ブルックナー伯爵の災難
国王の近衛兵制服改訂でにわかに忙しくなった王宮。
一方、軍の視察をしていた王太子エドワーズは、新兵たちを集めて、その前に立つ。
そしてまた、第一王女セシーネも王立施療院設立の協力者ブルックナー伯爵が領地での災害に見舞われ、苦境に立っていた。
近衛師団の調達部員に配属替えになったジャンク少尉は、近衛師団士官食堂で息子の配属替えを疑う父親のマルキス少佐と夕食を摂っていた。マルキス少佐は近衛師団の仕立て職人の責任者だった。陸軍は、軍の各種装備を作る職人たちを軍の中に取込み優遇していた。その軍の方針に従い、階級制度でも腕のいい職人は昇級が早かった。しかし軍人でもあるので武術の訓練も怠りなく執り行っている。少年の時より、武術が好きで軍学校に進んだジャンク少尉のことは、マルキス少佐にとって口にこそ出さなかったが内心の自慢だったし、期待もかけていた。優秀でなければ、国王付けの重騎兵に配属されることなどないと仕立て職人であってもその辺はわかっていた。
「何か、しくじったじゃないだろうな」と父親は探りを入れた。
「違いますよ。師団長は、書類仕事をそろそろ覚えるべきだと。多分制服が替わるので調達部が忙しくなるのでそれでしょう」とジャンク少尉自身も配属替えには内心不満であった。近衛では、国王付けというのはいわば花形な役目だった。それが、「制服組」と呼ばれる事務官の一つ調達部に配属になったのは些か不本意である。
「それなんだがなあ。形も変えてみたらと思うんだ」と近衛師団の仕立て職人の責任者であるマルキス少佐は仕事を思い出していった。
「そうですか、親方」と息子は慣例通りに父親を呼んだ。軍に所属している職人のそれぞれの責任者は将官制度に依る階級ではなく、民間の職人と同じように普段は「親方」と呼ぶのが軍の習慣だった。
「どうも、垢抜けない。ここは近衛らしい制服にしたいもんだ」とマルキス親方はいった。という訳で近衛の制服改訂にはその色だけでなく、形そのものを変更するという大がかりなものになりそうである。食事が終わるとジャンク少尉は食べ終わった食器を親方の分も洗い場まで運んでいった。やはり、配属替えは父親が仕立て職人ということも関係しているのだろうかとジャンク少尉は思った。調達部長からは制服担当主任と申し渡されている。本営本部の調達局局長のミルバード大佐が宮殿の近衛師団本部に来て、各駐屯地に伝令を送ったことをジャンク少尉は聞いていた。各地から陸軍所属の仕立て職人の者たちが集まってくる。元帥は陸軍総力を挙げてことに当たれと厳命したという。陸軍にとって物資の調達という広い意味での軍略上の機動力の見せ場であった。
「爺さまはどうしているでしょうね」とジャンク少尉は王都で開いていた店を職人頭に譲り、王都近郊に土地を買った祖父を思った。
「元気にしているさ」とマルキス親方はいった。
「しかし、陛下は形を変えることまで仰せられてなかったと思いますが」と話題を仕事に戻したジャンク少尉
「だったら、ちょっと伺ってみてくれ」とマルキス親方。これはジャンク少尉が「制服担当主任」で自分が仕立て職人の責任者という役目上当然の、依頼ではなく半ば命令である。
「わかりました」とジャンク少尉。明日の朝、菜園で伺ってみるべきだろうと思った。今朝も降りしきる雨の中、傘をさして国王は菜園の見回りをした。ジャンク少尉も傘をさし制服姿で同行した。その時、お叱りを受けることなく、会話は菜園の作物のあれこれに終始した。菜園の見回りに同行の許可が出るということは、国王の寵まで失った訳ではないとジャンク少尉は自分を慰めていた。しかし、配属替えの理由を質すことはできなかった。
次の朝、曇り空の下、ジャンク少尉はいつもの散歩に向かう国王を待っていた。国王の日程は前の役目上、大方頭に入っている。定刻通りに国王は現れた。敬礼をしたジャンク少尉に「おはよう、ジャンク」と国王は声をかけた。
「陛下、おはようございます」とジャンク少尉は国王と並んで歩き出した。以前は、少し後ろに控えていたがその場所は後任のものが陣取っている。
「陛下、ちょっと、よろしいでしょうか」
「何だ、ジャンク」
「近衛の制服ですけど、なぜ赤なんですか」
「ああ、そのことか、目立っていいと思っただけだ、大した理由はない。国王なんだから、その位好きにさせろといいたいね。反対しているものがいるのか」
「いえ、特には、おりませんが、自分は調達部の制服担当主任ということになりまして。それで、仕立て職人のマルキス親方が、形も変えたいようなことを申しておりまして」
「形?」
「ええ、垢抜けた近衛らしい制服にしたいと、いかがでしょうか」
「まぁ、気に入らなかったら、許可はしないが、そうだ、ジャンク、制服だけではなく、甲冑も一目で近衛とわかるようにしてくれ」と国王は追加注文をした。ジャンク少尉は、特に慌てなかった。これも調達部員の仕事だと心得ている「畏まりました。鍛冶職の親方たちにもそう伝えます。後、師団長にも自分から伝えた方がいいでしょうか」
「うん、サックには君から伝えておいてくれ。それとジャンク、甲冑は重騎だけじゃないぞ、軽騎もあるぞ」
「そうでした」と重騎兵だったジャンク少尉は、失念していた自分に内心しまったと思ったが、国王は特にとがめなかった。菜園の収穫の予定に話題を変えただけだった。
話をしているうちに菜園の入り口に到着した。いつものように園丁頭のバルカンが待っていた。
「おはよう、バルカン」と国王
「おはようございます」とバルカン、制服姿のジャンクにも声をかけた「お前さんも熱心だな」
「ええ、土地がありますからね」とジャンクは答えた。ジャンク少尉が仕立て職人の家に生まれたことを知っていたバルカンは「土地なんてあったのかい」
「ええ、爺さまが店を売って土地を買ったんですよ。麦ばっかり作ってもしょうがないでしょう」とジャンクは答えた。ジャンクは国王を手伝っているうちになんだか野菜作りが面白くなってきていた。
そして、いつものように国王は菜園を見回り始めた。
従医長ベンダー博士の手術を受けたペトールは順調に回復していた。今朝も救貧院に往診に来たベンダーは「もう大丈夫だろう。力仕事はまだ無理だが、順調だよ」とペトールに告げた。それを聞いたキルマは多額の金貨を払った甲斐があると思った。キルマ自身は別段ペトールが生きようが死のうがどちらでもよかった。だが、ベンダーもケンナスも内心ペトールに手術を受けさせたいと思っていることはわかっていた。元大蔵卿のパウエル・ブルックナー伯爵が熱心にペトールに手術を勧めた時もキルマは余計な口は挟まなかった。キルマがベンダーに多額の手術代を払ったのは、それによって自分への評価が高まることを計算の上だった。長年、女官長を務めた経験から、自分がどう立ち回ればいいのかキルマにはわかっていた。ただ一つ悩みの種だった《見立て》も何とか逃れる術を取得出来そうである。キルマは見習の子たちの《見立て》の訓練には救貧院の自分以外の「職員」をあてることをケンナスに提案し、受け入れられていた。「職員」たちの体調を知っておくのも院長の職務の一つという訳である。王太后の命令で、セシーネの稽古相手にされていた時に味わった《見立て》」の奇妙な感覚を今度は「職員」たちが体験するのである。何となくキルマは意地悪い満足感を覚えていた。
王太后が病気で倒れる以前は、ある種の屈辱感を持って王太后にキルマは仕えていた。それは身分制度があるアンドーラでは、先王の妃で国王の母である王太后に膝を屈するのは、当然であったが、同じ女性としてキルマなりに自負があった。先王の失踪以来、王太后はしばしば女官長であるキルマを「友」と称したが、気位の高い王太后が心底そうは思っていないことぐらいはキルマには簡単に察しがついていた。王太后と女官長という主従の関係を越えることは王太后の死という最後の時までなかった。そして、キルマ自身も王太后と友情を結ぶことなど願ってもいなかった。王太后を憎んだことすらある。それは王妃あるいは王太后という地位を妬んでのことではなく、エレーヌ王太后の言動に起因していた。王宮に仕える侍女たちに王太后は、直接でなく女官長のキルマを通して「小言」をいった。キルマは立場上、侍女たちにたいして口うるさい女官長でいなければならなかった。いわば「憎まれ役」であったが、それは自分の役目と割り切るしかなかった。人に好かれるために甘言をいうのもキルマの性分に合わなかった。王太后の看病もそれは自分の役回りだと心得ていたからであって、決して進んでしたことではなかった。だが、見返りはあった。国王を始めとする人々からは信頼出来る人物であるという評判を得たことである。その評判が「王立施療院」設立準備への参画となった。
