↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

断るのが苦手な美少女のために、俺が嫌な奴をやっていたら(短編版)

作者: 白川 透
掲載日:2026/10/18

「瀬名の追加当番はなし。十二時で交代に戻す」


 俺がそう言うと、文化祭実行委員の三崎は手にしていた養生テープを止めた。


「勝手に決めるなよ。本人はいいって言ってたぞ」

「次は坂井と小松が入る。二人にも確認した」

「昼は混むだろ。瀬名が残ってくれるなら安心じゃん」

「瀬名がいる前提で回すのはやめよう。交代できなくなる」

「本人がやるって言ってるのに、戸倉が止めることなくない?」


 横から口を挟んだ接客係の女子も、責めるような声ではなかった。瀬名ならうまくやってくれるのに、なぜ止めるのか。俺のほうが余計なことをしているように聞こえた。


「当番を組むのは俺だから。追加を外す文句なら――」

「私がお願いしました」


 背後から声がした。


 振り向くと、瀬名千帆が大きな紙のカップを抱えて立っていた。正確にはカップの形に切った看板だ。上半身を隠すほどのそれに、うちのクラスの喫茶店名が丸い文字で書かれている。


「私が戸倉くんに相談したの。勝手に変えたんじゃないよ」

「そうだったの? でも千帆がいてくれると助かるんだけどな」


 女子の言葉に瀬名の視線が下がった。


「うん。困るなら、やっぱり私――」

「二人で回せるようにする。接客係は他にもいるんだし」


 俺が答えると、女子は「まあ、そうだけど」と引いた。瀬名の返事を待つ代わりに、三崎が俺へ向き直る。


「戸倉さ、そうやってすぐ決めちゃうのはどうなの」

「追加を戻すだけだろ」

「その言い方だよ」


 これでいい。俺の言い方が悪い話なら、瀬名に残るかどうか聞かなくて済む。


 ところが瀬名は看板を机に置き、俺の隣に並んだ。


「戸倉くんだけが決めたわけじゃないから」

「瀬名は看板の続きやってていいぞ」

「続きは聞きながらでもできる」


 彼女はカップの横に小さな猫を描き始めた。帰る気がない。


 三崎が俺と瀬名を見比べる。


「じゃあ何。二人で決めたってこと?」

「いや、決めたのは俺で」

「私が頼んで」

「実際に変えたのは俺だから」

「私が変えてほしかったから」

「一回そっちで説明を合わせてくれない?」


 看板の猫が一匹増えた。


 文化祭まであと四日。放課後の二年三組では、紙を切る音と机を引きずる音が入り交じっていた。


 俺、戸倉直人の担当は備品と当番表だ。必要な数を数えて名前を埋めれば終わる。そう思って選んだ役だったが、人間は紙コップのようには積み上がってくれなかった。


 瀬名の本来の当番は十一時から十二時。そこに一時間の追加が入ったのは昨日のことだ。


 彼女は装飾の中心でもある。今日だけでも看板の仕上げにメニューの清書、隣のクラスから借りた布の確認を頼まれていた。当日も開店前の飾りつけから参加し、午後には美術部の受付がある。クラスの接客まで延ばしたら、昼を食べて回るつもりだった時間がなくなる。


