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癒しの手  作者: 双葉 司
それぞれの道
13/18

医学への道

「医学」を学びたいという願いを胸に秘めたまま「初謁見」のためという名目で王都にやってきたアリシア・ブライトン侯爵令嬢は、初謁見の”予行演習”のために初めて宮殿の中に入るが、そこは、チェンバース王家の威光をひけらかすように壮大で華麗な建物であった。

 アンドーラの国王ジュルジス三世の治世になってジュルジス三世は、爵位を持つ貴族たちに年一度以上の謁見の義務を課した。それだけでなく、国王の謁見を果たしていないものには、爵位を継がせないという爵位継続法を制定し、貴族たちの謁見を奨励した。この謁見は、国王の威光を示すことよりも、ジュルジス三世の考えは、別な所にあった。

 爵位があるということは、”領主”ということである。当然、”領地と”領民”を治める義務(・・)がある。”領主”にふさわしいか、見極めたいという意向があった。そして、爵位を継いだものには、「認証式」という国王に忠誠を誓う儀式を復活させ、国王と貴族の主従関係をはっきりさせる風習を義務化した。

 そして、思いもかけずにその認証式を控えた侯爵家がいた。ブライトン侯爵家である。ブライトン侯爵家の不幸は、その当主ジークフリードの若すぎる死と、ジークフリードに息子がいないことにあった。候爵位はジークフリードの弟のライネルが継ぐことになった。ライネルは武官の道を選び、陸軍で少佐の地位についていたが、兄の死で、周囲の助言もあって軍服を脱ぐ決意をした。そして、伯父ジークフリードの死で侯爵家の世子となったライネルの息子アーノルドはわずか7歳で、まだ国王の謁見を果たしていなかった。ブライトン侯爵家は、ライネルの認証式とアーノルドの謁見の準備を慌ただしく進めていた。

 そんなさなかに、先代侯爵の一人娘アリシアが自分も謁見をしたいと言い出した。年齢的にその時期には、来ていたが、夫ジークフリードの死で、延期を考えていた母親のアマンダは反対するが、アリシアは叔父のライネルを説得して「初謁見」を強行することになった。

 アリシアの目的は、謁見だけではなかった。アリシアはいつの間にか「医学」を学びたいという願いを胸に抱いていた。そのためには、謁見を執り行う宮殿のある王都チェンバーへ行く必要があった。自分の願いを胸に秘めたまま、アリシアは母アマンダとともに王都へ出発する。


 国王の謁見の奨励は、貴族たちに新しい風習をもたらしていた。初めて宮殿で謁見を拝することを「初謁見」と呼び、祝い事の一つとして数えるようになっていた。そして、国の方も謁見を始めとする式典を司る式部省が、初謁見を控えた貴族の令息や令嬢の行儀作法の指導を行っていた。月例の式典とはいえ、粗相がないように勤めるのが式部省の長、式部大臣ハルビッキ・サングエム子爵の役目であった。

 なお、アンドーラでは、各省の長を大臣とは呼ばずに「卿」というのが習わしになっていた。これは、前王朝ペレクルス王家の時代からの風習で、その頃は、大臣に任命されると同時に侯爵位を授けることになっていた。たとえ、先祖からの爵位がなくても「閣下」と呼ばれ、貴族の称号を持つこととなる。そのような訳で、式部大臣と呼ばずに「式部卿」である。

 現在では、大臣の任命だけで、爵位は授からない。そのかわり役目に見合う役料がでることになっていた。ペレクルス王朝時代の候爵位は、役料代わりでもあった。

 その式部卿のハルビッキ・サングエム子爵は、国王の許可を得て「初謁見組」に国家行事に際し、粗相がないようにするために本番のように宮殿の謁見の間での”予行演習”ができるように気配りをみせていた。

 男子の初謁見組の”予行演習”の最終的な指導は式部省の次官が行い、女子の場合は式部卿夫人のオルガが指導に当たっていた。特に女子の謁見にでる許可の最終判断は、女官長の国王の妹のメレディス王女が下していた。


 初謁見に備えて、行儀作法をアマンダから、仕込まれていたアリシアは、連絡を受けて宿泊先のチェンバース公爵の邸宅にやってきたオルガ・サングエム子爵夫人にその行儀作法を”点検”された。だが、アリシアの行儀作法に問題点がないと判断したオルガは、アリシアに宮殿での”予行演習”に来るように告げると慌ただしく帰っていった。”予行演習”は、母のアマンダの時代にはなかった風習であった。

 そして、オルガから、新侯爵となったライネルの妻ベネットの実家のカウネルズ伯爵家のシルビナも初謁見を控えていることを聞かされていた。ベネットはカウネルズ伯爵家の現当主の叔父にあたるアーノルド・カウネルズ少将の娘であった。しかし、ライネルとベネットの結婚は、先代カウネルズ伯爵の望まぬ結婚であったという経緯でブライトン侯爵家とカウネルズ伯爵家とは、疎遠になっていた。しかし、ブライトン侯爵家では、カウネルズ伯爵家とそろそろお互い親戚付き合いをすべきなのでは、ないかと考え始めていた。特にアマンダは、領地育ちで同じような身分の友人がいない娘のアリシアにシルビナはいい友達になってくれればと思っていた。

 そして、アリシアの初謁見の”予行演習”の日がやってきた。その日は、当日と同じ衣装で宮殿に来るように式部卿夫人のオルガ・サングエム子爵夫人から、申し渡されていた。もちろん、アリシアの衣装は喪服である。それでも一応、絹で仕立てた礼服である。アマンダとともに馬車を降りたアリシアは、色とりどりの衣装に身を包んだ初謁見を控えた貴族の令嬢たちに姿に、自分の黒い喪服は人目を引くなと思った。

 その日の朝、式部卿夫人のオルガの服装は礼装ではなかった。それでも、趣味のいいドレスを着こなしていた。序列が重要視される貴族社会では、挨拶を交わすのも、順序というものがある。アンドーラの作法では、まず、身分の高いものから、低いものへと順繰りに挨拶を交わしていく。最初の侯爵家の一行を引き連れて、二番目に、オルガがやってきたのは、アマンダとアリシアの元であった。ますます、人々の目が、集まった。それにかまわず、オルガは、他の人たちを紹介し始めた。

 シルビナ・カウネルズ伯爵令嬢は、アリシアの予想と違っていた。叔母のベネットは、どちらかというと武官の妻らしく服装は地味好みであったが、シルビナの礼装は、なんだか派手で、シルビナの体型を、特にその豊かな胸を強調した仕立てになっていた。髪型も高々と結い上げていて、何よりも化粧が濃かった。この時点で、アマンダは、シルビナにアリシアとの友達付き合いを頼むのをあきらめた。シルビナは鼻にかかった甘ったるい声でお悔やみの言葉を述べた。それは、表面上は礼儀にかなっていたが、アリシアは、何だか馬鹿にされたように感じた。そして、初謁見を控えた娘たちは、それぞれ母親や当主夫人が付き添っていたが、何故だかシルビナに母親のカウネルズ伯爵夫人は、その場にいなかった。

 オルガに先導されて、宮殿の正面玄関でなく脇にある通行口から、宮殿に足を踏む入れると、アリシアは、その壮麗さに目を奪われた。初謁見そのものは主目的ではなかったが、その儀式に臨む重圧感にからだが震えてくるのを押さえることができなかった。

 しかし、オルガは、事務的にことを進めた。玄関ホールで待ち受けていた式部省の式部官に一人一人名前を告げると、式部官たちは、それぞれの爵位に合わせた控えの間に案内を始めた。玄関ホールに近い方から、子爵家、伯爵家そして侯爵家という順番になる。「赤の間」と呼ばれる侯爵家の控えの間には、ブライトン侯爵家のアマンダとアリシアともう一つ”新貴族”のターレル侯爵家の当主夫人とその一族の娘とその母親が、入室した。”新貴族”とはいえ、度々の謁見で顔なじみになっていたターレル侯爵夫人は、アマンダとアリシアに改めて弔意の言葉を述べた。

「大変でしたでしょう」と代替わりに伴う困難さを体験していた、ターレル侯爵夫人の言葉には、実感がこもっていた。アマンダとターレル侯爵夫人とその一族らしい娘の母親も加わり、当たり障りのない気候の話を始めた。アリシアは、やはり、宮殿に中に初めて入って緊張している初謁見の娘に「何だか、緊張しますわね」と話しかけた。その娘の礼装は、シルビナの高価そうな衣装に比べ、いささか簡素であったが、それを指摘するような無作法なことはしなかった。その娘もアリシアの喪服を咎めるようなことはなかった。


 一方、高価そうな衣装を身に着けたシルビナは、同じ控えの間にいる伯爵家の女性たちに聞こえがしに「ブライトン侯爵家も、大変ですわね。お父さまに聞いたんですけど、先代が莫大な借金を残してなくなったとか。まあ、ひょっとして、初謁見の衣装も用意できないから、喪服ですませるのではないかしら」と言った。

「そのような話をここでするのは、礼儀作法にかなっていないと思いますけどね」とたしなめる声がした。”新貴族”とはいえ、名門の扱いを受けているカルチェラ伯爵夫人だった。