形式上はブルックナー伯の熱心な誘いに乗った形ではあったが、キルマはそれをいやがっていない自分に些か驚いていた。今日も救貧院に迎えに来た馬車で宮殿に向かった。
王立施療院の設立は王太后の遺言ではあったが、国王がそれを決定した以上、国策の一つということになる。亡くなった王太后はその遺言状で施療院の院長に第一王女を指名しただけで具体的なことは何も述べていなかった。キルマはふと、皮肉なことだと思った。口を挟もうにも、王太后にはもうそれがかなわないのだから。
第一王女のセシーネ自身は、施療院の設立で、少し持て余し気味だった自分の《力》が他の人々に役に立つことを素直に喜んでいた。ブルックナー伯が《治療の技》を医学の一つと表したことも嬉しかった。十二才で宣誓式を執り行って以来、セシーネは王女という身分が面白可笑しく過ごすことだけではないことを十分理解していた。子供を大人にするのは、己が有益な人間であると自覚することから始まるのかもしれない。
大人びてきた第一王女にキルマは内心複雑な心境だった。第一王女を避けようとして避けきれずに再び毎日相対することになるとは。だが、もう打つ手はある。《見立て》さえ逃れれば、いくらでも…
王都近在の陸軍第二駐屯地は王太子一行の視察を迎えていた。重騎甲冑姿のエドワーズは駐屯地の建物を見回った後、第二駐屯地を預かる第十六師団師団長キーナンス准将に新兵たちを集めるようにと頼んだ。訓練場に整列した新兵たちにまずエドワーズは兵役義務期間の二年を過ぎても軍に残る者たちを選び出すようにキーナンス准将に頼んだ。
キーナンス准将から、命令が次々と伝わり「兵役義務期間が終わっても、軍に残るものは一歩前に」と新兵の訓練係である軍曹が大きな声を張り上げた。整列した新兵たちの中で何名かが、列より一歩前に出た。姿勢は直立のママである。列から一歩前に出た彼ら一人一人にエドワーズは軍に残る理由を尋ねた。その答えにいちいち肯き励ましの言葉をかけた。それが終わると、彼らを訓練に戻すようにと指示をした。そして、軍曹に命じて残りの者たちをもう一度整列させた。
キーナンス准将はエドワーズのすることに怪訝そうだったが、特に咎めなかった。新兵たちも異例なことに戸惑っていた。しかしエドワーズは兜を脱ぎ小脇に抱えると、ゆっくりと再び整列した軍に残らない者たちを見渡した。新兵たちのそしてその場に居合わしたキーナンス准将以下の士官たちも視線を感じながら、大きく息を吸うとこう切り出した。
「僕はアンドーラの王太子エドワーズ・チェンバースだ。」とエドワーズは新兵たちを反応を確かめた。新兵たちは規則通りに直立不動の姿で立っている。軍曹が再び大声を張り上げた。「王太子殿下に敬礼」新兵たちを始め一同の者が敬礼をした。エドワーズも返礼の敬礼し新兵たちを見回した。
「君たちは今、兵役義務を果たすため生まれた家を離れここにこうしている。そして、王太子の僕自身はこの通りいつでもアンドーラのために戦う覚悟は出来ている」と将官甲冑のエドワーズは声を張り上げ、籠手をはめた右の拳で鎧の胸当てにおおわれた自分の胸を叩いた。新兵たちは直立不動の姿勢だったがその表情は戸惑っていた。
「だが、幸いにして、アンドーラを攻め滅ぼそうとする愚かな国は、今はいない。安心したまえ」とここでエドワーズは再び新兵たちをゆっくりと見回した。気のせいか新兵たちの表情は幾分緩んだようだった。
「アンドーラは平和だ。もちろん王国軍に逆らうような馬鹿な反逆者どもも今はいない。そして今厳しい訓練を課せられている君たちは多分訓練だけで終わるだろう。君たちは国民の義務である二年間の兵役が終わったら、多分、愛する家族が待っている家に帰るのだろう。それをとがめるつもりは、僕はない。少なくとも二年はアンドーラのために働いてくれたのだからな。だが、一言、君たちにいいたいことがある」とここで言葉を切ってエドワーズは新兵たちをもう一度見回した。
「男子なら志を持て」そしてまたエドワーズは新兵たちを一人一人の顔を見るように視線をゆっくりと動かした。
「志のない人間は、のんべんだらりと日々を過ごしつまらぬ人間になるだけだ。もちろん、この僕にも志がある。このアンドーラをもっとよい国に、皆が誇りに思えるような国にすることだ。ではどうすればアンドーラがよい国になるか、僕もそのために力を尽くすが、僕一人の力で出来ることではない。国王陛下お一人の力で出来ることでもない。君たちの祖国であるこのアンドーラをよい国にするのはもちろん、君たちの協力も必要だ。君たちの力を貸して欲しい。みんなでアンドーラをもっといい国にしようじゃないか。みんなでこの国を誇りに思えるような国にしようじゃないか。これは、君たち一人一人が心がければ必ず実現できるはずだ。そう僕は信じている。それは、君たち一人一人の自覚にかかっている。自覚とは何か、それは君たちがアンドーラの良き王国民になれるよう一人一人が心がけることだ。アンドーラの将来は王太子である僕だけでなく君たちの肩にもかかっていることを忘れてくれるな。そして、なりよりもこの国を愛し、誇りに思って欲しい。君たち自身も陛下が誇りに思われるような王国民になって欲しい。僕が君たちに望むのはそれだけだ」とここでエドワーズは右手で剣の柄を握った。
「そして、なりよりも、君たちを信じている。そして、家に帰ったら、家族に話して欲しい、王太子のエドワーズが今日ここで話したことを。以上だ」とエドワーズは締めくくった。軍曹があわてて「気をつけ。王太子殿下に敬礼」と大声で号令を出した。キーナンス准将以下がエドワーズに敬礼をし、王太子も返礼の敬礼をした。
「いいですか、王太子殿下直々に共にこの国をよくしていこうといわれて感激しないものはいないでしょう」とこの新兵たちへのエドワーズの「演説」にキーナンス准将は興奮を隠せなかった。王太子の一挙一動を細かく報告するキーナンス准将の話を聞きながら、陸軍の最高権力者ガナッシュ・ラシュール元帥は、国王も王太子も人の心を掴むのがうまいなと感歎していた。まさに仕えるに足る王家である。ガナッシュ元帥はふと、後継者に恵まれない隣国サエグリアを思った。サエグリアの国王には王女しか生まれず、次期国王については色んな憶測が流れていた。もし、王位継承を巡って内乱でも起き、それがアンドーラに飛び火したらとガナッシュ元帥は懸念を抱いていた。幸いにサエグリアの国境に面している駐屯地からは異変の知らせは届いていない。ガナッシュ元帥の思考は、再びアンドーラ国内に戻った。甥の大蔵卿の国税見直しの提案は、なかなか国王の裁可が下りなかった。閣僚たちの意見も分かれていた。大蔵卿の意気込みはわかるが、こと金銭が絡むと人は厄介である。国税の見直しが国民たちに特に土地の所有者たちに与える影響を考えて見ると、国王が慎重になるのもガナッシュ元帥には理解が出来た。そして、少し才気走った感のある甥にもガナッシュは少し心配になる。しかし同時にあの年の頃には自分もそうだったなと少し自省をする。
そして、キーナンス准将の語った第二駐屯地のエドワーズの新兵たちへの演説とその後の新兵たちの反応に、ふとひらめいたことがあるので、前任のメレディス女王の王子ヘンダースに「ちっぽけな策謀家」と称されたガナッシュ元帥は、伝言を書いた書状を今は王宮に居るはずの王太子に届けるようにと、秘書官に命じた。
しかし、王太子のいうことも最もだが、理想は理想として現実をみなければとアンドーラ陸軍元帥は、命令に応じた秘書官が本営室を出て行くと再び書類仕事に戻った。
第一王女セシーネも書類と格闘していた。ブルックナー伯の手による予算書の数字を確認しながら算盤を入れる。ふと気がついてセシーネはブルックナー伯に尋ねた。「この値段というのはどうやって決めたんですか?」
「これは、統一価格表から算出しました」
「統一価格表?」