 それでも「千帆が残ってくれるなら安心だね」と言われたとき、本人は笑って頷いた。


 俺が事情を知ったのは三十分前だった。


 瀬名は机の上の当番表を見ながら、昼食の代わりに飴で済むかを真剣に検討していた。


「休みたいなら追加の分は戻せるぞ」

「でも、もう引き受けちゃったし」

「十二時からの二人も接客はできる。俺から追加を外す話をしていいか?」


 瀬名はすぐには答えず、飴の包みを指先で伸ばした。


「……お願いしてもいい?」


 それで次の組に二人で入れるか確かめ、三崎に話をしに来た。瀬名が帰りたいのだと説明すれば、もう少しだけと頼まれる。だから俺の判断にしてしまうつもりだった。


 誰かの期待を裏切るのは面倒だ。一度頼みを聞くと次もできると思われるし、断るたびに理由を考えないといけない。俺の場合は初めから感じが悪いので、その手間が少ない。


 瀬名を励まして何度も話し合うより「戸倉がまたやった」で終われば早い。ついでに打ち上げにも誘われなくなるなら、断る手間まで省ける。


 ところが隣で猫を量産している本人は、俺の計算に付き合ってくれないらしい。


「そっか。瀬名も休憩がほしかったんだな」


 三崎の声に瀬名のペンが止まる。


「うん。でも、私が最初に引き受けちゃったから」

「わかった。追加はなしにしよう。ただ戸倉、当番を仕切るなら説明もしてくれ。次の組が困らないように頼むぞ」

「わかった」


 三崎がテープを持って教室の前に戻ると、瀬名はようやく看板を持ち上げた。


「ありがとう。助かった」

「どういたしまして」

「でも、あの説明はだめ」


 俺はそのまま帰ろうとしていた足を止めた。


「俺が話すって言っただろ」

「嫌われていいとは言ってない」

「別に、あのくらいなら」

「私は気になるよ」


 そこでペンのキャップが閉まらなかったらしく、瀬名は一度手元を見た。


「自分で断ると、困る顔を見たらやっぱりいいよって言っちゃう。でも戸倉くんが悪く言われるのも嫌なの」


 俺のやり方なら、本人は誰の困った顔も見ずに済むはずだった。瀬名がわざわざ追いかけてくるとは考えていなかった。


 看板の陰から見える指先には緑のインクがついていた。


「次に困ったとき、また頼んでいいのか悩むでしょ」


 俺が返事を探している間に、瀬名は看板を窓際へ立てかけた。近くで紙を切っていた女子が寝ている猫を指して笑う。


「これ好き。全然客を呼ぶ気ないじゃん」


 瀬名は口元を緩め、寝ている猫の前に小さなコーヒーを描き足した。カップにまで猫の顔がついている。


「それも頼まれたのか」

「ううん。寝起きならコーヒーがいるかなって」

「仕事を減らしたところだろ」

「これは私が描きたいの」


 瀬名は少し離れて出来を眺めた。誰も何も頼んでいないのに、またペンのキャップを外しかけている。


「増やすなよ」

「尻尾だけ!」


 さっきまでの頼りない返事はどこへ行ったのか。猫の尻尾に関しては譲る気がないらしかった。


*


 翌日の昼休み、俺の机に弁当箱が置かれた。


「ここ、いい?」


 顔を上げると瀬名がいた。肩にかかる髪を耳にかけ、返事を待っている。


「椅子なら余ってるぞ」

「椅子を探してるんじゃなくて、一緒に食べたいの」


 隣の席でパンを食っていた坂井が自分の鞄を椅子からどけた。普段は体育の移動にさえ時間がかかるくせに、こういうときだけ動きが速い。


 瀬名が座ると、友人の小松も弁当を持ってやってきた。


「千帆、今日はこっち?」

「うん。昨日のことで話したくて」


 小松は一瞬俺を見た。


「当番のこと? 戸倉が勝手に外したって聞いたけど」

「それを直したいの。私がお願いしたんだよ」


 瀬名は箸の袋を開けながら経緯を話した。俺は口を挟まずに焼きそばパンを食べた。昨日説明を省いて節約した時間は、どうやらここで請求されるらしい。


「あと、春の展示準備もそう。私が残って描くって言ったポスターを外したの、覚えてる?」


 小松が頷いた。


「ああ。戸倉が『なくても困らない』って言ってたやつ」

