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癒しの手  作者: 双葉 司
それぞれの道
11/18

竜の国の大使

アンドーラから、西に遠く離れたタジールの国主ラジ・リニの跡継ぎリニは古いしきたりを破って、アンドーラの言葉でアンドーラ流の生活を離宮で暮らしていた。アンドーラの国情や風習に詳しく聞くために、アンドーラのバンデーグ大使を離宮に呼びつけていた。

タジールの伝統を守るものたちが、そんなリニを面白くないと感じているのを察したリニは、バンデーグ大使のラジ・リニとの拝謁を押し進める。


 アンドーラから西に遠く離れたでタジールの麗しい竜都ペンガットで、アンドーラのタジール駐在大使バンデーグ子爵は、ようやく、タジールの国主「ラジ・リニ」に拝謁を許されることになった。タジールはバンデーグ大使の祖国アンドーラと言葉も違えば衣装・風習も違っていた。バンデーグ大使はラジ・リニの拝謁もラジ・リニの世継ぎ「リニ」のアンドーラへの興味が関係しているのを察していた。最近になって知己を得たリニはアンドーラへ興味を隠すことなく、バンデーグ大使に打ち明けていた。

 それにしても、リニのやる事は徹底していた。住まいである離宮をアンドーラ式の家具を備えさせ、礼儀作法もアンドーラ風に改め、無論話す言葉も側近たちにアンドーラの言葉で話すように決め、タジール語を使うと鞭打ちの刑に処した。リニ自身も側近たちの服装もアンドーラの衣装を作らせそれを身にまとうという風だった。

 しかしバンデーグ大使のラジ・リニの拝謁は当然のことながら、タジール式で行われることになっている。大使の衣装もタジール式であった。アンドーラの礼服に比べ、タジールのそれはゆったりした絹製の長衣にサッシュをしめ、これまたゆったりとしたズボンに靴も革製のブーツではなく室内履きのような絹製の靴だった。この拝謁のための衣装はリニからの贈り物だった。これは外交上、アンドーラにとって有利な状況だった。噂ではリニは食事もアンドーラ風の食事に改めさせたということだった。リニのアンドーラびいきが幸いしてこれまで何度申し入れても実現できなかったラジ・リニの拝謁を受ける事ができることになったのもリニの口添えがあったからだとバンデーグ大使は、リニの側近から聞かされた。

 リニがアンドーラへ肩入れをする一方で、その父であるラジ・リニはかたくなにタジールの伝統を守っていた。タジールの歴史は古く、口伝では当代のラジ・リニで107代を数えていた。歴史の古さは、各儀式だけでなく日常生活もしきたりで縛られていた。それは、広く庶民の間も同様だった。

 バンデーグ大使から見ると奇妙なことだらけだった。アンドーラにも貴族制度という身分の上下はあったが、タジールのそれはアンドーラの比ではなかった。バンデーグ大使が内心受け入れがたいものの一つに奴隷制度があった。ペンガットには公然と奴隷市場があり、多くの奴隷たちが売買いされていた。大使館では下僕のやるような様々な雑用をさせるため現地の人を雇いたかったが、そのような雑用は奴隷のする仕事とされ誰もなり手がいなかった。アンドーラの法律では人の売買いは禁止されており、バンデーグ大使は使用人を仕方なく自身の子爵領から多額の給金を払い遠路タジールまで連れて来ていた。経費の面で見れば奴隷を買った方が安くすんだかもしれないが、外地とはいえアンドーラの国を代表する大使が、アンドーラの法律を犯す事はできないと大使は考えていた。

 そして、何よりも風変わりに思えたのは、成人した女性が顔の目から下をバチカという布で覆うという風習だった。バチカをしていない女性は娼婦か奴隷と見なされ、身分の高い女性ほどバチカの長さが長くなり、街を一人歩きする事もない。女性の一人歩きができるアンドーラに比べ、この古い国の治安が悪かったためなのか、風習なのかはバンデーグ大使にはわからなかったが、妻をタジールに連れて来なくて正解だと思った。他にもバンデーグ大使が物騒だと思ったのは、大部分の人たちが胴に巻いたサッシュに短剣をさしている事だった。それは、バチカをしている婦人たちも同様だった。身分の高いと思われる人々のサッシュからのぞいている短剣の柄には凝った細工が施され、宝石がはめ込まれたものもあった。無論、剣を腰にぶら下げている者もいた。その者たちもバンデーグ大使から見れば、危険極まりないと思ったのは、すれ違い様に剣を抜いて打ち合うという風習だった。バンデーグ大使自身は、アンドーラ風の衣服を身にまとっている限りは他の剣を下げている者に剣を抜かれるような事はなかった。しかし、剣を身につけないと身分の低い者と見られ、日々の買い物さえ不便な事だった。剣を身につけない者には商人たちは物を売ってくれない。しかし、商談は悠然として、値切らずに買う者は気の短い者と見なされた。タジール駐在大使としては交易の相手としてタジールは簡単な相手ではないと判断した。

 しかし、バンデーグ大使はタジールの風習に馴染む前にリニの計らいでアンドーラ式の生活を甘受していた。物資の調達もリニからの贈り物で間に合っていた。それは食料品から始まりどこで仕立てのかは定かではなかったがアンドーラ風の衣服もあった。特にこの何年かの旱魃(かんばつ)で、食料の不足は明らかだったのでその贈り物は大使館ではありがたかった。

 そして、バンデーグ大使はリニのいる離宮で食事を馳走になる事もしばしばあった。タジールの食事は米が主食で香辛料をたっぷりと使った味付けの主菜で、バンデーグ大使は最初は馴染めなかったが、なれてくるとなかなか美味だった。しかし、アンドーラではナイフとフォークで食事をするのに比べ、タジールは手で食事をする。バンデーグ大使には、何やら、野蛮に見えた。

 また、バンデーグ大使個人には関わりがない事でもあり、善悪の判断がつかなかったのはこの国の結婚制度で、一夫一婦制のアンドーラと異なり一夫多妻制で、ラジ・リニの宮殿には後宮がおかれ複数の妃がラジ・リニに仕えていた。当然のことながら、後宮にはアンドーラには存在しない宦官も存在していた。

 政治的には、ラジ・リニは直接に統治はせず、宰相に任せきりだとバンデーグ大使は聞いていた。しかしバンデーグ大使の入手した情報はリニのいる離宮からで、実際のところはわからなかった。リニはアンドーラの様子は聞くが、タジールの現状については多く語らなかった。大使館でタジール人を雇えばこの国の事情ももう少しわかっただろうが、バンデーグ大使の情報収集能力に限界があったと言うよりはこの国の何か秘密主義のような体質であったと推測される。バンデーグ大使はラジ・リニやリニの名前すら知らなかった。無論ラジ・リニやリニは一種の称号である事は推察できたが、他にもバンデーグ大使のタジール語の理解程度ではわからない事の方が多かった。

 バンデーグ大使の名誉のためにいっておくが、タジールは他国の者とは一線を引いてつきあう排他的なところがあった。それは、タジールのものはすべて正しく、他国のものは劣ると考えている国粋主義な面が多々あったせいでもある。

 しかし、リニだけは違って見えた。アンドーラへの傾倒ぶりはかなりなものだった。バンデーグ大使はなぜリニがアンドーラを気に入ったのかはわからなかったが、この状況を生かさない外交官はおるまい。バンデーグ大使はリニのいる離宮に日参し、アンドーラの国情を説明したり、アンドーラの風俗習慣はもちろんの事、宮殿での礼儀作法まで伝授した。リニはそれを聞くだけでなく日常生活に取り入れた。

 バンデーグ大使はリニの側近たちがどう反応するか気を揉んだが、論議の好きなアンドーラとは違い何の論議もなく無抵抗に近かった。それは数少ないバンデーグ大使が入手したタジールの国情で、ラジ・リニやリニの命令は絶対だと言う事のせいだった。側近たちがアンドーラを気に入っているかは、バンデーグ大使の推察でしかなかった。リニが特に興味を持ったのはアンドーラの女王制度のことだった。

「では、大使。アンドーラでは女子(おなご)が王位を継ぐ事もあるのじゃな」とリニはアンドーラの言葉で尋ねた。

「はい、王位継承権は王女殿下たちももお持ちです。ですが、今は王位継承権一位は男子の王太子殿下はですし、陛下に万一の事があった場合、王位を継がれるのは男子という事になります。確かにアンドーラの過去に女王はおりましたが、メレディス女王だけです」

