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癒しの手  作者: 双葉 司
それぞれの道
12/18

若すぎる死

アンドーラの貴族、ブライトン侯爵家は、当主のジークフリードの急死という不幸に遭遇する。後に残された一人娘のアリシアは、父の病死の原因を探ろうとするが…

 アリシア・ブライトンは父のジークフリード・ブライトン侯爵の葬儀の間、父を亡くした悲しみよりも後悔の気持ちに捕われていた。それは、自分に医学の知識があれば、父の病死は防げたのではないかという思いにアリシアは、悲しみの涙というより悔し涙が、目にあふれていた。亡くなった祖母は、薬草の扱いに造詣が深く、医学的な知識も持ち合わせていた。その祖母から、多少の薬草の知識を伝授されていたアリシアだが、自分の医学の知識はまだ、未熟なのはわかっていた。

 しかし、父が、脳卒中の発作を起こした時、アリシアは、なす術もなかったことに歯痒さを感じていた。前兆はあったのだ。

 ジークフリード・ブライトン侯爵は、領地をより豊かにするため灌漑工事と農地の開墾工事を計画し、その工事が始まったばかりだった。領主として勤勉なジークフリードは、領地の将来を託すその工事を人任せにはできないと朝早くから夜遅くまで忙しく飛び回っていた。当然、疲労が蓄積される。それだけではない。慣れぬ工事の采配と工事費用の工面に心労も重なっていた。

 そして、何よりも、侯爵家に仕えていた従医が高齢のため亡くなったことも、不運だった。後任に雇い入れた従医のアーソーナル・マネード博士は、どちらかというと外科が専門で、内科はそれほど得意分野ではなかった。それでも、多忙なジークフリードに、休養をとるように助言はしていた。

 そして、さらに不運が重なったのは、ジークフリードの発作が起きた時、そのマネード博士が、往診で留守をしていたのである。侯爵家の従医ではあるが、マネード博士の仕事の一部に領民たちの治療も含まれていた。

 絶対的な医師不足が、その事情を生んでいた。領民を思うなら、医師を雇ってその治療に従事させるのは、領主として当たり前なことと言えたが、医師法の関係もあって、治療に従事できる医学博士は、各地で引っ張りだこの状態だった。当然、その給金も高騰する。ブライトン侯爵家が、従医に外科医を雇い入れたのは、前任者が、内科が専門であまり外科に長けていなかった事情もある。

 そして、聖徒教会の自然派の台頭の影響もある。ブライトン侯爵家の領地でも、領民たちの間に自然派に宗旨替えをするものが相次いで、内科的な治療は自然派の助祭たちが領民たちに施していた。そのような訳でジークフリードが、外科医を従医に雇い入れたも、必然といえた。それに、工事を計画していたジークフリードは、工事でけが人がでることも予想していた。外科の需要はあったのである。

 マネード博士は、その前身は、陸軍の医官である。推挙した陸軍の医官長によると、外科医であるが、内科への造詣もあるとの触込みだった。その言葉通り、簡単な処方などは行っていた。

 父の死の原因を従医のマネード博士にかぶせるほど、アリシアは尊大ではなかったが、むしろ、自身を責めていた。

 その当時の医学では、予防医学という面では、あまり、研究が進んでいなかったが、アリシアは、祖母の薫陶で、滋養の知識は多少あった。ブライトン候の発作が、日頃の健康状態を脈をとっているマネード博士には予見できなかったことに、アリシアは外科医の限界をみたような気がした。たとえ予見できてもその発作を止めることはできなかったとしても、発作を軽症で済ませ、命を長らえることもできたのではないかとアリシアは、自分の少ない医学知識から、そのような気がしてならなかった。しかし、マネード博士の立場も考え、その思いを口に出すことはなかった。

 ジークフリード・ブライトン侯爵の葬儀は、跡継ぎであるジークフリードの弟であるライネル・ブライトン少佐の到着を待って、しめやかにとり行われた。亡きジークフリードには、息子が生まれず、子供は、娘のアリシアだけだった。そのため、ジークフリードは、弟ライネルの息子のアーノルドを領主館に引き取って、やがて、候爵位を継ぐものとして、養育していた。ジークフリードが、自身の息子を持つことをあきらめたかのかは、定かではないが、当時の常識では30歳を超えた妊娠は、貴族の中ではあまり例をみなかった。

 メレディス女王以前からの爵位を誇っていたブライトン侯爵家は、名門貴族にありがちな傍系の一族が多かった。皮肉なことにジークフリードの従弟たちの家では子だくさんで、男子も何人か生まれていた。その彼らをジークフリードは、やはり領主館に引き取り、やがては武官として王家に出仕すべく、退役軍人の家庭教師を雇い入れ、教育を施していた。なぜ武官かというと、その当時、名門貴族の間では文官は新貴族の牙城で、名門貴族の出身者は出世しないと言われていた。その噂のためかジークフリードの弟であるライネルは、名門侯爵家の次男として武官の道を選び、軍学校と呼ばれる王立陸軍士官学校へと進んだ。兄のジークフリードになかなか世子が生まれず、アーノルドを引き取りたいと兄から持ちかけられた時、ライネル自身は、兄の後を継ぐはめになるとは、まだ考えてもいないことだった。その話がでたときは、ライネル自身は、佐官への昇進がかかっていた。ライネルは、武官での栄達を望んでいた。

 名門貴族でも、前王朝のペルクルス家の国王の下で騎士団長も務めたこともある武門を誇る家でもあったブライトン侯爵家には、騎士団長を拝命をしてた時の先祖伝来の甲冑が領主館に飾られていた。それを着用して戦場に出ることは、もうアンドーラでは許されないが、国王の主催の馬上試合には、その着用が許されていた。ライネルは、尉官時代は軽騎兵ではあったが、重騎兵の必修科目である馬上試合にただ一揃いだけ侯爵家に残っていたその甲冑を装着して何度か出場した。これも、武官としての誇示行動である。アーノルドを引き取る件についても、転勤が多い駐屯地暮らしでは、ろくな教育が受けられないと考えて承諾した話である。

 結婚についても、ジークフリードが、同じ名門貴族のサリンジャー侯爵家から、当主の次女のアマンダが嫁いできたの対し、ライネルは、武官としての立場を優先して相手を選んだ。その相手とは、上官でもあるアーノルド・カウネルズ准将の娘ベネットである。アーノルド・カウネルズ准将自身も伯爵家の出身ではあるが、次男で爵位は兄が継いでいた。アーノルド・カウネルズ准将は、その一人娘のベネットにはカウネルズ伯爵家からは縁談もあったがそれを断り、武官としてのライネルの将来性を見込んで、ライネルに嫁がせた。下世話な話になるが、縁談を断った以上カウネルズ伯爵家からは持参金が望まれず、アーノルド・カウネルズ准将は、自身の収入から何とか工面をしたが、名門貴族の侯爵家には少々少額といえたが、ライネルの両親は、それをあげつらうようなことはなかった。

 息子が生まれた時、ライネルは、ブライトン侯爵家の由来の名前ではなく、岳父の将軍の名前を付けることにためらいはなかった。その時には既に父は亡くなっており、兄のジークフリードが侯爵を継いでいた。


