のベンダーも深刻な表情を浮かべていた。その場には、従医次長のチャイス・メリエール博士も同席をしていた。
治療師を中心とした王立施療院の設立が決まっている以上《見立て》を含む《治療の技》は、国家事業である。王立施療院の設立への協力は、アンドーラの医学界の最高位である王家に従医長にとって、直接《治療の技》の《才》を持たなくても重要な任務であった。
「つまり、その《見立て》の時にセシーネは、同席していたんだね」と医学的な話になると王女と従医長という身分は,師弟関係に変わる。
「何で,アリシアに《見立て》をしようと思っただね」とベンダーは当然といってもいい質問をした。ベンダーは、アリシアが,何らかの病状を訴えて《見立て》をしたのではないかと幾分期待をしていた。ベンダーも《見立て》が,人体に悪影響を与えるとは考えたくはなかった。
「アリシアが治療師とは、何かってたずねたから、口で説明するよりも、《見立て》をすれば,わかると思ったのよ」
「まあ、《治療の技》を見せるよりは,賢明な判断だな」とケンナスがセシーネに許可なく《治療の技》を振る舞うことを禁じていたのを知っていたベンダーは、その判断が,このような事態を招いたのは皮肉だと思った。
一方、アリシアの恐怖は最高潮にさしかかっていた。今まで、大きな病気をした経験もなく,この発作のような症状にあうのは初めてことだった。そして,その症状が、医学の心得があるはずの治療師ケンナスや第一王女のセシーネにも原因の検討がつかないことがなおさら,アリシアを不安を通り越した恐怖に陥らせていた。
アンドーラで一番の名医といってもいい、王家の従医長のベンダー博士は、診察台に横たわり震えて怯えているアリシアにいくつかの質問をしたが,返事は首を横に振るか頷くだけでいいといった。ベンダーの質問は家族構成から、始まりその持病や死因までに渡り、アリシア自身の病歴も当然のことだったし、それらを明らかにすることが、この今までない《見立て》への反応の原因究明をする意味で,重要だと誰しも思っていた。そして,ベンダーはようやく今日のアリシアの体調を尋ねた。アリシアの返答は特に体調に変わったところはなかったというものであった。そして,ようやくベンダーの診察は問診から直接身体に触れる触診には移ろうとしてた。ここで,ベンダーはケンナスに確認をした。
「ケンナス、脈はとってないのだな」
「ええ、何だか治療師の《力》に反応をするようですか、直接の触診はやめておいた方がいいと思ったものですから」
「そうか」といってベンダーは診察台のアリシアの手首をおもむろに脈をとるように右手で触れたとたんにベンダーは「うん、これは」と固唾をのんで、見守っている周囲を驚かすような声を出して、アリシアからその右手を離した。周囲の人々は,何があったか知りたがっていたが,その質問をするものはいなかった。そして,ベンダーの次の言葉は人々を驚かすには十分だった。
「アリシア、私の手を握ってごらん、そうだな、脈をとるように私の手首を軽く握るんだ、握ったらすぐに離す、いいね、やってごらん」
その場に立ち会った人々はベンダーが何をしようとしているか,さっぱり検討がつかなかった。
アリシアももちろんベンダーが自分に何をやらせようとしているのか、また、それがこの訳のわからない症状を解明するのにどんな力になるのかさっぱりわからなかった。
「さあ、怖がらずにやってごらん」
アリシアは、おずおずといわれた通りにベンダーの手首を軽く握って離した。その行為が《見立て》に似ていると気がついたのは、その場に立ち会った第一王女付の近衛兵の小隊長ビラン中尉だけだった。これは、後の神秘医学術の研究で知られるベッケルスの「神秘医学術の歴史」に記されている。公式に認定された治療師の一号であるケンナスが、そのことに気がつかなかったのは、うかつだったといわざる得ない。彼は、動揺というよりも動転していた。いや,むしろこれまでの治療経験から、アリシアの症状から、病因を探ろうとして既成概念に捕われていたといってよいだろう。
肝心の診察をしているのか、実験をしているのかよくわからないベンダーは、頷きながら破顔していた。そして、こう告げた。それは、画期的なことだった。
「この娘は、《見立て》をしているのだよ。それで,この《見立て》の力を止められないでいるんだ。そうだよ、ケンナス、触診をすれば,すぐわかったものを」