「ええ、軍は、色々なものを購入する際、決められた価格で購入することになっております。それが統一価格といっております。それを一覧できるようにしたのが統一価格表で、それが、また、土地税を算出する際にそれを基準としております」
「その価格表は、拝見出来ますか?それとも機密事項ですか?」
ブルックナー伯は少し微笑んで「第一王女さまでしたら、かまわないでしょう。明日、お持ちしましょう」
「お願いします」とセシーネは鄭重だった。
アンドーラでは、ジュルジス二世の時代に男子全員に兵役を課すと同時に各領主たちから「軍役料」を徴収していた。それが、現在の国税である。軍役料の時代はその収入は陸軍が管理していたが、国税になってからは大蔵省の管轄となった。それでも、軍備にかなりの費用がかかる。確かに、アンドーラ各地に駐屯している陸軍のおかげで、国内は平穏を保っている。しかし、それだけでいいのだろうかとブルックナー伯は考えている。この王立施療院の設立が、アンドーラの大事な国策になるだろうことぐらいは、容易に察しがつく。確かに「治療の技」という微妙な問題もあったが、それをブルックナー伯は「アンドーラの新しい医学」と位置づけることで自身を納得させていた。後は、他の者たちがどう反応するかだが、それには楽観視は出来ないだろう。ケンナスや第一王女の今後の努力次第だ。自分も助力は惜しむつもりはなかった。大蔵卿を辞したとはいえ、国政に影響力をまだ及ぼしているという満足感がブルックナー伯にあった。
そして、キルマ・パラボン侯爵夫人にも、同じような感情が、心に宿っていた。これは、女官長時代には味わえなかった満足感で、自身が有益な人間だと思え、施療院設立の会議でも積極的に発言した。それをブルックナー伯は、さすがですなよくお気がつかれましたなとかといって感心しながら、キルマの意見を取り上げることもしばしばだった。
施療院設立の準備はブルックナー伯とキルマの両軸で上手く動き出しているようにセシーネには思えた。準備室の会議では、かなり具体的な話も出るようになっていた。
そんなある日。準備室に意外な人物が訪ねてくる。セシーネの乳母だったユーリンである。ユーリンは、セシーネを生んだミンセイヤの侍女としてミンセイヤとともに遠いラダムスンからアンドーラにやって来た。そして、エンバー出身の近衛士官と結婚し、サラボナを生んだ。その後、セシーネの出産が難産せいか乳の出の悪かったミンセイヤの代わりにセシーネに乳を与える乳母となった。母のミンセイヤになつかなかったセシーネの侍女としてセシーネを育てた人物といってよいだろう。現在は、アンジェラ妃付きという事になっている。ユーリンはまず「姫様とキルマ夫人にだけお話ししたのですが」とブルックナー伯に席を外すように頼んだ。ブルックナー伯は、怪訝な顔をしたが、ユーリンは意味深な顔をした「姫様とキルマ夫人に大事な話がございます。殿方には耳に入れたくないお話なので…」
察しのいいブルックナー伯は「わかりました。ちょっと用を足してきます」と準備室から退出した。
「姫様、施療院の事でございますか、施療院では、お産も見るのでございますか」とユーリンはセシーネの気がつかなかったことを尋ねた。実はユーリンは、ミンセイヤの母に勧められて産婆術を学んでいた。現王妃のヘンリエッタの出産こそ立ち会わなかったが、アンジェラ妃とネリア妃はユーリンが出産の世話をした。その他にも王宮に勤める既婚の侍女たちの出産もユーリンが世話をした。
「お産ねえ。考えていないというか、気がつかなかったわ」と意外な盲点をつかれた第一王女である。キルマもあっという顔をした。確かに妊娠出産は病気ではない。が、妊娠の兆候はしばしば病気と間違えるような症状を起こす時がある。
「お産に《治療の技》は利かないわ」とセシーネは《治療の技》の限界を認めた。
「でも、見立てはいかがでしょう。おめでたが姫様はおわかりになるのでしょう」
「確かにわかるけど…」
「だったら、そのような方はこのユーリンがお世話をいたします」とユーリンは自信たっぷりだった。
ここでキルマが間に入った「アンジェラさまはどうするの」
「アンジェラ奥さまにはご許可を頂いてございます。それにお産のお世話というものは数をこなせばこなすほど腕が上がるものでございますよ」とユーリンは主張した。
「それに」と付け加えた「エドワーズ若様のご結婚もございます。メエーネの方がご懐妊なされば、このユーリンが取り上げることは、亡くなれた母君さまがご存命なら、そうお望みになるはずです。殿様にもそう申し上げてございます」
キルマはこのラダムスン出身の乳母上がりの侍女の言葉を聞きながら、ふと自分の権利が侵害されたような気がしていた。しかし、ユーリンの主張ももっともでもあった。王太子エドワーズの結婚は王家の血統の継承を意味していた。それは王家の安泰と王国の存続をかけた国家事業でもあった。国家事業の参画に指をくわえて見ているほどキルマはお人好しでなかった。早速、キルマは反撃に出た。
「それなら、私もあなたのお手伝いをさせてもらいますよ」
ここで、キルマをいつの間にか当てにしていた第一王女が口を挟んだ。
「ちょっと待ってちょうだい、キルマ、それなら施療院はどうするの」
第一王女に、キルマは二者択一を迫られたが、キルマは思いきって両方とることにした。どちらも捨てがたい気持ちであった。
王立施療院の設立への協力は、キルマの王太后の屈折した思いがそうさせていた。もう、国政に口を挟むことができない王太后と違い、キルマの発言力は日増しに増していた。そして王太子妃の懐妊にはまだ時間があった。
「もちろん、施療院のお手伝いも微力ながら、お手伝いさせてもらいますよ。セシーネ」とキルマは女官長時代の口調で言った。セシーネのほっとした顔にキルマは大いに満足した。
一方、ガナッシュ元帥の相談があるという伝言にエドワーズは、少し不安になった。近衛師団の制服の改訂という課題を国王から出されて陸軍は多忙なはずだった。先日の陸軍元帥も同行した駐屯地視察でエドワーズの念願の「鹿狩り」の話はほとんどガナッシュ元帥は自分からは何も話さなかった。同行した王太子付きの退役大佐のポーテッドが、元帥と陸軍軍学校で同期でしかも一回生では同じ班でポーテッドが班長を務めていたと半ば自慢げに教えてくれた。そして、鹿狩りの発案者は亡くなったヘンダース元帥ではなく、まだ中尉だった若かりしガナッシュだということもガナッシュ元帥の親友は、王太子に打ち明けた。しかし、ガナッシュ元帥は「小官が提案したのは、駐屯地の行事としてでありますから、まあ、陸軍全体の行事として取り上げたのはもちろん、殿下閣下でしたよ」と素っ気なかった。
その初期の鹿狩りの発案者は、鹿狩りに何か異論でもあるのだろうか。何しろガナッシュ元帥のあだ名は「文句屋」である。さすがに王太子に陸軍本営部まで出頭せよと書状には書かれていなかったが、早急に面会をしたいとそれもわざわざ王宮まで、ガナッシュ元帥が出向くという。エドワーズは、書状を持って来た伝令に「わかった。僕はこれからすぐでもいいと口頭で元帥にお伝えしてくれ」と返答した。伝令が敬礼をして、王太子の執務室でもある図書室から出て行くと、ポーテッド大佐に「元帥の話ってなんだろう。まさか鹿狩りのことじゃないだろうな」と聞いた。「さあ、文句屋が何を考えているか、わかるようなら、小官も将軍になれたでしょうな」とポーテッドはお手上げだとばかり肩をすくめた。
陸軍元帥が王宮の図書室に現れるまで小一時間ほど待っただろうか、エドワーズは少し無念でもあった。王立施療院の設立のため「準備室」をあてがわれている妹の第一王女の厚遇に比べ自分はまだ執務室さえ与えられていない。やはり、陸軍の総司令官のガナッシュ元帥を迎えるのに図書室ではなく王太子の執務室で迎えたいと思った。これは父親の国王を説得するべきだとエドワーズは心に決めた。
ガナッシュ元帥は、なぜだか満面の笑みを浮かべていた。図書室に入るとアンドーラの王国の王位継承者第一位の王太子エドワーズに規則通り敬礼をした。エドワーズも執務室では座ったまま敬礼を返す父親の国王と違い、立ち上がって敬礼を返す。
「ちょっと、王太子殿下に小官からお願いがございましす」とエドワーズが再び椅子に腰掛けるとガナッシュ元帥は、自分は腰掛けず入口に立ったまま早速本題に入った。電光石火とはこのことか?