「それは、いつの事じゃ?」

「今の国王陛下より四代前になります。実を申しますと、女王の即位には当時反対するものもおりました。しかし、女王の父親であるヘンダース王には息子である王子はいず、たった一人の自身の娘であるメレディス女王が16歳のときに王位を譲ったのでございます。ヘンダース王の権威は大変強かったのでございます。そしてメレディス女王は大変英明な王であったと言われております」

「確かに女子(おなご)でも賢いものもおる」

「そして、女王の夫君のチェンバース公も宰相の地位につき、女王の統治の後ろ盾になりました」

「妻より地位は低かったのか」

「はい、女王の方が地位は高いのでございます」

「確かにタジールでも女子(おなご)の方が身分が高い場合もあるが、妻が夫より身分が高い事はない」と数少ないタジールの情報をリニが教えてくれた。

「しかし、メレディス女王はアンドーラでも例外でございます。アンンドーラの近隣の諸国では女王を認めない国の方が多いのでございます。サエグリアも女性の地位が低いと聞いておりますし、メエーネでも女王の例はございません」とバンデーグ大使はメレディス女王が特異な例である事を説明した。しかし、アンドーラではメレディス女王はヘンダース王と並びアンドーラの国内統一と近代化に力を発揮した偉大な国王であったと歴史学者たちは評価していた。歴史学者たちは過去の王朝には辛辣な論評をするが、チェンバース王家には点数が甘かった。しかしこれは現王家に多少おもねっていたかもしれない。アンドーラでは、王家に対して非難的な事を発言したりしても罪にとらわれない言論の自由はあったが、王家に対する反逆罪もある事にはあった。実際に反逆罪に捕われたものたちもいたし、国王の勅命に従わず、王国軍と戦火を交え平民に落とされたゲンガルス公爵家の例もあった。

 そして何よりもバンデーグ子爵家が爵位を授けられたのはメレディス女王からだった。アンドーラの貴族の中でもヘンダース王の時代以後に爵位を授けられた貴族たちは、ヘンダース王以前からの爵位持ちからは、一種の侮蔑をもって新貴族と呼ばれていた。しかし、新貴族たちはチェンバース王朝の功労者でもあった。そして、現在も新貴族たちはジュルジス三世によって重臣に取り立てられるものも多かった。バンデーグ子爵家でも、先代は王立大学で法律を学び、裁判官として就任して最後は王立裁判所の裁判長を勤めた。先代は現バンデーグ子爵の父に当たる。そして先代の従弟は武官として王家に仕え、初代の近衛師団師団長という名誉を授かった。彼の息子は現在の近衛師団師団長サッカバン・バンデーグ准将である。二代続けて将官というのは現在の騎士制度を廃止し将官制度を取り入れてからは初めての事だった。バンデーグ子爵自身も兵役義務を終えると王立大学で父と同じように法律を学んだ。しかし、大学在学中にタジールとの通商条約を目にする機会に恵まれ、父とは違う外交官の道を選んでタジールの言語を学び始めた。タジールの言語を学んでもタジールの大使になれる訳でもなかったが、言語を学んでいくうちにタジールの歴史の深さ・古さに圧倒されていた。いつかタジールにいきたいという希望はかなったのだが、アンドーラの風習との違いに戸惑う事の方が多かった。

 しかしここにきて、バンデーグ大使の立場は大きく変化した。リニのアンドーラへの関心がバンデーグ大使の立場を変えた。君主制の大きな特長に君主の寵を受けたものは、政治的に有利になるという大きな利点がある。確かに周囲のねたみを買うおそれもあったし、権力に鼻の効く連中が自分たちもその恩恵を受けようと近づいてくる。これは、アンドーラでも同じ事だった。しかし、バンデーグ大使は、気がつかない振りをした。そして、リニの側近たちはバンデーグ大使が所詮よそ者だとわかっていたから、寛大だった。ただ、身の危険は、リニのアンドーラへの関心の深さと比例して増えていった。タジールの伝統をかたくなに守る保守主義者たちは、タジールの伝統を汚すものとしてバンデーグ大使の命を狙い始めた。

 しかし、リニは、年は若かったが宮中に育ったもの特有の権力の使い方をよく心得ていた。アンドーラからの客人バンデーグ大使の身の安全を図るのは自分の側近たちの役目だと大使館と大使に護衛をつけてくれた。これで、バンデーグ大使の身の安全は確保されたように思えたが、それと引き換えに行動の自由は大いに制限された。

 外交上、リニの寵はありがたかったが、反面、リニの父親のタジールの最高権力者ラジ・リニの怒りをかったのではとバンデーグ大使は心配したが、思いもかけずに拝謁が許され、大使としての大きな役目を果たす事になる。前任者はラジ・リニの宮殿にも近づく事ができなかった。

 拝謁の前にバンデーグ大使は、アンドーラの式部官に当たるタジールのポットウフに拝謁の際の礼儀作法を教わる事になった。その場にリニも同席し、タジール語しか話さないポットウフの通訳をリニの側近の宦官の一人に命じた。その宦官は、リニの側近中の側近で、アンドーラ語もタジール語を話すバンデーグ大使の水準よりも上でそのアンドーラ語はかなり流暢といってもよかった。

 タジールの社会は、族長制度で一族で暮らしていた。アンドーラも大部分の家は、家父長制度だが、タジールはアンドーラ以上に一族の結束が堅かったし族長の権限も強かった。バンデーグ大使がなかなかタジールの人たちと昵懇になれなかったのもそのせいもある。ただ、客人には礼儀正しかったが、アンドーラのように客をもてなす場に女性も同席する事はなかった。

 アンドーラでも貴族たちは、国王の謁見を重大な国王の臣下としての義務と考えていた。特に、ジュルジス三世の治世になって国王の謁見をすましていない者は爵位を継ぐ事ができないという爵位相続法が制定され、一族の長である爵位を持っているいわゆる爵位持ちの爵位を継ぐ予定の嫡子たちは、こぞって謁見をすませる風習が出来上がりつつある。そしてまた一族の者の初めての謁見には、爵位持ちとその夫人が、式部省や侍従長や女官長や王宮勤めのつてを頼って根回しをして無事にすませるように配慮していた。タジールでもその辺の事情は同様のようだった。バンデーグ大使自身のアンドーラでの初謁見は、ジュルジス三世の治世ではなく、その父親のジュルジス二世の時代だった。しかし、当時の王太子であったジュルジス三世も同席をしていた。ジュルジス二世の治世では謁見はそれほど儀式めいたところがなく、国王に家族の者を紹介する程度のざっくばらんな儀式だった。温厚なジュルジス二世は、父のバンデーグ子爵が息子ですと引き合わせると名前を尋ねた。これは、貴族社会で物笑いの種になっている事だがバンデーグ子爵家の家名はバンデーグだが当主の名前もバンデーグだった。つまりバンデーグ・バンデーグ子爵というのが初代からのバンデーグ子爵家の当主の名前だった。バンデーグ大使が生まれたときには初代の祖父は健在でやがて爵位を継ぐだろう孫にバンデーグと名付けるように孫の父親に命じた。正式に言うとバンデーグ三世・バンデーグ子爵になる。なぜそんな命名をしたのかわからなかったが、国王のジュルジス二世と王太子のジュルジス三世にはすぐ覚えられもらえたのは事実である。そして、そのおかげで念願のタジール駐在大使という職を得たのだから命名した祖父を恨むようなことはなかった。

 そして、その拝謁の日がやってきた。バンデーグ大使は、教えられた作法通りにタザウルセスと呼ばれる拝謁の儀式の馬鹿でかい部屋で、やはりこれもリニから贈られた礼装を身に着け、指示された位置に敷物を広げた上に座って待っていた。儀式用の剣は、やはり、作法通りに体の右横に柄を玉座の方に向けておいてある。儀式用の剣は、アンドーラで謁見のときに用いる祖父から父へと受け継いだ剣を故国から持ってきていた。この剣がなかったら、拝謁はかなわなかったかもしれない。

 タザウルセスをバンデーグ大使は「竜の間」と訳してみた。こうした言葉の翻訳も大使の仕事とバンデーグ大使は考えていた。白い大理石で作られた竜の間はアンドーラの謁見の間の十倍以上の広さと五倍以上の高さがあり、玉座と思える場所は、アンドーラのそれよりも高さも広さも三倍はあるように思えた。当然、座っているバンデーグ大使から、見上げることになる。この高低差は、身分の上下間の差を体現しているのだとバンデーグ大使は思った。そして、部屋の広さはタジールの国力と広大な領地を伺わせ、バンデーグ大使は、なぜか無言の圧力のように感じていた。

