王太后の遺言
アンドーラでは、かつて栄えた魔法も、チェングエンの魔術師たちの虐殺により途絶えたと思われていた。
しかし、王室に魔術師ガンダスが現れてから不思議な《力》が宿る王子や王女が生まれることになり、それを国王ジュルジス三世は《治療の技》と呼ぶようになった。
その《力》は、異国の地から嫁いできた王妃の血筋だと思われてきた。
しかし、エレーヌ王太后の死後、次々と《力》を持った子供たちが見つかることより、事態は刻々と変化して行くのである。
(序)
後世の歴史家たちのアンドーラ王国のジュルジス2世の王妃でジュルジス3世の母でもあるエレーヌ・エンガム・チェンバースの評価は、低いものはジュルジス3世を生んだだけというものから、最大級のものはジュルジス2世と共にアンドーラ王国の繁栄の基礎を築いたと幅広いが、王国への貢献の一つとして施療院の設立を挙げるものは、数少ない。それは、建設物の価値基準とも似ていて、建設せよと命じた人物に重きをなすか、建物の設計をした人物を讃えるべきか、それとも実際に建設に汗を流した人々こそ名を残すべきだと主張するかの違いであろう。
だが、王立施療院の発案者は紛れもなくジュルジス2世の王妃エレーヌ・エンガム・チェンバースその人であった。しかし、その建立の日を見ることはなかった。なぜなら、その提案は遺言書という形でなされていたからである。
国母エレーヌ王太后は自分の死後のことを事細かに遺言に残していた。その中に施療院の建立とその院長の座にジュルジス3世の長女セシーネ王女がつくように指示された項目があった。。
当初、国王ジュルジス3世は亡き母の遺言書なるものにいたく機嫌を損ねていた。国王は王太后の死後初めてその遺言書なるものを目にしたのだった。彼は実の母親からその死後について何の相談も受けていなかった事実に内心の怒りを隠せなかった。母を失った悲しみよりも、亡き母の最後の意思表示ともいえるそのやり方に腹をたてていた。それは葬儀の式次第から始まり、遺産の分与も小さな指輪の一つまで誰に贈るか指定してあった。その長文の中で数行が、施療院の建立という記述に費やされていた。
そもそも、国母とも称される王太后の葬儀は国家行事の一つである。その遺産の処分についても法律の分野であり、ましては、施療院の建立は国家の政策といってもいい事柄である。国家にも影響を及ぼす遺言書を残すとは、政治好きな王太后らしかった。
葬儀や遺産については故人の意思を尊重にするようにと指示をした国王も、施療院の建立には戸惑いを隠せなかった。病気やけがの治療をする施療院の必要性は十分承知していた。だが、問題は《治療の技》だった。《治療の技》が国王を躊躇させていた。切り傷を跡形ともなく瞬時に直してしまうその技は当時、ただ《治療の技》と名付けられていただけで、魔術なのかそうでないのかさえ確かなことはわかっていなかった。そして、厄介なことにその不思議な技の使い手が、世継ぎである王太子とその妹、第一王女であるということにあった。その事実が国王にいつもの決断力を失わせていた。
いわゆる魔術と称するものが教会の管轄下にあるとは考えていなかった国王は、《治療の技》も同様に教会の分野ではないと思い、教会の司祭たちにそれについて意見を求めることはなかった。そして、国務卿をはじめ国政を司どる閣僚たちも国母の遺言という法的な根拠が曖昧な事柄に積極的な発言をすることもなかった。従ってせっかくの国母の提案も日の目をみることもなく、日々の雑事に埋もれて忘れ去られるはずだったが、思いもかけぬところから国母の提案に賛同者が出た。
いつもの決断力はどこへやら、珍しくぐずぐずと優柔不断な国王を説き伏せたのは、以前《治療師》のケンナスを見つけてきた王室付魔術師のガンダス・ローウィック博士だった。その当時、アンドーラで唯一、魔術の使い手でもあったガンダスは、魔術について魔術を使えない他の者たちから尋ねられると答弁に使う論法で国王の説得を試みた。
「《治療の技》が一人にしかできなければ、人々はそれを不思議に思い、怪しんだり怖れたりするでしょう。ですが、陛下、《治療の技》を使えるものが百人いや、千人いたらいかがでしょう。《治療の技》は不思議でも何でもなく、人々は当たり前のこと思うものです」
今はなき王太后の反対を振り切ってガンダスを王室付魔術師に任命した国王は苦笑いをし「ガンダス、そのような詭弁で私を言いくるめようとするな」
「詭弁ではございません。確かに初めて《治療の技》を見たものは驚き、中には恐れたりするものもおりましょう。それが、日常茶飯事に見るようになれば、人々はそれを自然なことと受け入れるようになるのです。ましては、その技を使えるものが大勢おれば、特別なことと考えなくなりましょう」
「それはどうであろうな。」と国王は相変わらず煮え切らない。
「陛下、ならばなぜこの私を王室付魔術師に任命なさったのですか?魔術や《治療の技》がこの世に存在するとお考えになったのではないのですか?」
「そう、私を責めるな、ガンダス。確かに、そなたのいう通りかもしれない。《治療の技》を使えるものが大勢おれば人の見る目も変わってくるかもしれん。だが、《治療の技》を使えるものが。他にもいると思うか?」
「探せば、他にもおるはずです」
「そなたならそのようなものを見つけられるであろうな」とガンダスの不思議な能力を知っていた国王は幾分か期待を込めてたずねた。
「必ずや、見つけて参りましょう」とガンダスは国王に請け負った。
そのようなわけでガンダスは、《治療の技》を使える《治療師》を探す旅に出たのだった。
よくよく考えて見れば、《魔術師》のガンダスの存在自身が不思議だったが、国王は、それについて周囲のものたちに異論を許さなかった。国王の重臣たちも「政治」には口を挟まないガンダスを容認していた。当時のアンダーラでは《魔術師》は微妙な存在で、ガンダス自身も自分のおかれた立場をよくわかっていて、ある時期、まるで道化のようにふるまっていたことすらある。だが、国王はガンダスの魔術の力でなく、その豊かな学識と深い洞察力を買っていた。国王が表だってガンダスの助言を聞くということはなかったが、《治療の技》に関しては、ガンダスは自分の領分だと思い、珍しく自分から面会を求めてきた。王太后の遺言に頭を悩ませ、勅命を発してその遺言を無効にしてしまうかとさえ考えていた国王は、ガンダスの密かな提案にうなずいた。
そして、ガンダスも何の勝算もなく国王に約束した訳ではなかった。ガンダスには不思議な力を見抜く眼力が備わっていた。
だが、ガンダスの《治療師》を探す旅で見つかったのは何人かの《治療師》になりそうな《治療の才》のある子供たちだけだった。その報告を受けて国王は、「ガンダス、千人は見つからなかったな」といって笑った。確かに《治療師》を探すのは国王の勅命である。しかし、世間の人々の「魔法」に対する反応を熟知していたガンダスは慎重だった。ガンダスは旅の間、魔術師とは名乗らず、国王に仕えている学者と称していた。まぁ、ガンダスはアンドーラ王立大学の博士号を持つ身分でもあるから、身分偽称ではないが、やはり魔術師と名乗れないことは不本意ではあった。
しかし、意外なことに国王は、施療院の設立を決定した。国王の心境がどのように変化したかは、正式な記録には残っていない。
国王が決意した以上、それは国家事業である。ただ、この事業に関しては、慎重を期する必要があった。不思議な《技》を使う《治療師》をどう扱うべきか、国民たちの反応が気になる国王であったが、ガンダスの助言を入れると、第一王女セシーネが王太后の遺言通り王立施療院院長に就任することを決定した。だが、この決定には、セシーネの兄であるエドワーズ王太子が不満を申し立てた
「僕にだって《治療の才》はあります」
王太子の主張に国王は、片方の眉を上げただけだった。そして、王位継承者第一位の申し立てをあっさり却下した
「王太子、王太子の役目は、病人やけが人の治療ではなかろう。まあ、ばあさんの遺言はセシーネにやらせろということだな」と国王は、セシーネの院長の就任が王太后の遺言であることを強調した。
エドワーズは、内心の喜びを隠してすました顔をしているセシーネをにらみつけ、再び、国王に問いただした
「では、僕の役目とは何ですか」
エドワーズの質問に、国王は意外なことを言った。
「まあ、結婚することであろうな」
エドワーズは国王の言葉に当惑気だったが、セシーネの頭の中は、これで《治療の技》を思う存分使えるという思いでいっぱいだった。エドワーズの結婚なんてどうでもよかった。それに婚約者がいるということは、いずれ結婚するということでもあった。しかし、エドワーズは、父親の国王に食い下がった
「いえ、そうではありません。そうではなくて、施療院というか、《治療師》というか、つまりセシーネはまだ子供じゃありませんか」
セシーネは自分を子供扱いする兄に抗議した
「子供じゃないわ、お兄さま、いえ、王太子殿下、私だって、宣誓式で忠誠の誓いをいたしましたの、お忘れになった?それにケンナス先生のおかげでずいぶん腕をあげたのよ」
エドワーズはセシーネの言葉に納得していなかったが、国王は厳かに自分の世継ぎであるエドワーズ王太子にこう告げた。
「王太子、余の決定に不満があるようだったら、自分が国王になってから、自分を院長なり何なりに任命すればよかろう」