その言葉は、周囲を驚かすのに十分だった。それぞれ脅威の目でアリシアを見つめた。周囲の目を集めていたアリシアはベンダー博士が,何を言っているのか訳がわからなかった。
「そんはずは」といって驚きの表情を浮かべて、キルマ・パラボン侯爵夫人は、意義を唱えた。
「ベンダー、《見立て》をしても、こんな症状になりませんよ」
「キルマ夫人、不審なら、今度はあなたにやってもらいましょうか」
そういわれて,キルマは引っ込みがつかなくなった。
「わかりましたよ、ベンダー。アリシア、私にも同じようにやってごらんなさい」とキルマは手をアリシアに差し出した。アリシアが,ベンダーの時と同じようにキルマの手を軽く握って離すと、キルマにはなじみになっているあの感覚が、身体に伝わった。
「そんな馬鹿な」とキルマは、普段の彼女には似つかわしくなく呆然として表情を浮かべていた。
そこに元来護衛役で,口出しは出来ないビランが「しかし,自分もアリシアの身体に触れましたが、そんな感じはしなかったですよ」
「ビラン,君は重騎甲冑を身に着けているからね。鉄を通しては,《見立て》は出来ないんだよ」とケンナスが《見立て》の特長を教えた。
「へえ,そんなのですか」とビランはやや,不満だった。
セシーネは驚きから、安堵というよりも歓喜の感情に変わっていった。これで、《見立て》が,人体に悪影響を与えるということはないことが判明した。治療師は悪の存在ではない。福音教会なぞ、くそくらえだと内心叫んでいた。
無論,名医のベンダー博士である、治療も施そうとケンナスにこう尋ねた「ケンナス、この《見立て》を止めるにはどうすればいい」
「さあ、こんなこと初めてですからね」とケンナスは、戸惑っていた。
「ケンナス、《見立て》のやり方を教えるのは,どうやってやるのかな」
「それは、《後押し》で教えます」とケンナスはいったが,その時、この《後押し》の意味がわからないのは、肝心のアリシアとつい最近になって《治療の技》について興味を持ち始めた従医次長のチャイス・メリエール博士だけだった。他のケンナス、ベンダーはもちろんのこと、セシーネもキルマもそして幼い時から,セシーネ王女を見守って来たビランもそれがわかっていた。
それまで、じっと興味深げに見守っていたメリエールが、やっと,口を挟んだ。
「《後押し》って何ですか、わかるように説明してくれないと、肝心のアリシアには,さっぱりわからないですよ」
メリエールは,後に《治療の技》を神秘医学術と名付け、神秘医学の研究に関する著作を何冊も書き表す、治療師以外の研究者として後世に名を残すことになるが、その時のメリエールは、《治療の技》に関する知識は,まだ,上司のベンダーに遠く及ばない。そして、その当時の《治療の技》の用語は、ケンナスの性分からであろう、学問的というよりも庶民的であった。
「さあ,口で説明するのは,むずかしいですよ」とケンナスは、肩をすくめた。彼は、最近になって増えた弟子たちの指導は、口頭で説明するよりも,実際に身体を使って教えていた。それは、《後押し》と名付けた,独特の教育方法である。
「じゃあ、まず、私を使ってやってみて下さい。」と従医長同様、研究熱心な従医次長である。自らの身体で実験を試みるとは、研究者の姿勢として異論もあろうが、そこが,医学のむずかしいところである。これまで、《見立て》の経験のないメリエールとしては,見逃せない機会が訪れたと思っていた。
その《後押し》をメリエールは後に同調と名付けるのであるが,そのやり方は、まず、患者の身体に生徒役が身体を接触させる。大概が,普通の医師が脈をとるように手首を軽く握る。そして、教師役がその生徒役の残った方の手首を握って《力》を掛ける。教師役の《力》が、生徒役の身体を通して患者の身体に伝わるのである。無論,生徒役の《力》も多少加わる時もある。
「そうですね、メリエールが異存がなければ,やってみましょう」とケンナスは同意し、診察台から、アリシアの身体を起こし、腰掛けさせた。
「アリシア、いいかい,気を楽にして」といいながらまだ,震えているその手を握った。
「さあ,今度は、メリエール先生の手首を軽く握って」と指示をした。アリシアは、一体何が自分の身の上に起きたかまだ,よくわかっていなかった。それでも,ケンナスの指示に従ってメリエールの手首を握った。その途端、メリエールが「おお」と声を出した。
「これが,《見立て》なんですね。これは,アリシアの《力》ですか」
「ええ,私は何もしていませんよ」とメリエールの反応にぶっきらぼうにケンナスは答えた。