 床に敷いてその上に座っている敷物もリニが特別に作らせたもので、バンデーグ子爵家の紋章が織り込まれていた。そして、贈られた礼装のサッシュにはこれもまたリニから贈られた短剣がさしてあった。何もかもリニから贈られた物づくしの中でアンダーらから持ってきたのは儀式用の剣とバンデーグ大使自身の体だけだった。

 アンドーラでの謁見は、ジュルジス三世の戴冠後にその式次第が新たに制定され、玉座に腰掛けた国王が、儀仗兵に名前を告げられ入室してくる貴族たちを待ち受けることになっていた。そして、入室した貴族たちはその爵位の高低で、定められている位置まで歩き進めて、その位置で立ち止まり、武官以外は男性は辞儀をする。そして、辞儀が終わると横に向きなおり、定められた謁見の間の玉座の左右の壁面まで歩いていき、その壁際で部屋の中央に向き直り、次の謁見に入室してくる他の貴族たちを立ったまま待って、その儀式を終えるのを見守ることになっていた。そして、最後の入場者が入室し、所定の場所で礼をし終わると、儀仗兵が謁見の間の扉を閉めると国王が何らかの発言をして謁見の一連の儀式は終了し、国王が退室する。その後、謁見を賜った人々がそれぞれに退室する。大体がそのような式次第になっていた。

 しかし、タジールの拝謁はまるっきり違っていた。アンドーラの謁見とは逆に拝謁を賜る者の方が、こうして床に座ってラジ・リニが玉座に現れるのを待つという段取りになっていた。

 バンデーグ大使は緊張の面持ちでラジ・リニの登場を待っていた。床に座ることになれていないバンデーグ大使は、足の痛みに耐えながらなかなか登場しないラジ・リニに内心、やはり、拝謁はかなわないのかと不安になっていた。その不安が絶頂に達した頃、ようやくラジ・リニの登場を告げる銅鑼の音が竜の間に響いた。バンデーグ大使は、作法通りに両手をつき、頭を床にこすりつけるかと思うほど下げて平伏した。儀仗兵に当たるベンダルーが床を鞭でたたくピッシという音がだんだん大きくなってきた。まだ、バンデーグ大使は顔を上げない。鞭の音が止まり、ラジ・リニが玉座についた気配がし再び銅鑼の音が竜の間に響くと儀典長が口上を述べた。

「竜の民に告ぐ、竜の(しもべ)に告ぐ。アンドーラのバンデーグが貴きお方にお目通りを許された。心して記憶に停めよ。心して記録に留めよ」

 顔を伏せたままなのでわからなかったが、式部官だろうか何人かの男の声で復唱した「竜の民に告ぐ、竜の(しもべ)に告ぐ。アンドーラのバンデーグが貴きお方にお目通りを許された。心して記憶に停めよ。心して記録に留めよ」

 再び、鞭の音の後、ラリ・リニがここでようやく口を開けた「そのもの、(おもて)を上げよ」

 まだ、顔を上げてはいけないことは、バンデーグ大使は教わっていた。今度は儀典長が復唱した「そのもの、(おもて)を上げよ」そして、式部官たちがまたこれに続いた。まだ、顔を上げない。もう一度ラジ・リニが同じ言葉を発し、儀典長が復唱し、式部官たちがこれまた復唱する。この儀式が、三回続いた後ようやく、バンデーグ大使は顔を上げ、上半身を起こし、正面を向いた。だが、高い玉座に座っているだろうラジ・リニの姿を見上げるようなことはしなかった。視線は玉座の下の方に黄金で彫ってあるこの国の最高権力者の印である竜の紋章の辺りに教わった作法通りに向けている。

「アンドーラのバンデーグよ。遠路、大儀であった」とラジ・リニが、あらかじめ決まっていた言葉をかけた。それを儀典長から式部官の順番で復唱した。バンデーグ大使はラジ・リニが発言を終えると同時に再び、平伏した。儀典長が「竜の民に告ぐ、竜の(しもべ)に告ぐ。アンドーラのバンデーグ、貴きお方のお言葉を賜る。心して記憶に停めよ。心して記録に留めよ」と作法通りの言葉を発し、式部官たちの復唱がこれに続いた。

 ここで、拝謁の儀式は終了し、ラジ・リニが退出するはずであったが、バンデーグ大使があらかじめ、聞いていた式次第になかったことをラジ・リニは、行った。

「バンデーグよ。リニが世話になっていると聞いた。余からも礼をいう」

 多分、儀典長であろうものの咳払いのあと「竜の民に告ぐ、竜の(しもべ)に告ぐ。アンドーラのバンデーグ、貴きお方のお言葉を賜る。心して記憶に停めよ。心して記録に留めよ」と先ほどと同じ言葉を発したが、異例なことに驚いているのはバンデーグ大使は顔を伏せていても察しがついた。式部官が儀典長の言葉を再び、復唱した。

 一連の復唱が終わると、鞭の音が始まり、ラジ・リニが退出する気配をバンデーグ大使は、顔を伏せたまま感じ取っていた。この異例なラジ・リニの発言をバンデーグ大使はどう受け取っていいのか判断がつきかねていた。バンデーグ大使が床に座っているところから玉座はかなり離れていたが、ラジ・リニの声は竜の間に響いてよく耳に入った。ただ、言葉が、タジールの宮廷語なので、バンデーグ大使は、おぼろげにしか内容がわからなかった。後で、誰かに聞いてべきだろうと思ったが、その人物にバンデーグ大使は、心当たりがなかった。そして、銅鑼の音がバンデーグ大使の退出を促したが、足が痛くて立ち上がる時、バンデーグ大使は、思わずよろけそうになった。どうにか、竜の間を出ると、例の通訳をリニから命じられていた宦官のコッタウが待ち受けていた。

「いかがでした」とコッタウはタジール語で尋ねた。彼から、ラジ・リニの宮殿ではアンドーラの言葉を使わないようにと注意を受けていたバンデーグ大使は、にが笑いをし

「足が痛くなった」とだけ感想を述べた。ゆっくりとした歩調で広大な宮殿の廊下を進み、臣下用の玄関を出ると、バンデーグ大使は、ホッと一息ついた。

「もうここではタジール語でなくてもいいかな」とコッタウにバンデーグ大使は、確認をした。

「まあ、いいでしょう」

「どうやら、無事すんだようだ。多分、粗相はなかったと思うが、伺っていた以外にもラジ・リニが何か仰せられていたようだが、私の語学力では、内容は理解できなかったよ」

「どういうことです」

「いや、挨拶というかそのようなご発言の他に何かお言葉を賜ったのだが」

 ここで、コッタウはバンデーグ大使に助け舟を出した。

「宮中でのラジ・リニのご発言は、記録に執ってあるので、リニのお名前で取り寄せましょう。どのみちそのつもりでしたから」

「その記録は、私でも拝見することができるのかね」

「リニが、お許しになれば、できるでしょう。でもタジール語ですよ」

「それは、有り難い。多少なら、タジール語は読めるのでね。それに本国にも報告しなくてはいけないのでね」

「有り難いと思うなら、リニにお礼をして下さい。贈り物には贈り物で返すのがタジールの礼儀です」

「いや、これは、失念した。これまでリニのご好意に甘えてしまい、お礼もしていなかった。礼を失していたなら、お詫びもせねばなるまい」

「おわかりになれば、それで結構です」とコッタウは素っ気なかった。ここで、バンデーグ大使は、これまでのいきさつを顧みて、外交上、失礼な言動をしたのではないかと、反省をした。

「コッタウ、もし、こういうことを尋ねても失礼がないのなら、タジールの風習についてもう少し教えてくれますか」と言葉遣いも改めた。

「私で、わかることでしたら、お教えできますが」

「いや、そのあなたへのお礼もきちんとさせていただきますよ」とバンデーグ大使は、もしかしてこの宦官は、賄賂を暗に要求しているのではないかと値踏みをした。それは、善悪では判断できない古い国にありがちな悪習ともいえるだろう。何しろ、二千年の歴史があるといわれているこの国である。政治をはじめいろいろなところで贈り物と称する賄賂が横行しているのは、何となく推察できた。この宦官が自分に好意を抱いていなくても、なんとか、少なくとも自分の敵にまわす愚は避けたかった。バンデーグ大使の外交官としての勘が働いた。このコッタウを何としてでも、こちらの陣地に取込まなければと、バンデーグ大使は、孤立無援のこの状態からなんとか脱却をはかり始めた。