「これから、各地の駐屯地をご視察なさる訳ですが、その時、先日第二駐屯地でなさったような演説を王太子殿下にはしていただきたい。キーナンス准将から伺ってますよ。これで第十六師団の士気が高まったとか」
「演説だなんて、大げさだよ」とエドワーズは鹿狩りのことではなく先日の「演説」のことだと知って安堵と戸惑いを覚えていた。
「いえ、殿下なかなかの名調子でしたよ」とポーテッド大佐が、口を挟んだ。
「キーナンス准将なぞは、大感激でしたよ。是非にお願いしたい」とガナッシュ元帥はいつになく熱い口調であった。
「そうですか。わかりました。やってみます」
「お願いいたしますよ」とガナッシュ元帥は満足げだったが、エドワーズは、しかし第二駐屯地のことはどうしてガナッシュ元帥は知っているのだろうと疑問に思った。
このガナッシュ元帥の提案は王太子が視察に行った各地の駐屯地で、様々な反響を及ぼす。それは、アンドーラに対する忠誠心というよりは祖国愛を訴えたものといっていいかもしれない。これはある意味では王位を継ぐ者の義務かもしれない。確かに愛国者というものは厄介な面もあったが、国を大事に思うものは国に何を求め、王家に何を期待するのか、王太子は知るべきだろう。
この時期のアンドーラは、王太子のエドワーズが新兵たちに明言した通りに国民を苦しめる人為的な災害はほとんど皆無といってもよかった。個々を見れば、不幸な境遇の者もいたが国家が国民を害するようなことはなかった。大部分の国民が平和と繁栄を享受していた。しかし、自然の災害は、その地の支配者の仁徳と関わりなく訪れる。無論そう考えない迷信深い者はどこにでもいる。
領地からの急使が、ブルックナー伯の元にやってきたのは、彼とキルマのこれまでも経験からくる能力で、施療院の設立準備が順調に動いていた時だった。その知らせとは、伯爵領で数日、大雨が続き、その影響で元々地盤の緩かった箇所で大規模な土砂崩れがおき、領民たちの家屋が押し流され、死者こそ出なかったが、けが人も数人でたということだった。その知らせを受けてブルックナー伯は、内心動揺と後悔と苦悩があったが、それを表に出すこともなく迅速に動いた。まず、国王に報告と領地に戻る許可を得ると、救貧院へと急いだ。第一王女と救貧院院長のキルマ・パラボン侯爵夫人に事情を説明し、伯爵領に戻ると告げた。「ともかく、領地へ一旦戻って様子を見てきます。あそこは、前から、危ないと思っていたところでしてな」とブルックナー伯はため息混じりにいった。
ブルックナー伯以上に伯爵領での災害にセシーネは動揺していた。それは、災害への懸念よりも、施療院の設立準備にブルックナー伯の手腕が期待できないということになるのではないかという恐怖が、セシーネの心を占めていた。施療院設立の準備のためブルックナー伯がこれまで尽力してくれたが、まだやるべきことは多い。これからのことを思ってセシーネは不安になり、すがる思いでブルックナー伯に尋ねた「これからのこと、どうしたらいいのでしょう?」
「とりあえず領地を見て参ります」とブルックナー伯自身も災害が領地で起きたしまったことと、施療院設立の準備が自分の手を離せるのではないかという無念の思いがあった。
ブルックナー伯の言葉にセシーネはキルマをみた。キルマは落ち着いているようにセシーネには思えた。
「ブルックナー伯、お気の毒ですけど、死者が出なかっただけ、幾らかよろしかったではありませんか。領主は領地に責任がございますからねえ。施療院の方は、第一王女さまと何とかやってみますわ」
「お願いしますよ。キルマ夫人」とブルックナー伯はあわただしく領地に戻るため救貧院を立ち去った。
残されたセシーネは、不安な目をキルマに向けた。キルマもいつも以上に気難しい表情を浮かべていた。キルマ自身も施療院に関してはブルックナー伯を当てにしていた。女王を頂いたことのある国ではあるが、女性が表に出ることは、やはり風当たりが強い。
そのいい例が王太后だった。本人は息子であるジュルジス三世にいろいろ助言をしたがったが、肝心の息子である国王は母親の干渉を極力排除していた。王太后が国政に口を挟みたがるのは、先王の時代からの名残である。ジュルジス三世の父王ジュルジス二世は妻である王妃の助言を尊重していた。確かにエレーヌ王妃は賢かった。だが、賢かったのは自分で何も決められないという振りをしたジュルジス二世であった。彼は、いわゆる政治嫌いであった。しかし、王としての義務は十分果たしていた。この一見決断力のなさがジュルジス二世がとった政治的手法だった。決断力のなさが、周囲の者の意見聞くという独断をさけた開明さを生み、決定に慎重を期すという結果を呼んだ。
アンドーラは論議の好きな国である。この論議好きな国民たちは酒場で、あらゆることを話題に酒を飲むという風習が当然のように行われていた。もちろん主役は、兵役を終えた男性である。この国民の義務は果たしたという自負が国王の品定めをするという、若干不敬罪に問われる危険がありそうな話題も口に上ることになる。しかし、話題として無難なのは歴代の王を評価するという、歴史学者もどきが大勢存在した。その彼らさえメレディス女王は女性としては別格で、女性が政治に口を挟むのは、あまりいい顔をしなかった。それを知っているキルマは、施療院という職場が、女性の手を多く煩わす場所でありながら、経営面では男性が必要だと思っていた。だから、土砂崩れはブルックナー伯爵領の領主であるブルックナー伯と領民たちにとって災難だったが、施療院設立にとっても災難だった。キルマはユーリンの提言に乗って、自身も産婆術を正式に習おうと考えていた。自分自身お産の経験はあるのだし、女官長として王太子エドワーズをはじめ王家の子供たちの出産には立ち会ってきた。キルマは施療院の経営面での協力よりも、実務面での協力を考えていた。経営面は、元大蔵卿のブルックナー伯に任せておけばと考えていた。そして何よりも《見立て》の力のある第一王女セシーネと二人きりになるのを避けたかった。そこで、キルマはブルックナー伯が領地から戻るまで、産婆術を学ぶという口実を設けて準備室へいくことを中断することにした。
そんな訳で、第一王女セシーネの不安はますます強くなっていた。
話は、陸軍の近衛師団の制服改訂に戻る。陸軍は、機動性を発揮していた。
ガナッシュ・ラシュール元帥は、御前会議で国王の命を受けて後、本営本部に戻ると調達局局長のミルバード大佐を呼び出し、近衛師団の制服改訂を命じた。調達局局長ミルバード大佐はそれを仕立て職人の最高位の少佐でもあり調達局の課長でもあるバカラック親方に告げた。バカラック親方は各駐屯地に送るはずだった、制服の布地などの材料を王都に停めと同時に、制服の仕立てを一旦中止し、まだ制服用に裁っていない布地を持って王都に出頭するようにと本営本部の伝令を各駐屯地の仕立て職人の責任者に送った。
そして国王からのいわば追加注文は制服の色を赤にすること以外に甲冑も一目で近衛だとわかるようにするという近衛師団の装束の差別化だけだったが、ここは論議の好きなお国柄である、国王の服も仕立てるマルキス親方は、バカラック親方に呼び出され各駐屯地から集まってきた陸軍の仕立て部門の職人たちと論議を交わしていた。しかし、迅速を旨とするバカラック親方は「職人は口ばっかりじゃだめだ。手を動かさないと」といって早速試作品を作ることに着手した。何着か試作品が作られ、また、論議が始まった。ここでマルキス親方は、近衛師団長と甲冑職人たちの意見も聞こうと提案した。甲冑職人たちも、急遽王都に集まっていたが、作業の場を宮殿では手狭なので第二駐屯地に設けていた。
試作品を見てほしいというバカラック親方を始め仕立て職人の親方たちの依頼に近衛師団の師団長サッカバン.バンデーグ准将は「それなら、女官長のメレディス王女にも見て頂きましょう」と提案した。
メレディス王女は、仕立て職人の親方たちの試作品を見てほしいという依頼に、これは女官長としての役目だと思い快諾した。無論最終決定権は国王である兄のジュルジス三世にあったが、式典の礼装の改革を考えていたメレディス王女は、近衛師団の制服改訂も自分なりの意見を持っていた。
試作品は第二駐屯地でメレディス王女と近衛師団長と甲冑の改訂で忙しい甲冑職人たちにも披露された。
「あら、色を変えるのではなかったかしら」と試作品が従来の制服の草色であることにメレディス王女はすぐ気がついた。
「新しい布を使うのがもったいないので、古い制服を使ったんでさあ」と布地も安くはないことに調達局の課長でもあるバカラック親方は配慮していた。王家の礼装の制作の責任者でもあるメレディスも確かにその点は気がついていた。
当時のアンドーラでは、衣服に使う布地は輸入物が多かった。高価な絹はタジールから、毛織物はメエーネ産が上質だとメレディスは知っていた。だが、陸軍は、なるべく安価にすむようにと機織りを陸軍の軍人たちの妻たちに奨励していた。もちろん、陸軍の制服に高価な絹は使われていない。