これでエドワーズも引き下がるしかなかった。しかし、セシーネに「セシーネ、施療院の院長になるという事は《治療の技》を見せびらかす事ではないぞ」と釘を刺すの忘れなかった。
(1)
セシーネが《治療師》のケンナスから《治療の技》を学び始めた頃、兄の王太子エドワーズも一緒だった。最初はむしろエドワーズの方が熱心だったし、二人の教育のため、王室付従医長のカルーン・ベンダー博士の提案で造られた図や人体模型で身体のいろいろな器官の名称やその機能を覚えたのもエドワーズの方が早かった。だが、羊の「解剖」で、エドワーズはつまずいた。
その「解剖」での彼の役目は、従医長のベンダーが切り取った内臓や肉を秤で計測することだった。エドワーズは、羊の血だらけのもも肉を秤に乗せ、錘で重さを量りながらぼやいた。
「まるで、肉屋にでもなった気分だな」
ただ、眺めているだけのセシーネは、無邪気に兄に尋ねた
「ニクヤってなんなの?お兄さま」
エドワーズに代わり、治療師のケンナスが教えた
「人が食べる肉を売る商人のことですよ、王女さま」
「王女さまはやめて、ケンナス先生。セシーネと呼んで下さいな」セシーネは何度か頼んだことをもう一度、口にした。
ケンナスは、はにかんだように微笑んでうなずいた
「わかりました、セシーネ」
それ以来、ケンナスは、彼女の師匠として振る舞う時には、セシーネ王女をセシーネとよぶようになった。
そして、王太子のエドワーズは、解剖にそして医学にも興味を失った。彼自身他の王太子としての勉強すなわち次期国王としての勉学に忙しくなったからでもあったが……
アンドーラ王国とって幸いなことに《治療の才》はセシーネの方が力は強かった。次期国王が《治療の技》に長けているよりも、もっと必要なことがあるにはあった。そして、当然のように第二王位継承者であるセシーネは、従医長のベンダーと治療師のケンナスからは医学と薬学を学んでいった。それについては、色々意見を国王や王太后に述べるものもいたが、国王は取り上げなかった。
《治療師》という呼び方は国王が名付け、国王自ら、ケンナスにこう告げた
「ケンナス、そなたは医師ではない、これからは《治療師》ケンナスと名乗るように」
当時のアンドーラの法律では、大学の医学部を卒業しなければ、医師と名乗る事はできなかった。だが、ケンナスは独学で医学を学んでいた。その見識については、従医長のカルーン・ベンダー博士が保証し、また、ケンナス自身も《治療の技》に頼ることは危険で、むしろ、医学の知識が必要だと国王や王太后を説いた。ケンナスはアンドーラの最も権威のある二人の前で悪びれず
「どんなケガでも病でも治せる訳ではございません。薬を使う時もございます。むしろそちらの方が多うございます」と言った。
王太后は幾らか疑わしげではあったが、従医長のベンダーの助言もあって、《治療師》ケンナスは、エドワーズとセシーネの《治療の技》の教師となった。国王としてあるいは父親としてジュルジス3世の望みは、幼いエドワーズとセシーネがナイフでお互いを切り合っては、その傷をふさぐような事態は避けたかっただけだった。
ケンナスはエドワーズとセシーネの二人に彼の許しなしに《治療の技》を使うことを禁じ、これは国王陛下の命令だといった。どこといって特に人目を引くような所もない平凡な感じの男にしか見えないケンナスをエドワーズは、不審そうに見つめ、小さい胸を精一杯そらせると「勅命と言うんだよ」
ケンナスは
「ええ。そう思って下さい。約束ですよ、いいですね」
エドワーズとセシーネはケンナスにとりあえず約束した。年長者には、礼儀正しく接するように王太后から、きつく言い渡されていた。ケンナスは、二人にこう付け加えた。
「間違って傷をつなげると、とんでもないことになりますから」
「どうなるの?先生」とセシーネは無邪気に訊ねたが、エドワーズは相変わらず不審なようだった。ケンナスは
「指が曲がる向きが違っていたら困るでしょう、こんなふうに」
ケンナスは人形の人差し指をナイフで切り取ると、のりで甲と手の平と向き変えてつないで見せた。
「ちゃんと握れませんでしょう」
エドワーズは目を丸くして「本当にそんなこともできるのか?切れた指をつなげることも」
「ええ、私のいう通りにして下されば、出来るようになるかもしれません」
「出来ないかもしれないのか」
エドワーズは落胆し《治療師》に興味を失いかけていたが、セシーネはケンナスに尋ねた「でも、先生は出来るんでしょう?」
ケンナスは、はにかんだように微笑んだ。「ええ、指ではありませんけどね」
「何をつないだの?先生」
ケンナスは自分の左腕の肘と手首の中ほどを右手で切るような仕草をしてみせ、「腕をここから」
エドワーズもセシーネもそれには驚き、
「すごい!本当か」
とエドワーズは敬意のこもったまなざしでケンナスを見つめた。
こうして、二人はケンナスから一日、一時間だけ《治療の技》を学ぶことになった。
むろん、父である国王は、王太子と第一王女の二人を《治療師》なぞにするつもりはなく、互いに切り傷をつけあっては治療する二人の危険な遊びを止めさせられば、それだけでよかった。
だが、国王の思惑とは別に《治療の技》を禁じられたセシーネの体調が悪くなった。元々、病弱だった王女が熱を出したのだった。数日、セシーネの高熱が続き、従医長のベンダーは、セシーネの診察をした後、思いあまり、《治療師》のケンナスに相談した。セシーネの病状を聞いたケンナスは
「ひょっとしたら、《力》が溜まっているからかもしれません。説明が難しいのですが《治療の力》が体に溜まるとこうなった時があります」
ベンダーは、国王に進言し、そして《治療師》ケンナスの言葉通り、セシーネの熱は、ケンナスが、自らナイフで傷つけたケンナスの腕の傷をふさぐと、数時間後に平熱に下がった。
この深刻な事実に国王は、ため息をつき、他に治療法はなかったのかと従医長と《治療師》に問いただした。ベンダーは顔をふせ、ケンナスは、返答に躊躇した。国王は二人に「かまわぬ、有り体に申せ」と促した。
国王に促され、ケンナスは確実ではございませんがと前置きしてから、《治療師》独特の診察法について説明した。ケンナスはそれを《見立て》と呼んでいた。《見立て》をすると《治療の力》が若干、放出されるのではないかと、また、《治療の技》は本人自身には効かないことなどを語った。国王は、再び重いため息をついた。
だが、ケンナスの言うところの《見立て》はセシーネの発熱に効果があった。その前に、エドワーズがこっそり隠れて《治療の技》を使っていないことも慎重かつ厳重に調べられた。
そして、ケンナスの授業は、セシーネとエドワーズと別々に行われこととなった。セシーネはエドワーズがケンナスからどのような教えを受けたかはあまり興味がなかった。4才のセシーネにとって《治療の技》を学ぶことは、遊びの延長線だった。《見立て》をし、人体図で病に冒されている箇所を指摘すればよかった、祖母の王太后の病気を発見するまでは……
国母と尊称されたエレーヌ王太后を看取った後、キルマ・パラボン侯爵夫人は女官長を辞し、表向きは、王太后の遺言となっていたが、国王の密命を帯びて救貧院の院長の職に就いた。文官の定年制からいえば、とうにその時期をこえたキルマにとって損のない処遇だった。
救貧院は亡くなった王太后が王太子妃時代に彼女の発案で困窮者の救済を目的に設立されたが、聖徒教会の修道院だった建物と修道女によって成り立っていた。先王と現国王と二代に渡って女官長をつとめたキルマにとって救貧院の院長の職務をこなすことなどたやすいことだった。そして、国王から密かな命を受けたという事実がキルマの自負心をくすぐって彼女は王都の外れに位置する救貧院で機嫌良く過ごしていた。
その平穏が破られたのは、王室付魔術師ガンダスがみすぼらしい一団を引き連れて救貧院に現れた時だった。キルマにしてみれば、ガンダスはいつも厄介の種だった。それは、魔術師という肩書きは職業なのか、身分なのかそれとも人種なのか分類は定かでないが、魔術師と名乗るガンダスの気まぐれな言動は、キルマの計算を狂わせた。今回も突然、見るからに身分の高いとは到底思えない一行を連れてきてその面倒を見るようにとキルマに半ば命令口調で押し付けようとした。キルマは当初それを断ろうとしたが、ガンダスは、これは勅命なのだと片目をつぶってみせた。国王の威光をかさにかけることは、キルマは嫌いでなかったが、その逆は不愉快だった。
「ガンダス、軽々しく勅命などというのは、どうかと思いますね」
「キルマ夫人、お前さんは今、どんな職に就いている?」
「救貧院の院長を拝命しておりますが」
「だったら、彼らの面倒を見るのはお前さんの役目であろうて、彼らが裕福に見えるか?」
キルマは、彼らが餓えて死にそうにも見えないと言い返そうと思ったが、ガンダスが何を企んでいるか探るのは、彼らを預かり、彼らから聞き出した方が手っ取り早いと計算し、ガンダスの申し出をしぶしぶ承知した。
「わかりましたよ、ガンダス。食事と休む場所の世話は、いたしますが、彼らが、何か面倒を起こしたら、責任はあなたにとっていただきますよ、いいですね」そしてキルマはかれらとガンダスが何日も体を洗っていないような臭いをさせていることを思い出し「それから、ここにいるのなら、体は清潔にしてもらいます」と付け加えた。
「お前さんなら、そういうだろうと思ったよ」とガンダスはわけありげにニヤリとした。