「それより、あなたのお母様はどうしたの」

「お母さまは、今朝は頭痛がすると言って起きれませんでしたの。こんなに早起きしなきゃいけないなんて、信じられないわ」

「王家の方々は勤勉でいらっしゃるのよ。それほど、早起きではありませんよ。領地では領民がみな早く起きて働いているのです。領主の一族が朝寝坊では、示しがつきませんよ」

「まあ、私に平民のまねをしろとおっしゃるの」

「陛下は早起きだと伺っていますよ」とだけ言うとカルチェラ伯爵夫人は口をつぐんだ。ちょうど、式部卿夫人のオルガが入ってきたからもあるが、失言癖のあるステファン・カウネルズ伯爵の娘だと気がついたせいもある。

 オルガは、伯爵家の控えの間である「青の間」にいる一同を見回した後、シルビナの衣装を批判的な目つきで見た。

「シルビナ、その衣装はどこで誂えたの」と尋ねることによって、オルガは、シルビナの衣装が、謁見にふさわしくないことを暗にほのめかした。しかし、シルビナは、「王都で一番の仕立て職人に仕立ててもらいましたの。よろしかったらご紹介するわ」と相変らずの勘違いぶりである。オルガはため息をつきそうになった。この衣装では、女官長のメレディス王女は、シルビナの謁見を許可しないだろうと予想できた。オルガは、シルビナのことはメレディス王女に任せることにした。どのみち、現在は、式部卿の妻というだけでオルガには何の権限もなかった。謁見の当日は、ここで順番を待つのだということを説明すると、勘違いのシルビナを置いて、オルガは、侯爵家の控えの間「赤の間」に移った。

「赤の間」の初謁見の二組は、何の問題点もなかった。ただ、ブライトン侯爵家の母娘の喪服にメレディス王女がどう反応するかだけだった。喪服での初謁見は異例なことではあった。

 オルガは「ここで、女官長のメレディス王女さまをお待ちします」というと、最近この初謁見の娘たちの礼儀作法の指導をするようになってから、身につけ始めた”懐中時計”で時間を確かめた。約束の時間まで、数分時間があった。メレディス王女は、時間に正確だった。

「オルガ、最近は、メレディス王女さまが、初謁見のご指導をして下さいますの」とアマンダは、尋ねた。自身の初謁見の時は、王宮での行儀見習いを経てエレーヌ王太后と当時の女官長のキルマ・パラボン侯爵夫人に、厳しく指導された記憶があった。

「ええ、そうですの。それより、アマンダ、アリシアを王宮の行儀見習いにだす気はないかしら」

「行儀見習いですか。さあ、娘には、王宮勤めなんか無理ですわ」とアマンダは、やんわりと”行儀見習い”の話を断ろうとしていた。アリシアも”行儀見習い”する気はなかった。アリシアの願いは「医学」である。

 その願いを叶える手としてアリシアは、救貧院の院長キルマ・パラボン侯爵夫人宛に母に隠れてこっそりと手紙を書き、その手紙は、領地から身辺護衛についてきた顔なじみの第十三師団の騎兵の一人が救貧院に届けてくれることになった。


 重騎兵の近衛兵に先導され「赤の間」に現れたメレディス王女は、礼装こそしていなかったが、背が高く気品がある美しい容貌をしていた。アリシアは、初めて会う王家の王女に緊張しながらも、王位継承権第七位の王女に作法通りに高位のものに対する礼をした。メレディス王女は軽くうなずくと、”新貴族”のターレル侯爵家の方に歩み寄った。その一行をオルガ式部卿夫人が、メレディス王女に引き合わした。これは、ブライトン侯爵家よりもそちらの方が、階級が上だということをアマンダに知らしめていた。夫のジークフリードが、生前中は、ブライトン侯爵家の方が上位に立っていた。

 当時の身分制度の考え方にジュルジス三世は、揉めがちな身分の格付けに合理的な手段で、解決方法を見いだしてていた。まず、王太子を先頭とした王家が一番。その中には、チェンバース公爵家も含まれていた。次に各閣僚、そして陸・海両軍の将官そして侯爵、伯爵、子爵と続く。そして、画期的だったのは、同じ爵位でも家系の古さや王朝に対する貢献度などで言い争う順位を各爵位を継いだ順番、同じ日だったら年齢の高い方が上ということに序列を決めたのである。いろいろ不満も出たが、結局、どの家も一度は最下位になるということで、決着がついた。それに上位に連ねたければ、長生きをすればいいのだと気がついたからでもある。

 メレディス王女は、初謁見のアリシアともう一人の衣装や化粧・髪型を点検しはじめた。ターレル侯爵家の娘には「まあいいでしょう」とうなずいた。ただ、アリシアには「お化粧はしないの」と尋ねた。緊張しているアリシアに代ってアマンダが「この娘はお化粧とか、着飾るということにあまり興味を示さないのですの」と釈明した。

「そう。色が白いのね。でも、口紅ぐらいはしてちょうだい。喪中とはいえ、正装なんですからね。そうだわ、うっかりしていた。ご主人のこと残念でしたわね。お悔やみを申し上げますわ」と注意と弔意の言葉を述べた。うっかりしていたのは、この日のメレディス王女がシルビナのことに気を取られていたからである。しかし、メレディスとオルガは、伯爵家や子爵家を待たせたまま、侯爵家たちの一行を控えの間から謁見の間の扉の前まで案内し始めた。

「他の方々はよろしいのですの」とアマンダが尋ねると、メレディス王女は「待つのも謁見のうちよ」と肩をすくめた。

 謁見の扉の前には歩哨として、近衛兵が立っていた。扉の前に到着するとメレディス王女は「ここからが、大事なところよ」といい、護衛の近衛兵ではなくに歩哨の近衛兵に「扉を開けてちょうだい」と命じた。重厚で大きな扉を近衛兵が開けると「まず、この扉の廊下側の式部官に自分の名前をいうのよ。式部官が名簿で確認したら、それぞれの家ごとに当主を先頭に順番にならんで、儀仗兵に名前を呼ばれるのを待つのよ。名前を呼ばれたら、謁見の間に入るのだけど。ただ、ブライトン侯爵家の方は、今回は認証式があるから、ちょっと違うわね。継いだ方はなんておっしゃるの」

「ライネルです」とアマンダが答えた。

「そう、ライネルね。彼は一番最後に入室することになるわ。ブライトン侯爵家も侯爵家での順番で入室するけどは、侯爵家の中では一番最後ということになるわ。ここまでは、いいかしら」とメレディス王女は確認した。ここで、オルガが、さえぎった。

「段取りは、もう説明してありますわ。後は、謁見の間でどこまで歩いていって立ち止まって陛下にご挨拶をするかを確認すればよろしいだけですわ」

「まあ、相変らず、手際のいいこと」とメレディス王女は、感心してみせた。

 謁見の間は、王家の威光を誇らしげに体現していた。ここに来るまでの廊下も、領主館とは、桁違いの壮麗さである。メレディス女王の時代に建てられた宮殿は、壮大で華麗な建物であった。幾分、質実剛健であった前王朝ペレクルス王家に比べ、チェンバース王家は派手好みと言われている。各部屋も華麗な装飾を施されていた。アリシアは緊張で気がつかなかったが、玄関ホールから、謁見の間までの廊下には、ヘンダース王以降の彫像が飾ってある。

 メレディス王女の護衛を先頭に謁見の間に入室した一行の中で、初めて入室した二人の初謁見組は、きょろきょろしないようにするのが、精一杯だった。

「いいわよ、二人ともよく、謁見の間を見なさいな」と二人の気持ちを察したメレディス王女がいった。その言葉に二人だけでなく他の面々もきょろきょろと謁見の間を見回した。宮殿の中でも、当然と言えば当然であるがその壮麗さは、群を抜いていた。そこは、王家と貴族の差別化をはかる場所であった。貴族の領主館は、国法で建物の大きさや部屋の広さや部屋数まで細かく決められていた。無論、その周りの掘り割りまで、その深さや幅が国法で指定されていた。これは、王家の威光を示すというより軍略的な問題であった。貴族たちの堅牢な城を持たせないことで、貴族たちの軍事的弱体化を狙っての政策であった。

 しばらくすると、謁見の間の見学を終えた一行にメレディス王女は「そろそろいいかしら」と声をかけた。ターレル侯爵夫人が「まあ、失礼いたしました」と失礼を詫びた。

「いいのよ。普段は、ゆっくりと見回すことなんてできませんものね。こういう機会でもなければね」と鷹揚さを見せたメレディス王女は、謁見の間の正面にある玉座の方へ歩き始めた。メレディス王女の歩調はやや速く、きびきびとしていた。「侯爵家はここまで進むのよ」と言いながら、途中で立ち止まった。そこは、広い謁見の間の中央より、やや玉座に近い場所であった。

「絨緞にこの模様があるところまで、歩いて来るのよ。どのみち、他の一族の方も一緒でしょうから、間違えることはないと思うわ」とメレディス王女は、床を指し示した。謁見の間の床にはアンドーラでは貴重な大理石が使われていた。そして、入口の重厚な扉から玉座まで細長い絨緞が敷かれ、謁見に来た貴族たちの国王の御前に進む道を示していた。メレディス王女は続けた。