 アンドーラのバンデーグ大使のラジ・リニに拝謁を無事終了したという知らせをリニは正殿からはなれた竜都の外れにある離宮で、肝心のバンデーグ大使が、宮殿の正門を出ないうちに早馬で駆けて来た護衛の竜の一門の者から受け取っていた。バンデーグ大使は、宮殿の竜の間がある正殿から、ゆっくりとした徒歩で出て、リニが貸した輿に乗って宮殿の広い敷地をゆっくりとした速度で、アンドーラ大使館に向かうはずだった。何事にもゆったりなのがタジールでは、良しとされる。道を急いで歩くものは、気の短いものと見なされる風潮があった。

「そうか、無事すんだか」

「それが」と使者は言葉を濁らした。リニは「何かあったか」と使者に問い質した。ここで、バンデーグ大使がしくじるとリニの失点になる。

「いえ、それが、異例なことにラジ・リニからお言葉を賜ったそうで」

「お言葉とは、どういうことじゃ。何か叱責されたのではあるまいな」

 リニは、父のラジ・リニが今のリニの暮らしぶりをあまり快く思っていないのは、ある程度察しがついていた。

「前例がないと、式部官たちや伝承官たちが騒いでおります」

「では、何を騒いでいるか、伝承官たちに確かめて参れ」と使者を再度、ラジ・リニの宮殿に向かわせた。

 タジールでは、ラジ・リニやリニの言動は一挙一足漏らさず伝承官と呼ばれる者たちが記録に録ってあった。この離宮にもそのような役目をする者がいる。離宮ではアンドーラの言葉で生活をしているので、記録もアンドーラの言葉で書き記されている。

 そして、リニが、これまでの風習を破ってまで、貫いたのはその髪型だった。タジールの支配者層は、竜の一門と呼ばれていた。この中でも最高権力者の家は金の竜の家と呼ばれていた。竜の一門の男子は成人すると竜型と呼ばれる独特の髪型をすることが許される。いわば、その髪型をすることによって、竜の家の出身者である証明でもあった。それをリニは古くさいといってその髪型、頭部のてっぺんだけ残して髪を剃ってしまい、その残った髪を長くのばして髷を結うのだが、それを成人前の者のように総髪で髷を結っていた。これは異例中の異例で、この一件を理由にリニの座をおろそうとう動きすらある。これは、父のラジ・リニと若い妃の間に男子が誕生したことも影響してかもしれない。

 リニがそんな危険を冒してまで、アンドーラ流の暮らしをしているのは、いつかアンドーラへ行くことを願ってのことだった。外遊は難しいと腹心たちは進言したが、リニは、その願いが叶うような気がしていた。そして、外遊先は、言葉も風習もまるっきりと違い、政治制度も似ていて否なるアンドーラが最適だとリニは考えていた。過去の歴史をさかのぼっても外征をしたリニの記録はあったが、外遊をしたリニは、一人もいなかった。歴史を重んじる重臣たちは前例がないとリニのアンドーラ行きを反対したが、リニはこの古い事例に捕われていることこそ、タジールを衰えさせる元凶だと父のラジ・リニに訴えた。

「リニ、アンドーラへの旅は危険が多すぎる。リニの身に何かあったら、この国はどうなる」

「では、このタジールの宮殿が安全だとお思いか。多くの護衛に囲まれ、食事は毒味をしなければ食せない、この国の方がよほど、我が身の危険を感じておりまする」

「リニの勤めは、余の後を継ぐことじゃぞ」

「だからこそ、今、この国の外に出てみることが必要なのです。アンドーラは、女子(おなご)でも一人歩きができるくらい治安が、いいと聞いております。また、アンドーラの船は、船足も早く優れた航海術を持っております。アンドーラに学ぶところは多いと存じます」

「その気持ちもわからないでもないが、一位と二位が心配している」

 一位と二位とは、ラジ・リニの妃で「一位の君」が序列で第一の高位の妃で、リニを生んだ母の伯母に当たる。その次に高位なのが「二位の君」で、二人リニの異母姉を生んでいる。そして、異母弟を生んだのが、現在の「三位の君」と呼ばれるまだ年若い妃だった。リニを生んだ母は、リニのお産の産褥熱で亡くなっていた。残されたリニを育てのが一位の君で、リニは「母者(ははじゃ)」と呼んでいた。一位の君自身は、生んだ子が夭折したり、流産を繰り返し、成人した子供は、一人もいない。年齢的にお産は無理だとわかった頃、自身の妹が生んだ姪を後宮に呼び寄せ、夫のラジ・リニに引き合わせた。無論、しきたりでバチカをしたままだったが、ラジ・リニは、その声が気に入り、バチカを外すように命じた。これは、ラジ・リニとの同衾を要求するという意味だった。あらかじめ一位の君が因果を含めていたので、一位の君の姪はバチカを外した。これは、同衾を承諾するという意味の行為である。そのバチカを外した容姿はラジ・リニの好みだった。これは、夫の好みを知り抜いていた一位の君があれこれ(つて)を頼って見つけ出した女性である。当然なことといえた。無論、健康状態も後宮勤めの宦官の医官に確かめさせてある。そして「三位の君」となって、リニを懐妊した。これは、長い間空席になっていたリニの座を巡る後継問題で揺れていたタジールの宮中では、安堵と落胆の嵐を巻き起こした。

 ラジ・リニは、先祖から受け継いだ「イの力」で、それが男児であることを出産前から感じ取っていた。そしてその子も「イの力」を受け継いでいることも感じ取っていた。つまり、リニは生まれながらリニだった。そして、生まれた翌日に神聖なる神殿で古来から伝わる儀式で、タジールの各族長の前で「イの力」を証明してみせた。その二日後にリニを生んだ三位の君はあの世に旅立った。ラジ・リニの落胆は大きかった。

 呆然としていたラジ・リニに替わって、生まれたばかりのリニを抱き上げたのが一位の君である。自分が推挙した姪が期待通りリニを生んだことを誇りに思いながらも、リニの育ての親として何をすべきかは、後宮暮らしが長い一位の君にはわかっていた。そして、この子育てには、次の位である二位の君も巻き込んだのである。

 二位の君は自身は女児しか生んでいないと最初は遠慮したが、自身の生んだ娘の縁談にも一位の君の発言が重要視されることも考えて、リニの子育てに手を染めることになった。無論、実際の世話は宦官がするし、母乳は乳母が与える。二人が心を砕いたのは生んだ母を亡くしたリニの寂しさをどう埋め合わせるかだった。だが、リニは自分の生んだ母が既にこの世のいないことに気がつくのは大分、成長してからである。それほど、二人の継母になついていた。

 ラジ・リニの言葉で、アンドーラ行きへの妨げになっているのはラジ・リニの二人の古参の妃であるとリニは気がついた。無論それは父のラジ・リニの抗弁かもしれないが、将を射んとすれば駒を射よである、早速二人の継母に会いにいくことにした。その前に、アンドーラのバンデーグ大使をラジ・リニの拝謁を段どることにしたのである。これは、大使が拝謁もしていない国に行くのはリニの身分に差し障りがあるという意見を封じるためであった。

 その拝謁の儀式で前例のないことが起きたことにリニは内心の不安を抱えながらもそれを顔に出さなかった。ラジ・リニの正殿の伝承官に確かめるために出した使者とバンデーグ大使に付き添わせた宦官のコッタウが輿で戻ってきたのはほとんど同時だった。コッタウは破顔していた。

「リニ、ご安心ください。ラジ・リニはなんとアンドーラのバンデーグ大使に礼を述べられたそうです。これで、このアンドーラ流の暮らしもラジ・リニは、お許しになったということでございましょう」

「まことか」

「はい、伝承官は渋い顔をしておりましたが、後、バンデーグ大使にも、少しは礼儀をわきまえるようにと注意をしておきました。まあ、アンドーラとは風習が違うのだろうとは拝察しておりましたが、ようやく、気がついたようです」