しかし、子供たちも混ざっていたガンダスの連れたちは、何のためにこの王都にやってきたかそして、ガンダスの正体さえも、その答えは要領を得なかった。キルマはまた、ガンダスにしてやられたという腹立たしい思いだったが、それを人前で口に出すほど愚かではなかった。そして、当事者の彼らさえ、自分たちがなぜガンダスにここに連れられてきたのかよくわかっていなかった。
結局、キルマがその理由を知るのは、ガンダスが今度は、近衛兵たちに先導されて第一王女たちとともにやってきた後だった。
ガンダスの見つけ出した子供たちが、救貧院にいると叔父のランセル王子から聞かされたセシーネは早速、ガンダス、《治療師》ケンナス、従医長のベンダーとともにそして、これは国家事業だと言いつのるランセルも加わって救貧院に向かった。
騎乗の近衛兵たちの後にセシーネたちを乗せた馬車が救貧院の門を過ぎ、玄関に横付けされた。玄関にはセシーネも知っている人物が馬車を出迎えた。女官長だったキルマ・パラボン侯爵夫人だった。セシーネはキルマの登場に緊張をしたが、ランセルはセシーネを制し馬車から飛び降り、元女官長に近づくと
「まだ、いたのか?キルマ」
「わたくしは、ただ、国母さまの命に従っているだけでございます、殿下」
「ご苦労なこったな」
ランセルの元女官長に対する皮肉っぽい口調にセシーネは内心驚いたが、無表情をよそおった。ランセルは
「客人たちはどこかな?キルマ」
「お客様をもてなすようにはうかがってはおりませんが…」
「ガンダスが連れてきた連中のことさ。彼らは別にただの食事にありつこうとここに来たわけではない。大事な用があってはるばるとこの麗しい王都にやって来た。案内してもらおうか」
ランセルが院長室で彼らに会うとキルマに命じた。キルマは、一緒に出迎えた灰色の修道服を着た中年の小太りの修道女に彼らを呼んでくるように言いつけた。院長室に入ると、ランセルは、露骨にキルマを追い払おうとした
「君は、お恵みを求めてやって来る連中の面倒でも、みにいったらどうだ、ん?」
ランセルの言葉にキルマは、細くギスギスした顔をこわばらせ、少し背筋を伸ばしたようにセシーネには思えた。
「わたくしは、国母さまから、救貧院の院長に任命されました。いくら殿下でも勝手なことをされては困ります」
「母上はもう死んだんだ。君だって葬儀には出たんだろう?まあ、世の中はいろいろ変わってくるのさ。俺たちが何をするか詮索するより、自分の仕事に戻るんだな。心配するな、君のこの部屋を少しの間、借りるだけさ」とランセルはキルマに行けとばかり手を振り、渋々院長室を出ていくキルマに追い打ちをかけた。
「施しをする奴らが、王家領のものか確かめておくんだな」
キルマは振り返りもせず、足早に立ち去った。
「あいつ、俺たちに対する礼も忘れていやがる」
セシーネは、ランセルのキルマへの態度に不審を抱いた。元々“第三王子”は、言葉遣いは乱暴だったが、これをランセル王子は武官風なのだといっていたが、セシーネは「叔父さまは、キルマが嫌いなの?」と尋ねてみた。ランセルはそれには答えず
「豪勢なもんじゃないか、え?」と院長室を見回し「ここは初めてか?セシーネ」
「この部屋は初めてよ、叔父さま」
確かにランセルの言う通り、玄関から通ってきた廊下比べると、院長室の中は贅沢な家具調度が備えられることがセシーネにもわかった。先ほどの修道女に案内され、男たちが院長室に入って来た。ランセルが「子供たちは?」と訊ねると修道女が「連れて参りましょうか?殿下」
「いや、後で会おう。あの子たちの面倒をよく見てやってくれ。大事な子たちなんだ、アンドーラの将来にとってな」
修道女は、にっこりと肯き「かしこまりました、殿下」と膝を折る高位に対する正式な礼をすると院長室を出ていった。室内には、セシーネたちと、貧しい身なりをした男たちが残された。ランセルは、落ち着かなげに部屋の隅に寄り添って立っている男たちを見やり、声を掛けた。
「気を楽にしてくれたまえ。君たちは、全員、兵役義務を果たした、善良なアンドーラ王国民であることはわかっている。階級章を見ての通り俺は、ランセル少佐だ」
セシーネは、この時ややっと叔父が軍服なのかわかった。アンドーラでは、見知らぬ男たちが親しくなる話題の一つが兵役だった。ランセルの言葉に男たちの一人が思いきったように少し前に進み出ると
「自分は伍長でありました」と軍隊式に敬礼をした。ランセルも敬礼を返し、
「アンドーラ王国のためご苦労であった。だが、今回、ここに集まってもらったのは兵役についてではない。ついで言うと俺は国王陛下の二番目の弟という有り難くない身分でもある」
男たちは再び落ちつなげにそわそわし始めた。
「先ほども言ったが、気を楽にして聞いてくれ。俺はあまり礼儀作法にうるさくないんだ。まず、連れの紹介からさせてもらおう。まず、こちらはガンダス。税収役人のように見えるが、実は王室付魔術師だ」
男たちは魔術師という言葉に微妙な顔をしたが、ただ疑問は口にしなかった。
文民服を着たガンダスが苦笑いしながら彼らに大げさにお辞儀をした。ランセルは続けて、従医長のベンダー博士、治療師のケンナスと紹介すると元伍長が怪訝そうに
「治療師?」他の男たちも互いの顔を見回した。ランセルは
「治療師については、今、紹介が終わったら、説明しよう、後、こちらがケンナスの弟子で治療師見習いのセシーネ。ケンナスの弟子でよかったかな?」
「ベンダー先生にも、色々教わっています」セシーネは、殿下と付け加えようかと迷ったが、余計なことはいわない方がいいかと口をつぐんだ。ランセルはきびきびと尋ねた
「君たちは?とりあえず名前を聞こうか」
まず、元伍長が、
「自分は、セルベックであります」と名乗り、続いて男たちはそれぞれ名前を名乗った。それにランセルは一人一人に肯いて答え、その後、治療師について説明をした。《治療の技》については省略した。セルベックたちはまだ納得がいかないようだったが、セルベックがおずおずと
「つまり、医者ということありますか?」と、どうやら、セルベックは《治療の才》がある子供の親たちの代表をかって出たようだった。
ランセルが正確に言うとと前置きし《治療師》は医者とはよべなないかもしれない。法的には、王立大学の医学部を卒業し博士という学位を取らない医師と名乗れず、また、学位とは、軍隊で言う階級みたいなもので、学士が下士官なら、博士は士官みたいなものだ。今度、新しい法律が出来、《治療師》も医師のように病気やけがの治療が出来るようになること、《治療師》はそう言った治療がうまいんだといった。
「絵のうまい奴が絵描きになるみたいなもんだ、諸君たちと一緒に来た子供たちは病人の手当がうまいんだ」
男達はまだ怪訝そうだった。セシーネは《治療の技》を見せればいいのに思ったが、黙っていた。カルバントスと名乗った男が
「それがどうしてわかるんで?」
「ガンダスには、それがわかるんだな、何しろ魔法使いだからな」
「魔術師と呼んでほしいですな、殿下」とガンダスが訂正した。ベンダーがよろしいでしょうか、殿下と断ってから、実際に《治療の技》を見せた方が早いではないでしょうと言った。
「陛下には、ご許可をいただいております」とベンダーは付け加えた。《治療の技》を知らない人間には《治療の技》を見せるには慎重を期す必要があった。
セシーネは《治療の技》を自分にさせてほしいと思ったが、ランセルたちは何もセシーネには言わなかった。ふいにガンダスが空中からナイフを取り出しケンナスに手渡した。セルベック達がぎょっとしたが、ガンダスのちょっとした「手品」になれていたベンダーは落ち着き払って自分の服の袖をめくると、ケンナスに「頼む」と言った。セシーネは少しがっかりした。セシーネは傷を治すことも出来たが、ナイフを使わずに体に傷をつけることも出来た。これは《治療の技》を逆に掛けるだけでよく、エドワーズには出来ない技の一つだった。
セルベックたちが怪訝そうに見守る中、ケンナスがナイフでベンダーの腕を切りつけると2インチほどの切り傷から血がにじみ始めた。ベンダーが、平然と傷口を、息をのんでいるセルベックたち一人一人に見せた。よろしいですかなと言うと、ケンナスは《治療の技》でゆっくりとベンダーの傷をふさぎ始めた。セルベックたちは目を見張り、中には口に手を当てるもの、あえぐものもいた。ケンナスが傷をふさぎ終わると、ベンダーは男たちに腕を見せた。一人が傷跡もないと呟くと、ベンダーが、それが《治療の技》の不思議な所だと言った。セルベックは小声でガンダスに魔法ですかい?と聞いた、「人は説明の出来ない不思議なことがあると、魔法と言いたがるものじゃよ。だが、魔法は不思議でも何でない。」とガンダスはいつも繰り返している事を言った。
「あんたにはそうだろうな、ガンダス。アンドーラ王国は、魔法を法的に認めている国でもある。今度は《治療の技》を合法と認めるわけだな」とランセル。セルベックはどういう事なのか自分にはわからないとつぶやいた。ガンダスはセルベックに
「お前さんには、太陽が毎朝、東から昇り西に沈むことの説明がつくかね?それを魔法とは呼ぶかね?」
セルベックは首を振った。ガンダスは、続けた
「お前さんたちの一緒にここに来た子供たちは《治療の才》がある。つまり、今このケンナスがやって見せたようなことができるんじゃな」
セルベックたちはまた、目を見張った。