「ここで、立ち止まって、礼をすればよろしいの。その後、前に入室した侯爵家と反対に向くの。このあたりは、ターレル侯爵夫人もブライトン侯爵夫人も、心得ていらっるでしょうから。じゃあ、よろしいかしら、皆さん、ここで礼が終わったら、右か左の方に向き直り、横壁の方に歩いていく。壁の際まで来たら立ち止まり、玉座の方へ向いて軽く一礼して壁際の並んでいる人の列の入口側に加わるの。ちょっと、軍人みたいでしょう」とメレディス王女は、品よく肩をすくめた。謁見の手順は、アリシアは、母親のアマンダから、聞いて知っていたが、確かに駐屯地の兵士が整列する時のようだった。

「とりあえず、私がやってみるから、見ていてちょうだい」とメレディス王女は、お手本をやってみせた。メレディス王女の動作は、きびきびとしていて、姿勢もよくて、何だか気品にあふれているようにアリシアには思えた。

「とりあえず、やってみましょう。まず、入室するところから」とメレディス王女は、一同に促した。

 メレディス王女は、玉座の前に立ち腕を組み、アリシアたちの所作を見守った。左右に分かれ、それぞれ横壁を背に立つとメレディス王女は「今度は、左右を換えてやってみてちょうだい」と注文した。それがすむと「まあ、いいでしょう」とうなずいた。そして「じゃあ、そこで、そのまま待っていてちょうだい。次に伯爵家が入室しますからね」というと、メレディス王女は、式部卿夫人と式部官を引き連れて近衛兵の先導で謁見の間を出て行った。

 緊張が解けぬまま、アリシアは、アマンダと指定された場所に立って待っていた。随分待たされたと思った頃、ようやく、メレディス王女たちと伯爵家の一行が入ってきた。しかし、妙なことに、シルビナ・カウネルズ伯爵令嬢の姿は、そこにはなかった。アリシアは、妙だと思っていたが、それを口には出せずにいた。

 疑問が解けたのは、伯爵家の”予行演習”が終わり、メレディス王女たちが、子爵家の番だと言って謁見の間を再び、出て行ってからである。アリシアたちの側に立った伯爵家の娘が、小声で「ねえ、カウネルズ伯爵家は、ごぞんじかしら。今日も初謁見だといって来ていたでしょう、当主の娘が」

「ええ」とアリシアがうなずくと「それが、メレディス王女さまにそんな下品な衣装では、謁見を許さないと言われて、他の衣装に着替えて来るようにいわれたのよ」

「まあ、そうなんですの」とアマンダが、相づちを打った。アリシアは、困ったことになったと思った。このシルビナの一件は、ブライトン侯爵家にも、何らかの影響が出るのではないかと不安になった。

 初謁見の”予行演習”の最後までシルビナの姿は、なかった。宮殿を出るまで、アリシアはこの話題に触れなかった。帰りの馬車に乗り込むと二人だけになって気が緩んだのか、アマンダが、口を開いた。

「国母さまがお元気な時には、娘たちが謁見をするのは、行儀見習いをすましてからという習慣があったから、初謁見が決まってから、それを許されないということはなかったのだけどねえ。まあ、あの衣装は、少しくだけていたかしら」と言ったが、アマンダは内心、メレディス王女がいったように下品(・・)だと思っていた。

 ブライトン侯爵家とカウネルズ伯爵家とは、ライネルとベネットの結婚の経緯があって、ほとんど、親戚付き合いをしていなかった。だから、現当主のステファンの失言癖についても、アマンダとアリシアは知らなかった。この失言癖が、後で、問題を起こすとは、二人には予想もつかなかった。


 チェンバース公爵家の邸宅に戻ると、今はブライトン侯爵家の世子となったアーノルドとその名付け親で、外祖父のカウネルズ少将が待っていた。すでに初謁見の”予行演習”をすませたアーノルドは、久しぶりに会う従姉にはしゃいでいた。アリシアは、アーノルドの再従姉(はとこ)のシルビ・カウネルズ伯爵令嬢の一件を話すべきでないことぐらいは心得ていた。そして、アマンダは「将軍、ちょっとお話があります」と大人だけの会話だと匂わせた。カウネルズ少将は「おう、なんだね、アーニーのことは心配ないぞ」とアマンダが、話があるというのは珍しいなと思いながら、不審そうな顔をした。

「ええ、そうでは、ありませんのよ。ちょっと」とアマンダは目配せをした。そこは、陸軍で将軍まで上り詰めた人物である、何となく秘密の匂いに気がついた。

 大人の二人が席を外すとアーノルドが困った質問をしてきた「姉上、僕の母上の家の方の再従姉(はとこ)も初謁見なんですって。宮殿で会った?」

「ええ、ちょっとだけ、侯爵家と伯爵家では、控えの間が違うから、ご挨拶だけしたわ」とだけ言った。アリシアは、もし、シルビナが初謁見を許されないとしたら、これほど、不名誉なことはないと思っていたが、アリシアが口を挟むべき問題ではないとわかっていた。

 アーノルドを部屋から出すべきか迷ったが、同じ喪服でも礼服の衣装を汚したくなくて「アーノルド、ちょっと、着替えたいのだけれど」とアーノルドの部屋を出て行くように部屋の扉を指差した。アーノルドはおとなしく部屋を出て行った。

 アリシアの気がかりは、もうシルビナの件から離れていた。それよりも、救貧院に出した手紙のことが気になっていた。手紙には、自分が多少、薬草の心得があること、薬草を育てることも経験があるということ、そして、家の事情を考えると救貧院を手伝いたいと書き記した。母親のアマンダには、何も相談していなかった。話せば、反対されることが、わかっていた。

 母親のアマンダは、自身がそうであったように、アリシアにいい縁組みをして嫁がすことしか眼中になかった。しかし、アリシアは嫁ぐ気持ちにはなれなかった。「医学」を学びたいという気持ちの方が強かった。その気持ちに答えて、救貧院院長のキルマ・パラボン侯爵夫人は、自分の力になってくれるだろうか。宮殿での興奮がさめるとそのことで、頭がいっぱいになった。


 女官長のメレディス王女から、衣装を着替えて来るように申し渡されたシルビナ・カウネルズ伯爵令嬢は、王都にある父親のステファン・カウネルズ伯爵の所有の屋敷に戻ったが、シルビナはメレディス王女の言葉が信じられなかった。着替えてこいと言われても、礼装は一着しかなかった。

 当時のカウネルズ伯爵家は、先代の伯爵が交易船を手に入れ、貿易で多額の財産を築いていた。その財産で、無官の爵位持ちには珍しく、王都に大きな屋敷を構えていた。無官の爵位持ちの大多数が、領地で領主の務めを果たしているのに比べ、ステファンは、領地の方は法定代理人をたててその人物に任せっきりで、王都で享楽的な生活を送っていた。ステファンには、すでに成人した嫡男ヘクトルがおり、彼は、父親に反して堅実な性格だった。先代伯爵である祖父を説得して陸軍士官学校に進み、今は陸軍少尉として、地方の駐屯地に配属されていた。

 そして、表向きはステファンの正妻メーベリアの生んだ長女となっていたが、シルビナは、ステファンが囲っていた娼婦上がりの愛人の生んだ子で、愛人が生むとすぐ、ステファンの母親である先代の伯爵夫人が引き取り、嫁のメーベリアに育てるようにと申し渡して育てさせた娘だった。メーベリアは姑とそして舅が存命のうちは、おとなしく言いつけを守っていたが、二人が亡くなると伯爵家の侍女頭にシルビナの世話を押し付け、一切面倒を見なくなった。そして、シルビナは、ステファンの例の失言癖で自身の出生の秘密を知ることになる。シルビナは、何となく合点がいったのである。それは、メーベリアの容貌は痩せぎすで特に目立ったこともない平凡な顔立ちで、自分の美貌と豊かな胸の豊満な体型と違うことにシルビナは気がついていた。シルビナの望みは、自分の美貌を武器にできれば、伯爵家より上のしかも、”新貴族”ではない名門の侯爵家の跡継ぎに嫁いで、自分を邪魔者扱いするメーベリアを見返すことだった。そのために”女の魅力”に磨きをかけたのである。その魅力を発揮する第一歩が、国王の謁見だった。

 シルビナは、まず父親に泣きついた。ステファンは、娘の言葉に激怒した。

「あのいかず後家め、俺の娘になんていう嫌がらせをしやがる」

 ステファンの失言癖で、シルビナの語彙が広まっていた。

「お父さま、いかず後家ってなあに」

「いつまでも、結婚できない女のことさ」

「まあ、そうなの。それで、わかったわ。私の衣装がすてきなのに焼きもちを焼いたのよ」

「それに、お前は、別嬪(べっぴん)だからな」と娘の美貌が、実の母親譲りなのをステファンは、気がついていた。

 むつまじいとは言いがたい夫婦間で、合意を得たのは、シルビナをそれなりの家に嫁がすことであった。そのため、ステファンは、莫大な持参金を用意していた。しかし、貴族の間では、国王の謁見は不可欠であった。

 ステファンは、妻のメーベリアに相談したかったが、メーベリアは、時を見計らったように外出していた。下世話に通じているステファンであったが、女性の衣装のことなどは、女性でなければわからないことでもあった。