 一方のジークフリードは、侯爵家の世子として、大多数が通る道を歩んでいた。王立大学で入学許可をもらうと陸軍の下士官として兵役につき、兵役義務期間が過ぎると退役し、大学で法律を学び、卒業後は、実家で領主としての心構えや実際的な実務も経験を積んでいた。婚約も早かった。兵役義務の前にその話が出て、大学の卒業と同時にアマンダと結婚をした。結婚の二年後に娘のアリシアが生まれ、順風満帆のように思えた。だが、その後子宝に恵まれず、それが悩みの種でもあった。ブライトン侯爵家としては、直系ではないが男子は多く、そのため血統が途切れる心配はなかった。しかし、傍系とはいえ、一族の子弟の多さはブライトン侯爵家の財政を圧迫した。男子には、軍学校か海軍士官学校の兵学校へ進ませ、貴族としての面子が保てるような職業の道を考えてやらねばならなかった。だから、ライネルの結婚もブライトン侯爵家では、陸軍の将官と縁を結ぶことになり、歓迎された。

 だが、問題は女子だった。身分にふさわしい結婚相手を見つけてやらねばならず、これは一族の長として、あれこれ気のはる役回りだった。無論、それなりの持参金も用意しなくてはならなかった。そのような名門貴族の当主としての心配りが、ジークフリードにもアマンダにも必要であった。

 アリシアの従弟のアーノルドは、領主館にきた当初は、両親から引き離された寂しさで、泣くこともあったが、慣れるに従って、徐々にわんぱくぶりを発揮していた。そして、何よりも家庭教師を始め領主館に勤める使用人たちが一族の少年たちを名前で呼ぶのに対して、アーノルドを「若様」と呼んでいたことで、幼心にアーノルドは自分が領主館にいる他の少年たちとは、立場が違うことに気がついたのである。部屋も他の少年たちが同じ部屋で寝起きするに比べて一人部屋を与えられていた。それは、最初の頃は、領主館暮らしにも慣れず一人で寝るのは寂しかったが、駐屯地にいた頃とは比べ物にならないくらいの厳しい武術訓練に疲れ果てて、寝台に向かうのもやっとという有様で、寂しさは、いつしか消えていた。アーノルドが厳しい武術訓練に耐えていたのも、他の少年たちの目もあったからである。彼らにとってアーノルドは「殿様」の侯爵の甥であり、何よりも、あこがれの将官の孫であることは、貴族の間では重要視される。自然と一線を画した態度で接していた。しかし、アーノルドは領主館に着て一ヶ月も経たないうちに少年たちのいたずらの頭目となっていた。その被害にあったのは、やはり領主館に引き取られていた一族の少女たちで、駐屯地仕込みのいたずらは、徐々に激化していった。そこに「待った」をかけたのが、侯爵の娘のアリシアであった。アリシア自体には被害がなかったが、少女たちの苦情を聞くとアリシアはすぐに行動に出た。父の侯爵に注進をしたのである。

「お父様、アーノルドを甘やかしては、いけないわ。確かに叔父さまたちと引き離されて寂しがっているとはいえ、将来は、侯爵家を継ぐのよ。あれでは、領民たちをいじめる悪殿様になってしまうわ」

 その時、ブライトン候のジークフリードは、領地の灌漑工事と開墾工事の計画で多忙をきわめており、その打合せのため王都に行って留守のこともあった。それに男の子を育てことのない侯爵夫人のアマンダには、手に余ることでもあった。

「アリシア、それは、どういう意味だね」とジークフリードは、書類から目をあげた。そこで、アリシアは、アーノルドのいたずらのあれこれを父に語った。それを聞いたジークフリードは「私たちの時より、大物だなアーノルドは」と笑ったが、やはり、気になったのが、領民たちにいたずらをするようになっては、領主として手をこまねいていられなかった。

「わかった。サイラスにアーノルドのしつけを頼んでおこう。それでいいね」とジークフリードは、家令のサイラスにこの件を任せることにした。そして、再び書類に目を落とした。アリシアは、父の忙しさにそれ以上は、望めないとわかっていた。それに自分自身も国王ジュルジス三世に初謁見をする準備が進められていた。

 貴族の爵位持ちたちに課せられた謁見の義務に名門貴族たちは、最初、うなり声をあげていた。だが、それが定例化すると、徐々に利点もあるのに気がつき始めた。同じ日に宮廷に集まるのは、郵便制度のなかった時代には、好都合だった。互いに情報を交換し、それは、領地同士の物資の交易から縁談も話題にのぼることもあった。

 それに国母のエレーヌ王太后は「行儀見習い」というしきたりを加えていた。貴族の娘を王宮に侍女として仕えさせ、礼儀作法や素養を身につけさせるという一見、無害なしきたりにも思えた。しかし、それは、権力志向の強い国母には、王家に膝を屈しさせるという意味合いもあることにはあった。誇り高いものには、屈辱的なしきたりだったが、王家に生殺余奪の権を握られていた貴族たちにはなす術を持たなかった。

 だが、それも王太后の病死で、途絶えたように思えた。現王妃のヘンリエッタは子爵家の出身で王太子を生んだ訳でもなかったことが、名門貴族たちには、王妃を軽視する理由の一つになっていた。だが、当時、女性の職業が少ない時代に職業としての侍女の需要はあった。そのような訳で爵位持ちの直系の令嬢には「行儀見習い」の話はなかったが、その他の貴族の娘にとって王宮勤めはあこがれの職業のように思えた。

 ブライトン侯爵家でも、侯爵夫人のアマンダは短い間であったが、王宮での「行儀見習い」の経験があった。その経験から、領主館に一族の娘たちを集めて「行儀見習い」をさせていた。その教育には、聖徒教会の修道女であるシスター・ブルガがあたっていた。シスター・ブルガは、ブライトン侯爵家の出身で、その素養の深さは貴族の娘たちを教えるに適材といえた。無論「行儀見習い」の娘たちには国王の謁見も一回はさせるつもりだったし、いい縁組みが決まれば十分な持参金をつけて嫁がすつもりだった。

 もちろん、娘のアリシアの教育も怠らなかった。幼い時は、前侯爵夫人がその発言が重きをなしていたが、その死後は、アマンダが、自らの経験をふまえて侯爵家の姫として恥ずかしくないように十分心を砕いていた。だが、アリシアは、祖母の残した薬草園の世話には熱心に取り組むが、貴族の婦人らしい趣味とその頃流行していた刺繍には、目もくれなかった。だが、アマンダは気がつかなかったが、野外で日常を過ごすことで、アリシアは健康的な身体に育っていた。

 そして、アマンダは迷っていた。アリシアを王宮に「行儀見習い」に出すかそれとも、出さぬままに縁談を探すかどちらがいい縁組みの話が来るのか、夫に相談してみても「君に任せるよ。そういったことは、ブライトン侯爵家では最近、姫が生まれていないからね、わからないよ。そうだ、サリンジャー侯爵家に相談してみては、どうだろう」

「そうですわね、母に聞いてみましょうか、次の謁見の日はいつでしたっけ」

「うん、そうだね、多分、新年の謁見の時でないと会えないかもしれないね。その前に馬上試合があったな。義父上(ちちうえ)は、それには、顔を出されていたろう。馬上試合だったら、他の領主もやってくるだろうし、確実に会えるよ。そう急いで決めることもないだろう」

「そうですわね」とアマンダは、夫が一人娘を手放したくないのだと推察した。

 ブライトン侯爵家が、武門の家なら、サリンジャー侯爵家は、ペルクルウス王朝では、宰相を輩出したこともある文官の名門の家系であった。しかし、時代の流れには逆らえず、現在は慣れぬ武門の道を選んで、一族の者を軍学校や兵学校へ進ませようと苦心していた。アマンダの父のニハエル・サリンジャー侯爵自身は無官だったが、前国王の宰相で初代の国務大臣の前カルチェラ伯が、宰相に任命された時に礼を尽くされてそれ以来カルチェラ伯爵家とは親好があった。現在のカルチェラ伯は無官ではあったが、国政に影響力をおよぼしていた。カルチェラ伯爵家は”新貴族”ではあったが、その出自にはペルクルウス王家の血筋が流れており、気位の高い名門貴族たちも、頭を下げざるえない家であった。