古い制服の改訂版というところの試作品を口をすぼめて見たメレディスは「やっぱり、着ているところが見たいわ。これでは感じがわからないから」と注文を出した。仕立て職人の年少のものが試着した。何着かある試作品の中でメレディス王女は、一着の試作品に目を細めた。それは、今までにない斬新な形をしていた。襟が詰め襟で、上着丈が短い、陸軍の従来の制服も文民服よりも丈が短かったが、さらに短くちょうど胴衣のように胴回りまでの長さだった。そして、前合わせも、二重になってかなり斬新なデザインである。
「これ何かは、色を赤にしたら映えるんじゃないかしら。ただ、ズボンは黒にして襟と袖口に黒の縁取りをしたらどうかしら。それからここも」とメレディス王女は前立てをその長い指でなぞった。
「もちろん、裾もね。別に全身真っ赤にしなくても、いいじゃないかしら。陛下のご意向は、他の師団と近衛が違っていればいいんでしょうから。どう思うサック」と近衛師団長の意見を求めた。
「これは、斬新ですな。このような服は見たことがない」
「そこがいいのよ。近衛は流行を作るぐらいの気持ちでいなくちゃ」とメレディス王女は、仕立て職人たちの苦心の斬新な試作品にご満悦だった。甲冑の改訂については、メレディス王女は、女の自分の発言権はないものと口を出すのはやめ、海軍に属する次兄のヘンダース王子に意見を聞いてみたらとサッカバン准将に提案してみた。
「ランセル殿下はどうします」と国王の末弟のランセル王子の名をサッカバン准将はだした。
「そうね、ランセルにも聞いてみないと拗ねるかもね」とメレディスは、ランセルを少々子供扱いした。ここで、バカラック親方が肝心な人物を挙げた「やはり、王太子殿下にも見ていただいた方がいいでしょうし」
「それは、これを赤い生地で作ってからでもいいと思うわ。エドワーズは制服より、甲冑の方が興味があると思うけど、制服も見てもらいましょう」と斬新な試作品がいたくお気に召した女官長であった。
順調な近衛師団の制服改訂に比べ、少しも順調でなかったのは、施療院の設立準備である。領地から、王都に戻ったパウエル・ブルックナー伯爵は、工部尚書のニドルフ・レンゲル子爵を伴い暗い顔で準備室に現れた。
「申し訳ございません、王女さま。領地で起きた土砂崩れは、最悪なことに王国街道をふさいでおりまして、ただ、復旧すればいいという訳にはいかんのです。駐在の陸軍から、この際だから王国街道の整備をしてくれといわれましてな。そちらに手がかかって、施療院のお手伝いどころではなくなりました」とブルックナー伯は、ため息をついた。ため息どころでなくなったのは第一王女のセシーネの方である。セシーネは呆然としていた。
「それは、大変でございますわね」と領主の妻であるキルマ・パラボン侯爵夫人が、同情を寄せた。
当時、アンドーラにおいて、王国街道と呼ばれる街道がアンドーラ全土に交通網として敷かれ、王家領を通る箇所は国の責任だったが、貴族領を通る箇所の整備はその貴族領の領主の責任においてなされる規則だった。無論その費用は領主の負担である。
確かに、陸軍が工事を請け負う例がほとんどだった。
ブルックナー伯は、まず、領主としての責任を果たさなくてはならなかった。何か足元をすくわれた気持ちでならない。大蔵卿時代は領地のことは、当初は家令任せであったが、最近は、成長した跡継ぎである甥に任せていた。もちろん、任せっきりではなく、領地のあれこれは報告も受けているし、国税の納税の時期には、領地に戻っていた。
ともかく、施療院の準備どころではなくなったのは、まぎれのない事実ではある。セシーネは、この事実を重く受け止めていた。
施療院の準備に時間がかかるのは、運営上の問題というよりは、医学的というべきか、実際に治療に当たる治療師の数が少なかったからである。そして、医師の数も多くはなかった。施療院を治療師の治療を受ける場所と定義をしていたブルックナー伯は、見習いたちの成長を待っていた節がある。王室付き魔術師のガンダスのいう通り《治療の技》を使える者が多ければ、それは不思議ではなく常識になる。《治療の技》を公の場に出すことには、まだ、慎重を期する必要があるにはあった。
ブルックナー伯の戦列離脱でいささか混乱気味の第一王女セシーネは「これからどうしたら、いいのでしょう」と途方に暮れていた。
「これからのことは、国務卿のイーサン・カンバール子爵にご相談ください」とブルックナー伯は、セシーネに告げ半分後ろ髪を引かれる思いで立ち去った。セシーネは、ため息をついた。それを聞いたキルマは「さあ、ため息をついていても仕方ありませんよ。どのみち施療院は国務省の民部局の管轄ですからね」とキルマは、かつて教えたアンドーラの政治の仕組みをセシーネに思い出させていた。
「民部局の管轄なの」とセシーネはオウム返しのようにいった。セシーネは、自分がどれだけブルックナー伯に頼っていたか思い知らされていた。セシーネは、当初、単純に施療院を《治療の技》を施す場所ぐらいにしかとらえていなかった。
そして、キルマも意外なところで苦戦を強いられていた。産婆術を習いたいというキルマの要請に王宮のお産を一手に引き受けていたユーリンは、まるで職権侵害だというばかりの態度だった。そこで、キルマは切り札を切った「これは、あなたの姫さまをお守りするためでもあるのですよ。姫さまにお産のお世話をさせるつもりはありませんからね。施療院で、患者の妊娠がわかったら、私が面倒を見ます。そのためにどうしても、産婆術を知っておく必要があるのです」
「キルマさま、お分かりでしょうが、私は、これで王家にお仕えしたいるのですよ」とユーリンもなかなか譲らない。
「でも、王宮にいたら、どうやって姫さまをお守りするの。あなたも施療院に来るつもりなの」とユーリンに迫った。
「それは、殿様に伺わないと」とユーリンは、エンバー出の男と結婚した者らしく、国王を殿様と呼んだ。キルマは、「わかったわ。そうしましょう」と国王の判断を仰ぐことにした。
キルマは国王の秘書スーバスに国王との会見の予定を設けさせた。これは女官長時代にスーバスは手なずけてあったので、キルマには容易なことだった。朝聞いた予定とは違うキルマとユーリンとの会見に国王は「どうした」と怪訝そうだった。アンドーラの最高権力者に膝を折るとキルマは早速要点に入った。
「実は、産婆術のことでございます。陛下」
「産婆術」とますます怪訝そうな国王。キルマは「ご存知のようにユーリンは、産婆術で王宮勤めをしておりますが、その知識を私にも教えていただきたいと存じまして。これは、施療院で、必要となる知識でございます。ですが、この知識は、まだ、年若く未婚の第一王女に学ばせるのはいかがと存じます。そこで、この私が王女さまの代わりにこの産婆術を習得してお役に立ちたいと存じます」
国王は、目を細めてキルマを見た。
「キルマは、施療院に勤めるつもりか」と尋ねた。ここで、キルマは自身でも思いがけない言葉が出た「もちろんでございます。第一王女さまのお力になりたいと存じます」
「そうか、そしてくれるか。あれには、力になってくれる母親代わりのような者が必要だと思う。王妃もよくやってくれているが、下の王女たちに手がかかる。君がセシーネの力になってくれるなら、私も安心だ。あとはブルックナーがいてくれたら、万全なのだが、多分無理だろう。それから、産婆術のことなら、ベンダーにも聞いてみなさい」と国王は、父親としての配慮を見せた。キルマは、国王の支持を得たことで満足だった。そして、従医長のベンダーなら、彼の弱味をキルマは握っていた。だが、それを持ち出さずとも、国王の意向だと告げれば、ベンダーはキルマに協力するだろう。しかしキルマは自身でも気がついていなかった。それは、国王に第一王女の力になると約束したことである。そして、それをいやがっていない自分に。
一方、セシーネは不安が最高潮に達していた。ブルックナー伯の離脱も痛かったが、キルマも施療院のことから手を引くのではないかと、内心、ビクビクしていた。だが、ブルックナー伯が、施療院準備の戦列離脱をした日の夕食の席で、父親の国王から「セシーネ、キルマは当てにしてもいいぞ」とキルマの協力を告げられる。セシーネは本心から、安堵の息を吐いた。しかし、ここでエドワーズが自身の不満を国王に問いただした。「セシーネには準備室があるのになぜ僕には、そういった部屋がないのです。やはり、駐屯地の視察など準備するのにそれなりの部屋が必要です」
ここで、エドワーズの予想に反して国王はあっさりと王太子の請求を飲んだ「そうだな、スーバスにいって部屋を用意させよう」
「本当ですか、父上」と思わず、声が弾んだ。