ベンダーが、わたしには、こういう傷の治し方はしません。縫い合わせます。今ぐらいの深さだと縫わなくても、治りますがとなぜかベンダーは苦渋に満ちた表情を浮かべた。セシーネはふとベンダー先生は自分に《治療の才》がないことを残念がっているのかしらと思った。ケンナスは
「わたしは事故を防ぎたいだけで」
「事故?」とランセル
「ええ、子供たちが勝手に今みたいなことをして大けがをされては困ります。《治療の技》は何でも治せると言うわけではありません。また、《治療の才》があっても、どの程度なのかもわかりません。普通の医学を学ばせるおつもりでいたほうがいいでしょう。どの病気にどんな薬がいいとか、傷口を糸で縫う方法も教えます。ただ、向き不向きはあります」とケンナス、セルベックが
「向き不向きとは?」と、
「こういったことは好きでないとな、そういうことだろう、ケンナス?」とランセル。ケンナスは肯いた。ランセルは「とりあえず、一年間こちらのケンナスに預けてくれ。悪いようにはしない。文字の読み書きとか、そうだ、算術も教えよう。むろん《治療の技》もな」ランセルがそう言うと、ケンナスがその前に子供たちに会いたいと言ったが、セルベックは、
「こっちのお嬢ちゃんにも同じようなことが出来るんですかい?」
セシーネは当然よと言おうとしたが、代わりにケンナスが多少のことは出来ると答えた。ケンナスの言葉にセシーネは不満だった。ケンナス先生たちは《見立て》ばかりさせるんだもの。《治療の技》を試す機会なんて滅多にないのに……
もう少し詳しい話を聞きたい、親たちから頼まれた以上自分には責任があるというセルベックにガンダスが、取りなすように
「親たちが王都まで来られませんでしたから、殿下」
ランセルが殿下はやめてくれ、じゃないとあんたを閣下と呼ぶぜ、俺は王子という身分にうんざりしているんだといった。
ベンダーが咳払いをした。
ランセルは、「セルベック、君は責任感が強くて結構だが、子供たちに会ってから改めて詳しい話をしよう。《治療の技》は俺だってよくわからない。問題は費用つまり、金だろう。」
セルベックは、それほど楽な暮らしをしているわけではないんで申し訳なさそうに言った。わかっているさとランセルは
「陛下だって、民の暮らしを楽にしたいとは考えてはおられる。この《治療師》という制度もその一つでな」
そういう難しいことはわかりませんが……というセルベックに、ランセルはとりあえず子供たちに会おう、子供たちの話も聞きたいと言った。
ガンダスとセルベックが子供たちを呼びにいっている間、ランセルはケンナスに子供たちの前ではあれはやめておいた方がいいだろうな、まねをすると困るからなといい、そして、セシーネの方を向いて
「セシーネもわかっているだろうな、見せびらかしたりするな」と念を押した。セシーネはそんなことはしないと思ったが、品よく答えた。
「わかりましたわ、殿下」
ランセルは眉を上げただけだった。
子供たちがぞろぞろと院長室に入って来た。セシーネが数えるとちょうど十人いた。予想していたより大きい、しかも女の子は一人だけねとセシーネは思った。セルベックが子供たちに行儀よくするんだと言った。ランセルが笑って
「君は新兵の訓練をしていたのか?セルベック」
「いえ、工兵でした。親父が、木工師でしたから、あの少佐殿」
「物覚えがいいな、君は」とランセルはきょろきょろしている子供たちに
「さて、君たちの名前から聞こうか」
ベンダーが《治療師》について説明すると、ただ、子供たちの中で、一番の年少らしい少年が尋ねた
「ケガや病気を《魔法》で直すってこと?」
ガンダスはおもむろに
「《魔法》とは、ちょっと違うな。魔法使いになりたいのか」
少年は熱心にうなずいたが、ランセルは
「俺もなりたかったがなれなかった。残念だな。ところで、こちらにいるケンナスがアンドーラ王国でただ一人《治療師》と名乗っていい人物なんだ、今のところはな。君たちもなってみたいかな?」
さっきの少年が
「魔法使いのほうがいいや」
「ガンダス、この子は、なれそうか、《魔法使い》か《魔術師》に?」
「さあ、たぶん無理でしょうな」
少年はがっかりしたようだった。
「他は、どうだ?」
ランセルの質問にベンダーが遮った、
「よろしいでしょうか?」
ランセルが肯くとベンダーは
「《治療師》はなりたいか、なりたいとかではなく、《治療の才》があるかどうかで決まります。まずは、ケンナスが申し上げた事故を防ぐことから始めたらいかがでしょう」
「それもそうだな。でも、ベンダー、この子たちの気持ちも確かめておきたいんだ。中にはいやだというものいるかもしれない」
まあ、しばらく様子をみましょうとガンダスがいい、子供たちを院長室から連れ出した。
その後、セルベックや他の父親たちと話し合った結果、このまま半年間救貧院に滞在し、ケンナスの指導を受けることに決まった。この話し合いは、ランセルが主導権を握り、セシーネは口を挟むことはなかった。
こうして、王立施療院の設立の第一歩が踏みだされた。ただ、この時のセシーネ王女は、これで思う存分《治療の技》を使えるという事ぐらいに単純に考えていた節がある。だが、この国家事業には、《治療の技》や医学以外の見識が必要だった。それは政治だった。この方面のセシーネ王女の才はまだ、未知数だった。
それからのセシーネの日課は、午前中は施療院の予定となっている救貧院で《治療の技》について学び、王宮で施療院の設立・運営について勉強することとなった。これは誰に指示された訳ではなく、ケンナスが救貧院に泊まり込んでしまい、またベンダーも朝の診察がすむと救貧院にいってしまうので必然的にそうなったのである。《治療の技》に関していえば、ケンナスもベンダーも通常の医学や薬学の知識を含めて《治療の技》と呼びたがっていた。
薬草学では、救貧院で薬草園の管理をしていたモリカが役に立った。モリカは、小柄でぽっちゃりした中年の女性で
「そう、贅沢なお薬はあまり使えませんでしたからね、王女さま」と礼儀正しくはあったがセシーネの薬学の欠点を指摘した。
「王女さまは止めてくださる?モリカ先生」
モリカは、怪訝そうに
「先生?」と繰り返した。そこでセシーネはモリカにこう説明した。亡くなった祖母の王太后から人にものを教わる時は、その相手を先生と呼ぶようにといわれていたこと、また、年長者に対して礼儀正しく接するようにいわれていることなど手短に話した。そして自分のことはセシーネと呼んで欲しいといった。モリカは戸惑ったような顔をして
「そうおっしゃるなら、そういたしますけど、私だって教えていただきたいことがございますけど」
《治療の技》のことなら、ケンナス先生に伺った方がよいと思うとセシーネは言ったが、モリカはそれもあるんですがと言いよどみ
「ここに残っている病人のことなんですが、どうなさるおつもりか、うかがっていらしゃる?」
「陛下が?」
モリカは心配そうにうなずいた。無慈悲に追い出したりはしないとセシーネは請け負った。
救貧院については、移転か廃止かまだ決まっていなかった。
「お父さまが嫌いなのは、働くことが出来るのに働かない者たちなの。勤勉と質素という言葉がお好きなの」
そして、もう一度、自分をセシーネと呼んでくれとモリカに頼んだ。これは、謙虚というだけでなく、他の理由もあることをモリカに教えた。
「魔女狩り?今時そんな事する者が?」と、モリカは目を丸くして驚いた。
「むろん、アンドーラではないの、よその国ですけどね」
モリカは首を振り、誰もあなたのことを魔女だなんて思ってもいませんよと言った。セシーネがにっこりと微笑むとモリカも微笑み返した。
セシーネはどうやら、モリカとはうまくやっていけそうだと思った。だが、自分のことを魔女だと思っている人々もいることも知っていた。
病人たちの処遇については、セシーネは、その日の夕食の食卓で父の国王に確認をした。王家では十二歳の誕生日を過ぎると夕食は国王と同席するのが習慣となっていた。国王は、あそこに残っているのは、他に行く当てのない者たちばかり、どのみち、施療院は病人の治療をするところだと答えた。そして、どっちが熱心なんだと聞いた。
「どっちって?お父さま」
「ベンダーとケンナスが、病人たちの治療にさ」
ケンナス先生は、見習たちの教育に忙しいのでベンダー先生かなとセシーネが答えると、国王はやはりなとつぶやいた。
「ところでお願いがあるの、お父さま」
「解剖か?危なさそうなのがいるのか?」
エドワーズが、食事中にそういう話は止めて下さいと抗議をした。セシーネが、王宮の薬品室にある薬のことだというと国王はすかさず、すでに許可は与えた、ただ書類が必要になるといった。結局、書類かとセシーネはため息が出そうになった。
エドワーズが
「セシーネ、何の話だ?薬がどうしたんだ?」
「聞きたい?」
「ああ、聞きたいね、もったいぶるなよ」
セシーネは、何にでも口を挟みたがる兄に何か言ってやろうかと考えたが、結局、王位を継ぐのは兄の王太子だし、また、その日が早く訪れないようにとも思った。セシーネは、兄に薬や薬草の中には古くなると薬効が薄れるものもあるとだけ答えた。セシーネは、口に入れた肉をかみながら、救貧院で出されている粗末な食事のことを考え始めていた。
あれでは、治る病気も治らないわ。確かに贅沢は出来ないかもしれないが、安い肉を手に入れる方法があるはずだわ。薬も大事だけど、食事も大事だわ、いえ、肉ではなくても魚なら、安いかしら。だいたいキルマは何を食べているのかしら?