「あれも私が帰りたくて相談したの。下書きは戸倉くんが捨てないで取っておいてくれたし」

「まだ裏が使えたからな」

「絵のあるほうを上にしてクリアファイルに入れて返してくれた」


 瀬名は俺の言葉を丁寧にひっくり返していった。畳んだはずの洗濯物を目の前で広げられている気分だった。


「千帆、そんなに戸倉と話してたんだ」

「そんなにってほどでもないよ。でも私が疲れてるときは無理に話しかけてこないし」

「へえ」

「前に飴をくれたときも、眠そうとか大丈夫とか言わないで置いてくれて。ああいうのは気が楽っていうか」


 小松の箸が弁当箱の上で止まった。


「今、何を聞かされてる?」

「戸倉くんが勝手な人じゃないって話」

「途中から種類が変わってない?」


 瀬名は俺を見たあと、なぜか弁当の卵焼きを見つめた。


 坂井がパンの袋を丸める。


「お前ら付き合ってんの?」

「違う」

「まだ、そういう話じゃなくて!」


 瀬名の箸から卵焼きが落ちた。


 小松は拾うための箸の動きを見守ってから、静かに言った。


「うん。当番の話ね。続けて」


 続けられる空気ではなかった。


 俺は焼きそばパンの包装を必要以上にきれいに畳み、瀬名は落ちた卵焼きを半分に切った。坂井だけが愉快そうに牛乳を飲んでいる。


「……そこまで庇わなくていいから」


 小声で言うと、瀬名は今度こそ卵焼きをつまみ上げた。


「だって、まだ誤解されてるし」

「今のは庇った結果だぞ」


 瀬名が卵焼きを持ったまま止まった。小松は何も言わずにお茶を飲んでいる。黙っていればいいものを、俺まで彼女の顔を確かめてしまった。


 彼女の膝が机の下で少しだけ俺に触れた。椅子を引けばいいだけなのに、俺は動くのが不自然な気がしてそのままにした。


 瀬名に庇われるのは困る。


 そのはずが、午後の授業で思い出したのは小松たちの顔ではなく「気が楽」と言ったときの彼女の声だった。


*


「お客様。ご注文をどうぞ」

「店でいちばん高いものを」

「オレンジジュースと紅茶が二百円です」

「じゃあ紅茶を。氷は二個で、気持ちだけ多めに」


 俺は紙コップに消しゴムを二個入れた。少し考えてから、テーブルの上の扇風機を瀬名へ向ける。


 彼女は口元を押さえて横を向いた。


「お客様?」

「待って、今は笑わせないで!」

「注文したのはお前だろ」


 文化祭前日の午後。教室の半分は喫茶店になり、残り半分には鞄と端材が積まれていた。


 俺たちは接客の引き継ぎに使う紙を作っている。


 昨日の放課後、瀬名は「誰が入っても困らないようにしよう」と提案した。接客係に話を聞いてみると、値段を覚えていないやつもいれば、どこに予備のストローがあるか知らないやつもいた。


 そこで俺が備品の位置と手順を一枚にまとめ、瀬名がそれを実際の接客で確かめている。


 確認するだけなら普通の客でいいのだが、彼女はこの役を気に入っていた。


「この紅茶、渋いわ」

「消しゴムです」


 とうとう瀬名が机に額をつけた。肩が震えている。


「自分で始めたんだから最後までやれよ」

「戸倉くんが変なことするから」

「氷を二個入れた」


 瀬名は顔を上げると、さっきまでの澄ました客の声を捨てて笑った。


 俺は手順書の最後の項目に丸をつけ、紙コップから消しゴムを取り出した。これで確認は終わりだ。


「もう一回、お客さんやっていい?」

「何か抜けてたか」

「今度は普通に注文するから」


 瀬名は消しゴムを俺のほうへ戻した。背筋を伸ばし、両手を膝にそろえて口を開く。


「いつもの」

「初来店ですよね」


 返事をした途端、彼女は吹き出した。注文する前から口元が震えていたので、たぶん自分でも笑うとわかっていた。


 こちらまでおかしくなってきた。俺は消しゴムを一個だけコップに戻し、常連へのサービスですと彼女の前に置いた。


 教室の前では三崎が脚立に乗り、小松が装飾の位置を見ている。瀬名が笑うたびに結びかけの髪が頬へ落ちた。邪魔そうに耳へかける仕草まで見ていたところで、小松と目が合った。