 そして、カルチェラ伯の紹介で、ミゲル・ラシュール伯爵とも知己を得て、彼の推奨する農法が、サリンジャー侯爵家からブライトン侯爵家へ伝わった。ジークフリードは、農業に熱心に取り組んでいた。その延長上に灌漑工事と開墾工事の計画があった。これは、開墾工事で、農地を広げるのは領民たちの願いでもあった。ブライトン侯爵領は、小作人より自作農が多かったが、その農地の相続で多くの子供で分けると各自の収入が減り、貧農になる。それを避けるため、新しい農地が必要だった。無論、侯爵家としては、税収が増えるという、領主と領民の利害が一致した計画であった。

 すべては、順調のはずだった。しかし、ジークフリードの突然の病死は、周囲のものに衝撃を与えた。もちろん、当事者であるブライトン侯爵家の打撃は大きかった。呆然としている妻のアマンダに代わり、侯爵位を継ぐことになる弟のライネルへ使いを出したのは、家令のサイラスだった。その後も、親類縁者へ使いを出し、ブライトン侯爵家の当主の病死を伝えさせた。無論、王都のチェンバース公爵にも使いを出し、チェンバース公爵から国王ジュルジス三世に知らせる手配も、サイラスが行った。


 実は、国王は陸軍の各駐屯地にいる師団長には、貴族のそれも爵位を持っているものたちの動向は、報告をさせていた。そのような訳で、ジークフリード・ブライトン侯爵の突然の病死はその領地の所属する第5軍区の第十三師団の師団長のコーネル・エルガー少将が、伝令を王都に走らせて、チェンバース公爵の知らせより早く、国王の耳に入っていた。

 ジークフリード・ブライトン侯爵の寿命は、その当時の平均年齢よりもかなり若かった。それを思って、国王はため息をついた。しかし、臣下としては特に国政にはあまり影響がないことでもあったが、慣例として第三等の勲章を遺贈することを決定し、式部卿のハルビッキ・サングエム子爵にその葬儀に国王の名代として参列するように指示をした。それは、ブライトン侯爵家の後継者を見定める必要もあった。そして、爵位を持ったものの死に際していつも行っているように陸軍の伝令網で、この知らせを各地に送るようにと命じた。

 この訃報は、ブライトン侯爵家と婚姻で縁を結んでいるものたちの他にも、領地の境界を接している各領地の領主たちにもまた、領地の産物を通じて取引がある商人にも、滞ることもなく届けられた。


 家令のサイラスの使者のもたらした知らせは、ライネルに当然のことながら、衝撃を与えた。ライネルは、自身が侯爵家を継ぐことになるにしても、武官としての定年を迎えてのことだと思っていた。早すぎる兄の死にライネルは「なぜだ」と自問自答していた。だが、急かされるように上官に報告をし帰郷の許可をもらうと、妻のベネットとともにブライトン侯爵家の領地へと向かった。

 ブライトン侯爵家の領主館は、悲しみに包まれていた。武官の道を進み幾分負けず嫌いな性格なライネルと比べると、兄のジークフリードは、名門貴族の当主らしい温厚な人柄で一族の尊敬を集めていた。家令のサイラスは沈痛な面持ちで、ジークフリードの死の経緯を語った。兄嫁のアマンダは、一変に老けた顔をしていたが、姪のアリシアは、気丈に振る舞っていた。そのことがいっそう悲しみをさそった。

 だが、悲しみに暮れてばかりはいられない。当主の二度目の死去を看取るはめになった家令のサイラスは、自分の気持ちは置いて、事務的にことにあたった。ライネルも、葬儀を始めとするそうした様々な手続きの準備に黙々といそしんだ。

 人の死に際しての葬儀を始めとする煩雑とも思える事項は悲嘆にくれる暇を与えてくれず、本当の悲哀は弔問に訪れた人たちが去った後に訪れることが多いが、ライネルはそれさえ許されなかった。

 まず、爵位を継ぐことの許可を国王ジュルジス三世にもらう必要があった。法的には何ら問題がなかったが、国王の名代で葬儀に参列した式部卿のルビッキ・サングエム子爵は、なるべく早い時期にライネルが国王の謁見を果たすように助言をし王都に戻っていった。形式的なものだが爵位を継ぐには、国王から改めて爵位を授かる儀式が必要だった。それは、ジュルジス三世の治世では、爵位を継いで最初の謁見の時に行われることが多かった。これまで、ジュルジス三世がその相続を認めない例はなかったが、やはり、その儀式を早めにすませ、爵位を確実なものにしておくのが、無難な道だった。

 それと同時に未亡人となったアマンダの父であるサリンジャー侯爵と現在は定年で退役をしていたカウネルズ少将が、アーノルドの謁見も早くすませるようにと口を揃えて進言した。予定では、ジークフリードもライネルも幼いアーノルドが、12歳になった時に初謁見をさせるつもりでいた。その前にアリシアの謁見をすませ、嫁がすつもりだった。アリシアの謁見よりアーノルドの謁見を急ぐのは、爵位継承法で、国王の謁見を拝していないものは、爵位を継ぐことができない決まりになっていた。ライネルも侯爵家の息子としてそのことは知っていた「そうですね、それは、急いだ方がいいのは、わかっています」と久しぶりに会う息子をみた。それは、父が使い兄のジークフリードが使っていた書斎でのことで、大人の話の席にに幼いアーノルドを同席させるのにベネットは、反対したが、サイラスは、アーノルドの自覚を促す必要があると主張した。アーノルドは、やさしかった伯父の死に涙をこらえていた。

 そして、侯爵家の顧問弁護士が遺言状を預かっているとサイラスは、ライネルに告げた「殿、これは、一族の方々の前で、発表すべきでございましょう」

「サイラス、殿はやめてくれ」とまだ、兄の死が実感できないライネルにサイラスは無情なように思えた。

「しかし、もうあなたが殿なのです。もう、武官ごっこは、お終いにしていただきたい」とサイラスは、ライネルが考えたくないことを口にした。そして、ライネルをさらに苦境に追い込む事実をサイラスは明かした「殿、侯爵家には、借財がございます。それもかなりな額で、それも、遺言状を開く前にお知らせした方がよいでしょう」

「借財だって。それはどういうことだ」

 そこで、サリンジャー侯爵が「灌漑工事と開墾工事をして農地を増やす計画のためにファンタール銀行から、資金を融資してもらった。その融資は、私が保証人ということになっている。工事を中断するつもりでも、もう資金は、工事の支払で手元にないだろう。ライネル、君には悪いが、陸軍はやめてもらうよ。それが、ファンタール銀行の融資の条件なのだ。法定代理人ではなく、この領地を治めるのは、当主自ら当たらなくてはならないのだ」と説明をした。

「一体、何の話です。僕にはさっぱりわからないですが」とライネルは、自分の心づもりと違ってきた風向きに顔をしかめた。任地から領地に戻る間、ライネルはベネットと自分は陸軍を除隊するつもりがないこと、領地は法定代理人をたてて治めさせるつもりだと話して、法定代理人の人選をどうするかと相談をしていた。

 武官での栄達し、将官になるのはライネルの子供の頃からの夢だった。その夢のため、どれだけ精進したことか、侯爵家の甘い若様と呼ばれないように普段の生活も節制し、武官で昇進をするために酒も控えていた。それを、あきらめることは到底できない話だった。