「セシーネ!」
エドワーズの大声でセシーネは、はっとした。
「何?お兄さま」
「だから、イザベルが、お前に会いたがっているんだ。最近、態度悪いぞ、セシーネ」
「イザベルに?そうかしら?お母さまもそう思う?」
たずねられた王妃は微笑んだだけだった。セシーネは国王である父に尋ねた
「お父さまもそう思う?陛下」
国王は、おもむろに、ここでは「陛下」は付けなくていいと言いながら、
「エドワーズ、セシーネはどう態度が悪いんだ?」
「僕を馬鹿にするんです」
「そんなことしてないわよ」セシーネは言い返した。
「それが、態度が悪いと言っているんだ。ふん、自分より、僕に《治療の才》がないからと言って馬鹿にしただろう」
「してないわよ。お兄さまには、医学的知識が欠けているといっただけでしょう」
エドワーズは悔しそう顔をした。国王は穏やかに
「セシーネ、そうなのか?」
「ええ、お父さま、そうなの。わたしだってまだまだと思うのだけど、お勉強しなくちゃならないことがいっぱい。だから、お兄さま、申し訳ないんですけど、イザベルには、お兄さまから、よろしくお伝え下さいませ」
「セシーネ、なんで、イザベルをさけるんだ?」とエドワーズ。
「だから、忙しいの。それに、わたくしの婚約者じゃありませんから」
エドワーズがセシーネをにらみつけた。それにかまわず、セシーネは続けた
「わたくしとちがって、医学にはあまり興味がないでしょう?イザベルは」
セシーネは、「イザベル」を強調して言った。エドワーズはもう一度、セシーネをにらみつけた。
王妃が、礼服のことですけどとすかさず話題を変え、それに国王の妹のメレディス王女が応じた。
セシーネにはイザベルの魂胆が、わかっていた。兄のエドワーズ王太子の婚約者イザベル王女は、メエーネの現国王の弟のランガルク公爵の一人娘だった。セシーネが聞いたところでは、メエーネの国王自身には、娘に当たる王女はなく、姪を溺愛しているということだった。セシーネは、イザベルが好きでも嫌いでもなかった。セシーネは自分より一歳年上のイザベルがなんだか子供っぽいように思えたし、妹も弟もいないイザベルが、しきりにセシーネに「お姉さま」と呼んで欲しがっていることも知っていた。そんなことよりは、お母さまを「お母さま」と呼ぶべきだし、とセシーネは思った。セシーネは亡くなった祖母の王太后をイザベルが何て呼んでいたか思い出そうとしていた。メレディスが、セシーネに話しかけてきた
「こういうことには、興味がないの?セシーネ」
「そうでもないんだけど。わたしにはよくわからないの。でも、あのドレスは、あまり好きじゃないの」
「そうでしょう、時代遅れよ」
エドワーズがどのドレス?とたずねたが、国王が
「ご婦人たちにはご婦人たちにしかわからない話があるのさ。特にドレスに関してはな」
そう言うと、椅子から立ち上がった。王妃を始めセシーネたちも立ち上がった。夕食が終了した合図だった。
国王と王妃が食堂(普段の食事をする部屋を国王はそう呼んでいた)を出ると、給仕役の侍従たちが、テーブルの皿をかたづけ始めた。セシーネはふと、あることに気がつき、皿を持った侍従たちの後をつけ始めた。その後をエドワーズが追いかけてきた。
「セシーネ、イザベルのことだけど」
「だから、何なの?お兄さま」セシーネは、立ち止まり振り返った。
「今、ちょっと忙しいの。ごめんなさい」また、歩き始めたセシーネに
「いったい、どこ行くつもりだ?部屋はあっちだろう」とエドワーズは指さした。
いいから、ほっとおいてとセシーネは、いつもは通らない廊下を歩き始めた。勝手にしろと言い捨ててエドワーズが立ち去った。セシーネは、侍従たちを見失わないように後をつけたが、途中で侍従の一人が、何かご用でしょうか、王女さま?と訊ねた。セシーネは、厨房はどっち?と聞き返した。どういうご用で?再び訊ねたが、セシーネは、少し考え、
「司厨長に会いたいの。どこに行けば会えるの?教えなさい」
司厨長からは、あまりセシーネの満足のいく答えは返ってこなかった。王家の食卓に乗せているのはほとんど、王家領から運ばれているものばかりだと、ただ、晩餐会だと少し違うと、少し困惑気味に答えた。セシーネは晩餐会など、どうでもよかった。知りたいのは別のことだった。少々、落胆気味にセシーネは自分の部屋に戻った。
変わった王女だと、また、王宮で働いているものたちの噂になるかもしれないとセシーネは思ったが、祖母が亡くなった今、誰がとがめるというのだ。わたしは、必要なことをしているだけだとセシーネは自分に言い聞かせた。ただ、肉を安く手に入れる方法があるはずだと、自分を励ますように机の上に乗っていた各種の書類を調べ始めた。
だが、次の日の朝、朝食の席で、エドワーズが、昨夜のセシーネの行動を話題にした
「セシーネ、厨房にいって何してたんだ?」
セシーネは、司厨長においしかったと伝えたかっただけだと答えた。実際、司厨長には最初にそう言った。エドワーズの追求は終わらず、再び、それだけのためにわざわざ厨房に行ったのかと訊ねたが、セシーネは、お兄さまこそ人の行動を見張るようなまねをしてと腹立たしく少し尖ったような声で、悪い?とつっかかった。
「やめなさい」と国王。セシーネはすかさず謝った。
「ごめんなさい、お父さま」
「謝るようなことがあるのか?セシーネ」と国王は、優しく訊ねた。
「エレーヌたちの前で、少しお行儀が悪かったわ」
「そうだな」と国王はうなずいた。話題にされたせいかエレーヌ王女が急に
「わたしも、お姉さまと一緒に行きたい」とせがんだ。
エレーヌはセシーネやエドワーズの妹で、今の王妃ヘンリッタが生んだ最初の王女だった。父である国王は、セシーネとエドワーズを生んだミンセイヤ王妃が病死した後再婚し、そのことが、王太子の内心の不満ではあった。
国王は、エレーヌにやはり、優しい口調で
「エレーヌはどこに行きたいんだ?」
「だから、お姉さまといっしょのところ。えーっと、キュウなんとか」と口の周りをミルクで汚したエレーヌが、フォークで皿のオムレツをつつきながら言った。王妃は小声で行儀悪いと叱り、エレーヌ王女は口をとがらせた。国王の次弟であるヘンダース王子の息子のリンゲート王子が、声を張り上げた。
「僕も、行きたい」
国王が、チラッとリンゲートを見ると、あわててリンゲートは「陛下」と付け加えた。ヘンダースが国王に代わって、
「セシーネは、お勉強しに救貧院に行っているんだ。二人ともお勉強が好きならこんなにいいことはない」
エレーヌもリンゲートもなにやら不服そうだった。セシーネも、遊びに行っているのではないの、お勉強が大変よと言った。実際、学ぶべきことはいくらでもあった。
しかし、ヘンダース王子が、セシーネが厨房で何をしたか知りたいと、再び話題にした。セシーネはすました顔で、さっき言った通りよ、今朝のこのオムレツもおいしいわと品よくその片割れをフォークで口に運んだ。ヘンダースは疑わしげな目つきでセシーネを見ていたが、リンゲートが、ミルクをこぼしそうになったのに気をとられ注意を息子の行儀作法に向けた。
セシーネが調べた救貧院の報告書によると、救貧院には、王家領からかなりの食用肉が運ばれているはずだった。しかし、たまたま救貧院での食事を目にしたことがあるセシーネには、その食用肉が救貧院の供給される食事に使われているかは、なはなはだ疑問に思えた。だが、セシーネも確証はなかった。
朝食を何とか無難に済ますと、セシーネは、日課となっている救貧院に向かった。いっしょに行きたいとねだったエレーヌとリンゲートは同行しなかった。そのことにセシーネはほっとしていた。
やるべきことと抱いた疑念は晴れなかった。セシーネは絶対調べてやると、心の中で誓った。
セシーネを乗せた馬車が救貧院に到着すると、例によって救貧院院長のキルマが出迎えた。馬車を降りるとセシーネは、頭の中にある疑念をを悟られないようになるべく明るい声で、おはようとキルマに声をかけた。痩せて骨張ったキルマは「王女さま」と言いながらセシーネに自分より高位に対する礼をしたが、セシーネには、キルマのそれには心がこもってないように思えた。セシーネは、キルマが、セシーネが王女ではなく魔女だと言っているように感じられた。あるいは、この救貧院を取り上げられるのが怖いのだろうか?ともセシーネはふと思った。
確かに、父でもあるアンドーラ国王ジュルジス三世は、救貧院の廃止かあるいは改革を考えてはいた。しかし、キルマが救貧院の院長という職に満足しているとはセシーネには思えなかった。
むしろ、キルマが女官長に戻りたっがているはずだと、セシーネの叔母で今、キルマに代わって女官長を拝命したメレディス“第四王女”が、セシーネにそっと教えてくれた。
メレディスの語ったところによると、キルマは自分の娘と当時の王太子であった現国王を結婚させようと躍起だったが、王太子は、セシーネの母ミンセイヤと結婚した。セシーネを生んだミンセイヤが亡くなると、再び、野望を抱き、すでに結婚していた娘の離婚まで企て、国王が現王妃のヘンリッタと再婚して、その野望は潰えたかのようだが、今度は、王妃のヘンリッタをつらく当たることでその無念を晴らしていたと。セシーネはそれ以上聞きたくはなかったが、メレディスはかまわず話を続けた。
メレディスは、ミンセイヤの死にも疑問があるとまで言った。母の顔が記憶にないセシーネは、複雑な思いだった。
王女という身分に生まれたセシーネにとって、娘を王妃にしたがったキルマの野望とやらが陳腐に感じられた。父である国王は、王家の一員全てに王国と王家に対しての忠誠と奉仕を要求し、自らもそれを国務に精力を傾けることによって果たしていた。セシーネは十二歳の誕生日にそれを痛感した。
セシーネは、キルマと共に出迎えたモリカにおはようございますとにこやかに声をかけた。モリカもにっこりと挨拶を返した。いっしょに救貧院の建物に入りながら、昨夜、夕食の席で確かめた救貧院にいる病人の処遇や薬品のことついての国王の内諾を告げた。キルマは案の定、わたくしは何も聞いておりませんと言った。セシーネは、聞いておりませんではなく、伺っておりませんでしょう、おまけに王女さまとか殿下とかを付け加えるのを忘れているわと心の中でつぶやいた。セシーネはキルマが女官長時代から第一王女の自分にあまり敬意を払っていなかったことを思い出していた。しかし、無邪気そうに