「千帆、ずいぶん楽しそうだね」

「接客の確認だよ。戸倉くん、ちゃんと付き合ってくれるから」

「うん。戸倉がそんなにふざけるのも初めて見た」

「いつもこんな感じだよ?」


 瀬名が俺に同意を求めてきた。俺は小松とは消しゴム入りの紅茶を出し合う仲ではないので、返答に困った。


「私が話しかけるときは、必要なこと言ったら終わるけど」

「戸倉くんが冷たいみたいに言わないで。私とは普通に――」


 瀬名はそこで止まった。


 小松が一つ頷き、装飾の確認へ戻っていく。何も追及されなかったことが、かえって落ち着かなかった。


「……普通だよね?」

「消しゴムを出す店は普通じゃない」

「そっちじゃなくて!」


 俺は手順書に目を落とした。自分から扇風機まで向けて笑わせたのは俺だ。接客の確認にそこまで必要だったかと言われると、言い訳は難しい。


「ここの説明、絵にしてもいい?」


 瀬名が指したのは備品の位置だった。


「俺の字が汚い?」

「ううん。棚の二段目って、前から見たら机で隠れてるでしょ。絵ならわかりやすいから」


 彼女は紙の端に棚を描いた。四角と線だけなのに、実物のどこを見ればいいかすぐわかる。紙コップの横には例の猫まで添えられた。


「猫は必要か」

「働いてくれるよ。ここ見て、って指してる」


 確かに前脚がストローの箱を指していた。


 俺が作ったときより見やすくなった紙を見ていると、瀬名が小さく息をついた。


「こういうの、最初からみんなに聞けばよかった」

「何を」

「何がわからないか。私が覚えればいいって思ってたから」


 彼女は余った紙にもう一匹猫を描きながら続けた。


「千帆ならお願いできるって言われると、できないって言いづらくなるんだよね。そろそろもう一人雇ってほしい」

「そいつも断れなくて仕事を増やすぞ」

「じゃあ三人」

「先に断れるやつを一人雇え」


 瀬名が俺を見たので、俺はペンのキャップを閉めた。


「常勤はしないぞ」

「うん。戸倉くんには別のことをしてほしいし」

「別のこと?」

「今みたいな話」


 瀬名は猫の尻尾を丸めた。


「千帆ならできるよ、って励まされると、じゃあやらなきゃってなるでしょ」

「増えた瀬名を三人雇う話を?」

「そういう返事がいいの」


 彼女はさも当然のように言い、紙をこちらへ向けた。三匹の猫が、一匹のやる気のない猫を取り囲んでいる。


「俺か、これ」

「常勤はしないそうです」


 俺はその猫の前に小さな皿を描き足した。皿には麺を盛ったつもりだったが、瀬名は少し考えてから訊いた。


「毛糸?」

「焼きそば」

「猫に?」

「俺なんだろ」


 瀬名はまた笑い、今度は俺の手からペンを取って皿に青のりを描いた。


 手順書はとっくに完成していた。瀬名が写真を撮って接客係のグループに送り、原本はカウンターに置いた。帰ろうと言えば帰れるのに、俺は次の紙まで出してしまった。


 しばらくして、小松がこちらに顔を出した。


「千帆、看板もう一枚頼める? 廊下から曲がってくるところに置きたいって」

「あ、うん。えっと、どれくらいの――」


 瀬名の背筋が伸びた。