 しかし、そんなライネルに引導を渡したのは、こともあろうかライネルの陸軍での昇進を願っていたはずのカウネルズ少将だった「ライネル、侯爵家の当主で武官を努めているのは、海軍のパラボン侯爵ぐらいなものだ。彼は、特別だよ。陸では両立は難しいと思うね。やはり、ここは、除隊しかないだろう。まずは、侯爵としての義務を果たすべきだろう。銀行の件もあるが、跡継ぎだったらともかく、侯爵家の当主が陸軍に籍をおくことは、陛下が、お許しにならないと聞いているよ」

「しかし、僕は侯爵家の当主として、どうしていいのか、さっぱり、わからないのですよ」

「それなら、私が少し、助言をさせてもらうよ。まあ、サリンジャー侯爵家とは、家風が違うかもしれないが、その点はサイラスに聞けばいいことだ」

「サリンジャー侯爵のお申し出は、有り難い。それに亡くなった兄に聞いたことがあるが、領地を治めるのは駐屯地を預かるのと似ているらしい。私は、伯爵家の出だが、多少の手助けはできる限りさせてもらうよ。」

 ここで、ライネルは最後の抵抗をした「やはり、法定代理人では無理ですか」

 法定代理人とは、アンドーラでのいわば、代官のようなもので、領主になり代わり領地を治める者のことで、代官が裁判権を持っているのに対し、法定代理人は、裁判権を持っていないことの他は代官とあまり、大差なかったが、その領主との取り決めで権限をどの程度与えられるか、契約で決められることができた。それも、あれこれ細かい規定が領地施政法という国法で定められていた。

 名門貴族が、チェンバース王朝になって苦労したのは、その国法の存在だった。ペルクルウス王朝時代は、爵位を授けられるとほとんどの者が代官を領地に派遣して、税収のみを受け取る習慣になっていた。しかし、特にジュルジス三世の治世になって、領主はなるべく自身で領地を治めるようにという風潮ができつつある。

 最後にサイラスがだめを押した「殿、未練がましいですぞ。第一、私があなたの定年退役まで、生きているとお思いですか。それは、無理なご相談です」

「これで、決まったな。まあ、少佐で定年を迎える奴もいることだしな」とカウネルズ少将が、肩をすくめた。結局、ライネルは、軍服を脱ぐことになった。


 ジークフリード・ブライトン侯爵の突然の死で、侯爵の甥から世子となったアーノルドの謁見の準備が、進められていた。ことの重大さをわかっているのかアーノルドは、神妙だった。謁見の礼儀作法の指導は、葬儀の後もブライトン侯爵家の領主館に残ったサリンジャー侯爵とカウネルズ少将が、ことに当たった。

 国王ジュルジス三世は、謁見を重要視していた。その国王の意向は既に貴族の間では周知の事実となっていた。特に領地継承法で、世子の謁見は、必要不可欠だった。

 そして、その日取りも、その次の月例の謁見の日にと決まった。その時に同時にライネルの爵位の認証式も執り行う希望を式部省に連絡していた。まだ、喪中であるが、その二つの儀式はブライトン侯爵家には欠かせない行事だった。

 ライネルは、ベネットとともに一旦任地に戻り、上官に辞表を提出して後任の者に任務の引継ぎをし、家族寮を引払う段取りをすますと、急ぎブライトン侯爵家に取って返した。そして、サリンジャー侯爵とカウネルズ少将の手を借りながら、ブライトン侯爵家の当主としての義務を果たすべく、まず、領地施政法に目を通した。その国法自体は、陸軍の佐官の昇進研修で学ばされていたが、改めて、領主として気をつけなければならないことなどの助言を受けていた。無論、祖父の代に制定した領内法は、ブライトン侯爵家の一族でもある家令のサイラスが、説明した。幸いなことにブライトン侯爵領では、工事の計画以外、大きな問題点はなかった。

 そして、灌漑工事と開墾工事については、侯爵領が所属する第五軍区を受け持っていた第十三師団の師団長のコーネル・エルガー少将が、計画の進捗状況を報告することになっていた。当時の風潮としてアンドーラの陸軍は、各軍区の土木工事を陸軍が引き受けることが多く、ブライトン侯爵家も、陸軍の第十三師団にその要請をしていた。師団としては大事な収入源である。エルガー少将は、副官を始め、土木工事に詳しいものもその打合せに出席させた。

 夫のライネルも忙しかったが、侯爵夫人となった妻のベネットも忙しかった。兄嫁のアマンダから名門貴族であるブライトン侯爵家の当主夫人としての何をすべきで何をしないかということを学んでいた。それは、武官の妻としての暮らしと大きく違っていた。ベネットは、結婚前は父親の赴任地でほとんど両親と暮らし結婚後も夫のライネルと共に駐屯地の家族寮で生活をしていて、領主館で暮らしたことはほとんどなかった。使用人も近所から通ってくる洗濯女ぐらいで、家事は自身の手でほとんど行っていた。年一度あるライネルの休暇も、夫の実家へは立ち寄らず、カウネルズ少将を訪ねることが多かった。今までと勝手が違うことにベネットも、兄嫁の手助けが必要だった。

 そんな訳で、前侯爵の娘のアリシアの行動を誰もが、気にとめていなかった。領主館の使用人たちも、新しい主人夫婦に気を取られ、侯爵家の姫として何ら問題を起こすこともなかったアリシアの心のうちをのぞくものは誰もいなかった。

 アリシアは、医学への関心が、どうしても消えなかった。特に父の死を招いた病気の原因を探ろうとしていた。それには、医学知識のあるものに尋ねなくてはならないことぐらいは、アリシアはわかっていた。だが、侯爵家の従医のアーソナル・マネード博士は、専門は、外科である。内科に詳しい人間を探さなくてはならなかった。それをアリシアは聖徒教会の自然派の助祭に求めたのである。

 ブライトン侯爵家は聖徒教会の信徒であったが、自然派から「祭壇派」と揶揄される正統派から司教が、領主館の近くの教会に派遣されていた。ジークフリードの葬儀もその司教が祭司を執り行った。

 自然派の教会は、領主館から離れた村の外れにあった。建物自体は、古くからある聖徒教会の礼拝堂と助祭の住まいがありそこで、簡単な治療が行われているはずであった。

 そこまで、アリシアは一人で歩いていった。村はずれの教会は領主館のそばの教会より建物は小さかった。そのことは、アリシアの緊張感を少し緩めた。建物が大きければ、威圧感で圧倒されたろう。アリシアは、まず礼拝堂をのぞいてみた。そこで、父の慰霊の祈りを創造主に捧げたかった。しかし、礼拝堂には、先客がいた。それは、見るから貧しい農民で礼拝堂の正統派のそれよりも簡素な祭壇の前でひざまずき、祈りを捧げていた。それが終わると農民は、脇に置いていた籠に入っていた野菜を取り出し、祭壇の前にある台のの上にのせるとももう一度、辞儀をして礼拝堂から出て行った。

 アリシアも、祭壇の前に進みひざまずいた。手を組み頭をたれた。祈祷のやり方は、自然派も正統派と大差なだろうと思った。それがすむとアリシアは、祭壇の前の台の上に、用意していた金貨をのせようとした時、暗がりから「自然派は、金貨を受け取らないのです」という声がした。アリシアは驚いて、金貨を床に落とした。声の方に振り向くとそこに質素な修道士服姿の修道士がたっていた。

 修道士は暗がりから、祭壇の前で立ちすくんでいるアリシアのそばに歩んできて、床に落とした金貨を拾い、アリシアに手渡し、もう一度「自然派は、お金を受け取りません。どうやら、自然派の信徒の方ではないようですね」