 そこへ”予行演習”を終えたオルガ・サングエム子爵夫人が訪れた。メーベリアが留守と聞くと「伯爵夫人は、どちらですの。シルビナの話では、頭痛がするといっていたようですけど」とオルガは探りをいれた。

「多分、医者の所でも言ったのでしょう」とステファンは、何とかごまかして体面を繕った。オルガは、深追いせず、用件に入った。

「問題なのは、衣装だけではないのですよ。あなたのお嬢様は、何だか妙な歩き方をするとメレディス王女さまが、おっしゃっています。とりあえずは、王宮に”行儀見習い”にくるように仰せつかって参りましたわ。奥方さまとご相談の上、なるべく早く、いいお返事を待っていますわ」とメレディス王女の伝言を伝えると式部卿夫人は早々に立ち去った。

 オルガは薄々カウネルズ伯爵家の秘密の匂いを嗅ぎ分けていた。ただ、どこの家にも一つや二つ秘密があるものだと思い、余計な詮索はしなかった。

 シルビナの”行儀見習い”の話は、ステファンには、いい話に思えた。屋敷にいても、メーベリアは、シルビナの母親らしいことは、何一つしていない。むしろ、王宮で(・・)をつけた方が、娘の将来にとって最善に思えた。失言癖はあるもののステファンはそれなりに父親らしい気遣いをシルビナにしていた。

 帰宅したメーベリアを待ってステファンは妻にシルビナの”行儀見習い”の話を持ちかけてみた。案の定、メーベリアは厄介払いができると思い賛成した。そして、シルビナ自身も王宮の方がいい結婚相手が見つかるのでは、ないかと考えて”行儀見習い”を承諾した。王宮ではもしかして「王子」に見初められるかもしれない。期待に胸弾むシルビナであった。


 シルビナ・カウネルズ伯爵令嬢が、王宮に”行儀見習い”に上がったことは、アリシア・ブライトン侯爵令嬢は、知らなかった。聞いたとしても、アリシアには「王宮勤め」には興味がなかった。関心のあるのは「医学」のことだった。救貧院に入れば、少しは「医学」を学べるのでは、ないかと考えていた。しかし、謁見の当日になっても、救貧院の院長キルマ・パラボン侯爵夫人からは、何の連絡もなかった。

 領地から、ライネルとその妻のベネットや家令でブライトン侯爵家の一族でもあるサイラスも王都に到着し、式部卿立ち会いの元、ライネルも「認証式」の”予行演習”を謁見の前日に行っていた。サイラスは、「殿、もう武官ではないのですから、陸軍式に敬礼はいかんですぞ」と軽口をたたいた。ジークフリードの死の衝撃から、ブライトン侯爵家の人々は、何とか立ち直ろうとしていた。ライネルの喪服の礼装は、ジークフリードの礼装のお下がりである。

 謁見のその日は、早起きをし、領地からついてきた侍女の手を借りながら、髪を結い、母親のアマンダから借りた化粧道具で化粧をした。化粧自体はメレディス王女に指摘されて気がついたアマンダが、手ほどきをしてくれた。それでも、顔に粉をはたき口紅を塗る程度だった。

 アリシアは、あきらめかけていた。初謁見が終わり叔父の認証式を見届けたら、領地に戻り、薬草園の世話をしながら、何とか従医のマネード博士を説得して薬草の処方の仕方を教えてもらう事で、気を紛らわす他に「医学」を学ぶ手段がなかった。絶望的になりながら、黒い喪服の衣装を身にまとい、宮殿へ出発する用意をした。もう、アリシアが打つ手は王都ではなかった。


 爵位の認証式をする後継者たちは、貴族らしく、まず、他の家への「挨拶回り」からするのがしきたりになっていた。重要な家には、直接出向くが大部分は、当日の宮殿の各階級の控えの間を上位の部屋から回って、挨拶をすます。引き回し役は、新当主の母親の実家の当主が勤めることになっていた。

 ライネル・ブライトン新侯爵の母親の実家は、やはり、名門のアルセウス侯爵家だった。さすがにライネルの外祖父は亡くなっていたが、まだ、叔父のピクセルが存命で、侯爵家の中でも長い在位者として宮殿の謁見の間では、高位に属していた。ピクセル・アルセウス侯爵は、甥のジークフリードが自分より先に亡くなるとは思ってもいなかったし、認証式で二回もブライトン侯爵の引き回しをするとは、思っていなかった。

 ライネルは叔父に付き添われ、まず、「紫の間」と呼ばれる一番高位のチェンバー公爵一家と閣僚たちと陸・海の将軍たちの控えの間に侯爵夫人となったベネットと共に入っていった。チェンバー公爵家をのぞいて、王家の人々には「挨拶回り」はしないしきたりだった。ここでの「挨拶回り」が、無事終わり、「紫の間」を出ると何故だか、グーテン・パラボン海軍少将の妻で元女官長のキルマ・パラボン侯爵夫人が、次の侯爵家の控えの間「赤の間」までついてきた。キルマ・パラボン侯爵夫人は、侯爵家への「挨拶回り」を見守っていたが、それが、一通りすむと、黒い喪服姿のアマンダとアリシアに近づいた。パラボン侯爵夫人の行動が気になったライネルが、注視しているとパラボン侯爵夫人は、アマンダに弔意の言葉を述べた。

「ジークフリードは、お気の毒なことでしたわね。亡くなるのには若すぎましたよ。ご葬儀には、陛下のご用事で伺えませんで、申し訳なかったわ」

 アマンダは、弔意の言葉に礼を述べたが、ライネルはそれを聞いて、未亡人になったアマンダに弔意を表すためにわざわざ、この部屋に来たのだと推測したが、パラボン侯爵夫人は尚も言葉を続けた。

「アマンダ、アリシアはこの()かしら」とアリシアに目をやった。やはり、黒い喪服は、色とりどりの衣装の中で、人目を引いていた。

「ええ、孫のアリシア・ブライトンですが、お引き合わせますわ、キルマ・パラボン侯爵夫人」と間に入ったのは、アマンダの母親のミネビア・サリンジャー侯爵夫人だった。

「そうね、ミネビア、お願いするわ」とキルマ・パラボン侯爵夫人は、丁重だった。女官長を辞任したとはいえ、国王ジュルジス三世の信頼が厚いという噂のキルマ・パラボン侯爵夫人の言動は、「赤の間」の侯爵家の人々の注目を集めていた。

 キルマ・パラボン侯爵夫人の引き合わせられるとアリシアは、高位に対する礼をした。キルマ・パラボン侯爵夫人は、軽くうなずくと「アリシア、後でお話があります。認証式が終わったら、私のところにきてちょうだい。アマンダ、あなたもね」

 話があるというキルマ・パラボン侯爵夫人にアマンダは、自分の”行儀見習い”時代を思い出して、アリシアが何か説教をされるようなことをしたのではないかと不安になった。

「あの、アリシアが何か」

「ええ、だから、話は後で」とアマンダをさえぎり「ブライトン侯爵家には、今日の認証式の方が大事でしょう」とキルマ・パラボン侯爵夫人は、それだけ言い終えると「赤の間」を出て行った。

 母親のアマンダも祖母のミネビアもアリシアがキルマ・パラボン侯爵夫人へ出した手紙のことは気がついていなかったので、何故、キルマ・パラボン侯爵夫人がアリシアに興味を持ったのかわからなかった。ミネビアは「”行儀見習いの話ではないかしらねえ」と推測してみた。

「今さら、”行儀見習い”なんて必要ないでしょう。こうして、初謁見もできる訳だし」

「それも、そうだわね」とミネビアも同感だった。それにしても、キルマ・パラボン侯爵夫人の行動は謎だった。

 しかし、アリシアには手紙のことだと検討がついていた。しかし、こんな大勢の前で注目を集めるようなことになるとは、予想もつかなかった。

 ライネルも、姪のことが気になったが、まだ「挨拶回り」は、すんでいない。引き回し役のピクセル・アルセウス侯爵とともに伯爵家の控えの間へと向かった。

 そして、伯爵家の控えの間「青の間」でも「事件」は起こった。ライネルたちが各伯爵家への「挨拶回り」が終わり「青の間」を後にすると、ベネットの従兄のステファン・カウネルズ伯爵が、例によって失言をしたのである

「これで、ベネットも晴れて、侯爵夫人ってわけか。それも”新貴族”のお家柄でない名門のブライトン侯爵家ときたもんだ。出世したもんじゃなか。親父の言うことを聞いていたら、せいぜい子爵夫人が関の山だったろうし、叔父貴も先見の目があったというわけさ」

 その言葉はアーノルド・カウネルズ少将を不愉快にさせた。カウネルズ少将は、将軍という地位にあって、現役時代は、陸軍元帥らとともに伯爵家よりも先に謁見の間の国王の前に伺候していた。しかし、退役後は、そのまま陸軍元帥と他の将軍と一緒に謁見の間に入れることもできたが、甥のステファンの希望もあってカウネルズ伯爵家の一員として、謁見の間に入ることにしていた。一族に将軍がいれば、ステファンの言葉を借りれば(・・)がつくからである。

「ステファン、それは、どういう意味だね」と、陸軍の軍服姿のカウネルズ少将。ちなみに、退役後は、謁見には軍服でもなくても臨めるが、将官の肩章を誇示するに退役した将軍たちは、軍服のままで謁見に臨むものが多かった。ついでにその軍服は仕立て職の誂えで、兵士に支給される制服よりも生地も仕立ても上等なものであった。