「書類とか署名とか、そういった手続き上の面倒くさいあれこれがあるんでしょう。わたくしは、よくわかりませんけど…。ところで、ケンナス先生はどちらかしら?」
ガンダスが見つけた子供たちにあって以来、ケンナスは救貧院に泊まり込んでいた。アンドーラ王国でただ一人、治療師と名乗っているケンナスは、王家に多大な恩義を感じていた。
気むずかしげな様子で黙ったままのキルマに代わって、モリカが、今朝はお出かけになりましたと答えた。
「困ったわ、何か先生から伺ってらっしゃるかしら?」
モリカが、特に何もといい、セシーネが救貧院の薬草類の保管状況を調べたどうかしらと提案した。キルマが何故そんなことをするのかと訊ねた。
「あら、調べなきゃわからないでしょう、どんな薬草があるとか、どれが、どんな病気に効くとか、いろいろと、ねえ、モリカ先生?」
モリカが、チラッとキルマを見て「わたくしに先生はお止め下さい」とキッパリと言った。キルマが
「ベンダーはどうしました?」
セシーネは、わたしはあなたの侍女じゃないと言いたかったが、ここは我慢と思い直し
「ベンダー先生は、何か別のご用が出来て、こちらに来られなかったの。そうだ、これ」と持参した薬品類のリストをキルマに差し出し「王宮にある、お薬の一覧表、忘れるところだったわ」
だが、キルマはセシーネが毒蛇でも差し出したような顔をして、受け取ろうとしなかった。代わりに、モリカがおずおずと手を差し延べた。セシーネはリストをモリカに手渡した。それを受け取ったモリカが
「院長、いかがでしょう、ちょうど薬草の保管庫を整理しようと思っていたところで、王女さまにも手伝ったっていただくというのは?今日はお天気もいいですし」
院長のキルマは重々しく、いいでしょうと言った。
救貧院の薬草保管庫は、救貧院本館の建物と薬草園を挟んで救貧院の東側に建っていた。モリカと並んでで、薬草園の小道を歩きながら、セシーネは時々立ち止まっては、栽培されている薬草や花を指さし、その名前や効用について質問をした。モリカはいやがらずに的確に答えてくれた。又、モリカが、建物沿いに歩かずわざとこの小道を選んだことにも、セシーネは気がついた。
石造りの薬草保管庫は、セシーネが想像していたよりも大きい建物だった。セシーネがそのことを言うと、モリカは十分すぎるくらい大きいと笑った。これも大きな錠前のかかった大きな青銅の扉の前で、モリカは鍵を取り出すと
「この扉は少し重たいですの、王女さま」
「王女さまはやめてくれません?そうでないとあなたを先生と呼ぶわよ。わたしの名前は、セシーネよ」
「しかし…」
「それなら、第一王女として命じるわ。わたしをセシーネと呼びなさい、いいですね。但し」と区切り
「キルマ院長の前ではそうしなくてもよろしい」
モリカは驚いたように目を見開いたが、やがてわかりましたと肯き、セシーネも解ってくれてうれしいと答えた。
モリカとついてきた見習修道女二人も加わって全員で、重たい青銅の扉を開けると、ひんやりした空気に混ざって薬草のいろんなにおいがセシーネの鼻を突いた。放れた入り口から春の日光の光で、建物の中が照らされた。モリカに続いて、中に足を踏み入り、セシーネが見渡すと、建物の中は中二階が造られ、向かって左に中二階あがる木製の階段があった。ちょっとここで待って下さいとモリカが断り、階段を二階へと上っていった。二人の見習修道女も後に続いた。待っている間、セシーネは目を凝らし、一階に積み上げられているこれも木箱に書かれている文字を読もうとした。モリカが戻ってきて、こちらへどうぞと中二階に案内した。モリカたちが、中二階の窓を開け放したのからだろう、中二階は階下より明るかった。壁際と部屋の中程に棚があり、棚板の上には籠が整然と並べられていた。セシーネが、モリカに階下にある木箱の中身について問いただすと、あれは、薬草や薬ではないとモリカは答えた。
「では、何なの?」
「古い記録とかそのようなのものですね」
セシーネは、内心しめたと思ったが顔には出さず、病人の記録とかがあるかと聞いた。多少はあるはずだがあまり参考になるかどうかとモリカは言った。
それから、一時間ほど、手分けして棚の籠の中を調べたり、籠を外に持ち出したし中身を日に干したりした。セシーネの分担は、二人の見習修道女が運び出した籠の中の薬草を干すことだった。セシーネは王女扱いしないモリカに好意を持った。
突然、少し甲高い子供の大声がした「おーい、モリカっているか?」
仕事に熱中していたセシーネは、思わず飛び上がり籠を落としそうになった。声がした方を振り返ると少年が立っていた。再び「おーい、モリカ!」
モリカは、大声で叫んでいた少年に振り向き
「なんですか、あなたは?」と問いただした。
「あんたがモリカか?院長さまが呼んでいるぜ、俺は頼まれたんだ、院長さまに」
モリカが、キョロキョロと物珍しそうに眺めている少年に
「院長は何ておしゃったの?」と問いただすと
少年は、呼んでこいって、俺は頼ませただけだと言った。モリカは眉を寄せ、何のご用かしらと小首を傾げたが、セシーネは、ここは、大丈夫だからと受けおった。モリカは躊躇したが、少年が早くしてくれよ、怒られるのは嫌だとせかした。
モリカと少年が立ち去った後もセシーネは作業を続けた。日当たりのいい建物の横で籠の中の薬草を包んでいる粗布ごと取り出し粗布の結び目をふりほどいていると、少年が戻ってきた。ぶらぶらと辺りの様子を見ながらセシーネに話しかけた。
「あんたはいいよな」
セシーネは無視して、地面の上に粗布の包みを広げた。二人の見習修道女は建物の中だった。
「ふん、貴族なんだろう?あんた、道理でお高く止まっていやがる」
セシーネは、しゃがみ込んで、薬草を粗布いっぱいに広げながら
「貴族じゃないわ」正確にはねとセシーネは心の中でつぶやいた。
「じゃ、金持ちの子なんだろう?」
セシーネは立ち上がり、スカートを払いながら、少年の方を向いた
「何が言いたいの?さっきわたしがいいとか言っていたけど」
「だって、俺たちは、平民で貧乏な小作人の子供だからな」
「それで?」とセシーネは自分の服を見下ろした。自分なりに考えて、なるべく質素な服を選んだつもりだが、少年の目には上等な服に見えただろうと思った。ダブダブの洗い古しの服を着た赤毛の少年は、セシーネより背が低かった。十歳くらいだろうとセシーネは見当を付けた。少年の名前を思い出そうとセシーネは眉を寄せた。少年は
「あんたはびっくりするぜ、俺たちが何やらされているか知ったら」
セシーネは、ケンナスがもうこの子たちに《治療の技》をさせているのかと疑った。ケンナスは、最初に《見立て》を覚えさせると言っていたが、キルマが使い走りに使っていることはわかった。
「誰に何をやらせられているの?」
「あのケンナスとかいうおっさんだよ、おれたちにあんなことさせやがって」
「ケンナス先生が、君たちに何をさせているの?」
「聞いて、おどろくなよ」と少年は、話して聞かせた。
それは、毎朝自分たちの排泄物を観察させられているということだった。セシーネは聞き終わると、憤慨して顔を紅潮させた少年の目をじっと見た。
「別に驚かないわよ、そのくらいで」
「でも、ひでぇだろ?」
「全然わかってないな、君は。いい?医学の基本じゃないの」
「医学?」と少年はごくりと唾を飲み込んだ。
「病気やけがを治療する学問よ。ケンナス先生は《治療師》なのよ。まず、患者の診察をしなくてどうやって治療をするのよ。診察というのは、脈を診たり、心臓や肺の呼吸の音を聞いたり、他にも色々あるけど、それっだって大事な診察方法じゃない、そんなことも知らなかったの?まあ、わたしだってやるわよ」
少年は嘘だろうと疑った。すました顔でセシーネは自分の分だけだけどねと付け加えた
「ともかく他の子たちにも、これは診察の基本だと教えてあげるのね」
セシーネは、ところでと前置きし少年に食事内容について質問した。少年は、メシは悪くないとだけ答えた。もう少し詳しく知りたかったが、そこにモリカが小走りで戻ってきた。
「あなたはこんなところで何しているの?早くお部屋に戻って綴りのお稽古をしなさい」
少年はもう終わったと答えた。いいから戻りなさいとモリカは、
「ケンナス先生がいないからといって、さぼるじゃありません」と叱った。
少年はわかったよと言い捨て走り去った。モリカはセシーネに
「何か、失礼なことを申し上げませんでした?」と訊ねたが、セシーネは、失礼なのは、言葉遣いだけと笑った。モリカは、口に手を当てまあと言うとお行儀が悪い子ばかりではありませんけどと付け加えた。
宮殿に戻る馬車の中で、セシーネは、《治療の才》があるという子供たちについて考えてみてみた。彼らの処遇に自分にはどの程度の権限があるのだろうか?救貧院院長のキルマは、早く帰れとばかりにセシーネを見送った。父である国王は、セシーネに救貧院を廃止し、その場所に王立施療院を設立し、その院長にセシーネが就任すること、何人かの《治療の才》がある子供たちが見つかったぐらいしか教えてくれなかった。多忙な国王にそれ以上のことを訊ねる機会はほとんどなかった。食事時は、エドワーズも同席したし、彼は、施療院が出来るのは十年以上後のことだと言ってのけた。
元々、施療院の設立は、セシーネの祖母の王太后の遺言だった。王太后は、自身の葬儀や埋葬法から始まり、自分の財産についても細かく書かれた遺言状を残していた。その遺言状の発表の場にセシーネも同席していた。王妃に抱かれて歩き始めたばかりのセシーネの次妹のリディア王女までがその場にいた。その内容についてセシーネが覚えているのは、施療院という言葉と院長にセシーネを指定してあることだけだった。
だいたい、おばあさまは、このわたしにどうしろというのかしら?第一、おばあさまは《治療の技》を毛嫌いしていたじゃないの。《見立て》だっていやがって…。セシーネは唇をかんだ。