 ここで、アリシアは答えに窮した。だが、修道士は

「何か、お困りなことがおありなのですか」と低い声で尋ねた。

「ブラザー、こちらで、医学に一番詳しいのはどなたでしょうか」とアリシアはここへ来る途中、考えに考えた言葉を口にした。

「どなたか、ご病気なのですか」

「いえ、そうではありません。私は病気の原因が知りたいのです。脳卒中は、どうして起きるのでしょう」

「困りましたね。そういったご質問にお答えできるものがおるか、この私でもわかりません。ここでは病気の原因を探るのではなく、治療を致します」

「でも、病気の原因がわからなくて、どうやって治療をするのですか」

「それは、どの病気かと診察をして診断を致します。病名がわかれば、その治療法も自ずとわかるのです。しかし、脳卒中は血の病気といわれていますが、どなたか、その発作を起こされましたか」

「父が、それが原因で亡くなりました」

 喪服姿のアリシアに修道士は、はたと気がついた。普通、大多数の農民たちは、喪服を持っていない。喪に服す時は、喪章を腕に巻くぐらいが関の山だった。喪服を持っているのは、裕福な一部のものだけだった。

「これは、失礼致しました。ブライトン侯爵家の方ですか」

「はい、アリシア・ブライトンと申します」

「これはこれは、確かブライトン侯爵家のご息女アリシア姫ではありませんか。姫様には侯爵閣下のお悔やみを申し上げますよ。しかし、このようなところにおいでとは、お供の方はいかがなされましたか」と尋ねられたが、治安のいいアンドーラでも、身分のある女性は、一人歩きをしない風習がある。

「ここへは一人で参りました」

「お一人で、馬車にも乗らずに」と修道士は眉をひそめ「しかしも、領主館からこの教会までは、かなりの距離がありますよ」

「でも、私は、亡くなった父が、なぜ、脳卒中を起こしたのかが、知りたいのです」とアリシアは粘った。

「それは、お気持ちは、わかりますが、王立大学の医学部の教授でもわからないことでしょう。アンドーラのどんな名医もその脳卒中の発作を止めることはできなかったでしょう」

「父が不摂生をしていたと」

「いえ、そういった意味ではありません。私は、ブライトン侯爵の脈をとったことがありませんので、なんともお答えのしようがない」

「脈をとっていれば、発作を起こしそうだとわかったかもしれないのですか」とアリシアは食い下がった。

「そこまでは、どうでしょう。たとえ、わかっていても、発作を止めることはできなかったでしょう」

 この答えは、アリシアをがっかりさせた。ここで、慌ただしく礼拝堂に少年が駆け込んできた。

「司祭様。大変だ。また、父ちゃんが倒れたよ」

 少年の言葉にアリシアは、自分が勘違いをしていることに気がついた。修道士と思った人物は、この教会の司祭であったと。粗末な修道士服で見間違えたのだった。アリシアは自分の顔が赤くなるのが感じられた。

 司祭は「どこで倒れた」と少年に聞いた。その少年は、アリシアの見たところ裕福とはいえそうもない粗末な服を着ていた。司祭は「さあ、姫様、お帰り下さい。ここは、あなたのような身分の方が来るところではありません」

「自然派は、貴族を拒むのですか」

「いえ、ブライトン侯爵家は、祭壇派を擁護しているのでは、なかったのですか。お立場をお考え下さい。では、病人が出たので、失礼しますよ」と司祭は、呼びにきた少年と礼拝堂を出って行った。一人残されたアリシアも礼拝堂を出て、今度は来る途中に見た教会の裏手にあった薬草園をのぞくことにした。

 アリシアの疑問は、まだ解決せず、漠然と司祭の帰りを待つことになった。アリシアは、父の死なせたような罪悪感に苛まれていた。もし自分に医学の知識があれば、父は死なずにすんだのではないかという後悔が、アリシアを医学の道へと導くことになるとは、その時のアリシアは、予想していなかった。

 教会の薬草園は、アリシアの心を和ませた。領主館にも薬草園はあったが、祖母の死後、薬草の世話はアリシアの手をわずらわせることはなかった。侯爵家の従医マーネド博士は、薬草園の管理は、園丁に任せきりで、口を挟むことはなかった。そのことにアリシアは特に不満があった訳ではないが、もし、自分にしっかりした医学の知識があれば、父は死なずにすんだのではなかったかという思いは消えなかった。そして、今、病気で倒れたという少年の父親も、自分に医学の知識があれば、何か手助けができたのにと思った。この思いが、アリシアの今後の行動の原動力になるのとはその時のアリシアは考えもしなかった。

 司祭はなかなか戻って来なかった。それでもアリシアは、辛抱強く待っていた。ようやく司祭が戻ってきたのは、夏の太陽が傾き始めた頃だった。

「まだ、いらしたのですか」と司祭は、アリシアが待っていたことを驚いていた。

「病人は、いかがでしたか」と尋ねると司祭は渋い顔をした

「ここにある薬草だけでは、気休め程度の治療しかできません。そうだ、姫様にお願いがあります。領主館で育ている薬草で、いくつか分けていただきたいものがあります。新しいブライトン侯爵にお願いできますか」

 司祭の頼みにアリシアは困ったことになったと思った。この自然派の教会には誰にも告げずに一人でやってきた。司祭の頼みを叔父のライネルに告げればどこへ行っていたか話さなければならない。ライネルはアリシアのこの行動は、いい顔をしないだろうと思った。

 そこで、アリシアはある考えが頭に浮かんだ。

「司祭さま、薬草をお分けするかわりに私に薬草の使い方などを教えていただけますか」

「それは、どういう意味ですか」

「私は治療法を医学を学びたいのです」

 司祭は、驚いたような顔をした。それもそうである。当時のアンドーラで侯爵令嬢が、医学を学ぶというのは、異例中の異例であった。

「それは、侯爵家の姫にふさわしい学問といえるでしょうか。それに残念ですが、自然派の司祭が治療法を教えるのは自然派の信徒で創造主に誓いを立てたものだけなのです」

「私には、教えられていただけないということですか」

「申し訳ございません。それが規則なのです」

「わかりました。今日はこれで失礼します」とアリシアはがっかりした気分で、司祭に別れを告げた。意気込んできた行きと違い帰り道は、失望の思いが多かった。


 一方、領主館では、アリシアの不在に気がついた母親のアマンダが大騒ぎをしていた。夫をなくしたばかりのアマンダにとってアリシアの存在は大きかった。しかし、新たに侯爵夫人となったベネットと様々な打合せに忙しくアリシアが外出したことに気がつかなかった。領主館の中にアリシアがいないとアマンダは、ライネルに訴えた。ライネルはアリシアを探すようにと領主館の侍女や使用人たちを近所に送り出した。彼らは、心当たりの場所を当たってみたが、どこにもアリシアの姿はなく、この報告にアマンダは動揺してすすり泣き始めた。夫の死後、アマンダは、今までのおっとりしていた気質は消え失せ、何事にも神経を尖らせるようになっていた。

 すでに辺りは日は沈み、暗くなり始めていた。ライネルが、駐屯地に使いを出して、陸軍に捜索を頼もうかと家令のサイラスと話し合い始めた頃、ようやく、アリシアが帰ってきた。

 アリシアは、今回の無断外出について、叱責も覚悟していた。だが、母のアマンダを始め、領主館の人々の表情は叱ることより、安堵の色が濃かった。しかし、行き先については、いろいろ尋ねられ、アリシアは、正直に答えることをためらった。自身への叱責は仕方のないことだが、あの自然派の司祭に迷惑がかかるのではないかと心配した。しかし、結局はアマンダの涙に負けて白状させられた。