 俺は猫の紙を裏返しかけて止まった。断ってやろうと思えば断れる。案内なら店名と矢印だけでいい。飾りまで頼む必要はないと言えば、小松も納得するだろう。


 だが瀬名は俺を見る前に、小さく息を吸ってペンを握り直した。


「……今日の分は終わりにしたい、かな」


 小松が一度教室の前を振り返った。


「そっか。じゃあ店名と矢印だけなら私が書くね。このペン借りていい?」

「うん」


 ペンを渡すまで、瀬名の肩はわずかに上がっていた。小松が離れると、彼女は椅子の背にもたれた。


「変じゃなかった?」

「何が」

「言い方」

「普通」

「そっか」


 窓から風が入り、裏返しかけた紙がめくれた。瀬名が指で押さえた先には俺の描いた焼きそばがある。


「明日、本物食べたいな」

「校庭で売ってるぞ。十二時に行くつもり」

「一人で?」

「今のところ」


 瀬名は壁の当番表を見た。俺も彼女も十二時から一時間が休憩だった。


「一緒に行ってもいい?」

「いいけど。友達と回らないのか」

「美術部の受付のあとで小松とは回るよ。十二時は空いてる」


 そこまで確認されると、俺にも断る理由はなかった。そもそも理由を探す気がない。


「じゃあ十二時な」


 瀬名は頷き、猫の紙を半分に折った。


「その焼きそばは捨てていいぞ。毛糸だし」

「だめ。青のりかけたから焼きそばになった」


 瀬名は紙を自分のほうへ引いた。看板の尻尾を描き足したときと同じ顔だった。


「こんなの取っておいてどうするんだ」

「裏が使えるから」


 彼女は絵のある面を外にしてクリアファイルへ入れた。自分の絵だけならまだしも、俺の妙な落書きまで残されるのは落ち着かない。


 毛糸だと笑っていたくせに、最後には焼きそばにしてくれる。そういうところが好きだった。


「また何か描くか」

「今から?」

「いや、今度。ああやってふざけてるの、俺も楽しかったから」


 瀬名の指がファイルの端で止まった。


「……どういたしまして」

「接客終わってるぞ」

「今のなし!」


 彼女はファイルを鞄にしまい、俺が何か言う前に顔を上げた。


「私も楽しかった。だから明日、ちゃんと待っててね」


 俺は頷いた。瀬名はまだこちらを見ていたので、声でも「待ってる」と答えた。


*


 文化祭当日の瀬名は、紺色のエプロンを着けていた。


 髪は後ろで一つにまとめられていて、注文を取るたびに毛先が揺れた。客へ少し身を屈めると普段は髪に隠れている耳が見える。


「戸倉、紙コップ」


 三崎に言われて、俺は手に持っていた束を渡した。


「持ってるならくれよ」

「数えてた」

「袋に五十個って書いてあるぞ」


 俺は袋を畳んで捨てた。


 十一時半までは順調だった。


 接客係がテーブルで注文を取り、教室後方のカウンターで飲み物を受け取り、運んで会計をする。品目は三つしかないし、個包装のクッキーを添えるだけなので難しくない。


 ところが体育館の吹奏楽部の演奏が終わったらしく、十一時四十分を過ぎたあたりから一気に客が入ってきた。


 満席になったこと自体より、一人が注文を聞いている間に別のテーブルから会計を頼まれるのがまずかった。運ぶはずの飲み物がカウンターに残り、誰がどの注文を受けたのかわからなくなる。