「たとえ、借金だらけでも侯爵夫人という訳さ。めでたいじゃないか。あれっぽちの持参金で、なれたんだからな」

「無礼なことをいうな、ステファン」とカウネルズ少将の不愉快さは、怒りと変わった。

「叔父貴に言っておくが、俺の金を当てにしなでくれ」

「そうか、そういうことなら、私は、陸軍元帥とご一緒させてもらうよ。君の無神経さには、我慢ができんからな」とカウネルズ少将は、妻のイライザを促して「青の間」を出て行った。

「青の間」の注目は、カウネルズ伯爵家に集まった。義理の叔父のライネルの「認証式」に立ち会おうと駐屯地から駆けつけていた嫡男のヘクトルが「父上、アーノルド少将に謝って下さい」といった。ステファンは「俺が何を言ったというんだ。お前も、父上(・・)なんて、お高く止まるようになったな。叔父貴は内心では、してやったりと思っているのさ」と叔父を怒らせても平然としているステファン・カウネルズ伯爵であった。

 そこへ伯爵家の重鎮カルチェラ伯爵が「人の死にめでたいはないだろう。ブライトン侯爵家では、当主が亡くなっているいるんですよ」とたしなめた。だが、カルチェラ伯爵も、ステファンが忠告を聞くような人物でないことは、察していた。案の定「そうさ、莫大な借金を残してな」と肩をすくめながら「ただ、俺の金を当てにされては困るだけさ」とステファンは、死者に哀悼の意を表すことはなかった。そこに、元大蔵卿のブルックナー伯爵が「借財なら、我が家にも、ある」と打ち明けた。へえという顔をしてステファンは「なんでまた」と聞き返した。ブルックナー伯爵は「領地を治めるには、金がかかる時もある」

「だから、領地を治めるのは、自分でやらない方がいいんだよ」と領地を法定代理人まかせで領主らしいことは指一本動かさないで、おまけに国王の重臣である元閣僚にも敬意を表さない不遜なステファン・カウネルズ伯爵に「青の間」の人々は眉をひそめた。

 そして、「青の間」にシルビナ・カウネルズ伯爵令嬢の姿はなかった。

 この一件は、シルビナの件も含めてうわさ好きな貴族の間で「うわさ話」として広まっていった。むろん「うわさ話」には、尾ひれがつく。カウネルズ伯爵家の貴族社会での評判は芳しくなかった。無論借財(・・)があるというブライトン侯爵家には、同情が寄せられたが、蔑視の目を向ける者もいた。


 ライネル・ブライトン新侯爵の認証式は武官出身者らしく、きびきびとした所作で、謁見の間の人々を感心させた。謁見の間には、認証式を見ようと月例の謁見のときよりも多く貴族たちが謁見の間に集まっていた。無事、認証式がすみ、ライネル・ブライトン侯爵の地位は確かなものとなった。

 その前に謁見の間に入室して国王への挨拶をしたブライトン侯爵家の新旧の侯爵夫人は、それぞれ小さな疑問を胸に抱いていた。新侯爵夫人となったベネットは、自分の両親が、陸軍の将官たちと一緒にいることが疑問だったし、アマンダはカウネルズ伯爵家のシルビナが謁見に現れないことに疑問を抱いていた。そして、緊張の中にもアリシアはキルマ・パラボン侯爵夫人の()がなんなのか、思いを巡らせていた。救貧院で病人たちの世話を手伝いながら「医学」の知識を身につけるのがアリシアの願いだった。

 認証式が無事終了すると、国王ジュルジス三世は、ヘンリッタ王妃を伴い謁見の間を退出した。その後、エドワーズ王太子以下セシーネ王女たちが、退出すると、残された貴族たちは思い思いに謁見の間を入ってきた扉へと向かう。入場の時と違い、各自、おしゃべりをしたりしていて緊張感はあまりなかった。

 そして、ブライトン侯爵家にゆかりのある人々は、認証式が無事すんだライネル・ブライトン新侯爵に祝辞を述べに集まって来た。その中にキルマ・パラボン侯爵夫人の姿もあった。彼女は、ライネルに祝辞を述べると、アリシアの前に歩み寄り「アリシア、初謁見おめでとう」とアリシアにも祝辞を述べた。キルマ・パラボン侯爵夫人の()がこれでないことをアリシアは、期待と不安とで、胸の動悸が速くなり、緊張感が体全体を支配した。キルマ・パラボン侯爵夫人が()があると言っていたのを思い出したアマンダは、緊張で口がきけない娘に変わって「ご丁寧にありがとうございます。パラボン侯爵夫人」と祝意の礼を述べた。だが、キルマ・パラボン侯爵夫人の行動はアマンダの予想を超えた。

「アリシア、とにかく私と一緒に来てちょうだい。ちょっと、急ぎ足でね」と、キルマ・パラボン侯爵夫人は、祝意を述べる人たちの輪から離れ、歩き出した。追いかけるようにアマンダが「娘に御用とは、一体なんですの。パラボン侯爵夫人」と尋ねると、足を止めたキルマ・パラボン侯爵夫人は、アリシアの期待を裏切るような発言をした。

「アリシアには、王宮で行儀見習いをしてもらいます」

 この言葉にアリシアは失望感で、泣きたくなった。現に涙が目にあふれてきた。母親のアマンダは、その()だったら、きっぱりと断ろうと「それでしたら、娘は初謁見も無事おわりましたし、領地へ連れて帰りますわ」といった。いくら、国王の信頼が厚いとはいえ、もう女官長でもない、パラボン侯爵夫人の命令に従う必要性をアマンダは、感じていなかった。

「いいえ、この娘はどうしても、行儀見習いをしてもらいます」と女官長時代から身につけていた威厳を漂わせて、きっぱりとした口調で再びパラボン侯爵夫人は、アリシアの願いを断ち切った。

 そこに新当主となったライネルが「パラボン侯爵夫人、一体どういう訳です」と口を挟んだ。

「あなたは、これから、祝宴があるのでしょう。殿方は殿方のお付き合いがありますからね」とやや、皮肉まじりにキルマ・パラボン侯爵夫人は、暗にここは男のでる幕でないと匂わせた。

「ともかく、私と一緒に来てちょうだい。アリシア」とキルマ・パラボン侯爵夫人は、有無をいわせない態度だった。そこにアリシアの外祖母のミネビア・サリンジャー侯爵夫人が割って入った。

「キルマ、もう時代は変わったのよ。国母さまご存命の時とは、訳が違うのよ。賢いあなたなら、わかるでしょう」

「やっぱり、アリシアから、何も聞いていないのね。確かに時代は変わったわ。でも、変わらないものもあるのよ。それは、陛下のご威光よ」

 不安になったアマンダが「あのアリシアが、何をしたんですの。謁見の時に、特に無作法はしていないと思いますが」

「そうね、謁見は問題なかったわ。他のことで、この娘は大変ぶしつけでしたよ。アマンダ」

「キルマ、ぶしつけとは、どんなことをしたのかしら」

「ミネビア、そのことを咎めているのでは、ないの。第一王女さまには、身分にふさわしい侍女が必要なの。この()はうってつけだわ。断れないでしょう自分で望んだことですからね」

「なんですって」と驚いたアマンダは、金切り声に近い声をだした。アリシアも思わず、息をのんだ。自分の望みは「医学」である。王女の侍女なんかではなかった。

「謁見の間で無作法ですよ。アマンダ」と、相変らず冷静な元女官長。

 祖母のミネビアが「アリシア、そんなこと言ったの」と孫娘に問いただした。アリシアは、首を振るだけだった。

「ともかく、親に内緒で手紙をこの私に届けさすなんて大した度胸だわ。この()の手紙のことは、知らないのでしょう、アマンダ」

「手紙って、なんのことですの」とアマンダは、怪訝そうだった。無理もないアリシアは秘密裏に事を進めていたのだから。しかし、アリシアは窮地に陥っていた。手紙のせいで、キルマ・パラボン侯爵夫人の目に止まり、王女の侍女にされるのだ。それは、アリシアの望みではなかった。

 高齢にも似合わずキルマ・パラボン侯爵夫人は、早足で玉座の横にある国王を始め王太子や王子・王女が使う出入り口の扉の前に到着していた。自然とパラボン侯爵夫人を追うようにアリシアとアマンダ・ミネビアも通ったことのない扉の前に達していた。警備のため扉の前に立っている近衛兵に元女官長は「第一王女さまに御用があります。ここを通してちょうだい」

 他の侯爵夫人だったら、近衛兵は通行の許可を出さなかっただろう。しかし、元女官長は、宮殿で顔が利いた。近衛兵は、扉を開けると、通りやすいように脇にどいた。

「ありがとう」と礼を述べるとパラボン侯爵夫人は振り返り「さあ、アリシア、第一王女さまのところへ伺うのよ。あなたも、来るのでしょう、アマンダ。それミネビアもね」

「あの、失礼ですが、パラボン侯爵夫人、何か別な娘と勘違いなさっているのでは、ありませんか」とパラボン侯爵夫人の行動が、腑に落ちないアマンダは、元女官長に無礼を承知で、そう指摘した。