「自然派の教会ですって。何のために」とアマンダは甲高い声をあげた。

「いろいろ、尋ねたいことがあったからよ」とアリシアは、興奮している母ではなくて、叔父に答えた。

「尋ねたいことってなんだだね」

「いろいろとお父様のこととか」とアリシアは言葉を濁らせた。医学的な興味については明言を避けた。

「まあ、自然派も死者に対しては、変わらないと思うね。だが、アリシア、君にはこれから、侍女を一人つけさせてもらうよ。それと当分は外出禁止だ」とライネルは無断外出の再犯防止策に打って出た。そして、アリシアは、司祭に頼まれた件をおずおずと持ち出してみた。

「あの、叔父さま、司祭さまが、領主館で育ている薬草を分けて欲しいですって」

「あの自然派の教会にいるのは、司祭なのか。そうか、わかった、その件は、サイラスと相談してから決めよう。ともかく、自然派に近づくのは今はやめなさい。いいね、アリシア」

 その時から、アリシアは籠の鳥になった。外出は禁止されていたので、行動範囲は領主館の建物の中と庭ぐらいなものだったが、必ず侍女が一人、ぴったりとついてきた。そして、領主館の人々もライネルの侯爵の認証式とアーノルドの初謁見の準備で余念がなかったが、アリシアへの監視の目も少しも緩まなることもなく、引き継いでいった。行動を監視されることにアリシア自身は特に不便を感じることはなかったが、医学への興味は、失われていなかった。アリシアは、祖母の死後、園丁任せであった薬草園の世話をし始めた。この行為にはアマンダはいい顔をしなかったが、ライネルは、特にとがめだてすようなことはなかった。

 そして、アリシアの初謁見は喪が明けるまで延期されるはずだったが、アリシアは、叔父の認証式に出たいと当主となったライネルを説得し始めた。王家の宮殿で執り行われる認証式には、国王への謁見をすませたものだけが出席できる。つまり、同じ日に、アーノルドの初謁見とライネルの認証式そしてアリシアの初謁見が、重なることになる。しかし、これには予想通り母のアマンダが猛反対をした。

「アリシア、初謁見は喪が明けてからにしましょう。喪服での初謁見なんて聞いたことがないわ」

「あら、アーノルドだって、喪服でしょう。お母様」

「男の子と女の子では、違いますよ。あなたには、きちんとした衣装で、謁見にいってほしいの」と、アマンダは、夫の生前に計画していたアリシアの初謁見には、侯爵家の面目をかけた豪華な衣装を用意する予定だった。これは、ブライトン侯爵家だけではなく、どこの貴族も当主の娘の初謁見には手の込んだ衣装を着せる傾向になっていた。それは、貴族界への娘の存在を知らしめる絶好の機会だった。その初謁見の宮殿の控えの間で、領主たちは娘の縁談先を探すことも多々あった。そして、初謁見を祝い事の一つに数えるようになっていた。

「喪服だって、立派な衣装よ。私は、どうしても、叔父さまの認証式に出席したいの。認証式は、喪が明けるのを待つなんてできないでしょう。いいわ、叔父さまがなんとおっしゃるか聞いてみるわ」

 兄ジークフリードの跡を継いで当主となったライネルは、多忙を極めていた。それは、領主として、兄の遺産というべき灌漑工事と開墾工事の打合せに大部分の時間を割いていた。アリシアの認証式に出席したいというアリシアの希望は、ライネルにはもっとものように思えた。そして、また喪服以外の衣装を用意したいというを兄嫁のアマンダの意見も捨てがたいものもあった。

「アリシア、衣装が喪服になるけど、いいのかね」とライネルは、再度、アリシアに確認した。

「ええ、それでかまわないわ。叔父さま。それに、今のブライトン家には、豪華な衣装なんて、贅沢だわ」とアリシアは、ブライトン侯爵家の財政事情を加味して答えた。

「アリシア、衣装代のことは、気にしなくてもいい」

「それに喪が明けたとしても、豪華な衣装なんて着る気にはなれないわ」

「わかった。アリシアが、それでいいのなら、初謁見をしよう」

「ありがとう、叔父さま」という訳で、アリシアの喪服での初謁見が決まった。

 エレーヌ王太后の生前には、行儀見習いという習慣があって、領主の娘たちは王太后の監視のもと、王家の侍女として王家の女性たちに仕えさせるという領主たちにはいささか屈辱的な風習があったが、王太后の死後は、その風習も領主たちは、無視するものが多かった。それでも、はじめての謁見のときは男子も女子も式部省の指導を依頼する風習だけはすたれていなかった。

 ライネルは、家令のサイラスに式部卿のハルビッキ・サングエム子爵にアリシアの初謁見の連絡をするように命じた。自身の認証式とアーノルドの初謁見はすでに知らせてあった。ライネルは、知らなかったが、女性の初謁見の指導は、今は、式部卿夫人のオルガが、熱心に謁見の間での行儀作法を教えていた。本来ならば、王家に仕える女官がするべき役目であったが、その時点で、女官と呼ぶにふさわしいものはいなかった。メレディス王女の女官長という職も侍女頭というのが適切であったであろう。

 アリシアが、熱心にライネルの認証式の出席を望んだのは、認証式自体を見たいと思ったこともあるが、王都に行きたいと考えたことも理由の一つでもあった。王都に行けば、アリシアの疑問に答えてくれる人間が見つかるのではないかと漠然とした思いがあった。アリシアはまだ、父の死に納得していなかった。だが、その思いは、胸にしまわれたままであった。

 ライネルは、武官出身者らしく、一旦決断を下すと行動が速かった。アリシアの初謁見が決まると、式部卿への連絡に出した使いが戻らないうちに兄嫁のアマンダと当人のアリシアを王都チェンバーへと送り出した。そして、護衛には、第5軍区の第十三師団から、重騎兵を含めた騎兵の一個小隊をつけてもらうという念の入った手配をしてみせた。自身は、工事の打合せを通じて顔なじみとなった、第5軍区の師団長エルガー少将とともに王都に向かうつもりだった。やはり、初謁見のアーノルドは、名付け親で外祖父でもあるカウネルズ少将とともにすでに王都に向かっていた。

 アリシアにとって王都は、年一度、母方の祖父母のサリンジャー侯爵夫妻に会うために訪れるだけで、慣れ親しんだ領地とは勝手が違う土地だった。それも、今回は、母親のアマンダと侍女たちだけというのは初めての経験だった。今までは、王都までは、第5軍区の師団長エルガー少将も同行して、軍区を同じくする領主たちも一緒という大人数の旅だったが、少人数でしかも護衛がつくのも初めてのことだった。

 ブライトン侯爵家の王都までの宿泊は、例年なら、途中の街道が通っている領地の領主館に泊まるのが、習慣になっていたが、アマンダは領主館には立ち寄らず、街道に面した旅館に泊まった。これも、アリシアには初めての経験だった。護衛の小隊は、持参の天幕に宿泊したが、アマンダとアリシアの泊まる部屋の前に歩哨を立たせることを小隊長は怠らなかった。この丁重な小隊長の気配りにはライネルの依頼もあったが、エルガー少将の命でもあった。軍区を預かる立場から、各領主たちと親好を結ぶのも師団長の役目でもあった。

 王都に到着すると、アマンダは、まず、チェンバース公爵の邸宅へと向かった。メレディス女王の次男ヘンダース王子の息子であるレオナルド・チェンバース公爵は、国王ジュルジス三世が貴族に冷淡なのに比べ、貴族たち特に名門貴族たちの味方といってよかった。