「これ、二番テーブル?」

「三番じゃない? 紅茶二つの」

「三番はもう渡した」


 俺が予備のトレーを出している間にも、入口では次の客が待っていた。


 瀬名は会計を済ませた客に頭を下げ、空いたテーブルを拭いていた。その背後から三崎が声をかける。


「瀬名、十二時過ぎても少し残れる? 次の組が慣れるまででいいから」


 彼女の手が止まった。


 壁の時計は十一時五十分を指している。交代に来た坂井と小松はトレーを持っていたが、注文票と出来上がった飲み物を見比べて動けずにいた。


「今から説明して、それで――」

「うん。説明してもらって、そのあとも少し見ててくれると助かる。瀬名がいれば安心だし」


 無茶な頼みではない。三崎も朝から動きっぱなしで、額に汗を浮かべていた。


 瀬名は布巾を畳み直し、こちらを見た。


 俺はカウンターから出た。三崎に、俺が瀬名を連れていくと伝えれば済む。焼きそばが売り切れるから俺が待てないのだと言えば、瀬名は断らずに出ていける。


「三崎。俺が――」

「延長はできない」


 瀬名の声は大きくなかった。それでも三崎は言葉を止めた。


「ごめん。十二時から戸倉くんと回る約束があるから」


 名前を出されて、俺の足まで止まった。


「そっか。でも今これだし、あと十五分だけでも」


 瀬名の指が布巾の端を握り込んだ。


 教室の前から会計を頼む声がした。彼女の顔がそちらへ向きかける。俺も口を開きかけたが、瀬名は自分で三崎に視線を戻した。


「交代の説明はする。でも、休憩は予定どおり取りたい」


 三崎は唇を結び、入口の列を見た。


「……わかった。じゃあ急いで引き継ごう」


 瀬名は頷いたものの、表情はまだ硬かった。


 俺が何か言えば気は楽になるのかもしれない。こいつが無理に連れ出すなら仕方ない、と三崎も納得しやすいだろう。


 だが瀬名は俺の名前を出したあとも、自分が休みたいと言った。三崎の困った顔を見ても、今度は引き受け直さなかった。


 焼きそばを食べるだけの約束だ。俺が先に行くと言えば、瀬名はまだ店に残っていただろう。それなのに彼女は自分から、俺と回る時間を残そうとしていた。


 胸が熱くなって、さっきまで考えていた言い訳が全部使えなくなった。


 俺だって一緒に行きたい。売り切れないうちに一人で買えればいい、という話ではもうなかった。


 俺はカウンターに置かれた注文票を見た。飲み物を作る二人は追いついている。受け取って運ぶところで止まっていた。


「三崎。やり方を変えるの、相談していいか」

「何を?」

「今は注文と会計と配膳を一人で回ってるだろ。交代の組から分けたい。注文と会計は入口でまとめて、席へは運ぶだけにする」

「今いる客は?」

「先に全部運ぶ。五分だけ入店を待ってもらえれば、その間に切り替えられると思う」


 いつもなら、ここで俺が入口へ行っていた。客を待たせる判断もその不満も引き取って、自分だけ居残れば済む。


 だが、それで瀬名を待たせるのは違う。俺は三崎に顔を向けた。


「入口の説明を頼めるか」


 三崎は一度息を吐き、頷いた。


「わかった。片づいたら教えて」


 瀬名が布巾を置いた。


「小松、私と注文票を確認してくれる? 坂井くんは入口で注文を受けてほしいんだけど」

「了解」

「値段が見えればできるぞ」


 坂井はカウンターの手順書を入口へ持っていき、品目と値段を指で確かめた。


「ストローもこっちに置くか。猫が指してた棚だよな」

「そこの二段目」


 坂井は棚を開け、ストローの箱を入口へ運んだ。


 瀬名が注文票を並べる間に、俺は入口へ机を寄せた。三崎が待っている客に声をかけ、坂井がメニューを机に貼る。瀬名が一人ずつに聞けば返事が返ってきた。俺の指示だけでは、たぶんこうはいかなかった。


 新しい客が入らなくなると、カウンターに残った飲み物が減り始めた。瀬名が票を確かめ、小松がトレーに載せ、俺が運ぶ。最後の紅茶を届けて戻るころには、坂井が新しい注文を受けていた。