「勘違いでは、ありませんよ。証拠なら、手紙をお見せしてもよろしいわ。誰かが、あなたの娘の名前を騙ったなら、ともかく、本人に聞いてご覧なさい」

 ここでようやく、アマンダは娘に問いただした。「アリシア、パラボン侯爵夫人に手紙を書いたの」

 アリシアは頷いたが「でも、王女さまの侍女になりたいなんて書いてません」と半ば、泣き声である。アリシアの願いは「医学」で「王宮勤め」ではなかった。しかし、パラボン侯爵夫人は無情だった。

「ともかく、鉄は熱いうちに打てと言いますからね。さあ、一緒に来るのよ、アリシア」と今度は、パラボン侯爵夫人は驚いたことにアリシアの手をつかんだ。アリシアは驚きのあまり、その手を振りほどくことができなかった。

「ちょっと、待って、キルマ」とミネビアは、正気の沙汰とは思えない行動をとったキルマ・パラボン侯爵夫人の顔をみた。パラボン侯爵夫人の表情にミネビアは、まるで、ネズミをいたぶる猫のようだと思った。

 王家の女官長という役目柄、キルマ・パラボン侯爵夫人は、他の女性特に若い娘たちに到底やさしいとはいえない態度で接していた。それは、役目柄、必要な資質でも、あった。現在の女官長のメレディス王女も、嫌われ役を承知で、例えばシルビナ・カウネルズ伯爵令嬢に初謁見を許さず、厳しい態度をとったことでもわかる。しかし、キルマ・パラボン侯爵夫人はもう女官長ではないのだ。孫娘が、何をしたといのだ。そうだ、”手紙”だったわとミネビア・サリンジャー侯爵夫人は気がついた。

 そして、この騒ぎに謁見の間を退出しようとしていた人々の好奇の目が、集まった。その視線を感じた元女官長は、今度は扉の横に待機してる近衛兵にこう命じた。

「野次馬を追い払ってちょうだい。この扉を通るのは私のこの()と後こちらの二人のご夫人だけにして。いいわね」とアリシアの手を引いたまま、扉をくぐった。あわてて、アマンダとミネビアが続くと

「さあ、扉を閉めてちょうだい」と今度は、扉の通路側の歩哨の近衛兵に命じた。近衛兵は、予定にない通行人にやや驚いたが、反射的に扉を閉めた。その扉の閉まる音にアリシアは、自分の希望への道も閉ざされたような気がした。近衛兵が扉を閉め、歩哨の所定の位置につくと、パラボン侯爵夫人はアリシアの手を離した。

「さあ、もう逃げられないわよ。アリシア・ブライトン」

 その言葉は、アリシアには、まるで死刑を宣告されたように思えた。

「キルマ、説明してちょうだい。この()が、どんな手紙を書いたというの」と、いささか、否、かなり強引なパラボン侯爵夫人にミネビアは、腹を立て始めていた。

「そうね、ミネビア。この()に尋ねても、答えないと思うから。私がいうわ。私が、国母さまが、亡くなった後、救貧院の院長をしていることは知っているわね。この()は、その救貧院で働きたいと書いてよこしたのよ」

「何ですって」とミネビアは、自分の耳を疑った。

 亡くなったエレーヌ王太后の王太妃時代に困窮者の救済を目的に設立された救貧院は、中級以下の貴族の女性たちの数少ない職業を供給していた。大部分が結婚のための持参金もなく、養ってくれる人物もいない、自身も困窮者と言っていい身の上の女性たちの最低限の体面を保てる場所だった。当時の常識では侯爵家の当主の娘が、行く場所ではなかった。

 パラボン侯爵夫人の暴露と言ってもいい言葉に、アマンダは、泣き出した。

「お父さまの借金のことなら、心配いらないのよ。ちゃんと、返す当てが、あるんですから」

「おや、借金があるの」とパラボン侯爵夫人は、探りを入れた。

「領地の灌漑工事の資金だと伺っておりますよ。それより、アリシアは本当に救貧院で働きたいとあなたに手紙で、いったきたの」と、にわかに孫娘の真意を信じられないミネビア・サリンジャー侯爵夫人だった。

「それより、薬草の知識とかは、誰に仕込まれたの。あなたかしら。アマンダ」とパラボン侯爵夫人は、話題を少し変えた。アマンダは、救貧院で働きたいという娘の気持ちが、信じられず、ただ、泣いていた。泣いているアマンダに代わりその母親が答えた

「亡くなったドロレスが、教えたのだと思うわ。でも、それがどういう関係があるのかしら」とミネビアは、先先代となったブライトン侯爵夫人の名を挙げた。

「そう、ドロレスがねえ。まあ、救貧院では、病人もいますからね。確かにそういう知識も必要なんだけけど、残念ながら、救貧院は廃止になるのよ。知らなかったでしょう」

「そう、廃止になるの」と救貧院で働く不名誉を避けたいミネビアは、内心ほっとした。そして、アリシアは、自分の行くべき道が閉ざされたのを悟った。

「そうよ。廃止になるの。だから、古い家柄の方は困るのよね」と自身も侯爵家の出身であった元女官長は名門貴族と呼ばずに、”古い家柄”と称し「まったく陛下のご意向を気にもかけないのだから。国母さまが亡くなってから、王宮に”ご機嫌伺い”にも来ないし、娘たちを”行儀見習い”にも寄越さない。まったく、誰のおかげで、爵位を名乗っていられるのか忘れては困るわ」

「キルマ、陛下のご意向に背くなどしておりませんよ。でも、何故この()を行儀見習いに出さなきゃならないの」

「ええ、必要だと思うからよ。第一王女さまには、この()が必要なのよ。やっと、見つけたんですからね。逃がさないわよ。どうしても嫌だというのなら、陛下に勅命を戴くようお願いしてもいいと思っているのよ」

「勅命なんて大げさじゃない」とパラボン侯爵夫人の真意をつかみかねているミネビア・サリンジャー侯爵夫人だった。相変らず、アマンダは泣きじゃくっている。アリシアも、泣いていた。

「いえ、陛下もこの()の行儀見習いにご賛同して下さるわ」と自信たっぷりなキルマ・パラボン侯爵夫人。そして泣いているアマンダとアリシアに

「いい加減、泣くのはおやめなさい。そんなに第一王女さまの侍女が不満なの。まるで、私が何か、意地悪でもしたように見えるじゃない」と”行儀見習い”中にアマンダを泣かせたこともある元女官長

「なぜ、この()にこだわるの。キルマ、理由を説明してちょうだい」

「理由なら、第一王女さまにこの()を引き合わせてから、第一王女さまから、していただくわ。さあ、いくわよ」

「いうといって、どこへ」

「第一王女さまのところに決まっているでしょう」とキルマ・パラボン侯爵夫人は再び、アリシアの手をつかんだ。

 ミネビアは、観念した。どのみちアリシアの”行儀見習い”は、娘夫妻には結局、言い出す機会がなかったが、夫のサリンジャー侯爵とも検討したこともあった。娘を促してパラボン侯爵夫人と引きずるように歩き始めた孫娘の後に続いた。

 広い宮殿の中を元女官長は、迷わず歩いて行く。ミネビア・サリンジャー侯爵夫人は、勝手がわからず、ただ後をついて行くだけである。

 新宮殿と呼ばれるメレディス女王の時代に建設された建物と違って、王家の住居である王宮は、王位を継ぐ前のチェンバース公爵の宮殿だった。回廊を通り、その建物に入る前にキルマ・パラボン侯爵夫人を始めとする一団は、入口で歩哨に立っていた近衛兵に誰何されたが、元女官長は、貫禄で「第一王女さまに大事なご用があります。通してちょうだい」と再び、顔を利かせた。近衛兵が、脇にどくと、パラボン侯爵夫人の勝手知ったる王宮である、迷わず、第一王女の部屋の前までアリシアの手をつかんだまま到着した。

 アリシアは、これから、自分の望まぬ王宮での”行儀見習い”をさせられると思うと、キルマ・パラボン侯爵夫人を無慈悲な人物だと思わずにいられなかった。

 その様子を見守っていた、宮殿に配置された近衛兵たちは、まるで屠殺場にに引かれて行く牛のようだったとその後にうわさをしたものである。


 一方、認証式を終えたばかりのライネル・ブライトン侯爵は、アンドーラ王国の重鎮キルマ・パラボン侯爵夫人のアリシアの”行儀見習い”の話に困惑していた。ライネルは、男兄弟で、各家の令嬢たちの王宮での”行儀見習い”の話は、よく知らなかった。妻のベネットも、陸軍武官である父親の赴任先の駐屯地で両親と共に暮らし、王宮で”行儀見習い”をした経験はなかった。

「行儀見習いとは、どういうことなんだろう。ベネットは姉上から何か聞いているか」

「さあ、特にアリシアのことは、伺ってませんけど」

 そこに、初謁見をすませたアーノルドが、「領主館にも”行儀見習い”は、いるよ。それより、カウネルズ伯爵家の従姉は、初謁見じゃなかったの」

「さあ、知りませんよ、それより、お父さま」とライネルに祝意を述べようという人々の中に父親のカウネルズ少将の姿を見かけて「カウネルズ伯爵家で、謁見をするのでは、なかったの」