「そうだな、視察には、演説も必要だからな」と国王は、第二駐屯地でのエドワーズの評判と各駐屯地で演説をするようにすすめたという陸軍元帥のガナッシュ・ラシュールからの報告を受けていた。国王が王太子に執務室を与えなかったのは、王太子が、武術訓練を優先させていたからである。国王自身は武術は剣術と馬術くらいである。エドワーズのように本格的な武術訓練を受けたことがなかった。今も甲冑姿のエドワーズに国王は複雑な心境だった。自身の王太子時代にゲンガスル戦を経験している国王は当時の政略的な観点から、わざと甲冑を身に着けなかった。無論、実戦の経験はない。甲冑を身に着けたのは、当時の陸軍元帥ヘンダース王子と副参謀長のガナッシュ・ラシュールが、閲兵式の式次第を考案して制定してからである。皮肉なことに甲冑を身につけることになってからの方が平和が続いていた。
そして、救貧院の院長キルマ・パラボン侯爵夫人の協力を得たことで第一王女も幾分心の平和を取り戻していた。ブルックナー伯が施療院設立準備から手を引いたことは痛かったが、キルマの協力を得たことだけでもありがたかった。これも、振り返ればブルックナー伯の置き土産みたいなものである。
施療院の準備室に国務卿のイーサン・カンバール子爵は、二人の部下を伴って現れた。その顔ぶれを見たキルマ・パラボン侯爵夫人は、思わず、まあと驚きの声を上げた。第一王女セーネはキルマの反応に反射的にキルマの方を振り返った。キルマは、苦虫をかみ殺したような顔をしていた。セシーネが国務卿の方に顔を向け、国務卿が、アンドーラの法律上自身より上位に当たる王位継承権第二位のセシーネに連れてきた部下とともに文官流の挨拶をした。それがすむと国務卿は部下の紹介を始めた。
「王女さま、こちらが民部局長のジェド・ムッハアでこちらが医事課のレクター・メンドーサ課長でございます」民部局局長は見た限り40代後半であろうか。課長も40才前後に見えた。
「施療院の準備には主にメンドーサ課長が、王女さまのお手伝いさせていただきます」
「そうですか。よろしくお願いします」とセシーネは、国務卿に答えたが、ブルックナー伯より、随分、格落ちだなと思った。そして、セシーネは気がついていなかった。国務卿は暗に施療院の設立はセシーネ自身が主体になって準備をするということを伝えたことに。そしてキルマが「民部局に医事課なんてありましたっけ」と国務卿に尋ねた。
「今回、必要と思いまして、新たに設立しました」と国務卿は、悪びれずに答えた。キルマは畳み掛けた「このことは陛下もご存知なのですか」
「まだ、ご報告はしておりませんが、ああ、陛下のご報告には、これからは、第一王女さまとキルマ夫人でお願いします。今日は私もご一緒させtいただきますが、明日からはお二人でお願いします」
「キルマも一緒なのですか」とセシーネは、ちょっと以外というか、でもキルマも一緒なら安心だと考えていた。
キルマは気難しい顔をしていた「じゃあ、国務卿は、施療院のことはこのレクターに任せてしまうおつもりなのですか」
「無論、報告はメンドーサ君から民部局局長のムッハア君と一緒に聞くつもりですが、何かご不審なことでも」
キルマは追求の手を緩めなかった「国務省の人事に口を挟むつもりはありませんが、なぜ、医事課長がレクター・メンドーサなのですか」
「適任だと思ったからですよ、キルマ夫人。、メンドーサ君は王都の事情に詳しいですし、聖徒教会の自然派の司祭たちにも顔が利くのですよ。キルマ夫人も自然派の司祭や助祭たちが医事行為つまり、診察や治療をしていることもご存知でしょう」
「存じておりますよ」とキルマ。セシーネはここでふとキルマが問題にしているのは、医事課長の人選ではないかと思った。キルマは、レクター・メンドーサとは旧知の間柄でなかと疑ったが、口には出さなかった。それに聖徒教会の自然派のことも気になった「自然派とはどういうものなのですか」
「それは、聖徒教会の一派で、自然派の教義は勤労と創造主への感謝が、主で、礼拝が簡素なのが特徴です。司祭たちも質素なローブで、修道僧と見間違えそうなほどです。信徒たちは貧しい者が多いのですが、最近、貴族も増えてきました。そしてなりよりも、信徒たちのけがや病気の治療をするのです。勿論、治療費は受けとりませんが」と国務卿ではなく医事課長が答えた。
ここでキルマが口を挟んだ「厳密にいうと自然派は医師法違反すれすれですよ。確かにお金は受け取りません。そのかわり、畑の作物を受け取ったり、労働奉仕を要求したりしているのですから。でも、あまり、心配はないと思いますよ。王都の聖徒教会は祭壇派ですから、それに救貧院も祭壇派ですから。しかし、レクター、メンドーサ家はルッキアの信徒ではないのですか」とやはりレクター・メンドーサとキルマ・パラボン侯爵夫人が旧知の関係なのは明らかだった。なお、ルッキアとは海の女神のことで、船乗りたちの信教を集めていた。メンドーサ課長に変わって国務卿が答えた「メンドーサ君には、自然派のことを調べてもらったのですよ。キルマ夫人のご指摘の通り自然派の司祭や助祭が信徒たちの治療をするのは、やはり医事法に触れるのではないかと思いまして」
「あのう、国務卿は自然派のそういった行為が違法だとお考えなのですか」と意外な話にセシーネは戸惑っていた。
「自然派のことは一応陛下にはご報告してございますが、何らかの手を打った方がよいと存じまして。この件はメンドーサ君が処理をいたしますので、王女さまは施療院の準備をお進め下さい。無論、施療院のこともこちらのメンドーサ君がお手伝いいたします」と国務卿は直には手伝ってはくれなさそうだった「とりあえず、これまでの経過をお話しください。ブルックナー伯からはお時間がなくてあまり詳しいお話は伺えませんでしたので」と国務卿はセシーネに説明を求めた。
「どこからお話したらいいのでしょう。そうですね、国務卿は《治療の技》をご存知ですよね」と施療院を《治療の技》を広める場所にしたいセシーネはブルックナー伯が《治療の技》をアンドーラの新しい医学だと定義しようしたことに気を強くして治療師の定義から説明を始めた。言葉を選びながら話すということは難しかったが、時々キルマが話を補足する。
説明を終えた時、民部局長と医事課長の表情は官吏のそれで、これは第一王女の儀式用の顔と似ていた。それに比べ国務卿はにこやかな笑顔といってよかった。
「大方のことはムッハア君もメンドーサ君もわかったかな」と国務卿は部下たちに確認すると「なお、費用に関しては大蔵省が担当しますし、王立施療院法に関しては法務局が担当します。建物の改築などは工部省ということになります」と国務卿がいうと、改めて施療院の設立準備が各省をまたがった政策であることにセシーネは気がついた。
結局その日の会議は国務卿と民部局長と医事課長にこれまでの経過を話しただけで終わった。
国王への報告をするように国務卿に促され、第一王女と救貧院院長は国王の執務室の前に立った。国務卿が「今日のご報告は私からさせていただきますが、明日からは第一王女様とキルマ夫人でお願いしますよ」
国王の秘書のスーバスに案内され国王の執務室に入った三人は規則通りそれぞれアンドーラの最高権力者に敬意を示す礼をした。椅子に腰掛けた国王はうなずいただけだった。
「陛下、今日はまあ顔合わせというところでして、具体的には明日からということになりそうでございます」
国務卿の報告に国王はうなずいて先を促した。
「それよりも救貧院の今後と以前ご報告した聖徒教会の自然派の治療行為の対策として困窮者救済法を立法してみたら、いかがでしょう。確かに、自然派の司祭たちの医療行為は、違法とまではいえませんが、わざわざ禁止をすることはないと思います。むしろ、法によって、きちんと困窮者の面倒を教会でみるようにした方がよろしいかと存じます」
「困窮者救済法な。イーサン、もう法案は、用意をしてあるのか」
「ここにございます、陛下」と国務卿は、書類を取り出した。国王は片方の眉を上げてそれを受け取り、目を通し始めた。
セシーネは、急に不安になり始めた。セシーネが準備を進めている施療院は有料である。それに反し自然派は無料で治療をする。これは手強い競合相手ができたと思った。しかも、困窮者救済法という法ができれば自然派の教会は、おおっぴらに治療行為を国民に知らしめようとするだろう。
一方、書類を読み終えた国王は国務卿に「この件は、閣僚たちで話し合うように」といって、書類を国務卿に返した。受け取った国務卿は「かしこまりました」と一礼をした。
「三人とも今日はもう下がっていいぞ」と国王は退室を促した。
国王の執務室を退出すると、セシーネは国務卿に不安を訴えた「国務卿、やはり、自然派の治療行為が気になりますが、どの程度のことをするのですか」
「まあ、心配いらないでしょう。自然派の司祭や助祭たちのいる教区は地方が多いのですよ。王都の聖徒教会は祭壇派ですから」と国務卿は、セシーネの不安を和らげようとしたがセシーネの不安は消えなかった。