セシーネの午後の授業には、意外な人物が、二人現れた。その一人、ヘンダース王子が
「セシーネ、こちらは、パウエル・ブルックナー伯爵だ。二ヶ月前に大蔵郷を退いたのは知っているかな?」ともう一人を紹介した。
文民服のブルックナー伯爵は、礼儀正しくセシーネに挨拶し、彼女もそれに応じて挨拶を返した。
「あの、叔父さま、どういうご用なのかしら?」とセシーネには二人が自分の部屋に来た理由がわからず、当惑していた。ヘンダースは、椅子の一つに腰掛けながら、
「何しろ、国家事業だからな。ブルックナー、君も掛けたまえ」
ブルックナー伯が、一礼して腰掛けた。叔父の国家事業という言葉にますます当惑しながら、セシーネも椅子に腰掛けようとすると、ヘンダースは
「セシーネ、施療院設立法案の写しがあったろう、それを持ってきて」
セシーネが机の抽斗にしまってあったその写しを持っていくと、ヘンダースに手渡した。ヘンダースは受け取るとブルックナー伯にそれを手渡し、ブルックナーは、黙ってそれを読み始めた。セシーネは、小声で
「座っていい?叔父さま」
ヘンダースはうなずいた。セシーネは、椅子に腰掛け、二人の様子を見守った。ブルックナーが、法案の写しから目を上げると、ヘンダースが、君の意見は?と尋ねた。
「難しいのは、この《治療師》の規定でしょうな」
「そうなんだ。そこなんだな。セシーネはどう思う?」いきなり叔父に尋ねられて、セシーネは、口ごもった
「あの、よく解らないの。あの、わたしには難しすぎて」
叔父が説明した
「つまり、《治療師》というは、どういうものかという点だ」
「あの、《治療の技》を使えるということじゃなかしら?」
「違うな、それならエドワーズも《治療師》ということになる、あいつだって、多少は使えるわけだからな」セシーネは、《見立て》はどうかしら?と思い切っていってみた。ブルックナーは怪訝そうに
「《見立て》?」
「君は知らなかったな。セシーネ、ちょっと、ブルックナー伯の《見立て》をやってみてくれないか」
「いいけど」
「どうした?ケンナスに禁止されているのかい?」
「そうじゃないけど、気味悪がる人もいるから」
ブルックナーは、自分は大丈夫ですと微笑んだ。
ブルックナーは、少し目を見開いただけだった。セシーネが、再び、腰掛けると、ヘンダースがブルックナーに説明した。セシーネは、ちょっと違うと、二人に説明しようとした。
「病名がわかる訳ではないの。体で感じるの、その、なんていうかしら、体の調子が、どこが重く感じるとか、熱く感じるとか。うーん、説明が難しいわ」
ブルックナー伯が、
「つまり、この《見立て》ですか、これをしていただいた相手の体の具合が、解るというわけでしょうか?」
ええ、だいたいのところはといって、セシーネは、口を閉じた。ヘンダースが
「この《見立て》はともかく、どうだろう、《治療師》を認定する人物を決めて、彼が、《治療師》と推挙し、その後、陛下が、ご承認なさるいうのは?」
「問題は、その《治療師》を認定する人物ですな」
「一人、いるだろう?」
「ケンナスですか?そこまで、信をおくのはいかがと思われますが…」
ケンナスを疑うようなブルックナーの言葉にセシーネは、ケンナス先生は、立派な方だといいたかった。
「ケンナスがサエグリア出身なのが問題なのかな」
「そこまでは、申し上げておりませんが…」
「どうだろう、学科試験を加えたらどうだろう?」
ブルックナー伯は、はっと気がついたように、それがよろしいかもしれませんなと同意した。セシーネは、
「あの、申し訳ないんですけど、そういうお話なら、別なところでしてくれませんか」
「セシーネ」
叔父の厳しい口調に、セシーネは少したじろいだ。
「これは、君にとって、大事な勉強だ。君は王立施療院院長を拝命することが、すでに決まっている。つまり、陛下の勅命を戴くわけだ。それがどんなに重要なことか、解っているのか?これをちゃんと読んだか?」と、ブルックナーがテーブルに置いた法案の写しを指さした。セシーネは、叔父の話に身を引き締め
「読みましたけど」
「けど?」と叔父は、片方の眉を上げた。セシーネは、正直に白状した。
「わたしには、難しすぎて」
「だろうな。だが、何故、こういった法が必要なのかはわかるだろう」
この答えならセシーネは答えられた。
「ええ、偽物の《治療師》がいては困るから」
「そうだ、勝手に《治療師》を名乗らせないためだ、あと、それから?」
セシーネは、思いつくまま、いくつか言ってみた。ヘンダースは、この程度理解していればいいと言った。ブルックナーはお厳しいですなと感想を洩らした。
ヘンダースは、立ち上がると法案の写しを手に取り、さあ、行こうかと言った。ブルックナーも立ち上がった。ヘンダースは、
「セシーネ、君もいっしょに来るんだ」
夕食の席で、エドワーズ王太子は、機嫌が悪かった。
「何故、セシーネを特別扱いするんです?」と国王に詰問した。国王はのんびりとスプーンを手に取り
「別に、特別扱いしとらんぞ」
これを合図に、テーブルについていたものが、黙って一斉に、同じようにスプーンを手に取った。ただエドワーズだけは、では、甘やかしていますと言ってから、スプーンを持ち上げた。
「余は、甘やかしているつもりは毛頭ない」
セシーネは、国王の口調に気づいて、おとなしく黙っていた。しかし、エドワーズは納得していなかった。
「では、あれは何ですか?あの部屋は?」
そこへ、ヘンダース王子が、陛下、よろしいでしょうかと断り、王太子をなだめるように
「王立施療院の準備のためさ」
しかし、エドワーズは、今度は、叔父のヘンダースに食ってかかった。
「叔父上までなんですか」
「いい加減にしろよ、エドワーズ」と、今度は近衛兵の制服姿のランセル王子が口を挟んだが、エドワーズが
「ランセル叔父上のことでは、ありません」
セシーネは、いい加減、エドワーズが、気がつけばいいのにと思ったが、案の定、国王が少し不機嫌そうに
「余のすることに、何か、不服があるならば」と王太子に顔を向け「聞こう。王太子」
国王の口調にエドワーズは、ギクッとした。エドワーズがうつむいた。国王は、食事に戻った。メレディス王女が、陛下、よろしいでしょうかと断り、国王は
「メレディス、この席では陛下はよさんか」
「では、お兄さま、例の礼服のことですけど」とメレディスは、再び、昨夜の話題を口にした。彼女にとっては、重要なことだった。国王は、
「どうだ、うまくいきそうか?」と妹に言ってから、スープを口に運んだ。
「それが、なかなか、うまくいきませんの」
ランセルが、ご婦人方は、ドレスのことになるとやっきだからなと感想を洩らした。メレディスが、きっと弟を睨み
「大事なことでしょう、わかってないわね、ランセルは」
「まあ、俺は、この制服が気に入っているのさ。ドレスの話は、ご婦人たちだけでやってくれ」
パンをちぎりながら、メレディスは
「そうはいかないわ、問題は、絹なの」と言って、ちぎったパンを口に入れた。
ヘンダースが、絹がどうかしたのかと、妹に聞いた。口に入れたパンをかんでいたメレディスに代わって王妃が絹は、高価だし、なかなか手に入らないと答えた。
ランセルが、何故、絹にこだわるのかわからないと言うと、
「絹は軽いですの」と、ランセルの妃のネリアが、そっと言った。ネリアは、身重だった。それに国王と夕食のテーブルに同席することにまだ慣れていなかった。セシーネの記憶では、彼女は、ほとんど発言したことがなかった。別に無口だという訳ではなく、国王のいない席ではかなりにぎやかにヘンリッタ王妃やメレディス王女たちとおしゃべりをしていた。
そこに、ヘンダースの妃のアンジェラが食堂に入ってきた。彼女は、国王にちょこんと膝を曲げて挨拶をし、遅れて申し訳ございませんと謝った。国王は、何、かまわんとつぶやき、再び食事に戻った。侍従の一人が、アンジェラのために椅子を引いた。アンジェラが、夕食に遅れたのは、彼女とヘンダース王子にとって二人目の子ジョイス王女の授乳のためだった。アンドーラのチェンバース王家では、メレディス女王以来、乳母はおかず、妃でも、自身の母乳を与える習慣だった。乳母がいたのは、セシーネだけだった。女王自ら、王太子や王子に授乳をしたのに、妃風情がという訳だった。セシーネの祖母のエレーヌ王太后は、三人の王子と一人の王女を生み、母乳の出もよかったことが自慢だった。
アンジェラは自分の席に座りながらと、何のお話?と隣の夫に小声で尋ねた。
「絹の話さ、それとも、ドレスかな。メレディス、どっちだ?」
「ちゃかさないで、ヘンダースお兄さま」メレディスが、ぴしゃりと言った。失礼しました、女官長殿とヘンダースが謝った。メレディスは、からかっているのと彼をにらんだ。国王が、
「やめんか、悪い前例を作っている」と諭した。小声で、ランセルが、隣のネリアに
「女王陛下の家だからな。この家は」とささやいた。聞こえておるぞと国王。笑おうとしたネリアが、赤くなってうつむいた。国王は、絹かと言って、宙を仰いだ。メレディスがそうなのとため息をついた。ランセルが乱暴な意見を述べた。
「いっそ、絹なんて、やめちゃえば」
メレディスが、あわてて、口の中のスープを飲み込んで
「そうはいかないわよ。だから、あなたはわかってないといっているの」
「僕にもわかりませんね」とエドワーズが顔をしかめた。食事の手を休めた国王が、片方の眉を上げ
「エドワーズ、正直でよろしい。あのな、絹は、アンドーラでは、生産されておらん」
「どうしてです?」とエドワーズ。
「何か栽培方法に問題があったのだろう。昔はアンドーラでも造っておったと思ったが」
この日の夕食の席でセシーネは初めて、食事以外で口を開いた。
「ちがうわ、お父さま」
「どこが、ちがう?セシーネ」
「あの、絹は、虫なの」
それを聞いた王太子が再び、顔をしかめた。それを横目で見たセシーネは、再び、口を閉じた。
「ほう、そうか、虫か」と国王。メレディスが
「夕食の話題に、ふさわしくないと思う?ネリア」
ネリアが、目をパチパチとしたが、いえ、大丈夫ですわと、それでも手を止めた。国王が
「セシーネ、もう少し、詳しいことを知っているか?絹のことだが」