 娘の問いにアーノルド・カウネルズ少将は「青の間」でのステファン・カウネルズ伯爵の失言には触れずに「なに、アーニーの初謁見を見たかったので、先に謁見の間に入っただけさ」と孫の初謁見のためだと、とぼけた。そして、祝いの言葉をかける人たちの輪の中にカウネルズ伯爵夫妻の姿はなく、嫡男のヘクトル少尉の姿だけがあった。

 ヘクトルは、父親の無礼を大叔父のカウネルズ少将に詫びたかったが、孫で、名付け子のアーノルドの初謁見を見たいというカウネルズ少将のもっともらしい言い訳に父親の無礼を詫びるのは、別な席ですべきだと、判断した。ヘクトルは、陸軍武官である以上、カウネルズ少将の不興は買いたくなかった。将来は伯爵家を継ぐにしろ、陸軍での栄達を望んでいた。だから、父親の不注意な発言で自分の立場を悪くするのは、ごめんだと考えていた。伯爵家での謁見を大叔父に頼んだのも、将軍たちに心証を良くしたいと考えて、父親に大叔父を説得してもらった経緯がある。貴族の階級以上に陸軍での階級は、絶対的なものだった。貴族の普段の生活でそれほど階級を意識することはなかったが、軍隊では、一日中行動をともにする。少しでも階級が上のものへの敬礼は欠かせなかったし、階級によってその待遇が違うのも当然なことだった。そして、ジュルジス三世の治世の下、平和が続いている陸軍では、武功をたてようにもたてられず、出世の糸口に上官の心証というものが横行していた。縁戚に将軍がいるといないとでは、上官の応対も自然と変わって来ることをヘクトルは知っていた。だから、父親の失言が原因で、自分の武官としての立場が悪くなることも、ヘクトルは覚悟をしなければならないと思った。

 しかし、さすがに武官である。父親の失言で息子を恨むような姑息なことはなかった。カウネルズ少将は、ヘクトルの姿を見かけると気さくに声をかけてきた「おう、ヘクトルか。こっちに来い」とライネル・ブライトン侯爵のそばに手招きをした。

「ライネル、紹介しよう、カウネルズ伯爵家の跡継ぎのヘクトルだ。ヘクトルは軍学校出でな、階級は、今は少尉だ」

「認証式、おめでとうございます。ブライトン侯爵」とヘクトルは、武官らしく陸軍式の敬礼をした。ライネルも兄の死までは、陸軍少佐であっただけにヘクトルにやはり陸軍式の敬礼で返礼した。カウネルズ少将は、笑顔である。

「まあ、ライネルは少佐どまりだったが、ヘクトル、君は、将官までがんばるか」と半ば冗談まじりの言葉がでるほどに上機嫌である。そこに名付け子のアーノルドが、大人たちの思惑とは違う発言をした「ねえ、ヘクトル少尉、今日は、カウネルズ伯爵家でも、初謁見の姉上がいるって聞いたのだけど、どの人?」

 この時、ヘクトルは、父親から妹の身の上をただ王宮に”行儀見習い”に上がったとだけしか聞かされていない。女官長のメレディス王女に「衣装」の事を理由に初謁見を却下されたとは、聞かされていなかったので「ああ、シルビナなら、メレディス王女さまから、”行儀見習い”に上がるようにといわれて、王宮で”行儀見習い”ということになったんだ」とさりげなく答えた。

 そこに侯爵夫人となったベネットが口を挟んだ。

「まあ、そちらでも、そうなの、ブライトン侯爵家でも、アリシアが、今さっき元女官長のパラボン侯爵夫人に”行儀見習い”をするようにと連れて行かれたの」

 ここで、ヘクトルはちょっと疑問に思った。妹のシルビナは、初謁見の前に”行儀見習い”をするようにいわれているのにブライトン侯爵家の方は、この謁見の間にいたということは、謁見を許されたということである。侯爵家と伯爵家の違いか、それとも、”新貴族”だからであろうかと、ヘクトルは待遇の違いを敏感に感じ取ったのである。

 しかし、王宮での”行儀見習い”の経験がないベネットは、やはり、未婚の貴族の令嬢には王宮での”行儀見習い”が必要なのだろうと、パラボン侯爵夫人の行動をそう解釈していた。

 そして、ライネルも姪が救貧院の院長キルマ・パラボン侯爵夫人に手紙を届けさすという大胆な行動をとったことに気がついていなかった。そして,アリシアの「医学」を学びたいという願いにも気がついていなかった。


 第一王女の部屋の前には、例によって護衛の近衛兵たちが、扉の前に立っていた。その近衛兵たちは重騎兵である。アマンダ・ブライトン前侯爵夫人もミネビアも何だか威圧感を感じていた。その重騎兵にキルマ・パラボン侯爵夫人は「第一王女さまのご用があります。取次をお願いするわ」と声をかけた。

「キルマ夫人、申し訳ないが、今、姫は、お召し替えの最中です。お取り次ぎはできません」と兜の面頬をおろしたままで重騎兵は答えた。

「その声は、ビランね、メリメは、もうきたかしら」

「いえ、まだです。でもだめですよ。キルマ夫人」

「そう、じゃあ、いいわ。勝手に入るわ」

「そんなことなさると姫が怒りますよ」

「いいの、機嫌が悪くなっても、この()に会えば機嫌がよくなるわ」と自信たっぷりのパラボン侯爵夫人である。

「さあ、第一王女さまに会うのよ。アリシア、行儀作法を守ってちょうだい」と元女官長は、言ったが、礼儀作法を守るべきはパラボン侯爵夫人の方ではないかと、ミネビアは、口には出さなかったが、腹の中でそう思った。

 パラボン侯爵夫人は、自分で扉を開けると、アリシアの手を引いて第一王女の部屋の中へ入った。それにアリシアの母親のアマンダ・ブライトン前侯爵夫人、ミネビア・サリンジャー侯爵夫人も後に続いた。

 部屋に入るとパラボン侯爵夫人がアリシアの手を離した。その部屋は、領主館の居間より広かった。その部屋の奥に豪華な衣装に身を包み、宝石をあしらった宝冠を頭に戴いた第一王女とおぼしきアリシアと同じ年頃の少女が、いた。黄金色の髪をしたその少女は、美しかった。アリシアは礼儀作法を思い出し、王位継承権第二位の第一王女に高位に対する礼をした。アマンダも、ミネビアも高位に対する礼をしたが、パラボン侯爵夫人は、それをしなかった。逆にもう一人部屋にいた王女より、幾分簡素な礼装をした若い娘が、パラボン侯爵夫人に高位に対する礼をした。ミネビアは,それは,多分第一王女付の侍女だろうと見当をつけた。

 案の定、いきなり部屋に入って来た一行に第一王女は、機嫌が悪いそうだった。

「何なの、キルマ、私はもう子供ではないのよ。いきなり、部屋に入るのは、やめて欲しいわ」

 しかし、第一王女の機嫌を気にもかけずに「今回は、特別よ、セシーネ。だって、あなたの探していたものが見つかったのですもの。少しでも早くと思っただけよ」

 アリシアとアマンダは、第一王女に対等な口をきく元女官長に驚いていた。そしてミネビアは、何だか孫娘をもの扱いするパラボン侯爵夫人に少し、むっとしたが、セシーネ王女の前なので表情に出さなかった。

「私の探していたものって、なにかしら」とセシーネ王女の表情は、不機嫌から、不審そうになった。

「そうよ。あなたの探していた侍女が見つかったのよ」

「私の探していた侍女?」

「そうよ、随分前になるけど、私に頼んだじゃない」

「そうだったかしら?」

「そうよ、あちこちさがしたんですからね、ともかく、紹介するわ」というと、パラボン侯爵夫人は三たび、アリシアの手を引くとセシーネ王女の前に立たせると「こちらが、そのアリシア・ブライトンよ」とパラボン侯爵夫人は、上機嫌と言ってもよい表情だった。一方、アリシアは、半ばあきらめの気持ちで、もう一度高位に対する礼をした。

「ブライトン侯爵家の出身なの、アリシア」とセシーネ王女は、今度は直接声をかけた。

「さあ、王女さまの質問に答えるのよ、アリシア」

「はい、そうです」とアリシアは、緊張のあまり声がちょっと震えた。

「ブライトン侯爵家は、今日認証式だったわね。亡くなったのは、あなたのおじいさま」と、喪服姿のアリシアに尋ねた。

「いえ、父です」

「まあ、そうなの、ご愁傷さまでしたね」とセシーネ王女は、弔意の言葉を口にするとまだ、引き合わせてもらっていない二人に目を向けた「キルマ、あちらのお二人は、どなたかしら」

「アリシアの母親のアマンダ・ブライトン前侯爵夫人とアマンダの母親のミネビア・サリンジャー侯爵夫人」とキルマが、引き合わせるとアマンダとミネビアは、第一王女に高位に対する礼をした。第一王女は、軽く頷くと喪服姿のアマンダに弔意の言葉を述べ、アマンダは礼の言葉を述べた。