 アマンダは、侯爵家の当主の妻として、初謁見などの行事などには、ある程度の根回しが必要なのは心得ていた。それにアリシアの初謁見については、すでに夫の生前に式部省に相談してあったので、式部卿夫人であるオルガ・サングエム子爵夫人が初謁見の礼儀作法の指導には当たることも、知っていた。チェンバース公爵の邸宅に到着すると、護衛についてきた小隊の小隊長に、式部省に伝言を頼んだ。エルガー少将は、ブライトン侯爵家になじみのある小隊長を人選していた。

 連絡を受けたオルガ・サングエム子爵夫人は、すぐに滞在先のチェンバース公爵の邸宅にやってきた。オルガは、まず、未亡人となったアマンダに弔意を述べると、改めてアリシアに引き合わせられると

「顔立ちは、お父様にかしら」と礼儀にかなった辞儀をした挨拶をしたアリシアを観察した。本来ならば、子爵夫人と侯爵令嬢とはどちらが、身分が高いか論議を呼ぶところであったが、閣僚の大臣夫人であるオルガにアリシアは、敬意を称した挨拶(両手でスカートを少し持ち上げ、右膝を引いて、腰を落とす)をしたことにオルガは満足であった。それに、その動作は、謁見の際に重要な動作であった。

「お辞儀は、まずまず合格だわ。後は、歩き方ね」とオルガは早速、仕事に取りかかった。初謁見を迎える娘たちに礼儀作法を指導する役目は、以前は、女官長のキルマ・パラボン侯爵夫人が引き受けていた。女官長を退いて救貧院の院長についてからは、王妃ヘンリエッタの頼みで、オルガが、担当することになった。無論、最終的には、キルマの後継の女官長に就任したメレディス王女が、娘たちの出来を確認する。メレディス王女の点検事項は、礼儀作法だけでなく当日着る衣装から、髪型・化粧法までこと細かく及んでいた。メレディス王女が、許可を出さないと初謁見は、延期ということになる。そのいい例が、エランダ・コンラッド侯爵令嬢だった。彼女は、まだ、謁見をすましていなかった。メレディス王女は、エランダが、王太子の部屋に押し掛けた一件を忘れていなかった。また、オルガも強いてエランダの初謁見の許可をメレディスに求めようとも思わなかった。

 アリシアの礼儀作法は、前もってアマンダが仕込んでいたおかげで、オルガ・サングエム子爵夫人は、特に注意点を指摘しなかった。

「まあ,だいたいはそれで大丈夫だと思うわ。後は,実際に謁見の間で,お辞儀をする位置を確認すれば、いいわ。無論,女官長のメレディス王女さまが,最終確認をしてお許しが出れば、初謁見ができるという訳。それは,あさって、宮殿の正面玄関で,待ち合わせましょう。他にも、初謁見を控えている子たちがいるから紹介をするわ。そういえば,カウネルズ伯爵家とは、縁戚でなかったかしら」

「叔母は、カウネルズ伯爵家の出身ですが」とアリシアが答えると

「そう,よかったわ。カウネルズ伯爵令嬢のシルビナが、今回、初謁見なのよ。シルビナとは、顔なじみかしら」

「いえ、あまり、カウネルズ伯爵家とは,お付き合いがないんです」

「そう」とだけ,オルガはいった。そして,別れの挨拶をすると慌ただしく帰っていった。


 カウネルズ伯爵家は、アーノルド・カウネルズ少将の兄である先代の死後を息子のステファンが継いでいた。ステファン・カウネルズ伯爵は、いささか軽薄な失言をする、身分に不釣り合いな傾向があった。自身で自覚をしていれば、多少、気をつけるのだが、その自覚が、やや乏しかった。

 そのステファンの長女がシルビナだった。シルビナは、式部卿夫人のオルガにとって、頭の痛い存在だった。シルビナは、自身の容姿に絶対的な自信を持っていた。その容姿を引き立たせるため、顔の表情や所作にも念入りに気を配っていた。その気の配り方に、女官長のメレディス王女が、いい顔をしないことは目に見えていた。その目をパチパチしたり、腰をくねらすような歩き方は、オルガ自身もあまり感心しないと思っていた。普段、シルビナがどんな立ち振る舞いをしようとオルガには関係がなかったが、謁見の時だけきちんと礼儀作法を守ってくれればよかった。しかし、何度注意をしても、シルビナの妙な癖はなかなか直らなかった。まあ、シルビナ本人が直そうとする気がなかったこともある。

 シルビナは、オルガの指摘を内心余計なお世話だと思っていた。シルビナは直感的に女性の特有の魅力に気がついていた。その魅力を増すためどれだけ鏡の前で稽古をしたことだろう。その努力の成果を国王の宮殿で披露しなくて何の意味があろうかとシルビナは思っていた。

 それは、シルビナの大いなる勘違いといってもよかった。伯爵家に立ち寄る駐屯地の若い士官を相手に存分にその魅力を発揮してどぎまぎさせるのは、伯爵令嬢のやるべき行為ではなかった。オルガはよほど、それは娼婦の仕草だといってやりたかったが、娼婦という言葉を口にすることは未婚のシルビナの前ではためらわれた。そして、その言葉は、別な意味でシルビナの出生の秘密を暗示していた。

 始末が悪いことにシルビナの勘違いは、もう一つあった。貴族の結婚は、本人の容貌よりも家柄や人柄を重視して決定されることが多い。そして身分が高ければ高いほど特に家柄を重視する。シルビナは自分の伯爵家の当主の娘であることと、何よりも自分の容貌が良縁が呼ぶのではと期待していた。その容貌を貴族たちに見せつけるのが、初謁見の場所だと考えていた。しかし、オルガのいうように振る舞ったら、自分の魅力は半減すると思っていた。


 結局、式部卿夫人のオルガはこのシルビナの件を女官長のメレディス王女に相談することにした。案の定メレディスは眉をひそませた。

「口を酸っぱくなるほど、いっても聞いてくれないのよ。多分は、理由は自分が伯爵令嬢で、私が子爵の妻でしかないことにあると思うの」

「わかったわ、私から、いってみるわ。それにオルガ、あなたの身分のことだけど、陛下に申し上げて、礼儀作法の指導役の正式な女官ということにしていただくつもりよ。無論お役名は陛下に考えていただいて、それで、異存はないかしら」

「まあ、女官ということなの」

「そうよ、お役料も出していただくつもり」

「そこまで、していただかなくても」

「いえ、ただ働きなんて、これまで、あなたの好意に甘えすぎていたわ。まあ、問題は、あのケチな大蔵卿がなんというかだけど」といってメレディスは笑った。オルガは、思わずほっと安堵の息をついた。

 今では初謁見を控えた貴族たちは、本番を前に実際に宮殿の謁見の間で、予行演習をすることができた。これは式部卿のハルビッキ・サングエム子爵の提案で始まった風習で、その時は女官長のメレディスも立ち会い、貴族の娘たちの謁見に必要な動作から、当日の衣装・化粧法まで細かく点検をした。これも女官長の仕事と考えていた。

 以前は、母親の今は亡き王太后と女官長の前任者のキルマ・パラボン侯爵夫人が、指導をしていた。その当時は、貴族の女性の初謁見は、行儀見習いを経てからという傾向があったが、その傾向もやや廃れ始めていた。これは、子爵家出身の現王妃のヘンリエッタを貴族たちが、軽く見ている証拠だとメレディスは推測していた。王家の威光を示すためのも、謁見をする貴族の娘たちの行儀見習いは是非復活したい風習だし、そして、貴族たちが国王の臣下であるなら、貴族の女性たちも国王の臣下つまりは女官長の管下に置くべき存在であるとメレディス王女は考えていた。