「でも、やはり、気になります。治療師の見習いたちは地方出身者が多いのです。ガンダスが地方を回っているのはご存知でしょう」
「存じておりますが、まあ、自然派のことはあまりお気になさらずに施療院は施療院で、準備を進めていただきたい」
ここでキルマが口を挟んだ「国務卿、なぜ、この時期にレクター・メンドーサを医事課長に抜擢したのです」
「何、適任だと思ったからですよ」
「そうですか」と一旦キルマは引き下がった。
「では、私はこれで失礼させていただきますよ。閣僚会議の準備がございますから」と国務卿は国務省に戻っていった。そして、キルマは「ちょっと、ユーリンに会ってきますので」と王宮に戻るセシーネに同行した。キルマと並んで歩きながら、セシーネは「キルマは、あの医事課長を知っているの」と聞いてみた。キルマは「ええ、よく存知でおりますよ。あのレクターの母親も父親も弟も」
「そうなの。でもキルマ、国務省の人事に口を挟むようなことはしない方がいいと思うわ。それと、帰る時は、私の馬車で救貧院まで送らせるから」とここでセシーネは振り返って護衛についている近衛中尉のビラン隊長に「ビラン、馬車の手配をお願いね。これからは、キルマ院長の宮殿への送り迎えは私の馬車でしてちょうだい」
「まあ、助かりますわ。第一王女さま」とキルマは、少しわざとらしく礼を言った。そしてキルマの自尊心は大いにくすぐられていた。
さて、話は、再び近衛師団の制服改訂に戻る。メレディス王女の助言で、制服と甲冑の見本が出来上がると近衛師団の士官食堂で「内覧会」を開催した。内覧会に出席した王家の顔ぶれは王太子エドワーズ。第二王子のヘンダース海軍大佐、第三王子のランセル陸軍少佐、第二王子の嫡子リンゲート王子、その他にヘンリッタ王妃、第二王子の妃アンジェリカ、第三王子の妃ネリア、そして第四王女で女官長のメレディス、第二王女のエレーヌとそうそうたるメンバーだった。しかし、第一王女は施療院の準備があるといって欠席した。そして陸軍からは陸軍元帥のガナッシュ・ラシュール中将、調達局長のミルバード大佐、勿論、近衛師団長のサッカバン・バンデーグ准将もいた。侍従長のタッカードも出席した。
エレーヌはご機嫌だった。何となく一人前扱いされいているような気になっていた。エレーヌとリンゲートの参加は王妃の提案だった。当初は国王と夕食をともにする王家の者に限られていたが、王妃は、幼いけれど、自分の意志が出て来た第二王女と第四王子の意見も聞こうとメレディス王女を説得した。この辺は未婚のメレディス王女には気がつかない。母親でもある王妃に一日の長があったというべきだろう。そして、出席者にはそれぞれ説明役として一人ずつ仕立て職の職人と甲冑職人がついた。この重要人物扱いにエレーヌはますますご機嫌だった。だがこの説明役は出席者の意見を聞くという役目もあったが、幼いエレーヌとリンゲートがいたずらをしないための見張り役でもあった。
女性たちの興味は赤い布地で仕立てられた制服候補だったが、それは目新しいデザインでメレディスが推奨している丈の短い上着は、王妃を始め、妃たちの評判はまずまずであった。一方、エレーヌはいつもの変だわという台詞を連発して、メレディスに睨められた。まあ、エレーヌの意見を親方たちが取り入れることはなさそうだったが…
従来、陸軍の制服はどちらかというとデザインよりもいかに布地を節約できるかに重点を置いて形を決めているようなところがある。丈の短さはその理論に合っていたが、前身頃を二重に重ね合わせてボタンで留めるという点は、理論から外れていた。そしてズボンも股上を深くして、上着丈の短さで下のシャッツが出ないようにと工夫されていた。ズボンは赤と黒の二色が用意されていた。
制服の試作品がご婦人方に評判がいいことに制服の全軍の責任者であるバカラック親方も近衛の責任者マルキス親方も一安心していた。
一方、男性陣の目を引いたのはやはり、甲冑であった。鎧自体にはそれほどの改訂点はなく肩当てにある肩章に赤い房をつけたくらいだった。問題は兜で、頭のてっぺんから後ろにちょうど鶏のとさかかそれとも馬のたてがみのような物が付け加えられそのてっぺんにはやはり赤い房がつけられていた。
「なんだか、鶏のとさかみたいじゃないか」と海軍大佐のヘンダースは、少し小馬鹿にしたような口調でいった
「でも、わかりやすいよ」と王太子のエドワーズ。説明役の甲冑職人の総責任者のイルム親方が「重騎甲冑も軽騎甲冑もそれほど変える訳にいかんのです。まあ、当時はそれほど考えられて作った甲冑ですから。変更が利くのは兜ぐらいで」と少々言い訳じみていた。
「なあ、費用はどのくらいになるんだ。従来のものに比べてどの程度の費用が増える」と本営本部の調達局員でもあるランセル少佐が尋ねた。これはやはり調達局で甲冑職人のルッカス課長が「重騎は一騎につき50ゼムで、軽騎は45ゼムです。歩兵の兜も同様で」
「安くすませたなあ」とやはり軍の費用がかなりかさむことをランセルから聞いているエドワーズは、国王にはその方が受けがいいのではないかといった。ここで、制服担当であったジャンク少尉が「やはり、陛下にはその方がいいでしょうか」
「まあ、ここは費用をかけるところなのか、それとも費用節減をするべきところなのかは、陛下のご判断によるな」と結局、最終判断は父である国王にあるとエドワーズは肩をすくめた。
そして第四王子のリンゲートは、興奮していた。説明役がつくことも、なんだか重要人物のような気もしたし、陸軍での兵役を希望しているリンゲートは自分は多分以前ランセル叔父がそうだったように近衛師団に配属されるのではないかと思っていた。無論、夢は重騎兵である。リンゲートは説明役に赤い房をつけた兜をかぶってみたいとねだってみた。説明役の甲冑職人が「殿下には大きすぎますよ」といったが、仕立て職人が「まあ、ちょっとだけならいいんじゃないか。兜がどんなに重いか殿下にもおわかりになるでしょうから」とこのくらいならと承諾した。仕立て職人のいった通り兜は思っていたより重かった。
それを父親のヘンダースが見て「リンゲート、何している」と咎めた。リンゲートの説明役が「少しかぶってみたいとおっしゃったので、大丈夫、このくらいで壊れたりはしませんて」
「そうか」と安堵したようでヘンダースは叱らなかった「それより、この変更にはどの程度の日数がかかるんだ」と興味を製作日程の方に移した。
「まあ、今月中に陛下のお許しが頂ければ、年内には終わらせられるでしょう」と甲冑職人のルッカス親方が答えた。
「そうすると、新年の謁見には間に合うな」とランセル
「あと、制服を含め全体の費用はどうなっている。従来のものと比べ、どの程度、費用が増えるんだ」
このエドワーズの質問には制服担当のバカラック親方が答えた「制服の方は染色に一着につき10ゼムほどかさむんでさあ。赤に染める染料が割高なもんで」
「全部で何着作ればいいんだ」
「5000着ほどで。でも、陛下がお許し頂ければ夏服と冬服と、外回りように外套も支給したいんでもんで」と近衛の制服の責任者マルキス親方が、希望をいったが、この希望にはエドワーズは結局は父の国王ジュルジス三世に決定権があるので口をつぐんでいた。しかし、思ったほど費用はかからないなと、近頃経済にも関心を持ち始めた王太子であった。
そして国王以外の王家の人々に試作品は評判はよかったので、親方たちは一安心というところだった。
こうして「内覧会」は無事終了した。後は、アンドーラの最高権力者である国王ジュルジス三世の許可を戴くのみだった。
一方、ブルックナー伯の不在で失速するかと思えた施療院設立の動きは、速度を落とすことなく着々と準備が進められていた。それは、元女官長キルマ・パラボン侯爵夫人の活躍に帰することが多いにあった。ブルックナー伯の後を受けた国務卿推挙の医事課長のレクター・メンドーサと毎日のようにもたれた会議でキルマは的確な指摘をした。それが、キルマの女官長としての経験からでたものかそれともキルマ自身の能力なのかはセシーネにはわからなかったが、キルマの実際に即した発言は、レクターをうならせた。
「さすがですな。キルマ夫人。よくお気づきにおなりましたね」とレクターは手放しでキルマに感服して見せた。確かに、セシーネも気がつかなかったことをキルマは指摘している。レクターの賛辞に対してキルマは固辞をするでもなく、かといって高飛車に振る舞うでもなくあっさりと受け流していた。キルマの落ち着き払った態度は、自信の現れのようにセシーネには思えた。ただ、施療院の設立目的が、当初の予定とは異なり、「治療の技」を中心とした医療ではなく、従来の医学をもとにしたものになりそうなことがセシーネはいささか不満ではあった。ただ、肝心の治療師ケンナスが慎重な姿勢で、セシーネは少し歯がゆかった。ただ、キルマもレクターもまずは、施療院の設立こそ重要だと考えているようだった。それは、父の国王も同じ考えのようだった。確かに「治療の技」は未知数だった。いろいろ試したがるセシーネをケンナスはしばしば諌めていた。そのあたりの事情を知っているキルマはセシーネに王女としての義務を思い出させた。王国と王家に忠誠を誓ったことがセシーネの意識を「治療の技」から、病人の救済へと向かわせていた。