 瀬名は小松の隣で配膳を確かめた。一度は手を伸ばしかけたが、その手をエプロンの前で重ね直す。


「二番に紅茶二つ、で合ってる?」

「うん。合ってる」

「じゃあもうこっち大丈夫」


 時計の長い針が十二に重なった。


 俺は新しい組の備品担当に予備の箱を渡した。瀬名がエプロンを外すのを見てから、散らかった注文票を揃えようとカウンターへ手を伸ばす。


 入口から戻ってきた三崎が先に拾った。


「それはこっちでやる」

「あとこれだけだから」

「お前も十二時までだろ。交代するために変えたんじゃないのか」


 瀬名に向けるつもりだった言葉を返されて、俺は空になった手を引っ込めた。


 誰かを帰すための口実ならいくらでも考えつくのに、自分が帰っていいと言われるとすぐには動けない。瀬名が隣で待っているのを見て、ようやくエプロンの紐をほどいた。


「このやり方のほうがよさそうだな。次の組にも伝えとく」

「頼む」

「あと戸倉、悪かったな。最初の当番のとき。外すだけ外して、あとは知らないって感じなのかと思った」


 俺は畳みかけたエプロンを持ち直した。


「そう聞こえる言い方はした。俺も悪かった」

「次は最初から相談してくれ。俺も瀬名に甘えてたし」

「……そうだな」


 文句を言われて終わるより、ずっと落ち着かなかった。それでも嫌な気分ではなくて、俺は三崎にもう一度「頼む」と言った。


 坂井が手順書を掲げる。


「これも戸倉が作ったの?」

「絵と接客のところは瀬名」

「文字と配置は戸倉くんだよ」


 三崎が笑った。


「今度は説明が合ってるな」


 小松が空いたトレーを置き、瀬名の背中を軽く押した。


「行っておいで。焼きそばなくなるよ」

「うん。ありがとう」


 瀬名はそこでようやく笑った。


*


 廊下を曲がったところで瀬名が立ち止まった。


「私、感じ悪くなかった?」


 教室では最後まで落ち着いた声だったのに、今は確かめるように俺を見上げている。


「なら俺は毎日どうなるんだ」

「戸倉くんは基準にできない」


 言い返したあとも彼女の手はスカートの脇に置かれたままだった。指先が少し曲がっている。


 俺は校庭へ向きかけた体を戻した。


「三崎もわかったって言ってた。小松も普通だったろ」

「うん」

「それと、ありがとう」


 瀬名が顔を上げた。


「さっきの約束、守ってくれて。俺と回りたいと思ってくれてたのが嬉しかった」


 思っていたより声が出にくかった。もっとさらっと伝えたかったのに、言い終わるまで彼女の目を見ていたせいで逃げ場がなくなった。


 瀬名は一度口を開き、それから唇を結んだ。


「……私も。待っててくれてありがとう」

「十二時には終わっただろ」

「時間じゃなくて。私が言い終わるまで」


 廊下の向こうで着ぐるみが風船を配っていた。通りかかった子供がそれを受け取り、父親の手を引いて走っていく。


 瀬名の指がゆっくり伸びた。


「戸倉くん、今日の最後のやり方のほうがよかった」

「俺もそう思った」

「じゃあ次も、相談してね」

「毎回うまくできるとは限らないぞ」

「私も毎回断れるかはわかんないよ」


 彼女は俺の袖を二本の指でつまんだ。


「だから、変なこと言い始めたら止めて」

「お互いにな」


 瀬名は頷き、そのまま俺を校庭のほうへ引いた。


 焼きそばには行列ができていたが、売り切れてはいなかった。


 俺たちはそれぞれ代金を払って一つずつ買い、中庭の縁にあるベンチへ座った。瀬名は弁当を持ってきていると思っていたが、今日は屋台で何か食べるつもりだったらしい。


「飴で済ませる予定じゃなかったのか」

「誰かが休みを取り返してくれたので」


 彼女は箸を割ろうとして失敗した。片方だけ先がひどく細くなっている。


「替え、もらってくるか」

「大丈夫。食べるくらいできる」


 瀬名は慎重に麺を持ち上げた。箸の先が左右にずれて、途中で半分ほど落ちる。


 俺は自分のまだ割っていない箸を差し出した。


「交換」

「でも」

「そのくらいなら使える」


 瀬名は俺の箸を受け取り、不揃いなほうを渡した。俺は少し短く持って麺をつまむ。


 問題なく口に入れたところで、隣から感心したような声がした。


「上手」

「そこまでの技術じゃない」

「頼もしい」

「褒め方を変えても箸の話だからな」


 瀬名は肩を揺らしてから、今度はきれいに割れた箸で焼きそばを食べた。


 話題がなくなっても席を立ちたいとは思わなかった。校庭から聞こえる呼び込みを聞き、彼女が紙パックのジュースを飲むのを待って、次はどこへ行くか相談した。


 瀬名はお化け屋敷を候補から外した。


「怖いの苦手なのか」

「暗いところで急に大きな声を出されたら誰でも怖いでしょ」