「さようか」とリニはコッタウの言葉にアンドーラ行きが一歩前進した手応えを感じていた。


 さて、リニの腹心コッタウに「礼儀をわきまえるように」と忠告されたアンドーラのバンデーグ大使は、大使館で本国への報告書とともにアンドーラの国王ジュルジス三世にある援助を嘆願する請願書を書いていた。それは、タジールの国情とともにこの数年タジールを悩ましている自然災害について触れ、その自然災害つまり旱魃(かんばつ)によって引き起こされた飢饉(ききん)についても述べていた。その報告とともに自身のタジールの最高権力者ラジ・リニの拝謁が無事終了したこと、リニのアンドーラへの興味とともにリニに食料援助を送るようにとの嘆願であった。これは、外交上タジールと親好を深める滅多にない機会であること、タジールでは餓死者が大勢出たことなどが国王への書簡に述べられていた。

 その当時、タジールのアンドーラ大使館には、海軍の武官が駐在していた。この駐在武官は、本国との伝令役として大使館に配属されていた。海軍はアンドーラ海軍の重要海域であるタジールの近海とタジールの港に艦隊を巡回させ、タジールとの交易にいそしむアンドーラ船籍の貿易船を海賊から防護していた。そして、タジールとの国交を重要視する海軍は、陸軍ほどではないがタジールとアンドーラの間の伝令網を構築していた。当然のことながら、バンデーグ大使も、この伝令網を利用できることができる立場にいたのである。この国王への書簡の他に自分の上司である外務卿のハッパード・サンバース子爵、そして面識がなかったが大蔵卿のヘンダース・ラシュールへも書簡をしたためた。これは、大使といえども何度も伝令を往復させる訳にいかないと判断してのことである。バンデーグ大使が、頭を悩ませたのは、これまで前例がない他国への食料援助の件であった。外務卿への書簡は、これまでの報告と何よりも食料援助でその賛否を巡って閣僚たちの賛意と何よりも経費の決済をするであろう大蔵卿への説得を願っての文面になった。大蔵卿への書簡は、タジールへの食料援助が、外交上必要不可欠な政策であると訴えていた。本国アンドーラの国情、特に農業面の報告では、昨年は豊作といっていい状態だったことは、既に自身の領地の状態でもわかっていた。後は、外交上の必要性をどれだけ国王と閣僚が認識するかである。国王ジュルジス三世は、まず、閣僚たちの意見を求めるだろう。その時鍵を握るのは、外務卿と大蔵卿であろうことは、バンデーグ大使にも簡単に察しがついた。

 前職のブルックナー伯爵とは多少のなじみがあったが、面識のない大蔵卿への書簡は、特に気を使った。ここで、バンデーグ大使は、大蔵卿の父親のミゲル・ラシュール伯爵の評判を思い出した。ミゲル・ラシュール伯は、兵役義務を終えた後、王立大学で博物学を学び、博士の学位を得ていること、その専門は、植物学で特に農業に造詣が深かった。このミゲル・ラシュール伯にタジールの惨状を訴え父親から息子の大蔵卿へ食料援助の賛意を促してみてはと、バンデーグ大使は考えたが、ラシュール親子の親子関係がどうなっているかはわかりようもないバンデーグ大使には、危険すぎる賭けだと判断してミゲル・ラシュール伯への書簡は取りやめることにした。

 何度か下書きをした後、清書した書簡に封蝋するともう夜明けになっていた。それから、つかれも見せずにバンデーグ大使は、領地にいる妻と子供たちへの手紙を書き始めた。なかなかの体力である。大使館の使用人たちにも家族に手紙を書くように指示をしていた。これらは私信であるが、海軍の伝令にそれらを託すのは、外地に滞在している者たちの心遣いでもあろうとバンデーグ大使は考えている。伝令には、王都にいる一族のサッカバン・バンデーグ近衛師団師団長まで、運んでもらい後は領地まではサッカバン准将が手配してくれるだろうと思った。

 しかし、リニの腹心コッタウの意外な申し出にバンデーグ大使は、旱魃(かんばつ)に因るこの国の傷の深さを思い知った。大使館では食料の調達に苦労することはなかった。これもリニの手配であったが、コッタウの話では、旱魃(かんばつ)の被害は、竜の家つまり、支配階級の土地ではあまり被害は少なく、他の部族の土地がひどく被害が広がり、餓死者も出ているということだった。寒さの厳しいアンドーラに比べ竜都ペンガットは、夏はかなり暑い土地柄である。だが、広大な領地は様々な気候の土地が広がっていた。北部では、かなり厳しい冬の土地もあると聞いたことを思い出し、バンデーグ大使は、領地で留守を預かっている子爵家の家令のビルドル宛にいくつか大使として必要と思える指示を書き記した。それが終わる頃、タジールについてきた家僕のリックスが書斎に入ってきた。

「リックス、家族への手紙は書けたか」

「はい、書きましたが、殿様はお休みにならなかったので」とリックスはバンデーグ子爵家に仕えている者らしくバンデーグ大使を殿様と呼んでいる。

「ああ、大使として急ぐ必要があると思ったのでね。皆の手紙がそろったなら、ケントル大尉を呼んでくれ。それと油紙を持ってきてくれ」

「かしこまりました」とリックスは書斎を出て行った。

 ケントル大尉とは大使館の駐在武官の責任者である。今回の書簡をアンドーラまで運ぶ重要性は、彼に口頭で伝えてある。ケントル大尉の部下たちもアンドーラの家族たちへ手紙を伝令に託すだろうとバンデーグ大使は思った。海軍の伝令網はあるが、それを頻繁に使うのはやはり外務省に属する者としては、やはり気が引けた。外務省で独自の伝令網を敷けばいいのだが、海路の問題もあったし、何しろ港までの道中は治安が悪かった。そのような訳でタジールのペンガットとアンドーラのチェンバーを繋げるのは、やはり、武術の心得がある武官ということになる。海軍は陸軍ほどではないが、士官たちを養成する海軍士官学校では馬術が必須科目となっていた。大使館に配属されている者は、航海術よりも馬術の巧みな者が選ばれているとケントル大尉は、半ば自嘲気味に語ったことがある。ペンガットから、アンドーラの海軍が寄港するアンターバまでは、馬で行き来をする必要があったからである。

 大使の護衛は、自分たちの任務ではないと思っていた駐在武官たちも今回のラジ・リニの拝謁の重要性は理解していた。だから、役目上大使館に待機をさせられて手持ち無沙汰な彼らも、拝謁の成功を共に喜んでくれていた。何よりも、バンデーグ大使と駐在武官たちには、故国を離れての任務を務めといるという同僚意識が生まれていた。そして一族から、陸軍ではあるが二人の将軍を出したことが、バンデーグ子爵家への敬意となっていた。

 リックスの案内でケンネル大尉が書斎に入ってきた。武官らしく所属は違うが、高位にあたる大使閣下に敬礼をする。バンデーグ大使も椅子から立ち上がり敬礼を返すが、大使の敬礼は兵役を果たした陸軍流である。

「おはよう、ケンネル大尉」

「おはようございます、大使。どうやら、徹夜ですか」とケンネル大尉は書き散らかした大使の机を見やった。

「ああ、この件は火急を要するのでね。まあ、これを伝令に託したら、一休みするよ。アンターバまでは、誰がいってくれるのかな」

「この件は、重要だと大使がおっしゃったので、小官が伝令隊の指揮をとります」

「そうか、くれぐれもよしなに頼む。リックス、他の者たちの手紙は用意ができているかな」

「はい、殿様、ここにもって参じました」とリックスは手紙の束を差し出した。それをケンネル大尉は用意していた鞍袋にしまった。バンデーグ大使も用意した書簡をリックスが持ってきた油紙で包んだ。それを見たケンネル大尉は

「用心深いですね、大使は。我が海軍の艦隊は沈没などしませんよ」

「いや、雨が降ることもあるじゃないか。まあ、タジールでは雨が降って欲しいようだがね。ペンガットでは、あまり見かけないが、餓死者も出たそうだからな。そうだ、道中の食料も用意しておいた方がいいかもしれない。かなり、この国は餓えた人でいっぱいだからな」

「食料ですか。そんなにひどいのですか」とケンネル大尉は顔をしかめた。

「ああ、この大使館はリニのご好意で食べ物に不自由はしないがね。道中も十分気をつけてくれ」

「ご心配は無用です。チェンバーまで、無事にお届けします」とケンネル大尉は、書簡をしまい込んだ鞍袋をたたいた

「後、当番艦隊長は誰なのかペンガットに戻ったら、教えておいてくれ。外務省から、何らかの報償を外務卿にお願いしてある。全速力と頼んでくれ」

「わかりました。全速力ですね」

「ああ、大至急だ。よろしく頼む」とバンデーグ大使は椅子から立ち上がりケンネル大尉にうなずいた。そして互いに敬礼をかわした。ケンネル大尉が書斎を出て行くとバンデーグ大使は「リックス、私はちょっと休むよ。その前に風呂を頼む」