セシーネは、兄の顔色をうかがいながら黙っていると、メレディスも
「わたしも、知りたいわ」
セシーネは、おずおずと
「わたしが知っているのは、虫の繭といううことだけ」
国王が、それだけ知っていれば十分だと言った。ランセルが、つまり虫を着ているわけだとちゃちを入れた。セシーネは、のろのろと
「ランセル叔父さま、虫じゃなくて、虫の繭なの、虫は、その中に入っているの」
国王は、その虫が手に入ればなぁとつぶやき、食事を再開した。それを聞き逃さなかったエドワーズが
「手に入れてどうなさるおつもりですか?」
国王は、スープを飲み込み、よそから買わずに済むとだけ応え、セシーネは、お兄さまってホント、鈍いんだからと胸の中でつぶやいた。エドワーズが
「確かに、そうかもしれませんが…」
ヘンダースが、本当にわかっているのか?エドワーズといってから
「その、セシーネのいう通りだったら、絹の虫とやらを育てて絹糸をとる。そして、卵を産ませてまた、育てる。とった絹糸は、貴族たちに売りつけると、ここまで理解できたら、上出来だ、王太子殿下」
エドワーズが、ムッとして、その程度ぐらい見当がつきますと、だが、ヘンダースは、手厳しかった。
「エドワーズ、セシーネのあれこれを詮索するより、自分の結婚のことでも考えていた方が、利口っていうもんだろ」
エドワーズは、真っ赤になった。それにかまわず、ヘンダースは続けた
「ちゃんと、読んだか?」
「何をです?」
「これだからなぁ、結婚契約書に決まっているじゃないか。よくあんなもので、署名する気になるな」
エドワーズは、あのうと口ごもり、国王が
「面白い条件を、出してきた」
「伺っております。如何なされます?」とヘンダース。国王が、一隻ぐらいは、売ってやろうと言うと、ランセルが、怪訝そうに何の話?と尋ねた。メエーネは、王女との結婚に際しアンドーラの船を要求してきた。しかしアンドーラの国王はそれをメエーネに売りつけようとしていた。国王の抜け目なさに笑い転げていたヘンダースが、
「メエーネは、船がほしいんだと」
さっぱり解らないと言うランセルを無視して、ヘンダースは、国王に
「別途契約になさったら、如何でしょう?」と提言した。
「うん、その方がいいだろうな」と国王も同意した。ランセルは、誰か、解るように説明してくれと大声出した。ヘンダースは
「ランセル、君は、声が大きな。行列の訓練でもしとけよ、その大声は、実に訓練向きだ」と弟に、忠告した。少しムッとしたランセルは、それでも
「でも、少しは、知りたい。いや、知っておくべきだと思う。気になるよ。船なんて」
「海軍も気になるか?」逆に海軍大佐でもあるヘンダースが、質問した。
「そりゃそうさ。けど、契約書も気になる」とランセル。
ヘンダースが、そろそろ、肉にしませんかと催促した。王妃が、クスクス笑いながら、
「それが今日は、お魚ですの」と言いながら、給仕の侍従に合図した。
アンドーラの国王ジュルジス3世は、多忙だった。夕食後も、メエーネの国王代理との会談が、予定されていた。彼自身、国政を執ることは、苦にならなかった。それは、国王としての義務というより、趣味にも似ていた。父親のジュルジス2世から譲位を受け、国王に即位した当初は、何かと母親の王太后が、しきりに助言をした。退位した前国王は、メエーネとの縁組みだけしか、ほとんど口を挟まなかった。
前国王は、エドワーズが生まれその無事な発育を確かめると、早速それに取りかかった。自ら、メエーネに赴き、縁組みの足がかりを造った。メエーネ行きの前に、ジュルジス2世の王妃のエレーヌの猛反対を抑え込み、譲位を決め、ジュルジス3世の戴冠式をすますと、メエーネ行きの船に飛び乗った。
まさしく、飛び乗ったとジュルジス3世は、父親を思い出していた。幾度かアンドーラとメエーネと往復しているうちに、船が、竜巻に巻き込まれ、行方不明になった。船は、アンドーラに戻ってきたが……。結局、遺体も見つからず、まだ、正式な葬儀も執り行ってなかった。
当初、夫の行方不明の報告を受けたエレーヌ王太后は、憮然としていた。自ら、海軍提督にジュルジス2世の捜索を命じ、息子のジュルジス3世を激怒させた。
「いい加減にしてください。母上。これは、越権行為です」
「お前は、父上が、心配じゃないの?」
「そう言い方は、止めて頂きたいものですな、王太后」
冷然とした国王のこの口調に、最初に気がついたのは、当時、陸軍元帥だったメレディス女王の次男ヘンダース王子だった。広げた地図を見ながら、穏やかに
「陛下、やはり、探索はこの辺りから始めては、如何でじゃ?」とアンドーラの東側に位置するメエーネ付近ではなく、逆方面の西側を指し示しと
「提督、この辺りの海岸線はどうじゃ?」
元帥に尋ねられた海軍提督は、答えに躊躇した。地図をのぞき込んだ王太后が
「何おっしゃているの、こっちじゃないでしょう」と行方不明になったという地点を指で叩き、ここよ、ここと言った。そこは、海だった。国王は冷然と言い放った。
「余は、王太后の退席を命じる」
「何ですって?」と王太后。
「もう一度、申すぞ、余は、王太后に退席を命じる。速やかに、王太后は退席するように」
王太后は、息子の大きな、しかも凍り付くような声に、慄然とした。目を見開いて、息子を見たが、忽然と頭を上げ正面を向いていた国王は、隣に座っていた王太后と視線を合わせなかった。ヘンダース陸軍元帥が、王太后はご心労でお疲れじゃと言うと、これまた、高齢にも関わらず、大声で「衛兵!」と呼んだ。
会議の開かれている国王の執務室の扉の廊下側にいた近衛兵が、あわてて駆け込んできた。
近衛兵たちに敬礼を返すと、ヘンダース陸軍元帥は、彼らに、王太后はご心労でお疲れじゃ、王宮までお送りするようにと命じた。王太后は、屈辱に真っ赤になった。再び、ヘンダース元帥が、諭すように
「王太后、ここは、儂らに任せて、ゆっくりお休みなされ。ご心配で、よく寝付けんじゃろうが、横になるだけでも、大分違う。ゆっくり、お休みなされ」
さすがの王太后も、数々の武勲をあげ、王国の重鎮であるヘンダース元帥には、逆らえなかった。息子を見たが、国王は、正面を向いたまま、石のように動かなかった。
結局、すごすごと近衛兵に付き添われ、その場を退出した。
その夜、王宮に王太后を訪ねたヘンダース元帥は、彼女に幾つかの忠告をした。だが、興奮していた王太后は、聞き入れようとしなかった。ヘンダース元帥は、皮肉っぽくこう言い放した。
「ならば、ご自分で船を漕いで、探しに行きなされ。エレーヌ」
「何ですって?」
「ご自分で、行きなされと申し上げた。耳が遠くなられたか?」
わたくしはと王太后が、口ごもっていると、ヘンダース元帥は
「今は、天候が悪い。この時期に艦隊の出航は、無理じゃ。あの命知らずの提督が、そう申した。その内、ひょっこり帰ってくるかもしれんぞ。なあ、エレーヌ。焦っても仕方あるまい」
ヘンダース元帥のこの言葉に、王太后は、夫の行方不明の報を聞いて、初めて涙を流して泣いた。
実は、王太后は、夫の行方不明を疑っていた。夫のメエーネ行きは、当初、戴冠したばかりのメエーネ国王に対する儀礼的なものだと聞かされた王太后は、予定を過ぎても戻らなかったことにいらだちをかくせなかった。一度だけで済むと思っていた夫のメエーネ行きはその後何度も繰り返された。その理由が王太后には解せなかった。孫が出来たとはいえ、夫がまだまだ男盛りなのを王太后は身をもって知っていた。そして、息子のジュルジス3世に譲位してからの夫は、玉座に座っている時よりも生き生きしているように妻の王太后には思えた。ただ一つ王太后が思いついたのはメエーネに夫の愛人が出来、それで、行方不明を偽装しているのではないかという疑念だった。
泣きじゃくりながら、王太后は、ヘンダース元帥にその疑念をうち明けた。
「それならば、儂が、何とか手を打とう」
取り出したハンカチで涙を拭きながら、王太后は、やっぱり、そうですのとヘンダース元帥を見つめた。
「そうと決まったわけでもあるまい。それより、大事なことがある。まぁ、エレーヌにはそっちの方が、大事なことかもしれんが」
ヘンダース元帥は、メレディス女王以来、アンドーラ王国の続いている各種のしきたりや称号について語った。王太后は、そんなことは存じておりますわと答えた。ヘンダース元帥は、厳しい声で
「ならば、何故、国王陛下をお前呼ばわりする?しかも、家臣たちのおる席で。気が動転しておられたか?」
王太后は、無言でヘンダース元帥を見つめた。彼は、今度は優しい声で続けた。
「なぁ、こんな時に済まなんだが、致し方あるまい。陛下とお二人になられた時は、なんとお呼びしても、儂はいっこうに、かまわん。覚えておるが、父上は、人前では、母上のことは必ず、陛下じゃった。それは、見事なもんじゃったぞ。男の父上に出来て、女御のエレーヌに出来ぬ道理は、あるまい。そなたが、頭を下げんで、誰が、下げる?先王もそうしていたぞ」
王太后は、再び、涙ぐんだ。
ヘンダース元帥の忠告にも関わらず、王太后は、相変わらず、国王をお前と呼んだ。さすがに、家臣たちの前では、そうはしなかったが……。
そして、王太后の夫の先王は、相変わらず、行方不明のままだった。
講義名 「アンドーラ王国における国政制度のあり方」
「各役職名とその実態について」
「王宮では実際に女官は、いなくて侍女か下女、後《行儀見習い》しかいないのに女官長と称するのは、おかしくないですか?」
「えー、確かにメレディス女王時代の名残りだという説もありますが、それも一因かと推察できますが、王宮で働いている女性の中で女官という立場で政治的な役割を果たしいるものは、公式的には現在の所おりません。なら、女官長ではなく「侍女頭」とも呼ぶべき役職と思いがちですが、女官長は、事務的な管理者として侍女たちの給与計算から始まりその勤務態度、まあ、つまり査定表を作成して、報告書を陛下に提出する仕事もこなしているのですから、やはり現在の役職名は、妥当なところでしょう。では、次の質問」
アンドーラ王立大学法学部 法学部部長
バルックス・スタバイン法学博士の講義録より