「まあな」

「あと、驚くとわりと本気で怒るから」

「それは見たい」


 瀬名が俺の靴先を軽くつついた。


「じゃあ美術部の展示。私、戸倉くんと見たい」

「絵は詳しくないぞ」

「知ってる。焼きそば見たから」

「あれで全部判断するなよ」


 瀬名は笑って立ち上がり、空いた容器を捨てに行った。俺の分も持とうとしたので自分で捨てると言うと、今度は「じゃあ早く」と急かしてくる。


 展示室では先輩が描いたという猫の絵の前で、彼女の足が止まった。窓辺に座る猫が尻尾を揃えてこちらを見ている。


「何考えてると思う?」

「家賃の値上げ」


 瀬名は隣で顔を伏せた。静かな室内なので、さっきみたいには笑えないらしい。俺は絵へ向き直り、猫の真面目な顔を見ながら次の言葉を考えてしまった。


「大家には言いにくいんだろ」

「やめて。もうそういう顔にしか見えない」


 声を潜めて抗議するくせに、瀬名は次の絵の前でも俺の感想を聞いた。普段ならこういう場所では余計なことを言わずにいたと思う。今は彼女が口元を押さえるのが見たくて、俺のほうから話しかけていた。


 一時間は思ったより短かった。


*


 文化祭が終わった翌週、俺の机にはまた弁当箱が置かれた。


 瀬名は隣の椅子を借り、俺が口を開く前に言った。


「椅子を探してるんじゃありません」

「もう聞いてないだろ」


 彼女は満足そうに座った。


 文化祭のあとで急に人気者になった、ということはなかった。


 三崎は前より細かく予定を確認してくるようになったし、坂井は手順書の猫の話を時々する。小松は俺が帰ろうとすると「千帆ならまだ図書室だよ」と言うので、俺の帰宅先をどこだと思っているのか一度訊いておいた。


 それくらいだ。


 瀬名は昨日、掲示物の清書を頼まれて「今週はできない」と断っていた。少し早口だったが、俺の名前は使わなかった。


「もう文化祭も終わったし、困り事も片づいたな」


 俺が言うと、瀬名は箸を持ったままこちらを向いた。


「うん」

「ならよかった」


 弁当箱の蓋を机の脇へ置く音がした。これで一段落なのだと思うと、昼休みが急に短く感じられた。


 俺は自分から話を畳もうとしていることに気づいて、パンの袋から手を離した。


「あのさ」

「来週の日曜、空いてる?」


 瀬名のほうが早かった。


「空いてる。どこか行く?」


 何も決まっていないのに、映画館や駅前の店が頭に浮かんだ。瀬名は小さく頷く。


「うん。今度は用事のついでじゃなくて、私と遊んでほしい」


 教室はいつもどおり騒がしかった。後ろでは坂井たちが購買の新作パンの話をしている。誰もこっちを見ていないのを確かめてから、瀬名は声を少し落とした。


「この前、楽しかったから。今度は一時間じゃなくて」


 彼女の箸は弁当箱に置かれていた。返事を待つ手が膝の上にそろっている。


 恩返しなのだと思っていれば気楽だった。用事が終われば離れていくのも当然で、俺が何かを間違えたわけではないことにできる。


 でも今は、隣の椅子が空くのが嫌だった。次の日曜のことを考えるだけで嬉しくなっているのを、もう手伝いのせいにはできなかった。


「俺も行きたい」


 瀬名の肩が少し下がった。


「じゃあ、デートで」

「うん。デートで」


 言い直すと、彼女は下を向いた。髪の間から見えた耳が赤かったので、俺もパンの袋に目を戻した。


 しばらくして隣からスマホが差し出された。画面には駅前の映画館の上映案内が出ている。


「この映画、見てみたいんだけど」

「いいな。俺も気になってた」


 俺もスマホを出して上映時間を調べた。昼過ぎの回なら席が二つ並んで空いている。


「映画の前に昼も食べないか」

「いいよ。何食べたい?」

「駅の向こうにオムライスの店がある。一人だと入りづらくて」


 瀬名が口元に手を当てた。


「戸倉くんでもそういうの気にするんだ」

「する。悪いか」

「悪くない。私も行きたい」


 自分の行きたい店を言っただけで、こんなにほっとするとは思わなかった。俺が待ち合わせを十一時と入力すると、瀬名が画面を覗き込んできた。


 肩が触れたが、今度は椅子を引く理由を考えなかった。

お読みいただきありがとうございます!

「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。

Xでも更新情報などを発信しています。

よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!

https://x.com/st_shosetsu

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。