「かしこまりました」とリックスは辞儀をして書斎から出て行った。ここで、バンデーグ大使は、書簡の写しをとらなかったことに気がついたが、下書きをもう一度清書すればいいことだと考え、それは、やはりやることもなく暇を持て余している書記官に命じればすむことだと合点していた。


 バンデーグ大使が、風呂でつかれた体を癒している頃、リニは普段暮らしている離宮からラジ・リニの後宮へと馬で向かっていた。リニの二人の継母へは昨日の間に使いをやり、面会の手はずを整えていた。リニは年若い三位の君を母とは思っていなかった。幼い異母弟にも会ったことはなかったし、無論、噂に聞くだけでその生母にも会ったことはなかった。興味がない訳でもなかったが、成人した今となっては、その関係には、微妙な配慮が必要だった。

 だが、幼い時から共に後宮で過ごした二人の継母とは、互いに情が通じ合っていた。二人の継母は、それぞれ、ラジ・リニの妃になった経緯が正反対と言っていいほど違っていた。

 一位の君は幼いときに先代のラジ・リニに見込まれ5歳で後宮に入り、まだリニの世継ぎであった今のラジ・リニの妃となった。そして、宦官たちから将来のラジ・リニの妃にふさわしい教育を受けていた。それは、立ち振る舞いから始まり、ありとあらゆる教養を身につけさせられていた。中でも、絵画、特に花鳥画にはその才を発揮していた。気性も高位にあるものらしくおっとりとしていた。

 それに比べると二位の君はバチカをかぶるまで、つまり年頃まで生まれ故郷で一族の者とともに暮らしていた。ペンガットにやってきたのも、後宮に入ったのも、ラジ・リニの寵を得ようとしてではなく、偶然が重なって妃となった。言葉遣いも一位の君が古来から伝わる宮廷語で話すの比べ、ラジ・リニの希望もあって市井の言葉遣いのままであった。趣味も一位の君が、絵画だったり音楽だったりするのに比べ、お菓子作りといういたって妃らしからぬところがある。後宮暮らしも長くなっていたが、庶民的なところも失っていなかった。

 幼い時はこの二人の継母とラジ・リニの後宮でリニは暮らしていた。それぞれ、性格の違う継母にリニは、十分と言っていいほど、甘やかせてもらって育った。だが、それも短剣を身につけるまでで、その後は、将来のタジールを率いるものとして、厳しい態度でリニの教育に望んだ。短剣を身につけるようになってから二年後、リニはラジ・リニの後宮を出て、竜都の外れにある離宮に移り住んだ。だが、二人の継母との交流は、絶えることがなかった。二人は頻繁に離宮を訪れ、リニの様子を見にきたし、リニも後宮に二人を訪ねてに行っていた。

 最近は、リニとしての儀式や執務をこなすことに忙しく、後宮からは、足が遠のいていた。ただ、二人の継母は、以前ほどでないが、離宮にリニを訪ねてきてはいた。それは、二人の時も一人ずつの時もあったが、リニのアンドーラ流の暮らしぶりに二人は、驚いたり珍しがったりしたが、特に古来のしきたりを破ったと言って叱ることもなかった。だが、さすがに成人しても髪型を竜型にしないことを決めた時には、二人ともこぞって反対をした。だが、リニの決意が固いのを知ると二人は口をつぐんだ。それはラジ・リニが「リニの好きに致せ」という許可が出たのを知ったこともある。

 久しぶりに二人の継母に会うことにリニは、それぞれにちょっとした贈り物を用意したかったが、タジールの最高権力者の妃としてどんな高価なものでも珍しいものでも手に入れる立場にある二人にはつまらない贈り物をするよりも、バンデーグ大使から聞いたタジールとはまるで違うアンドーラの話をすることがいいのでないかと考えた。それに二人がアンドーラに興味を示せば、リニのアンドーラ行きも反対の気持ちが変わるかもしれないとも思った。

 後宮の正門にに到着するとリニは、そのまま馬で、後宮の建物の玄関まで乗り付けた。これは、ラジ・リニとリニにしか許されない行為だった。リニのベンダルーたちが、鞭でリニの到着を知らせた。その時、後宮詰めの宦官たちが、玄関に迎えでてずらりと並らんで座り作法通り地面に頭をつけて平伏した。リニはそれを見ておもむろに馬から下りた。さすがにこの日はタジール風のいでたちだった。リニの行く手を、ベンダルーたちが廊下を鞭で打ちながら進む。

 古いしきたりで、リニとラジ・リニとその妃には専用のベンダルーたちがいたし、その中には、宦官のものもいた。この日、後宮までの道中は、宦官でないベンダルーたちが先導し、後宮の建物のなかへ連れてきた宦官のベンダルーがそれに替わった。無論、先導を勤めるベンダルーにはリニの行くべき部屋はわかっていた。その部屋の前でリニは立ち止まり、ベンダルーたちが、部屋を鞭で打って回るのを待っていた。その部屋は、後宮に入った女たちが、出身の一族のものたちと面会する部屋だった。成人の儀式をする前は、後宮のどこへでも行ける立場にあったが、成人して(つるぎ)を腰に下げるようになってからは、リニとはいえ面会の部屋にしか行けないことになった。ちなみにリニが愛用しているのは、竜の一門にしか許されない少し刀身が反っている竜剣(りゅうけん)と呼ばれる(つるぎ)である。

 何事にも「竜」を持ち出すのは、タジールの古い伝承に寄る。タジールでは竜はアンドーラで言う創造主であるイーネバの使いであり、タジールを治めるのは竜の加護を受けた竜の一門のものたちにしか許せないという言い伝えがあり、竜の一門である証に竜を紋章に用いることから始まり、様々なことに竜をかたどったものを身辺に置く風習がある。リニが竜剣(りゅうけん)を携えるのも、扱いに慣れておかないといつか、タジール風のいでたちに戻った時に不都合だからであった。

 継母たちは、今は成人したリニの前ではバチカで顔を覆っているので見えるのは目だけだったが、リニは、二人の顔をよく覚えていたし、気心もしっていた。

 面会室の係の宦官に案内されてリニが次の間に入ると、既に奥の間でリニの到着を待っていた一位の君と二位の君が、作法通りに両手をつき平伏する。

母者(ははじゃ)、母上。お久しぶりじゃ、さあ、(おもて)を上げなされ」とリニは言うと二人は体をおこした。拝謁の儀式のように三回も言わない。

「ほんに久しいのう」と一位の君

「ほんとに、久しぶりですね、リニ」と二位の君

「いろいろ忙しかったのじゃ。母者(ははじゃ)、母上は達者でおったか」といいながら、リニは奥の間に入り、上座に座る

「まあ、息災ではおるが、リニがなかなか顔を見せぬのは、アンドーラという国のことで忙ししゅうにしておったのじゃろう」と一位の君はやんわりとした口調である。

「それだけではないぞ。ちゃんと学問もやっておったぞ」

「二位の方、それが真ならば、喜ばしいことじゃなあ」

「リニ、どのような学問ですか」とこちらは、学問好きな二位の君。彼女の最初の娘は、タジールの最高学府の「学問所」の学者頭の家に嫁いでいた。その年の離れた姉には、リニは会ったことがなかった。

「博物学という学問じゃ。これは面白いぞ」

「どのような学問ですか、リニ」

「そうさなあ、様々なものを集めてきて、名前を調べたりする学問じゃ」

「ものを集めてきて、名前を調べることが、学問なのですか。一位の君、そんな学問があるのをご存知でしたか」

「さて、(わらわ)もあまり聞いたことがないが、そのようなことをするより、リニにふさわしい学問があるじゃろ」

母者(ははじゃ)、母上、博物学は、この世のものを知る学問じゃ。その他に寝る前には正伝も、読んでおる」

「正伝」とは古くから伝わるタジールの正式な歴史書である。無論、政権を握っているラジ・リニが命じてラジ・リニが召し抱えた学者たちが編纂をするので、竜の一門、特に最高権力者である「金の竜」の家に不利になるようなことは書かれていない。それに対し学問所の歴史学者たちが編纂する歴史書「タジール伝」の方が、正統な歴史書であると主張するものもいた。アンドーラとは、違うが、学問所においては政権と一線を引き、独立した組織で運営されており、言論の自由を保障されていた。いわば、ラジ・リニをはじめとする竜の一門の対抗勢力とも言えた。