 シルビナ・カウネルズが自分の意見を聞く耳を持たなかったら、初謁見は延期し、行儀見習いとしてしばらく王宮の自分の監視下に置けばいいのだとメレディスは見通しを立てていた。そういう意味ではメレディスは母エレーヌの娘であった。生前は随分反発もしたが、亡くなってみるとその思考や行動に賛同できる事も多少ならずともメレディスにはあった。


 一方、そんな事情も知らないブライトン侯爵家の先代未亡人アマンダと娘のアリシアは、式部卿夫人のオルガ・サングエム子爵夫人が話題にしたカウネルズ伯爵家との今後のつきあい方を相談していた。アマンダは、領地育ちで身分のある同じ年頃の友人に恵まれなかった娘にシルビナが友人となってくれればと漠然と考えていたが、肝心のアリシアは、頭の中は、ある計画でいっぱいだったから、まだ見ぬ又従姉妹に感心を寄せる事などなかった。それでも、候爵位を継いだ叔父の立場を考え、カウネルズ伯爵家と親密とまではいわないが、礼を失しないような付き合いをすべきなのはわかっていた。

 アマンダもアリシアも、問題なのはブライトン侯爵家が名門貴族と呼ばれるメレディス女王以前の爵位なのに対してカウネルズ伯爵家はメレディス女王以降に爵位を戴いた”新貴族”の家柄だという事である事は認識していた。それに侯爵と伯爵の身分差もあった。貴族は序列を気にかけるから、侯爵家は侯爵家同士、伯爵家は伯爵家同士で親好を暖める傾向があった。アマンダ自身も侯爵家の出身であった。そんな訳で、ステファン・カウネルズ伯爵の失言癖についての噂をアマンダは、耳にした事もなかったし、その娘のシルビナが身分にふさわしくない立ち振る舞いをする事など思いもかけない事であった。

 母とカウネルズ伯爵家の事を話し会いが終わると、アリシアは、王都にやってきた主目的を果たすため早速行動に出た。アリシアの目的は初謁見でもなければ叔父の認証式でもなかった。それは「医学」だった。アリシアが、その目的のために使える時間は限られていた。母の許可を得て、アリシアは王都チェンバーにある聖徒教会の総本山、チェンバー大聖堂に向かった。無論、母に告げたそこを尋ねる理由は、亡き父のための祈りを捧げるためだったし、お供の侍女も同行していた。アマンダは侍女だけではなく、護衛についてきた第十三師団の小隊長に同行を頼んだ。


 チェンバー大聖堂は、チェンバー家が、王位に就く以前の公爵家時代にその財力を元に建立された。ブライトン侯爵領にある聖徒教会に比べると、その壮大さは、チェンバー家の勢力を如実に現していた。チェンバー大聖堂には、アンドーラの聖徒教会の最高位の総大司教は祭壇派であったが、自然派の最高位もそこにいるはずだとアリシアは検討をつけていた。その人物なら、侯爵領の自然派の司祭に自分に医学の手ほどきをする許可がだせるのではないかとアリシアは考えていた。アリシアの思いは、父の病死の原因究明より、いつしか医学への道を進みたいという願いに変わっていた。その願いを口に出した事はなかった。だから、アリシアにとって、チェンバー大聖堂へ母親のアマンダが娘と行動を共にしなかったのは、司教か司祭かわからなかったが、自然派の最高位に会う絶好の機会であった。

 チェンバー大聖堂の荘厳さは、アリシアの意志が挫けそうになるほどだったが、入口のアーチをくぐると、なおさら、その威圧感に自分がちっぽけな存在に思えた。だが、礼拝堂の祭壇の前に進み、かしずくと自然とやさしかった亡き父ジークフリードの面影が浮かび、アリシアは自然と涙が流れてきた。そして、改めて父の病死を防げなかった無念さがこみ上げてきた。

 父の冥福を祈る祈りを創造主に捧げ終えると、アリシアは涙を拭き、チェンバー大聖堂にいるはずの聖職者の姿を探した。聖職者はすぐ服装でわかった。その中の一人、あまり地位の高そうに見えない僧侶にアリシアは、どこに行けば自然派の司祭に会えるのかと尋ねた。その僧侶は「用件は何だね」と喪服姿で年若いアリシアに横柄な態度で示した。そこで、自分でも思いがけない事にアリシアは嘘をついた。

「私は、ブライトン侯爵からの伝言を伝えにきたのです。教会にとって大事な用件ですので、なるべく自然派で、一番地位の高い方にお目にかかる必要があるのです」

 侯爵という身分とアリシアの毅然とした表情に途端にその僧侶の横柄な態度は消え失せ「わかりました。今、ご都合をお聞きして参りますから」と言って礼拝堂の奥へと立ち去った。

 お供の年若い侍女が「姫さま、殿様から、何をたのまれたのですか」と怪訝そうに尋ねた。そしてまた、アリシアは嘘をついた「叔父さまに頼まれた事があるのよ。あなたは、余計な口出しはしないでちょうだい」

 アリシアはこの聖なる場所で嘘をついて創造主の怒りを被るかもしれないとふと思ったが、しかし、自分の考えている事が他人を傷つける事でもないと思い直して、これから会うであろう人物への説得の言葉を胸で反芻した。


 自然派の最高位は、驚いた事に大司教の地位にいた。彼には、侯爵領にいる自然派の司祭から医学を学びたいというアリシアの願いは聞き届いてはもらえなかった。その許可の条件は、ブライトン侯爵家の自然派への宗旨替えとアリシアの創造主に対する修道誓願であった。聖徒教会の大司教ともなれば、政略的な手段も必要であった。

 しかし、母はもちろん、叔父のラオネルにも無断で会いにきたアリシアには、その条件は無理な相談だった。しかし、大司教は「私たちが病気やけがの治療法を学ぶのは、万人に奉仕するためなのです。人の役に立ちたいと言うお考えなら、侯爵家の姫らしい他の方法もございましょう。たとえば、救貧院を創設するとか。ブライトン侯爵領には、救貧院はございますか」

 その言葉は、アリシアに大きなヒントになった。王都に救貧院があるのをアリシアは知っていた。そして、救貧院の院長に元女官長のキルマ・パラボン侯爵夫人が、着任している事も、母とサリンジャー侯爵家の祖母ミネビアとのうわさ話で知っていた。アリシア自身はキルマ・パラボン侯爵夫人と直接の面識がなかったが、うろ覚えではあったが、祖母のミネビアとは、親交がある事も聞いた事があった。アリシアは宿泊先のチェンバース公爵家の邸宅に戻ると、早速、次の手に打つことにした。アリシアは、パラボン侯爵夫人へ届ける手紙を書き始めた。貴族社会では、縁故が重要視される。アリシアは、パラボン侯爵夫人との細い糸をたぐって、自分の道を開こうとしていた。医学への興味は、いつの間にか医学への道を進むことをアリシアに決意させていた。

 アマンダは、まだ、アリシアの決意に気がついていなかった。それは、自身の身の振り方をチェンバース公爵夫人のフェリシアに相談していたからである。侯爵の地位を継いだのが自分の息子ならば、当然のこととしてブライトン侯爵家に残るだろう。だが、侯爵を継いだのが義理の弟となると、アマンダの身の上は、微妙な立場になる。実家のサリンジャー侯爵家に戻ることも考慮していた。だが、娘のアリシアの将来を考えるとどちらがいいのかアマンダにはなかなか決断が下せないでいた。

 そのようにジークフリード・ブライトン侯爵の若すぎる死は、ブライトン侯爵家の人々の運命を変えようとしていた。



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