「さあ、キルマ、説明してちょうだい。何故、アリシアが、私の探していた侍女なの」

「そうね、まず、アリシアは、一面識もない私に手紙を寄越したのよ。それも、救貧院が、廃止になることも知らずに、救貧院で働きたいといって来たの」

「まあ、そうなの」とだけ第一王女はいった。ここで、ミネビアは孫娘が、何か勘違いをして救貧院で働くことを希望していたといいたかったし、救貧院で働くことと王宮での”行儀見習い”とは、全然別な話ともいいたかったが、第一王女の前では、礼儀作法が邪魔して口に出せずにいた。それに救貧院で働くより、”行儀見習い”の方がましだとも思った。

「そうなのよ。セシーネ。このような古い家柄の人たちは、陛下が何をお考えか、知ろうともせず、全然無頓着なのよ。無論、国母さまの遺言のこともね」とパラボン侯爵夫人は、自ら出身である「名門貴族」のことを古い(・・)家柄と称した。

 遠慮していたミネビアは、キルマの皮肉を込めたいいように反論したかった。だが、第一王女の前では、やはり礼儀作法というものがミネビアの口を塞いだ。

「キルマ、おばあさまの遺言は、貴族の方々には、知られていないと思うわ。ところで、アリシア、何故、救貧院で働きたいと思ったの」とアリシアに質問を向けた

 緊張で返事ができないアリシアに代って、元女官長が「アリシアは、薬草の知識とかが、あるんですって。まあ、どの程度かわかりませんけどね」

 元女官長の言葉に第一王女の表情が変わった。「まあ、そうなの」とさっきの言葉と同じだったが、そのサファイアのような青い瞳が、パッと輝いたようにミネビアは思えた。

「アリシア、どの程度、薬草に詳しいの」と第一王女の口調は真剣だった。

「さあ、アリシア、王女さまの質問にお答えするのよ」と元女官長は,急かしたが、アリシアは、緊張と、そして、自分の薬草の知識がまだ,初歩の初歩でとても知識があるとは、いえない状況にあるのがわかっていて、恥ずかしさで顔が赤くなるのがわかった。ここで、緊張の娘に代って、礼儀作法を忘れて母親のアマンダが答えた。

「娘は、薬草についてそれほど,詳しくはございません。せいぜい領主館で,育てている薬草園の薬草の名前がいえる程度ですわ」

 その言葉に第一王女の表情が再び,曇った。しかし,アマンダは、ここで大胆な行動にでた。第一王女に質問をしたのである

「でも,王女さま、”行儀見習い”が薬草の知識とどんな関係がございますの」

 第一王女に代って,元女官長が皮肉たっぷりに「これだから、古い家柄の人は困るのよ。陛下が施療院をお造りになることすら、ご存じないんでしょうからね」

 ここで、ミネビアは,耳慣れない「施療院」という言葉に礼儀作法も忘れて、つい「施療院?」と口にした。その疑問に元女官長は答えた。

「ミネビア、あなたも気がついていると思うけど、アンドーラでは、医師法の関係もあって,慢性的に資格を持った医師が不足しているのよ。そこに聖徒教会の自然派のつけ込む隙が出来たのだけれども、そこで,陛下は,新たに《治療師》という制度をお決めになったの。法的にはまだ、準備段階ですけどね。そして、何より国母さまの遺言もあって、王立施療院を設立することも,決定したのよ。そこの院長に第一王女さまが、就任なさるという訳。まったく”ご機嫌伺い”にも来ないから,こういった政策も耳に入っていないでしょう」

 パラボン侯爵夫人のやや当てこすりに近い言葉に領主夫人ミネビアと前領主夫人アマンダは、第一王女の前で反論することもできずに赤面するだけだった。だが、「医学」への志を持っていたアリシアは、緊張しながらも、「あのう、《治療師》っていうのは、どんなことをするのですか」と質問をした。

「まあ、それは、あなたが,”行儀見習い”をしているうちに追々わかりますよ」とあくまで、アリシアの”行儀見習い”にこだわるパラボン侯爵夫人。しかし,アリシアは食い下がった「あのう、施療院というのも,できるんですか」

「そう,国母さまのご遺言でね」とパラボン侯爵夫人の返事は素っ気ない。ここで、セシーネ王女は、アリシアが思ってもいないことを打ち明けた。

「私は,医学を学んだのよ。まだ、診療を任せてはもらえないけど、大概の病気は,診察して言い当てることができるわ」

 そこにパラボン侯爵夫人が意外な言葉を添えた「女性が医学を学ぶのは、決して身分にふさわしくないということはありませんよ。現にこの私も医学を学ぶ必要があると考え始めていることなの」

 アリシアは自分の「医学」を学びたという願いに光明が見えてきた気がした。この光明にすがろうとアリシアは礼儀作法も忘れて「あのう、私も”行儀見習い”になれば、医学を学べるのですか」

 第一王女は、にっこりとした「あなたが,学びたければね。アリシア」

 元女官長は「だから,いったでしょう。あなたの希望を叶えてあげるって」

 そして、そのアリシアの願いの妨げになる母親と祖母を元女官長のパラボン侯爵夫人は国王の威光を散らかせて、反対意見を封じ込めようとした「まあ,侯爵家の娘が施療院に協力を申し出になったとお耳に入れば、陛下もお喜びになると思うわ。ともかく,アリシアには第一王女さま付きの”行儀見習い”として今日から勤めてもらいます。いいですね」

 アマンダもミネビアも第一王女の前でアリシアの”行儀見習い”の話を断ることは,できなかった。まあ,キルマ・パラボン侯爵夫人の作戦勝ちである。そして、念を押すように「とりあえず、アリシアの身の回りのものを王宮に届けさせたちょうだい。まあ,身の回りのものといっても,普段も喪服なのでしょから、そうたくさんの着替えは必要ないでしょうけど、さあ、ミネビアもアマンダも下がっていいわ」

 その言葉にミネビア・サリンジャー侯爵夫人とアマンダ・ブライトン前侯爵夫人は、第一王女の部屋を退出せざる得なかった。第一王女に高位の礼をすると不承不承にアリシアを置いて部屋を退出した。

 そして,入れ替わるように中年の女性と若い少女が入ってきた。二人とも礼装をしていなかった。中年の女性は

「おや、キルマさま、どうなさったのですか。何か謁見でありましたか」

「大したことではありませんよ,第一王女さまに新しい”行儀見習い”を連れてきただけのことですよ」とパラボン侯爵夫人は,さりげなかったが、セシーネ王女が、

「ちょうどいいわ、紹介するわ。メリメ、こちらが新しく私付けとなるアリシアよ。アリシアはブライトン侯爵家の出身よ。アリシア、こちらが、メリメ・パーカー、私の部屋頭よ。それから、こちらが,ナーシャ。ナーシャはルンバートン侯爵家の出身で、お父さまは,陸軍大佐よ」といって、礼装をしている侍女を指差した。第一王女は、続けた。平服の少女を指し示し「そして、こっちが、プルグース子爵家のタチアナ。メリメは,王宮勤めが、長いからいろいろ尋ねるといいわ」

 アリシアを引き合わされたメリメは「しかし、王女さま,こんなに何人も侍女が必要ですかねえ」と幾分,喪服姿のアリシアを批判的な目つきで見た。

「いいのよ、メリメ。アリシアには施療院を手伝ってもらうつもりよ。ナーシャもタチアナも,医学には興味がないけど,アリシアは,多少、薬草のこととか知識はあるらしいから」

「まあ,そうなのですか。だったら,王女さまにはぴったりの侍女ということになりますかね」とメリメは納得したようだった。

「だから,大急ぎで連れてきたのですよ。領地へ戻られたら、呼び戻すのが大変ですからね」と満足そうな元女官長。

「とりあえず,着替えたいのだけれど、キルマももう下がっていいわ。アリシアはここに残ってちょうだい」

「では,失礼致しますわ」とここで初めてキルマ・パラボン侯爵夫人は、第一王女に高位に対する礼をすると,王女の居室を出っていた。

 アリシア・ブライトン侯爵令嬢は、ことに成り行きにぼうっとしていた。他の三人の侍女は,第一王女の着替えを手伝い始めた。アリシアは,何をしていいのかわからず、ただ,立ちすくんでいた。着替えが終わり、多分普段着に着替えた第一王女の服装は,アリシアの普段着ている服と変わらない簡素なものだった。次に,ナーシャが手慣れた手つきで、鏡台の前に座った第一王女の結い上げた髪をほどき始めた。ほどいた髪を櫛で梳かすと今度は,一つ三つ編みに結い出した。その間、第一王女は、化粧を落とし始めた。その第一王女にタチアナが,かがんで靴を履き替えさせる。そして,メリメは第一王女が外した宝冠を箱にしまう。アリシアがでる幕はなかった。

 平素の服装に戻った第一王女は、鏡台の前から振り返ると、ぼーっとただ立っているだけのアリシアににっこりと微笑んだ。その微笑みは,太陽のようにアリシアの心を暖かいものでいっぱいにした。そして,メリメもやはり,笑顔で「ようこそ,王宮へ。アリシア」といった。

「アリシア、断っておくけど,医学の道は平坦ではないわ。これから、どんな難題が待っているかもしれない。覚悟はいい?」と第一王女セシーネは,真剣な面持ちでアリシアに尋ねた。

 アリシアは,思わずつばを飲み込んで、頷いた。

 こうして,アリシア・ブライトン侯爵令嬢の「医学」の道が、開かれようとしていた。その行く手には,アリシアの想像のつかない出来事が待っていた。




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