「それならばよいが、正伝はどこまで、進んだのですか」

「まだ、112巻の途中じゃ」

 何しろ正伝は、現在2083巻まである。つまりこの世の初めから始まり、現在のラジ・リニの世まで、約2500年の歴史を書き記すのである。その膨大な歴史書の他に伝承官たちが、書き記すラジ・リニとリニの言動を記録した伝承記録もある。正伝も当初は口伝だったが、文字がイーネバの使い竜によってもたらせると、伝承官はその口伝をまず動物の皮に書き起こしたと言い伝えられていた。その真偽については、学問所では根拠のないものだと主張していた。学問所は、まずラジ・リニをはじめとする竜の一門を否認する立場に立っていた。その長である学問頭の家にラジ・リニが娘を嫁がせたことは、学問所だけでなく竜の一門も賛否の声がタジール中にあがったという。特に動揺したのは、ラジ・リニの召し抱えの学者たちである。彼らは「学者溜(がくしゃだまり)」といって学問所とは立場を違えていた。それぞれに学位があり、一流の学者は学問所の学位と学者溜(がくしゃだまり)の学位と両方兼ね備えてなければならなかった。

「まだ、その程度なのですか。それなら、読み終わるのはいつになることやら」と二位の君はため息をついてみせた。

「まあ、気長にがタジール流じゃ」

「武術の方は、いかがじゃ」と一位の君が話題を替えた。

剣打ち(つるぎうち)は、欠かさないでやっておる。なにしろ、兄者に負けたからな。それが悔しいてならんのじゃ」とリニが兄者というのは、二番目の姉の結婚相手の「竜の爪」の家の若長のことである。剣打ち(つるぎうち)は、アンドーラのバンデーグ大使が物騒だと思った、(つるぎ)を抜き払いに頭の上あたりで、(つるぎ)を打ち合う例のタジールの風習で、(つるぎ)を抜く速さが競われる技である。

剣打ち(つるぎうち)の他には、何の武術ををしておられるのですか」

「弓術と槍術も、そこそこにはやっておる、兵法の書物にも目を通しておる。怠けてはおらん」

 リニは多忙だったが、武術は好きだったし、リニの役目の一つに軍を率いるという役目もあった。竜の一門は、武門の家でもあった。それぞれの家に家伝の武術があり、血統よりその武術に秀でたものが重んじられていた。そして、竜の一門から、金竜の家以外の家の長が、ラジ・リニの指名により武門を束ねる武門頭(ぶもんがしら)を勤める。アンドーラでいえば、陸軍元帥と海軍総督をかねたような地位になる。現在の武門頭(ぶもんがしら)は「竜の爪」の家の長が勤めている。つまり、ラジ・リニは学問の雄と武門の雄とを娘婿に持っていることになる。政略的には、ラジ・リニは抜け目なかった。

「武術で思いした。アンドーラには面白い武芸大会があるんじゃそうじゃ。タジールの言葉で言えば、槍騎術になるのじゃが、互いに馬から、盾を槍で突いて落とし合うのじゃそうじゃ」

 ここで、一位の君と二位の君が声を立てて笑った。

「リニ、(わらわ)たちまでアンドーラかぶれにするつもりなのかえ」

母者(ははじゃ)、アンドーラを侮れぬぞ。あの国は海軍がある。アンドーラの海軍の船は船足が速いし、タジールの戦船では到底かなわない。それだけではない、陸の軍も(つるぎ)の家だけではなくすべての家の若い男に武器を持たせて稽古をさせておる。あの国とは、(いくさ)をしない方が得策じゃと兄者(あにじゃ)も言っていた」

「まあ、竜の爪の若長まで、アンドーラ贔屓にさせるおつもりかえ」

「そうじゃ、一緒にアンドーラに行こうと約をした。実は、姉者(あねじゃ)まで行くと言張っておるのじゃ」

 リニのその言葉に二位の君が慌てた「なんですと、二の姫は何を考えてそんなことを言い出したのですか。「若女長(オギ)」の役目もまだ、十分果たした訳でもないのに、これは、一位の君様からも何か言っていただなくては」

 女長(オギ)とは、タジールの一族の女の長みたいな地位で、その家父長制度のタジールでは重き立場にいる身分だった。一族の子供の養育から結婚まで生んだ母親より、女長(オギ)の方が発言力があった。リニの姉は、女長(オギ)を補佐する若女長(オギ)の立場にいた。武門の家である竜の一門の家々では女性も武術をたしなむ。その女戦士を率いるのも若女長(オギ)の役目だった。

「母上、心配はご無用じゃ、アンドーラへは船に乗らねば、行けぬ。外洋船に女子(おなご)は乗れぬ」

「リニ、そなたこそアンドーラへ行くのは、あきらめた方がよかろう。外地はリニには鬼門じゃ」と一位の君はリニの説得にかかった。

「ラジ・リニの父君が、外地で亡くなられたのは、ご存知じゃろう。ましては、外洋など、危ないことじゃ。そのたの身になにかあったら、取り返しの効かぬことになる」

 当代のラジ・ラ二が幼いころ、祖父にあたる先代のラジ・リニには、当代のラジ・リニの父親がリニの地位にいた。そして、国境付近で紛争があり、ラジ・リニの父親は、軍を率いて進攻し、その時の戦争で、戦死している。戦死した父親に代ってその一人息子がリニの地位に就いた。

母者(ははじゃ)、タジールの方がよほど、危険じゃ。余の命を狙っているものが五万とおる」

 そこで、二位の君はリニの予想のつかなかったことを言い出した「リニ、それほど、アンドーラへ行きたいのなら、妃を持ちなさいませ」

「妃を持つのは、まだ早い」とリニは顔をしかめた。リニの役目の一つに跡継ぎを妃に生ませるという世襲制度で権力を委譲していく政治形態では必要不可欠な行為があるが、まだ、なされていなかった。年齢的にはもう16歳の誕生祝いすませ能力的には、可能な体になってはいたが、リニの女嫌いは有名であった。それは、リニが能力的に可能となったことを知った野心に取り付かれた宦官長と神殿を司どる神官長が、リニに女性との同衾を強制し、それがきっかけとなってリニはその行為自体をいやがるようになってしまった。それだけでなく、女性の匂いをかいだだけで気分が悪くなってしまうという体質になっていた。

「決して早くはありませんよ。ラジ・リニと一位の君様が結婚したのは、8歳と6歳ですよ。まあ、今気がつきましたよ。なぜ、私たちは、そうしなかったのでしょう。そうしていれば、今頃は、お世継ぎが生まれていたかもしれませんよ」

「それは、どうかえ。確かに、結婚は早かったが、ラジ・リニもそのようなことに興味を持ったのは18におなりになった頃じゃった」と宦官長と神官長の奸計を耳に入れていた一位の君が、リニの気持ちをくんで、取りなした。宦官長と神官長のその強引な行為は、リニに対する強姦といってもいい手段を用いていた。それほどのことをしても、宦官長と神官長はおとがめを受けてなかった。そのことが彼らを増長させることになるのだが、長期に渡るラジ・リニの治世は、内部から腐敗が始まっていた。

 一位の君の援護射撃の意を強くしたリニは「ともかく、妃はまだ早い。それに二の若もおるじゃろう。そうじゃ、二の若はどうしてる」と話題を幼い異母弟に向けた。

「リニ、二の若は、まだ『(あかし)の儀式』を執り行っていませんよ。ラジ・リニは仰せられないが、ひょっとして『イの力』は、ないのかもしれません」と二位の君はリニが生後すぐに執り行った「(あかし)の儀式」で「イの力」が備わっていることを証明してみせたのに比べ、まだ二の若と呼ばれる異母弟が、まだ執り行ってないことに気をもんでいた。しかし、二の若が自身の「イの力」を証明すれば、リニの立場は微妙なことになる。とがめこそ受けなかったが宦官長と神官長とは、リニはうまくいっていない。彼らが、リニの廃嫡を画策してもおかしくなかった。