「さあ、アリシア、今度は私が《力》を加えるから、君はその《力》をメリエールに伝えようてして、そう、思うだけでいいんだ」とケンナスがいうとアリシアは、眉を寄せながら,懸命にいわれた通りにやっている。
「じゃ,今度は逆にメリエールの手のぬくもりを感じるようにして」
「アッ、何だか,身体の中がスキッリした感じです」とアリシアがいうと、ケンナスは「さあ,手を両方とも離して」といって自分もアリシアの手を離した。
「どう」とケンナスが尋ねると、アリシアは「あっ、身体の震えが止まりました」
「そうだろう」と満足げなベンダーにキルマは,何か一言いってやりたかったが、その言葉が見つからない。そして,メリエールは、はしゃいでいるといってよかった。
「アリシア、今ので,わかったかい、君は治療師なんだよ」
しかし、その当事者であるアリシアは事の次第を飲み込めていなかった。だが、アリシアは、自分の身の上に何だか重要なことが起こっているのは,検討がついたが、感情的にことの説明を周囲に求める事もなく、じっと忍耐強く、説明を待った精神力は、アリシアの今後の様々にセシーネ王女を手助けするのに大いに役に立つのである。
メリエールは,今度は,アリシアに単独での《見立て》を所望した。
「さあ、アリシア、さっきみたいに《見立て》を私にやってみて」
そういわれても肝心のアリシアにはその意味を理解してはいなかった。
「さあ、私の手首を握って」とメリエールは、催促した。相変らず,自分が何をやらされているのか訳がわからなかったが、アリシアはメリエールの手首を握った。しかし,今度は,メリエールは《見立て》の《力》を感じとることはなかった。
「あれ,さっき,みたいに感じない」
「そうですよ。そうすぐに出来るという訳ではないですよ」とケンナスは、この好奇心丸出しの従医次長にいささか辟易していた。しかし、メリエールはめげていなかった。
今度はケンンスの《後押し》での《見立て》を要求した。いささか、この場を主導し始めたメリエールにいらだったキルマが「何ですか。メリエール、一体何をしようとしているの」
「ちょっとした、実験ですよ。これで、いろいろ確かめられる」
実験という言葉にベンダーが反応した。
「ケンナス、ちょっとやってみたらどうだ」
「わりました。いいでしょう」とケンナスも「実験」という言葉に心を動かされた。アリシアを促して,メリエールの手首を握らせ、自分はそのアリシアのもう片方の手首を握った。ケンナスは遠い目をして《見立て》の《後押し》をした。
「やっぱり、今度は感じますね」とメリエールは満足げだった。
「一体,君は何をしようとしているのだ」とベンダーは、部下に主導権を握られて多少の不感感を露にした。
しかし、メリエールは、ベンダーを始め、他のものが,気がつかなかったある利点を指摘した。
「さっきのアリシアの症状の意味がわかりますか。これで、ガンダスに頼らなくても,《治療の才》のある人間を見つけることが出来るじゃないですか」
「あっ」とベンダーは声をあげた「そうか、そういうことか」と合点がいった。キルマもセシーネも意外な盲点に気がつき、ケンナスも、「ガンダスはそうやってみつけていたんですかね」
そこへ,また、発言権のないはずのビランが口を挟んだ。
「先生方、肝心のアリシアに事情を説明いた方がいいのでは,ないのですか」とビランに注意されて
「ああ、そうだったな」とベンダーが,ようやくアリシアの怪訝そうな表情に気がついた。
「アリシア、君には《治療の才》という,不思議な《力》が、あるのがわかった。これからは、治療師の見習いとしてケンナスの指導を受けることになった」
ここで,ようやく,アリシアは疑問の一部を口にした。
「あの、その治療師というのは,どんなことをするのですか」
「そうだな、治療師とは、従来とは、違った方法で治療をするものことだ」とベンダーは,少しはぐらかした。そこにメリエールも口を添えた。
「ケンナスの指導で修業をしているうちにわかるさ」とあまり慰めにならない言葉をかけた。
アリシアがその時わかったのは、自分があの救貧院にいるカディアを始めとする「見習い」たちと同様にケンナスの指導を受けることになったということがだけだった。
意外なアリシアの症状からわかった《治療の才》の持ち主の見分け方にセシーネは、もっと多くの《治療の才》の持ち主を見つけるためにある手を思いつく。
「癒しの手」の外伝「アンドーラ王国史」も併せてお読み下さい。