そして、この王立施療院準備室には、閣僚の大蔵卿のヘンダース・ラシュールや法務卿のアンマン・カスケード子爵も顔を出し、セシーネに施療院設立が国家事業だとの思いを深くしていた。この時期、工部尚書の二ドルフ・レンドル子爵は土砂崩れの災害に見舞われその復旧と王国街道の整備という土木工事の必要があるブルックナー伯の伯爵領に視察にいっていたが、従医長のカルーン・ベンダー博士が会議にしばしば加わった。国務省のレクター・メンドーサ課長とベンダーも旧知の間柄で、これは、ベンダーが自身の研鑽と治療師ケンナスの診察技術と《治療の技》を使わない治療法の研修のための場所をメンドーサ家の一室を提供していることから、レクターは、ケンナスのこともよく知っていた。そして、《治療の技》に大しても取り乱すこともなく内心はセシーネには想像がつかなかったが、冷静を装っていた。さすがの国務卿の人選といってよいだろう。この診療室ともいうべき場所のことはセシーネも聞いていたが、実際、行ったことはなく、これもベンダーやケンナスへのセシーネの不満の一つだった。この診療室の事情をレクターから聞いたセシーネは、やはり、診察と治療を有料にすることを考え直し始めていたが、これには、キルマが反対した。そして、国王をはじめ、大蔵卿も国務卿も王立施療院の無料化には、反対の意向を示した。無料にするならば、救貧院をそのまま存続させればいいことだと国王は指摘した。
この施療院の有料で運営することには、国家財政の事情も影響していた。アンドーラ王国は軍備費に費用がかさんでいた。確かに軍の存在は、アンドーラを平穏に導いている。だが、周辺各国を見渡せば、まだ、軍を補強せざる得なかった。国内をみればこの強兵策には、国民たちも半ば必要な物という意識の方が強く、表立っての不満は国王には届いていなかった。
そして、国王のジュルジス三世と国務卿のイーサン・カンバール子爵が、その立法を準備している聖徒教会の自然派の治療行為を容認というより、黙認と言っていいだろう「困窮者救済法」は、むしろ、王都で国政に対する勢力をのばそうと画策している祭壇派には、この新法が打撃となることを期待しての対抗策だった。祭壇派は、自然派より権力志向が強く、これまでも国政に影響を与えようと様々な手を使ってきた。この教会からの無言の圧力はメレディス女王によってくびきを逃れたように思えたチェンバース王家にとって頭の痛い事項だった。
現在、祭壇派の首席の座にいる総大司教ロレンツアは、祭礼の正統性を追求することに熱心な学究肌で表面上は政治的に無難な人物である。だが、高齢な彼がいつまでもその座に座っていれるかは、まさに創造主のみぞ知るである。彼が健在なうちに王都で創造主の威光をちらかせる祭壇派の勢力をそぐ手を国王ジュルジス三世は打たなければならなかった。それには、最近力を伸ばしてきている自然派の勢力を利用するのが最前の方法に思えた。
無論、チェングエンを祖とする福音教会を利用するのが愚の骨頂というべきぐらいなのは、政略家を自負しているジュルジス三世にはよくわかっていた。チェンバース王朝の前王朝の始祖初代アンドーラの国王カーラル・ペレクルスが、聖者を名乗るチェングエンの死後、この地方一体を治めていた福音教会の信徒たちを放逐することで、王国を打ち立てた歴史もあって、チェンバース王家は、福音教会とは一線を画していた。ペレクルス王朝時代には福音教会に対する弾圧もあったし、福音教会の王家に対する抵抗もあった。
そして、《治療の技》という微妙な力を持つ治療師を半ば育成し、その行為を容認することになる王立施療院の設立には、チェングエン以外の魔法は認めないという魔法に対してかたくな見解を示す福音教会が、どういう反応を示すかはある程度予想はできた。そのためにも魔法に対して寛大な聖徒教会それも権力志向をあまり持ち合わせていない自然派の勢力を増す必要があった。まあ、教会同士が勢力争いをしている分には、王家はそれを高見の見物をしていても大丈夫だろうと予想ができた。
第一王女セシーネ自身は聖徒教会の自然派に肩入れをするような「困窮者救済法」は施療院の脅威に感じていたが、他の教会に対する牽制だとはキルマ・パラボン侯爵夫人に指摘されるまで気がつかなかった。それに正式な資格を持った医師の絶対的な不足という事情から、自然派の医療行為はまだ、アンドーラには必要なことでもあった。
それより、セシーネにはまだやるべきことが山積みだった。まずは、治療師の見習いたちを早く一人前にすること。これは、セシーネの師でもある治療師ケンナスや従医長のベンダーの協力で見習いたちの指導は行われていた。そして何よりセシーネ自身の医療技術を向上させること。これはまだ、一般庶民を相手にするのではなく以前と同様に近衛兵を含めての王宮勤めの人々を対象に研鑽をすることにベンダーもケンナスもそして意外なことにキルマも同意した。まだベンダーをはじめ他の従医たちの指導が必要であったがセシーネには診察ができることは、正直うれしかった。
また、王立大学の医学部志望者の減少に対しても、何らかの手を打たなければならなかった。これには、セシーネの父の国王ジュルジス三世は大胆な策を考えていた。それは医学部の学部長の交代である。この人事はセシーネの知らないところで密かに進まれていた。
それは、従医長のカルーン・ベンダー博士の起用である。これは、ベンダー自身が文官の定年の年齢をもうすぐ迎えることもその推薦理由になっていた。ベンダー自身も定年を迎えたら、従医長の席は、副従医長のチャイス・メリエール博士に譲るつもりだった。また、王立施療院の設立も、彼をその気にさせていた。従医長の職を離れた方が、治療師の見習いたちへの指導も医学部の学部長という立場から、気兼ねなく行えると考えていた。だから、国王ジュルジス三世からの医学部学部長の就任の打診には二つ返事で引き受けた。ベンダーは自身の進退を潮時だと考えていた。同じ医師として副従医長のメリエールには、もう十分に従医長の資格があると思っていた。また、王家に仕えるものに必要な家柄も気質も十分備えていた。この人選に国王は当初メリエールの若さに難色を示したが、ベンダーは自身が父親の跡を継いで従医長に就任した年齢を国王に思い出させた。
「そうか、そんなに若かったか」と国王は感慨深げだった。しかし、この人事は、国王と従医長と侍従長のみが承知していて、他のものには伏せられていた。そして、国王は公正な君主であった。この人事を発令する前に、現在の大学の学長と医学部学部長を宮殿に呼んで、弁明の機会を与えることにした。
現王立大学の学長ミッケル・ハイター博士は、大学創立以来、貴族で占められていた学長の座を初めて平民で射止めた人物であった。学長は大学の自治を尊重して教授たちの選挙で選ばれることが慣例になっていたが、国王はあえて、ハイターを推挙する文面を各学部長に送り、陰から平民学長の誕生に手をまわしたいきさつがあった。
国王の執務室に通された王立大学の学長ハイターは、明らかに萎縮していた。一方の医学部学部長のブラド・ルーカス博士も、何か落ち着きがなかった。二人とも国王になぜ呼ばれたか見当もつかないといった風だった。国王はあえてズバリと本題に入った。
「医学部の現状についてだが、最近入学者が減少しているそうだが、その理由について心当たりはないか」
ハイターは、自身の出身の歴史学部のことではないと知り、安堵したようだった「私には心当たりはございませんが」と、さも自分には責任がないと言いたげだった。
「私は、今ぐらいの人数の方が、目が届いてよろしいかと存じます」とルーカスは、国王とは違う見解を述べた。
「そうであろうか、余はむしろ目が届き過ぎて、学生たちが敬遠しているように思えるがな」と国王は口調に君主としての威厳をにじませながら「しかし、今のところ医者の数が絶対的に少ないのは、そなたたちも存じておろう」
ここでルーカスは致命的な失敗をした「しかし、医療面では、聖徒教会の自然派の連中が治療をしておりますから」
「ほう、自然派なあ」と国王は困窮者救済法のことには触れずに「ともかく、一ヶ月以内に医学部志望者が減少した理由の調査と、それを解消する対策を練って来るように。いいかな学長」と国王は逃げ腰のハイター学長に釘をさした。
ともかく、二人には弁明と失地回復の機会を与えた。そして、国王にはルーカスの言動から、なぜ学生の減少の理由が垣間見えた。それは、自然派の治療行為である。やはり、新法はその制定を急がせた方が良さそうだ国王は判断した。
そんな父親の国王の動きを第一王女セシーネは、まったく知らされていなかった。