「それなら、もう一人生ませれば、いいことじゃ」

「確かに、三位の方は、まだお若いがのう、二の若に手がかかってそこまで気が回らんのじゃ」と一位の君は、子育てを宦官たちに任せようとしない三位の君のことを思って少し顔を曇らせた。タジールの後宮では、妃は自らの手での生んだ子の世話をほとんどせず、宦官任せである。幼い時から後宮で暮らし宦官によって育てられた感のある一位の君には、その辺が不満であった。それに二位の君が気をもんだ「イの力」のこともある。金の竜の家の男子は「イの力」が備わっていないと他の竜の一門へ養子に出されてしまうしきたりがあった。やはり「イの力」が強いと言われているリニに後継者が生まれるのが妥当であろうと一位の君は思った。それにしても、宦官長と神官長は、よけいなことをしてくれたと腹立たしかった。順等なら、リニが妃を持ってもおかしくない年になっていたのには、周囲のものは、とうに気がついていた。リニの結婚が遅れたのは、一位の君があまりに早かった自分の結婚生活を顧みて、なかなかその相手を捜す気にならなかったこともある。

「リニも、やはり、妃を持たなくては行けぬことはわかっておろう。このままでは金の竜の家がすたれてしまうことが案じられてならぬ」

母者(ははじゃ)の仰せもわかるが、そうじゃ、アンドーラへ行かせてくれれば、妃を持ってもいいぞ」

「また、アンドーラかえ」と一位の君はため息をついてみせた。

「ああ。あの国は、面白いぞ。余はあの国で、学位を貰うつもりじゃ」

「何を仰せやら。第一、何の学位をもろうおつもじゃ」

「無論、博物学に決まっておる。これまで、タジールでは誰も、貰ったことがない学位じゃ。学問所でも学者溜(がくしゃだまり)でもない学位じゃ」とリニは胸を張ってみせた。

 ともかく、リニのアンドーラ熱は収まりそうになかった。


 一方、ペンガットのアンドーラ大使館を出発したケントル大尉の一行である、一路、アンドーラ海軍の寄港地アンターバへ騎乗で向かったが、その道中は気の張ることの連続だった。バンデーグ大使の助言を入れて食料も積んできたが、それがなければ、途中の宿屋で食事にありつけずにひもじい思いをするはめになっていただろう。無論、物騒な道ばたで野宿など、とんでもないことだった。宿屋でも交代で見張りをして、貴重な馬を盗まれないように厩まで見張りをつける用心をした。アンターバへの道では、餓えた被災者があふれ、人里離れた山中では、山賊が出没していた。ケントル大尉が、伝令を単騎では出さず、大使館に詰めている半数の人数を割いたのはそうした状況を踏まえてのことである。山賊も、甲冑を身に着けた武官の一行を襲うこともなかろうと判断したケントル大尉は、部下たちに海軍甲冑と呼ばれる、陸軍では軽騎甲冑と同じような甲冑で武装させていた。途中で馬に水をやるのにも、注意が必要だった。それほど、タジールの国は荒廃していた。

 ケントル大尉が、そんなタジールの状況に詳しかったのは、実は、情報の提供者がいたからである。それは、竜の爪の家の若長である。バンデーグ大使が離宮に日参し、リニと親好を暖めていたのと同様に竜の爪の家の若長も、アンドーラに関心を持っていた。言葉はすでに身につけていた竜の爪の家の若長は、武門頭の跡取りらしく甲冑姿で大使館を訪れて「ここに、騎士はおらんか」と大声で呼ばわり、応対にでたケントル大尉と言葉をかわしたのがきっかけで親しくなり、ケントル大尉はタジールの実情にも、ある程度詳しくなった。

 そこは、武官同士である、言葉さえ通じれば、話は尽きなかった。特にアンドーラの軍の話は、竜の爪の家の若長の興味をそそった。若長が、驚いたのは、ケントル大尉が、騎士の家の出身ではないということだった。ケントル大尉は、騎士の家つまり貴族の出身ではなかった。タジールの身分制度では(つるぎ)の家でないものが、(つるぎ)を下げることなどとんでもないことであった。アンドーラの海軍の士官は船乗りの家の出身者が多かったが、ケントル大尉も、その口である。アンドーラの船乗りの家は自由民が出身の平民が多かった。

 武装した効果があってか、山賊にも襲われずに目的地のアンターバへ何とかたどり着いたケントル大尉一行は、「詰め所」と呼ばれるアンターバ港にあるアンドーラ海軍の駐在所に向かった。そこにも海軍の士官が駐在していた。この詰め所に詰めている武官たちの役目は、主に艦隊の補給物質を調達するのことだったが、この数年の旱魃(かんばつ)で、食料は入手が難しくなりアンドーラ本国から、輸送せざるえなかった。

 詰め所に到着するとケントル大尉は、眉をひそめた。詰め所でも駐在武官たちが武装していたからである。それは、以前にはなかったことである。詰め所の責任者ジーク少佐も、甲冑で武装したケントル大尉一行に驚いたが、アンドーラへの伝令だと聞いて「それなら、ちょうどよかった、もうすぐラジット艦隊が寄港する予定になっている」とケントル大尉に教えた。そして、武装の訳を詰め所に備蓄した食料を守るためだと説明してくれた。ケントル大尉たちも、武装を解くこともなく、ラジット艦隊を待つことになった。海軍の組織的には伝令のケントル大尉も、詰め所のジーク少佐も、艦隊に所属せず海軍の本部に所属する。

 それにしても、運が良かったとケントル大尉は思った。バンデーグ大使からは、火急にと言われていたが、状況によっては一ヶ月も艦隊を待つことになることもあった。当時の海軍は、タジールまでの航海とメエーネまでの航海を交互に運行していて、どの艦隊もどの航路でも順応できるように訓練を重ねていた。タジールとアンドーラの間に出没するという海賊も隊を並べているアンドーラ海軍の艦隊には手出しをしなかった。

 やがて、ラジット艦隊が、入港して来るのを詰め所の建物の屋上で見張りに立っていた歩哨の報告を受けたジーク少佐から知らされたケントル大尉は、部下を引き連れ、甲冑は着けたまま騎馬で港にむかった。旗艦が入港する埠頭に到着すると、騎乗のままケントル大尉は、部下に合図の旗を振るようにと命じて、ラジット艦隊の旗艦が埠頭にその船体を寄せるのを見守った。旗艦が、錨を下ろすとケントル大尉一行の姿を確認した見張りの当番兵が艦隊長のラジット少将に報告が届いたのだろう、少将は、船縁から身を乗り出し大声で「おう、伝令か」

 騎乗のままケントル大尉は、艦隊長のラジット少将に敬礼をした。ラジット少将が、それに返礼をする。その後、旗艦から板が埠頭に渡され、ケントル大尉は、馬を下りると部下に「馬を見とおけ」といって手綱を渡すと、鞍袋を肩に掛け、旗艦へ乗り込んだ。再び、甲板にいる艦隊長のラジット少将の前に進み、敬礼をする。ラジット少将も返礼をし「伝令にあたるとは、部下がいやがるな」といった。

 海軍の艦隊は巡航を終えて寄港地に入港するとしばらく停泊をして、乗組員たちはその間に休暇を与えられる。だが、伝令の当番に当たると休暇は取り消され、補給を積み込むとすぐに出航しなければならない規則になっていた。それもアンドーラのチェンバーまで、強行軍で、戻らなければならない。乗組員たちには、不評な任務であった。だが、その任務が終われば、改めて休暇をもらえるはずだった。それに、バンデーグ大使はそうそう頻繁に伝令網を使う訳ではない。休暇も、食料事情の悪いアンターバより、チェンバーの方が安心して過ごせるというものだ。

 ケントル大尉は、預かってきた書簡の束を鞍袋から取り出すとラジェット少将に手渡した。それをラジット少将が点検する「大蔵卿宛もあるな。後、こっちは私信かな」

「はい、バンデーグ大使の領地宛は陸軍の近衛師団の師団長サッカバン・バンデーグ准将まで、お渡しすれは、いいそうです。こっちは、小官たちの家族宛の分もあります。みな、チェンバー出身なので、手配は本部でしてくれるはずです。それと、バンデーグ大使は、火急とおっしゃったので、全速力でお願い致します」

「まあ、風次第だが、速力全開で行くさ」とラジェット少将は肩をすくめた。

「大使殿のお話では、今回の伝令には、外務省から報奨金がでるそうですよ」

「そうか、それなら、奴らに鞭を振るうとするか」

 こうして、バンデーグ大使の国王ジュルジス三世への嘆願書を初めとする数々の書簡がチェンバーまで運ばれる手はずとなった。バンデーグ大使の希望通りにタジールへ食料援助が行われるのか。それは、アンドーラの国王の手に委ねられたのである。



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